ダラテン 3

3.

 牧の部屋の玄関に入ると、靴箱の上に小さなツリーが置いてあった。仕舞い忘れているわけではなく、今日のために敢えて置いているのだろう。まめな男だと思う。ツリーを見つめて動きを止めていると、後ろから抱き竦められた。
「寒かったな」
「うん……でも」
 こうして抱き締められてるとあったかいよ、と言いたいところだったが、藤真は思わず笑ってしまった。
「雪が付いてて抱き締められてもあんまりあったかくないから、とりあえず脱ごうぜ」
「そ、そうだな、すまん」
「別に謝ることじゃない」
 アウターを脱いで、示されたハンガーに掛けると、藤真はバッグの中から色付きのビニール袋を取り出した。
「あのさ、一応クリスマスだから、プレゼントがあるんだ」
 プレゼントを贈る約束はしていなかった。たまたま面白いものをみつけたので、タイミング的にクリスマスプレゼントとすれば丁度いいかというくらいの乗りだ。
「!! 俺もあるんだ。ちょっと待っててくれ」
「じゃあプレゼント交換だなっ!」
 忙しいだろうと思って期待はしていなかったが、何か用意してくれていたならそれは嬉しいことだ。にこやかに待つ藤真とは対照的に、プレゼントであろう黒い包みを持ってきた牧は浮かない顔をしている。
「なんでちょっと凹んでんだよ」
「いや……お前がプレゼント用意してると思ってなくて、大したもんじゃないからちょっと後悔してきた……」
 表情だけでなく、動作もひどく自信なさげだ。牧でもこんな風になることもあるのだなと、どこか冷静に、不思議な気分でそれを眺め──意地悪く笑った。そんな風に言われたら、余計に気になるではないか。
「オレだって大したもんじゃねーんだから気にすんな。包装もしてないしな。オラ、受け取れ」
 雑貨屋で買ったときの袋に入ったままのそれを、敢えて乱暴に押し付けた。
「ありがとう。……じゃあ、これ、受け取ってくれ」
 牧が差し出したものは、赤いリボンの巻かれた黒い包みで、受け取ったときに中に箱が入っている感触があった。
「ありがと! なにかな〜」
「これは、入浴剤か? いや、これは……!」
「ローション風呂のもと。湯船に入れるとローションになるらしいぜ」
「なんという……!」
 牧は痛み入った様子で目を伏せ、弛む口元を手で覆い隠した。想像しただけでいやらしく、大変画期的なアイテムではないか。
「お前って、ローション好きじゃん?」
「必要だから使ってるだけだ。だが、これは素晴らしいもんだな……!」
 牧は表情を明るくして、爛々と目を輝かせている。至極わかりやすい反応に、藤真も満足げに頷いた。
「おう。丁度寒いし一緒に入ろうぜ。……てかこれテープ貼りすぎだろ! こんなにしなくても」
 藤真はまだ牧からのプレゼントを開封できていなかった。リボンは簡単に解けたが、その下の包みはちょうど藤真が渡したようなしっかりした素材のビニール袋で、中身のサイズに合わせて畳まれ、太く透明なテープで妙に念入りに封印されているのだ。
 どうにか袋の口を開け、中から細長い箱を取り出すと、今度は藤真が口元を覆う番だった。
「ぶっ、お前っ、さあ……」
「前に電話したとき、持ってないって言ってただろう」
 藤真の目はパッケージの窓越しに見える勇姿に釘付けだ。
 それは猛り勃つ男性器の姿をした張形(ディルド)だった。ご丁寧にも牧を彷彿とさせる褐色をしている。牧の肌の色はサーフィンによる日焼けかと思われたのだが、地黒も強いようで、冬場の今でも充分に色黒だし、局部の色素も濃かった。
「これを、オレに、使えって?」
「今月みたいに殆ど会えないときだってあるだろう。そんなときはこれを俺だと思って……」
 戸惑いと気恥ずかしさとで、唇の端がにやけるように吊り上がってしまう。手放しで喜びはしないが、興味は津々だ。
 箱を開け、中からシリコン製の張形を取り出す。根元には陰嚢もあり、その裏には壁や床に固定するための吸盤が付いている。血管や皺まで刻まれたリアルな造形をまじまじ眺め、表面を押し、ぐにぐにと握ってみる。
 その様子を眺めているだけで、牧はすでに自分の買い物に満足していた。
「お前の、もうちょっとでかくねえ?」
「わ、わかるのかっ? 藤真?」
 藤真の発言に牧は照れながら返し、
「そりゃあ、まあ……?」
 藤真もまた照れながら答えた。頬を染め、初々しく、可憐ですらある表情を浮かべる、その手にはしっかりと男根が握られている。堪らない光景に、牧の股間がギュンギュン疼く。
「ジャストなサイズはなさそうだったし、やたらでかいやつで慣れて、俺のが物足りなくなると困るからな」
「……いろいろ考えてんだな」
 袋の中にはまだ何か入っていた。続いて取り出したものは小さなボトル──アナル用のローションのボトルだった。
「ああ、うん、そうだよね……」
「ディルドだけじゃ使えないからな」
 牧は力強く言うと大らかな表情で笑った。よほど張形を使ってほしいのか、単に思いやりに溢れているのか。自分で自分のためにそれを買ったかというと非常に微妙なところなので、反応こそ控えめにしてしまったが、プレゼントとしてはありがたいのかもしれなかった。
 見落としそうになったが、袋の底には小さな封筒が残っていた。クリスマスのメッセージカードかと思ったが、それにしては重みがある。開けると中から鍵が出てきた。
「うちの合鍵だ」
「!!」
「近くに寄ることがあったら、勝手に家に入ってていいぞ」
「いや、帰ったら他人がいるかもとか、気が休まる場所がねーじゃん」
 藤真は目を瞬いた。照れているわけではなく、率直にそう思うのだ。
「そうか? 藤真がいるかもって思いながら家に帰るの楽しいと思うが」
「帰ったらセックスできるかもって? 勝手に上がり込んで、なんか悪いことしてるかもよ?」
「悪いこと? オナニーとかか?」
 藤真は憮然として閉口したが、牧は気づかない様子で続ける。
「別に俺は悪いこととは思ってないが、『こんなにして、いけない子だな』みたいなのあるだろう」
「いやなにそれ、知らないし」
 少し会わない間に妄想力が逞しくなったらしい牧に、藤真はすげなく言い放つ。
「それか裸にエプロンでいて、ごはん? お風呂? それとも」
「お風呂! しょうもないこと言ってないで、寒くならないうちに風呂入ろうぜ」
 暖房を入れたばかりの室温はまだ低かったが、外を歩いて帰ってきてすぐなので体感は暖かい。脱衣所に向かおうとする藤真の腕を、牧は後ろから掴んで引き止めた。
「これ使うんだろう? 湯船に湯を溜めてからのほうがいいんじゃないか?」
 これ、と言って藤真から貰った入浴剤の袋を示す。
「体洗ってるうちに溜まるだろ」
「それもそうか」
 藤真の言葉に納得したのと、いい加減に触れ合いたいのとで、あっさり頷いて脱衣所へと移動した。服を脱ぎながら、互いにすでに昂ぶっていることを視界の端に捉えて密かにほくそ笑み、二人でいそいそと浴室に入る。
 牧は浴槽用の蛇口をひねり、勢いよく湯を出した。
「とりあえず普通に溜めていいんだよな」
「うん。お湯溜めてからこれを混ぜる」
 入浴剤のパッケージをシャンプーなどの傍らに置くと、張形が目に入った。
「こいつも持ってきたのかよ」
「使い方をレクチャーしようと思って」
「んなもんわかるだろっ!」
「本当か?」
 牧の目がいやらしく細められ、藤真は自らの失言に気づく。
「と、とりあえず頭洗おうぜ……てか、泊まるつもりしてたのにシャンプー忘れたなー」
「そこにあるの使って構わんが、俺のだと合わないかもな」
「んーまあ大丈夫だろ」
 少し風が吹けば柔らかに靡く藤真の髪と、硬くしっかりとした牧の髪質が違うことは明らかだったが、今日のところは借りることにする。シャワールームの要領で、各々立ったまま髪を洗った。
「ふう」
 トリートメントを流し、俯けた顔を上げながら前髪を後ろに撫で付けた藤真を、牧は待ちくたびれたとばかりに背後から抱き締める。なんともなしに、ほとんど吐息のような呻き声が漏れた。
「あぁ……藤真、あったかいな……」
 濡れた肌のしっとりとした感触とともに、藤真の体温がダイレクトに伝わってくる。洗いたての髪から自分と同じシャンプーのにおいがすると、彼が自分のものになったかのようで、堪らない幸福感が込み上げた。色黒の太い腕の巻きつく白い体はとても綺麗で儚いものに見えて、それが自らの腕の中に捕らえられていることに、興奮するのと同時になぜだか切ない気分にもなった。早急に快楽を貪りたい獰猛な衝動と、じっくりと温もりを味わっていたい穏やかな欲求とで、牧の内心は非常に混沌としていた。
「久しぶりだね」
 藤真が体を反転させてこちらを向く。掻き上げた前髪はいくらかは横に落ちていたが、それでも普段は隠されている眉と目元がすっかり露わになって、恐ろしいほど整って見える。睫毛の烟る瞳を細め、微笑する表情に誘われて、吸い寄せられるようにその唇にキスをしていた。道中で短いキスはしたものの、この感触も随分と久しぶりだ。
「んっ……」
 互いに唇を吸い、戯れるように舌を触れ合わせ絡める。自分たちの行為を確認するように、何度も音を立てて唇を重ねながら、擦り寄せた下腹部では上を向いた二人の男根がぴたりと寄り添っていた。それもまた堪らなく愛おしくて、牧は唇を離してもまだ腰を押し付け、互いの腹の間で仲睦まじくする二人の分身を眺めていた。満足げな表情に、藤真は吹き出しながら提案する。
「寒くなんないうちに体洗おうぜ」
「泡タイムだな!」
 楽しげに言って、ボディタオルにソープを盛大に泡立てる牧はまるで少年のようだ。
「……お前が男子寮入んなくてよかったって、ちょっと思った」
「こういうことできないからか?」
 白い体を軽く擦って泡を載せていきながら、牧は不思議そうに藤真を見返す。
「寮の風呂って共同だろ? なんかお前って、ホモに襲われそう」
 ときどき妙に可愛らしいところを出すから、とは言わないでおく。
「そんっなことは……」
 牧は軽く狼狽えながら、それよりもっと恐ろしい可能性に思い当たる。
「そんなこと言い出したら、藤真だってそうだろう」
「オレはホモにはそんなにモテねえよ? その担当はお前だろ」
「そんな担当になった覚えはっ…むぅ…」
 キスで言葉を奪われると、会話の内容などすぐにどうでもよくなってしまった。藤真は顔が小さいから口も小さい。唇で、舌で触れる儚い感触が堪らなく愛らしく、そして美味に感じられ、飽きもせずに唇を食んでいた。
 泡でするすると滑る体を抱き締め、胸を、腹を、擦り寄せながら、至るところを手指で撫で回す。藤真もまた同じようにしてくるのが愛おしい。
「あぁっ…」
 大きな両手が左右の尻肉を掴み、明確に快感を与えるようにいやらしく揉みしだくと、藤真はまんまと声を上げて身を捩った。
「んっ、あんっ」
 指は体の中心に迫っていき、たっぷりと泡を纏って肉の狭間をなぞる。まだきゅっと閉じた窄まりは、触れるたびに求めるように波打って、じきに牧の指を呑み込んでしまった。
「ふぁ、あ…!」
 藤真は逞しい首にしがみつき、指を動かすたびに堪らない様子で声を漏らして牧の鼓膜に快感を与える。
(やっぱり本物がいいな……)
 万能なはずの妄想も、目の前で実際に見せつけられる媚態と、肌に直接感じる感触とは比べるまでもなかった。しかし欲求は飽くことを知らない。
 牧はしばらく放っていた張形を手にして、藤真に見せつけるように振った。シリコンの竿がしなって揺れる。
「んなもん見せつけられたって、別に見慣れてるし……」
 そのはずであるし、相手はただのゴムの塊だとも思っているのだが、頬や胸にぴたぴたとくっつけられると、無性に気恥ずかしく、ひどく卑猥な気持ちになった。
「ぁっ!」
 張形の先端を乳首に押し付けて小刻みに揺らされる。繊細さに欠ける感触ではあるが、視覚的な興奮は大きかった。
 牧は改めてボディソープを手に取り、張形を扱くように洗って、二人の体の泡と一緒にシャワーで洗い流した。
「藤真、あーん」
 綺麗な顔に、その唇に雁首を押し付ける絵面だけで堪らないものがある。自分のものではここまで至近距離では見られない。
 藤真は挑発的に微笑すると、見せつけるようにいやらしく舌を絡めてそれを口に含む。牧の喉が大きく鳴った。気分よく唇を窄めると、張形はピストン運動をしたり、口腔内を掻き回したりなど好き勝手に動き回る。
「んんっ…」
 藤真も興奮しないわけではないが、あくまでお遊びに付き合ってやっているという気構えだ。牧がこの営みを眺めて非常に興奮していることがわかるので、満足感はあった。
 気が済んだのか、口の中から張形が抜けていく。
「藤真、俺のも…っ」
 鬼気迫るように言った牧自身は、もはやはちきれんばかりになっていた。
「最初からそうすりゃいいのに」
 藤真は牧の前に膝をつき、大きく口を開けてそれを頬張る。作り物とは全く違う、牧の肌の感触と熱と脈動を、口腔と舌とで感じると、やはりひときわ興奮した。
 牧は張形と藤真の顔との2ショットがすっかり気に入ってしまったようで、しきりにそれで頬を撫でてくる。
「なに? 3P願望?」
「ええっ!? いや、そんなつもりは……全く…ッ」
 ただ視覚的に好いと思ってしていただけだったので、他の登場人物を出してこられると狼狽えてしまう。それから男性器越しの藤真の上目遣いの破壊力にやられ、再び咥え込まれると口唇での奉仕に低く喘いだ。
「あぁ…藤真……っ」
 藤真は左手で牧の陰茎の根元を支え、顔を前後させてピストンの動作をしながら、突きつけられたままの張形を右手で握った。口に含めば違いは明確だが、握ったサイズ感はまさしくそれで、手を上下させて扱くと、偽物だとわかっていても興奮してしまう。
「やべー、ほんとに二人とやってる気分になるなこれ。こいつ誰だろう。紳二?」
 藤真は張形を凝視して言った。
「シンジ?」
 牧が不思議そうに聞き返す。
「牧紳一と紳二」
 藤真は牧の股間に聳えるものと、張形とを順に指して言った。
「そういうことか! 紳二も健司のこと好きって言ってるぞ!」
 牧は藤真の頬にぐいぐいと張形を押し付ける。
「クッソうぜえ〜〜!!」
 ふざけ合ってゲラゲラと笑っているうち、浴槽から湯があふれ出して二人の足に熱いくらいの感触を与えた。
「おい、もういいんじゃね? ぶち込むぞ!」
 促されて入浴剤のパッケージを手にした牧は、思い切り眉間に皺を寄せた。
「いや、お湯は浴槽の三分の一って書いてあるぞ。減らそう」
 事前に気づいてよかったところではあるが、パッケージの説明書きを読む牧の顔がとても同級生には見えなくて、申し訳ないが少し笑ってしまった。
「お湯そんなもん? まあ二人で入ったら増えるか」
 湯桶で浴槽から湯を掻き出しながら、ついでに互いの体に浴びせた。
「よし、いざ投入!」
 浴槽全体に行き渡るよう、円を描きながら白い入浴剤を注ぐ。柚子のよい香りが漂った。
「そして手早く掻き混ぜます、と。牧はそっち側半分な。混ぜろーっ!」
 二人横並びで浴槽に向かって床に膝をつき、湯の中に腕を突っ込んで、藤真の号令に合わせて思い切り掻き混ぜる。
「はっ……これ、意外と疲れる……」
「そうか? 余裕じゃないか?」
「もちろん余裕だけど???」
 そんなことを言い合いながら混ぜていると、浴槽内の抵抗がだんだんと強く、重くなっていき、ついには突っ込んだ腕から糸を引くほどの、半透明に白く濁った粘液になった。
「すげー、ほんとにローションになった」
「できたな、入ろう」
 粘性の湯を手に掬い取っては湯面に垂らして遊んでいる藤真を尻目に、牧はそそくさと立ち上がって浴槽に足を入れた。いかにも待ちきれないといった様子だ。
「滑んないようにな」
 牧の今年度の公式戦は全て終わっているとはいえ、こんなところで怪我をしては堪らない。注意深く浴槽に腰を下ろし、外見年齢相応の声を上げた。
「゛あ〜〜……」
「おいおっさん、気にしてんのかしてねーのかどっちなんだよ」
 牧はローションの湯を掬って自らの肩や胸に浴びせると、頬を染めながら、真剣な面持ちで藤真を見つめた。
「おい藤真、これやばいぞ。お前も早くこい」
「へーい。向きはどうがいいんだろ?」
 向き合うか背中を向けるかしかないだろうが、藤真は決して広くはない浴槽を眺めた。
「普通にこっち向きでいいだろう」
「普通とか言うほど風呂でエッチなことしてきてないからな〜」
「いや、別に、俺だってないぞ……」
 藤真は滑らないようにと慎重に浴槽に入り、促されるまま牧に向き合って太腿の上に座った。牧は自らの腰を前に出し、座る姿勢を浅くすると、藤真の体を抱き寄せる。
「あーまじだ、やばい……」
 藤真は思わず牧にしがみつくように抱きついた。ひときわ敏感な性器だけでなく、ローションを纏った互いの肌が擦れる感触が想像以上に卑猥で、全身が性感帯になったかのようだった。
「すげーエロい!」
「な。藤真のプレゼントめちゃくちゃエロいな」
「お前だって! てか、プレゼント交換がローションバスとディルドなのひどくねえ?」
 ひどいと言いつつ嫌がった様子ではなく、いたって愉しげに笑う。
「俺たちってやっぱりお似合いなんじゃないか?」
「男子って、やることしか考えてなーい!」
 藤真は裏声の手前の高い声で、芝居掛かって言った。
「……なんか今日は妙に女子ネタを引っ張ってないか?」
「そうかな?」
 意図したものではなかったが、言われてみればその通りだった。気にしていないと言いながら、しっかりと気にしていたのかもしれない。逞しい首筋に額を寄せるように凭れ掛かると、牧は肩に湯を掛けてくれた。暖かくて気持ちがいい。
「女子って、下ネタ嫌いなやつとか、デートしといてやらせないやつとかいるじゃん。あれ、オレ意味わかんなかったんだ。同じようにやりたいもんだと思ってたから」
「藤真を相手にしといて、そんな女子がいるのか?」
「いたんだなーこれが。でも女には男が読むような実写のエロ本って存在しねーよなって気づいたら、なんか納得した。そこまでエロに興味ないっつーか、別モンなんだろうなって」
「そうだな……言われてみれば、そういう本は見たことないな」
「な。えーとだから、なんだろう? 別に女がどうって言いたいんじゃなくて、だからオレたちがしてることはむしろ合理的なんじゃないか? ってことだ」
 ちゃぷんと水が滴る音がして、牧の暖かな手がぬるりと肩を、背中を撫でる。淫らな感触に皮膚が、そして体の芯が震えた。
「間違っては、いないのかもしれんが……」
「部活の邪魔もしないしな!」
 イブの夜にまさしく牧の頭にも過ぎったことだったから、否定はできない。しかし牧は首を横に振る。
「それは確かだが、俺は合理性とか都合がいいとか、そういうことだけでお前と付き合ってるわけじゃない」
 食事のとき、光の道で、雪空の下で、ただ彼がそこにいれば幸せだと感じていた。闘争も勝利も性的快楽もない時間の中に、確かな悦びがあった。伝えたいことはたくさんあるはずなのに、あまりに単純な言葉しか出てこない。
「俺はお前が好きだから──」
 まだ開き掛けていた唇を、薄い唇で塞がれていた。続く言葉は思い浮かんでいなかったから、悪くはなかったのかもしれない。唇を吸われ、舌を押し込まれながら滑る肌を撫で回されると、落ち着き掛けた興奮はいともたやすく体と意識の表層に蘇った。
 藤真は牧の手を捕まえると、そのまま自分の後ろに持って行き、体を洗っていたときにされていたように、尻の肉を掴ませた。
「なら、とっととやろうぜ」
「ああ……」
 逃れられない衝動に抗わず、牧は藤真の体を愛撫する。薄い肉の感触を愉しみ、藤真の感じるところを探るように、硬い指の皮膚を押し付けながら、肌のいたるところに触れていった。
「んっ、うぅっ…!」
 キスをして、唇を舐め回しながら尻を掴み、湯の中で陰部を晒すように尻肉を外側に開く。そのまま何度も指を出し入れして暖かなローションを体内に送り、丁寧に襞を確かめながら、じっくりとほぐしていく。
「あぅ、あぁっ…」
 腹の中を暖かな粘液で満たされていく、形容しがたい快感ともどかしさとに藤真は身震いする。
「ね、もぅ…」
「そうだな」
 すでに三本入っていた指を抜き、そこに昂りをあてがうと、促すより先に藤真の腰が沈む。
「んっ、あぁあっ、あぁっ…!」
 小さな窄まりをめいっぱい拡げながら、大きく膨らんだ欲望が呑み込まれていく。体重が掛かる分も相まって深く身を抉られながら、熱く重い久々の感触に、藤真は目眩のような実感の中で天井を仰いだ。
 濡れた内部は先端から根元までをずっぷりと咥え込み、牧を煽るかのように強い弾力で締め付ける。牧は深く息を吐き、藤真の手を握り、震える唇にキスをした。
「ん…」
 陰部と手指と唇と──いたるところで繋がりながら暖かい粘液に浸っていると、体の外にあふれた体温を二人で共有しているような、不思議な一体感に包まれる。
 しかしそれだけでは到底飽き足らない。
 どちらともなく体を揺らすうち、次第に動作は大きくなり、藤真は牧にしがみつきながら腰を振り立て、最奥を突かれる歓喜に喘いでいた。
「あっ、あぁっ、んっ、はぁっ…」
 白い体が快楽に仰け反ると、牧の眼前に差し出すように硬く尖った乳首が突きつけられる。遠慮なく吸い付き、愛らしい感触を舌と歯で虐めてやると、ひときわ高い声が上がった。
「ふぁっ、あぁっ、やぁっ…」
「嫌なわけないだろう?」
 ときおり覚束なくなる藤真の動きを助けるように、あるいは自らの快楽を追求するように、褐色の力強い腕が細い腰をしっかりと抱えて揺さぶる。
「あふっ、あ、あぁっ、ひぁ、あぁんっ…!」
 互いの敏感なところを刺激し合いながら、二人は混濁する快楽に溺れていった。

 浴槽の中でラストまで愉しんだのち、そのままの興奮を引き摺って、二人はベッドの上でもひとしきり愛し合った。
 事後、シャワーを浴びて戻ってきた藤真の姿を見るや、牧は相好を崩した。パジャマというほどきちんとしたものではない、上下揃いのシンプルなスウェット──何の変哲もない、ごく見慣れた自分の寝間着なのだが、それを藤真が着ているとなれば話は別だ。オーバーサイズが非常に愛らしく、多少縒れているところさえ自然体で魅力的に見える。そしてなんといっても〝自分の服を藤真が着ている〟という事実が非常に堪らない。
「な、なんか藤真、うちに住んでるみたいだな……?」
 にやける口元をしきりに落ち着かせながら言った、牧のそこはかとない喜びは、しかし藤真には理解されていないようだった。藤真はソファに座る牧の前を素通りして、もう寝たいと言うようにベッドを見遣り、面倒そうに牧を顧みる。
「はあ? 荷物になるからパジャマ持ってこなくていいつったの牧じゃん」
「そう、そうだな……ああ、シーツは替えたから寝て大丈夫だぞ」
 頷いてベッドに潜り込む寸前、ナイトテーブルの上の天使のポストカードが目に留まった。前に来たときにはなかったはずだ。
「クリスマスだから?」
 そう思ったので大して注目もせずに布団に入った。牧も続いて藤真に体を寄せる。
「それ、藤真に似てるって思ったんだ」
 牧は満ち足りたような、ごく穏やかな表情で言ったが、藤真の態度はすげないものだった。
「……頭おかしい」
「そんな言い方しなくたっていいだろう」
 濃密な時間を過ごしたあとでの全否定に、傷つくよりもずっこけるような気分だったが、すでに布団の中に入っていたため、実際にアクションすることはできなかった。
「だって。……おかしい。そんなの」
 藤真が事後に冷たくなるのはいつものことだ。牧はさほど気にせず、あくまで持論を展開する。
「お前は天使の生まれ変わりかもしれない、って」
「オレは藤真家のお父さんとお母さんの精子と卵子から生まれたんですぅ〜残念でしたぁ〜!」
「そんなに嫌がらなくてもよくないか?」
 乗ってくれとは言わないが、天使というのは一般的に褒め言葉だと思っているので、藤真がひたすら嫌そうにするのが不思議だった。
「なんかさ、お前は一体なにを見てんだ、って感じがしてくる」
「別に俺はないものを見てるつもりじゃないが、勝手にそう思ってるってだけで、お前になにかを押し付けようとは思ってない」
 最後の一言が、胸に鋭く突き刺さったようだった。冷たい刃物のような痛みは、しかし一瞬で暖かく甘い痺れに変わっていく。
 夏以降、一時的にではあるが監督として、部員たちから信頼を得る必要があった。安心してついてきてもらうために、ある程度我を殺してでも、皆の理想の偶像に近づくように努めているつもりだ。それを押し付けなどとは思わない。自らの判断だ。
 牧と二人で過ごす時間には、解放されている実感があった。打倒海南と言いながら彼と懇意にしている、ささやかな後ろめたさにも愉悦があった。単純に述べてしまえば息抜きだ。何をも演じる必要のない、ごくプライベートな時間──そんなときに天使だなんだと、存在しないものを求めるかのようなことを言われたものだから、つい苛立ってしまったのだと思う。
「……だいたい、天使の生まれ変わりってなんだよ? 天使って死ぬのか? 死んで天使になるんじゃねーの?」
「それもそうか。じゃあ、生まれ変わりじゃなくて、天から堕ちたんだな」
「堕落した天使、ダラテンだな!」
「いや、普通は堕天使って言わないか?」
 怪訝な顔をした牧に、藤真は小さく唇を尖らせる。
「えー嫌だよ、そんな鎖とか薔薇とか絡まってそうなやつ。で、なにが原因で堕落したんだよ? 淫行?」
「そうだなあ、俺との淫行……」
「お前かよ!」
「前世の俺ってことにしよう」
「ひっでえ、B級映画にもなれないシナリオだな」
 藤真は顔を顰めたが、その口元は笑っている。
「そうか? ロマンチックじゃないか?」
「そうだね、紳二登場とか超ロマンチックだった」
「忘れずに持って帰れよ。あいつと、鍵と」
「……そうだね」
 互いに暇ではないのだから、時間の無駄がないよう、会うときには事前に約束しているはずだ。合鍵を使う機会など多くはないだろう。防犯上のことを思えば、使うかどうかわからない合鍵など人に渡さないほうがいいに決まっている。信用されているのか、単に無頓着なだけなのか。
「どうした? 不満か?」
「ううん? 嬉しかったよ、プレゼント。紳一に会えないときは紳二と仲よくしてるね」
 天使だの言いつつプレゼントに張形を渡してくるあたり、夢を見ているというよりは、牧の天使像が壊れているだけのような気がしてきた。
「あと、めんどくせーこと言ってたかもしれないけど、今日楽しかったからまたどっか連れてって」
「!!」
 機嫌悪そうにしていたかと思えば、なんと愛らしいことを言い出すのだろう。もちろん、時間さえ許せばどこにだって連れていくし、もっとちゃんとしたプレゼントだって贈りたい。それはいいのだが、心臓が跳ね上がったのと一緒に下半身まで元気を取り戻してしまった。
「んんんっ! 藤真、俺は今日はもう寝るつもりなんだぞ……!」
「オレだって寝るけど? じゃあおやすみ」
 藤真はさも当然の顔でさらりと言うと、顎下まで掛け布団を引き、牧の肩に額を押し付けて目を閉じた。
「お、おやすみ……」
 取り残された牧は強張った声で呟き、自分も寝ようとベッドライトを消灯して、悶々としながら自分と同じにおいのする藤真の髪に鼻先を寄せた。日頃はなんら意識しないようなものだが、藤真から香っているとなると途端に落ち着かない。
 疲れたのか、単に寝付きのいいタイプなのか、藤真はすでに寝入っているようだ。初めて泊まる部屋で、隣に人がいても特に気にはならないらしい。
(はじめてのお泊まり……)
 翌朝起きれば藤真の天使のような寝顔が朝日の中に輝いていて、二人はおはようのキスをして一緒に軽い朝食を食べ──などと妄想していると、プレゼントの張形をろくに使わなかったことを唐突に思い出した。
(……やりたいだけじゃない、やりたいだけじゃないんだ、また明日……)
 やはり藤真の堕天の原因は自分だったのではないかと、牧は一人居た堪れない気持ちになりながら眠りに就いた。

<了>

ダラテン 2

2.

『四時? なんか半端な時間だな。別に大丈夫だけど』
「少し前だとお茶の時間だからか、予約が埋まっててな」
 十二月二十九日、少し遅めのクリスマスデートの当日は、昼間のうちから格別に寒い日だった。
「藤真……! 耳当てしてるんだな!」
 待ち合わせの場所で藤真を見つけた牧は、開口一番、感想とも呼べない事実を呟いていた。
「だって今日、夜なんてめちゃくちゃ寒いぜ、きっと」
 コートとマフラーはいつものことだが、今日はふかふかの耳当てまで追加されて──非常に愛らしいと思うのだが、言ったら外してしまうだろうかと黙っておいた。
 二人が足を運んだ先は、豪奢ではなくあくまで洒落た雰囲気の、白い壁の洋風の外観の建物。最近人気のフルーツタルトの店だ。予約するような大層なとこじゃなくてよかったのに、と事前の電話で思っていたことも忘れ、店内でショーケースを目にした藤真は瞳を輝かせた。
「おぉ……!」
 円形の土台に、あるものは赤く輝くイチゴを整然と敷き詰め、またあるものは瑞々しい白い半月形の果実を花弁のように戴いている。隣を見れば黄色やオレンジ色の果実をふんだんに載せたものや、クリームやチョコレートで愛らしく飾られたものもある。多くが自然のままの姿を残したそれらは、美しいながらに食欲をそそるものだった。藤真は胸の下で牧に向かって親指を立てる。
「すげーいいじゃん。テンション上がった」
 その割に口調が静かなのは、騒がしくする店ではないように思えたためだ。
「なんだ、テンション低かったのか?」
「そういうわけじゃないけど」
 嫌だったわけではないが、甘いものが格別に好きというわけでもないため、単に牧について来たという感覚で、頭の中は夜のことで一杯だった。しかし今や、すっかりフルーツタルトに心を奪われている。
 席に案内されると、早速メニューを凝視した。
「イチゴ惹かれるけど、ベタな気がするんだよな〜」
 一面に並べられた鮮やかな赤は否応なく魅力的で、特別なときに食べるケーキに乗っているものという幼いころからのイメージも相まって、惹かれるのと同時に、面白みには欠ける気がする。
「洋ナシのこの写真がすげーうまそうなんだけど、洋ナシ? って思わねえ? 普段食べないから、どんなんだっけみたいな。やっぱイチゴかなー」
 真剣に悩んでいる藤真の様子が微笑ましく感じられ、牧は自然と穏やかな笑みを浮かべていた。
「イチゴが好きなのか?」
「違うし。季節のフルーツってやつもいいし、クルミもうまそう」
「一切れこのくらいだろう? 別に一つに絞らなくてもいいんじゃないか」
 このくらいと牧が手で示したサイズは怪しいものだったが、確かに大きくはなさそうだし、ケーキのように嵩もないから、ボリュームはさほどでもないだろう。しかしこのような洒落た店でいくつも頼むものだろうかと思ったとき、たまたま目に入った女子二人組のテーブルには明らかに二人分以上のタルトがあった。
「よし、二つ頼も」
「二つでいいのか? 九十分あるんだぞ?」
「いや、席がマックス九十分ってだけで、スイーツバイキングと違うんだからな? あ、柿もイメージなくて気になるよなーあとティラミスもあるし。でもここはフルーツ系じゃねえかなあ」
「俺は三ついくぞ」
「えー、じゃオレも三つにする」
 二人で分け合おうと言って、各々違うものを選んで紅茶と一緒に注文した。
 ショーケースやメニューに夢中になっていたときには気にしなかったが、落ち着いてくると周囲の客のことが気になりだした。女同士や男女のカップルは見えるが、男同士で来ているものは少なくともここからは見えない。深く考えずに、言葉が口からこぼれていた。
「オレ、女装してくればよかったかな」
「……そういう趣味があるのか?」
「ねーよ。だって、他に男同士の客なんていないし」
 牧は不思議そうな顔をしている。
「嫌だったか?」
「別に」
 牧が細かいことを気にする性格ではないことはとうに知っている。そして日にちはずれているが一応クリスマスデートという名目なのだから、それなりの店であることは想像できたはずだった。牧のことを悪いというつもりはない。
 牧との関係について、自分が翔陽の監督兼任の立場にあって、彼がライバル校の選手であることについては多少気にしたが、性別への抵抗感はほとんどなかったはずだった。
(無かったんじゃなくて、意識してなかっただけ、か……)
 これまでの外出については、男性の客も普通に目立つような店だったから、実際の関係がどうであれ、自分たちもあくまで友人同士に見えていただろうと思う。今だとて、甘いもの好きの友人同士にも見えるのかもしれない。
 しかし藤真の実感の中では、今二人はカップルとしてここに存在していた。牧との関係をごく自然なもののように受け入れながらも、恋愛もセックスも男女の間のものだというこれまでの価値観まで覆ったわけではなかったから、自分が男としてここに存在していることに、引け目を感じているのだと思う。
 少しすると、紅茶のポットとカップを運んできた女性店員が、藤真を見てにこやかに笑った。
「男性のお客様もよくいらっしゃいますよ。甘いものがお好きな方って多いですし」
(聞こえてたんだ……)
 藤真は背中に汗を掻きながら、できるだけ自然な笑顔を作った。
「へえ、そうなんですね」
「そうだぞ藤真」
 なぜか偉そうにしだした牧にジト目を送り、入り口のショーケースの中を思い出す。
「まあ確かに、ここは知ってたら来たくなるよな」
 今日は牧のところに泊まる予定なので叶わないが、機会があればまた立ち寄って、家に何か買って帰ろうかと思うくらいだ。
「ごゆっくりなさっていってくださいね」
 ほどなくしてタルトが運ばれてくると、藤真は静かに歓喜の声を上げた。
「おぉ〜! うまそう! どれからいくかなー、の前にまず分けるか」
「別に半分じゃなくてもいいぞ。気に入ったのあれば多めに取っても」
「いいんだよ、そういうのは」
 〝男と女のように〟気を遣われたような気がして、反射的に拒絶を口にしていたが、おそらく牧に他意はないだろうとも同時に思っていた。苦々しい思いでタルトを半分に切り分けていたが、一口頬張ればそんなことは簡単に忘れてしまった。
「ん〜! うまーい!」
 クリームは甘すぎずさっぱりしていて、あくまで果実本来の味と香りが口の中に広がる。香ばしいベースとの相性も絶妙だった。
「ああ、こっちもうまいぞ。藤真……」
 牧は藤真を見遣り言葉を途切る。銀色のフォークの上に、赤いフルーツのタルトがひとかけら。ゆっくりと運ばれた先では淡い花弁のような唇が綻び、鮮やかな色彩を含んで笑みの形に結ばれる。リラックスした表情はいつもより少し幼いくらいだが、不意に覗いた舌にどきりとさせられる。素敵な光景だ。ずっと見ていたいほどに。
 藤真がふと気づくと、牧の手はすっかり止まってしまっていた。
「牧、どうした? もしかして甘いもん苦手?」
 フルーツが主体のものばかり頼んだので、さほど甘ったるいわけでもないと思うが。藤真は不思議そうに牧を見つめる。
「いや、食べてるぞ? ……なんか、楽しいなと思ってた」
「楽しい? おいしいんだろ?」
「まあ、そうだが」
 洒落た内装のカフェスペースで、藤真が嬉しそうに甘いものを食べている。それを眺めているのが楽しいのだ──と当人に説明しても理解はされない気がしたので、黙ってタルトを口に含んだ。
 張りのある果実から、瑞々しい甘酸っぱさが溢れて広がる。それうまいよなー、と言った藤真に、口を動かしながら無言で頷いた。
(藤真、俺は本当にお前のことが好きなんだ)
 いっそ言葉にしてしまいたい衝動に駆られながら、この場所ではやめておいたほうがいいだろうと思い留まる。
 会えなかった間、藤真のことを考えながら自慰行為に耽ったあと、一体彼に何を求めているのかと考え込むことがあった。何のために会いたいのか、結局は性欲の解消なのかと思うと、同意があるのはわかっていても何故だか虚しくなった。
 しかし違った。一緒にいるだけで、肌に触れなくともこんなにも満たされた気分になれる。
「ほんとに楽しそうに食べてんね。不思議」
 紅茶を飲み、タルトを食べ、ウインターカップの話などをしながら過ごすうち、藤真が呟いた。
「……あのさ、これ意外と重くね?」
「思った。見掛けよりあるな」
 食べきれないほどではないが、密度が高いというのか、サイズから想像できる以上のボリュームを感じた。
「普通のケーキを上からこう圧縮したよりまだある気がする。チーズとかいかなくてよかった」
「そうだな。ちょうどよかったくらいか」
 日頃の食事よりものんびり食べているせいもあったかもしれない。全て食べ終わり、少し休憩して席を立つころには、入店からしっかり九十分近くになっていた。会計を済ませて外に出ると、時間的には夕方だがすっかり暗く、通りの木々には電飾が輝いていた。
「もうクリスマス終わってんのにな」
 どちらかといえば年末だ。イルミネーションに飾られた通りと、向こうに見える光のアーチに向かって歩いていくカップルたちの後ろ姿を眺めて呟いた。
「ここは冬の間はしばらくこうだったはずだ。少し歩いて晩飯どうするか考えよう」
「うん」
 タルトの店が十六時からになってしまった時点で、夕食の店を予約するのはやめておいた。腹の具合もあるし、カレンダー上は平日の夜だから、予約なしでも入れるだろうと思ったのだ。
 通りには若者が多く、特にカップルがよく目についた。二人の前を歩くのは、手を繋いで体を寄せ合って歩く男女のカップルだ。男が特別大柄なわけではないが、女が華奢で小柄なため、体格の差が際立っている。
(こういう感じ、牧もかわいいって思うのかな。守ってあげたいとか)
 傍らの牧を見遣ると目が合ってしまい、思わず逸らした。身長差も体格差もあるとはいっても男女ほどの差はない。自分がかわいいだの言われることには〝男なのに〟という枕詞がつくか、あるいは単なる揶揄であって、女のような絶対的なものは持ち合わせていないと思っている。
 歩きながら、男がぐっと背中を丸め、女の頬にキスをした。女は男の肩を押し返して突き放したが、本気の拒絶ではなく、戯れ合っているだけだと一見してわかる。
(牧、あんなの好きそう。オレは牧からああいう体験を奪ったのかな)
 あの店も、この道もきっと今のために牧が選んだものだ。今はバスケットを中心にしていて暇がないのだろうが、女子の機嫌を取ることだって彼になら造作もないだろうと思う。
(オレは無理なんだよな。相手の好みとか、機嫌とか伺うなんて。部活のためなら少しは気にするけど、プライベートじゃ無理。……ま、クリスマスなんてこの先いくらでもあるか)
 冷える夜だ。頬も鼻の頭も冷たくて、鼻の奥がツンと痛んだ。
「綺麗だな、藤真」
「うん?」
「綺麗だ」
 目を細め、包み込むように微笑する牧のバックに、滲んだ光の粒がいくつも重なって見えて、ドラマのカメラワークのようだった。
「……うん」
 心臓を掴まれたように、目を離せずに頷いた、肌に外気の冷たさはない。不思議な感覚だった。
 牧は自分を喜ばせようとしてここに連れてきたわけではないかもしれない。おそらく彼の自己満足で、だからこんなに優しい顔をしている。傲慢かもしれないが、そう考えると少し落ち着いた気分になった。
「藤真」
「なに?」
「俺はお前が女だったらよかったって思ったことなんてないぞ」
「……そうなんだ?」
「そもそもお前が女だったら、俺たちは出会ってなかっただろう」
「うーん……?」
 そういうことではないような気がするのだが、そういうことなのだろうか。お茶をした店内で、今前方のカップルを眺めて、一体自分が何にモヤモヤしていたのか、よくわからなくなってきた。
「てか、別にもういいし」
 大抵の感情は時間の経過とともに落ち着くものだし、牧に対して怒っていたわけではないのだから、放っておいてもよかったのだ。前にもこんなことはあった気がする。良く言えば律儀だし、悪く言えば融通がきかない。
「藤真、こっちだ」
 何かに思い当たった様子の牧に腕を引かれるまま、脇の路地に入った。少し外れただけだというのに、メイン通りとは打って変わって薄暗く人気もない。
「ま……!!」
 声を発しようとしたまさにそのとき、ぎゅうと体を抱き竦められ、唇を唇で塞がれていた。一瞬硬直したものの、すぐさま力一杯胸を押し返して突き放す。
「暗いし、家の近くでもないし、別に平気じゃないか?」
 全く悪びれた風もなく言って、笑いながら腰に腕を回してくる牧をキッと睨みつける。頬が赤くなっている実感があるが、この暗がりで牧には見えているだろうか。
「見られるとか、そういうことじゃなくて……」
 確かにそれも気にしないわけではないのだが、藤真の危機感はまた別のところにあった。
「じゃあ、なんなんだ?」
 あまりに久々の接触に、キスだけで体が反応してしまいそうだったのだ。いつもは先に反応を示す牧のことを、至極愉快な気分で眺めていたのだが──いや、彼はそんなことには慣れきっているから平然としているのかもしれない。牧のコートの裾に手を突っ込んでみたくなったが、こんなところで襲われると困るので我慢する。
「……牧。オレ、あんまり腹減ってないんだ」
「少し時間が悪かったな」
「そういうつもりじゃない。お前の最寄りまで帰って、そこらへんで軽く済まそうぜ」
 牧としては、せっかく賑やかなところに出てきたので、食事もここで済ませていきたい気持ちもあった。しかし時間的にも空腹度的にも、藤真の提案通りにするほうがよさそうだ。駄目押しのように手に指を絡められると、もはや断る道はなく、迷わずその手を握った。
「そうだな。じゃあ、帰るか」
 駅に向かうために明るい通りへ戻ると、藤真の手はごくさりげない動作で逃げていった。寂しいことだが、仕方ないだろう。
 文字通り寄り道をしていたから、前方を歩くカップルは先ほどまでとは違う二人になっていた。互いの腰を抱き合って歩く男女に対し、今の藤真が抱く感想はごくシンプルだ。
(女って、興奮してもあからさまに形が変わるもんがなくていいよな。前歩いてる男は平気なのかな……)

 マフラーを外し、耳当てを首に掛けた格好で電車に乗ると、車内には明確に某ファーストフード店のフライドポテトのにおいが充満していた。ちょうど目に入った小太りの男がまさしくその袋を持っているので間違いないだろう。
(たまにいるんだよな、なんでマックで買ってから電車乗るのか謎なんだけど)
 一方の牧はにおいの出どころに気づかなかったようで、思ったままを口にしていた。
「なんか、すげえ食いもんのにおいがしてるな」
 さほど大きな声ではなかったが、静かな車両内には充分で、藤真の視界の端で件の男が明確に挙動不審になっていた。藤真は慌てて牧の腕を小突く。
「車両変えよう」
 ポテトのにおいも気にならなくはなかったが、苦痛というほどではない。どちらかというと、牧が余計なことを言うのを危惧したところが大きかった。
「そうだな」
 電車の中は混んではいなかったが、席に座れるほど空いてもいなかった。二つ隣の車両に移動して、藤真はドア横に、座席の端の仕切りに背を預けるように立ち、牧は藤真の横顔を見るように通路側に立った。
「お前さ、知らない人から見たら結構いかついから気をつけたほういいよ」
「なにがだ?」
「さっきの」
「俺は事実を言っただけじゃないか?」
「まあそりゃ、そうなんだけどさぁ」
 どちらかといえば文句のように聞こえたし、件の男は絡まれるのではないかと気が気でなかっただろう。
「……そうだ、ハンバーガーとか嫌い?」
「あんまり食わないが、嫌いじゃないぞ」
「じゃあ夜ハンバーガーにしよう。さっきので食いたくなった」
「そうだな、たまにはそういうのもいいか」
 二駅ほど進んだろうか。二人が降りるのはまだ先だが、藤真は逆側のドアから見える次の駅のホームを凝視した。
「駅にめちゃめちゃ人いるんだけど。ここそんな混むとこだっけ?」
「なんたら線が止まってて、振替輸送……」
 牧がドア上の電光掲示を読んでいるうちに、ホームで燻っていた人々が雪崩のように乗り込んでくる。
「うわ、やばっ」
「……っと!」
 押し込まれてよろめいた人に思い切りぶつかられながら、牧はドアに手をついてひたすら藤真を庇うようにしていた。おかげで藤真は押し潰されることはなかったが、牧の胸が藤真の体に触れるほどに二人の距離は近くなっていて、藤真が横を向いていなければなかなか気まずい状態になっていたかもしれない。
「大丈夫か?」
「うん……」
 囁く息が耳に掛かって、思わず赤面する。周囲に人がいると思うと、余計に興奮するのはなぜなのだろう。
(興奮とかっ! ヘンなこと考えたら絶対ダメだからな!)
 その後も少しずつ人が乗ってきて、電車が空くことはなく、藤真はほとんど牧に抱かれながら残りの時間を過ごした。
(こんなとこで抱き合うなんて……いや、不可抗力だし、抱き〝合って〟はないし……)
 二人とも冬の服装の上にコートを着ているから、密着しても体温は感じない。しかしそのため、体に圧が掛かるたびに布団に包まれるようで、満員電車だというのに心地よく、抱きつきたくなってしまうほどだった。ぼそぼそと会話もしたが、内容は覚えていない。「混んでる」「まだ乗ってくる」とかそんなものだったと思う。
 目的地に着き、ホームに降りるや藤真は声を上げた。
「はー! 空気がうまい!」
「災難だったな」
「ほんとにそう思ってる?」
「お前に痴漢行為をしなかったことを褒めてほしい」
「いやもう最後らへん知らない人だったら痴漢だったと思うけど……」
 この駅の周辺も決して寂れているわけではないのだが、移動前の賑わいと満員電車の混雑との反動で、随分と静かに感じられた。冬の夜のイメージには、この静けさの方が近いと藤真は思う。
「あのポテトの人、混む前に降りれたかなあ」
「そうだな。ちょっと気になるな」
 他愛のない話をしながら少し歩くと、赤地に黄色のMの看板が目に入った。
「あったぞ、ハンバーガー」
「いや、あっちにしよう」
 藤真の指差すほうを見ると、もう少し先に、緑に白色のMが見えていた。
「緑だからか?」
 緑は翔陽のカラーだ。しかし藤真は首を横に振る。
「マックよりモスのほうが大体静かだから」
「騒がしいのは苦手か?」
「特にそうってわけじゃないけど、相手とか、話す内容による。周りがうるさいとこっちも声張るだろ」
「そうか! よし、じゃあ静かなほうで内緒の話をしような」
「あんまりな話は外ではしないけどな!?」

 レジで少し待ったものの、二階の飲食スペースは予想通り人がまばらだった。窓際のカウンター席の一番端に藤真が、その隣に牧が陣取って、各々ハンバーガーを齧る。タルトを食べて「フルーツの本来の味!」など言い合っていたが、若い舌には濃い味付けのファーストフードもやはり旨いものだった。
「藤真、ポテトじゃないんだな」
「うん。オニオンリングにした」
「っ……!」
 オニオンリングを一つ手に取り、その穴からこちらを覗いてきた藤真の仕草があまりに愛らしくて、牧は思わず絶句する。
(天使だ、天使の輪っかだ……)
 口をあくあくと動かしている牧の様子から、食べたいのだろうかと、藤真は牧のほうにオニオンリングの袋の口を向けた。
「いいよ。お食べ」
「ありがとう……」
 牧はオニオンリングを一つ取り、珍しいものでも見るようにまじまじと眺め、リングに向かって照れたように笑ってから口に放り込んだ。
「あんまりハンバーガー食わないって言ってたの、カロリーとか成分とか気にしてるやつ?」
「そういうわけじゃない。普通に定食か麺類でも食ったほうが腹が膨れないか?」
「あー、食事って思ったらそうかも。オレは帰りにちょっと寄って食って、家でもまた食うからな」
 牧は一人暮らしだからと考えて、海南バスケ部の面々はほとんどが寮暮らしだと聞いたことを思い出す。
「もしかして、あんまり友達とかとメシ行かない?」
「……あんまり、行かないな」
「えー! なにそれ寂し〜!」
 大袈裟に驚く藤真に対して、牧はごく当たり前の顔で応える。
「練習のあとだぞ? 大した時間もないし、気にしたことなかったな」
「まあそれもそうなんだろうけど」
 牧は黙り込み、テーブルの上に広げたドリンクとサイドメニュー、手に持った食べ掛けのハンバーガー、隣に座る藤真を順繰りに見ると、はっとしたように言った。
「俺はもしかして、今すごく高校生らしい過ごし方をしてるんじゃないか……?」
 大真面目な表情で告げられた事実に、藤真は大きく口を開けて盛大に笑った。
「まじでっ! よかったじゃん! 制服じゃないのが惜しいな」
「ああ、よかった……高校生活のいい思い出ができた……」
「んな大袈裟な」
「翔陽のやつとは、よくメシ行くのか?」
 懸念も思惑もない、ただの会話の流れだった。
「まあ、ときどき。別にオレ一人でいろいろやってるわけじゃないから、他の部員と話したいことだってあるし、練習後だと腹減ってるから、じゃあなんか食いながら話すかって流れ」
 藤真の部内での立場は主将だけではない。相談できる仲間がいるならそれはよいことだと、詳細は知らないながらに牧も頷く。
「でもさ、部活の話したくて誘ったのに『あんまり部活のこと引き摺らなくてもいいんじゃないか』とか言うやつもいて。それじゃただのお食事会じゃん!」
「がんばりすぎるのを心配してるんじゃないか?」
「どうだろうな。オレに彼女ができたと思ってるみたいで、気分転換してこいみたいなこと言ってくる。童貞のくせに親かよって感じ。……童貞かなぁ? 多分そうだと思うんだけど」
 ぶつぶつとぼやきながらオニオンリングを齧り、ふと牧の顔を見て一旦口を噤む。
「……ごめん」
「どうした?」
「『私の前で他の女子の話しないでよ!』ってなってる女子みたいな顔してたから」
 藤真が言うと、牧は明らかな戸惑いを顔に浮かべた。
「そ、そうか? 俺は女子みたいな顔してたか……?」
「いや、ポイントは女子ってとこじゃねーけど!?」
 いまいち意図が通じなかったような気もするが、怒っていないのならいいだろう。そういうことにした。

 牧の家に向かって歩きながら、二人は自然と身を寄せ合っていた。
「駅前、今日は静かだったが、イブの夜には聖歌隊が居たんだ」
「へえ」
「お前のこと思い出してた」
「恋人みたいだね」
「恋人じゃなかったのか!?」
 藤真としてはただの軽口のつもりだったのだが、牧が本当に狼狽えた様子だったので、思わず声を上げて笑ってしまった。
「藤真……」
「ごめん」
 自分はあまり性格は良くないほうだと思う。特別悪くもないはずだが──いや、牧の性格が良すぎるのだ。
「あのさ、牧って、オレのどこがよかったんだ?」
 率直で純粋な疑問だった。
 人から好意を抱かれることには慣れている。しかし、相手が牧だと思うとやはり不思議なのだ。初めて聞いたときにも驚いたが、彼と接してその人柄を知ると謎は更に深まった。人は見た目とのギャップに弱い。恐く見られがちな牧の実際の性格を知って、好感を抱かない者はいないと思う。つまり、相手など他にいくらでもいたはずだ。
 牧は藤真の問いを心底不思議に思いながら目を瞬く。
「? どこって言われても困る。全部いいと思ってるぞ」
「オレはお前みたいな、いいやつじゃないよ」
「なんだ? 俺みたいって」
「お前ってめちゃめちゃ性格いいじゃん。怒らないし、バスケもできるし、欠点ってないと思う」
 牧はひたすら首を傾げた。性格など、自分ではごく普通だとしか思わない。
「普通に怒るし、ボケてるとか老け顔とかよく言われてるぞ」
「お前の天然はむしろ好評価ポイントだろ。ただの個性だ。顔は整ってんだからそのうち年齢の方が追いつく」
 牧は真剣な面持ちで、じっと藤真を見つめた。
「藤真こそ、完璧じゃないか」
 もともとそう感じていたが、こちらの性質を個性と言ってのけたことでますます好きになってしまった。無論、顔と年齢の相関についてもだ。
「えー? オレは結構アレだぜ? お前のことからかったりするじゃん」
「別に嫌じゃないぞ」
「気分屋じゃねえ?」
 自覚は薄いが、よく言われるのでそうなのだろうと思う。部活のときには気をつけているが、それ以外では特に変える気はなかった。
「楽しくていい」
 藤真は呆れて長く息を吐いた。
「お前、心広すぎ。なんでも誰でも許せるんじゃね」
「そんなことないと思うぞ」
「えー? お前が許せないことなんてあるんだ。興味ある」
「卑劣なこととか」
「……まあ、そりゃそうなんだろうけど」
 そういう話じゃないんだけどな、と藤真はひとりごちて、なんともなしに顔を上に向ける。どんよりとした暗灰色の空に、星はまばらだった。思い出したように、牧が口を開く。
「理想が高すぎるって、言われたことがある」
「え?」
「俺の欠点」
「別に、釣り合う相手を求めるのは当たり前だろ。そんなのは選ばれなかったやつの言い草だ」
「そうだな……だからお前なのかもしれない」
「はあ!?」
 さらりと言って微かにだけ笑った牧とは対照的に、藤真は裏返る寸前の高さで声を上げてしまっていた。言葉を反芻するたびじわじわと顔が熱くなり、耳当てもマフラーも暑くて外したくなるくらいだったが、意地で固持する。
「お前、オレに夢を見過ぎだ」
 今否定したばかりの言葉だが、理想が高いということにも通じるのかもしれない。
「オレはさ、お前がオレのことを好きって状況に気分よくなってるだけなんだよ」
(オレが追い抜けないでいるお前が、オレを求めたってことに)
 それはとても浅ましいことではないだろうか。
「俺がお前を好きだと、お前は気分がいいんだろう? なんの問題があるんだ?」
 牧は不思議そうに首を傾げ、藤真の顔を覗き込む。
「うーん、いや、違くてさあ……」
 うまく伝えられない。何が違うのか、自分でもよくわからなくなってきた。
「藤真のことを好きになるやつなんて、いくらでもいるだろう。お前はその全部の好意を受け入れるのか?」
 藤真は迷わず首を横に振る。
「そんなの、迷惑だ」
「でも俺とはデートもセックスもっ…うぐっ!!」
「声でけーんだよバカ!」
 静かな夜の住宅街に牧のセックスコールが高らかに響いてしまったので、少し強めに腹にパンチを見舞った。牧は芝居掛かって体を前方に丸める。
「ふぅっ、なかなかいいパンチだった……ん?」
 鼻先に冷たい感触があったかと思うと、ちらちらと視野に白いものが混ざり始める。先に声を上げたのは藤真だった。
「雪!? どうりで寒いと思った」
「ホワイトクリスマスだな!」
 弾けるように笑った牧の表情が、その造形とは裏腹にごく無邪気な子供のように見えて、思わず口から言葉がこぼれる。
「やっぱり牧って……」
「なんだ? 単純だって?」
「違うよ」
 心が綺麗なんだ、と思った。しかしそのままではあまりに照れくさいので、どうにか格好をつけた言葉を探してみる。
「じゅん、じゅん……純朴?」
「それは言われたことなかったが、いい意味なら嬉しい」
 高校生が日常会話で口にする単語でもない。国語の授業で耳にしたくらいだと、当の藤真も思っていた。
 それきり時間が止まったように二人で空を見上げ、ゆっくりと螺旋を描くように舞い降りてくる白い花弁を眺めていた。
 正面に視線を戻すと、いつからそうだったのか、牧は恐いくらい真剣な目でじっとこちらを見ている。
「なに?」
「……綺麗だと、思って」
「オレに雪が積もっていくのが?」
「いや、そう言われるとなんか変な感じになるんだが。……すまん、寒いよな。早く帰ろう」

ダラテン 1

1.

 十二月二十四日、クリスマス・イブの夜。聖歌隊の透明な歌声の響く広場に、吹き抜ける風は身を切るように冷たかった。クリスマスの本来の意味がなんであろうが、広場の男女たちと、独りそこを通り掛かった牧にとっては、その前夜は恋人同士が愛を語らう夜でしかない。聖なる歌は恋人たちへの祝福だ。
(恋人……か)
 自ら頭に浮かべた言葉に照れてしまった。藤真は嫌がるだろうか。
 外で手を繋いだり過剰に寄り添うことを、無理に求める気はない。ただ横に並んで一緒に歩くだけだって充分に楽しい気分になると思うのだが、ウインターカップ只中の今、残念ながらそれは叶わない。
(会いたいな……)
 練習中は自然とバスケットが最上位に浮上していて、邪念などは浮かばない。何かの拍子に女子に言い寄られたとしても、迷わず拒絶する程度に、現在の牧にとってそれは絶対的なものだった。健康な高校二年の男子だ、性的な興味や欲求がないわけではない。しかし価値観の異なる相手との交際は部活動の妨げにしかならないと、過去に実感したのだ。その点で藤真は都合がよかった。
(都合、というか……)
 あまりに割り切った単語に、それは違うと頭を掻いた。事実ではあるが、単なる結果だ。交際を決めた理由ではない。
 とはいえ、まだ交際開始から二ヶ月弱ではあるが、決して暇の多くない中でも関係を負担に感じていないのは、やはりそれもあるだろうと思う。それもあって──二人の総意だと思っているから、バスケットに触れているときには藤真のことは対戦相手としてしか考えないようにしている。
 しかし、一日の務めを終えたあととなれば話は別だ。まして今日はクリスマス・イブなのだ。

 駅近くの雑貨屋の店先には、まだクリスマスグッズが並んでいた。仕舞い込まれるのは明日の夜だろうか。
(そういえば、クリスマスプレゼント……)
 ウインターカップの全日程が終わったあと、十二月二十九日に藤真と会う約束をしている。〝年末デート〟というのも何か変なので、少し遅いが一応クリスマスデートという名目だ。ならばプレゼントを用意したいところだが、ここに並ぶいかにもクリスマスめいた雑貨を、クリスマスから四日もあとに贈るセンスはさすがにない。この店にはさほど高価なものはないだろうが、最初のプレゼントは高価すぎるとあまり喜ばれないと聞いたこともあり、なんとも悩ましいところだ。
 ふと、一枚のポストカードに目を惹かれた。ヨーロッパの絵画にあるような、精緻なタッチの油絵だ。少年にも少女にも思える顔立ちの天使が頬杖をつき、意味ありげな微笑を浮かべてこちらを見つめている。試すような、見透かすような微笑が藤真に似ている──そう感じてしまったら、もうその天使が藤真にしか見えなくなった。髪は癖毛で、顔もそう細部が似ているわけでもない。単なるイメージの暴走だ。
(もし藤真が天使の生まれ変わりだったら……)
 そんな妄想が頭を過ると、もう堪えられなかった。衝動的にポストカードを手にして店に入り、会計を済ませて出てきたときには、クリスマスプレゼントのことはすっかり忘れ去っていた。

 家に帰り着き、玄関のドアを開けるや否や、電話の呼び出し音が聞こえた。
「藤真?」
 部活関係の連絡も充分ありえたろうが、つい先ほどの思考を引き摺ったまま、慌てて靴を脱いで部屋に駆け上がり、勢いよく電話を取った。

「お、牧? メリクリ〜」
『藤真! メリークリスマス!』
「なに、気合い入ってんじゃん」
 気合というべきか、勢いというべきか。そう嬉しそうにしてもらえると、電話を掛けた甲斐もあるというものだ。
『お前のこと考えてたら電話がきたんだ』
「本当かよ? 帰るの遅いから、寂しくて風俗でも行ったのかと思ってた」
『俺はれっきとした高二だぞ。そんなの発想すらなかった。まあ、イブだから、寂しいのは確かにあったが』
 藤真は目を瞬き、純粋で朗らかな子供のような笑顔を浮かべた。
「まじで! かわいいこと言うんだな。今日さ、姉が家いないから電話占領できるんだ。今、時間大丈夫か?」
 姉の長電話に慣れきっている親だから、藤真が長く電話を使ったところで気に留めないだろうとは思ったが、一応夜に電話を使わないことも確認済みだ。
『ああ、もう用事も済んでる』
「じゃあ、テレホンセックスしようぜ!」
 日曜の夕方のアニメで「野球しようぜ!」と遊びに誘うくらいの軽さで言うと、電話の向こうから『んむっ!?』だの『おぉっ……』だの、戸惑うような喜ぶような声が聞こえた。いい反応だ。藤真は笑みを噛み殺す。
「なに、しないの?」
『する! 是非しよう!』
 疲れているだろうに、迷う素振りもないのだから愉快で堪らない。
(まあセックスってもオナニーだし、そんな疲れるもんじゃねーよな)
「もうできる? 準備必要?」
『ちょっと待ってくれ……ああ、準備オーケーだ』
「はやっ!」
 とは言ったものの、大した準備もないだろう。藤真のほうも、そのつもりで電話をしたから準備はできている。電話機を自分の部屋に引き入れ、ハンズフリーモードにして、バスタオルを敷いてベッドに仰向けになったくらいのものだ。
「オレも」
『今、どんな格好してるんだ?』
 切り替えの早い牧に、口元の歪みを抑えることができない。面白がって笑っては台無しだろうから、声には出ないようにしたいものだ。
「部屋着のスウェット上下。脱いどいたほうがよかったかな」
『いや、自然でいい。……じ、じゃあまず、上を捲ろうか。胸の上くらいまで』
 行為の際、牧が口籠ったり、躊躇ったりする様子を見た記憶はなかった。その状況では欲求のほうが遥かに優っていて、迷いなど生まれないのかもしれない。
 言われた通り、インナーもろともトレーナーを捲り上げた。
「捲ったよ。胸の上まで出てる」
『乳首を、触ってみてくれ……』
 荒い呼吸が電話越しに強調されて聞こえる。余裕のない様子の牧に、藤真は興奮するよりも愉快な気分になりながら、自らの乳首に指で触れた。
「触ってるよ」
『どうなってる? 硬いとか、勃ってるとか』
「柔らかい」
『そうか……じゃあその、柔らかな乳首を……指で弄ってみてくれ……』
 言葉の合間に聞こえる息遣いから、牧も行為を始めていることが想像でき、俄然興奮してきた。
「どういう風に?」
『こう……』
「見えねーから、わかんねーからっ!」
 電話の向こうでは、牧が乳首を弄る手振りをしているのだろうか。想像すると面白いのだが、気分が乗ってきたところで正気に戻すのはやめてほしい。
『指で摘んで、捏ねたり……潰したり……』
「う、ん……」
 言われた通りにして小刻みに指を動かすと、気持ちいいと思い込めば気持ちいいような、しかしそれよりもどかしさや恥ずかしさのほうが勝るような感触が起こる。
『ちょっと爪を立てたり……』
「あっ…」
『気持ちいいのか? 乳首はどうなってる?』
「硬くなって、ちょっとだけ大きくなって、形がはっきりしてきた」
 照れくさいながら、それでも比較的落ち着いた気分でレポートしてやると、牧が唾を飲む音が聞こえて嬉しくなってしまった。テレフォンセックスは初めてだが、牧に卑猥な言葉を望むよりは、こちらから投げ掛けてその反応を愉しむほうがいいのかもしれない。
 フー、フー、と牧の強い息遣いが聞こえる。
「でも、自分で触ってもあんまり気持ちよくないな。やっぱ牧に触られたり、しゃぶられたりしないと……」
 不意に『ガサッ』とも『ブバッ』とも形容しがたい大きな音がした。受話器の至近距離で思い切り息を吹いてしまったのだろう。藤真は笑いをこらえるのに必死だ。
『ッ! そ、そうか……!』
「ふっ…まきっ…受話器近い…っ」
『やっぱり、今からでもそっちに行こうか?』
「ダメだってば。今からじゃ遅くなるし、それにお前、今すぐ出られるなんて状態じゃねーだろ?」
『ぐっ…』
「お前の股間のモノは、今どうなってんだよ?」
 想像はついていたが、敢えて問うてみる。瞳は妖艶に細まり、唇には意地の悪い笑みが浮かんでいたが、残念ながら牧がその表情を見ることはできない。
『……興奮して、でっかくなってるぞ』
 想像して、思わず喉が鳴ってしまった。牧のことを笑っている場合ではない。付き合おうと言われる前の一番最初の行為のときから、牧が自分を欲している事実にこそ藤真は悦びを感じ、そこから今に至っているのだ。
「オレの声聞いてるから?」
『ああ……普通に自分でするより、汁が垂れるくらい出てる』
 牧の声に苦笑が滲んでいる気がする。どれほどの状態なのか、直接見られないことが残念だ。
「ローション使ってないんだ?」
『今日はまだ使ってないな。お前はどうなんだ?』
 さすがに漠然としすぎだと思った。素直に問い返す。
「……なにが?」
『勃ってるのか?』
「うん……てか、お前がちゃんと指示しないからまだパンツの中なんだけど」
『! そうだったか。……そうだよな。じゃあ、下脱ぐか』
 言われた通り、ひと思いにズボンと下着を取り去って、下半身を裸にしてしまう。下着の中で窮屈にしていた性器が、のびのびと首をもたげた。
「脱いだ」
『触ってみて、どうなってる?』
「硬くなって、筋が浮いて、先っぽがちょっと濡れてる」
『そうか……! ローションはあるか?』
「ないけど、オイルがあるよ。マッサージ用のやつ」
『それを使おう。あと、そうだな、バナナとか、キュウリとか、ナスとか……』
「それはない」
『ないのか?』
「あっても使わねーし! 食べ物を粗末にすんな!」
 それらの形状から用途に簡単に想像がついたので、ありえないことだと全否定しておく。
『じゃあディルドとか、バイブとか』
「もっとねーからっ!」
『お前、指なんかで満足できるのか?』
「うるせー、いいんだよ別に」
 牧はテレフォンセックスとして煽る調子ではなく、純粋に疑問な様子だ。
 多少慣れたとはいっても、自然のままで異物を挿入できる箇所ではない。二人でのセックスだから受け容れられるだけで、自分で自分のそこをほぐす虚しさを思えば、指だって毎度入れるわけでもないのだが、具体的に説明する気はしなかった。
「もうお前ダメだから、オレが勝手にやるわ。まずオイルをたっぷり手に取ってぇ、おちんちんをマッサージしまぁす」
 ふざけた調子で受話器に言うと、実際にオイルで濡らした左手で陰茎を掴み、上下にゆっくりと愛撫する。オイルが性器と手指の肌の密着度を高めながら、摩擦の痛みを失くして、常時の自慰よりも遥かに強い快感を伴った。
「っ…、あっ…んんっ!」
 普段は前を触っても声など出さないが、想像以上の感触と、牧が聞いていると思うと自然と声が出てしまった。
『藤真っ…、気持ちいいのか?』
「うん、ぬるぬるして、きもちい……」
 性器の上にボトルから直接オイルを垂らし、たっぷりと潤ったそこに受話器を近づけて大袈裟に扱く。皮膚の擦れる音と、ねっとりとした水音が派手に響いた。
「聞こえる? んっ、あぁっ、あっ…」
『っ!! ふじまっ、…そんな、やらしい音立ててっ…』
 受話器を顔の横に置くと、切羽詰まった様子の牧の声と息に煽られるように、右手を脚の間へ持っていき、伝い落ちたオイルで濡れた窄まりを揉みほぐすように撫でた。
「あっ…!」
『どうした?』
「指入っちゃった。ぅんっ、あぁ…」
『な、中は、どんな感じなんだっ…!?』
「入り口はっ…きついけど、オイルで滑るからっ、んっ、ぁんっ」
 あまり深くは入れず、入り口付近で軽く指をピストンする。触覚での単純な快感もあるが、更なる刺激を求めて体が疼くようで、非常に気分が高揚していた。
『藤真、イイのか?』
「ぅん……いいよ、牧……」
 仰向けから横向きの体勢になって体を丸め、挿入した指を曲げて、体の前方へ向けて刺激する。何度か繰り返すうち、明確な快感が迸ってびくりと体が跳ねた。
「゛あっ! んぅっ、あぁっ…」
『ふじまっ…』
「っ…ん、前立腺みっけた。ね、牧のシコってる音聞かせて」
 もはや演じなくとも自然と甘えたような声になってしまう。その調子は牧にもストレートに伝わっていた。
『聞こえるか? ……』
 受話器越しに馴染みのある、しかし荒々しさも感じる音を聞いて、藤真は思わず歓喜に喘ぐ。
「あぁっ…すっげ、エロい音っ…まき、オレのこと考えてシコってるの…」
『当たり前だろうっ…ほんとはこれで、お前の中を掻き回してやりたいんだ…ッ!』
 もはや羞恥などなく、一旦取り戻した右手の指に落ち着かない動作でオイルを垂らし、再び脚の間へ持っていく。二本の指が、ぬるりと狭間に呑み込まれた。
「んっ、オレも…はぁっ、ほんとは、牧の…あぁっ、あぁぁっ…!」
 ぐちゅぐちゅと音を立てて自らの指で中を掻き回しながら、興奮しきった陰茎を撫でると、耐えられず声が上がった。
『藤真っ…、今、どうなってる…?』
「指二本、入っててっ…ちんぽ触ったら穴がぎゅって締まってっ…」
『指を曲げると?』
「我慢できなくなる…」
 声は無様に泣きそうに歪む。受話器の向こうから、感じ入ったような牧の息が聞こえた。
『我慢なんてしないで…、俺にやられてると思って、エロい声聞かせてくれ…』
 藤真は許しを得たかのように、差し込んだ指を蠢かせながら、もはやオイルよりも体液で濡れそぼった陰茎を夢中で扱いた。
「あ、あぁっ、牧…! んぅっ、あぁっ、あぁぁっ…!」
 受話器から聞こえる低い声と呼吸が、こちらの動作とリンクしているように思えたが、まともな感覚はとうに失っているから、ただの思い込みかもしれない。それでも確かに牧の存在を感じながら、感じるたびに自らの指を締め付ける、淫らな体に自分自身で興奮していた。
「まきっ、オレ、もう、いきそぉ…っ」
『ああ…俺もだ…』
「じゃ、一緒にいこっ」
 今度は明確に息を合わせ、手淫の速度を上げて一番弱いところを重点的に刺激していく。
『ああ、藤真ッ……いくぞ、出すぞ……!』
「んっ、牧ぃっ…! あっ、あぁっ、あぁああッ……!!」
 射精とともに白く弾けた強烈な快感の中で、自分の声をうるさいと感じながら、牧の達した低い声も確かに聞いた気がしていた。体をぐったりとさせながら、開放感のような、幸福感のような、快楽の余韻に藤真が浸っていられるのは、しかし僅かな時間のことだ。
『っ、ふじまっ……もう一回しよう!』
 電話の向こうからはまだ興奮冷めやらぬ牧の声が聞こえるが、藤真は例のごとく急激に冷めてしまっていて、早く身の回りを片付けたくて仕方がなかった。近くにいて迫ってこられればまた別だろうが、電話越しではそこまで盛り上がることはできない。
「はぁ? やだよ、また二十九日にな。バイバイ」
『ふじ』
 ガチャッ!
 乱暴に電話を切り、深い深い溜め息をついてティッシュで股を拭った。オイルのおかげでするすると拭き取ることができたが、そもそも性的な用途のためのオイルではないと思い出すと、心の底から情けない気分になった。
(アナルとかマッサージしてごめんなさいって気持ち……)
 電話の受話器を改めて持ち上げて入念に拭き、ハンズフリーもオフにする。
(やっぱり、ちゃんと会いたいよなぁ)
 断片的な接触など、余計に相手が恋しくなるだけだというのに、忙しい牧をわざわざ捕まえて、なんて下らないことをしてしまったのだろう。
 落ち着きを遥かに通り越した憂鬱な気分で、くず箱に使用済みティッシュの山を作り、パンツとズボンを穿いて、電話機を元の位置に戻しに行った。