君はただここに居て

片思いも意識してるのやらしてないのやら、な頃 [ 6,211文字/2016-10-24 ]

 パラリ、パラリ。
 一日の終わり、寮の自室でクロッキー帳のページを捲る。喜多川祐介の日課のようなものだった。
 手馴し、あるいは手癖の速写画もあるが、もう少し時間を掛けたスケッチもある。最近は、人物を特によく描くようにしていた。
 ふと手を止めて眺めたページに描かれた人物は、心の怪盗団のリーダー・来栖暁。
 偶然知り合っただけの自分の事情に踏み込み、危険を犯して救ってくれた不思議な男。今までに出会ったことのなかった、魅力的な人間。
 祐介が人間のことを知らなかったと自覚し、そして知りたいと思ったのは、彼が発端と言っていい。

 思い返せば、彼と出会うまでに人間が輝いて見えた記憶は希薄だ。斑目には──少なくとも昔は──尊敬と感謝の念を抱いていたし、兄弟子達の作品や技術に感嘆し興味を持ったことはある。
 ただ、彼らの内面を深く知りたいとは思わなかった。彼らは同じ目的のためにあの場所に存在する、同類であったから。
 さほど興味を持てなかったのか、そこに見たくないものがあったのか、今更思い出すことに意味があるとは思えない。
 ただ、自分は幼い頃からあの場所に居たために、いわば〝外の世界〟から来た彼らのように壊れることはなかったのかもしれないとは思う。
 あの時の自分の認知の中には家族がいた。世界は絵の中にいくらでも広がっていた。何も疑問を持たなかったわけではない。辛いことがなかったわけでもない。
 それでもあの場所には確かに大切なものがあった。
 逃げ出せるものなら逃げ出したいと、かつて斑目の弟子だった中野原に話したことがある。尤も、後々暁に聞いて思い出したことではあるが──行き場がなかったのは確かだが、あの緩やかな拘束を甘受し続けることを選んだのは自分だった。

 斑目の過ちに勘付いていながら何かと理由をつけて自分を納得させていた。斑目のパレスに在った弟子たちは絵でしかなかったが、自分の感覚がそれとどれだけ違ったかと問われれば明確な答えは出せない。

 人は誰しも心を持って生きている。それは立体的で、幾重の色を乗せてもまだ表せないほど奥深く美しい。
 それに気付かせてくれたのが暁と、怪盗団の面々だった。
 暁は場の空気を変える。暁を取り巻く人々はそれを彩る。少なくとも祐介にはそう感じられる。
 彼がいれば屋根裏部屋の埃も光の煌めきでしかないし、がらんとしたあの部屋からどこへでも飛び立てるような気がした。

 スケッチの人物にはそんな〝彼〟が全く描き出されていない。鉛筆のデッサンだから、と言ってしまえば身も蓋もないのだが、それだけではないと思う。
 彼の存在を、捉えきれていないのだ。もしくは見失っている。
 緩く頭を横に振ってページを捲る。街を行く人々のクロッキー。
 捲る。また違う人物が現れる。
 捲る。暁の知人らを描いたデッサン。
 彼らを描くとき、手を動かしながらも人々の話に耳を傾け、入念に観察していた。
 長らく関わっているわけでもないであろう暁に対する信頼、感謝、あるいは疑惑。それらの断片に触れることは、祐介にとっても刺激的なことだった。人々が暁に親しんでいることが、自分のことのように嬉しかった。
 しかしいつからか、一抹の寂しさも感じるようになっていた。
 自分も、暁に関わり合う〝人々〟の中の一人でしかないということ。
 個として認められたいという強い欲求。
 彼を、人々を知るだけで満足していたはずが、傲慢だと思う。醜いと思う。
 このままでは満足に彼を描けない。

 屋根裏部屋で二人、コーヒーを飲み、菓子をつまみ、DVDを見て、他愛のない話をする。
 学生と怪盗の二重生活の合間、のんびりとした休日の時間に、暁は心地よく浸っていた。
 一人では惰眠を貪ってしまうから、祐介が来てくれたのは良かったと思う。
 祐介には初めは気難しそうで近寄りにくい印象を持っていたし、もう少し親しくなると、非常に独特のテンポを持っているのだと知った。双葉いわく変態である。
 しかし、予測不能でときに強引なところも、彼ならばどこか面白いと思えて許してしまう。それどころか世話を焼きたくなる。喜多川祐介という人間の、それは、魅力なのだと思う。
 そういった突出した面も持ちながら、普段は物静かで落ち着いていて、一緒にいて居心地の良さを感じる。感覚が似ているとは到底思えないが──。
 以前押し掛けで泊まりに来たときにも、追い返す気はしていなかった。面白い縁だな、と納得していたくらいだ。

 夕方、そろそろ帰宅を意識する時間だ。明日が平日であることへの軽い憂鬱と、この時間が終わってしまうことへの名残惜しさが押し寄せる。ここから時間が経過しなければ良いのにと思う。
 そんなときに祐介から切り出された話は、流れも何もない唐突なものだった。
「暁、俺はお前の役に立っているだろうか」
「え? 役に立ってるって、何で?」
 脈絡がないのはいつものことだが、単純に、祐介の問いたいことがよくわからなかった。
「怪盗団でも、それ以外でもどちらでもいい。俺の存在はお前の得になっているんだろうか」
 神妙な顔をして、また妙なことを言い出す。暁は軽く笑った。
「得とか損とか、そんなこと考えて一緒にいるわけじゃない。質問に答えるなら、怪盗団の一員として役に立ってもらってるけど?」
「……そうか」
 求める答えは得られたはずだが、上手く呑み込めない。それは祐介の表情にも表れていた。
「前のパレスで控えだったのが気になる? 前線に出たい?」
「俺から要望することはない。なんというか、そこはお前がやりやすいように決めているのだと思っている」
 参謀役の真。専門的技能に極めて特化した双葉。心の強さと大企業の令嬢ゆえの立ち回りを見せた春。状況を転換させる、独特の嗅覚を持つ竜司。優しく美しく、爆発的な威力で敵を焼き尽くす杏。皆の導き手であるモルガナ。
 自分には、彼らと比べて突出したものがあるだろうか。絵を描く才能、それも未だ発展途上のものが、どれだけ彼の役に立っているというのか。
「何が言いたい?」
 祐介は視線を下方に落とし、探るように言う。
「……俺はお前と、お前たちに、感謝している。言葉では言い表せないくらいにだ。だから行動で怪盗団に貢献したい。恩を返したい。それが今は、果たしてどれだけできているのかと思ってな」
 伏せられた長い睫毛を見つめながら、ただ、いじらしいと思った。
 細身だが上背はある。力だって意外なほど強い。彼が弱いと思っているわけではないはずだ。それなのに危うくて放っておけない気がする、この感情は一体なんなのだろう。
「恩、か……」
 言葉の断片が頭に引っ掛かって反芻すれば、祐介は斑目に対してしきりに〝恩義〟と言っていたかと思い出す。
 血縁でもない祐介を引き取り育てた、とだけ聞けば感謝するのもわからなくはない。
 しかし祐介は斑目に引き取られた時、まだ分別もつかない年齢であったはずだ。当たり前に保護されて、駄々をこね泣き喚き、それでも親の寵愛を受けるはずの、幼い子供であったはずだ。
 祐介と同じ年頃で親への感謝を常日頃から口にする人間は珍しいと思う。家族の形に違いはあれど、親が子を育てることは至って自然で、それを恵まれていると感じることは少ないのだろう。自分だってそうだ。
 斑目への恩義を唱え続ける、彼は一体どういう暮らしをしてきたのか。養子に入れられたわけでもなく、飽くまで引き取られた子供ということを、幼い頃から自覚していたのだろうか。あるいはそう感じる出来事があったのか。
 与えられたら礼をする、恩を返す、間違ったことではない。
 しかし、好意を好意として受け入れる感覚が希薄なのかもしれないとも思う。自分の境遇を理解しながら、果たして彼は子供らしく大人に甘えることなどできたのだろうか。
 意外と図々しいところもあるのは知っている。もっと根本的な部分の話だ。
「祐介。気持ちは嬉しいけど、もっと楽にして欲しい。祐介は恩があるからって理由で怪盗団に参加してるのか? 世直しをしたいとは思ってない?」
「無論、怪盗団の理念にも賛同している」
「だろ。それだけでいいんだ。お前の件だって、もともと俺たちが勝手にやったことなんだし」
「恩を感じるなというのか?」
 祐介は困惑したような視線を暁に向ける。
「んー……気負わないで欲しい、て感じかな」
 なかなか難しい男だ、と思う。だが苦痛ではない。祐介のことをもっと知りたい。
「祐介に作ってもらったロゴは俺も気に入ってるし、カードの複製をお願いすることだってあるだろ。それは他の皆にはできないこと。どうして自分が役に立ってないなんて思った?」
「……足りない気がする」
「充分だって。それとも、皆が頼りない?」
「それはない。むしろ逆だ」
「逆?」
「学校の美術コースでは、俺は才能があると言われ目を掛けられている。数多の生徒たちの中の一握りの存在だ。それが、怪盗団の皆と会うと、それぞれに突出したものを持っていて……自分が矮小な存在に思えることがある」
 俯く祐介に拗ねる子供の姿が重なる。
「大丈夫だよ……祐介」
 手の中をするりと滑る、柔らかな絹糸の感触。
 自分より上背のある祐介の、前方に傾けられた頭を、つい撫でていた。
「?」
「あ、ご、ごめん」
 暁は俄かに顔が熱くなる気配を感じながら、ポーカーフェイスを取り繕う。
「違う人間なんだから、得意なことだって違うさ。祐介が皆のことをすごいって思ったとして、俺も皆も祐介に対して同じこと思ってると思う。きっと」
 祐介は深く息を吐き、ゆっくりと頭を横に振った。暁の言葉を否定したいわけではない。自分に対してだ。
「……醜いな、俺は」
 暁の前で弱音を吐いて、慰めの言葉を引っ張り出した。それで安心してしまっているのもまた事実で嫌になる。
「祐介は、綺麗だよ」
「……」
「綺麗だから、悩むんだ」
 祐介はこちらをじっと見つめている。何を思っているのか、視線の真意はわからない。
 射抜かれたように、何故か目を逸らすことができなくて、握り締めた拳の中の冷たさばかりが気になった。
 コツン。窓の方から小さな音がして、祐介の注意がそちらへ向いた。
「雀かな。たまに窓にぶつかってくる」
「そうか」
「……」
 言いたいことはある。しかしどうにも、同級生の、それも男に掛ける言葉ではないような気がして──これは単に語彙の問題なのだろうか。
 そら恐ろしさもあるが、このままではこの状況も動かない。暁はおずおずと口を開いた。
「……変なこと言うかもしれないけど、祐介は、もっと甘えていいと思う」
「甘え、だと?」
「偉そうかもしれないけど……人は見返りのために寄り添うわけじゃない……と、思う。怪盗団は俺らと祐介の居場所。だから役割とか考えないで、祐介はただここに居ればいいんだ」
「居場所……」
 怪盗団の面々は日常の中に居辛さを感じている、似た者同士が引き合ったかのようだと、以前話したことを思い出す。
 そんな彼らと自分の、ここは居場所。
 心がスッと軽くなっていくような気がする。迷ううちに視界が曇り、いつの間にか見えなくなっていたのかもしれない。
「もしもの話。もし戦えなくなったとしても、俺は祐介に居てほしいよ」
「なんだ、それは」
 祐介がさも不思議そうに目を瞬くので、苦笑してしまった。
「そんなにおかしいかな。でも今までの話だと、祐介は役に立つためにここに居るって言ってるみたいだったから」
 多少表現を変えただけで、ずっと同じ話をしている気がする。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 ああ、言いたいことは一つだというのに。
「怪盗団っていう協力関係の繋がりはあるけど、それがなくたって俺たちは……友達だと思ってるよ。竜司や杏もきっとそうだ。だから」
「友達……か」
 言われ慣れない言葉だ、と言えば暁はまた戸惑うのだろう。
 こそばゆい。しかし決して悪くはない。祐介は微かにだけ微笑む。
「そうだよ。……ああ、そうだな。それって、能力で選ぶもんじゃない。居るだけで楽しいし、それでいいって思える。だから、もっと気楽にしてほしい」
「わかった。……ありがとう」
 暁の言葉の全てを理解できたわけではないが、それでも漠然と嬉しいと思った。ささくれていた胸の内が潤って穏やかになって──今夜は少し、良いものが描けるかもしれない。

(やはりお前は面白い人間だ、暁)
 居るだけで良い、とはどういうことなのだろう。何も求めないというのだろうか。
(人間にはある程度の欲望は必要と、以前聞いたが……?)
 クロッキー帳を抱え、瞳を閉じて、開いて。イメージだけで彼を描き始める。
 密かに何度も描いてきたから、その輪郭はすっかり手に馴染んでいる。
「……」
 しばらく後、紙面に描かれた彼はどことなく優しい表情をしていた。
 まだ浅い。満足ではない。しかし以前に描いたものよりは幾分良いと思える。
『人は見返りのためにだけ寄り添うわけじゃない』
 暁の言葉を思い出す。
 自分が彼と共に在りたいと思うのは、何か見返りを得るためだろうか。自分が得をするために、彼の傍に居たいのだろうか。
(違うな)
 彼と一緒に居ると新たな着想が生まれる。それは確かに自分の得にはなる。だが、暁から特に施しを受けたいと思うわけではない。彼はそのまま、ただそこに居てくれればいい。
(そういうこと、なのだろうか)
 暁が言ったこと。今の自分が思うこと。
(共に居れば、そのうちわかるか……)
 特別でなくては、役に立たなくては、と焦るような気持ちはもはや消えていた。

 祐介を送った後、暁はベッドに仰向けに倒れ呆然と天井を眺めていた。
(疲れた……)
 考えることも残りの家事も放棄して、このまま眠ってしまいたい。
 祐介の目に映る、自分はどんな顔をしていただろう。
 嘘は吐いていない。自分の思うことを、言葉を選びながら、伝えたつもりだ。しかし思い返すと無性に気恥ずかしい。
 カウンセラーでもなんでもない。人の心の機微などわからない。偉そうなことを言ってしまったかもしれない。
(祐介は、特別なんだ。特別な……友達)
 ずっと、気になっていた。事件としての斑目の件は解決したが、結果的に祐介は家も育ての親も失ったし、彼の心の問題は解決していないのではないかと。
 友人として彼に親しみを感じるほど、ふとした瞬間の彼の言動に危うさを感じるようになった。彼が居ない時も彼のことを考えるようになった。彼の深淵を、知りたいと思った。
 しかしデリケートなことだろうし、お節介だろうかと、自分から話を切り出すことはできずにいた。
 それもあって、今日は少し話し込んでしまったのだと思う。
(本当に、わかってくれたんだろうか)
 恩を感じるのが悪いという話ではないし、祐介が無力だというつもりもないので難しい。あの話の流れでは、心配だとか「守りたいと思うときがある」などと言ったら卒倒されるところだろう。
 もしくは自分が祐介よりずっと年上で、客観的にも頼りにされるような立場ならば──とまで考えて首を横に振る。
(なんだ、変な妄想……)
 傍に居るだけでいい。それは本心のはずだ。
 それなのに、なぜか恐ろしい。
(君がただ、ここに居たとして)
 何が恐ろしい? 祐介か? いや──
(俺はただ、このままで居られるんだろうか)

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