星と矢印

成立後の主喜多。祐介と一二三が(友人として)仲良くなって主人公が嫉妬したりする話。 [ 1話目:7,306文字/2016-12-31 ]

1.

 ──ニャー! ニャー!
 猫のようでもあるが、それより力強く甲高い。
 洸星高校の生徒にとってはさほど珍しいものでもない、校内で飼われている孔雀の鳴き声だ。
 よく似た二羽の孔雀が見事な扇を揺らして悠々と闊歩する、そこからそう遠くないところに、喜多川祐介はクロッキー帳を抱えて座り込んでいた。
 人に慣れ切った孔雀は、祐介のことを気にも留めずに好き勝手に過ごしている。
 素早く走り回るわけではないがじっとしてもいないそれを、祐介は紙面に鉛筆を走らせ速写していく。
 思い出したように結構な音量で鳴かれるが、それで集中力が途切れることはない。
 主に孔雀、時折手元へと行き来していた視線を、突如遮るものがあった。
 脚だ。女子生徒の。
 頭の上から、透き通った声が降ってくる。
「喜多川祐介さん、ですよね」
「……そうだが」
 眉を潜め顔を上げる。いかにも歓迎しない、といった調子だ。
 祐介は目上の人間にこそ礼儀正しいが、同じ生徒同士で上辺の関係を築く必要性を感じてこなかった。そのため、特に絵を描いている最中には、基本的に愛想は良くない。
 特段連絡事項がない限りは話し掛けられなくなっていたから、珍しさも手伝って女子生徒の顔をまじまじ見つめる。
 つややかなストレートの黒髪に赤い髪飾り、理知的に整った顔立ちには見覚えがあった。〝美しすぎる棋士〟と話題になっていたはずだ。
「東郷一二三……さん」
「私のこと、ご存知だったのですね。光栄です」
 少しだけ安心した内心が溢れて、一二三は自然と微笑を浮かべていた。
 喜多川祐介が変わり者だということは風の噂で知っていた。以前校内で目にしたときも周囲を気にせずスケッチに没頭していたようだったし、芸能関係の話題に興味がなく、自分のことも知らないかもしれないと思っていた。
「何の用だ」
 しかし、有名人に声を掛けられたと喜ぶような男でもないようだ。望むところ、と一二三は襟を正す。
「来栖暁さんのお友達だと、お聞きしました」
「ほう。暁と知り合いか」
「ええ。将棋の指南をして欲しいと、神田の教会までいらして……面白い方ですね」
 一二三は目を細める。日頃の彼女を知る人間が見れば、珍しいと感じる程度の柔和な表情だ。
「最初は邪険に扱ってしまったのですが、来栖さんと将棋を指していると新鮮な発想が湧いてくるようで……新手研究の試験台になって頂いているんです。飲み込みもとても早くて──」
 祐介に対して話し掛けづらいと感じていたのが嘘のように、つらつらと言葉が出てくる。
「……話は、長くなるのか?」
 低く落ち着いた声に遮られ、ハッとして見返す。祐介はいたって鹿爪らしい顔をしていた。少し、浮かれてしまったかもしれない。
「ご、ごめんなさい。やっぱり、お邪魔でしたよね」
 自分だとて将棋の練習中は基本的に話し掛けられたくない。ましてや一方的に言いたいことを言ってしまったのだ、無理もないだろう。
「そういう意味ではない」
 祐介の視線が明確に横に移動する。見遣ると、建物の影に隠れるようにしてこちらを伺う学生たちがいることに気付いた。
「あ……すみません、私、ああいうことに鈍感になっていて」
 一二三にとっては校内で注目されることも噂話も有り触れたことで、すっかり慣れてしまっていたのだった。
「俺も似たようなものだがな」
 以前は美術コース内で知られている程度だった祐介の境遇だが、斑目の謝罪会見後は校内中の好奇の対象となっていた。
「……場所を変えないか」
 話を続けて良いと、暗に言っている。一二三は艶やかに微笑した。
「では、屋上に行きましょう」

 悪くはないが良い天気とは言えない灰色の空の下、二人は倉庫の壁沿いに身を隠すように並び立った。よほど興味のある話題なのか、口を開いたのは祐介からだった。
「暁が俺について、何か言っていたのか?」
「美術コースの喜多川祐介を知っているか、と」
「えらく、そのままだな」
 祐介は至ってシンプルな一二三の回答に拍子抜けする。暁は視野が広く、自分の考えの及ばないところまで見据えているような男だ。一二三に自分のことを尋ねたのも、何か思うところあってのことではないのだろうか。
「その時は『直接は存じ上げませんが、お名前は知っています』と答えたのですが……」
 俄かに言い淀んだが、さほど間を置かずに続ける。
「本当は私、貴方のことをもう少しだけ知っていました」
「ほう?」
「私や母について、悪い噂を記事にした写真週刊誌が、家に置いてあって……ページを捲っていたら、斑目画伯についての記事が載っていました」
 その名を発した瞬間、祐介が気色ばんだように思えた。
「俺は、週刊誌の取材など受けた覚えはないが」
「そういうものなんです。本人に取材などしなくても、噂と想像で好き勝手」
 自分や母親のゴシップ記事を思い出し、一二三は顔を曇らせる。
「ですから、書かれていたことが全部真実だとは思っていません。でも、全てが虚構ではなくて……記事の元になった出来事はあったのだろう、と」
「まあ、な。週刊誌などあてにしなくても、斑目の会見のことはひとしきり話題になっていたと思うが」
 祐介は眉を顰め、一二三を観察するようにじっと見つめる。
「その時点では貴方のことは、そこまで気になっていなかったんです。騒ぎは知っていましたが、自分のことで精一杯で」
「まあ、美術コースとそちらでの違いもあるだろうしな」
「同じ週刊誌に記事が並んだのを見て初めて、もしかしたら私と貴方は……似ているのかもしれない、と……」
 今日祐介に声を掛けるまでに、考えは纏めてきたつもりだった。しかし改めて対面すると、突拍子もないことを言っているのかもしれないという迷いが生まれる。将棋以外のことで話をするのは、得意ではない。
「悪いが、俺は君についてのスキャンダルを知らない」
「そうですよね、ごめんなさい」
 一二三は小さく頭を下げた。あまり顔に出る方ではないと言われるが、今は頬に昇る熱の存在をしっかりと感じている。
「謝るようなことではない。続けてくれ」
 真摯な声色に促され、少年の整った顔貌を見据える。近寄りがたいと思わせる普段の雰囲気とは打って変わって、穏やかな物腰が一二三の心を落ち着かせた。
 すぅ、と静かに一つ呼吸をして問う。
「喜多川さんは、絵を描くことが好きですか?」
「ああ。絵は俺の全てだ」
 同意を示し、深く頷く。
「私は、将棋が好きです。将棋は父との思い出、私の遊びであり遊び相手、私の小さな王国……そう、全てといっても過言ではないのかもしれません」
 そして祐介から視線を外し、靴のつま先に視線を落とす。
「アイドルのように持て囃される現状は、母の強い後押しによるもので、私の望むところではありません。同年代の方々が将棋に興味を持つきっかけになれば、とも思っていましたが、正直少し、疲れてきました」
 一二三は仄かな笑みを、微かにだけ歪める。その瞳は昏い。
「美しすぎる棋士として売り出し、将棋に付加価値をつける、か……」
 ちょうどよく似た提案を受けたことがある、と祐介は思い出していた。川鍋という男だったと思う。師を失った悲劇の美少年として祐介とその絵を売り出そうという話だったが、無論拒否した。ありがちな話なのかもしれない。
 一二三は首を横に振る。
「付加価値にも、成れていないように思います。教会に私を訪ねてくる人も、大半は将棋には興味がないようです。……きっと、私の頑張りが足りないんですよね」
 ぎろりとこちらを向いた祐介の目がひどく冷たく思えて、一二三は息を呑んだ。
「君は、そんなことを俺に話したかったのか?」
「え……」
 違うだろう。見透かしてそう語る瞳に負けて、おずおずと口を開く。
「私に将棋を教えてくれたのは、棋士だった父でした。しかしやがて病に倒れ……母は父に代わって私を育て、そのために自分の夢を捨てることを余儀なくされました。それでも私に将棋を続けさせてくれた母には、本当に感謝しています。だから私は、できるだけ母の要望に応えたかった。母の役に立って、母の夢を叶えて、恩返ししたかった……けれど……」
 祐介はゆるゆると首を横に振る。一二三が目にした記事の内容は知らないが、彼女が自分に何を感じたのか、なんとなくわかるような気がした。
 無礼に当たるかもしれない。大切な人への侮辱と取られるかもしれない。しかし、他人だからこそ言えることもあると思う。暁たちから学んだことだ。
 迷いながらも、重い唇を開く。
「君は……利用されているのか……?」
 心臓を突かれたようだった。息が苦しい。動悸がする。トットットッ、早い鼓動が残り少ない持ち時間を宣告するようだった。
「……母には……私は、母の……」
 唇が震えて、うまく話せない。
 視線が泳ぐ。雲が流れる。遠くに運動部の掛け声が聞こえる。
 頭が働かないのだ。こんなこと、棋士としてあってはいけないことなのに。
 返る声は、穏やかなものだった。
「妙なことを聞いてすまなかった。大丈夫だ」
 一二三は俯き、胸の前で小さく手のひらを握る。
「……いけませんね、私、動揺してしまいました。本当は、気付いていたのに」
 こちらを見上げた泣きそうな微笑に、妙に落ち着いた気分でいられるのが不思議だった。つらつらと、言葉が唇から溢れる。
「俺は先生に……かつての師に、強い恩義を感じていた。唯一の家族だと、思ったこともあったかもしれない。だからこそ彼が間違っているのだと信じることができなかったし、糾弾もできなかった。彼のしてきたことから、目を背けてきた」
「それを変えたのが、来栖さん……?」
「暁が、そう言ったのか?」
「いいえ?」
 一二三は曖昧に笑う。ただなんとなく〝そんな気がした〟それだけだった。そして続ける。
「長い時間を掛けて培われた感情は、善悪や真偽といった理屈によってそう簡単に覆せるものではないのではないでしょうか。それが根深いほどに──」
 祐介について考えているのか、自分の心情を吐露しているのか、よくわからない。どちらでも良いとも思える。
「それで、良いのだろうか?」
「わかりません。私には、答えを出せない……」
「フ、俺もだ。斑目がいなくなった今でも、な。明るみに出ないだけで、実際にはある程度存在しているものなのだろうか。俺たちのような人間は」
「俺たち、ですか?」
 驚き瞠った目をぱちぱちと瞬く、表情になぜか祐介は得意になる。
「気に障ったか?」
「いいえ、とても嬉しいです。話し掛けてみて、良かった」
「ふ。愛らしいな」
 気取った風のない、野の花の綻ぶような微笑に、率直な感想が口をついた。相手がどう捉えるかとは、さほど気にする性分ではない。
「えっ?」
 言われ慣れたはずの言葉が奇妙に胸に引っ掛かった。彼がそれを言うのを意外だと感じたのかもしれない。と思えば
「意外だった」
 と口に出したのは祐介の方だった。
「君は理知的で、周囲より随分と落ち着いて見えるからな。……どうした、なにが可笑しい」
「ふふ、いえ、喜多川さんには言われたくないですね」
 口元に手を当てて笑い、瞳を細める。長年将棋を指してきた賜物か、一二三は基本的に頭の切り替えが早い。俄かに齎された動揺も既に処理されていた。
「あの、よろしければ連絡先を交換しませんか?」
「望むところだ」

「そうだ暁、将棋を教えてくれないか」
「なんでまた、突然」
 将棋で真っ先に思い浮かぶ人物はいるが、祐介がそれを言うのは意外だ。暁はカウンター越しに、コーヒーカップを手にした祐介を見遣る。
「最近学校で東郷一二三と話すようになった。お前から俺の名前を聞いたと、あちらから声を掛けてきたことが発端だ」
 ああ、と思わず呟く。既に忘れ掛けていた程度のことではある。
 祐介が学校でどう過ごしているか知りたかったのだ。
 暁にとっては愛すべき人間も、端から見ればエキセントリックな芸術家肌であることは重々承知している。友達はいるのか、周囲に(が)ついていけているのか──本人に訊いたところで客観的な答えが得られると思えなかったので、同じ学校だという一二三に尋ねてみたのだった。
 その時は大した話は聞けなかったが、それがきっかけで友達になれたのなら良かったと思う。
「一二三から、何か相談されたとか?」
「相談があればお前にしているだろう。雑談のようなものだが、彼女と話しているうちに将棋に興味が湧いてな」
「新しい着想に繋がるかもしれない?」
「そんなところだ。一二三は忙しいだろうしな」
 〝一二三〟と名前で呼ぶほどに親しくなったのか、或いはこちらに釣られているだけで深く考えてはいないのか。
「俺も復習になってちょうどいい……かな。じゃあ、ちょっと待って」
 暁がスマホを操作すると、祐介のポケットの中でメッセージの着信音が鳴った。
「?」
「そのURLにあるアプリを落としてくれ。俺が振り返りに使ってる将棋ゲームだ。一人で練習もできるし、対局もできる」
「振り返り学習をしているのか、感心だな。一二三にも伝えておこう」
 祐介は頷きながら、画面の指示の通りにアプリの登録を進めていく。
「あんまり出来が悪いのも、講師に申し訳ないだろ」
「できたぞ」
「貸して」
 暁は祐介からスマホを取り上げる。フレンド登録をして、対局モードに自分のIDを設定した。
「最初から対戦……対局か? スパルタだな」
 祐介は返されたスマホの画面を見て呟く。画面には将棋の盤面が表示されていて、どこかで見たことのあるような形に駒が並んでいる。
「まだソラで講義できるほどじゃないから、このほうがやりやすい。とりあえず今回は俺が先手だ。駒を選ぶと、動かせる範囲が光って表示されるから──」
「なるほど。ガイドが出る分初心者にはわかりやすいかもしれないな」
 自分の画面を見せ、或いは祐介の画面を覗き込んで。駒の種類と動かせる範囲について教えながら、交互に駒を動かしていく。
 暁は自分の駒を、隣接する祐介の駒に重ねた。
「こうして相手の駒に自分の駒を重ねると、取ることができる。相手の王手を取れば勝ちだ」
 しれっと駒を奪われて、祐介は細い眉の片方をぴくりと跳ね上げた。
「なんだと……そういうことは先に言ってくれないか……!」
 怒っている。負けず嫌いなのだ。思わず笑ってしまった。
「ごめん。いや、今回は勝ち負けじゃなくてチュートリアルだからな?」
「ううむ……」
 そうだ、一二三の手ほどきを受けた暁に最初から勝とうと思うことが間違いだ、この回は学習あるのみ──気を取り直して駒を進める。
「へえ、そう来る」
「お、効果的だったか」
 深く考えずに置いたようだったが、祐介が嬉しそうなので良いのだろう。しばらく手を進めていくと、祐介が首を傾げた。
「投了? なんだ、これは」
「どうした?」
「お前の画面には見えていないのか? これだ」
 祐介の画面では〝投了〟のコマンドが選択可能になり、アピールするかのように点滅していた。暁の方はそうはなっていない。
「祐介は極めて不利、俺がよほどのミスをしなきゃまず負けるだろうって状態だな。投了のコマンドを選べば、俺が王手を掛けるまで待たなくてもゲームを切り上げることができる」
「くっ、自害しろということか……!」
 心底苦しそうに言った祐介に、思わず笑ってしまう。
「死なないでくれ。機械的に判断されてるものだろうから、もちろん俺のミスを願いながらゲームを続けるのもいい。そういう意味で、投了コマンドは自分にしか見えないようになってる」
「なんと……つまり俺はみすみす手の内を明かしてしまったということか」
「そうなるね。……祐介?」
 祐介は俯き、額に指を当てて肩を震わせている。
「ク、クク……自害などしてたまるか」
 不穏に呟いたかと思うと、顔を上げてカッと目を見開いた。
「我が軍は不滅! いくぞ、特攻だ!!!」
「だから、死なないでくれ……」
 暁は落ち着き払って祐介の軍を鎮圧していった。こういったノリには耐性がある、惑わされたりなどしない。まさしく一二三の講義の賜物だった。
『勝者・ジョーカー』
 画面の文字と蹂躙されつくした盤面を眺め、祐介は苦々しい顔をした。
「ふむ……目先だけでなく、短時間のうちに更に先の手まで予想して動かす必要があるということだな。意外に忙しいゲームだ」
「駒を置くまでの持ち時間は設定できるんだ。さっきのは短めにしてある。名人戦なんかは長い持ち時間でじっくりやるらしいが、俺たちくらいじゃ考えすぎてもしょうがないし、短い方が遊びやすいだろ?」
「なるほど、一二三が時間を気にするわけだな。……よし、ではもう一戦やろう」
 どうやら将棋に面白みを感じたようだ。暁は頷き、既にアプリに送られてきていた対局リクエストを開いた。

「君には視えるだろうか、この死屍累々の荒野が……」
 敗北の●だらけの対局結果を眺め、祐介はぐったりとカウンターに伏せた。
「見えないな。しょうがないだろ、今日は最初なんだし。むしろ俺が全勝しなきゃいけないくらいだった」
 一つ勝ちを譲ってしまった。祐介は想定外の場所に駒を置いてくることが多い。初心者でセオリーを知らないせいなのか、彼特有のセンスなのかはまだわからない。ただ、先が読めない分ハラハラして面白かったし、結果の勝敗数ほど一方的な対局でもなかったと思う。
「祐介、筋がいいのかもしれない。一二三が時間ありそうな時に教わってみたらどうだ? 引き続き俺も教えるけど」
「本格的すぎて、ついていけないのではないだろうか」
 とは言ったが、祐介は一二三の練習の時間を奪ってしまうことを気にしていた。自分が絵を描く時間を大切にするからこそだ。
「大丈夫だって、俺でも平気だった」
「お前は器用すぎるのだがな」
 無論祐介と一二三の都合に任せるが、もしあの二人が対局したなら──どう考えても面白い。無責任な興味本位の提案だった。

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