初陣

ネッド×エミル初めての迷宮探索 [ 8,693文字/2018-05-29 ]

「さあ! いよいよ冒険の幕開けだ♪」
 湖畔の街オーベルフェ。エミルが待望した人間の街は、世界樹を目当てにした観光客と冒険者とで賑わい、明るい活気に溢れていた。妖魔が入り込み危機が迫っているなどとは到底思えず、雑踏の中を歩くだけで楽しい気分になる。
「若、遊びに来てるわけじゃないんですよ?」
「わかってるって♪」
 冒険者登録は済ませた。滞在する宿は主にネッドの提案でこじんまりとしたところに決めた。二人の暮らした精霊族の里に比べ、ここは随分と人が多い。休む時間くらい落ち着ける場所が良いと考えたのだ。エミルは「旅の情報収集だ!」などと言って規模の大きく人の多い宿に泊まりたがったが、それには若干の懸念があった。
「若、お名前は?」
「カナハルタ王国の王子! エミル!」
「ふむ、上出来です」
「うふふ〜どきどきするね♪ 正体を隠して秘密任務なんてさ♪」
 ネッドは深く溜め息を吐いた。二人は世界樹を守る精霊族ということを隠し、飽くまで人間の一冒険者として行動する手筈になっている。
「余計なことは言わなくていいんです。正体とか秘密とか言ったら、いかにもなんかありそうじゃないですか」
 人が多い場所ならばエミルが口走る〝余計なこと〟が誰かの耳に入る機会もそれだけ増える。それを避けたかったのだ。
「こんな個人的な会話なんて誰も聞いてなくない?」
「そういうのが」
「あーはいはい、なんなんだよおまえだって外に出てくるの初めてのくせに」
「知識だけなら若より何十倍もあるはずですよ。本ばかり読んで過ごしてましたからね」
 加えて、旅立つことが決まってから冒険の役に立ちそうな知識を詰め込んできた。実践が伴っていなかろうが、無知より遥かにましなはずだ。
「ていうわりに全然準備できてないじゃん」
 エミルはネッドの姿を頭の天辺から足の爪先までまじまじと見つめた。いつもとほとんど変わりなく、呪術師の呪術的なアイテム(鎖につけたタリスマンとベル)を身につけて、手に杖を持っているくらいだ。
「いえ、準備できてますけど?」
「そんなかっこで迷宮に行くの? 買ったものは装備しなきゃ意味ないんだよ」
 両腕を広げ、自分の防具を指し示す。それらはここに来てから買ったものではなかったが、要はネッドが軽装すぎると言いたいのだ。
「私、鎧は重すぎてダメなんです」
「なにそれ! 貧弱だなぁ」
「術師なんてみんなそんなもんだと思いますよ」
「ほんとに? それで平気なの?」
「無理に鎧を着たって歩けなきゃ仕方ないでしょう。私は基本的に後ろにいますので……」
「まあそれもそうか。よし、僕がネッドを守るぞ♪」
 エミルは意気揚々と盾を掲げた。微笑ましく感じながらも、ネッドの内には猛烈な憂いが生じる。人間として振る舞う都合上、一族固有の特殊能力である白障壁の使用や使い魔の召喚は特別な緊急事態を除いては禁止だ。もっとも、里の中に暮らしていれば使うことのない能力であるため、許可されたところで使いこなせるかどうかは怪しいところだった。
 よもやエミルを自分の盾にしなければならないとは──族長曰くエミルに経験を積ませるためとのことだが、スパルタが過ぎるのではないだろうか。

 二人の目的はこの街に入り込んだ妖魔の動きを掴み、排除へ導くことだ。妖魔は人間に姿を変えて世界樹への道筋を探っているということだから、まだ何も掴めていない二人もしばらくは世界樹を目指して行動することになる。
「船だ! 乗ろう! ねえネッド、船!」
「はいはい」
 世界樹とその道程である不思議のダンジョンは湖の向こう岸だ。せがまれずとも、もとより船に乗る予定で桟橋に来たのだ。
 はしゃいで船に乗り込むエミルを眺めながら、こうしてのんびりと観光しているうちに同胞の誰かが妖魔を討伐してくれないものだろうかと無責任なことを考える。エミルの付き添いとしての使命感はあるものの、裏を返せばそれだけでしかなく、新鮮な冒険にも一攫千金にも興味はないし、自らの手で妖魔を討たねばという気概もないのだ。
「第一迷宮は森林の遺跡だって。森ならよく知ってるから楽勝だね♪」
「油断大敵ですよ」
 そんな会話をした他は景色の話、湖の水がきらきらして綺麗だとか、魚がいたとか他愛のない話をしながら船に乗っていた。不用意な発言を避けたというよりは、単にエミルの興味の矛先だったのだと思う。
 やがて二人は第一迷宮の入り口に辿り着く。
「わぁ〜! すごい! やばいねこれ! 本物の遺跡だ!!」
(まあ〝森林の遺跡〟ですから……)
 それを言うほどネッドも野暮ではなかった。目の前に広がるものは彼らの見慣れた自然のままの森林ではなく、入り口から既に遺跡の壁や柱が覗き、木々はそれを避けるように幹を畝らせて伸びている。差し込むまだ明るい光と鮮やかな緑が、前のめりのエミルの好奇心を一層煽った。
「どんなオタカラが手に入るかな♪」
「最初ですから、あまり期待しないほうが良いかと」
「もうネッド、つまんないこと言うなよ」
 エミルは目を据わらせたが、視界の端に気になるものを捉えて表情を一変させる。
「あっウサギだ♪」
 後ろ姿ではあるが、薄緑の体に長い耳を持つその姿はウサギのようで、丸く大きな尻尾が愛らしい印象だ。近付くエミルに気付いたウサギは臆病な印象に反してこちらに向かって来る。
「かわい……くない! あ痛っ! 噛むな!」
 意外に大きな体と吊り上がった凶暴な目をしたウサギは、有無を言わさずエミルに飛び掛かった。
「わっ若! それ魔物ですよ!」
「えっ魔物!?」
「ほら剣で! バッサリ!」
「あっそうか! バッサリ!!」
 ネッドに言われるまま、握り締めていながら存在を忘れていた剣を思い切り振った。肉を斬る重い手応えに一瞬怯むが、相手は魔物だ。思い切って振り抜くと地面に身体を叩きつけられたウサギは小刻みに痙攣したのち、絶命したようだった。エミルは安堵の息を吐く。
「ふう。世の中にはかわいくないウサギもいるんだね」
「この先そんなのは沢山いるはずですよ。……というかほぼ魔物だと思うので、くれぐれも慎重にいってくださいね」
 剣の稽古は受けてきたものの、小動物としか思わなかったものに対して反射的に攻撃する発想に至らなかった。魔物だろうが他の動物であろうが、こちらに攻撃してくるのならば倒していかなければならない。ネッドの言う通り、慎重になるべきなのだろう。
「はーい……で、ネッドは何してんの」
 ウサギのそばにしゃがみ込み、何やら探っている様子のネッドにエミルは怪訝な顔をする。
「これ。森ウサギの前歯です」
「ネッド何、歯フェチなの? 昔僕の歯かわいいって言ってなかったっけ?」
「鍛治の素材ですよ。売ってお金にするんです」
「死体漁りかぁ〜。ま、冒険者生活のためには仕方ないね♪」
 緊張感はないが、エミルが単純な──シンプルな性格で助かるとも思う。小言ばかりでなく、自分も気を引き締めていかなくてはならないだろう。

 ──パリンッ
 エミルの足の下で、青と黄色の半透明の膜が軽快な音を立てて割れ、光の粒子が漂った。
「ねえ、これなんだろう?」
「って、踏んでから聞かないでくださいよ。それは結晶床。踏むと気力が回復するそうです」
「気力? やる気ってこと?」
 パリン、パリン、踏み心地が気持ちよくて、エミルは辺りを踏み荒す。
「私たちが術を使うときに必要なものです。若にも無関係ではないですが、今は必要ないんで不用意に踏まないでください」
「どうしてだめなのさ? ネッドも踏んでみなよ、楽しいから♪」
 言いながら、次の結晶床を踏もうと一歩前進したときだった。
 ──カチッ
 足元で嫌な音がした。見遣ればエミルの足元、草の中に金属の台座が見える。ネッドは思わず叫んでいた。
「罠っ!」
 思い切りエミルの腕を引くと、元いた場所をどこからか飛んできた矢がすり抜けていく。
「ネッドさっきさ、若って呼ぼうとして罠と混ざったんじゃない?」
 ネッドは溜め息を吐く。
「どうでもいいでしょ、そんなことは……ともかく、用もない場所を踏まないこと。今みたいに罠もありますし、お腹も空きますし、必要なときに結晶床を使えないと困りますからね」
「はーい。ネッド、しっかりしてるね?」
「予習してきましたから」
「頼もしい♪」

 その後も巨大テントウムシだオオトカゲだと騒いでは戦い、宝箱に盛り上がり、中身に落胆し。採集や伐採をして素材を集めつつ、二人は迷宮を進んでいった。エミルの振る舞いも大分さまになってきた──と、なぜかネッドのほうが満足感に浸る。
「ねえお腹すかない? そろそろお昼じゃない!?」
「そうですね。ちょっと休憩しましょうか」
 迷宮の外の時間はよくわからなかったが、異論もない。エミルはよく動き回っていたから特に腹が空いているだろう。魔物がいなくなり小鳥の囀りが聞こえるようになった大部屋の切り株に腰掛けて、宿屋の店主・コヌアから持たされた弁当を広げた。
「わあ〜いおべんとおべんと♪」
 四角い弁当箱に綺麗に詰められた惣菜は、素朴な味わいから優しさが沁みるようで、腹を満たすだけではない癒しを二人に与えた。
「あのひと、良い人間だね♪」
「まあ、そう見えたのであの宿にしたんですけど……しかし人間には悪い精神を持った者もいるのでくれぐれも」
 小言の始まる気配を察して、エミルは木々の間から漏れ入る光を見上げた。
「いやあ、気持ちいいね。魔物さえ出なかったらすごく綺麗でいいところなのにな」
「……そうですねえ」
「迷宮の魔物って、世界樹を守るためにいるのかな? だったら僕らに攻撃するのやめてくれないかな!? そしたら倒さなくても済んで、お互いイイことしかないじゃないか♪」
「いや……もしこの迷宮と魔物が置かれた理由が世界樹を守るためだったとしても、魔物たちは本能で動いてるだけじゃないですかね」
 少なくともここまでに遭遇した動物や昆虫の魔物には、目的意識があるようには思えない。
「そうなのかな〜……あれ、ネッド、手が傷だらけじゃないか!」
 不意に目に入った、フォークを持つネッドの手には赤い筋状の傷がいくつも付いていた。
「おや、いつの間に」
 エミルと周囲に注意を向けるあまり自分でも気付いていなかった。草木にでも擦ったのだろう。
「もう、素手出してるからそうなるんだよ。僕の貸そうか?」
 自分のガントレットの留め具をいじりだすエミルを、ネッドは仕草で制する。
「いえ、それは若のものですし、私には重たくて無理かと……それに、大袈裟ですよ。ただの擦り傷です」
 しかしエミルはひどく居た堪れず、落ち着かない気分だった。自分はこんなにも鎧を着込み盾を持って身を守っているのに、ネッドはいつもとほとんど変わらない格好でいる。そして自分はネッドの傷に今まで気付かなかった。ここにくる前にも話していたことではあったが、ネッドの物理的な脆さを改めて実感する。
「じゃあ、帰ったら手袋くらい買お。迷宮で集めたもの売ったらお金になるんだろ」
「ええ。集めた材料で新しい装備品も作ってくれるそうですよ」
「よし! それじゃもうちょっと探索していこ♪」

 ──カチッ
 不用意に歩いたつもりではなかったが、足元にまたもや嫌な感触があった。地面を見ると魔物を想像させるモチーフが紫色に浮かび上がり、エミルは煙と共に突如現れた魔物達に四方を取り囲まれていた。
(えっ!? ええっ……!?)
 既に見慣れた魔物ではあってもいずれも攻撃範囲に入ってしまっていて、分の悪すぎる状況だ。咄嗟のことに頭の中は真っ白で、どうしよう、どうしよう、とばかり繰り返す。その裏で、低く呟く声とベルの音が聞こえた気がした。
「!?」
 一匹、また一匹と魔物はその場に倒れ臥し、とうとう全員が意識を失ってしまった。
「起きないうちにやっつけちゃいましょう」
「これもネッドの術!? めちゃくちゃすごいな!?」
 驚くのもそこそこにして、ネッドに促されながら容赦なく魔物の息の根を止めていく。今は無抵抗だとはいえ、目を覚ませば再び襲い掛かってくるのだから仕方がない。
「──ネッドって実は最強なんじゃない!? 僕、ぜんぜん知らなかったな」
 素材を拾うネッドを眺めながら、エミルは呆然と呟く。過去にも彼に助けられたことはあったし、ここに来てからも後方からの支援攻撃はしてもらっていた。しかし改めて圧倒的なものを見せつけられた気分だった。
「まあ、平和な里の中で私の力なんて使う機会ないですからね」
 さらりと言った、いつも通りのネッドの姿と、重厚な装備に包まれた自分の手を見比べる。
「僕って守られてるだけで、何にもできないような気がしてきた」
 ネッドを守ると意気込んで迷宮に乗り込んだが、実際は逆だ。罠を踏むのはある程度仕方ないにしても、不慮の事態に何をすることもできず立ち竦んでいたことを思うと狼狽えてしまう。
「そんなことないでしょう。私には剣も盾も持てませんし、術ばかり使っていてはすぐにバテてしまいますから、若がいないと困りますよ。さ、行きましょう」
「うん……」
「浮かない顔ですね。疲れているなら切り上げるのもありですよ。なにも一日で踏破する必要はないんです」
「疲れてないよ。僕は動けない魔物を斬っただけだし」
 エミルは拗ねるという以上に深刻に消沈しているようだ。
(どうしたらよいものか……)
 立場的にも、能力的にも、本来エミルは最前線で力を発揮する存在ではない。彼の力は敵の精神に作用する呪術とは正反対で、味方を鼓舞して隊の士気を上げるものだ。
 しかし現在、エミルの味方は後衛のネッドのみだ。無論ネッドもエミルの恩恵を受けていないわけではないが、如何せん目に見えにくく、エミルが実感を得ることも難しいだろう。族長もそのことに気付かなかったわけはないと思うのだが──族長は楽観的なのではなく、実は大層底意地が悪いのではないだろうか。エミルを試し、消沈させて、二度と外に出さないつもりではないか──そう考えてしまうのは、エミル曰く自分が「ネガティブすぎる」からなのだろうか。
 そんな遣り取りから、さほど経ってはいなかっただろう。
「……!?」
 エミルの頬のすぐ横を、ネッドの放った黒い渦の塊が掠めて飛んでいく。顧みるとその先で、魔物が小さく悲鳴を上げて息絶えていた。完全に意識の外にあった危機に汗が出る。
「あ……ネッド、ごめん」
 咄嗟に謝ってしまってから、首を横に振った。
「ありがと。……今日はもう帰ろっか」
 動けないわけではないが、完全に集中力が切れている。これ以上滞在しても、危険を招いてネッドに助けられることの繰り返しになってしまうだろう。
「そうですね、ちょうど持ち物も一杯です。初日の首尾としては上々でしょう」
 ネッドは穏やかに微笑する。わらっていると、よく見慣れたエミルだから判断できる程度の表情ではあった。
「ネッドはやさしいね。やさしくて、強いんだ」
「えぇっ!? いやあ、そんなことないと思いますけど……」
 ネッドはエミルの言葉に本心から狼狽える。つい先ほど、彼の父親の性格をよろしくないと考えていたばかりなのだ。
「僕がびっくりして動けなかったときだって、すぐに反応してただろ。ネッドだって冒険は初めてなのに」
 今回の探索でも、そして幼かったあの頃も。
「……私はあまり、恐怖を感じないんだと思います」
 事実、昔から死を意識しても、それを恐ろしいと感じたことはなかった。現在についていえば、迷宮の中でエミルを残して容易に死ぬわけにはいかないという程度の自覚はある。
「勇気があるってことだ」
「そんな大層なもんじゃないと思いますよ」
 ネッドは薄ら笑う。自分では、人より感情や本能的な部分で欠けているところがあるのだろうと思っている。
「僕ももっと勇気を出さなきゃ!」
 拳を握るエミルは意気を取り戻したように見える。しかしネッドはそれも善しとは思えず首を横に振った。
「ふたり旅なんです、ゆっくりいきましょう。他の冒険者だってまだ大して進んでません」
 先行するギルドには軒並み妨害が入っているはずだ。エミルには時間を掛けて慣れていって欲しいと思う。期待や自信を持ちすぎれば落胆も大きくなる。一見強いようでも、強硬なばかりでしなやかさが伴わなければ簡単に折れてしまう。
「若、あなたがいるから私は戦える。それがあなたの力です」
「えっ、なに? いきなり」
 話が繋がっていないような気もするが、悪い気はしない言葉にエミルは不思議そうに目を瞬く。
「まあいいや、ともかく迷宮はまた明日だね。いでよ、アリアドネの糸!」

 船着場まで戻ると、緊張が解けたのだろう、ネッドは身体にどっと疲れが押し寄せると感じた。そこから宿屋までは実際の距離以上に長く、億劫なものだった。
 部屋のソファでぐったりとしていると、コヌアと話してきたらしいエミルがにこにこしながら戻ってくる。
「ねえネッド聞いた? この宿、露天風呂があるんだって♪」
「わ、私は部屋のバスルームを使おうかと……」
「なんでよ! 今更裸を見せるのが恥ずかしいワケじゃないだろ?」
「それは〜そうなんですが〜〜」
 疲れているのだ、一人で風呂に入ってさっさと体を洗って寝たい。これ以上イベントを起こしたくなかった。
 コン、コン──ドアをノックする音の後、コヌアの声が聞こえる。
「お二人とも、お風呂の準備ができましたよ」
「はーい今行きまーす! ……ほら、人の善意を無駄にできないだろ!?」
「いや〜若が露天風呂を使えば無駄にはならないかと……」
「いいから! 行くぞ!」
「はあ……」
 疲れを知らぬ様子のエミルに引っ張られ、ネッドは露天風呂に連行されていく。
「体洗いっこしよう♪ あっでもエッチなことはしちゃダメだぞ♪」
「しませんよ、大浴場でしょ……?」
 言いながら脱衣所で手際良く服を脱ぎ、洗い場へ行って互いの身体を濡らし、泡をたてていく。ここまで来てしまったら、渋るより大人しく従うほうが早いという判断だ。
「あ゛〜、いいねえ……♪」
 汗を流し、泡だらけの体を擦られるのは気持ち良いのだが、相手がネッドだと思えば別種の気持ち良さも求めたくなってしまう。二人とも泡だらけのこの状態で抱きつきたい。いやだめだ。
「あぁ〜っ! これエッチなことしないの難易度高くない!?」
「ダメですよ、他の人も使うお風呂なんですから」
「わかってるけどさあ! はぁ〜萎えること考えよ」
 ネッドは自分の体の反応の鈍さに感謝しつつ、そして極力余計なことを考えないようにしながら、エミルはぶつぶつと念仏のように数式を唱えながら、互いの体を洗っていった。

「おぉ〜っ! いや、すごい眺めだね♪」
 エミルは露天風呂に入るや奥側へ進み、岩に手をつき身を乗り出して世界樹を眺める。
「そうですねえ……」
 ネッドもまた同じ方向を見て呟く。沢山の星を散らした空は意外なほどに明るく、しかし昼間の色とは全く異なる深い青色をしていた。精霊族の里と繋がった、同じ空の下にいながら、随分と遠くへ来てしまったような実感がある。独り森に篭っているだけだった自分が、よもやこんなところにまで来てしまうとは。
「世界樹、辿り着けるのかな〜」
「……まあ、なんとかなるでしょう」
 二人の真の目的は世界樹への到達ではないが、ここでそんな話をする気もしない。ネッドはゆっくりと腰を下ろし、湯に浸かって深く息を吐いた。初めこそ渋ったものの、開放された空気に触れながら体を温めるのは非常に新鮮で心地よいものだった。疲れがみるみる癒されていくようだ。
「なに、その適当な。そういやネッド傷しみない?」
 エミルはちゃぷんと音を立てて体を湯に沈め、思い出したように言った。ネッドは苦笑する。
「大袈裟ですよ、ちょっと薬草貼ってたら治りました。小さい頃の若の方が、もっとずっと傷だらけでしたよ」
「そうだっけ? まあ大丈夫ならいいけど♪」
 エミルはにこりと笑い、ネッドに凭れるように体を寄せる。肩、二の腕、湯の中の大腿部などがぴたりと触れる。
「……」
 しばらくそうしていたが、不意にネッドがエミルから離れるように、少し右へと移動した。エミルも同じように移動して再び体をくっつける。
 少しすると、やはりネッドはエミルから離れるように体をずらす。
「なぜ逃げる!?」
「いえ……少し、暑くて……」
「もうのぼせたの? 上がったら?」
「若こそ、そろそろ上がられたほうが良いのでは?」
「なんで!?」
 エミルは訝しげにネッドの顔を覗き込む。ネッドは居心地悪そうに視線を逸らす。珍しく仄かに色づいた顔色は、温泉のせいだろうか。そしてエミルは揺れる湯の中に変調を見出す。
「!!」
 手を伸ばすと、ネッドの腰の上に平常時ならばあるはずのない硬い感触を見つけ、思わずネッドの二の腕をバチンと叩いていた。
「あ痛っ!」
「もうネッド、なに変なこと考えてんだよ♪」
「なにも考えてませんけど! 身体が勝手に!!」
 あまりに不覚だった。そんなことになってはいけない、と強く意識しすぎたのも逆に悪かったのかもしれない。
「それじゃ一緒に上がろ。誰か来たら僕がこの身を盾にして隠すから♪」
「そんな……そんなオチって……」
「で、部屋に戻ったら僕が鎮めてあげるからね♪」
「そう……なりますよね……」
 何もして貰わなくとも放っておけば収まるものだが、予想通りエミルは見逃してはくれなかった。昼間消沈していた分を取り返すかのように張り切って、感謝の気持ちと言って散々搾り取られ、翌日ネッドは屍のような風情で朝を迎える。

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