オヤスミナサイ

ネッド×エミル第八迷宮へ。シリーズ時系列はとりあえずこの話で終わり。 [ 3,817文字/2018-05-31 ]

 妖魔の所在は掴んだものの、精霊族は攻めあぐねていた。
 人間の少女に扮して新人ギルドに同行するそれを、悪しき妖魔だと糾弾したいところだったが、いかんせん妖魔も精霊も噂としての認知しかない状態であるし、こちらの正体を明かすわけにもいかない。相手が少女の姿をしているだけ、下手を打てばこちらが悪とみなされるだろう。便宜上〝新人ギルド〟と呼んではいるが、彼らは今や街でトップのギルドだ。敵対すればこちらに危険が及ぶことも十分に考えられた。
 やがて第七迷宮・畏怖の山を抜けた先の世界樹の麓で、妖魔は自ら冒険者たちの前に正体を見せる。これは精霊たちにとって都合の良いことだった。結果的に掟を破って能力を晒し、エミルとネッドの正体も明かしてしまうことになったが、背に腹は変えられぬといったところだ。
 世界樹の麓は何もない荒野だった。存在しない世界樹に妖魔が入り込むことはないのだから、これで一件落着──となるはずもなく、族長への報告を終えたエミルとネッドは再びオーベルフェに戻って来ていた。
「ニセモノの世界樹があるのは、ホンモノを隠すためだよね♪」
 件のギルドが新たな迷宮への入り口を発見したこと、その後湖で少女が姿を消したという情報を得て、二人は船着場から世界樹側へと渡って湖畔に立っていた。
「湖の中に入り口があるってことだけど、ほんとなのかな」
「デマではないと思いますが……彼らの戻りを待ちましょうか? って若!」
 エミルはネッドが話し終わる前に、靴も脱がずにじゃぶじゃぶと湖の中へ進んでいく。
「今更何言ってんだ、行くに決まってんじゃん♪」
「逞しくなりましたね」
 オーベルフェに来たばかりの時のことを思い出す。幼い頃、怖れを知らない様子だったエミルに非常に戸惑った記憶があるから、ここに来て魔物に怯み、迷いを見せたエミルに対してネッドは密かに安心したところもあった。悪趣味だろうか。
「なんか、おまえに言われたくはないってかんじ……」
「ええ? あ、待ってくださいよ。置いていかないで」
 ネッドは湖を進むエミルの後を追う。脚に防具を着けたままのエミルも大概だろうが、体力のないネッドにとって、水を吸って重くなったローブの裾を脚に纏わせながら歩くことは非常に困難だった。
「やばいね、これ。辿り着けるのかな?」
 前に倒れ込みそうになりながら自分の横に並んだネッドの身体を支え、エミルは呟く。
「ま、行くしかないんだけどね。ネッドもついてきてくれる? 今ならまだ、引き返せるけど……」
 迷いはなかった。ネッドは深く頷く。
「当然、お供しますよ」
「よっし♪」
「あ痛っ! 何するんですか!」
 ネッドの胴体を縛るように巻かれた赤い鎖に、エミルは脇から自らの腕を通していた。腕に防具を着けたままで無理矢理捩じ込むものだから、当然ネッドの体はきつく締め付けられて痛みを帯びる。防具に覆われていない肘上まで腕を通し切ってしまうと、多少窮屈な程度で落ち着いた。
「急に流されたりして、はぐれたら困るだろ。今だって足が重くて、地面みたいに自由に歩けないんだから」
 今のところ、湖の水は風を受けてささやかに波立つ程度ではあるが、これから向かおうとする先は普通の場所ではない。何が起こるかわからないのだ。
「なんか、身体を括るものを持ってくればよかったね」
「いやぁ〜、まあ、大丈夫なんじゃないですか……?」
 斜め上を見上げて言った、ネッドは内心ひどく動揺していた。二人で体を括って水の深くなる方へと歩いていくなど、まるで入水心中するようではないか。
(ああ、非常によくない……これは、まったく、いけないことだ……)
 狼狽は、その想像を不吉と感じるせいではない。むしろ逆だ。これまで考えたこともなかった、甘美で背徳的な〝永遠〟の可能性。冷えた体が途端に滾り、熱くなる。性的な交接を凌駕するほどの興奮を実感し、ネッドは思わず身震いしていた。
「ネッド? 寒いの?」
「い、いえ……行きましょうか」
「うん♪」
 寄せた肩からはまだじわりと温もりが伝わって、握る手のひらは冷めた革の感触ではあったが、その中にある柔らかな皮膚を想像すればやはり愛しかった。
 身を寄せ合いながらゆっくりと進む、水深はどんどん深くなる。
「深いところに落ちたら、きっと僕の方が先に沈むよね」
「一緒でしょう? こんなにがっちり絡まってたら」
 胴体も手足も装飾の施された防具に包まれた、エミルの方が重いのは当然ではあったが、その腕は相変わらずネッドの鎖にしっかりと差し込まれている。簡単に抜けてしまうこともないだろう。
 エミルの重さで我が身が沈んでいくと考えると耐え難いほどに心が騒ぐ。もし今心の内を覗かれたなら、過去に起こった何よりも軽蔑されてしまうだろう。
「それもそうか」
 体はもはや冷たいとも暖かいとも感じなくなっていた。自分の体温もエミルの体温も水温と変わらないと思えば、むしろエミルの中にいるような感触すら得る。
「ネッド、海好きなの?」
「え?」
「なんだか楽しそー」
「いえ……ここは湖ですし……」
 全く答えになっていない言葉を返してから、ほどなくしてのことだった。
「うわっ!? ぁぐっ!」
 悲鳴とともにエミルの全身が水の中に落ち込み、ネッドもまた強く水中に引き込まれる。
 エミルが混乱した様子で激しく手足をばたつかせて暴れるのに対して、ネッドは──苦しくないわけではないものの──妙に冷静に状況を受け止めていた。安心できれば多少は落ち着くかと、エミルを力いっぱい引き寄せ抱き締めるが状況は変わらない。苦しいだろう。恐ろしいだろう。
(エミル、私の目を見て、こえを感じて)
 強く念じながら、エミルの頭を強引にこちらに向ける。揺れる瞳は恐怖の色に染まっていた。
(大丈夫。怖くない、苦しくない、これは夜眠るのと同じこと──)
 水中で広がり翻ったネッドのローブが、大きく腕を広げるようにエミルの全身を包み込む。穏やかな表情で意識を失ったエミルを重りにして、ネッドの体は沈んでいく。遠退く意識の中、美しく漂う金の流れの向こうに白い水の渦が見えた。どうやら渦に引き込まれるように流されているようだ。
(若、私もそろそろ……)
 瞼の重さに抗わず目を閉じる。愛しいひとの重さに沈み、体温に溺れ、臓腑も満たされて、やがて二人は形を失い一つの同じ水になる。幸福な結末だ。

 ひどく呼吸が苦しい。息が通らないだけでなく、胸を強く圧迫されているようだ。
「ネッド、ネッド起きて!」
 ぺちぺちと頬を叩かれる軽く鋭い痛みと交互に呼吸を塞がれる感覚があって、目覚めそうになる意識がそのたびに遠退く。
 ──ぺちぺち!
「ネッド!」
「ぷはーっ!!」
 異様に重い上体を思い切り起こしてみると、エミルが覆い被さっていたようだった。
「ネッドやっと起きた! もうっ心配させるなよ!」
 言いながら抱きつき、胸に顔を埋めてくるエミルの背を撫でながら、ネッドは状況を呑み込みきれないままで呟く。
「いえ、若は一体なにやって……」
「人工呼吸だよ、キスした衝撃で目覚めるやつ!」
 何の疑いもないように言い放つエミルに、今度は胃が痛くなってきた。
「いや、それ多分やり方間違ってますねすごく苦しかったので……」
「いいじゃないか目覚めたんだから♪」
「まあいいですけど、他の人にはしないでくださいよ?」
「んもう嫉妬して♪」
「いやー、そういうわけじゃないんですけど……」
 それにしても、と二人は申し合わせたかのように同じ動作で周囲を見回す。
 青み掛かった視界には水面の反射のような緩やかな光が波打って、時折気泡のようなものが地面から上へと揺れながら昇っていく。幻想的で美しい光景は、まるで水の底にいるかのようだった。
「ここは水の中? 僕ら、どうやって息してるんだろう?」
「我々の体のしくみが一瞬で変化するとも思えませんから、水中のように見えるだけだと思いますが……?」
 辺りの岩は絵で見たことのある水底のそれのようで、生える植物も海藻に類似して見えるが、それらも先入観の賜物なのだろうと思う。今まで世界樹を眺めた全ての人々が欺かれてきたように。
「まあいいや、よし、無事に入れたしビクトルを呼ぼう」
「あっ……!? いや、本来ならば若が突っ込まないで彼を先行させるべきだったのでは!?」
「ええ? そんなこと今更言われても困るよ」
「それは……まあ、私も特に疑問に抱かずについて来てしまったんですが〜……」
 それどころか、口に出すのも憚られる妄想をして非常に愉しんでしまった──そう、結局は妄想に終わったのだ。
(また、死ねなかったのか……)
 何度終わりを自覚して目を閉じても、やがて目覚めは訪れて、そこには変わらずエミルがいた。
『勝手に死ぬなんて許さない』
 幼い頃のエミルのことばを、未だ忘れられずに覚えている。その小さな手のひらに、心も心臓も握られ縛られているのだ。いつか握り潰して欲しいと、思うくらいは構わないだろう。
「さ、そろそろ行こうか♪」
「ええ。……行きましょう」
 二人の思い描く幸福が同じ姿でないことには、昔から気付いていた。それでも共に在りたいと思うのだから、何を、どこを目指すかなど問題ではないのだと思う。
(ただあなたと居たいだけ)
 冷たい水底に射す陽の光を、或いは消えゆく泡を見つめながら、二人は歩き出した。

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