のろいのことば

ネッド×エミル出会い編(幼少期捏造)4話 [ 4話目:6,911文字/2017-10-14 ]

4.ねがい

 ネッドが城に勤め始めてから二年ほど経つだろうか。
「今日はどこに行くんですか?」
「今日はねえ……ここ♪」
 いつもより勿体つけた風に地図を広げたエミルが指し示した先は、かつてネッドが住んでいた黒い森だった。
「そんなところに? よくお許しが出ましたね」
 昼でも薄暗く、薬草や木の実の採取などではまず人が立ち寄らない場所だ。だからこそネッドはそこに住み着いた。
「うん、まあね」
 曖昧な返答を、この時点で気に留めるべきだったのかもしれない。二人で出掛けたことなどもう数え切れないほどだったし、ネッドのよく知った場所ということもあって安心しきっていた。

「や〜っと着いた♪ 本当に黒いんだ!」
 黒い木々の立ち並ぶ森の入り口で、エミルは両手を広げて踊るようにくるりと回る。磁軸を経由しているので始終歩いていたわけではないが、今日は目的地そのものがいつもの採集場所と比べると随分と遠かった。
「若、疲れたんじゃないですか?」
「なんのっ、冒険はこれからだろ♪」
 少女めいた物腰ではあるが瞳を爛々とさせて凛々しく眉を釣り上げる、少年らしい表情が愛らしい。ネッドの口元も自然と緩む。
「頼もしいですね。で、今日は何を採るんです?」
 いつものように課題があるのだろうと見遣るが、エミルが例の手帳を取り出すことはなかった。
「ううん、今日は自由だよ」
「ほう?」
「この森を探検して、めぼしいオタカラを持って帰ろう♪」
「さて、何がありますかね」
 眠れる財宝のような代物はないと思うが、エミルの気を惹くものならば何かしらあるだろう。浮かれるエミルを見守りながら、後に続いてのんびりと歩く。
 灰色の石の割れ目に微かな輝きを覗かせる鉱石、蛇のように曲がりくねった枝、結晶化した花など、エミルは気になったものを拾っては選別し、腰に付けた革袋に入れていく。
「ねえネッド、この森ってカベの端っこなんでしょ」
「ええ、まあ」
 エミルの言うのは精霊族の住み処を護る障壁のことだ。障壁は正円形ではなく、この森の付近は抉れたように形が歪になっている。無防備な状態では障壁の近辺に近寄らないことが一族の決まりごとで、この森に人が立ち入らない本当の理由だった。
「なら、この森を抜けたら里の外に出られるんだ」
「……さあ……」
 そうなのだが、非常に良からぬ空気を感じる。エミルに対して頷くことはできなかった。
「ネッドも知らないの? じゃあ試してみようよ♪」
 ネッドは即座に首を横に振る。
「そんなことする必要ないでしょう? さあ、採集の続きを──」
「ネッド、嘘ついてるだろ」
「は? ……っあ、待って!」
 唐突に駆け出したエミルを、ネッドは慌てて追う。森の中に申し訳程度にある道筋も無視して、小さな体は木々の間を縫うように突っ走っていく。一方長身にローブを纏ったネッドは木やら何やらに引っ掛かり、思うように走れずにいた。
「若! 待ちなさい!」
 珍しい叫び声に、エミルは思わず立ち止まる。しかし振り返っても未だネッドの姿はなく、エミルもまた声を張り上げた。
「もう嘘つかないっていうなら待っててあげる!」
 ほどなくして付近の茂みがガサガサ音を立て、枝葉にまみれたネッドがぬっと姿を表した。
「はー、はー、ゼェ、ゼェ……」
「ネッド、そんなに疲れたの?」
 エミルは目の上に手を翳し、肩で息をするネッドを興味深げに覗き込む。
「体力ないんです。だから走るのとかはちょっと……」
「草ばっかり食べてるからだよ?」
「お城に行ってからは結構いろいろ食べてますけどね……」
 一転、真面目な顔でネッドを見上げる。
「ネッド、僕は里の外に行きたいんだ」
 冗談めかした風ではない、夢見るようでもない、至って真摯な瞳に、ネッドは困惑して細い眉を寄せる。
「冒険がしたいっていうんでしょう? でも、まだ早すぎますよ」
「子供だからダメなの? 大人になったら?」
「そう。わかってるじゃないですか」
 頷くネッドに、エミルは表情を変えないまま淡々と続ける。
「僕、父上が里の外に行ってるのなんて見たことないし、今は兄上のうちの誰も里の外に出てないんだよ」
 普段の子供らしい様子とは違った、妙に落ち着いた口調だ。このような表情は以前にも見た覚えがある。呪術師も夜もエミルは恐れないだとか、そんな内容だったと思う。
「それは……」
「子供だからダメ、大人になってもダメ、ずっとダメじゃないか」
 里の外へ行ってみたいという話は以前から何度も聞いてきた。なぜかと問えば「なんで行きたくないの!?」と逆に問い返されるありさまで、現状に不満はないらしいのだが、とかく外への好奇心が強いようだった。
 自身は集落を抜けて暮らしていたし、里の外へ勤めに出る者もいる。里を捨てた人間も知っている。エミルの感覚そのものを否定することはできないが、族長の子ともなれば彼らほどの自由は与えられないだろう。恵まれた出自のために奔放な魂が縛り付けられるのかと考えると、初めてエミルを哀れに感じた。しかしネッドは首を横に振る。
「大人になったって、すぐに自由がなくなるわけじゃないでしょう」
「そんなの誰にも言い切れないよ。ねえネッド、一緒に里の外に行こう」
「一体何を……」
 小さな手が、こちらに向かって差し出されている。胸が高鳴る。目が霞む。エミルの姿もぶれるようだった。
「おまえはお城になんていたくないし、一族の決まりだってどうでもいいはずだ。だからここに住んでた」
 確かに昔はそうだった。しかし今は変わってしまった。何もかも、エミルが変えた。
「一緒に来てほしい」
 幼いエミルを一人で行かせられるわけがなかった。ネッドは地面に膝をつき、白く小さな手に細長い指を絡め、両手で恭しく包む。
「ネッド……!」
 エミルは花の綻ぶように笑った。ネッドはしっかりとその手を握り、力を込めて自分の元へ引き寄せ掻き抱く。意図などない、反射的な行動だった。ドクドクと心臓が高鳴り、呼吸が震える。
 エミルはネッドの体にしがみつくように短い腕を回しながら、上ずった声で、ぽつり、ぽつりと語り出す。
「僕ね、ずっと……おまえと一緒にいたくて……」
 一目見たときから惹かれていた。それは他の誰に向けるものでもない特別な感情で、いつだってネッドが自分を攫って里を抜けることを夢想していた。
「若……」
 エミルの言葉を、ネッドは彼の意図通りに理解してはいなかった。現実味がないのだと思う。ただそれは耳から流れ込んでじわりと臓腑に染み入り、この貴い存在をなんとしても守らねばならないという使命感を目覚めさせる。
 だからこそ、頷くことはできなかった。
「いけませんよ、若。帰りましょう」
 大人が一緒にいればどうにかなるというほど外の暮らしは甘くない。生活の基盤も彼らの通貨も持たないまま、無計画に飛び出したところでエミルの思い描く自由も広がる世界もないだろう。ただ不幸になるだけだ。
「ネッド……ひどい……」
 エミルは震える声で呟き、ネッドの体を力一杯突き飛ばして駆け出した。
「っ!! 若っ!」
 意外なほど強い力に地面に手をついてしまいながら、慌てて体を起こして後を追う。見失っては厄介なことになる。
 もはや木枝で衣服や体が傷つくことも厭わずしばらく進むと、地面にへたり込む小さな背中が見えた。
「……!?」
 低く唸る気配に目を凝らせば、暗がりの中に禍々しい赤い光が二つぬらりと輝く。四つ足の獣の姿をした漆黒が立ちはだかって、エミルはその眼前で腰を抜かしているようだった。
 ネッドは視覚より鋭敏な感覚で影の獣が蠢く気配を察知する。普段の彼からは想像もできない俊敏な動作でエミルの前に躍り出れば、まさしくエミルを狙った獣の前肢がネッドの脇腹を抉った。
「っぐ……!」
 灼けるような激痛が走ったが、意識が飛ばないのならどうにでもなる。しかし消耗戦はできない、仕留めるなら一撃だ。ネッドの殺気の篭った視線に、魔物はたじろぎ動きを止める。
「────」
 その一瞬にネッドの唇が小さく震え、人の言葉では形容し難い呪言を発する。見開いた眼前に黒い炎のような思念の塊が現れるや、獣の眉間をめがけて叩き込んだ。
 グオォォォ──
 頭を灼かれた獣は短い悲鳴を上げて敢え無く絶命し、ネッドはその場に片膝をつく。
「あ……ぁ……ネッド!」
 呆然として動けずにいたエミルも、壊れた人形のように体を跳ね上げてネッドのもとに駆け寄る。ネッドはゆっくりと肩を上下させながら脇腹を押さえている。漂う血の匂いは、おそらく獣のものではない。
「ネッド、大丈夫!?」
 ネッドが何かぶつぶつと呟いた気がしたが、エミルには聞き取ることができなかった。
「え、何?」
「いえ。早く安全なところまで戻りましょう」
 何事もなかったかのようにすっと立ち上がったネッドを見上げ、エミルは面食らって何度も瞬きをする。確かに辛そうに見えたし、黒い手甲に覆われていない手指は血で赤く染まっている。
 しかしネッドの言うことも確かだ。ここで休んでいてはまた魔物が出るかもしれないとはエミルにも想像できることだった。怪我などなかったかのようにしっかりとした足取りで歩くネッドにくっついて、元来た道をしばらく戻る。

「ここまで来れば平気でしょう」
「ネッド? 痛くないの?」
「ええ、まあ……」
「そっか、ならよかった!」
 翻ったローブに遮られてエミルの位置からはっきり見えたわけではないが、ネッドが魔物の攻撃を受けたのは確かだと思う。未だ血の匂いもしている。しかし本人が痛くないというのならばそう重い怪我ではないのだろう。
「ちょっと、止血の処置だけさせてください。若はあっち向いててくださいね」
 ネッドは地面の平らな場所を見つけると腰を下ろし、装身具を外していく。
「そんな、恥ずかしがらなくても……ひっ!?」
 呑気に言ったエミルは、ローブを脱いだネッドの赤々とした傷口を見るや、思わず息を呑んで目を背けていた。そのまま、戸惑うように問い掛ける。
「え、ネッド、それほんとに痛くないの……?」
「ええ。でも体力は消耗してますから、長くは持ちません」
 ネッドはなんでもないように答え、救急キットから取り出したバンデージをきつく巻き付けて最低限度の止血をはかる。怪我の部位的に、無いよりはまし程度のものだ。
「そんなっ!」
「きちんと手当てを受ければ問題ないと思います。一緒にお城に帰ってくれますか?」
「当たり前だよ! 僕、もうわがまま言わないからね」
「……終わりました。もう大丈夫ですよ」
 振り返ると、ネッドはローブを着直したところだった。元々暗い色のローブで、周囲も薄暗いのでわかりづらいが、よくよく目を凝らしてみれば脇腹部分を中心に広範囲に黒い染みができている。触れてみればそれはじっとりと湿って、エミルの手を薄ら赤く染めた。
「……!」
「不用意に触ると汚れますよ」
「汚いわけないだろっ」
 自分のために流された血が穢れているわけがない。エミルはむきになって、ネッドの体には触れないように、濡れたローブにそっと寄り添った。じわり、衣服に血が移る。
「ああっ、若! 洗濯しても落ちないかも……」
「そんなのどうでもいいってば……ね、早く帰ろ」
 本当は抱きつきたかった。しかしどう考えても傷に障るので手を握るのに留める。
「ええ。帰りましょう」
 エミルと並んで城へと歩く、身体に痛みはないが、ダメージは確実に蓄積して体力を奪っていた。
 ネッドの力は人の精神を支配し操るものだ。それは自身に対しても例外ではなく、今は自らの痛覚を麻痺させる呪言を用いている。これによって一切の苦痛を感じず、痛みに気を失うこともないが、限界を自覚して自制することも不可能となるため、古くには捨て駒とする兵士に施す呪いだったと云われる。
 応急処置はしたものの傷の場所が悪く、自らの足で歩く限り緩やかな出血は止まらない。かといって森の中の道を知らないエミルを一人で帰すこともできない。
「ねえ、さっきのところ、もうカベの外だったんだね」
「どうやら、そのようですね……」
 さほど進んでいたようには思えなかったし、何よりネッドは〝何も視なかった〟。不審に感じる点はあるが、今は考え込んでいられる状態でもない。痛覚のみでなく他の感覚も極めて鈍り、気を抜けば意識を手放してしまいそうで、エミルと会話することで意識を保っているといった状態だ。
「でも、外から見えないカベって、僕らの目にも見えないんだな???」
「若、壁の向こうに、行ってみたかったですか」
「……そりゃあね。でも、大人になってからにするよ」
 エミルはネッドのローブの裾を掴み、視線を下に落とす。
「懲りませんね」
「だって! だからね、その日になったら、ネッドも一緒に来てくれたら嬉しいな」
「……ふ。その日が来たら、ですね」
 果たしてそれまで生きていられるだろうか。エミルを送り届けるまでは意識を手放すまいと思っているが──
「ネッド……」
「大丈夫、もうすぐです。……ほら、あそこに塔が見えてるでしょう」
 目が霞む。城の尖塔が揺らいでぶれた。

『怖くないよ』
 頭の奥で声が聞こえる。これは記憶だろうか。
『ネッドは夜で』
 青昏く冷たい水底のような空間に、愛らしい音色が反響し、波紋のように広がっていく。
『ぼくは夜が好き』
 彼は夢見がちだった。いつでも瞳に星を浮かべて、小さな胸にお伽話の絵本を抱えていた。
『僕ね、ずっと』
 果たされなかった約束はどこへいくのか。ふわふわと羽毛のように舞って、善い魂と巡り逢うことを願う。
「ネッド!」
『ぼくはおまえが好き』
 遠退く声は甘くて、痛くて、ああ、よもや失うことを口惜しいなどと感じているのだろうか。
「ネッド、ネッド……!」
 一旦消え掛けた声は明瞭化して、近くに来ては骨を震わせ、視界と呼べるのかもわからない、ぐずりと崩れた曖昧な自我の中に金色の光を視せた。
(暖かい……)
 光り輝く暖かな雫がはたり、はたりと乾いた地面に落ち、自分はただ天を仰いでそれを浴び──
「……?」
 弱い明かりとともに、ぼやける視界が徐々にはっきりしていく。見慣れない高い天井と、窮屈なベッドと、重力。
「は……」
 声にならない不自然な息遣いは自分のもの。傍らで布の擦れる音は──そちらに顔を向けるより先に、エミルの顔が視界に飛び込んでくる。
「ネッド!」
 驚愕と喜びの入り混じったような表情の、眦は赤く滲んでいた。エミルはふるふると震え、何かを堪えるようにぎゅっと目を瞑る。
「あ……若……」
「ネッド、よかったよお……!」
 次に開いた瞳からぽろぽろと大粒の涙を零しながら、エミルはベッドに上体を伏せ、ネッドの首に縋り付いた。
「あ痛っ! 痛いです……!」
 しかしこれは夢ではなさそうだ。落ち着きなく感情を露わにするエミルとは対照的に、ネッドは妙に落ち着いた気分だった。
「ご、ごめんね!!」
 エミルは慌てて体を離し、手の甲でごしごしと目を擦る。ネッドは弱々しい動作で手首を持ち上げ、不思議な気持ちでエミルの腕に触れた。
「なんで、泣いてるんですか」
「なんでって、ネッドが死ぬかと思ったから……」
「私が死ぬと、あなたは……泣くんですね」
「当たり前だろっ!」
 乾いた指先がなだらかな頬を伝う雫に触れる。
(暖かい)
 零れ落ちる体温を惜しむように拭いながら、ネッドは穏やかに微笑していた。
 呼び戻されたのだと思う。倒れ伏したとき、無念はなかった。エミルを送り届けたことに満足し、死にたくないとも生きたいとも思っていなかった。エミルに呼ばれなければ、そのまま覚めぬ眠りについていたかもしれない。
「不思議な方だ。死はいずれ誰にも訪れる。私にも、あなたにも」
「そんなの、わかってたって、ネッドがいなくなったら嫌だもん……」
 理由にならない、エミルの感情でしかない言葉に気が遠くなる。
 言葉には力が宿る。自分が呪言を扱うように、エミルはそれとは相反するものでもって人を魅了するのだとは、もう何度も感じてきたことだ。
(どう考えたって、あなたより私の命の残りのほうが短いのに?)
 意地の悪い言葉は、喉に閊えて出てこなかった。エミルはネッドの手を掴まえて頬を寄せる。
「ネッド、おまえは僕のお付きなんだから、勝手に死ぬなんて許さないぞ」
「わがままな方だ。まあ、善処しましょうかね……」
 永劫とはいえないが、生きる限りは仕えたい。自分にも人並みの感情が、心があったのだと、最後に実感したのはいつだったろう。今その在り処は間違いなくエミルの小さな手の中だ。
 ひどく心地よく穏やかな時間の中で、自然と眠気に襲われる。
「そうだ、お腹すいてない? 誰か呼んでこようか?」
「必要ないです。少し眠ります。……もう少しだけ、ここにいてくれますか?」
「いいよ! ずっといる!」
 ネッドは思わず吹き出す。
「私が眠るまででいいですよ」
「それじゃ、おやすみ、ネッド♪」
「おやすみなさい」
 頬におやすみのキスをして、エミルは満足げに笑った。

 ほどなくして様子を見にきた医術師は、穏やかな表情で眠るネッドと、顔を寄せるようにして寝入るエミルの姿を見つける。

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