のろいのことば

ネッド×エミル出会い編(幼少期捏造)5話 [ 5話目:11,220文字/2017-10-14 ]

5.夢の終わり

「ネッド。明日、外についてきてよ」
「え? ……いえ、大丈夫ですけど、ちゃんと断りは入れてますよね?」
「当たり前♪」
 そんなごく簡単なやり取りを経て、二人は数年ぶりに一緒に外出することとなった。前回というと二人で黒い森へ連れ立ってネッドが負傷したときにまで遡る。
 後に知ったことだが、あの日エミルは外出の許可を取っておらず、自室の机に『ちょっと冒険にいってくる。そのうち戻るから探さないで』と書き置きしていたらしい。エミルの行動へのお咎めは当然として、付き添ったネッドについても厳しく追求され、しばらくエミルは謹慎、その後もしばらくは二人きりでの外出は禁止されていた。よほど恐ろしかったのか、気が咎めたのか、禁止期間を過ぎてもその後エミルがネッドを個人的に外出に誘うことはなかった。
 それでも城の中では、確か九つになるまではべったりくっついて過ごしていたものだが、やがてエミルが学校へ通うようになり、そこにも自然と距離ができた。不意に部屋を訪れてみれば鬱陶しいなどと言われる始末で、成長とはこういうことかと苦笑したものだった。

 城門へ赴くとエミルは既に待っていた。麗しく成長した王子の姿に、ネッドは思わず息を呑む。
 見事な金髪は太陽の下で見ると一層美しく、淡い光の滝のようで、他の誰にもない清らかな輝きを纏っている。防具にしきりに施された金の細工さえも霞むようだと思う。ネッドと比べてしまえばずっと小柄だが、身長はネッドの胸の高さにまで伸びて、手足もすらりと長く、腰にはサーベルをぶら下げている。随分と立派になったものだ。
「なに、ジロジロ見て」
「へっ? いえ、少し、珍しい格好だなと思って」
 日々全く顔を合わせないわけではなかったが、ネッドが基本的に外に出ないせいもあって、エミルのこういった姿をまじまじ見ることはあまりなかった。室内の明かりの下の、比較的リラックスした姿とは、随分と印象が違って見える。
「まあ、一緒に出掛けることなくなってたしね。……ネッド、嫌がるかと思った」
 昔はこちらの都合など気にもしなかった記憶があるが、わがままな若君だとて変わるものだ。妙に昔のことを思い出してしまうのは、きっと二人での外出があまりに久々だからだろう。
「とんでもないですよ。久しぶりですね」
「そうだね。あれは僕が八つのときだったと思うから……六年ぶり!?」
「そんなになりますか。あっと言う間ですね」
「ええ〜ウッソ〜、僕そんなにネッドと出掛けてなかったっけ!? 同じお城に住んでるのに!?」
 エミルは両の手で頬を押さえながら、信じられないというように首を振った。それほどの年月が経っていた実感がなく、本当に驚愕しているのだ。
 見目麗しい風でいても口を開けばいつも通りだったと、ネッドは密かに笑う。
「学校もありますし、日々忙しくしていればそんなもんじゃないですか?」
 エミルは目を据わらせる。
「なんだよネッド、ひきこもりのくせに大人みたいなこと言って」
「引き篭もってたって歳は取りますから」
「まあいいや、んじゃしゅっぱーつ♪」
 今日の目的は森へ行き、城で蓄えの不足している分の薬草を補充することだ。下働きの者が行うような雑用ではあるが、エミルはたびたび手伝いを買って出ていた。
「あれから学校以外に出掛けるっていうとうるさくて。でも手伝いって言っとけば通るからね」
 歩きながら、頭の後ろに腕を組んで気だるげに呟く。随分と大人びたと思ったが、まだまだ子供のままのようだ。
「……ふ。まあ、仕方ないかもしれませんね。学校はどうですか?」
「うーん。ずっとお城に篭ってるよりはいいかって思ったけど、一日中勉強だもんな」
「みんなそうでしょ」
「わかってるけどさ。なんか同年代って子供っぽいっていうか、僕、大人の人と話すほうが好きだな」
「言いますね」
 ネッドは低く笑う。ませたようなことを言ってみせるのも昔と変わらない。
「なに、信用してないの?」
「いいえ?」
 と、エミルの背景に見えた、一面に真っ赤な花の群生する花園に目を奪われる。
「綺麗ですね」
「え?」
「あそこ、あんなに全体が赤い花になるなんて知りませんでした」
 以前ネッドが通り掛かったときには緑の草原にしか見えなかったのだ。
 エミルはネッドを見上げ、意味深長に唇を歪める。
「ネッドさ、ひきこもってばかりいるからそうなるんだよ」
「……まあ、そうでしょうね。風景なんかにも大して興味なかったですし」
 おそらく自分も随分と変わったのだろう。エミルのみでなくそれを取り巻くもの、風景や花、空と空気。それらをこれほど鮮やかに感じることなど、彼と出会う以前にはおそらくなかった。
「じゃあ、あっち回ってこう♪」
「時間は……」
「大した回り道じゃないって」
 ネッドはエミルに手首を引かれるまま、直線の道から脇に逸れて花の群生する場所へと向かう。こういうところも昔のままだと、懐かしい思いに少しだけ息が詰まった。
「わあ〜! 僕は知らなかったわけじゃないけど、近くにくるとすっごいね♪」
 圧倒的な赤だった。高くしっかりとした茎の上の大ぶりな赤い花、その上を蜜を求める蝶がひらひらと舞っている。よくよく見れば背の低い別の色の花も生えているが、瞳に飛び込んで来るほどの強さではない。しゃがみ込んだエミルの肩を金の糸がさらりと撫でる。鮮烈な赤に映えて、目眩がするほど美しい光景だった。
 祝福を纏った美しい王子。いつしかすっかり当然になった二人の距離感を、改めて不思議に思う。きっと誰しも彼を好きになるし、彼は気まぐれで好奇心が強くて恐れ知らずだった。ただそれだけのことなのだろうけれど。
「これ、持って帰れないかな。薬草もいっぱい摂らなきゃいけないから厳しいか」
 冒険が好き。不気味なものも好き。甘いお菓子も、美しい花も好き。
「若は、好きなものたくさんですね」
「そうだよ。そのほうが楽しいじゃない」
「楽しい……ですか」
 自分もまたそのうちの一つに過ぎないのだろう。エミルの生活を彩る数多の人と物、そのうちの一つ。それだけなのだ。
 物思いに耽りそうになったところで、何かを啜るような音を聞いて隣を見遣ると、エミルは花の頭を捥ぎ取って口に咥えていた。一瞬、紅を引いたように見えて驚いてしまった。
「な、何してるんです……」
「ん? ネッドも蜜吸う?」
 花弁の底に溜まった蜜を吸っていたのだった。返事を聞かないまま、ブチリと花を千切ってネッドに差し出す。見ればエミルの足元には同じような花が既にいくつも落ちていた。
「わ、私は結構ですよ。……甘いもの、好きですもんね」
「そうだよ♪ 僕を食べたらもう甘くなってるかも」
「っは……食べませんよっ」
 顔に血が登ると感じるが、赤らむほどでもないだろう。もっと幼い子供ならまだしも、いや白状するとあの頃からどうかと思っていた表現だが、美しく成長したエミルが言うにはあまりに剣呑だった。
「食べていいのに」
「わ、若? 何言って……」
 花を手に見上げてくる、瞳は何かを探るようで、試すようにも見えて、ネッドは思わず目を逸らす。
(何を、考えている……?)
「ネッド、僕はもう大人かな?」
 エミルは感情がくるくると顔に表れるせいで単純明快というイメージを与えるが、その発言や発想は唐突で難解で、なかなか意図を汲み取れない。
「まだ……もう少しですよね」
 立派に成長したとは思うがまだ少女めいた線の細さを残す危うい印象は大人とは言い難い。身も蓋もないことを言ってしまえば、一族の成年の年齢にも到達していない。
「じゃあ、子供かな」
「うーん、一概に子供とは……」
 幼い頃を知っているからこそ、もはや子供とも呼べない。自分に対して甘えるようなこともなくなったし、表情もぐっと大人びたと思う。
「はっきりしないやつ」
 言い草に安心して、ネッドは微かに笑みを零した。
「やっぱりまだ子供かもしれませんね」
「でも、もう少しだもんね♪」
「そうですね。本当に、早いものです」
 こうしてあっという間に大人になって、やがて離れて遠くへ行ってしまうのだろう。もとより飽きられればお役御免だろうと考えていた。今更憂えることでもない。
 この時間はいつまで続くのか──考えても仕方がないことではあるが、いつか終わりがくるであろうことに、安堵もしていた。

 今日、あの日ぶりにネッドと一緒に出掛けた。
 あのことはすごくショックで、ネッドが死ぬのも僕が死ぬのも絶対嫌だから、僕は言いつけを守って勝手に出掛けることはなくなってたし、お咎めの期間が終わって他の人と外に行くようになってからも、なんとなくネッドのことは誘えずにいた。ネッドは僕のせいで死に掛けたんだから、嫌がるかもしれないって思ったからだ。
 だけどいざ声を掛けてみたら、ネッドは嫌がらなかった。道筋も普通に楽しくて、もっと前から誘っとけばよかったって思った。あんまり一緒にいなかった六年が、すごくもったいない。
 壁の外には魔物もいるんだろうし、あのとき里の外に行かなかったのは今思えば正解だったのかもしれない。それでもあのときの僕の言葉、ネッドとずっと一緒にいたいっていうのは本当の気持ちで、ネッドと一緒に外に行きたかったのは、ネッドがはぐれもので都合がよかったからじゃなくて、間違いなくネッドが好きだったからで。
 ネッドは特別だった。そりゃあ、最初は黒くて大きいっていうのが単純にかっこよく見えて、それがきっかけだったけど、街を外れて一人で住んでるんだって聞いたら俄然興味が湧いた。
 どうしてって聞いたら、ネッドは気力も興味もないからみんなといっしょに暮らしてられない、みたいなことを言ってた。適応できないとか、不適合なんだとか、難しい言葉を使ってたけど。
 でもみんなと同じのほうが簡単なんだから「みんなと同じことをしない」ていうのは明らかに意志のある行動で、僕がネッドに構うたびにネッドは「どうして私なんか」てよく言ってたけど、それはネッドのそういうところが特別だったからなんだ。
 かっこいいとかすごいとか、知らないからもっと知りたいとか、そういう興味がカラダがムズムズするような「好き」に変わることにあまり時間は掛からなくて、だから僕は何度もネッドに好きだって言ってきたしキスだってした。
 だけど一度だってネッドから同じ言葉は返ってこなかったし、キスを返すのも頭を撫でるのも僕が子供だからしてるだけで、ネッドは意外と真面目だから、僕が子供でいる限りは「そういう意味」で触ったりキスしたりはないんだろうって僕は悟った。
 外での冒険も大人になってからって言われてたし、だから僕は早く大人になりたいって小さいときからずっと思ってる。

 子供の頃は、てまだ僕は子供だって昼間ネッドに言われたばっかりだけど。もっと小さいときには、単純なふれあいとか挨拶のキスだって嬉しかったから、いつもネッドにくっついてたし、たくさんおしゃべりもした。
 学校に通いだしたら、ネッドや城の人間と過ごす時間はぐっと減って、代わりに同年代の子と話すようになった。同じ年なのに子供っぽい子とか、すごくしっかりして大人っぽい子とかがいて、僕も大人っぽく振る舞えば早く大人になれるんじゃないかって思った。
 夜にネッドを部屋に呼んで宿題をみてもらったり、その日の出来事をおしゃべりして、最後におやすみのキスをしてっていう習慣は学校に入っても続いてたんだけど、それは子供っぽいような気がしたから、僕はある日「もう大きくなったから、おやすみのキスはいいよ」って言ったんだ。
 ネッドはちょっと驚いたみたいな顔したけど、わかりましたっていって、それ以来キスはしなくなった。それからなんだかんだあって、日課として夜に部屋に来るってこともなくなって。
 そりゃもちろん僕がやめてって言ったからだけど、ネッドがしたいっていうならしてもよかったっていうか、そんなアッサリなんだって虚しくなったりもした。でも大人になったらまたしてもらうから、今は修行みたいなもんだと思うことにしてる。

 そういうわけで日課じゃあなくなったけど、ときどき宿題を教えてもらうのにネッドを部屋に呼ぶことはあって、背中側から回されてる長い腕とか、ペンを握ってるネッドの手を見て僕はつい悪いことを考えてしまう。
 その手の感触はどんな感じだったかな、ちょっとがさがさして、骨っぽかったよねって思い出すけど、僕は昔ほど子供じゃないからもう気安くネッドの手を握ることができない。
 子供だったから許されたことと、大人になったら許されることと、今はそのどっちも無いって感じでちょっとつらい。
「若? 聞いてますか?」
「ふぇ? ……うん」
「聞いてなかったでしょ」
「……うん」
 ネッドが困った顔してるのも僕は好きなんだ。困らせるのが好きってわけじゃないんだけど、めんどくさそうにしながら構ってくれるのが嬉しいんだと思う。
 結構長いこと一緒にいるけど、僕はネッドの顔と手と、首の少しくらいしかその肌を見たことなくて、あのローブの中は割と未知の世界だ。まあ生きてるんだし同じもの食べてるんだから同じような、多分細長い身体があるはずで、それだけでもちょっと不思議なんだけど、ネッドもそういうことするのかなっとか、考えたりもして……。
 僕は族長の子だし、人に嫌われるって経験がなくて、自分でもそれが怖いって気持ちになったことなかったけど、今は少しだけそういうのもある。
 ネッドのことが好きなのを悪いとは思わないけど、僕がこっそり考えてるようなことはちょっと知られたくない。だけど暴いて欲しいような気もして──あぁ、すごくヘンな気持ちだ。
「ネッド、僕、ビョーキかも」
「ええっ? 大丈夫なんですか? メディックには診せました?」
「うーん、そういうんじゃないんだよな」
 たぶんこういうときビクトルだったら「おや、恋の病ですか?」て言うんだよ、セクシーに笑いながらさ。ウィンクもするかもしれない。
 ああ、ビクトルっていうのは外にお勤めにいってる精霊族のうちの一人で、色男で人間のいろんなことやいろんな遊びについて知ってるお兄さん。僕の父上は定期報告が好きみたいで、ネッドがそうだったようにビクトルもたまに報告で里に戻ってきてる。ビクトルは誰も教えてくれないようなこと教えてくれるから、僕はビクトルの話を聞くのが楽しみなんだ。
「はぁ? なんだっていうんですか」
「内緒♪」

 成年の儀。一族の数え年で十六を迎え、一人前と認められることになる若者たちを広場に集めて行われる毎年恒例のセレモニーだ。
 少数種族のため、人間のそれとは比べ物にならない小さな集まりではあるが、今年は対象者に族長の子息エミルも含まれるということで、例年に増して里中が祝賀のムードだった。
 族長をはじめとした大人たちが壇上で式辞を読むが、若者たちはほとんど真面目に聞いてはいない。大人になることへの期待と憂いと、とりあえずは式の後から解禁される酒盛りで頭がいっぱいだった。
 常から目立つが盛装したエミルは一際人々の目を惹いて、歓談の時間となれば大人にも子供にもひっきりなしに声を掛けられた。やれお祝いだの、やれ握手してくれだの、人と接することは嫌いではないが、さすがに疲れてしまう。
 人が途切れるたび、会場内をぐるりと見回した。何度も、何度も、見回したのだが。
(ネッド……いない……)
 影そのものといった風情の長身の黒い塊は、明るい場所にいれば逆に異様に目立つ。上背も常人から頭一つ飛び出しているから、万が一違う服装をしていても見落とすことはないはずだ。それが見当たらないのだから、ネッドはこの場に来ていないということになる。
 確かに人の多い場所は苦手だと言っていたが、まさか来ないことは想像していなかった。エミルから敢えて釘を刺すようなことも言わなかったのだが、城の中で暮らすネッドが今日のことを知らないはずがない。
(特別な日なのに……)
 どれだけ待ちわびたか知れない、公に大人として認められる日、一番認めて欲しかった相手はこの場にいない。一緒に喜んで欲しかったのに、ネッドにとっては他愛のないことだったのだろうか。
 会場のどこかで上がった歓声をそらぞらしく聞きながら、視線はしきりに手元のグラスの縁をなぞっていた。

 その夜、ネッドの部屋のドアをノックもせずに開ける者があった。
「……?」
 机に向かっていたネッドがドアの方を振り返ると、式典のままの姿なのだろう、美しく着飾り、手にワインの瓶を持ったエミルがずかずかと歩いて来る。その出で立ちに不似合いに唇をへの字に引き結び、ひどく不機嫌そうだ。
「ネッド、今日いた?」
「ああいうのは苦手なんです。知ってるでしょう? それにしても若、綺麗ですね。すごく立派に見えますよ」
 のんびりとした口調で穏やかに微笑する、その態度がエミルのよろしくない気分を逆撫でる。
「ネッドにも来て欲しかったよ」
 自然と声が沈み、口調も投げ遣りになっていた。
「私はお祝いの場にはふさわしくないので……」
「そんなのおまえが決めることじゃないだろ。……まあいいや、僕今日から大人だからね♪ お酒飲もう♪」
「もう、散々飲んだんじゃないですか?」
 エミルが特に酔っているように見えたわけではない。彼のことを周りは放っておかないだろうから、勧められて飲んできたのではないかと想像しただけだ。
「いいから! グラスを出せっ!」
「はいはい」
 前言撤回、酔っているせいで変に機嫌が悪いのかもしれない。自分のせいとは露にも思わず、ネッドはゆったりとした動作でグラスを取り出す。ボトルを受け取ると、栓を抜いてまずエミルのグラスに注いだ。
 グラスを持ち上げ、エミルはネッドの姿を深く透明な紅に透かして微笑する。
「ワインの赤い色、ネッドに似合うね」
「似合う……ですか?」
 自分についてそんなことは一切考えたことがなかったから、不思議な感じだ。それよりもエミルの顔がいつもの明朗な印象より艶やかに見えて、目を惹かれてしまう。
「これ、僕らが生まれた年に作られたワインなんだって。毎年の恒例だけどね」
「ほう。それは大切にいただかなくてはいけませんね」
 基本的に娯楽に興味はなく、当然酒も好んで飲む方ではないが、そう聞くと途端に特別なものに思えた。
「それじゃ乾杯ね」
「はい。一人前になった若に乾杯」
 グラスを打ち鳴らす透き通った音が耳を掠めると、ネッドは急激な実感に襲われる。初対面の時はエミルの頭さえネッドの足元にあって、ローブの裾にすっぽり隠れてしまうくらいに小さな体をしていた。向き合って椅子に座れば上半身が沈み、視線を合わせるのにも苦労したのに、今となってはなんら支障ない。まだまだあどけなさはあるが、美々しく着飾りグラスを傾ける姿など、もうあの日の子供ではないのだと改めて見せつけられる。
 グラスが離れ、ちろりと唇をなぞる舌が覗くと、よからぬものを見てしまった気がして反射的に視線を逸らしていた。
「ネッド? もしかしてお酒飲めないとか?」
 グラスを持ち上げたまま動きを止めているネッドに、エミルは小さく首を傾げる。
「え? ……ああ、いえ、少し浸ってしまって。もちろんいただきますよ」
 冷たいグラスを唇に当てて傾ける。口に含むと、程よい酸味とフルーツのような香りが鼻へ抜けた。物の本で読んだ、古代の宗教で赤いワインを血に見立てた逸話を不意に思い出す。分け与えられる尊い血を体内に取り込む、後味は甘い。
「……大人になって、何か変わりましたか?」
「そんなの、今日散々聞かれたし答えたよ」
 エミルはむくれているが、ネッドとしては自分が祝いの場に行く選択肢など初めからなかったくらいで、だからこそ、見ることはないと思っていた式典でのエミルの姿を目にして喜んだのだ。
「その姿、見せにきてくれて嬉しいです」
「!? じゃあ最初から来いよっ!」
 声を荒げるエミルに驚き、小さな動作で目を見開く。ネッドはエミルがなぜそこまで式典に拘るのか理解できずにいた。会場に行かなかったからといって祝う気持ちがないわけではないし、エミルが大人になっていく事実も変わらない。
「若、大人になったわりに落ち着きがないんじゃないですか?」
「そんなこと……」
 ないとは言い切れなかった。ネッドの言葉一つ一つがささくれを撫でるようにチクチクとして、つい苛立ってしまう。
「会場で何かあったんですか?」
(おまえのせいじゃないか)
 口に含んだワインと一緒に言葉を呑み込む。会場で会えなかった落胆は確かに大きかった。しかしそれだけで想いが潰えるはずもなく、今日のうちに会いたいと思ったからここに来たのだ。だが、顔を合わせて乾杯しても気は晴れない。答えを導くのはそう難しいことではなかった。
「……大人になっても、僕自身は大して変わんなかったんだ」
 肉体は昨日今日で大きく変わるものではないし、想いなど子供の頃から同じだ。なぜ大人に憧れたかといえば認められたかったからで、その対象は世間ではなく、ただ一人だった。
「まあ、そうすぐには変わらないと思いますよ……?」
 言い終わらないうちにエミルが席を立つ。どこへ行くのかと思えばネッドのそばに来て、身を屈め顔を近付け──
「!?」
 ネッドの唇を、自らの唇で塞いでいた。
 驚愕に見開かれたネッドの瞳に映る、エミルの顔は至って真剣だ。ネッドは血の気の薄い唇をわなわなと震わせる。
「わ、若? もう子供じゃないんですからそういうことは」
「子供じゃないんならいいだろ」
 エミルは投げ遣りに言って再び唇を合わせる。強引に唇を割って舌を押し込むと、強く肩を押し返され顔を背けられてしまう。
「一体何を……」
「僕はずっと言ってたよ、おまえが好きって。でもおまえは取り合わなかった。僕が子供だったからだ」
 アルコールによって微かに体に帯びた熱も一気に引いて、頭の中が真っ白だった。その言葉ははっきりと記憶にあるが、子供ゆえにスキンシップが過剰なのだろうと思い込んできた。それ以外の可能性など、汚らわしい妄想に過ぎないのだと。
「でも、僕はもう大人だ」
「若……」
 エミルの両の手が頬を包む。小さくて柔らかかった子供の手のひらも、随分と大きくなったものだ。しかし貧血で倒れる寸前のように感覚がぼんやりとして、肌の感触はろくに感じない。それでいて体の中を冷え切った血が巡る感触だけがあった。
「ねえ、いいだろ」
 再び顔を近付けるが、今度は唇を重ねる前に肩を押さえられて拒否されてしまう。エミルは信じられない思いで目を見開いた。
「駄目です、そんなこと……」
 今までは迷惑そうにこそすれ応じてくれていた。これほど明確に拒絶を示されたことなどなかったはずだ。
「なんで」
 理解できない。声が情けなく掠れる。子供だから向き合ってもらえなかったのであって、大人になれば受け入れられると信じていた。拒絶される可能性など考えなかった。
 昔はいつもそばにいた、しかしそれは結局自分が子供で、そして族長の子息だから。そういうことなのだろうか。
「あなたは精霊族の若君だ。こんなこと、許されるわけがない」
 頭に浮かべたこととなんら違わぬネッドの言葉に、エミルは思わず声を荒げる。
「許されるって何だよ、誰に許しを乞うっていうんだ!」
 ネッドは唇を引き結んで首を横に振る。
「答えられないんだ。口から出任せなんだね」
「若、あなたはまだ」
「僕はもう大人だ。自分で考えて決めたんだ」
「まだ大人になったばかりで、お城と学校の中しか知らない。あなたはこれからたくさんの人と出会って」
 聞きたいのは小言ではない。腫れ上がった感情は喉奥から声として、瞳から涙として体の外へ溢れ出す。
「なんなんだよ! はぐれものだったくせに急にお利口なこと言って、おまえはいつからそんなに偉くなった!」
 エミルは思いのままに叫び、駆け出した。
「若!」
 慌てて追うが、もはや運動能力ではエミルに敵わない。しばらく走ったものの、階段に差し掛かったところで追い付けないと判断して部屋に戻ることにした。もしエミルを捕まえられたとして、何と言ってやればいいのかもわからない。少し考える時間が欲しかった。
 部屋に着くやネッドは窓際に歩み寄る。エミルが特に身を隠すことを意識しない限り、窓から覗く中庭に姿が見えるはずだ。
 少し待つと二人の人影が現れた。一人はエミル、もう一人は銀髪を緩く後ろに流したダンサー風の若い男。エミルとも親しく、名前は確かビクトルといったはずだ。
 ネッドはエミル以外の人間とは私的な接点がほとんどないが、彼についてはエミルからの伝聞で知っていた。自ら志願して里の外に勤めに出ているうちの一人だが、時折里に戻って来ている。今日も例の報告と、もしかしたら今日の式典とも日程を合わせたのかもしれない。
 エミルは昔から里の外に憧れていた。外勤めの者に懐くのも無理はないと思う。ビクトルは俯くエミルに寄り添い、慰めているようだ。そして二人連れ立ってどこかへ歩いていく。
「……」
 ひどく不快で、不安で、落ち着かないのはエミルを傷付けたことに対する罪悪感だろうか──おそらく違う、と訴える腹の底から目を背ける。
(仰る通りですよ)
 集落で暮らすことさえ拒んで一人塔に閉じ籠っていた。一族のことなど昔からさほど考えたことはなく、それは城で暮らすようになった今でも変わらない。
 エミルは族長の子だ。やがてふさわしい女性と結ばれ、その貴い血を未来へ繋げていくべきなのだ。一族のために在れというつもりではない。彼はまだ若い。これから先、新しい出会いなどいくらでもあって、そのうちに彼の満足する相手だってきっと現れる。
 ならば自分さえいなければエミルは健全な交際関係を築くだろうか。
 さきほどの二人の姿が頭を過ぎる。あの軽薄そうな男と自分とは表面上似ても似つかないだろうが、里の外に出たがる人間など物好きか異端者で、そういった点では遠くないかもしれない。そしてエミルは自分とも彼とも親しい。不穏で下衆な想像が湧き上がり、そんな自分に吐き気がした。
(私にできることなど何もない)
 机に向かって読み掛けの本を広げるが、何も頭に入らない。
 ふと視界に入ったペン立てに、黒い羽根が挿さっている。羽根ペンではなくただの羽根だ。幼い頃のエミルがくれたもので、他にも同じように貰った石や結晶がキャビネットに保管されている。ネッドの数少ない、大切な物たちだ。
 初めて会った時から、エミルは戸惑いばかりを与えてきた。しかしそれは自然と喜びに変わり、幼い彼の施しも無邪気な行動も、その裏にある好意も愛おしいと思うようになっていた。
 エミルが今日口にした「好き」の意味も彼が望むことも、ああまでされて理解できないわけではないし、そこに嫌悪感はなかった。むしろ──自分も似たようなものを、幼い彼に抱いていた。
 しかし受け入れるわけにはいかないのだ。
 彼は祝福の光の中で生まれ人々に喜びを与えるもの。自分は影に潜み呪いをばらまき死に向かうもの。相容れない。結ばれて良いはずがない。
 彼に仕えることでよろこびを知ったとき、邪な願望は殺すと決めた。
 大切なひとだ。愛しているのだと思う。
 だからこそ、彼の未来を摘み取るわけにはいかない。

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