のろいのことば

ネッド×エミル出会い編(幼少期捏造)6話 [ 6話目:10,172文字/2017-10-14 ]

6.のろいのことば

 翌日、ネッドは朝一番でエミルの部屋へ向かった。昨日のことが気になって、何も手に付いたものではなかったのだ。
「!!」
「よう、おはようさん」
 この先にはエミルの部屋しかない。誰とも出会うことなど想像していなかったネッドの目の前に現れたのは、ビクトルだった。エミルの部屋から出てきたのだろうか、そう考えるだけで頭がおかしくなりそうだ。ビクトルは不快感をあからさまに表して眉を潜めた。
「なんだよそのカオ。若のお付きが、朝の挨拶くらいできねーのか」
 ビクトルよりネッドのほうが年齢は上だが、二人に直接的な上下関係はなく、ビクトルはごく限られた相手にしか丁寧な言葉は使わない。それはいつも通りなのだが、砕けたというより単純に乱暴な物言いは、昨夜のエミルの様子がネッドのせいだと知っているためだった。いつもの無愛想なだけではない──怒りなのだろうか、ギロリとこちらを向いたネッドの鋭い眼光を、ビクトルは柔軟に撓り受け流すように、にやりと唇を歪める。
「なあ、昨日オレが若と何してたと思う?」
「お前……!」
 珍しく声が荒らぎ、頭に血が昇る感覚もある。それでも手のひらを握りしめる程度で、反射的に怒りを爆発させることもできない自分に心の底で失望していた。
「怒ってるのか? どうして? やらしい想像してるからだろ」
「……」
「だとしたらあんた、最低の男だ」
 その言葉には、不思議と落ち着いた気持ちでいられた。自覚があるせいかもしれない。
「オレが呪い殺されたら、若は泣いてくれるかな」
「若が悲しむようなことはしない」
「っは! それじゃ昨日若はどうして泣いてたっていうんだ」
「……」
 ネッドは口を噤んでビクトルの横を通り過ぎる。ビクトルはただ舌を打ち鳴らしただけで、ネッドとは逆方向に歩を進めた。いけ好かない。昨日よりずっと前から、互いにそう感じていた。なぜエミルがあの男と懇意にするのか──それもまた互いに同じ思いで、精霊族の中でいわば異端な彼らは、在り方としてはごく近しい存在なのかもしれなかった。
(戯言だ。私が手を出さないと思えばなんとでも言える) 
 本当にそうだろうか。ビクトルは楽観的すぎる里の住人たちとは違う。人間の集落に暮らす者は精霊族といえど非常に懐疑的で、ネッドのことなどことさら信用していないはずだ。そしてネッドは武器を使わず、誰にも自分の行いだと悟られずに人を殺めることができる。ビクトルもそれは承知していて、だから『オレが呪い殺されたら』と言ったのだろう。そんなリスクを犯してまで、嘘を吐いて煽る必要が果たしてあるだろうか。恐ろしくはあったが今更引き返すこともできず、ネッドは意を決してエミルの部屋のドアを叩く。
「誰? ビクトル?」
 寝ぼけたような声と共にドアが開くと、エミルは驚いたように目を瞬いた。
「おはようございます」
 寝間着の一番上のボタンが外れ、襟が体の中心よりも右側に寄ってしまっている。常ならば気にも留めないような、寝相次第でどうにでもなる程度のことがいたく気になった。エミルは丸くしていた目を据わらせ、あからさまに憮然とした表情になる。
「おはよ。何しにきたの」
「……昨日のことが、気になって」
「夜じゅう気にならなくて、今気になったの」
 寄り添って歩くビクトルとエミルの姿を見た後、とてもエミルの部屋を訪れようとは思えなかった。二人で在室していたとしても、不在だったとしても、いずれも悪い想像を拭うことはできなかっただろう。
「一晩中、気になって仕方なかったですよ」
 結果、朝までエミルとビクトルとを共に過ごさせてしまった。間抜けな話だ。
「ただ、何と言えばよいものかと……」
「まあいいや、立ち話もなんだし入って」
 投げ遣りに言って背中を向けたエミルの後に続いて部屋の奥へ進む。エミルはソファに腰を下ろした。
「……」
 一瞬躊躇したのち、ネッドもその向かいに腰掛ける。ありふれた位置が今日は苦しくぎこちなく、二人の間に沈黙が降りた。
「……話すことが決まったから来たんじゃないの」
 昨日の言葉は嘘だったと言って欲しかった。素直になれなかっただけだと。それだけでよかったし、それだけを望んでいた。しかし──
「昨日は出すぎたことを言って、すみませんでした」
 エミルは心底落胆した。昨夜ネッドの部屋を立ち去った直接の原因は、式典に来なかったことでも、説教に対してでもない。ネッドのそれらの態度の根底にあるもの、エミルの告白への拒絶だ。
「若、私はあなたに幸せになって欲しいんです。だから」
 もはや怒る気にもなれなかった。何をもってネッドは幸せなどと言うのか。自らが大多数の同族と違う感覚を持っていながら、なぜこちらには同じ形に切り揃えた幸福を押し付けるのだろう。
「わかんないんなら、もう、いいよ……」
 こんなにも収まりがつかないのはネッドの態度のせいだ。嫌なら嫌とはっきり言われていれば、もう少しさっぱりと諦められたかもしれない。しかしネッドは立場だとか幸福だとか訊いていないことをばかり語り、肝心の彼の気持ちについては教えてくれない。
 まだ子供だから、大人になったら、そう言われてどれだけ今を待ちわびたか知れない。しかし実際は何も変わらなかった。新たな理由を付けてはぐらかされ、昔の約束も守られず、自由もなく。
「ネッド、おまえはもうお役御免だ」
 声は自分でも意外なほど落ち着いていた。
「僕はもう子供じゃない。ただの〝お付き〟なんて必要なくなったんだ」
 ネッドは無言だった。驚いているのだろうか。視線は一向にこちらを向かず、斜め下の一点をじっと見つめ、呆然としているようだ。
「父上には僕から言っておく。別におまえが悪いっていうつもりじゃない。もともと僕のわがままだったんだ、塔に戻って呪いの研究をするのがおまえにとっての幸せだったはずだろ」
(おまえが僕の幸せを決めるっていうなら、僕だってそうするしかないよ)
 エミルは立ち上がり、黙って座り込んだままのネッドに容赦なく言葉を浴びせる。
「お達しがきたらすぐ出ていけるように、部屋に戻って準備しといたほうがいいんじゃない」

 自室に戻るまでの記憶はなかった。臓腑がずきずきと痛み、何もする気になれず、ベッドに横たわり、食事を運ぶ給仕がドアを叩くまで眠っていた。
 食事は受け取ったものの食欲もなく、何も食べないままトレーを返すことには罪悪感があったが、もうすぐこの場所を去るのだ、気にするほどのことでもないだろう。
 拒絶したのは自分だ。しかしいざ切り捨てられるとなればこんなにも苦しむ。無様だと思う。エミルの将来を思うからこそ寄り添うことはできないと、望んだ通りの結果ではないか。
 エミルを汚さないまま、エミルのそばにいたかった。彼が微笑む美しい世界を眺めていたかった。
 独りの部屋で、誰にともなく首を横に振る。
 昨夜、寄り添って歩く二人の姿を眺めながら、自分は何を思っただろう。今朝ビクトルに出会い言葉を聞くよりも前から〝その可能性〟を想像していたはずだ。
 何故か。あの男を放蕩者と思っているからか? エミルが内に秘める願望を知ってしまったからからか? 違うだろう。かつてエミルの手に触れ、唇に触れ、その柔らかな体を抱いた時、一度たりとも汚らわしい思いを抱いたことはなかったか──棄てると決めたそれは、眠っていただけにすぎなかった。二人の間に起きたことに容易に想像がついた理由は、自分もエミルをそうした目で見ていたからに他ならない。それでいながらエミルのことを受け容れられなかった。
『あんた、最低の男だ』
 あの男が言いたかったのは、そういうことだろう。結局のところ、自分にはエミルのそばにいる資格などないのだと思う。去りゆくことこそが正しい答えだ。

 その日のうちに通達があるものと思っていたが、夜になっても何もなく、しかし何をする気も起きず、ネッドは直接族長の許へと足を運んだ。
「夜分に失礼します」
「ああ、ネッドか……!」
 反応からして、エミルと何かしら話はしたのだろう。
「私のこと、若から何か伺っていませんか」
「聞いてるよ。喧嘩でもしたのかい? 困ったもんだよ、自分のわがままでおまえを城に呼んだこと、忘れたわけじゃないだろうに」
 族長はのんびりとした調子で、大袈裟に頭を振って溜め息を吐く。ネッドの表情が暗いのはいつものことなので、特段大きな問題が起こっているとは考えていない。
「それで……」
「エミルには頭を冷やせと伝えた。どうせ気紛れでむくれているだけだろう。安心しなさい、私はおまえを解雇する気はないから」
 族長はエミルがネッドに寄せる気持ちなど知らない。真実を知ればそんなことは言っていられなくなる。ネッドは一層表情を暗くして首を横に振った。
「私は、こちらでのおつとめを辞退したいと思っています」
「何!? 考え直さないか? エミルもきっとすぐに機嫌を直す」
「決めたことです。申し訳ありませんが、私にはもう若を受け入れてあげることはできません」
「そうか……ならば引き留めることはできないな」
 エミルの我儘に応える形で遣いを送ったときも、よもや承諾されるとは思っていなかった。今となってはネッドになんら不満はないし、幼いエミルの相手をしてくれたことにも感謝している。だからこそ、彼の主張を尊重するしかなかった。
「ただし、完全に自由にはできない。また以前のように定期的に城に来てもらうが」
「構いませんよ」
「長い間、ご苦労だったな。感謝している」
「ありがとうございます」
 族長の言葉も、今のネッドの内ではどろりとした淀になるだけだった。
(私は若を危険な目に合わせ、その未来さえ潰してしまうかもしれなかったのに)

 塔の窓から覗く、世界の色はすっかり褪めている。憂えることなどないだろう。懐かしい、よく知った景色ではないか──かつて自分が平然と見ていたものは、こんなにも寒々しく、虚しくて、何もない。結局のところ、彼とは生きる世界が違ったのだと、それを今まざまざと実感している。
「ゲホッ、ゲホ……」
 強く喉を裂くような咳が出て、ゼェゼェと肺が鳴る。これもまた懐かしい感触だった。誰からも必要とされなくなった体は彼らの恩恵を受けることもなく、生きる価値もなく、ただ肉体が擦り減るまでここで過ごすだけだ。いっそあの時エミルを守って死ねれば、幸福のまま終われたろうか。
(幸福……?)
 自分は幸福になりたかったのだろうか。エミルの望みを叶えず、約束も守らず、ただ失望させて泣かせて、自分だけが幸福になりたかったのだろうか。
 ネッドは首を横に振る。ただかつての生活に戻るだけ。美しい夢から覚めただけだ。

「ねえ、今日、ネッドを見た?」
 城門の前で見張りをしているソードマンのディラックに、エミルはそわそわと落ち着かない様子で問うた。
「ネッド? だって三ヶ月も前に……」
 城勤めを自ら辞退した。実のところはエミルと不和が生じて追い出されたという噂だったが、真実を知るものは現在の城内にはエミルしかいない。
 エミルの幼い頃を知る者は「あんなに懐いてたのに」と驚いたが、ネッドが唐突に城に呼ばれたいきさつを考えれば、唐突な解雇もありえない話ではないように思えた。
「今日は報告の日のはずだよ」
 族長にも確認済みだ。以前の報告は六ヶ月周期だったが、環境を戻した直後ということで短めの日程にしたと聞いている。
「ああ……なるほど」
 ディラックは小さく鼻を鳴らして苦笑する。
「若、本当はネッドのこと気になってしょうがないんでしょう。仲直りしたら?」
 エミルは目を見開き、ぴくりと眉を釣り上げた。
「は? 仲直りってなに? 別にケンカとかしてないし、あいつ鬱陶しいし、僕はもう子供じゃないからお付きなんて必要ないし」
 その態度が子供っぽいというのに、自覚はないのだろう。
「子供じゃなくたって、若にお付きがいたほうが我々も安心です。彼の術の腕は確かですしね」
「それさ、暗に僕のこと頼りないって言ってない?」
「そんなことはないですけど?」
 無論、健全な関係としてではあるが、エミルとネッドが親しいことは周知の事実で、今回の件はちょっとした喧嘩だろうと思われていた。すぐに仲直りするだろうと周囲も口出しせずにいたのだが、それがはや数ヶ月だ。エミルは明らかに気にしている様子であるし、ネッドはあれから一度も顔を出さない。

「ネッド、とうとう来なかったみたい」
 その日何度目かでディラックのもとを訪れたエミルは、落ちかけた日の下で肩を落とした。
(僕はネッドに会いたいのに、ネッドは僕に会いたくないのかな)
 あの日確かに失望はしたが、それでも積年の想いは潰えなかった。なぜあそこまで──城から追い出すまでに突き放してしまったのか、そしてネッドは抵抗もせず自らそれを受け入れたのかと、一人になるたびにぐるぐると同じことを考えていた。
「忘れてるんじゃないですか? 俺なら一人で閉じ篭ってたら毎日正しく寝たり起きたりなんてできませんね!」
「そうなのかな……」
「もしくは、若の勘違いでほんとは今日じゃないんじゃ?」
「父上にも確認したし、それはないと思うけどな……」

 翌朝、エミルは城を抜け出てネッドの住む森の塔を訪れていた。
 過去の恐ろしい記憶が蘇ったが、塔はあの件の近くではないし、自分も無力なだけの子供ではない。剣もあるし身を守る術も使える。時刻もまだ昼前で、ネッドを連れて帰るにも充分に明るくて安全なはずだ。
 コン、コン──重いドアノッカーを古びた扉に何度かぶつけるが、誰も出てこない。
「ネッド〜、僕だよ〜〜」
 言いながら扉を叩くが同様だ。
(きっと、気まずくて出てこられないんだな)
 にわかに不安になりながら、そう思い込んで扉を開ける。鍵は掛かっていなかった。
「ネッド、迎えにきたよ!」
「ねえ、定期報告忘れてるだろ!」
「出ておいで、父上にはうまい言い訳考えてあげるからさあ!」
 部屋を覗いては声を張り上げ、辺りを見回し、階段を登り、それを何度か繰り返す。あれほど好きだったはずの不気味なモチーフが今はただ不吉なものに見えて、悪い予感に自然と早足になる。
「ネッド!」
 いくつめかの部屋を覗くや、床にうつ伏せに倒れ込むネッドを見つけて慌てて駆け寄った。報告に使うつもりだったのか、周囲には書類が散乱している。
「ネッド、ネッド……」
 痩身ではあるが、上背があって力の抜け切った身体はそれなりに重いはずだった。しかしエミルはもろともせずにネッドの体を仰向けに反転させ、座り込んだ自分の膝に上半身を抱え起す。白い顔と閉ざされたままの瞳にぞっとしながら体を揺らした。
「ネッド。いやだよ、ネッド……!」
 生まれつき体力がないとか、塔に住んでいた頃は体調が悪かったと聞いたことはあった。城に住んでいる間にはそういった様子は見えなかったから、完治したものと思っていたのだが──
「うぅっ……」
 力のない身体を抱え、エミルはやがて嗚咽を漏らす。
 エミルの体から溢れた熱が頬を伝ってネッドの頬に落ちる。一つ、また一つと雫を落とすうち、白く薄い唇の縁に辿り着いたものを、ちろりと動いた舌先が舐め取った。ゆっくりと瞼が持ち上がりアイスブルーの瞳が現れる、それを認めてもエミルは即座に状況を把握できなかった。
「なんですか、騒々しい……」
 弱々しい声で、しかしいつもの朝とまるで変わらぬ口調で言われてようやくエミルは声を上げ、しがみつくように抱きついた。
「ネッド……! 定期報告に来ないから、様子見に来たら倒れてたんじゃないか!」
「……私、また死ねなかったんですね」
 以前この森で負傷して死に掛けた時と同じだった。声か感触か、どちらが先かは覚えていないがとかくエミルの存在を感じて、呼び戻されるように目を開ければそこにはエミルの泣き顔があった。
「何言ってんだよ……死ぬなんて許さないって言ったはずだ……」
 エミルは瞳に涙を溜めたまま、震えながら首を横に振る。
「しかし私はもう、若のお付きではないので……」
「そんなの、今からまたする! だから死んじゃだめ!」
 再びぼろぼろと大粒の涙を零し、目元を腕で覆った。
「……相変わらず、勝手なひとですね」
 昔から変わらないと苦笑して重い腕を上げ、柔らかに垂れる金糸に触れて、そこから伝うように頭を撫でた。幼い時以来だろうから、離れていた間よりも随分と久しぶりの感触だ。
「私、若のこと嫌になったわけじゃないんですよ」
 何を言おうと考えたわけでもなく、言葉が口から零れていた。
(知ってるよ。おまえは僕を拒否したとき、一度も嫌いとは言わなかった)
 無論それだけで喜ぶこともできず、エミルは複雑な気持ちで眉を八の字にした。ネッドの手を掴まえて自らの頬に寄せると、異様に細長く節くれだった指が明確にびくりと震え強張る。
「ネッド、僕はおまえが好きだよ。おまえは? 嫌いじゃないならなに?」
 強い光を宿した瞳がこちらを見つめる。逃れるように目を細め、視線を横に向けた。
「……許してはもらえませんか」
 しかし返る言葉は非情だ。
「やだ、許さない。……どうして認めないんだ」
 認めない──ああ、そうだった。真実に気付きながら、しかし認めるわけにはいかないのだ。
「私とあなたでは、立場が違いすぎる」
「僕が族長の子供だからって? そんなの、僕の家族以外全員立場が違うって話になる」
 三ヶ月前にもまるで同じようなことを言われたが、今は随分と落ち着いてその言葉を捉えられる。あの日は日中の式典から引き摺った不機嫌と期待が胸の内の多くを占めていて、ひどく感情的になっていたのだと思う。
「あなたから逃げ続けてきた、卑怯で卑屈な男です。私が司るものは陰と呪いと──私はあなたを不幸にするかもしれない」
 エミルはキッと眉を吊り上げ、迷いも躊躇いもなく言い放つ。
「ぜんっぜんわかんない! 僕はおまえといたって呪われないし不幸にもならない。だってずっと、おまえと一緒にいたいって思ってるんだから」
 自分の存在のせいでエミルの運命が変わると考えるのは、自惚れなのかもしれない。彼の強い言葉を聞くとそんな気にもなる。しかし、とネッドは首を横に振る。
「私は……私でいられなくなるような気がして……」
 言葉が縺れて上手く話せない。エミルのことは好きだ。だから不幸な運命にはしたくないし、それは自分の望みでもない。
「でも一人にしたら死ぬかもしれないんだろ。だったらおまえがおまえでなくなったって、僕はおまえのそばにいる」
「勝手なことを……」
 体が熱い。脈が速く、呼吸も自然と強くなる。エミルの頬に触れたままだった手のひらにようやく感覚が生まれ、その暖かで柔らかな感触がおかしいくらいに胸を掻き乱していた。
「ひとりぼっちになって死のうとして、勝手なのはどっちなんだよ」
 眉を寄せた顔が再び泣き出しそうに歪む。未だ雫は落ちずに、瞳の表面に輝く被膜になって留まっていた。
「そんな顔、しないでください」
「じゃあこんな顔、させるなよ……」
 エミルの細めた瞳が、顔が近付いて、やがて閉ざされた瞼に阻まれ見えなくなる。唇に、暖かく柔らかな感触があった。薄い皮膚から伝わる体温が融け合って、彼の唾液は自分の唾液になり、不自由な呼吸の狭間から彼の息が流れ込んでは肺へ向かう。彼が自分を生かしている──リアルな感触から導かれる妄想の中で恍惚としながら、頬を、髪を撫で回していた。
「ネッド、僕はおまえが好き。愛してるんだ。だからどこにも行かないで、独りで死ぬなんて考えないで」
「若……私もあなたのことを、ずっと、お慕いしていました……」
 もはや一切の抵抗もなく、言葉はつらつらと唇から溢れ落ちる。
「ネッド……!」
 小さな体から想像もつかないほどの力で抱き竦められ、身体が潰れて壊れてしまいそうだった。いっそこのまま死ねたらどれだけ幸福だろうと性懲りもなく考えるが、しかしエミルのそばでは発作は起こらない。難儀なものだと思う。
「嬉しいよう……!」
 エミルは頬を上気させ、目を爛々とさせて、抱き締める腕を緩めたり、強めたり、ネッドの肩をさすったり、頬ずりしたりと落ち着かない様子だ。
「わ、若……」
「ハッそうだ! まだどっか痛い? ていうかなんで倒れてたんだっけ?」
 なんともなく会話していたので失念していたが、ネッドは少なくとも半日以上はここで倒れていたはずだ。一変して神妙な顔つきでネッドを覗き込む。
「だ、大丈夫だと思います……特に痛いところもないですし……」
 ネッドとしては、久々にして熱烈なスキンシップが照れくさくて声を発しただけだった。身体を起こし、自分の力で立ち上がってローブの裾を直す。
「念のためメディックに診てもらおう。ね、一緒に帰って、またお付きをしてくれるよね?」
 傾げる首の角度も頭の上のつむじもなんとも懐かしく愛しくて、ネッドは顔を俯けて笑った。
「断っても連れて行く気でしょう?」
「まぁね♪」

 エミルの部屋のソファに二人隣り合って座り、手先を遊ばせながら他愛のない話をする。二人にとって日常となった時間だった。
「ネッドさ、昔、塔に住んでたときは毎日何して過ごしてたの」
 成年に達したとはいえエミルは未だ学業から解放されず、年月を経ればやがて何かしらの務めを担うという自覚もあった。ではネッドはどうだったのかと、不意に興味が湧いた。定期報告に来ていた頃にだって、ネッドが具体的に何をしているのかはよく知らなかったのだ。
「呪術の探究とか……ですね。忙しい日々が過ぎるのは早いですけど、代わり映えしない日々だって早いもんですよ。日にちの意識がなくなるので」
「探究って? 最強の呪いってこと?」
 エミルは瞳に星を浮かべる。まるで昔のままだ。
「まあ、そういうものですね」
 人の力では制御しきれないと云われる、禁呪というものがある。それを少ない代償で制御するすべ、或いは同等の呪言──などと説明すればエミルは余計な興味を持ってしまうだろうから、控えることにする。
「じゃあ、一応目標とか夢とかあったわけだね♪」
「夢なんて大層なもんじゃないですけどね」
 エミルの口を介せばそうなってしまうのか。ネッドは視線を遠くへ遣り、薄い笑みを浮かべる。
「まあ、もう成就することはないと思いますよ」
「どうして? お城のことで忙しいから?」
 それとエミルの相手と──とは言わずに、ネッドはエミルの手を握り、互いの指の一本一本を交互に組み合わせた。体の末端同士が密接に触れ合い絡み合うと、なんとも心嬉しい気持ちになる。
「あなたと結ばれてしまったので」
 にぎにぎとネッドの手を握ったり緩めたりしながら、エミルは頭の上にクエスチョンマークを飛ばしている。
「健全な精神と健康な肉体に強力な呪いは宿せないんです」
「ん〜? 呪いってそういうもんなの?」
「大掛かりな儀式に生贄が必要なようなもので……まあ、この話はもういいでしょう」
「恨みのパワーみたいな? 絶望すれば呪いは強くなる?」
 案の定、興味を持たれてしまった。身を乗り出し、瞳を輝かせながら顔に似合わぬ物騒な言葉を発するエミルに圧されるようにネッドは仰け反りながら答える。
「そういうこともなくはないですが、何にせよ今の私とは無縁ってことです」
「そっか、じゃあ」
 エミルはさも名案を思いついたように、唇を綺麗な曲線にして笑う。
「おまえは僕をいっぱい愛すればいい」
「だから、それでは私は幸せになって──」
 もはや呪いを成就させようとは思っていないからそれは構わないのだが、エミルは果たして今までの話を聞いていたのかということだ。
「おまえが僕を愛して、愛して、いつか僕が死んだとき、最強の呪いができるように」
 意地悪い風でもなく、飽くまで良い思い付きだと笑うエミルを信じられない思いで見つめ、見つめてもいられなくなって胸に抱き竦めた。
 死はいずれ誰にも訪れる。いつかエミルにも話したことで、あの時エミルが涙を流した理由を今になって突き付けられた心地だった。
(もしそうなれば、そうかもしれませんが、ありえないでしょう……?)
 言葉が出ないどころか頭の中さえ混沌としている。取り乱しているのだ。彼のために生きて、彼を喪えばおそらく正気ではいられない。もはやそれほどまでにエミルの存在は大きい。
「やめてくださいよ、悪い冗談は……もう、禁呪なんて必要ないんですってば」
 絞り出した声は震えていた。エミルは顔を上げ、きょとんとしてネッドの顔を覗き込む。
「じゃあ僕のこと愛さない?」
「そんなこと言ってないでしょ。……愛してますよ、エミル」
 どちらともなく顔を寄せ合い唇を重ね、しっかりと手を握り直す。
「僕も」
 深い色の瞳が妖しく笑う。握ったままの手を引かれれば理性は簡単に吹き飛んで、浅はかなからだは彼の底に引き摺り込まれ溺れていく。
「愛してる」
 心も体も縛り付ける、それは甘美にして究極の呪いだった。

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