スターダスト

 ──ピンポーン
「はいよー……うわっ!?」
 散歩だか買い物だかに行っていた牧が戻ったのだろうと、迷いなくドアを開けた藤真の目に飛び込んできたのは、わさわさと音を立てる細長い植物だった。全長二メートルは超えるであろうそれを抱えた同居人に、訝しげな視線を送る。
「なんだよそれ」
「七夕の笹をもらってきた」
「なんで?」
「なんでって、願いごと書いて吊るすだろう。知らないのか?」
「知ってるけど……」
 その風習を知らないわけではないし、近所の商店街にアーチのように立ててあるのも最近目にしたばかりだ。小学生のときにクラスごとの笹を学校に飾った記憶もある。ただ、それを家で行う発想は藤真にはなかった。
(うちでやってなかったってだけで、割と普通なのか?)
「ベランダに飾ろう」
 牧は当然の顔で、右手に笹を、左手には買い物してきたレジ袋を持ったままリビングへと向かう。笹の葉がパラパラ落ちて、足あとのように床を散らかした。
「あ〜あ〜」
(やっぱりあんまり普通でもない気がする……)
「おーい藤真、手伝ってくれ」
「は〜い」
 まあいいかと牧のもとへ行き、掃き出し窓を開けてやる。買い物袋から出てきた緑色のビニールひもを使って、ベランダの手すりに笹を括りつけるのを手伝った。
「このくらい縛っとけば大丈夫だろう。今年の七夕は晴れって予報だったが、夜も雨降らないといいな」
「うん……」
「どうした?」
「七夕なんて、しばらく気にしたことなかった」
「俺も久しぶりだ、高校のときはそんな余裕なかったからな。材料を買ってきたから、一緒に飾りつけを作ろう」
 買い物袋をガサガサ鳴らして至極楽しげにする牧の顔を、藤真はなんとも不思議な気分で見返す。
(今日用事ないかって聞いてきてたの、これのためだったのか)
「嫌か?」
「ううん。嫌じゃないけど」
 あまり、いやまったく想像していなかったことで、少し戸惑っただけだ。

「折り紙も、色画用紙もあるからな。自由に使ってくれ」
 ダイニングテーブルの上に色とりどりの紙とハサミやテープを並べると、牧は満足げに頷いた。
「自由にって言われても、たぶん小学生以来だからなー……なんだ、作りかたの説明書があるんじゃんか。あー、あったこんなの!」
 〝親子でつくろう! カンタン七夕かざり〟という手作り感のあるリーフレットを眺めると、ほとんど埋没していた記憶もうっすら蘇る。
「おーし、じゃあまずちょうちんを作ってみるか。谷折り、山折りとかあったわ懐かし〜」
 リーフレットを睨みながら、慎重に紙に切り込みを入れていく──が、向かいから熱い視線を感じて非常に落ち着かない。
「……なんだよ?」
「藤真が折り紙してるところ初めて見た」
 大真面目な顔でそう言い放った男に、呆れるやら面白いやらで思わず吹き出してしまった。
「お前がしろって言ったんじゃんか。見てないでお前も作れよ」
「ああ、そうだったな」
 牧は黄色の折り紙を折っては開き、また折って開く。その動作には、明確な意図があるように見える。
(うん、オレも牧が折り紙してるの初めて見た)
 いまさら大柄とも老け顔とも思わないほどに見慣れた姿だが、小さな折り紙の端を慎重に合わせていくさまは新鮮で、不覚にも可愛らしく感じられた。
「……で、それは何を作ってるんだ?」
「カエルだ。後ろを押すと跳ねるぞ」
 尻にあたる部分を得意げに指で押すと、三角の頭をしたカエルがささやかに跳ねた。
「カエルを、七夕の笹に吊るすのか?」
「ひもを付ければなんだって吊るせるだろう」
「自由だな」
 早々に次の作品に取り掛かる牧を視界の端に残しながら、藤真も自分の作業に戻る。
「できたぞ、定番の網飾りだ」「今ビリっていったけど破けたんじゃね」「いってない。気のせいだ」
「できた! ブサイクな鶴!」「……本当にブサイクだな。なんでそんなことに」「突然変異」
「星を折ろう」「それはもう星形に切ったほうが早くね?」
「ちんぽの折り紙ってないのかな」「折れないことはないだろうが……笹に吊るしたいか?」「吊るしたい! 上向けて! 吊るしたくない?」
 ああだこうだと言いながら工作するのは思いのほか楽しいもので、藤真も積極的に余計なものを作るようになっていた。
「そうだ、あれがないじゃないか、輪っかの繋がったやつ」
「おー、そういえば」
 紫と黄緑の折り紙を手にした牧を見て、藤真は苦笑した。
(いつまでその色にこだわってんだよ)
 紫と緑は海南と翔陽のチームカラーだった。二人が母校に関わることはもはやなくなっていたが、牧はいまだにそれを気に入っているようで、その手のカラーリングの品物を見つけるたびに『ちょうど紫と緑があったぞ』と揃いで買ってくる。輪飾りの色選びも偶然ではないだろう。
「じゃあオレは金と銀で作るかな」
「──楽しいな」
「意外とね」
「同棲ってやっぱりいいもんだ」
(同棲してよかったこと:恋人と折り紙で遊んで楽しかった、ってか? いや、意外とアリだな。好感度は絶対高いわ)
「どうした? 黙り込んで」
「お前の天然の社交スキルに感心してた」
「?」
 確かに、離れて暮らしていて、たまのデートで折り紙や工作はそうそうしないだろう。そしてデートとも特別とも呼べないような日常の中で、相手の新たな表情を知っていく。
(付き合ってただけじゃ、まだ大して知らなかったんだよな。たぶんお互い)
 藤真にとってそれは今のところポジティブなもので、一緒に住む前に危惧した落胆などはない。しかし、果たして牧はどうだろう。
「飾りはもう充分だろう。短冊を書くか」
 牧は薄い黄色の色画用紙を細長く折って切り、テーブルの上に並べた。
「願いごとか。どうすっかなー」
「俺はあっちで書いてくる」
 自らが並べた短冊を何枚か手に取ると、牧はソファのほうを見遣った。書きものには適さないだろうが、一応あちらにもテーブルはある。
「なんで?」
「願いごとは人に見えないようにしないといけないだろう」
「そんなルールだったっけ?」
 商店街の笹の短冊とかめちゃくちゃ見えてたけど、と思ったが、特にこだわりもないのでそれ以上は言わなかった。
(まあ、確かに見られてないほうが書きやすいか。それにしても……)
 いざ願いごとと言われると思いつかないものだった。子供のころならばパイロットだのケーキ屋さんだの、当時の〝夢の職業〟を書いたかもしれない。去年の七月といえば、地区予選に敗れたあとだったが──
(いや、バスケ以外だな。猫を飼いた……いやいや、あんなこと言ってあいつオレの短冊見るかもしれないから、無理すればいけるようなことはちょっと)
 そう考えてしまうと難易度は跳ね上がった。いっそ普通に買えそうな欲しいものを書くのはどうだろう。
(七夕はサンタさんじゃねーから!)
 正直なところ、今の生活に不満はなかった。幸せと言うのは大仰な気がするが、少なくとも不幸ではなく、日々はそれなりに忙しく楽しい。ならば自分には何も願いが、願望がないのだろうか。
(今の感じが、ずっと続けばいいような気がしてる)
(でもオレたちはまだ学生で、この先変わらないことなんて、たぶんないと思ってて)
 絶望も失望も後悔も、遠い記憶ではない。信じて期待するだけ傷つくのだと知っている。道端で人に踏みにじられる花なら、はじめから咲かないほうがよかったのではないか、そんなふうに思ったこともある。
(何をメンヘラってんだオレは。ただの年中行事だ、適当でいいんだよ)
 そうして一枚の短冊にでかでかと『大金持ちになりたい』と書いた。
(嘘ではないよな。金はあるほうがいいに決まってるし)
「いや……」
 大金持ちの短冊をたたんで千切ってゴミ箱に捨て、テーブルの上にまだ残っている白紙の短冊に、藤真は難しい顔つきでペンを走らせた。
(こんなもんかな)
 見えないようにと言われていたので、テーブルの上に短冊を裏返して牧のほうを振り返る。牧はとうに書き終わった様子で、ソファの背もたれに寄り掛かってテレビを眺めていたが、藤真の視線に気づくとこちらに戻ってくる。
「書けたか?」
「うん。大人になって願いごととか、意外と思いつかなかったけどなんとか」
「無欲なんだな」
「そういうわけじゃないと思うけど」
(願いごとが叶わないのが嫌だから書けないとか、我ながらめんどくさくて言えねえ……)
「それじゃあ、ひもを付けて笹に吊るそう」

 夜。空気は湿気ているが、天気は持った。灰色に煙る雨雲も今はなく、藍色の空に星が輝いている。
 牧は目を細めてそれを眺め、一人ベランダで缶ビールをあおる。ぬるい外気のまとわりつく感触とは対照的に、冷えた炭酸の喉ごしが爽快で美味かった。
 かたわら、昼間作った笹飾りが弱い風にサラサラと涼しげな音を立てる。外は暗いが、部屋からの明かりでその姿はしっかり確認できる。思い思いのモチーフとふたりの願いをぶら下げたそれは、牧の目に無性に愛らしく愛しいものとして映った。
(抱きしめたいくらいだ)
 さすがにそれはしないが、と再びビールの缶を傾けると、背後でカラカラと引き戸の開く音がした。風呂上がりの甘く清潔な香りが鼻腔を撫でる。
「牧」
「お、上がったか。見てみろ、星がきれいだぞ」
「ほし……」
 藤真は牧の隣に並ぶと、言われるままに天を見上げた。夜空に散った星が物珍しく感じられるのは、梅雨どきで雨が続いていたせいだろうか。そもそも星を眺めて何かを思う余裕など、ずいぶんとなかったような気がする。
(きれい、か……)
 ちらりと覗き見た、牧の表情は穏やかだ。
そこから迷いなく発せられた言葉を、頭の中に反芻する。確かに星はきれいだ、異議はない。しかし胸の底が少し、煮えるように苦しい。
 きれいだのかわいいだのといった感覚は女子のもので、男のものではない──そう思ったのは小学生のときか、もっと前だったろうか。女の子に間違われたり、かわいいと言われることを極端に嫌っていた子供の藤真は、それらの言葉を意図的に忌避するようになっていった。今はほとんど気にしなくなったつもりだが、それでもまだどこかにこびりついているのだろう。だから牧の無為の言葉が、こんなにも刺さるのだ。
 ただ勝ちたいだけではなかった。虚勢など必要としない彼の在りかたが、ずっと羨ましかったのだと思う。
(くだらない……)
 藤真は牧の手から缶ビールを取ってふたくちほど飲み、またその手の中に戻す。藤真の思量など知るよしもない牧は、ただ微笑ましい気分になって頬を緩めた。
「いい七夕の夜だ。織姫と彦星もきっと喜んでる」
「くっさ!」
 牧の素直さは好ましいものの、自分はここまで純粋にはなれないだろうなと、藤真は苦笑する。
「ロマンチックじゃないか。離ればなれの恋人って、ちょっと昔の俺たちみたいで」
「ねえわー」
「ロミオとジュリエットのほうがよかったか?」
「オレのことメンヘラ女だって言いたいのかよ?」
「そんなこと言ってないだろう」
 それに別にあれはメンヘラの話でもなかったと思うが──とまでは続けずに、今度は牧がビールを飲んだ。
「でもさ、一年越しに会ったらきっとやりまくりだよな」
「……だろうな」
「ミルキーウェイって実はそういう意味なんじゃね。白濁的な」
「母乳じゃなかったか? 織姫の母乳」
「そっちか。まあどっちにしろやってるな」
 正しい逸話を知る人間がこの場にいないため、ふたりはいかにも納得した顔でうんうん頷いた。
「……でも実際はさ、一年も放っておかれたら他の相手作ってるよな」
「藤真は、そうなのか?」
「そうじゃね? 家族でもないのに、まる一年会えない相手にこだわる必要あるか? いや、そういう状況なったことねーけど」
 確かに、藤真であれば引く手あまただろう。まして男同士で、将来の約束もできないまま縛り合うことなど、果たしてできるだろうか。
「……そうだな。気をつける」
「なんだよ、どっか行く予定でもあんのかよ」
 藤真の声が、明確に不快感を帯びる。
「それはないが」
「だったら変なこと言うんじゃねえ」
 牧の手から缶を奪い、ふいと正面を向いてビールをあおった。缶は戻らず、視線はそのまま空の上、唇の先は少しだけ尖っている。機嫌を損ねてしまったようだ。
(藤真……!)
 そんな仕草に、その裏にあるこころの動きに、心臓を掴まれくすぐられて堪らなくて、藤真の背中に腕を回して抱き寄せていた。
「……なに」
「いいにおいだ」
「別に、なんも変えてないけど」
 うなじや耳の後ろを、高い鼻先が掠めてくすぐったい。逃げるように頭を横に傾けるが、大きな手に顎を捕らわれてしまった。
「ん、むっ……!」
 乱暴ではないが少しだけ強引に、厚い唇に口を食まれる。強く吸われた舌に甘く歯を立てられる感触は、親愛のキスとは違うセックスのそれで、藤真は総毛立って思いきり顔を背けた。
「ッ!! なんなんだよ、いきなり」
「今度から、言ってからキスしたほうがいいか?」
「いちいち言うな、そんなの」
「難しいやつだな」
 キスこそ拒んだが牧の腕はほどかないまま、藤真の視線はビール缶のふちをなぞる。
「……牧って、なんでオレがよかったんだっけ」
 傲慢な問いだろうが、それは確かな事実でもあるはずだ。だからふたりはこうして一緒に暮らしている。
「なんでって、なんでだ?」
「だってオレ、結構口が悪いだろ。品がないっつうか。文化的なもんとか興味ないし」
 なにかと斜に構えたような捉えかたをしてしまう自覚もある。特段それを悪いとは思わずにきたが、たびたび育ちのよさをうかがわせる牧にとって好ましい人間かどうかは疑問だ。
「文化なんて、俺にもよくわからんが」
(いや、今の七夕の笹とか、季節のイベントごと好きじゃんかってことなんだが、通じなかったか)
 藤真が口を開くより先に、牧の言葉が続いた。
「興味の範囲が全部重なってる必要はないだろう。きっとそのほうが楽しい」
「……まあ、そう言われたらそうかも」
「特別口が悪いと思ったこともない」
「そうなんだ。ならよかった」
(ただ、藤真はそうして戦ってきたのかって勝手に思い入れをして)
「……俺が勝手に惚れたってだけだ」
「!?」
 牧が照れたように目をそらしたと認めると、藤真もとたんに照れくさくなって顔を背けた。頬が熱い。
「は、なに、いきなり……」
「どこがよかったのかって、お前が聞いてきたんじゃないか」
 色黒の大きな手が、白いこぶしを包むように握った。
 暖かく乾いた手のひらの感触に、汗ばんで冷めた自らの手を自覚させられて気恥ずかしい。
 くすぐったくて、落ち着かず、どこかに逃げ隠れてしまいたいような、しかしこのままいたいような。
(一緒に住んでてもまだ、こんな気持ちになるもんなんだな)
 手を取り戻そうと自らのほうへ引くと、牧の手も離れずついてくる。
「はなせ」
「取れなくなった」
「ウソつけ!」
 藤真は構わず体を反転させ、牧も連れられて部屋に戻って行く、背後で夜空に星が降る。
『ずっと一緒にいられますように』
『願いが叶いますように』
 漂白された想いはそれを仰ぎ、寄り添うように揺れていた。

ふたりぐらし 2

2.

 東京都世田谷区某所の賃貸マンション。個別の部屋が二つに、ひと繋がりになったリビング・ダイニング・キッチンというオーソドックスな2LDKの物件を、牧と藤真は契約した。複数人で住むことを想定されたつくりのため、バス・トイレは別で洗面所もある。牧の希望だったカウンターキッチンではないものの、角部屋で日当たり良好な三階であることなど、諸々の条件から決定したものだった。
 まだ何もない、がらんどうな居間を、藤真はひとり見渡す。不動産屋の担当者と牧と三人で内見に来たときよりも、ずっと広く見えた。
「藤真」
「牧。さすがに今日はスーツじゃねえんだな」
 藤真は声のほうを──居間から廊下に続くドアを振り返り、愉快そうに笑った。不動産屋に物件を探しに行ったときの牧がスーツ姿だったためだ。気合を入れたとか、嘗められないようにだとかよくわからないことを言っていたが、その甲斐あってか店員の対応は丁寧だった気がする。最初のアンケートにしっかりと年齢は書いていたのだが。
「今日は引っ越しの作業があるからな」
「つっても、重いもの運ぶのは引っ越し屋だろ? ベッドだって組み立てサービス付きだし」
「それより、ちゃんと鍵を掛けてくれ」
「あ?」
 牧はいかにもよろしくないと言いたげに眉を顰めている。
「無用心だろう」
 藤真もあえて牧と同じように眉を顰める。理解できないというアピールだ。
「別に、オレがいるし、盗られるもんなんてまだないし、お前がすぐ来るって思ってたからじゃんか」
「……とにかく、今度から気をつけてくれ」
「はいはい」
 牧はおおらかなようでいて意外と神経質なところがある。たいてい藤真にとっては些細なことで、あまり共感はできないのだが、意地を張るようなことでもないだろうと頷いた。
「しっかし、ほんとになんもねえなー」
 藤真はあらためて見たままを呟いた。彼にとっては初めての引越しだ。
「お前がいる」
「ん?」
 牧は藤真の手を取ると、包み込むように握った。
「なにもない部屋に藤真と俺がいて、これから新しい生活が始まるんだ。わくわくする」
「ワクワクて……」
 牧の晴れやかで穏やかな笑顔を見ると無性に照れくさくなって、「あんまり言わなくねえ?」と小さく口籠もる。牧は不思議そうな顔をした。
「なんだ、お前は楽しみじゃないのか?」
「……オレはなんか、ヘンな感じ」
 大学進学にあたってはふたりともスポーツ推薦を受け、昨年のうちに合格をもらっていた。それから部屋の場所や条件、どういう家具を置きたいなど話し合い、不動産屋や(藤真は遠慮したのだが)家具屋にも一緒に行った。親に相談することもあったが、基本的にはふたりでことを進めてきて、今日までにいくらでも時間はあった。それでもどこか現実味がないと感じてしまう。
「や、別に嫌って意味じゃなくて」
「嫌じゃないならいい。……お前は親もとを離れるわけだしな」
「あー、そういうのもあるかな」
 牧と一緒に暮らすことと、家族から離れて自分で家事などをして生活していくことと。経験のないことが重なって、手探りの感覚なのだと思う。牧は高校時代から一人暮らしだったから、その点の心配はしていないのだろう。
 ──ピンポーン
 インターホンの音がした。予定通り、牧の部屋に置く新しいベッドが届いたようだ。彼の強い願望だったダブルベッドである。男二人暮らしの家にそれはいかがなものかと藤真は思ったのだが、牧の持ちものに口を出すことでもないかと黙っていた。もともと牧が使っていたセミダブルのベッドは藤真が貰うことになっている。じきに引越し業者が運んでくるだろう。
『俺が使ってたベッドをこれからお前が使うのか! なんだかドキドキするな』
『なにそれこわ、やっぱり貰うのやめようかな……』
『すまん、気にしないでくれ。ベッド自体は汚れてないし、マットレスは新しいの買うからな』
『いやマットレスくらい自分で買うし』
 そんなやり取りもあったが、牧のベッドは使わないなら処分するしかないこと、藤真の実家の部屋にベッドを置いたままにできることから、結局藤真が譲り受けることになったのだった。

 ベッドの配送業者が帰ったあと、藤真は牧の部屋を覗いて思わず笑う。
「この部屋、ベッド置いて終わりじゃんかっ!」
 もともとあまり広くはない部屋にダブルベッドを置いたものだから、残りのスペースはごく限られたものになってしまった。部屋とベッドの寸法は確認済みだった牧も、実際設置してみての圧迫感には少し戸惑ってしまう。
「……まあ、いいんじゃないか、ラブホみたいで」
「うん、思った」
「テレビとテーブルとソファは居間にいくし、あとは小さいタンスとベッドの横のあれだけだから大丈夫だろう」
 あれ、と言いながら両の指で四角を作る。ベッドのサイドテーブルのことだった。
「机は相変わらずないんだな」
「置けないだろう?」
「初めから置く気なかっただろ」
「だって、家で勉強なんてしなくないか? いや、テーブルはあるんだし、問題ないだろう」
「オレはちゃんと勉強してたぜ?」
(監督の勉強だけど)
 テスト前の勉強については主に花形のところで済ませていたので、もはや自室の机は無くてもそう困らないのかもしれない。一応、引越しの荷物には含めたが。

 牧の旧居からきたベッドと新しいマットレスと、積み上げられた段ボールに囲まれて、藤真は途方に暮れていた。
(くそぅ、どっから手をつければいいんだ……!?)
 藤真は牧とは違って実家からの引越しだ。こまごまとしたものについては必要になってから取りに行くなり宅配で送るという選択肢もあったのだが、何度も行き来するのも面倒だと感じ、引越し業者を使った通常の引越しにした。しかし、選択を誤ったかもしれない。
 とりあえず窓にカーテンは取り付けた。それから段ボール箱の開封だが、どの箱に何が入っているのかわからない。本の箱は明らかに重くて小さいのでわかるが──というか、なぜこんなに箱があるのだろう。ひとりの部屋にこんなに物が必要だったろうか。
(オレって、引っ越し苦手だったんだな。初めて知った)
 手近な箱を開けると、バスタオルが入っていた。母親が詰めたものだ。引越し先で新しく買えばいいと思っていたが、今日これから買いに出るのは面倒だったかもしれない。
(で、バスタオルって普通どこにしまうんだよ……つうか、パジャマとお風呂セットを発掘しないと困るよな)
「藤真、なんか手伝うか?」
 開けっぱなしにしていた部屋のドアから、牧が顔を覗かせた。
「え、自分のほうをやれよ」
「俺の部屋は終わった」
「もう!?」
「あんまり物ないからな。……これだと寝るまでに片付かないんじゃないか? そうだ、今日は俺の部屋で寝たらどうだ?」
 牧はにこにことして、さも名案だと言わんばかりだ。一方藤真は顔を顰める。
「えー、今日ヤる気しない。そんな暇あるなら部屋片付けるし」
「やらなくたっていいじゃないか。ダブルベッドだぞ、一緒に寝ても狭くないんだ」
 無理やり行為に及ぶようなことはない男だ。単純に、新しいベッドにふたりで寝てみたいというだけだろう。藤真のベッドの上には、収納場所に困ったものがとりあえず並べて置いてある。
「……じゃあ気が向いたら」
「で、そろそろ晩メシにしないか?」
「え? うわまじだ」
 藤真は牧の腕時計を見て目を瞬いた。今後は当番制で自炊などもしていく予定だが、今日は忙しいかもしれないから外食か出前にしよう、とは以前から決めていたことだ。
「外を散策するには明るいときのほうがいいだろうから、今日は宅配ピザなんてどうだ?」
 牧は手に持っていたチラシを藤真の目の前に広げた。
「……いいけど、牧っぽくねえな」
「そ、そうか?」
 以前一緒にハンバーガーを食べたとき、ファーストフードはあまり食べないと言っていた。時間帯や、知り合いに遭遇したくないという事情もあり、ふたりでの食事は比較的大人の客が多い店が主だった。
「うん。でも、いんじゃね? ドリンクはジンジャーエールな」
「嫌いじゃないならよかった。……俺はずっと、お前と一緒に宅配ピザを食ってみたかったんだ」
「なんっっだそりゃ」
 妙に切々とした語り口の牧に、ごく素直な反応を返す。
「量的にはいけるんだが、食べ終わったあとのもたれる感じがよくないっつうか……ひとりで食うもんじゃねえなと思ったことがある」
「あー、お前あんまり悪いアブラ摂らねえもんな」
 悪いかどうかはピザの内容にもよるだろうが、あくまで藤真の主観だ。体を作るために栄養価を気にしているというよりは、元々の食事の好みによるものだと聞いたことがあった。
「さあ、好きなの選んでくれ」
「あいよ」
 注文するものを決めると、牧は居間に電話を掛けに行き、藤真は荷ほどきを再開した。少しすると牧が「手伝おうか」と再びやってきたが、変なものが出てきても困るので追い返した。

「藤真、ピザ届いたぞ」
「ああ、今行く」
 荷物は全て片付いてはいないが、今日使いたいものや下着は見つけたので上出来だろう。
 見慣れた家具の置かれた、まだ見慣れない居間へ行くと、ダイニングテーブルの上に蓋を閉じたままのピザとフライドポテト、ナゲット、サラダ、飲みものが並べられていた。サラダを頼んでいるのは牧らしいと思う。そして当の牧は、この上なくにこやかに藤真を待っていた。
「……なに?」
 なぜそんなに嬉しそうなのか。今日はずっと機嫌がいいようなので、いまさらではあったが、藤真は椅子に掛けて牧を見返す。
「俺たちの新しい住所に、ちゃんとピザが届いたんだ」
「お、おう……」
 新築のマンションでもなし、配達区域内ならば──住所を伝え間違えていなければ届くに決まっているのだが、牧の実感の問題なのだろう。なんとなくわかるような、やはりわからないような気分でピザの箱を開けると、熱気とともにトマトとチーズのよい香りが立ち昇った。藤真にとっては宅配ピザは特に珍しいものでもなかったが、向かいに座る牧を含めたこの光景は、ひどく特別なもののように感じる。
『お前がいる』
 引越し作業の前の、何もない部屋での言葉を唐突に思いだし、急激に顔に血が上る気がした。牧に感化されてしまったのだろうか。
「うまそうだな」
「うん。……いただきます」
「ああ。いただきます」
 食卓をともにする相手は家族ではなく、ピザを取り合う手は翔陽の部員のものでもない。フルーツトマトの甘酸っぱさが、新鮮に口の中に広がった。
「あ、これうま」
「ああ……そうだな」
 それだけの会話で、ふたりとも顔を見合わせて笑ってしまった。
「なんだよ」
「なんでもないさ」
 ただ嬉しくて、そしてまだ照れくさいのだ。
「──ああ、そうだ藤真、ひさしぶりに、一緒に風呂に入らないか?」
「はっ? なんでだよ」
「新居の一番風呂だぞ」
「一番風呂とか、今まで生きてて気にしたことなかったけど。おっさんかよ」
 牧だとて、ここ三年は一人暮らしだったのだから、気にしていたわけがないと思う。藤真は目を据わらせ、意地悪く唇の端を吊り上げ、そして緩めた。
「まあいいや。じゃあ入っとくかな一番風呂」
 どうせそのあと一緒に寝るんだしな、とまでは言わないでおく。
 こうして彼らの長い長いふたり暮らしが始まった。

ふたりぐらし 1

1.

 就職・入学シーズンを前にした一月下旬、賃貸物件を扱う不動産屋はすでに繁忙期といっていい時期で、今日も午前中から客が訪れていた。
 只野茂夫《ただのしげお》、二十七歳。不動産営業五年目。真面目が取り柄だ。新たな客だと見るや、立ち上がってにこやかに挨拶をする。
「いらっしゃいませ」
 入店してきたのは長身の男二人組だった。隣席で客の対応をしていた女性社員が不自然に動きを止めてそちらを凝視したが、無視して只野が応対に行く。
 ひとりは色黒でがっしりとした体格の、眼鏡を掛けたスーツ姿の男。後ろに撫でつけた茶色の髪、高い鼻と厚い唇などから、外国の血が入っていそうにも見えた。年齢は一見では判断しがたいが、二十代後半から三十代だろうか。姿勢がよいせいか、非常に堂々として見える。
(このひと……何者なんだ……?)
 謎のオーラがあるというか、普通のサラリーマンのようには見えず、ドラマや芝居にでも出てきそうな風貌だ。
 もうひとりは、顔だけならば女性にも見えるような若い男。一転して肌は白く、染めたものとは違って見える色素の薄い髪色と長い睫毛が、やはり日本人離れして見えた。只野はミーハーな女性的な感性は持ち合わせていないつもりだが、それでも〝美少年とはこういうこと〟と納得してしまうような風貌だ。年齢的には春から大学進学といったところだろうが、隣の男とのツーショットから想像するところは、東京で活動を始めるモデルかアイドルと、その事務所の人間だ。
 何にせよ、犯罪のにおいがしないのであれば物件を紹介するだけだ。只野は営業スマイルを浮かべる。
「どのようなご用件でしょうか?」
 口を開いたのはアイドルのほうだった。
「春から大学に行くので、この辺で住む部屋を探してて」
 正面から見つめられると、その気が全くなくとも見惚れてしまうような、完璧な美形だ。付き添いの男が続いて言う。
「ふたりで住むんです。ルームシェアってやつで」
「……ではお手数ですが、こちらにご記入をお願いできますか?」
 待ち合い用の席を示し、アンケート用紙とボールペンを渡す。希望の部屋の条件をおおまかに記入してもらうためのものだ。
 いったん事務所の奥に戻ると、同僚の女子が声を潜めて話しかけてくる。
「只野さん、お客さん対応代わろうか?」
「……ん、なんで?」
 想像がつかないわけではなかったが、あくまで素っ気なく返すと、相手は黙り込んでしまった。
 しかしルームシェアとは、あのふたりは一体どういう関係なのだろう。あくまで仕事だ、余計なことは口にはしない。しかし考えてしまう程度は仕方がないと思う。女性アイドルならば間違いなくいかがわしい想像をしたところだった。いや、二人用の部屋といっても必ずしも二人で住むとは限らないだろう。事務所の人間の名義で契約するのも珍しくはないことだ。
 店頭に戻るとアイドルと目が合った。アンケートを書き終えたのだろう。用紙を受け取りに行き、接客用のカウンターを示す。
「ありがとうございます。それではあちらのお席にお願いします」
 言いつつ、ざっと内容を確認する。まず名前は藤真健司・十八歳と、牧紳一・十七歳。
(……?)
 顔と名前は一致しないが、スーツの男は年齢を書き間違えているようだ。実際は二十七か八なのかもしれない。同年代にしては落ち着いて見えるが、さすがに三十八歳ではないだろう。冷やかしには見えないので、契約にまで話が進むようならあらためて確認しよう。
 ふたりが着席するのを確認し、カウンターを挟んで只野も席に着く。
「ええと、藤真健司さん」
「はい」
 アイドルが返事をする。
「と、牧紳一さん」
「はい」
 こちらはスーツの男。自称十七歳。
「入居されるのはおふたり、ということでよろしいですか?」
「はい」
「間取りは2LDKで、場所はこの近辺がいい、と」
 話しながら、手もとの端末に物件の検索条件を打ち込んでいく。下調べをしてきたのか、希望家賃には相場のちょうど中央の金額が書かれている。藤真が頷いた。
「はい。ふたりの学校の間がちょうどいいなって言ってて」
「学校はどちらなんですか?」
「青学と深体大です。なので田園都市線で……」
「なるほど、それならまさにこの辺が中間地点ですよね」
 机上に置いてある東京の路線図の一部を指でなぞる。最寄りと呼べる駅は一つではないが、その二校ならば言われた通り田園都市線を使うのがいいだろう。最寄駅は桜新町と渋谷、間は三駅だ。
 おそらく藤真は青学に進むのだろう。牧のほうは、体育大学と言われると納得できる体躯だが、講師か何かだろうか。だからスーツなのかもしれない。
(先生と生徒が同居するのか? いや、他校だし男同士だし、もともと友達同士ってことならあり得るのか……)
 牧が嬉々として口を開く。
「一緒に住もうって言ったのは学校決まる前だったから、実際直通だってわかったときすごく驚いたんだよな!」
 藤真は迷惑そうに牧を見返した。
「オレは別にそんなに……だってこの辺、学校多いだろ」
「そりゃそうだが」
 ふたりのやり取りに全く興味がないわけではないが、仕事が進まないのは困る。只野は躊躇いつつ口を開く。
「ええと……」
「あっ、すみません。三茶にこだわるわけじゃないんで、だいたいこの辺でいい部屋があればって感じです」
「こちらのエリアはやはり学生さんに人気ですので、賃貸物件自体は多いんですが、2LDKご希望ですとある程度絞られてしまいますね」
 東京都内の賃貸物件の需要は圧倒的に単身者向けの部屋だ。当然、間取りもワンルームから1DK程度が多くなる。部屋数のほかにアンケートに書かれた条件は、駅近、バス・トイレ別、エアコン、二階以上──ありがちなものだったが、その次の項目に目を止める。
「駐車場をご希望なんですね」
 牧が頷いた。
「はい。車を一台置く予定です」
「家賃のご予算にプラスして駐車場代、という形になってもよろしいですか?」
「もちろんです。というか、家賃もオーバーしてもいいので、よさそうな部屋があれば見せてください」
 この男がそう言うのなら平気なのだろうと、根拠もなく信じてしまうような風情だ。しかしその腕を藤真が小突く。
「やめろよ、家賃一応折半なんだから」
「別に、ちょうど折半になってるかどうかなんて言わなきゃわからないだろう」
「いや、なんかやだ。家賃は折半。駐車場はそっちもち」
「……それですとこのあたりですかね」
 出力した間取り図をふたりの前に置くと、身を乗り出した牧が眉間に皺を寄せた。
「部屋狭くないか?」
「こんなもんじゃね?」
「比較的最近の物件ですとこんな感じですね。木造のアパートでもよろしければこういうのも」
「おお、広いじゃん。でも木造って音響くらしいよな」
「音は鉄筋に比べますと、そうですねえ」
「音が聞こえるのはいかんな」
「あと部屋が和室っつうか畳なの微妙」
 よくあるやり取りではある。只野は別の間取り図を差し出す。
「洋室で広めですと……一室の広さはそう変わりませんが、三部屋あるタイプ」
「三部屋?」
「持ちものが多い方ですと、物置というか、コレクション用の部屋にされる方もいますね。もちろんお客さんを呼んだとき用でも」
「おっ、いいじゃん」
「藤真、なんかコレクションしてるのか? 初耳だな」
「ちげーよ、花形を泊める用」
「駄目だ、そんなの! 必要ないだろう!」
 いかにもけしからんと言わんばかりの全否定だった。
「じゃあ仙道とか、ノブくんとか」
「却下。三部屋なんて必要ない、2LDKでお願いします」
「だいたい、自分の部屋なんて着替えして寝るくらいなんだから、そこまで広い必要なくねえ?」
「それもそうだなあ、居間もあることだし……」
「はい、それですとこの辺ですかねー」
 ああだこうだと話しながら、築年数や駅からの距離など、条件を多少変えながら物件を提案していく。いろいろ見せるうち、考えが纏まってきたようだ。
「これいいんじゃね?」
「悪くはないが……」
「なにが気にいらないんだっけ?」
「キッチンの台が壁際にくっついてる」
「どうでもよくねえ? ほかの条件は全部いい感じなんだから、それは諦めろ」
「まあ、なあ……そうだ、あと藤真あれだろう、ウォシュレット!」
「っ!!」
 藤真は顔を赤くして思いきり牧の上腕を叩く。布越しだというのにバシンといい音がした。牧のほうは慣れたことかのように、ごく落ち着いた動作で藤真を見返す。大人の余裕だ。
「なんで叩くんだ、大事だって言ってたじゃないか」
「大事だけど、そんなに勢いよくアピールするんじゃねえ!」
 温水洗浄便座を物件の条件にされること自体は気に留めることではないが、ただ藤真の反応が過剰なのが気になった。いや、気にしないことにしよう。
「……この物件は温水洗浄ですし、そうでない物件でもご自身でご用意いただけますので……」
「そうか! よかったな藤真!」
「だからうるせーってば。あと一応、洗濯機のところドラム式のは置けますか?」
「えーっと……はい。大丈夫ですよ」
 その後、ピックアップされた物件にふたりを案内している間じゅう、その会話から垣間見える関係性が気になって仕方がなかった。
「いい感じのとこでサクッと決まるといいな〜」
「そうか? 俺は何度でもいいぞ」
「はあ?」
「ふたりの新居だ、慎重に決めないと。それに、楽しいじゃないか」
「こっちはまだ暇じゃないんだぜ?」
 年上の大人の男が可愛らしい少年のことをいたく気に入っていて、少年はごく素っ気なくそれをあしらっている。そこはかとなく親密な空気だ。そして、初めはものものしいと感じた牧が、非常に穏やかで柔らかな笑みを浮かべるのが印象的だった。おそらく、藤真と一緒にいるせいだろう。すっかり骨抜きだ。
(これは……近ごろ流行りのBLってやつなんだろうか……)
 それは女性の間でフィクションとして流行しているだけのもので、実際の同性愛の事情とはあまり関係ないのだが、只野の知るところではない。
(女の子に飽きちゃったとか……?)
 一物ありそうな紳士と美少年アイドル。そんな世界もあるのかもしれない。とりあえず、自分に関係ない話ならば偏見はないつもりだ。
(温水洗浄便座……)
 気にしてはいけない。仕事をしよう。

夏果て

「もうすぐ夏が終わるって思うと、なんとなく寂しい気分になるよな」
 一年ぶりの浴衣に腕を通しながら、薄い唇に何の意図もなく乗せた言葉に、正解など設定したつもりはなかった。
「そうか? ……そうだな、来年の夏まで、夏の遊びはできなくなるしな」
 しかし牧の返答に、明確に『違う』と感じてしまった。『そういうことじゃねえんだよ、お前ってやっぱズレてんな』と、常ならば軽く笑い飛ばす程度のことだったろうが、今日はなぜか、それができなかった。
(ああ、そっか……こいつはオレとは違うもんな)
 何か、いや、正体もわかってはいるのだ。小さな棘が胸に突き刺さり、引っ掛かって抜けず、表情を作れない無表情が顔に張りつく。
(だからオレは、どこまでお前に話していいもんだか)
 わからなくなる。神奈川の双璧と呼ばれたのは高校時代のことで、ふたりとも東京の大学に進んで二年にもなった今、そのたぐいの言い回しを使ったり、ふたりを関連づけて話そうとするのは、神奈川時代の知り合いくらいだった。男友達と同居していて、その相手が深体大の牧だと言えば興味を示す者もいたが、単に牧がよく知られているせいと、女を連れ込めないだの、実は女と住んでるだのといった下卑た話のネタになる程度のことだ。
 つまり、現在のふたりの客観的な関係性は、昔ほど繊細なものではない。そう実感しているゆえに、藤真は高校時代の──当時はあえて話題にしなかったことを、不意に話してみたくなる。
(……なんで?)
 終わったことだ。いまさら他者からの助言を欲するわけではない。こぼしたいだけの愚痴のようなもので、今一番身近にいるのが牧だというだけのことだ。そうして口を開きかけては、しかし牧はきっと忌憚ない意見を述べるだろう、自分は性懲りもなく苛立ったり傷ついたりするかもしれない、そう思いいたって口をつぐんだ。ちょうど今のように。
「帯、やってやろうか」
「……ん? ああ、うん」
 浴衣を羽織ったきり動きを止めていた藤真の眼前に、穏やかに笑んだ牧の顔が現れる。これからふたりで浴衣を着て、近場の夏祭りに行く予定だ。まだ前も全開にしている藤真とは違って、牧は腰ひもを結ぶまでは自分でできたようだった。
「ほら、藤真、前を押さえててくれ」
「うん」
 藤真はテーブルの上に置いた〝ゆかたの着付けガイド〟を脇目に見ながら、身ごろの上下を気にしつつ浴衣の襟を重ねて押さえる。牧は藤真の腰に腰ひもをぐるぐると回し、前で結んで留めた。続いて帯だ。ガイドの通りに細く折って藤真の体に巻きつけ、後ろで結んでやる。
「……こんなもんか?」
 女性の大きなリボン結びの後ろ姿は容易に想像できるが、男性の帯結びの形は意外なほど印象になく、おかしくはないと思うが、本当に合っているのかどうかは少し不安だ。
「まあ、歩いてて取れなきゃいんじゃね?」
 軽い調子の藤真に対し、絶対に大丈夫だと言いきる自信はなかったが、昨年も持ったのでなんとかなるだろう。
 昨年は日程の都合で夏祭りには行かなかったが、別の場所で行われた花火大会を、やはりふたりで浴衣を着て見に行った。その前の年、高校三年の夏の花火大会では藤真のみ浴衣で牧は普段着という失態を演じてしまったので、はりきって浴衣を用意したのだ。
「じゃあ、今度はオレが結ぶ番だな」
 近場で行われる祭りだ、花火が上がるらしいが、ほかはさほど特別なこともないだろう。そうは思いながらも、ささやかで穏やかで、しかし非日常的な触れ合いが、否応なく気分を盛り上げる。

 支度の間にバラバラと大きな音を立てて降ってきた雨は、少し様子を見ているとサッと上がっていった。この季節には珍しくない通り雨だ。
「雨、止んでよかったな」
 群青の空の向こうに薄くたなびく夕焼けは、赤みが強く、燃えるような色をしている。対照的に涼やかな趣きの恋人を見据え、牧は満足げに目を細めた。部屋の中で着付けをしあっていたときには、客観的に見られていなかったのだと思う。
 首が細く肩幅もあまり広くない藤真に、浴衣はよく似合った。体に沿わない袖のラインのせいか体躯が華奢にも見えて、愛らしい印象だ。ユニフォームや普段のTシャツ姿より肌の露出がないのに色っぽく感じてしまうのは、余計なことを考えすぎなのだろうか。
「うん、ちょうどよかった。涼しいし」
 雨に冷めた空気はひんやりとして気持ちよく、夏の夕方特有の生暖かさを感じさせない。石のにおいなのか、土のにおいなのか、雨上がりのにおいは藤真が東京に越してきてから好きになったもののひとつだった。
「うっかりすると足が濡れそうだな」
 履きものはふたりとも雪駄だ。
「濡れてもすぐ乾くだろ」
 だから逆にちょうどいいな、などと他愛のない話をしながら祭りの会場に向かって歩く。
「……なんでちょっと笑ってんの」
「ん? 怒ってたほうがいいか?」
「ふはっ! やべえそれウケる、ムダに通行人威嚇して歩く牧」
 藤真が普段より印象を柔らかくするのとは対照的に、浴衣を着た牧は日ごろよりいっそう堂々として見えた。貫禄があると言えば、案外繊細な彼は傷ついてしまうかもしれない。不機嫌そうな顔をして歩いていたなら、さぞかし不穏な空気になることだろう。
「そんなのが面白いのか? しかしさすがになあ……」
 牧はあたりを見回す仕草をする。周囲には、同じように祭りに向かっているらしきカップルや友人連れが見える。
「ウソウソ、善良な市民をおびやかすなよ!」
 藤真は軽く笑うと、ぽんと牧の肩を叩いた。
 なんの気兼ねもなく浮かれた気分でいられる夏の休日は、藤真にはずいぶんと久しぶりのもののように感じられて、少しばかり落ち着かない。
 高校のときは単純に忙しかったうえ、二、三年については精神的な余裕もなかったと思う。やりたくてやっていたことだったから、ほかの遊びをしたいとはほとんど思わなかったが、まれにある全く練習をしない休日には、妙な罪悪感に駆られたものだった。
 大学だとて暇というほどではないが、高校よりはずいぶんと時間に余裕ができた。環境に慣れた二年目ともなればなおさらだ。そして何より、牧と都合も合わせやすい。

 八月下旬、日の落ちるのは想像以上に早く、さほど長い道のりではなかったが、祭りの気配を感じるころにはすっかり暗くなっていた。
 通りは灯火で飾られ、スピーカーから聞こえる祭囃子と、おしゃべりをしながら歩く人々、屋台の呼び込みとでざわざわ賑やかだ。しかし、穏やかな騒がしさだとも感じる。日ごろ通う渋谷や、たまに足を運ぶ新宿にある、せわしなさや人の〝圧〟のようなものはない。
「東京の祭りも、うちのほうとあんまり変わんないんだな」
「このあたりだとな。比較的近くに住んでる人間が多いんだろうし」
(確かに、オレらが住んでるのだって特に大都会! って感じでもないフツーの住宅地だしな)
「興味あるなら、浅草とかあっちのほうの祭りなら全然違うと思うぞ」
「いいよ、そんなに興味ない。てか、飲みもの買おうぜ」
 藤真はドリンクを売る屋台を目で示した。外に出てすぐは想像より涼しかったものの、少し歩いた今は肌に纏わりつくような暑さを感じる。ドリンクの缶や瓶の浸かった、氷水を張ったスタンド式のクーラーボックスは、いかにも涼しげで魅力的だ。
「ああ。なんにする?」
「んなの、ビールに決まってんじゃん!」
「……決まってるか?」
 そんな話は初めて聞いた。なにしろ藤真が合法的に酒を飲める年齢になったのはつい最近のことで、牧にいたってはまだ未成年だ。まあいいかとぼやきながら、藤真の缶ビールと、自分用に瓶入りのラムネを買った。心地よい笑い声が耳を撫でる。
「別に、お前も酒飲んだって誰もなんも言わねーと思うけど」
 見た目的な意味で、とは心の中だけで付け加える。それに、部活の飲み会で断りきれずに酒を飲んでいることだって知っている。
「必要がなけりゃ飲まない。それに、ラムネって祭りのときくらいしか見なくないか?」
「あーそっか、ラムネいいな。つぎ飲みたくなったらそうしよっかな」
 牧は空いているテーブルに淡い水色のラムネ瓶を置くと、キャップから取り外した部品を使い、飲み口を塞ぐビー玉を思いきり押し込んだ。ブシュッという開栓音とほぼ同時に、ビー玉が鋭く透き通った音を立てて瓶のくびれに落ちる。シュワーと小さな音とともに、瓶の中を気泡が昇っていくのが見た目にも爽やかだ。
 藤真も自分の缶のプルタブを引く。こちらもまたいい音がした。ふたりして、口もとには愉しげな弧を置いている。
「んじゃおつかれー」
「おう、おつかれ」
 もちろんどちらも疲れてなどいなかったが、定型句のようなものだ。すぐに歩くつもりだったから、ふたりともその場に立ったまま、缶ビールとラムネ瓶を合わせて音の出ない乾杯をする。
 藤真は缶に口をつけると、炭酸入りのジュースを飲むのと大差ない調子でゴクゴク喉を鳴らし、大きく息を吐いた。
「ぷはーっ! まずい!」
「まずいのかよ」
 爽やかに言い放たれた言葉に、思わず笑ってしまった。
「ビールって、味は別にうまくなくねえ?」
 ならば無理して飲まなくていいのでは、と牧が言うより早く、藤真の言葉が続く。
「でもなんとなく飲みたいって感じがする。のどごしかな」
 自覚は薄いが、二十歳を越えたからには酒を飲まなくては、という思いもなくはない。飲みかけの缶を牧の口もとに差し出すが、腕ごと押し返されてしまった。
「俺はいい」
「ノリわるっ、外だから?」
「そうだな……」
 藤真は一瞬怪訝な顔を作ったが、すぐに表情を戻して言う。
「んじゃ、そっちひとくちちょーだい」
「ん? ラムネがよかったなら交換でもいいが……」
「そういう意味じゃねーよ。もういいや、じゃあいらね」
 藤真は小さく舌を出して不愉快をアピールするが、牧の目にはそんな表情も愛らしく映ってしまう。家だったらその唇を塞いで舌を吸っている、と想像しかけて頭を横に振った。
 藤真はふいと顔を背け、見せつけるように缶ビールをあおって勝手に歩きだす。
「おい、藤真っ……!」
 牧は大股で藤真に追いついて隣を歩く。ビールを断ったことには、藤真が酒を飲むなら自分は素面でいるべきだと思ったところが大きい。藤真は酒に強くないのだ。加えて、傍目には友人同士の飲みもののシェアでしかなくとも、牧にとってはデートだ。外で堂々と間接キスをするのは照れくさいと感じてしまった。
 しかし、ひとくち程度ならもらっておけばよかったかもしれない。そうすれば藤真の機嫌を損ねることもなかっただろう。
(俺もまだまだだな)
 近くの屋台から香ばしいにおいが漂ってくる。この状況をあまり放置しないほうがいいように思えたこともあり、とりあえず提案してみる。
「藤真、いろんな屋台があるな。なんか食うか?」
「えー? うーん……おっ、肉棒が売ってんじゃん!」
「にっ!?」
 驚きながら藤真の視線の先を見ると、フランクフルトの屋台だった。のれんには〝ジャンボフランク〟とある。
「藤真、そういう言いかたは……」
「いいだろ、通じてんだから。ジャンボだって。ジャンボな肉棒!」
 藤真はなぜだかその言い回しを気に入ってしまったらしい。牧は誰か聞いていやしないかと周囲の様子を窺いたいような、やめておいたほうがいいような、至極複雑な気分だった。
「じゃあ買ってくるから、ちょっとここで待っててくれ」
 藤真にラムネ瓶を預けて屋台から少し離れた場所に残し、急ぎフランクフルトを買いに行く。屋台のそばで肉棒だの言われるのはさすがに気まずいと感じてのことだが、牧が財布を持っていること自体はいつものデートと同じだ。フランクフルトを二本購入し、戻って藤真に渡すと、ぱぁっと花が開いたような、晴れやかな笑みが返ってくる。本当に、本当に愛らしい、周囲の空気まで輝かせる、夏のひまわりのような笑顔だった。
「わぁ〜、でかい! オレぶっとい肉棒大好き!」
「藤真……」
 藤真は溜息をつく牧の様子などお構いなしにフランクフルトにかぶりつく。
「はふっ、熱いっ、汁がっ……♡」
「藤真、酔ってるのか?」
 やや前傾の姿勢でフランクフルトを齧りながら、藤真はさも面白くなさそうに、視線だけを牧に向ける。
「ちょっとビール飲んだくらいで酔うかよ。てかお前ってそんなんだっけ? 家で食ってるときとか、普通に下ネタ言ってくんじゃん」
「それは家だからだ」
「あっそ。外ヅラがよろしいんですね」
 藤真に言われたくはないと思ったが、さすがに口には出さなかった。歯を見せた藤真ががぶりと噛みついた口もとで、フランクフルトの皮がパリっといい音を立てる。熱い肉汁が染み出て旨いのだが、藤真の言葉を思いだすと股間が痛くなるような気もして、牧は眉間に皺を寄せた。
 大胆な表現に戸惑ったのは、品よく見られたいと思ってではない。藤真の言った通り、男しかいない場なら下ネタも気にしないほうだが、なぜだか今日は妙に意識してしまうのだ。缶ビールを勧められたときも同じだった。私的で性的な興奮を刺激されるシーンを、その中にある恋人の姿を、傍目に触れさせたくないと感じる。いつもとは違う印象の、柔和な色香の漂う藤真が、自分以外から不埒な目で見られることが心配なのだと思う。
 近くにあった車止めの柵に腰掛けてフランクフルトを食べ、串を捨てて少し歩くと、浴衣姿のカップルらしき男女が声を掛けてきた。
「あれ、藤真じゃん」
「わぁ〜藤真くん、浴衣似合うねー!」
 華やいだ声を上げてにこにこと笑う彼女に対し、男は明確に気疎い顔になる。牧は一瞬で状況を察した。
(そりゃそうだ)
 藤真が美人なのは確かだが、隣にいる浴衣姿の彼女にそんな反応をされては、男はたまったものではないだろう。
「おお、鈴木とカナちゃん。やっぱ女子の浴衣は映えるなー」
 世辞のつもりではない、素直な感想だった。華やかな浴衣に、メイクも髪型も合うように考えているのだろう。自分がそれを待たされる側と考えると面倒でしかないが、他人ごととして見ている分には感心する。
「ほんと? わぁ〜浴衣着てきてよかった〜♡」
 鈴木は後悔していた。特に藤真を呼び止めたかったわけではないのだ。人並みの中でも目立つ、いかつい浴衣姿の男に目を止めたら隣に友人を見つけて、思わずその名を呟いてしまった。黙っていればこの状況は回避できたかもしれない──が、やはり目立つ二人組なので、彼女のほうが気づいていたかもしれない。
「藤真、大学の友達か?」
「うん。バスケ部じゃないけど」
「藤真は同居人と一緒なんだな」
 以前にも藤真と一緒にいるのを見かけて聞いたことがあった。立派な体格と日本人離れした容貌だけでも充分だったが、さらに藤真と(自分とも)同級生というのが衝撃的でよく覚えている。
「うん」
 鈴木の横で、カナは目を丸くする。
「へえ〜、友達とルームシェアって、同級生かと思ってたよ。おとなのひとだったんだね」
 興味津々といった様子だが、この展開は牧にも、そして鈴木にも嬉しくないものだ。ならば、と牧は口を開く。
「……藤真、そろそろ行くか」
「おっ、そうだな藤真、引き止めてすまなかったな、じゃあな!」
 早々に話題を畳もうとするふたりを見て、藤真はさも愉快そうにニヤニヤと笑ったが、抗わずその場を離れることにする。それぞれのペアは逆方向に歩いたが、女子のよく通る声は牧と藤真の耳に届いていた。
「同居人のひと、どういう繋がりのひとなんだろ? 知ってる?」
 藤真は牧を見遣って小さく笑う。
「ぷっ、おっさんに見えるってよ」
「いまさら、慣れてることだ」
「どういう関係のひとに見えるんだろうな?」
「さあ……」
「お前は、どう見えたらいいと思うんだよ?」
「んー? 『あのふたり、バスケやってるひとかな』とか」
「頭ん中バスケでいっぱいかよ、ねーわ」
 ふたりにとっては身近なものでも、今の日本ではそこまで浸透しきったスポーツでないことは牧も重々承知している。だからこその、願望のようなものだった。
「……なんか、ちょっと食うと余計ハラ減る現象あるよな。なんなんだろうなこれ」
「普通に晩飯どきだしな。なんか食おうか、なにがいい?」
 藤真は近くの屋台に目を止める。
「んーじゃあたこ焼き」
「あれはひとり分か? 二パックいるかな」
「一個でいいだろ、いろいろ食ってこうぜ」
「飲みもんは?」
「まだある」
 とりあえずたこ焼き一パックと、その隣の屋台でじゃがバター、牧は新しいドリンクを買って、ちょうど空いたテーブルに陣取った。
「おお〜、祭りっぽい!」
 藤真は嬉々としてたこ焼きのパックを開けると、一つに楊枝を突き刺した。
「はい牧、あーん♡」
「!?」
 唇の前にまで持ってこられたそれを、牧は考える暇もなく口で受け取って咀嚼する。熱い。口の中も、それから顔も。
「オレにもあーんして♡」
 最後まで口の中に残っていたタコを妙な音を立てて飲み下し、牧は顔を険しくする。普段の外食ではこんなことはしないのだ。
「どういうつもりなんだ? 藤真」
「どうって、祭りだし」
「なんなんだその理屈は」
「嫌ならいいけど。お前今日、ノリ悪すぎ」
「嫌じゃないが、そういうのは家でだな……」
「はいはい」
 藤真はじろじろと、いかにも胡散臭いといった目で牧を見る。もともとシャイな男ならば納得もするが、牧はそうではなかったはずだ。カップルだらけの店に男二人で入ったのも、クリスマスのイルミネーションの中を歩いたのも、花火大会で手を繋いだのも、思えば高校生のときだった。
(付き合って三年目じゃ、もう飽きられてんのかな)
「藤真、芋もうまいぞ」
 牧は藤真の内心など知る由もなく、穏やかな表情でじゃがバターを勧めてくる。
「うん。……うまい」
 屋台のじゃがバターはひときわ旨い。それは確かなのだが、気分的にはどうにも煮えきらなくて気持ちが悪い。藤真は缶の中に残っていたぬるいビールを全部あおった。
 その場での食事を終えると、二本目の缶ビールを買い、「ビールにはやきとりだ!」と知ったようなことを言ってやきとりを買って食べた。ビールの味は相変わらず不味かった。
 次はどうしようかと歩いていると、若い女に声を掛けられる。
「すみませぇん♡」
「男性おふたりなんですかぁ?」
 浴衣姿の若い女二人組。アップにした髪の明るさに対して、黒く長いつけ睫毛には迫力さえ感じる。藤真はあからさまに面倒そうに返す。
「そうだけど」
「ウチらもちょうど女子ふたりなんですけどぉ〜♡」
「そうなんだ、でもオレらデート中だからごめんね! バイバイ!」
 藤真はにこりと笑って牧の腰を抱くと、密着させた体を押してふたりから離れていく。逆ナンパなど珍しくもない。それだけで終わっていれば何も言うつもりはなかったのだが、背中の向こうでかん高い声が上がった。
「はぁア? ないわー!」
「うっざ、調子乗りすぎ! 面白いと思ってんのかよ、つまんねーんだよ!」
 最近はこんな女性もいるのか、嘆かわしいことだ、と年齢不相応な感想を抱いて首を振る牧のかたわら、藤真は振り返って思いきり叫んだ。
「うるせえブーーース!!」
 そして舌打ちと、ひとが愛想よくしてやれば調子に乗りやがって、というぼやきが続く。キャーだのひどいだの言う女の声が遠ざかっていくが、自業自得だろう。
「……激しいな」
 藤真にアグレッシブな面もあることはよく知っているが、女子のファンには愛想よく接する姿ばかり見てきたので、少し面食らってしまった。
「なに、引いた?」
「いや……まあ、お前もいろいろ大変なんだろうなと思った」
 相手の態度もあるだろうが、やはり酔っているのだろう。女の気配が失せても藤真が離れる様子はなく、半身は相変わらずぴったりと密着している。ふざけているだけにしては、凭れてくる体が重い。よくよく見れば頬には赤みがさして、目はとろんと垂れている。体を擦り寄せたことと角度のせいで胸もとが大きく開いて見えて、気になって仕方がない。じっくりと見ていたいような、見てはいけないような落ち着かない気分で、夜の明かりの中でもひときわ白い胸をちらちら盗み見ていた。
(この辺にホテルは……あっても今日は満室のような……)
 おとなしく家まで我慢するのが最善のようだ。となると、あまりくっついてもらわないほうが助かる。
「藤真、大丈夫か? 少し座って休むか?」
「なんで」
「酔ってるだろう」
「酔ってねえよ」
 酔っている人間おなじみのセリフを言って、藤真はぎゅうと牧に抱きついた。半身どころでなく完全に抱き合う形だ。
「おい、藤真っ!」
 牧は藤真を抱えて道の端に移動する。覗き込んだ藤真の顔は相変わらず赤いが、長い睫毛の下の瞳は明確な意思を持って、妖しげに牧を見返す。
「いいじゃん別に、酔っ払いがふざけあってるようにしか見えねえよ」
「俺はそういうふうには思ってない」
 牧は責めるような、甘えるような視線から逃れるように顔を背ける。
「はあ?」
 どういう意味だ。つまり、牧はこれをカップルの接触と認識したうえで拒否しているのだ。なおさら悪い。
(昔は違った)
 しかし、今日は初めからそうだったのかもしれない。なんだか自分ばかりが浮かれていたような気がして、急激に悲しく、そして馬鹿馬鹿しくなってしまった。
「帰る」
 呟いて押し返した牧の体はびくともせず、その反動で藤真の体だけがふらふらと歩きだす。
「おいっ……!」
 牧が咄嗟に藤真の袖の端を捕まえたのと同時に、遠くで籠もった破裂の音が聞こえた。
「花火だ」
 周囲の人間が一斉に空を見上げる。夜空に次々に咲いた花は、海辺の花火大会で見るような、大きく近くに感じるものではなかったが、祭りに来た人々を喜ばせるには充分で、ほうぼうで小さな歓声が上がった。
 帰ると言った藤真も足を止めていた。光の滴を、それが落下しながら描く線のひとつひとつを凝視していると、空が落ちてくる錯覚に襲われる。足もとの覚束ない感覚に、思わず空に伸ばしかけて引っ込めた手を、大きな手が後ろから包んで握った。
「……!」
 牧は藤真の腰に腕を回すような格好のまま、花火が終わるまで無言で寄り添っていた。
「よし、帰るか」
 帰り道では、ずっと手を繋いでいた。
(拒否ってたくせに、どういうつもりなんだろ、変なの)
 牧は何も話そうとしない。月明かりの縁取る、高い鼻梁をした特徴的な横顔がこちらを向くと感じて、藤真は慌てて目を逸らす。手を振りほどく気になれないのが、少し悔しかった。

 帰宅すると、藤真が先に玄関に入って照明を点けた。背後でドアロックの音が聞こえたかと思うと、即座に抱きすくめられていた。
「っ!!」
 押し殺してもなお荒い呼吸が耳を撫で、密着した体からは布越しにもじっとりと高い体温が伝わる。尻に当たる硬いものからは、ひときわの熱を感じた。
「なんだよ、帰った途端発情かよっ……んむっ!」
 顎を捕らえられ、顔だけ振り向かされる形で唇を塞がれる。舌を押し込んで絡め取る、貪るようなキスだった。くらくらする。まだ少し酒が残っているのだろう。体を抱え込まれて牧のほうを向かされると、厚い胸を押し返してささやかに抵抗を示した。
「途端? 俺はずっと我慢してたんだぞ。お前がくっついてくるから、気が気じゃなかった」
 当然のように言ってのける牧に、藤真は眉を跳ね上げて怪訝な顔をする。
「我慢? ずっとオレのこと拒否ってたくせに?」
「拒否なんてしてない。家でしようって言ったんじゃないか」
「じゃあ最初から出かけなくて、家でやってりゃよかったじゃん」
 このままでは喧嘩になってしまいそうだ。拗ねた調子の藤真に、牧はことさら穏やかな口調を意識して返す。
「どうしてそうなるんだ?」
「だってお前、昔はそんなじゃなかった」
「昔? デートか試合のときくらいしか会えなかったからだろう。だが今は違う。家でふたりきりで、ゆっくりいちゃいちゃできるじゃないか」
 高校のころはふたりとも今よりずっと忙しかったし、互いに目立つ立場だったから、ずいぶんと都合を考えたものだった。貴重なデートの機会はいつだって特別で、当然浮かれていただろう。今日のデートだとてもちろん楽しみだったが、昔と違うと言われれば違うかもしれない。しかし牧にはそれが悪いことだとは思えなかった。
「いちゃいちゃ……?」
 思ったまま口にした言葉だったが、あらためて藤真の口から聞くと途端に照れくさくなる。だが、はっきり言わなければ伝わらないこともあるだろう。
「ああ、藤真といちゃいちゃしたくて、ドキドキしてた」
「ふうん……」
 触れ合う体は熱いが、牧は強引にキスしたきり、それ以上先に進もうとはしない。こういうところは昔と同じだ。玄関で迫られることにも覚えはある。
「……じゃあ、いちゃいちゃしよっか」
 藤真は玄関の段差部分に腰を下ろすと、まだ雪駄を履いたまま土間に立ち尽くす牧の浴衣の裾を左右に大きく開く。
 わかりきっていたはずだが、下着越しにもくっきりと形を主張するものを目の当たりにすると、あらためて動揺を孕んだ興奮が起こり、自らの下半身まで疼いてくる。
 すりすりと音を立てて撫でると、汗だろうが、じっとりと湿っていた。下着を下ろし、こぼれ落ちるように現れた立派な男根を下から支えるように掴まえる。色黒の逞しい竿から、高く張り出した先端部に肉の色を見せ、ときおりピクンと脈打って、牧とはまた別の生命を持っているように思えた。
 男の体の仕組みはよく知っているつもりだが、牧が自分に対してこうなってしまうことは未だに少し不思議だ。嫌なわけではない。むしろ──
「ジャンボフランク……」
「あれより太いんじゃないか?」
「スーパージャンボフランク」
 まじまじと見つめて呟き、大きく口を開けて咥え込む。蒸れたようなにおいが鼻を抜けるが、先端を喉に押しつけるように、より奥へと導くとそれも感じなくなった。
(やっぱりオレ、こいつが好き)
「ンぐっ……」
 さほど経たないうちに、息が詰まって気が遠くなる。酩酊に似た感覚と嘔吐反射に逆らわず口から出すと、豊満な亀頭にねっとりとした唾液が糸を引いた。
「肉棒が好きとか、言ってたな」
「うん。すき」
 挑発的な笑みを作ると、ぴちゃぴちゃと音を立て、表面全体に舌を這わせて愛撫を施していく。ふざけて言ったつもりではなかった。これについては〝牧のためにしてやっている〟という感覚ばかりではなく、体の一部に過ぎないはずのそれそのものが、無性に愛しく感じられるのだ。無論、誰のものでも同じように思うわけではないだろう。
「ああ……藤真……」
 牧は一方的な奉仕を求めたつもりではなかったのだが、藤真がその気ならば拒否する手はない。帰宅直後の状態をためらわず咥えられることには、恥ずかしさと同時に妙な興奮があった。
「んむっ、んんっ」
 ときに苦しげに呻きながらも、まるでそれが美味であるかのように、音を立ててしゃぶりつく。喉奥と舌を使いながら、顔を前後させるピストンの動作を繰り返されるうち、牧はたまらず藤真の顔を引き剥がす。
「くっ、藤真っ……!」
「なに?」
「いや、出そうになったから……」
「いいよ、出して。飲みたい」
「!」
 妖艶に微笑して再び唇を寄せられると、もう咎めることはできなかった。髪を撫で、頭を包み、高みに昇るように自ら腰を振る。窄められた唇が、しきりにいやらしい水音を立てていた。
「っ、いくぞ……ッ!!」
 体が震え、強烈な快感が一本の鋭い線のように奔る。閉じ込めていた欲望は放たれ、吸い出されて、藤真の口内に受け止められる。身動きできないほどの充足感だった。
 藤真はべろりと舌を出し、受け止めた精液を見せつけると喉を鳴らして飲み下し、唇の端を吊り上げて笑う。牧の欲求は落ち着くどころか止めどなく湧き起こる。
「まだやれる?」
「当然だ」

 薄明るい部屋のベッドの上、浴衣を乱して肌の多くを露わにしながら、組み敷かれた白い肢体が艶かしく踊る。
「あっ、あんっ、んっ、うぅっ…」
 腰を抱え上げられ、大きく開かれた脚の間に、浅黒い男根がしきりに出入りする。肉の薄い体を暴力的なまでの体格差と質量で穿たれながら、藤真はそのたび苦悶に似た歓喜の声を上げた。
「んぅっ! あっ、あぁっ、あんっ…」
 その身に纏わりつく浴衣が、衣服というより動作を拘束するもののように見えて、日ごろは息を潜める牧の攻撃性と支配欲をしきりに煽る。
「お前だって、やりたかったんだろう?」
 動きを止めると、体を穿ったままで、ツンと尖った胸の突起をひねり上げて弄る。
「あンっ! ぅうっ、あぁっあ…」
 背を反らし、強請るように胸を突き出して悶えながら、秘部は大きくうねり、淫らに締めつけてくる。牧は求めるものを察しながらも与えず、とろとろとよだれを垂らす先端部を、指の腹を小刻みに動かして虐めた。
「ひんっ! あぅ、ああっ、そこ、やめっ…! んうぅっ…!」
 びくびくと痙攣するように腰を揺らし、拒絶のような言葉もすっかり快感に濡れている。いじらしくて、愛らしくて堪らない。
「はぁっ…あぁっ…ぅっ…」
 責める手を止めても快楽の余韻が残っているかのように、体はぴくり、ぴくりと震え、内奥はもの欲しそうに吸いついてくる。もうあまり余裕はない。
「動かすぞ」
「ぅあっ…!」
 返事をする前にすでに牧は体を引いていた。ひとつになったようだった粘膜が引き剥がされ抜けていく感触に、藤真は身震いする。
(ぞくぞくする……)
 行為には慣れているし、牧のこともいい加減よく知っているつもりだが、ときめきと恐怖と、自らの肉体への後ろめたさが綯い交ぜになったこの感覚は失せない。
「あぁっ、んっ、うぅ…んっ…」
 牧は何度かゆっくりと動作したのち、欲望のままに抽送の速度を上げていく。
「うぐっ、んっ、ぅあっ、んんッ!」
 波打つ体を押さえつけ、あるいは大きく開かせた脚の間に好き勝手に打ち込まれる自らの肌色。自分だけが見ることを許されている、極めてプライベートで、たまらなく卑猥な光景だ。
(藤真……藤真、好きだっ……!)
 あさはかだと言われようが、体が強く求めるたびに、自らの心をあらためて思い知らされる。パンパンと規則正しく肌がぶつかる音に、濡れた肉が擦れる音、乱れる息。肉体の受ける直接の快感を、視覚と聴覚とが増幅していく。
「藤真、いくぞ…ッ」
「っあっ、んっ…はぁっ、あっ、あぁーっ…!!」
 昇りつめ弾け飛ぶスパークの中で、あるいは体ごと意識をさらう波の中で、思考を失ったまま、ただ腕に抱えた、互いの存在を愛おしいとばかり感じていた。
「あっ……あぁ…っ…」
 藤真は潰れそうなほど強く抱かれながら、自らのうちに注がれた温かな感触と、どちらのものか判別できなくなった鼓動に浸る。熱い息が、大きな音を立ててしきりに耳を撫でていた。
「ふーっ……」
 牧はひときわ大きくため息をついて上体を起こす。しかし繋がれた下腹部は離さないまま、藤真の片足だけ持ち上げて体を横向きにひねらせ、体を交差させる角度でなおも腰を揺らした。
「あぅっ、んあっ…ぁんっ、んッ…!」
 ぐちゅ、ぐぽ、動くたびに粘性の音を立てる局部が悦び咽んで収縮し、自ら注いだ精液が愛液のように溢れ出る。牧はうっとりと息を吐いた。
「やらしいな、藤真……」
 現在の行為の主導権が牧にあったとしても、藤真が拒絶を示せないわけではない。しかしそれをしないのだ。身を乗り出して顔を覗き込むと、乙女のように染まった頬と、快楽に潤んだ瞳が微笑んだように見えた。
「……最高だ」
 呟いてくちづけると、それきり言葉を忘れたように、獣のように貪った。

 力の抜けた体で裸の温度を共有しながら、牧は藤真の背中を包むように抱く。
「なあ藤真。来年もまた、浴衣を着て祭りに行こう。そうしたら、楽しみなんじゃないか? 夏が終わったって」
「……なんの話だよ」
「祭りに行く前に言ってた」
「あー……」
 働かない頭で思いだす。夏の終わりは寂しいものだとか、言った気もしなくもない。
『そういうことじゃねえんだよ、お前ってやっぱズレてんな』
 言葉は出なかったが、いかにも名案だというように得意げな顔をしている牧を認めたら、それでいいような気がしてしまった。
「そうだね」
(次の夏が楽しみだとしたって、その夏の終わりにはまた同じように、オレは寂しい気分になってると思うんだけど)
 子供時代の、夏休みの終わる名残惜しさ。道端に増えていく蝉の死骸。高校のときに感じた焦りと絶望と空虚感。追いつけない逃げ水。印象的な光景と体験とが絡み合って作られた感情が、この季節には染みついている。夏は嫌いではないが、だから夏の終わりは嫌いだ。しかし、牧にそれを理解してもらおうとも今は思わない。
 男らしい無骨な輪郭をした頬に、なんともなしに触れようとして、ゆっくりと宙を掻いた白い指が、大きく暖かな手に包まれる。ふたりとも、今日の花火が上がった直後の光景を幻視していた。
「なあ藤真、明日の夜、たこ焼きでもいいか?」
「あ?」
 あまりに唐突に思えた話題に、間の抜けた声が出てしまった。牧は藤真の手を掴まえたまま、照れくさそうに視線を泳がせる。
「今日あんまり食えなかったから、明日ちゃんと食いたいと……」
「明日も夜店探しに行く?」
「違う。買ってきて家で食べるんだ」
「ふーん。たこ焼き好きなんだな」
 何か言いたげに手の甲を指で弄ってくる、牧の意図もわかってはいる。
(こいつといると、なんだかしんみりできねえなー……?)
 ふっと、唇から笑みを含んだ息が漏れる。
 夏が終われば秋がきて、蝉が死のうが人は明日の食事を考える。何も特別なことのない、当たり前の営みの端にしがみつくように、広い背中に腕を回した。

それからずっと、おれたちは 3

3.

 二〇十五年四月一日、早朝。
「藤真! 結婚しよう!!」
「ばっか今日エイプリルフールだろ。もっと面白いウソつけよ」
 朝っぱらから妙にテンションの高い牧を、オレは動物にやるみたいに「しっしっ」てして追い払おうとする。個人的に認識してるうちで一番くだらねー行事だと思ってるんで、対応もそれなりになるってもんだ。
「おっ、四月一日ってそうか。いや嘘なんかじゃないぞ。ほら、これ読んでみろ!」
 牧が突きつけてきた新聞の紙面の文字を、目に入ったまま読み上げる。
「パートナーシップ、証明……?」
 そして見出しは〝LGBTカップル公認へ〟と続く。東京都渋谷区でパートナーシップ証明制度が施行されるというニュースだった。
「なあ、まだガキだった俺たちが一緒に暮らし始めたころ、よく通ってた渋谷だ。運命を感じないか!?」
 ふたり暮らしの始まった大学時代、住んでたのは世田谷区で、通学で渋谷駅を使ってたのはオレだけだが、牧だって当時は若者だったんで、ふたりで渋谷を歩くことは多かった。
「って、具体的にどういう……」
「書いてあるだろう、ちゃんと読んでくれ」
 簡単にまとめると、自治体が同性カップルに対し、ふたりのパートナーシップを婚姻と同等であると承認し、証明書を発行する制度。本当の結婚と全く同じってわけじゃなく、あくまで自治体の条例ではあるが、それなりに後ろ盾になるものみたいだ。
「婚姻と、同等……」
「というわけで、結婚しよう」
 牧はにこにこ、キラキラとした一切の曇りのない笑顔で言い放つ。プロポーズってほどの重さはない。まあ、二十年以上も付き合ってきてたらそんなもんかもしれない。
「別にオレ、結婚したいなんて思ったこと……」
「できないって思ってたからだろう。できるっていうなら俺はしたいぞ。いつか別れるつもりで今まで一緒にいたわけじゃないんだ」
「そりゃあ、そうだけど……別に、今の状態で特に困ってることないし……」
「これから困ることが発生するかもしれない。お前よく言うじゃないか、なにが起こるかわかんないって」
「それ言われるとなあ」
「なんなんだ、なにが懸念なんだ? ムードが足りなかったか?」
「ムードは別にいらないけど……」
 そういや昔一緒に住もうって言われたときもムードなかったな。まあそれはいいとして、懸念って言われてしまうと特にはない。ただ、さっき言われた通り、男同士で長く一緒にいて、結婚なんて他人ごととしか思ってなかったし、願望もなかったから、急に言われても戸惑うって感じだ。
「これ、渋谷限定の話だろ?」
「ああ。だから渋谷に引っ越そう」
「渋谷に住むとこなんてあんのかよ?」
「いくらでもあるだろう、センター街に住もうっていうんじゃないんだ。嫌なのか? それならそう言ってくれ」
 そうなんだよな。そう。オレは嫌なら嫌って言うほうだ。
「嫌では、ない……」
「なんだ、じゃあ決まりじゃないか!」
「戸惑ってる」
「……そうか。そうだよな。じゃあ、少し考えてみてくれ。引っ越しも必要だし、まだ証明書は貰えないようだし、そう急ぐことでもない」
 牧は少し消沈したみたいだったが、あくまで穏やかに言った。前に家を買うって言われたのを拒否ったときは見たことないくらい凹んでたから、ちょっとは安心してるようだ。……そうだな、家のこと言いだしたあたりから、牧はその手のこと考えてたんだろう。世間で言う、結婚みたいなこと。それで牧は心の準備だけはある状態だったから、今回のニュースに迷わず飛びついたってわけだ。だけどオレは違った。けど──
「牧、本当にいいのか? 取り返しつかなくなるんじゃ?」
「ああ、いいさ。一体なにを取り返すっていうんだ?」
 牧の目は見守るみたいに優しい。そうだな、オレは一体なにをおそれてるっていうんだろう。
「……そうだね。いいよ。パートナーの証明を受けよう」
 牧は大きく目を瞠って、それからみるみる破顔する。がばっ! って音が聞こえたくらい、オレは思いきり抱きすくめられていた。
「藤真……! ありがとう!! もう離さないぞ!!」
「ありがとうはおかしくね?」
「そうか? まあものすごく嬉しいってことだ!」
 痛いし暑苦しいけど、こんなに喜んでるならまあこのままでいいかな。
 牧が『考えてみてくれ』って言ってから、正直考えてはなかった。嫌じゃない。牧とは一緒にいたい。断る理由なんてない。必要なのは、ほんの少しの覚悟だけだった。
 牧みたいにはしゃぐテンションにならないのは、結婚に憧れがなかったからだろう。男同士ってのももちろんだが、男女でも離婚する夫婦なんていくらでもいるじゃんかって思ってて。だけど、牧がしたいっていうなら付き合ってやってもいいなって感じたんだ。

 制度ができるって決まっただけで、施行はまだ先だ。引っ越しもしなきゃいけないし、互いに仕事もあるってんで、意思が決まったからって早々に動けるわけじゃなかった。そのうち、世田谷区でも似たような取り組みを検討してるって話が耳に入って、じゃあそれを待ってから渋谷か世田谷か決めようってことになった。住むところとしては学生時代に暮らした世田谷のほうが馴染みがあるし、その制度のほかにも気にするべきところはあるんじゃないかって、ふたりで話して。
 結果、オレたちは学生のとき以来で世田谷区に舞い戻ることになった。宣誓書を出しに行く日、牧は朝から、いや前日から様子がおかしくて、オレはずっとそれを面白がってた。「今日がオレたちの新しい記念日になるのかな」って言ったらめちゃめちゃ嬉しそうにしてて、オレは自分が結婚する実感ってよりは、牧はそれでこんな幸せそうな顔するんだって、そっちのほうで胸がいっぱいになって、少し感動してしまった。まあ、決断してよかったなってことだ。
 オレが四十一歳、牧は四十歳のときだった。

 パートナーの宣誓をしたからって、日常が特に変わるわけじゃない。外では人並みに働いて、家では相変わらずしょうもないことで笑ったり機嫌悪くしたりして、大きな事件なんて起こらず、なにごともなく年とってくのかなーって思ってた。ああ、ちょっと大きめのことといえば、牧の強い押しに負けてマンションを買ってしまった。ある程度間取りとかに口出しできる、セミオーダータイプだ。

 五年後、二〇二〇年。
 外ではウイルス感染症が流行して、今夏に予定されてた東京オリンピックはひとまず延期、オレは平日なのに仕事に行けずに家にいる。連日こんな感じなんですっかりだらしなくなっちまって、今日起きた時間は朝の十時半だった。
「おはよ〜」
 自分の部屋を出て、居間のソファに座ってた牧に後ろから声を掛ける。
「おう、おはよう」
 牧はこっちを振り返ってちょっと照れたみたいに言った。家にいる割にちゃんとした格好してんなって思ったら、肩の向こうにノートパソコンが見えて、さらにその画面の中で気まずそうに笑ってる人が見えた。
「!!」
(居間でリモート会議すんなつっただろ!)
 オレはバシンと牧の背中を叩いて、そそくさとトイレに逃げた。トイレの音とか聞こえないもんだろうか。ドア閉めてたら平気か。

 居間にいるわけにいかないんで部屋に戻って、ちょっとスマホ弄って、タブレットで動画見て。それぞれの部屋にテレビを置いたら居間に来なくなるだろうって、牧が昔断固反対した名残で未だにテレビはないけど、もはやそれでも暇しない時代なんだよな。ベッドに転がってしばらくだらだらしてたら、部屋のドアがノックされた。
「藤真、仕事終わったぞ。遊ぼう」
「もう!?」
(遊ぼうって! 犬かよ!)
 牧の言葉と、リングコン──直径三十センチほどのリング状のゲームコントローラー──をアピールする仕草に、声と脳内とで別々のツッコミを入れていた。
「ああ、会議終わったからな」
「会議しか仕事ないんだ」
「今日はな」
 それでも会社にいればなにかしらやってるんだろうが、在宅勤務となれば余った時間はまあ遊ぶわな。それすらしてないオレがどうこう言えることでもないんだが。

 リングフィットネス・アドベンチャー、通称リングフィットは最近人気のテレビゲームで、体の動きを認識する機能を搭載した専用コントローラーを使い、冒険しながらフィットネスができるという代物だ。テレビでもよくCMを打ってる。
『最近どこも景気悪くて、儲かってるのはゲーム会社くらいらしいぞ』
 大真面目な顔で言いながらリングフィットとゲーム機本体を買ってきた牧に、言いわけしなくていいのに! ってツボって笑ってしまった。
 牧はテレビゲームが好きじゃない。理由は簡単、下手だから、面白さを感じるとこまでいけないんだ。そしてゲームの上手い花形に嫉妬してた。大学のときの話だ。だが体を使ってゲームをするリングフィットは、牧も好成績を出せて面白いようで、すっかりハマってる。
「どれにしようかな」
 牧がミニゲームを選んでるのを、オレはソファに凭れて見守る。
「パラシュートやって」
「藤真パラシュート好きだな。スカイダイビングしてみたいとか?」
「いいや?」
 プレイしてるときの牧の動きとか反応が面白いからだよ、とは内緒にしてる。牧は休日に出かける予定を入れたがるタイプだから、こうやってダラダラ家で過ごしてるのって意外と新鮮で悪くない。不穏なニュースが多いのとは裏腹に、家の中の時間はのどかだ。
 ちなみにこのゲームには一人プレイモードしかないんだが、牧は二人で遊べると思って二つ買ってきたんで、一個は花形家にあげた。品薄で買えてなかったんだって感謝されたが、牧は一体どういうルートでこれを手に入れたんだろう。
「……花形、大丈夫かな」
「お前、またそれか? 花形は感染症じゃないだろう」
「でも内科は内科だし、病院いるしさぁ」
 花形は神経内科のお医者サマだ。詳しいことは知らないが、オレたちが遊んでるときにも働いてるのは確かで、食事に誘って労ってやるのも今はためらうような状況で。まあ、そのうちことが収まったらなんかご馳走してやろう。
「しっかし、生きてるうちにいろいろ起こるもんだな〜」
 青春はいつの間にか終わって、仕事ももう変わんないだろうし、余生って歳じゃないけど、もうそんなに新しいことはないんじゃないかと思ってた。だけどたとえオレたちが変わんなくても、人がいれば世間があって、世間が変わればやっぱりオレらにも影響はあるんだよな。
「そうだな。一緒にいられてよかった」
「ん?」
 話が噛み合ってないんじゃないかって聞き返す。
「会いたくたって気安く移動できない状況なんだから、離れてたら心配じゃないか」
「あー……」
 オレと牧が密とか気にしないで一緒にいるのって、家族だからなんだよな。昔は別々のチームでバスケやってるだけだったのに。いまさらだけど、不思議な気分だ。
「これからだって、きっといろいろあるぞ」
「あるかな。いいことだといいな」
「今は〝病めるとき〟だから、次は〝健やかなるとき〟がくる」
「えー、あれそういう意味ではなくねえ?」
 結婚式の牧師の誓いの言葉だ。もちろんオレらは式なんて挙げてないが、ちょっとした真似ごとはした。牧ってそういうの好きそうだろ。でもあれって、一体誰に誓ってるんだろうな。相手に対してか?
 病めるときも、健やかなるときも、富めるときも、貧しきときも、

 それからずっと、おれたちは <了>

それからずっと、おれたちは 2

2.

「牧……?」
 裸足の足の指でおそるおそる牧の股間に触ると、想像した通りのじっとりした感触に、自分で自分の眉間にシワが寄るのがわかった。
「おい、牧ってば!」
 このまま足に体重を乗せて踏んづけてやろうかと思いながら声を荒げると、牧は「うーん」と呑気に呻いて眠そうに目を瞬かせた。
「お、藤真、おはよう。なんだ、モーニング足コキサービスか?」
「お前さあ……」
「ん……んんっ!?」
 牧は首を前に折って自分の股間を見つめると、おずおずとスラックスの中に──たぶんパンツの中まで手を突っ込んで眉を寄せた。
「すまん、夢精した」
「中学生かよっ!」
「……三十七だ。うん、それで藤真は三十八だよな?」
「ああ? ついこの前三十八になったな」
 牧は不思議そうな顔でオレを見つめて、安心したように笑った。寝ぼけてるんだろう。夢精だけなら怒るようなことじゃないだろうが、呑んで帰ってとっ散らかした床の上にスーツのまんま寝て夢精、って状況には呆れたっていいだろう。
 普段なら勝手に部屋に入ったりしないけど、昨日の夜は飲んで帰るから先に寝てていいって言われてて、大人しく先に寝て。朝起きたら牧の部屋のドアが半開きだったから、そりゃまあ様子見に覗くくらいするよな。
「それで、なんなんだよ、このありさまは」
 床の上には本やらなにやら散らかっている。牧がズボンを気にする仕草をしたが、もう手遅れだろう。オレはとりあえず自分の疑問を晴らすことにする。
 牧は照れくさそうに、でも嬉しそうに口もとに笑みを浮かべた。
「飲み会で昔の話が出て、懐かしくなって、アルバム見ながら寝落ちしたんだな。おかげで十七のときのお前の夢を見たぞ」
「それで夢精?」
「ああ、初々しくてものすごくかわいかったんだ」
 にこにことして、さも楽しげな牧の態度がなんとなく気に食わなくて、衝動的に腹を踏んづけていた。
「うぐっ!」
 筋肉に覆われた硬い腹だ、どうってことないだろ。股間じゃないだけ有情だと思ってほしい。
「悪かったな、古くさくてかわいくなくて」
「そんなこと言ってないだろう。今のお前もかわいいし、いやどっちかといえば綺麗だな。すごくセクシーで素敵だ。若いお前はそりゃ抜群にかわいかったが、今の俺には今のお前が一番だ」
「……寝起きでそんな饒舌なの、すごいね」
「本心だからな」
 確かに、試合中の打算以外で平然とウソつくようなやつじゃないのはよく知ってんだけど、今がいいって言いながら昔のオレで夢精してんだから説得力はない。情けない状況のくせに、ズボンの股間を気にしながらダンディに笑うのが憎たらしいようでいて憎めなくて、自然とため息が出た。
「……シャワー浴びてきていいか?」
「うん、行ってきな」

 オレは自室の机に向かって、牧の部屋から拝借してきたアルバムを眺めていた。牧の部屋に置いてるくらいだから、オレがこれを見たのは結構久々だ。
 開きっぱなしのまま牧が寝落ちしてたのは、夢に見たらしい高校生のころのページ。バスケ関係で撮られたのとか、オレが個人的に盗撮されたやつとか、写真そのものは結構多い。高二から付き合ってたものの、お互いの立場上カップルっぽい写真は少ない。
(若いつっても、ちょっと子供すぎねえかな……いや……)
 オレってこんなだったっけ? ってくらい、自分で言うのもナンだが、昔こういうボーイッシュアイドルいたようなって感じの美少女顔だ。女顔とか言われてたのは下らねえ悪口だと思ってたんだが、割と事実だったのかもしれない。そしてバスケ部の中とか、牧の隣に並んでたりすると余計にそれが際立つ。
(オレって年とって顔伸びたのか!? いや、輪郭が丸いからそう見えるのか)
 机の上に置きっぱなしになってるミラーで自分の顔をチラ見する。そう痩せたつもりはないんだが、今って結構頬が痩けたんだな。あと今は斜めに分けてる前髪を、全部下ろしてたからもあるだろう。女っぽく見られるのが嫌だったわりに、短くしても前髪は下ろしたまんまで、スポーツ刈りとか坊主みたいにまではしたことがなかった。まあだって、そういうのはシュミじゃなかったし。
 昔の友達と会うと、だいたいオレと牧は「昔と変わってない」って爆笑されるんだが、主に牧のせいだと思う。実年齢を言うと驚かれることは多いものの、オレはしっかり年食ってるんだ。
(で、そりゃまあ、牧は若い子のほうがいいわなー……?)
 オレと牧とは好みのタイプが違う。牧と付き合ってから気づいたことだが、オレはたぶん年上っぽい見た目? 雰囲気? が好きだ。だけど牧はかわいさと気の強さがマッチしてる感じの子が好みだったはずで、今となっては三十八歳のおっさん(オレ)よりは当然若い子のほうが、かわいいっていう点で好みに合致するだろう。オレだって、別に性的な目線でじゃないが、若くて元気な子は「かわいいな」とは思うし。同時に「若けえなぁ」って、なんだか疲れた気分にもなるんだけど。
 それに若いほうが性欲あって、ガツガツ牧のこと求めるんだろうしさ。
 チリチリ、ジリジリ、なんだか嫌な感じにイライラしてくる。
 ふと自分の右手に──なんも着けてないままの右手の薬指に目がいって、机の引き出しから取り出した二つの指輪を重ねて着けた。付き合って十年経った誕生日に貰ったやつと、この前の二十年経った誕生日に貰ったやつ。重ねて着けれるようにって、今回のは細いの選んだんだって。おっさんのくせによく考えてるよな。
 もう一つ。三つ目の指輪を取り出して、指先に挟んで窓の光にかざす。すっかりくすんだり凹んだりしちまってる、二十年も前の指輪。付き合ってから初めての、高三の誕生日に貰ったやつだ。
 大学生のとき、初めてできた彼女へのプレゼントに悩んでる友達が『最初で指輪は重いって聞くからネックレスがいいかな』とか言ってて、オレは初めての誕生日に指輪を贈ってきた牧を思って笑っちまったもんだった。
 オレとしてはこれも気に入ってるんだが、着けてると牧が子供っぽいだのおもちゃみたいだの、もっといいやつ買ってやるだのってうるせーから、二つ目を貰ってすぐに着けなくなった。ペアリングだったのに、牧があんまり着けてなかったってのもある。
(いいじゃん、ちょっと安っぽくてかわいい指輪……)
『大人になったんだからそれなりのものを贈りたいし、お前にも身に着けてほしい』
 たぶんそれを言われたときは指輪を貶されたってくらいのイラ立ちだったんだけど、今だとまたちょっと違うように感じる。
(年食ったオレには、高校生のときに貰った指輪は似合わないってことなんだよな)
 そりゃそうだ。当たり前。オレは見た目しっかり老けていってるって、さっき自分で思ったばかりじゃねえか。
(こんなんじゃ、そのうち愛想尽かされるな)
 多少のワガママも気まぐれも、許されてたのは昔のオレがかわいかったからだ。オレは自分の見た目を揶揄されるの好きじゃないとか言いながら、存分に利用してたもんな。だって、損するだけじゃ損だし。
(二十年かぁ)
 長いな。オレたちが初めて出会った年齢より、もっと経ってるんだ。あんまりにも長すぎる。その間、もしオレと一緒にいなかったらあいつはなにしてただろう。子供は作ってただろうな。牧の実家みたいな優しくて賑やかな家庭を築くんだろうって、簡単に想像できる。……いや、別に今からだって遅くはないだろ。牧ならイケる。若い女つかまえてさ。うん、やっぱワガママ許すにも若いかわいい子のほうがいいよな。元の地点に戻った。
 悩んだことなんて、昔のほうがずっと多かった。だけど昔は時間が限られすぎてて、立ち止まってなんていられない気がしたし、みんなのためって義務感もあって突っ走るしかなかった。一応、あのころのオレなりに考えてはいたつもりだけどさ。
 今は昔よりずっと時間があって、オレはたぶんオレだけのためにいて、正解を示してくれる成績や勝ち負けもなくて、だから不安になるのかもしれない。勝手なもんだ。
 ──コン、コン。
「藤真、入っていいか?」
 牧だ。まあ牧しかいないんだけど、そういや今日はオレが朝ごはん当番だから呼びに来たのかもしれない。
「ダメ」
「怒ってるのか?」
「なんでオレが怒る必要があるって思うんだよ、お前、なんかオレに悪いことしたのか?」
「え、いや、うーん……」
 ドアの向こうから、いかにも弱ったような声がする。本当にオレに悪いことをしたって思ってるみたいだ。ドアを開けてやる。
「おお、藤真」
 牧は家で過ごすときの服装に着替えていた。
「別にさ、ズボン汚したのは、あれは牧の持ちもんだからオレが怒る筋合いじゃねえだろ」
 牧はきまり悪そうに首の後ろあたりを掻く。
「そう……だな」
 オレは目を逆三角にして牧を見た。
「なに、ほかに悪いことしたのかよ? 昨日の飲み会でとか?」
「いや、それはないぞ。……だがお前、なんか怒ってるだろう?」
「……」
 オレは思わず唇を尖らせていた。昔はかわいいと思ってワザとやってたのが、いつの間にか癖になっちまったやつだ。姉に指摘されて気づいたんだが、もうそうそう直らない。
 その唇に牧は軽くキスをして、オレをぎゅっと抱きしめてきた。よくやるやつなんだが、なんかこれもお互いおっさんなの思うときついな。オレは牧の胸を思いきり押し返してドアを閉めた。
「おい、藤真っ!」
「なにが悪いのかもわかんねーのに謝ってんじゃねえよ!」
 ドアに背中をくっつけてその場に座り込む。別に牧は悪くない。オレが勝手にむかついてるだけだ。牧の態度は『理由はわからんが藤真が機嫌悪いからとりあえず謝っとこう』ってことなんだろう。それが気に食わない。なんか心広いみたいな態度取られてるのが、よくわかんないけどすげーしんどい。
(オレはもう、牧とは釣り合わないんだ)
 昔のことまでは否定しない。バスケでいい感じにやりあってた時代だってあったし、牧はオレがイイんだ、好きなんだって言ったし──昔はな。だけど今は違う。もうバスケはしてないし、牧は精悍に年をとっていくのに、オレはどんどんかわいくなくなって、確実に価値を失っていく。今はまだセクシーだとか言ってられても、もっと、もっと年食ったらさ?
『今の俺には今のお前がいい』
 それは今ここに昔のオレがいないからだ。今と昔のオレが同時にいたらお前だってきっと。
(夢の中で昔のオレに会ったって、嬉しそうにしてたじゃんか)
 昔の自分に嫉妬するなんて、あまりにも下らないのはわかってる。で、だから、別にオレじゃなくたって、ほかの若くてかわいい子でいいんじゃないかって話だ。牧はもう惰性でオレと付き合ってるだけだろう。
「藤真。そうだな、ズボンのことじゃないんなら、俺が昔のお前の夢を見て夢精したことが単純に気持ち悪かったとか……」
「ブフッ!」
 真面目に鬱々と考えてたのに、すごく申し訳なさそうにそんなこと言うもんだから、思わず吹き出してしまった。
 オレが勝手に拗らせてるだけだから、牧にわかるわけもない。ドアを開けてやる。
「オレだって男なんだから、男の生理現象をきもいなんて思わねえよ」
「じゃあなんでだ? あ、そういえばお前アルバム持っていっただろう。大事なアルバムを汚しそうだったから怒ってるのか?」
「大事なのはお前にとってだろ。オレには関係ねえし」
 オレは牧を部屋の入り口に置きっぱなしにして、ベッドに潜って壁のほうを向く。怒ってる理由は言いたくないし、朝ごはん作るのもめんどくさい──牧に対してなにしたっていいと思ってるわけじゃない。そのうち心広いふりもできなくなって、呆れるなり怒るなりするだろうって、それを待ってるのかもしれなかった。
「……もしかして、やっぱり俺が夢で十七のお前とやっちまったことを怒ってるのか?」
 無視しようかと思ってたんだが、いかにも言いづらそうに、申し訳なさそうに告げられたことがしょうもなすぎて、思わず声を上げてしまった。
「夢ん中のできごとなんて知らねーしっ!」
 言われなきゃ知るわけないし、夢精ってくらいだからある程度想像もできるし。そんで結局、オレのイライラの原因が割とそこだったりするのが一番しょうもない。
「……夢に見るほど若い子が好きなんだ」
「若い子ったって、お前だぞ?」
 牧が覗き込んでこようとするから、頭からタオルケットを被ってガードする。
「アルバムなんて毎日見るもんじゃないんだ。久々に見て懐かしいなって思ったまま眠ったから夢に出てきた、そんなにおかしいことか?」
 たぶんオレのほうがおかしいんだろうって、薄々感づいてたりはする。だけど。
「別に、夢を見たのが悪いって話じゃない」
 布越しに、大きな手が頭を撫でる。懐かしいような、落ち着く感覚って思ってしまうのがちょっと腹立つ。
「藤真、俺は昔も今も、お前のことが好きだ」
 オレはその言葉を拒否するみたいに、語尾に被せて言った。
「よくわかんない理由で勝手に機嫌悪くなってるおっさんにさ、お前いつまで付き合ってるつもりなんだよ」
「今初めてのことでもない。いつまでだって付き合う」
 昔はオレだってかわいかったから許せたはずだ。だけど今は違うだろ。
「オレもうお前が思ってるほどかわいくも綺麗でもないよ。お前老眼入ってきてんだよ」
「俺がそう思ってるんだからいいじゃないか。それに、お前がおっさんなら俺だっておっさんだろう」
「お前は昔からおっさんなんだから関係ねえだろ」
 たぶん、牧にはいまいち伝わってないと思う。オレは若いときから自分の見てくれがいいこと自覚してたし、だから牧がオレを好きって言うのにもある程度納得してた。それが年とって劣化していくって事実になにも感じないほど呑気じゃない。
「お前がなんにそんなに意地になってるのか、俺にはよくわからん」
 お前はあくまで『俺が好きなんだからいいじゃないか』って言うんだろう。それも想像はできるんだけど。
「……そんなの、昔からそうだろ」
 オレの気持ちはお前にはわからない。昔から。高校のときから、ずっとそうだった。
「だが俺は、それも含めてお前のことが好きだ。全部思い通りになる相手なんて退屈だって、お前だって思ってるんじゃないか?」
「それは……」
 ちょっと感覚ズレてるとか、ワケわかんないとか思うときは確かにあって、でもそれでケンカするよりは、面白い、楽しいって感じることのほうがたぶんずっと多くて、だからオレたちは長いこと一緒にいるんだろう。少なくとも、飽きたとか退屈だとか感じたことはオレはなくて。だから。だからこそ、老けてかわいくなくなって、このままじゃいられなくなるかもって、不安になったわけで──
(ああ、結局オレは不安なのか)
 しょーもねえな。自分に対して萎えきった気分で目を閉じたが、タオルケットを剥ぎ取られて無理やり仰向けにさせられたら、目を閉じてるのも逆に恥ずかしくてすぐに開けた。牧は真面目な顔をしてたが、口もとには笑みの気配もある。
「なあ藤真、いいじゃないか。俺たちはこれからも、ふたりで一緒に年をとっていくんだ」
 なにが『いいじゃないか』なんだろう。あと、勝手に決めやがって問いかけですらねえ。紳士なようでいて、ポイントポイントで傲慢なんだよな。
「じゃあさ、今すぐオレのこと抱ける?」
 なにが『じゃあ』なんだろう。自分で言っときながらもうよくわかんなかった。
「もちろん」

 俺の部屋にはダブルベッドを置いてるが、藤真の部屋はセミダブルだ。昔、ふたり暮らしをはじめたときからそうで、特に不便がなかったんで引越しに合わせてベッドを買い換えたときにもそのままのサイズにした。当然、ベッドの広い俺の部屋でやることが多かったから、朝っぱらから藤真の部屋でなんて、ものすごくレアなことだ。
 だが、単純に喜べる状況じゃない。誘ってるのは言葉だけで、藤真が乗り気なようには全然見えなかった。しかし抱けって言われたら抱くしかないわけで──そんな頭の底とは裏腹に、キスして抱きしめて、ベッドの中で藤真のにおいと体温に包まれると、すぐに下半身は元気になった。
「朝っぱらなのに」
 藤真が呆れたように呟いたんで、俺も思わず笑っちまった。
「さっき出したのにな」
 もはや条件反射みたいなもんなんだろう。ふたりして、ふざけて縺れるみたいにしながら服を脱がせ合ってさっさと裸になる。お互い慣れたもんだ。
 ほっそりとした頬に、憂えるような微笑が浮かぶ。昔から、ときたまそんな顔をすることはあったが、今のほうがきっとずっとさまになってる。
 藤真は昔より痩せた。体重が減った自体は聞いてたが、意外なくらい鮮明に残ってる夢の中の姿と比べると、目に見えて納得してしまう。
「ぁ……」
 筋の浮き出した白い首を甘噛みすると、天を仰いだ顎のラインも昔よりシャープになったかもしれない。日々見てて気づかなかったことを、あの夢のおかげで発見するって感覚は新鮮だが、だからって若いほうがよかったと思うわけじゃない。藤真はどうして妙な誤解に囚われてるんだ。
「んっ!」
 首回りが敏感なのは昔から変わらなくて、いや、昔より感じやすいかもしれない。震えながら背けた横顔に、長い前髪が掛かってすごく艶っぽい。
 いつだったか、前髪全部あるのと分けてるのとどっちがいいって聞かれて、どっちでもいいって言ったら怒られたことを覚えてる。本当にどっちもいいと思ったからそう言ったんだが。
 白くて平らな胸に、昔より色濃くなった乳首が目を引く。淡いピンクもかわいいもんだったが、今の色は生々しくてエロくて、率直に言って非常にそそる。待ちわびるようにぷっくり屹立するそこに、俺は遠慮なく吸いついた。
「あぁっ、んっ…!」
 肉のついた乳房がなくたって、乳首を吸いたくなるのはたぶん本能なんだと思う。舌に当たるかわいい感触を転がしたり、弱く歯を立てるたび、藤真は敏感に反応して高い声を上げる。俺がやたらいじったせいで目覚めたんだって、恨み言みたいに言われたこともあるが、俺はそれを聞いてから藤真の乳首のことがますます好きになった。
「あんっ、んっ…」
 手繰るように、急かすように、藤真の手が俺の背中から腰へと移動する。それ以上は、俺が藤真の胸に顔をくっつけてる位置関係のせいで届かないだろう。戯れるような仕草に確実に誘われながら、俺は顔を上げて藤真を見返す。
「んん?」
 どうした? って言ったつもりの俺に応えるように、藤真は膝を使って俺の股間を撫で上げて、目を細めて色っぽく笑った。妖艶って、まさにこういうことだろう。ぐりぐりといじめられる箇所から頭のてっぺんに、ビリビリ電撃が走る。
(お前だって朝っぱらから、ずいぶんやる気じゃないか……?)
 機嫌がいい日だって朝からすることなんてまずないのに、と呑気な考えが頭をよぎったが、すぐに打ち消した。むしろ今は機嫌悪くした直後だから、尋常じゃないってことだろう。
 お望みどおり先に進むかと、両の膝を立てさせ、M字に開かせてその中心に顔を埋める。乳首と同じく、昔より色を濃くしたそれを愛しく感じながら、口に含んでしゃぶり、舐め回す。
「んんっ、はぁっ……」
 これが真っ当に使われてないとは、世の女性にとって損害なんじゃないかとも思うが、俺は藤真が思うほど心の広い人間じゃないから、誰かに譲り渡してやる気は毛頭ない。
 昔より筋肉が落ちてほっそりとした脚を抱え上げる。形のいい亀頭も、俺の唾液でぬらぬら光る竿も、そこからぶら下がった玉も、その奥に控える、性器になった肛門も、全部むしゃぶりつきたいくらいに魅力的だ。そそられるのもあるし、愛着もある。もちろん賛辞のつもりだが、ストレートに口にすると藤真が明らかに引くんで、あまり言わないようにはしてる。
「っん…」
 少しだけ縦に伸びた窄まりに、たっぷりと唾液を落として指をねじ込むと、ふたりの体液の湿度だけでじっとりと密着する感触が卑猥で愛しい。指にまとわりつく強い抵抗感が、否応なしに俺を期待させる。
「はーっ……はぁっ……」
 ローションを含ませてほぐしていくと、打って変わって内に引き込むようなうねりが生まれる。ごくりと、自分の大きな嚥下の音がよそよそしく聞こえた。行為に慣れきったそこは、準備が整うまでにそう長い時間を要さない。ああ、本当にエロい体だ。
「挿れるぞ」
 頷くのを確認してコンドームに右手を伸ばすと、同じことを考えたらしい藤真の左手とぶつかった。俺はなんだか妙に堪らない気分になって、その手をぎゅっと捕まえる。
 そのまま、思いだしたように藤真の右手を見遣ると、俺の贈ったリングが二つ重ねて嵌められていた。本気で怒ってたわけじゃない、やっぱりちょっと拗ねてただけだって安心しながら、揃いのリングをつけた自分の左手でその手を握る。色の違う指を絡めるとリングが寄り添うって光景が、特別な感じがして大好きだった。食事のとき、対面に座ると鏡の向こうみたいに同じほうの手で箸を動かしてる、そんな些細なことにも昔は感動したもんだって不意に思いだす。愛おしさの遣り場に困って、唇に深くキスをした。
「ん、ぅん……牧?」
「ああ、すまん」
 疑問の声は、挿れるっていったきりキスしてたせいだろう。それか、ゴムつけないのかってことかもしれない。どっちにしてもかわいい。
 あらためてコンドームの個装をひとつ取り、手早く装着して藤真の陰部になすりつける。ごく薄いゴム越しに、藤真の熱とうねりがほとんどストレートに伝わる。昔のは厚くて、いかにもつけてる感があって嫌いだったとか、妙に昔のことばかり思いだすのもあの夢のせいなんだろう。
「いくぞ」
「うぅっ、あぁぁっ……!」
 体を進めると、そこはすっかり俺の形を覚えてるみたいに馴染んで食らいついて、ずっぽりと呑み込んでしまう。まだ一応藤真の様子を気にしてた、頭の奥までずぶずぶと欲望に侵されていくみたいだった。
「ああ……藤真、好きだ、ずっと……」
 慰めじゃない。ただ実感があるだけだ。即物的だとか、やりたいだけかと冷やかされたこともあるが、堪らなく好きだって感じたら抱きたくなるし、そうして抱いたらまた際限なく好きだって実感がこみ上げてくる。少なくとも、俺の心と体はそういう風にできてる。
「本当に?」
「ああ……」
 少し伏し目がち、なにか心配してるんだろうか。だが俺はそんな表情だって大好きなんだ。だって、誰にでも見せるもんじゃないだろう?
 馴染む体。互いの望む通りに進む、よく知ったセックス。そこから生まれる飽くことのない快感と満足感。それは昔か今かじゃなくて、ずっと一緒にいる俺たちの間だからこそあるもんじゃないか──そう藤真に言ってやればよかったのかもしれない。しかし頭は働かなくて、舌先は戯れることに夢中になっていた。

 箱ティッシュを毟り、てきぱきと各々の体の後始末をする、ふたりとも無言なことに事前のやり取りは関係ない。いつものことだ。
「俺だって、おっさんになったんだ」
「お前は昔からじゃんか」
「昔は賢者タイムなんて感じなかった。はじめて気づいたときはショックだったな。お前に嫌われるかと思った」
「んなの、昔が異常だっただけだ」
 藤真は丸めたティッシュをゴミ箱に放ると、足のほうに溜まっていたタオルケットを引っぱって体に掛け、俺に背中を向けて裸のままの体を丸めた。
 俺は体と腕を伸ばして藤真の机からアルバムを取り、枕の位置に広げる。ベッドに肘をつくようにうつぶせになって、タオルケットの中に体を入れると、藤真の背中に俺の二の腕がくっついて愛しい。
「まだいる気なのかよ」
「一緒にアルバム見よう」
「なんだよ一緒にって、部屋でひとりで見ろよ」
「藤真はアルバム嫌いか?」
「嫌いってわけじゃないけど、そんなに興味ない」
「まあ、俺だって昨日久々に見たくらいだが」
 藤真の後頭部を視界の端に入れながら、続きのページをめくっていく。高校時代が終わって、大学生だ。ツーショットじゃなくて、それぞれの大学の友人らと写ってる写真が多いページだった。昔はなんとも思わなかったが、今見るとずいぶんむさ苦しい深体大と、いかにも賑やかな若者らしい空気が伝わってくる青学と、全然雰囲気が違うもんだな。藤真なんてすぐ有名になって周りが騒がしくなるんじゃないかって心配したら、『ああいうとこ入るとオレはそこまで目立たないから大丈夫』だの言われたのを覚えてる。試合のときはしっかり黄色い声援が上がってたが。
 次のページに現れた大判の写真に、俺は思わず声を漏らした。
「親父もお袋も、若えなあ……」
 はじめて藤真を連れて実家に行ったとき、帰りぎわに撮った家族とペットの集合写真だ。
 藤真が寝返りを打ってアルバムを覗く。
「本当。牧の弟も妹も子どもだし、ヒマも金太もカメ吉もいるし」
「な、アルバムっていいもんだろう」
「この写真はいい写真だからな。当時は『なんで?』って思ったけど」
「家族写真、か」
 後日郵送されてきた写真に同封されてた一筆だけの手紙には、親父の字で『新しい家族写真ができたので送ります』とあって、それを見た藤真は『部外者が混ざってるじゃねーか!』って笑ってたっけな。
「……牧、今からならまだ、子供つくってもいいんじゃない」
「あぁ?」
 俺は思いきり怪訝な顔と声を出してしまった。子供が欲しいと思わないのかと聞かれたことは前にもあって、俺の答えはいつも同じだったが、今日はまた強引にきたな。
「三十七。子供がハタチになって五十七。まだオッケーだろ」
「俺は子供が欲しいなんて思ったことは今まで一度もないぞ」
「嫌いではないだろ? 人生一度きりなんだから、試してみたら」
「……子供が嫌いだって言えば納得するのか?」
 藤真はまた寝返って、少し前みたいに壁のほうを向いてしまった。
 俺が惚れた相手が女性だったなら、好きになったその先のこととして、子供を考えることもあったかもしれない。だが実際俺が好きなのは藤真だ。それだけで終わる話だと俺は思ってる。
 動物の交尾は生殖行動だろうが、人間は違う。だから避妊具ってものが存在してる。俺は別に子孫を残したくてセックスするわけじゃない。藤真だってそうなんじゃないのか。
 昔より骨の線の見える、白い背中を包むように腕を回し、少し伸びた襟足に額をすり寄せる。
「一度きりならなおさら、俺はずっとお前と恋人同士でいたい。それでこれからも一緒に思い出を増やしていくんだ」
「……一緒に」
「ああ。俺と、お前と一緒に」
「……ちゃんと考えた?」
「もちろん。ちゃんと考えて答えてるぞ」
「……オレって、ちょくちょくめんどくさい感じになるよな」
「飽きなくていい」
 全部俺の確かな本心だ。だがきっと、心だけじゃ不安になることもあるんだろう。理解しないわけじゃない。指輪や生半可なもので繋ぎ止められるとも思ってない。
 そう考えて、賃貸住宅じゃなくてふたりで暮らすマンションを買おうって提案したことがある。名案だと思ったし、俺の心はすっかり〝ふたりのための家〟に旅立ってたんだが、あっさり拒否されてしまった。ショックだった。ものすごく落ち込んだ。藤真が言うには、近くに変なやつが住んでたときに、買っちまってたら引っ越して終わりってわけにはいかないだろ、とのことだ。売るなり貸し出すなりどうにでもできるとは思ったが、それを提案してなお拒否されたら立ちなおれないような気がしたんでその場は大人しく引き下がった。
 じゃあほかに、どうすればいいだろう。ずっと一緒にいる。追いかけてる夢なんてない。ふらっといなくなったりなんてしない。そう藤真が信じられる方法だ。
 男女なら結婚なんだろう。同性同士では養子縁組をするって方法があるのは知ってる。公的に家族になれるわけだが、当然、ふたりの戸籍上の関係は親子になってしまう。法的な保護や経済的なメリットはあるようだが、俺の目的はそういうことじゃなくて藤真を納得させることで、その視点で考えると、望みは薄いように感じる。先入観なんだろうが、親子って関係が俺の気持ちと乖離してるのもあって、具体的に切りだしたことはなかった。
 なんか、いい方法はないもんだろうか──腕の中で、藤真が低く唸った。
「う〜……ハラ減ったな」
「朝まだ食ってないからな」
 朝っぱらからがんばったせいで忘れてたが、寝起きの失態のあと、シャワーから上がってしばらくしても藤真がリビングに出てこなかったから、こりゃ機嫌損ねたなって部屋に様子を見に来たんだった。
「! そうだった。しかもオレが朝当番」
「俺が作るか?」
「なんでだよ、いいからそういうの。でもシャワー浴びてからな」

「これからも一緒に思い出を増やしていくんだ」
 牧の言動って、やっぱりどうも夢見がちだ。なんだけど、無謀とか身のほど知らずとかそういうんじゃなくて、例えばバスケやってたころなら、試合の中でものすごくストイックだなとか、引きぎわをわきまえてんなって感心したことは少なくない。まあ、それとこれとは別の領域なんだろうけど、不思議な男だなってのは長く一緒にいても未だに思うことだ。
(あー……)
 オレだって昔の牧のこと、たまに思いだしてんな。別に昔のほうがよかったとかじゃないけど。牧は昔から変わってないからな。

 思い出はなんのためにあるんだろう。

 この先どのくらい牧と一緒の景色があるのかな。たとえば死ぬ前に見る走馬灯のスライドはどんな風になってるだろう。
 大丈夫、別に病んでない。余命宣告も受けてない。ただ、誰かに残す思い出じゃなくて自分のための思い出ってのは、突き詰めればそういうことなんじゃないかって思いついちまっただけだ。

 牧を信じないわけじゃない。だけど絶対なんてないとも思ってる。置いてかれるかもしれない。いつか消えるかもしれない。可能性はなくはない。これは悲観じゃなくて、オレが昔から抱いてる保身だ。信じきって裏切られるよりなら、どっかに疑念を残しとこうっていう。
 オレも見た目が年食っただけで、中身は昔とそんなに変わってないんだろうな。牧のこと夢見がちって冷やかしながら、それが潰えるのをおそれてる。

それからずっと、おれたちは 1

1.

 鼻を撫でる潮のにおいを、頬にまとわりつくそよ風を、即座に懐かしいと認識していた。二色の青の境界には白い光線がキラキラ揺れて輝いて、波の音が穏やかで単調な反復を繰り返している。高校時代を過ごした、神奈川の海だ。
 夏の真っ昼間だが、ジャケットを着込んだスーツ姿にも暑さは感じない。履き慣れた黒い革靴が白い砂に不似合いで、少し居心地が悪かった。海水浴場からは離れてるんだろう、ほかに人はいない──と思ったところであまりに鮮烈に目に飛び込んだ少年の姿を、俺は思いきり凝視した。
(藤真……!?)
 俺は魚みたいに目を丸くして口をパクパクさせた。喉の奥が張りついて閉じたような感じで、咄嗟に声が出なかったんだ。
 あいつのことはずっと見てきてる、背格好や髪型が似てるなんて話じゃない。まだこっちに気づいてない、考え込むような、少し寂しげな横顔だってそうだ。格好は私服といえば私服だが、シンプルなTシャツとハーフパンツ姿はバスケの練習のときの感じだな。
 視線を感じたのか、藤真は俺に気づくと大袈裟に首をこっちに向けて目をまんまるにした。
「牧!?」
 近くまで駆け寄ってくると俺の顔をじいっと見て、頭のてっぺんから靴の爪先まで、舐めるように観察する。舐めるって思ったら一瞬ふしだらな気分になっちまった。俺と藤真はもう長くそういう関係だから別に大丈夫なんだが、しかしこの藤真は──
「……じゃないよなぁ。でもホクロまであるなんて、こんなにそっくりなことって」
 目の前の〝少年の藤真〟は、スーツを着て眼鏡を掛けた三十七歳の俺を見つめて、腕を組んで唸っている。いかにも理解できないって様子だが、俺だって同じだ。神奈川の海で藤真と出くわすことのなにがそんなにおかしいって、俺が今のままなのに藤真が高校生だってことだ。今は二〇十二年のはずだぞ!?
 高校生だって断定するのは、俺たちが出会ったのは高校のときで、それ以前のことは知らないんだから、見覚えがあるってことはそういうことだろう。それにしても、昔の藤真は……言ったら怒られるんだろうが、女の子みたいだ。
 額全体を覆うように下ろしたサラサラの前髪の下から、長い睫毛に飾られた大きな目が様子を窺うようにこっちを見てる。これがまた、陽の光を浴びると金色に透けるみたいですごく綺麗で、まあそれは今も一緒なんだが、かわいいって形容になるのは輪郭のせいだろうな。ほっぺたのラインに丸みがあって、今の俺が見慣れてるよりずっと子供って感じだ。藤真の〝作ってない〟豊かな表情と相まって幼く見えて、身長差は大袈裟には変わってないはずだが、なんだかずいぶん小柄に感じる。俺たちは高校のときから付き合ってたが、藤真は本当にこんなだったか? なんとなく罪悪感が湧いてきた。
「えと、牧紳一の親戚の方ですか?」
「いいや? そんなやつは知らないな、他人のそら似だろう」
 親戚じゃあないんでなにも考えずに否定しちまったが、親戚にしといたほうがよかったろうか。しかし昔から老け顔と言われてた俺だが、高校生のころは今よりはちゃんと若かったんだな。だから藤真は俺本人ではないと思って首傾げてるんだ。
「そら似……」
 熱心に視線を注いでくる藤真にキスしたくなったが、俺はこの藤真の恋人ではないはずだから一応我慢した。つうか、この藤真はもう俺と付き合ってるのか? これはいつの夏だ?
「世の中には、同じ顔の人間が三人いるっていうだろう」
「聞いたことはあるけど……」
「きみはこんなところでひとりで、なにしてるんだい」
 一瞬、左のこめかみを気にするように手を挙げかけた動作を俺は見逃さなかった。怪我したすぐあとのタイミングか。
「行くとこないんだ」
「部活は」
「休み」
「本当に?」
 藤真の表情が一瞬曇ったように見えたが、吹き抜けた風が長い前髪を乱して目もとを隠した。再びこっちに向いた瞳は悪戯する子猫みたいに、いや、小悪魔みたいに愉しげに笑んでいた。
「おじさんこそ、なんでスーツ着てこんなとこにいるんだよ。仕事サボってんじゃないの?」
 藤真は知らないおじさんにこんな顔をして妖しげなことを言うような高校生だったんだろうか。それとも俺が牧に似てると思ってなんだろうか。
「なんでって? そりゃあ……」
 俺にもわからなかった。なんでだ? 答えに詰まる俺を認めて、藤真は目を細めて笑う。
「おじさん暇なんだったらさ、オレと援交しない?」
「っは!? な、なんだと!?」
 エンコーと。援助交際と、聞こえた気がするんだが、きっと聞き間違いだと思う。本当はなんだろう。なんかそういう言葉あるか? 〝公園〟の若者言葉か?
「怒んないでよ、嫌ならいいよ」
 いかにもつまらなそうな顔をして、ふいとそっぽを向いて離れていこうとする藤真の手首を、咄嗟に掴まえて引いていた。
「待てっ! ふ、きみっ! 今一体なんてっ……!」
 藤真は掴まれた手首を見て、それから俺の顔を見て、愛らしく首を傾げる。わかるぞ、たぶんわざとだ。
「え、もしかして知らない? エンコー、援助交際。お小遣い貰う代わりにおじさんと遊んであげるっていう」
 探るような、大人びた視線が絡みつく。藤真はさすがに中学時代からモテてたらしく、高校時代にはませてたというか、すれてたというか、そういう感じだった記憶がある。顔の造形は幼くても表情は確かに俺の知る彼のものでもあって、そして藤真は俺の恋人で、だが今目の前にいる藤真は高校生で、俺は分別ある大人だ。俺は葛藤に打ち勝ってきっぱりと言い放った!
「それは立派な売春だし、きみは未成年じゃないか。そんなこと絶対に駄目だ!」
 藤真は不満げに眉を跳ね上げ唇を尖らせる。
「だから、嫌ならいいよって言ったじゃん」
 離れていこうとする体を、その腕を、俺はやっぱり捕まえてしまう。
「あ……」
 反射的なものだったから、思わず間の抜けた声が出てしまった。
「なんだよ、放せよ」
「ほかのおじさんと援助交際なんてするんじゃないぞ」
 素直にうんと頷く相手じゃないことは俺だってよく知ってる。なにしろ藤真だからな。
「関係ねえだろ」
 ただの強がりだ、実際は援助交際なんてしないだろう。……本当に、しないだろうか? 怪我で部活に出られなくて、自棄になってるかもしれない。もしくはなんか、金が必要な事情があるかもしれない。どっちにしろ、俺が今藤真を解放すれば、悪いおっさんと援助交際してしまう可能性はゼロではない。そして藤真は痴態を撮影されて脅され、闇のAV堕ち──
「いくら欲しい?」
 顔を寄せて低く囁くと、藤真の顔がパッと輝いた。
「おっ、話早いじゃん。いいね」
 天使みたいだ。つるんとした髪の毛に光の輪っかが見えてる。これからおっさんに春を売るつもりには到底見えない。涙が出そうだ。
「とりあえずなんか食い行こうよ」
「なにがいい? 寿司か?」
「肉!」
 太陽の下に咲く満面の笑みが、大輪のひまわりみたいだった。綺麗だな。くらくらする。空も青くて、明るくて──

 場面は変わって、俺の行きつけの焼肉屋だ。そのうち藤真の行きつけにもなるだろう。藤真はトングをカチカチ鳴らしながら、爽やかに高校生らしく笑った。
「焼いてあげる!」
「焼きかたわかるのか?」
「わかんねーけど、焼くだけだろ?」
 そう言って網の真ん中に、同じ部位の肉を二枚並べる。
「確かに。楽しく食べればそれでいい」
 前にもこんな会話をしたような気がするが、この藤真はまだ知らないかもしれない。なんにせよ藤真が俺のために肉を焼いてくれるなんて、かわいげがあっていいもんだ。……いや、援助交際ってことを気にして振る舞ってるんだろうか。そう思っちまったら嫌な疑念が湧いてきた。聞いてみたいような、知らないほうがいいような。
「そうだ、おじさんのこと、なんて呼んだらいい?」
 上目で覗いてにこりと笑う。うん、かわいいな。だが作り笑いだな。……こういうの、慣れてるんだろうか。ああ、嫌だ、いやだ!!
「おじさーん?」
「ん、ああ、『おじさん』でいい」
 昔、十代のころ、ふたりとも同い年なのに焼肉や寿司でよく〝パパ〟と間違えられたな。懐かしいことだ。実際にそうなっちまうとは思いもよらなかったが。
「きみのことはなんて呼べば?」
「え? あ、うーん、じゃあ『藤真』で」
「なっ!?」
 おい、こういうのって、身元は隠すもんなんじゃないのか? いや知らんが、なんとなくそういうイメージがある。藤真がなにも考えてないとも思えないんだが……。
「なに? なんかヘンだった?」
「いや、別に。そうか、きみは藤真くんか……」
 そうだな、目の前にいるのは確かに藤真だ。だが、しかし、なぁ。
「呼び捨てでいいよ。お、焼けたっぽい。はい」
「ああ、ありがとう……藤真」
 舌にも唇にも、もうものすごく馴染みのある響きだ。藤真は照れくさそうに笑う。
「すごい、やっぱり声まで似てる」
「見た目が似てたら声帯も似てるから、声も似てるんじゃないか?」
 俺はものすごく適当なことを言った。

 浴室から漏れるシャワーの音を聞きながら、俺はベッドの中で藤真を待っている。当然、裸だ。ホテルまでの道中は覚えてない。酒は飲んでないんだが、おかしいな。
「ふーっ……」
 細く長いため息は憂鬱のアピールだったが、それでも俺はこの場を離れることができずに待っている。
(だって、相手は藤真だぞ? 俺は藤真とずっと付き合ってるんだ、なにも悪いことなんてないだろう。いくら俺がおっさんで、藤真が未成年だとしたって。……いや、やっぱりそれはいかんような気がするな……ううむ……)
 相手が見ず知らずの高校生ならこんなのは絶対ありえないんだが、藤真だってことが事態をややこしくしてる。
 浴室のドアが開く音がした。ドキッとしながらも平静を装って待ってると、バスローブ姿の藤真が俺の隣に潜り込んでくる。裸の腕に触れるバスローブの感触と、馴染みのない石鹸のにおいがものすごくよそよそしい。
 俺が体を横に転がしてぴたりと藤真に寄り添うと、藤真は仰向けのまま、視線だけを逃がすように逸らした。照れてるんだろうか。不慣れっぽい……つまり、やっぱりこんなことは日常的にはしてないってことじゃないか? 俺は俄然元気になってくる。
「藤真、本当にいいのか?」
 ああ、最低だな。本当なら『こんなことはいけない!』って突き放さなきゃいけないだろうに、俺は悪い大人だ。
「そんな、ここまできてそんなこと言う?」
 藤真は言うと、ためらうような動作で俺のほうに頭を寄り添わせた。頬に触れる柔らかな髪の感触を、彼の甘える仕草を俺はよく知ってる。なにを迷うことがある?
「そうか、そうだな……」
 顎を掴まえ、顔を上向かせると長い睫毛がゆっくり降りる。
「っ……ん、むぅっ…」
 反応こそ初々しいものの、薄い皮膚の感触も、漏れる声もまるで藤真だ。俺のわずかばかりの罪悪感と自制心は簡単に崩れ去って、藤真の体からバスローブを剥ぎ取り、力一杯抱きしめていた。肉付きがいいってわけじゃないが、肌と筋肉には若々しい弾力があって、若い子をピチピチって表現するのはこういうことなんだろうなって変に感心してしまった。
 恥ずかしがらせるようにちゅっ、ちゅと音を立てて唇を吸って、白い首筋に舌を這わせる。若い体がぎこちなく波打って、大きく震えた。
「はっんっ」
「気持ちいい?」
「っ、くすぐったい…」
 はにかんだ笑みが、新鮮ながら懐かしい感触で胸の奥をぎゅっと摘む。肩口、鎖骨、平らな胸へと、唇を落として軽いキスを繰り返すたび、ごく弱い反応を示すのがいじらしくて堪らない。キスは好きだ。だが、体中にキスをしても痕はつけない。藤真の周囲を騒がせたくはなかった。……ああ、そうだな。俺たちの逢瀬はいつだって背徳的で刺激的だったが、ふたりしていつも互いの予定を気にしてた。ささやかな反逆を繰り返しながら、決して破滅は望んでなくて、優等生でいられるぎりぎりを探ってたんだ。
 下唇に、ツンと尖った愛らしい感触が触れる。
「あっ…」
 照明は少し落としてはいるが、白い肌にほんのり浮かぶ淡い色素は確認できる。初々しい、ピンク色の乳首だ。昔はこんなだったんだな。
「っ、んくっ…あっ…」
 ふたつの小さな突起を摘んだり、爪の先でかすったり、甘噛みしたり。好き勝手に弄り回すと、ときおり恥ずかしそうな声が漏れる。思いきり感じてくれるのもいいが、こういうのもかわいいもんだ。
 脇腹から腹へと、色黒の手が白い肌を味わうように撫でる。自分の手なんだが、こういうときはなんだかすごく他人ごとというか、卑猥な映像を見てるような気分で興奮してしまう。もちろん感触だってやらしいんだが、きっとふたりの肌のコントラストが、俺とお前は違うものなんだって、だがこうして触れることを許してるんだって、思い知らせるからなんだと思う。
 股間には、若々しい猛りが元気よく天を仰いでいた。
「興奮してるんだな」
「あ、当たり前だろっ、こんな状況なんだから」
 長年一緒に居続けて全然意識してなかったが、乳首と同じくこっちもそれなりに様変わりしたんだな。たぶん俺のほうもそうなんだろうが。
 ピンクのかわいい先っぽに音を立ててキスしながら、濡らした指を藤真の会陰部から尻の穴へと滑らせる。
「ひっ!」
 怯えたような困ったような顔で身を硬らせる藤真の様子はもうずいぶん見たことがないもんで、俺の中のよからぬ衝動がどんどこうるさく胸を叩いた。
「こっちも? 本当に大丈夫か?」
「だ、大丈夫、覚悟はできてる……」
 もちろん乱暴にする気はない。実際最初のときから割と円満というか、うまくできたんじゃないかと俺は思ってるんだが、藤真がどう感じてたのかはわからない。あいつはわがままなようでいて根っこの部分では結構気を遣うほうだからな。だが、今の俺なら昔よりうまくできるはずだ。というか、できないと困る。
 体を下にずらして藤真の股間と向き合い、たっぷり唾液を垂らして手の中で竿を遊ばせる。扱くたびに脈打つ感触も、元気がよくて若々しいって感じだ。
「あぁっ、んんっ…♡」
 藤真がいかにも気持ちよさそうに目を細めるんで、このままいかせてやりたいような気もしたが──空いているほうの手で太腿を持ち上げると、きゅっと閉じたかわいい蕾が怯えるように震えていた。いや、藤真の覚悟を無駄にしてはいけないな。そこにキスするように唇を合わせ、べろりと表面を舐める。
「ふぁっ…!」
 初めてだろうに、誘うように収縮してる。きっと素質があるんだろう。望み通りと、細く尖らせた舌を差し込んだ。
「っんっ!」
 唾液を送り、にゅぐにゅぐ舌をうねらせながら前を扱くと、ぎゅうと舌が締めつけられる。さすがにきついな。じっくりほぐしてやらないといけない。
 舌を抜いて視線を上げると、顔を真っ赤にした藤真と一瞬目が合って、即座に逸らされた。
「っふ……」
 なんとなく笑ってしまった。感情としてはなんなんだろうな、とりあえず罪悪感はない。ただ藤真のことがかわいくて、気持ちよくしてやりたいと思ってる。
 ローションをたっぷり指に絡め、唾液で少しだけ潤んだ入り口に突き立て、ゆっくり呑み込ませていく。
「っあ、あぁっ…」
 細い悲鳴みたいな声が上がる。慣れない感触のせいだろうが、指一本なら物理的には問題ないはずだ。藤真の意志じゃなくて体の反射なんだろうが、指への強い締めつけと押し返す弾力が、なんだか素直じゃないときの藤真みたいだと思った。
「あぅ、んっ、あぁっんっ…」
 じっくりと後ろを濡らしほぐしながら、イかない程度に前を扱いたり、しゃぶったりして、これは気持ちいいことなんだって感覚を植えつけていく。
「気持ちいいのか?」
「あんっ、んっ…」
 腰を浮かせて、顔を背けながらも、明確な拒絶は示さない。思う通りの反応を示す藤真がかわいくて堪らない。しばらくそうしていると、短く問うような声が上がった。
「っ、ねっ…」
「どうした?」
「ずっと、そうしてるね?」
「ん? ああ……」
 なんのことか一瞬わからなかったが、指より先に進めってことなんだろう。興味なのか意地なのか……うん、藤真はそういうとこあったな。
「そうだな」
 そろそろいいだろう。ヘッドボードに手を伸ばしてコンドームの個装を引っ張り出す。
「ゴムつけるんだ? 男同士なのに?」
「避妊具っていうが、避妊だけが目的じゃないんだぞ」
「そうなんだ」
 藤真はなんだか残念そうだ。まあ、若いころは性欲自体も強かったが〝できるだけエロいこと〟をしたいってのもあったもんな。俺は大人の矜恃を保ったってところか。
「うつぶせになって、腰を上げて」
「バックってこと?」
「ああ、それが一番楽なはずだからな」
「……」
 少し戸惑ったようだったが、それでも藤真は素直にうつぶせになって尻を掲げた。小ぶりで引き締まった尻に、きゅっと窄まったアナルに、ぷりっとした玉袋がぶら下がってる。いい眺めだ。
 白い小山の間に黒く猛る息子を擦りつける。つるんとしたこのかわいい尻にこれを突っ込むのかと思うと、異様な興奮でどうにかなっちまいそうだった。
「力抜いて」
 落ち着いていけ、と自分に唱えながら、小さな窄まりに先っぽを押しつけて押し込む。
「っく、ぅ……っ!」
 狭い肉の門を、じりじりと、ゆっくりと開きながら、体を貫いていく。慣らしたつもりだが、さすがにきつい。漏れ聞こえる声が辛そうなんで、前を扱いてやると、驚いたように震えた体と一緒にそこも収縮して、俺のモノをずるりと呑み込んでしまった。
「う、あぁあっ…!」
 藤真は枕の上に置いた腕にすっかり顔を埋めてしまっている。女のような極端な起伏はないが、背中から腰、尻へのなだらかなラインはやっぱり色っぽい。男の欲望を受け入れるには頼りないような、肉の薄い腰と細い太腿に堪らなく興奮するようになったのは、藤真のせいだったと思う。
「藤真、入ったぞ」
 下腹部を撫でると、俺のものを含んだそこがぼこんと腫れているような気がした。
「あ、うぅっ…」
「気持ちいいか?」
「ぅ、ん……」
 自己満足みたいに問いかけて、ゆっくりと体を引いて、また奥まで収めて。様子を窺うように動作していたが、そう長いことは耐えられずに、明確にピストン運動をはじめる。
「はっ、あぅっ、あぁっ……!」
 体をぶつける音と、歓喜とも苦悶ともつかない呻き声の中に、確かな響きをもってそれは鼓膜を揺らした。
「あっんっ……き……まきっ……」
「っ!! 藤真……!」
 お前、俺のことを考えてるんだな! 援助交際なんて言いだしたのも、俺が牧に似すぎてるからだったってことだ。止めるなんてとうにできない状態だったが、いよいよ歯止めが効かなくなる。
「うぐっ!」
 思いきり深くまで穿ってのし掛かり、いじらしい体を縛るように抱きしめ、伏せられた藤真の顔に頬をすり寄せる。
「こっち向いて」
 いかにもためらうように、重々しく顔が上がると、強引にその顎を掴まえて唇を奪った。
「んっ、むぅ…」
 それからはもう、夢中だった。俺は自分の恋人を抱くつもりで高校生の藤真を抱いて、藤真はおそらく彼の世界の高校生の俺を想って鳴いた。
 窮屈で刺激的な感触に連れて行かれるように、俺は自分の終わりを察して、藤真の前をしきりに扱く。
「ひぁっ、ァっ…!」
「藤真、いくぞッ…」
「あ、んっ、まきっ…! あ、あァぁぁッ……!!」

「彼のこと、好きなのか?」
「えっ? 彼って?」
「牧ってやつのこと」
「んなっ、そんなんじゃないしっ!」
 幸せそうに紅潮していた藤真の頬から、一気に血の気が引いて蒼白になる。
「おじさん、やっぱり牧の知り合いなんじゃ……」
「さあ、どうかな」
「このこと、牧には言わないで」
「なら、もう援助交際なんて絶対にするんじゃない。そして、彼に気持ちを伝えてやるといい。そしたらきっと彼は、一生きみのこと離したくないって思うはずだから」

きみがいて誰もいない

 玄関のドアを開けると夕食のにおいがしていた。体力には未だに自信があって、一週間にも及ぶ出張帰りでも疲れは感じていなかったが、うちのにおいだ、帰ってきた、と実感すれば多少の気怠さも生まれ、そこに滲み入るように甘やかな幸福感が湧いてくる。
 部屋に入ると、ダイニングテーブルの側を向いた調理台の前に立って、藤真が鍋を掻き回していた。対面の形になるカウンターキッチンは、牧が昔から熱望していたものだ。
「ただいま」
「おかえり」
 顔を見て短い挨拶を交わすと、牧はカウンターの向こう──藤真の背後に回り、細い腰に腕を回す。そして襟足に鼻先を埋め、すうはあと深く呼吸した。
「……なに」
「久しぶりだから、藤真を吸ってる」
「そう」
 藤真は素っ気なく返しただけで牧に構わず料理を続け、牧もまた気が済むと黙って離れて自室へ行く。久しぶりではあるが、いつも通りのやり取りだった。

 背広とネクタイから解放されて食卓につくと、牧は長く息を吐き、ゆっくりと首を横に振った。
「一週間ぶりだ。考えられない」
 仕事関係で家を空けること自体はそう珍しくはなかったが、今回は少し長かった。藤真の顔を見たのも、当然こうして食事をともにするのも一週間ぶりだ。藤真が向かいの席に座るのを見届け、律儀に手を合わせる。
「いただきます。……ああ、本当に久しぶりだ」
 黙々と食べ、しみじみと呟く。藤真の作る料理に特別な特徴があるわけではないと思うが、それでも食べ慣れた〝うちの味〟というものがあるのだなと、不思議な感覚に陥っていた。
 藤真は大袈裟だと言わんばかりに、怪訝そうに牧を見る。少しだけ顔を俯けた上目遣いは、昔から変わらない癖だ。
「別に、高校のときなんて一ヶ月近く会わないとかあっただろ」
 牧は意外そうに目を瞬いて頷き、喉仏を大きく上下させて口の中のものを飲み下す。
「──ほんとだな。今思うとすごい忍耐力だ。あのころなんて今と比べものにならんくらいサカってて、毎日のようにお前のこと考えて抜いてたぞ」
 藤真はもの言いたげにちらりと牧を見たが、小さく肩を竦めるだけにした。食べてるときにそういう話するのやめれば、と前にも何度か言ったはずだが、直す様子を微塵も見せないまま、あれからもう何年が経ったのだろう。
「まあ、昔はバスケが一番だったしな」
「そうだな。それはある」
 バスケットが全てだったから、目下の目標である互いの存在が大きくなっていったのは自然なことだったと思う。それが性的な欲求を孕んだ好意になったのは──もしくは友情として処理してしまわなかった、その一歩目は若さゆえの過ちだったのかもしれない。しかし、それだけでは終わらなかった。
 大人に近づくにつれ、世の中にはバスケット以外のことのほうがずっと多いのだと思い知った。好きなことをするばかりでは生きていけないと、少なくとも藤真は高校生のときからわかっていたつもりでいたが、実感が伴ったのはそれよりしばらくあとのことだ。
 そしてじきにふたりともバスケットから離れ、しかしこうして一緒に暮らしている。
「オレたちって、なんでいつまでも一緒にいるんだろうな」
 牧は激しく音を立てて食器を置き、藤真は思わず眉を顰める。
「乱暴にすんなよ、割れるだろ」
「すまん。いや、お前が不吉なこと言うからだろう」
「不吉? なんでっていう、ただの疑問じゃんか」
「なんでそんな疑問を抱いたんだって、気になるだろう。ほっといたから機嫌悪いのかとか」
「ほっといたのは仕事なんだから仕方ねえだろ。いい加減そのくらいわかってる。……オレたちはバスケで知り合って、でももうガチじゃやってなくて、でも一緒にいるよなーって、なんでだろって思わないか?」
「そりゃあだって、バスケは知り合ったきっかけってだけで、付き合いが続くこととは別の話じゃないか。俺のタイプの条件に『バスケットプレイヤーであること』なんてないぞ」
「そうなんだ?」
 昔の交友関係の条件にはあったように見えたけど、と全国的に顔の広かった男に対して思うが、昔のことなので置いておく。
「まあ、純粋な高校生だったから、おセックスしたいためにお付き合いしだしたんだよな」
 でもセフレとかじゃなくてちゃんと告って付き合ってたの、今思うと真面目だよな、と藤真がひとりごちるのに牧の声が被る。
「それは語弊がある。やりたくなったのは好きだったからだ。それで、だから、今だって一緒にいるんじゃないか。確かに俺は、バスケをしてるお前のことが好きだと思ってた。だが、違ったってことだ」
 卵焼きを一切れ口に含んだきり、黙り込んでしまった牧の言葉が中途半端に思えて、藤真は眉を顰めて牧を見る。
「……うまい」
「そんなに卵焼き好きだっけ?」
「好きだ」
「あっちでうまいもんいろいろ食ってきただろ」
 接待されてさ、とまでは言わないでおく。
「そりゃそうだが、うちのメシはうまいんだ。落ち着くっていうか。……だが、お前も連れて行きたかったな」
「オレだって仕事があるっつうの」
 もしそうでないにしても、仕事での出張に同居人を連れて行くことなどあるのだろうか。
(……あるか。社長が愛人を秘書にして連れてるみたいな)
 牧は今は親族の経営する企業の役員についている。真面目な男だ、身内の会社だからといって怠けているようなことはないだろうが、特別な立場であることは確かだった。
「じゃあ、今度長めの休みが取れたらだな」
「うん」
 普通の旅行ならばともかく、仕事の場について行きたいとはやはり思えない。しかし出張帰りの牧と余計な議論をする気もなかったので、ごく軽く頷いた。牧もまた、満足げに頷く。
(しかし、藤真の長めの休みっていつだ……?)
 実のところ、休みというよりは、ずっと藤真に家にいてほしいと思わなくもない。働きに出る父親と、それをいつも家で迎える母親という、自分が子供のころに当たり前に見てきた家族像のせいだと思う。今回は自分だったが、藤真だとて仕事が忙しければ帰りが遅くなることもあるし、互いに疲れていれば穏やかに接する時間も短くなってしまう。
 ふたりで暮らすには、牧の収入だけでも不便はなかった。しかし牧が藤真に直接「家にいてほしい」と言ったことはない。一方的に養われるという関係性を、彼はよしとしないだろう。無論、藤真自身が働きたくないと言うなら、喜んで受け容れるつもりだが──
「仕事は楽しいか?」
「うん」
 藤真が好きなことをしているのが好きだ。
 バスケットでなくても構わないのだと気づいたのは、大人になってからのことだった。だから仕事が楽しくないと耳に挟めば転職を勧めたし、協力も惜しまなかった。順調だと聞けば、自分のことのように喜んだ。
「……牧はさ、昔から決めてたって言ってたろ、今みたいになるの」
 藤真は大学を出て初めに就職した会社にしばらく勤めたのち、何度か転職をしている。基本的に器用なほうではあるのだが、それゆえになのか『退屈だ』『しっくりこない』と感じてしまい、牧の勧めもあって、というところだ。
 一方の牧は、バスケットから離れると、迷わず親類関係の企業に就職した。当時は『就活いらなくてラクでいいな!』などと冷やかしていたが、しがらみなく職場を転々とする自分を思えば、果たして本当に簡単な選択だったのかは疑問だ。
「そうだな」
「ほかの仕事したかったとか、思ったことないのか?」
「ないな。最初からそういうつもりで若いころわがまま言ってたからな」
 主にバスケットのことだろう。東京出身でありながら神奈川の高校に通い、かと思えば付属の大学を捨てて東京の深体大に進み、その後は選手としてしばらく活動し──牧の周囲も、その期間が限られていることを理解したうえでそれらを許していたとのことだ。
「それに、俺は今だって自由だぞ」
 牧の黒い瞳の光がまっすぐ藤真に注ぐ。それは撫でるように優しく、しかし彼の逞しい腕のような強硬さも感じさせた。
 大学のときからずっと、いい年になった今でも、結婚するそぶりも見せずにふたりで一緒に暮らしている。その意味するところは、牧の親族もとうに察しているはずだった。
「……理解のある親御さんでよかったな」
「本当だ。感謝してる。お前のとこだってそうだろう」
「うちは別に普通の家だから、お前んとことは事情が違う」
「それにしてもだ」
「まあ、そうだなぁ」
 社会に出て、世界の構成要素がバスケットだけではなくなり、様々なものと繋がり絡み合って今の自分があるのだと思い知って、それでも結局自分の世界の中心にあるのがこの男なのが、やはりどうにも不思議なのだが、牧はきっとごく当然のような顔をするのだろう。
「……オレ、昔、お前のこと嫌いだったと思うんだけど」
 ほぼ初対面のときから強く意識していたことは確かだが、ある段階までは決して好意ではなかったはずだ。牧は目を見開いたが、案の定、至極嬉しそうな顔をした。
「嫌いも好きも全部俺だったってことか? すごいじゃないか」
「はぁ〜? どんだけポジティブなんだよ」
 とはいえ、あながち間違ってもいないのが悔しいところだ。高校のころ、少なくとも自分がただの選手でいられた一年半はずっと牧の背中ばかり見ていたし、そのあとだとて意識から消えることはなかった。
 若くて多感なころに触れたものの影響は年を経てもずっと残っていて、未だにそのころの歌や作品が好きだとか、むしろそこで人生の方向が決まったとか、どこかで聞いた覚えのある話を思いだす。つまり自分にとってそれは──
「藤真はちょっと考えるとこがあるから、俺とでちょうどバランスがいいんじゃないか?」
 本当にポジティブだなと呆れながら、食べ終わった二人分の食器をトレーの上に集めると、牧のほうが先に席を立ってそれを持って行ってしまった。
「お利口さん」
 藤真は椅子に座り直してそれを見送る。あとのことは食洗機がやってくれるので心配はしない。背後から肩に、甘えるように腕が回された。
「久しぶりに、一緒に風呂に入らないか?」
「出張から帰って今日で、疲れてんじゃねえの」
「疲れてるから癒されたいんじゃないか」
「まあ、お前が平気なんなら別にいいけど」
 仰ぐように見上げた、意味ありげな瞳に撃ち落とされるようにキスをしていた。この腕に抱えるものは、まごうことなき自由だ。

家族写真

(うーんどうしよ、やっぱジャケット……)
 自室のクローゼットの前でうんうん唸っていると、ノックの音ののち、ドア越しに牧の声が聞こえた。
「藤真? なにしてるんだ?」
「んー? 用あるなら入っていいぜ」
 藤真はドアを振り返り横柄に声を張り上げただけで、再びクローゼットに向き直る。後方でドアの開く音がして、牧が近づいてくる気配があった。
「藤真」
「なに?」
「いや……」
 用があるのかと問われると、特には無いのだ。夕食後、いつもは居間でテレビを見ながらのんびりしている時間に、藤真がソファから離れたきり戻らないので様子を見にきただけだった。
「服の整理中か?」
 クローゼットの扉が大きく開いて、ベッドの上にも服が散らか──並べられている。
「明日着るもん考えてんだよ」
「なんだ、俺の親に会うのに緊張してるのか?」
 愛いやつめ、と牧は思いきり表情を緩めた。明日は藤真を連れて、東京都内にある牧の実家に行く予定になっている。
「緊張っつーか、だって今までは制服があったしさ。一応監督だったんで、大人のひとに与える印象は結構気にしてんだぜ、オレ」
「だとしても、うちの親にとってはお前は〝子供の友達〟だ。堅苦しく考えるこたない。俺がこういう格好でうろうろしてた家なんだから」
 牧は自分の着ているラフな部屋着を引っ張って見せる。
「それにうちの親はお前のこと知ってて、印象はいいはずだぞ」
「はぁ? お前、一体オレのことなんて話してんだよ?」
 怪訝な顔で返してしまったが、直接会ったことのない状態でも同居の許しは貰っているのだ。牧が高校のときから一人暮らしをしていたことは大きいだろうが、少なくともそう悪いようには思われていないのかもしれない。
「バスケのために家を出て神奈川に行ってたわけだから、そりゃバスケ関係の報告はする。翔陽に同じポジのライバルがいて楽しくやってるってくらいの話だが、新聞記事とか雑誌とか送ってたから顔は知ってる」
「ふーん……」
 直感的に、それだけとは思えなかったが、追求しても仕方がないので気にしないことにする。それより明日の服装だ。
「猫がいるんだ、爪は切ってるだろうが、引っ掛かって困る服はやめといたほうがいいぞ」
「あー」
「レースとかな」
「そんなん持ってねえ」
「あとそうだな、ヒマはここに紐がついてる服好きだぞ」
 おとなしいが遊び好きな飼い猫のことを思い浮かべながら、牧は両の人差し指で鎖骨を指した。パーカーなどのフードから出ている紐のことだ。
(猫の好みじゃなくて親御さんの好みを教えてほしいんだが)
 とは思うが、口に出すのはなんとなく癪な気がする。妙な風に拡大解釈されても面倒だ。
「下は薄いのじゃなくて、ジーンズとかがいいだろうな」
「……」
 猫と遊ぶのに適した服装を、穏やかかつ満足げな表情で提案する牧をじっと眺め、ふと時計の指す時間に目を止めた。
「あれもう始まってるんじゃね」
「ん?」
「お前の好きなドラマ」
「!! すまん戻る、今回いいとこなんだ。服は別になんでもいいと思うぞ!」
「へーい」
 テレビのある居間に慌てて戻っていく牧を一瞥し、ベッドの上に散乱した衣服を眺める。
(……ジャケパーにしとくか)
 牧が去ってからさほど掛からずに、薄手のプルオーバーのパーカーにジャケット、そして綺麗めのジーンズをチョイスした。

 牧の実家の所在地は東京都内の高級住宅街だった。日ごろ通う渋谷のように雑然としておらず、緑が多く、都会的でありながらものんびりとした空気が漂い、牧がこの街で育ったのだと言われればなるほどと納得できる風情だ。数えていたわけではないが、先ほどから外車ばかり見かける気がする。
(牧の家、普通の家とか言ってたけど、ここの中での普通って意味だろうな……)
 高校のとき、牧が学生寮に入ることを親が渋ったという話もなんとなく理解できるような気がした。だからといって一人暮らしならば安心なのかという疑問はあるが。
 藤真がキョロキョロと周辺を見回しながら歩いていると、かたわらで牧が苦笑した。
「家しかないようなとこだが」
「え、ああ、うん、住宅地だもんな」
 公園のように見える広々とした敷地も、きっとどこかの庭なのだろう。恐ろしい限りだが、牧にとってはよく見慣れた、退屈な風景なのかもしれない。
「お父さん、次男だからってこの前言ってたけど、長男と次男ってそんな違うもんか?」
 牧の実家に行くことを決めた日の会話だ。そのときには追求しなかったが、ふと思いだすと気になった。藤真の認知では、長男は家で最初に生まれた男子、ただそれだけだ。
「長男の伯父はじいさまの家を継ぐ。親父は実家を出てここに自分の家を建てた」
「なるほど……? 自分の家のほうがよくねえ? つまり次男のほうってこと」
「そこは人それぞれなんじゃないか? なんつうか、財産とかは圧倒的にあっちなんだし」
「あー……でもオレは気ままなほうがいいかな」
 言いつつ、ごく普通の家に生まれて財産のことなど考えたこともなかったような自分とは、いろいろと違う世界なのだろうとも思う。
「……牧のお父さんて、なにやってるひと?」
「グループの会社のうちの一つを見てる」
「社長ってこと?」
「まあ、そうだな」
 牧は簡単に答えただけで、それ以上説明しようとはしなかった。自分を積極的に実家に連れて行こうとするくらいだから、親子仲が悪いことはないだろうが──単純に、あまり好きな話題ではないのかもしれない。
(見た目イジリみたいに、金持ちイジリみたいなのもあるんだろうか。……ってもこの辺に住んでる人間ってみんな金持ちだよな)
 そのグループというのもきっと牧の〝じいさま〟のものなのだろう、などと想像しているうち、牧が立ち止まった。
「ここだ」
「おお……」
 予想通りだった。
(やっぱり! この辺基準では普通なのかもしれないけど、オレ基準では豪邸な家!!)
 広い庭があり、門から玄関まで少し距離があるのが、いかにもといった感じだ。
 牧は門柱のインターホンを押し、「俺だ。藤真を連れてきた」と告げて中へ進んでいく。
(俺だ、だって!)
 自分の家の門のインターホンなど押した記憶がない。牧の容姿とも相まって、ドラマででも見たような光景に、少し緊張してしまう。
(こりゃうちはシルバニアファミリーだな)
 奥に見える家は、立派ではあるが屋敷と呼ぶほどものものしくはなく、藤真のごく主観的な感想としては〝イマ風の豪邸〟だった。
(東京だからな。芸能人のお宅訪問〜みたいな、土地とかも合わせてクソ高いみたいな……)
 何気なく見ていたテレビ番組のことを思いだしながら、目指す家のドアを見ていると、玄関先に女性が出てきた。
「母親だ」
 着物が似合いそうな、日本人然とした華奢で上品な雰囲気だが、優しげな目もとが牧に似ていると思う。
「ただいま」
「こんにちはー」
「藤真くんね。はじめまして」
「は、はじめまして……すみません、ご挨拶が遅くなって」
 牧の母親は穏やかに微笑した。
「いいのよ、うちも都合つけにくい時期だったし、全然気にしなくて」
「そうだぞ藤真」
(お前が言うのかよ)
 思わず牧を見遣ったがいったん口をつぐみ、手土産の紙袋を差し出す。
「これ、お菓子なんですけどよかったら」
「あらあら、ありがとうね。どうぞ、お上がりになって」
 玄関に入り、靴を脱いで上がると、右手側の部屋のドアからガタガタと音がした。
「にゃー! にゃー!」
 ドアに嵌められた磨りガラスの向こうに、黒い前足の裏をぺたりと付けて、外に出せといわんばかりに立ち上がっている、猫のシルエットが見える。もちろん猫よりも牧の親への挨拶がメインのつもりでいるが、思わず笑ってしまった。
「猫いるっ、外出たいのかな?」
 牧がドアを開けると、薄いミルクティー色の長い被毛をして、体の先端と顔の中心に焦げ茶のポイントをつけたずんぐりとした猫が、青い瞳をまんまるに見開いて藤真を凝視する。猫はいかにも驚いたように口をあんぐり開けて牙を覗かせると、部屋の奥にドタドタと走り去ってしまった。
「っはは! 猫ってあんな顔するんだな!」
 マンガみたい、とさも愉快そうに声を上げた藤真に、室内から近づいてきた人物が言った。
「人見知りしたんだろうな。すぐ慣れると思うが」
「!!」
 これは見るからに牧の──
「親父だ」
 牧の目もとは母親だと思ったが、全体の印象としては父親の遺伝子が強いように見える。色黒のせいが大きいだろう。特に大柄ではないが姿勢はよく、立ち姿が堂々としている。髪は後ろに撫でつけ、スクエア形の眼鏡を掛けていた。
「藤真です。はじめまして」
 爽やかに微笑した完璧な美少年に、父親は目を瞬き口もとを緩める。女だろうが男だろうが、外見はよいに越したことはないというのが彼の感覚だ。知ってはいたが、自分の息子と同級生にはとても見えず、ふたりが並んで立っているとそこはかとなく面白い。
「これは失礼、はじめまして。紳一がお世話になってるようだね」
「いえそんな、全然……」
 家事は分担しているので、日常生活でどちらかに特に負担が掛かっていることはないはずだが、デートとなればもっぱら牧の奢りだった。彼のポリシーによるものだが、〝同居している友人〟として挨拶に来た立場で口にできるはずもない。
「まあ座ってくれ」
 父親がソファを示すと、母親が口を開いた。
「こっちでお話するの? 応接間じゃなくて?」
 藤真は小さく肩をすくめる。
(ヒエ、応接間とかあるんだ……)
「あっ、そうだった。紳一がいきなり居間に入ってくるからだぞ」
「自分ちなんだから当たり前だろう。別にこっちでいいんじゃないか? テレビもあるし」
「そうだな、お客様はお客様だが、楽にしてほしいしこっちでやろう」
「それじゃ、こちらにコーヒーお出ししますね」
 母親が立ち去ると、父親はあらためてソファを勧めた。
「すまんね、どうぞ座ってくれ」
 テレビのほうを向くように、長いソファと一人掛けのソファがL字に置かれている。長いソファの奥側に牧、その隣に藤真が座り、それを見届けてから一人掛けのソファに父親が腰を下ろした。
「いやあ、全然初めての気がしないんだけどねえ」
「そうなんですか?」
「紳一からよく聞いてたし、雑誌も見てたからね。双璧とかいってさあ、モデルさんかアイドルかみたいな子と一緒に写ってるから、紳一のやつ、ドラマのエキストラにでも応募したのかと思ったよ」
(想像力豊かだな)
 父親は機嫌よさそうに、饒舌に続ける。
「神奈川いいよねえ、湘南は昔から大好きなんだけど、最近特にトレンディだよね!」
「海がお好きとか?」
 色黒の男に対するイメージもあるが、県外の人間が特に湘南と言うならやはり海だろう。
「ああ、船持ってるんだ」
「ひぇ〜」
 金持ち〜、とは喉の奥に呑み込んだ。
「今度乗せてあげようか」
「やめてくれ、親父」
「え、なんで? いいじゃん船乗りたい」
「な、船乗りたいよな。ほら、藤真くんだってこう言ってるじゃないか」
「なんとなくいやらしいんだ、親父は」
「久しぶりに帰ってきたと思ったら、親に向かってやらしいとはなんだ」
 直後、牧は何かに気づいた様子で立ち上がり、どこかへ行ってしまった。都合が悪くなったのだろうか。
「家はどっちのほうなんだっけ?」
「横浜のほうです」
「横浜か! シュウマイおいしいよねえ!」
 さほども置かずに牧が戻ってきた。腕には先ほど逃げて行った猫を、赤ん坊のように背中を下にして抱えている。
「藤真、ほら」
(今めちゃ話し中じゃんかっ)
 そうは思いつつも、渡される猫をそのままの格好で腕に受け取った。もこもことしてまるでぬいぐるみのようだが、ずっしりと重く存在感がある。猫はおとなしいもので、胸の前でこげ茶色の手を折り曲げ、不思議そうな丸い目で、じっと藤真を見上げている。
「なにこれ、かっわ……」
 女子のように何でも『カワイイ』と言う性質ではないつもりだが、思わず声が漏れた。
「ヒマだぞ」
「ぬいぐるみみたい」
「生きてるぞ」
 それを主張するかのように、太い尻尾がぱた、ぱた、と左右に動く。ヒマラヤンの姿は本かテレビか何かで知っていたが、実際に見て触れてみると、愛らしさを追求したぬいぐるみのような外見に、しっかりと生命が宿っているという事実が、至極不思議に感じられた。
「うん。あったかい」
 思えば、小動物をこうして抱いたことはなかったかもしれない。厚い被毛越しにもじわりと猫の体温が伝わってきて、無性に幸せな気分になる。
「藤真くんは猫が好きなんだって?」
「ええ、まあ人並みに……」
(ほらー、親父さんに変に勘違いされてるじゃねーかっ!)
 もちろん嫌いではないのだが、にこやかな父親の顔を見るのがなんとなくやるせない。ちらりと牧に目を遣るが、牧は「ん?」と不思議そうに藤真を見返すだけだった。
 母親がソファの前のテーブルに三人分のコーヒーを並べると、藤真の腕の中で猫がもぞもぞと身じろぎをした。腕を緩めて膝の上に乗せると、くるんと体を裏返して藤真に向きなおり、パーカーのフードから出ている紐に不思議そうに手を伸ばす。獲物など到底捕まえられないような、のんびりとした動作に笑ってしまう。
「っふ、おとなしい猫だな〜」
 藤真と猫との接点など、たまに野良猫に遭遇するくらいのものだったから、猫といえば警戒心が強く、人間の姿を見れば逃げ出すようなイメージだったのだ。
「おとなしい種類だって聞くし、ヒマは人間より偉いつもりだからな」
「なんだ、偉いのか、おまえ」
「ン?」
 ヒマはまるで会話をするかのように短く唸り、藤真を見上げた。
「意外とな。本名はキャメロット・なんとか〜っていうんだぞ」
「なんだよ、本名って」
「血統書に書いてる名前だ」
(ウッ、どんどん金持ち要素が出てくる……!)
「そ、そうなんだ、どうりでかわいいとおもった……」
 牧が得意げに頷く。
「ああ、赤ちゃんのときに俺が選んだからな。こいつが一番かわいいって」
「同じ種類でそんなに違うもん?」
「全然違うぞ」
 きっぱりと言い放った息子に続いて、父親が口を開く。
「ヒマラヤンはペルシャの仲間だから、スタンダードもペルシャと同じ。わかるかな、ちょっと潰れた感じで、鼻が短くてブルドッグみたいな顔」
 藤真はこくこくと首を縦に振った。確かにペルシャ猫と言われると、ふかふかの白い毛に覆われた、むっつりとした不機嫌そうな顔立ちが思い浮かぶ。しかしヒマはそれとは違って、丸くはあるが目尻の上がった目に、スッと伸びた鼻筋をしている。ブルドッグ系統の〝ぶさかわ〟ではなく、素直に愛らしい顔立ちだ。
(てかペルシャねこって金持ちキャラの膝の上にいるやつじゃねえか……たぬきみたいな色してるから油断したぜ……)
「スタンダードっていうのは」
「キャットショーでの評価の基準っていうのかな。いいヒマラヤンの基準みたいなもんだ。ヒマはペルシャよりシャムの顔立ちが強いから、ショーに出すタイプじゃない、ペットタイプのヒマラヤンだね」
「キャットショー……!」
 ヒマはいたって無邪気にパーカーの紐を引っ張っている。にわかに緊張しながら慎重に背中を撫でると、手触りが高貴な気がしたが、完全に気のせいである。
 牧は父親を見遣り、いささかムッとした様子で口を開く。
「そんなのどうでもいいだろう。ショーで優勝してるヒマラヤンより絶対ヒマのほうがかわいい」
 贔屓目というよりは、好みの問題だった。父親はヒマとそれを抱く藤真と牧を見比べ、含みのある笑みを浮かべる。
「お前は昔から面食いだものな〜……」
「へえ?」
 藤真はヒマを落とさないように抱えながら、思わず身を乗り出す。非常に興味深い話題だ。
「こいつの昔の彼女の話とか、聞いたことあるかい?」
「彼女いたってくらいしか」
「おい、いいだろうそんな話は」
 藤真は意地の悪い顔で牧を見遣る。
「なんだよ、聞かれたら困るのかよ?」
「そういうわけじゃないが……」
 やましいことはないつもりだが、親が何を言いだすかはわからないし、藤真の地雷だってどこにあるか未だに把握しきれていないのだから、積極的にしたいとは思わない話題だ。
「お話聞きたいでーす!」
 弾むように言った藤真の見事な笑顔が、さらに牧に追い打ちをかける。
(藤真、なんなんだそれは、猫かぶってるのか? お前、なんで……)
 父親は機嫌よく頷く。
「いや、そう面白い話じゃないんだがね。幼稚園のころから、かわいい子しか家に連れてきたことがないんだ」
「幼稚園!」
「最初はたまたまだと思ったが、まあそのうち気づくよね。ガキのくせにしっかり顔で選んでやがるなって。タイプまであるんだ」
 ふー、と牧がわざとらしく大きく長いため息を吐いたが、藤真は気にも留めない。
「どんなタイプなんですか?」
「元気でちょっと気が強そうな子かな。おとなしい子のほうが家に連れてきやすそうなのにね」
「誘拐犯みたいなことを言わないでくれ。一緒に遊んで楽しいタイプだったってだけだ」
 藤真が笑いながら口を開く。
「かわいい子と遊んだほうが楽しいもんな!」
「それは……なくはない」
「認めるのかよ」
「絶対じゃないだろうが、かわいい子って気が強いっつうか、ちょっとワガママなこと多くないか? それがな、見た目のかわいさと奔放さが合わさって、すごくかわいく感じるっつうか……あ、いや、すまん」
「なんだよ、なんで今謝ったんだよ、おい!?」
「気にするな」
 しみじみと語った牧に対し、暗にわがままと言われた形の藤真は頬を膨らませて不貞腐れる。ふたりの様子を観察するように眺め、父親は目を細めてコーヒーをひとくち飲んだ。
「……藤真くんは、めちゃくちゃモテただろう!」
「いえ、普通くらいです、たぶん」
 藤真にしてはずいぶんと曖昧な返答だった。中学時代は周りより飛び抜けて浮いていたとは思わない。翔陽バスケ部のレギュラーに定着すると、他校の女子からも騒がれるようになったが、暇と興味のなさから女子とは付き合わなかったので、なんとも言いがたい気がしたのだ。
「そうだ、藤真はどうなんだ?」
「なにが?」
「好きな女子のタイプ」
 牧は意趣返しのつもりなのか、にやりと笑う。しかし藤真は全く動じず、目を細め唇の端を吊り上げる。
「なに、そんなこと聞きたいのかよ?」
「いや……せっかくだからと思って……」
 意味ありげな藤真の表情を見ていると、聞かないほうがいい内容なのだろうかと思えてきて、牧は口調を弱くした。
「あんまり考えたことないな。たぶん、自分からいったことないから、告られてからOKかどうか考える感じ」
 父親は低く笑った。苦笑に近かったかもしれない。
「藤真くん、それは普通じゃないね。立派にモテモテだよ」
「そうですか? でも二股とかしたことないですよ」
「それは素晴らしいことだね!」
 牧が困惑したようにふたりを見る。
「いや、別に普通なんじゃないのか……?」
「まあ、部活も忙しかったろうしね」
「そうなんですよ〜!」
 それはその通りなのだろうが、やはり愛想のよい藤真にはなんともいえず落ち着かない気分になる。日ごろ自分に対してそんな態度はしないし、自分の親ではあるが、藤真と中年男という絵面はなんとなく嫌だ。
「なんかヒマがおっぱい揉んでくるんだけど。お前に似たんじゃね」
 牧の内心など知らず、藤真は小声で問うた。ヒマはごろごろと喉を鳴らしながら、二本の前足を交互に動かして藤真の胸を押している。
「ふみふみじゃないか、藤真だって前やってきただろう」
「は? 知らねえよ」
 以前、部活の歓迎会で酔っ払って帰宅した藤真が似たようなことをしてきたのだが、酔っていて覚えていないようだ。
「甘えてるんだよ。すっかり藤真くんのことが気に入ったみたいだ」
「え〜! おまえ、オレに甘えてるのか〜!」
 ヒマは今にも眠ってしまいそうに目を細めながら、ゆっくりとした動作を繰り返している。見た目にも愛らしい動作だが、理由を知ると俄然愛しくなってしまった。
「オレ、この子と結婚しようかなっ」
「おっいいね、そしたら藤真くんうちの子だな!」
「あら、うちの子になる? 今お部屋ひとつ空いてるのよ」
 いつの間にか居間に来ていた母親もにこやかに同意する。牧はとんでもないと首を振った。
「やめてくれ! それは俺の部屋だし、藤真は俺と住んでるし、ヒマはもうおっさんじゃないか」
「ヒマってオスなんだ。かわいいおっさん!」
 キラキラと少女漫画の効果の見えるような笑顔を浮かべてヒマの耳の間に鼻先を寄せる、藤真を一同凝視する。作り笑いなどではない、彼の本物の笑顔はやはり強力だ。
「うーん、いいな、美少年と猫。保険のCMができそうだ」
(ペット保険とか……?)
 藤真が首を傾げて見遣ると、父親はにこりと笑う。
「大切なひとのために、とか言ってな」
「ああ、そんなの、保険の一つや二つ契約しちまうな」
 牧は感じ入ったようにしみじみと、ゆっくり首を横に振る。自分に何かあったときに、藤真に何かを残せるように、もう少し年をとったら本気で考えてみようか。
「……」
 そうしてぼうっと藤真を見つめる息子の姿をさらに見つめる父親の視線に、牧が気づくまでにそうは掛からなかった。
「そうだ藤真、俺の部屋に行こう。ヒマ持ったままでいいから」
「え、なんで?」
「そうだぞ紳一、なんで?」
「いいじゃないか、藤真を案内したいんだ。ほら」
 牧に腕を引いて急かされ、藤真は立ち上がったが、ためらうように父親を顧みる。
「いいよ、行ってきなさい」
 そうしておとなしい猫を抱いたまま、牧のあとに続いて二階の一室に足を踏み入れた。
「あったか!」
「日当たりいいからな、この部屋」
 日当たりのいい子供部屋で、両親にからかわれるかのような先ほどのやり取りを思いだすと、いかにも牧が愛されていたのだと感じられて、微笑ましい気分になる。藤真は口もとを優しげに緩めながら、片付いた、片付きすぎた部屋の中をぐるりと見回した。
「……でも、なんにもないな」
 机と椅子とベッド、本棚などの大型の家具はあるが、生活感のある小物は置かれていない。ベッドの布団とシーツが白く真新しく見えるのが印象的だった。
「高校に行くときでだいたい持ってっちまったからな。漫画本は残ってるぞ」
「いや、」
 牧は藤真の返事を聞く前に部屋の奥にある本棚へと歩く。藤真は拒否しかけたものの、牧がどんな本を読むのか気になって、ヒマをベッドの上に置いてそちらへ歩み寄った。
「ううーむ、なるほど……」
 藤真は笑いを押し殺した不自然な真顔をして、本棚に向かって腕組みをする。実家を出る前ならば中学生までに買ったもののはずだが、少年らしいといえそうな本はなく、青年誌系というのか、歴史ものやサラリーマンもののような硬派なタイトルが多く見える。
「一応聞くけど、お前の趣味?」
「伯父から貰ったのもあるし、自分で買ったのもあるぞ」
(らしいっちゃらしいけど、牧はもうちょいメルヘン路線かと思ったんだけどな)
「エロ漫画とかねえのかよ」
「そこにある課長シリーズはなかなかエロいと思うが……まあエロ本は実写派だな」
「そうだったな」
 そして、さすがに無人にする部屋に置きっ放しというわけにもいかず、処分するなり持って行くなりしたのだろう。藤真はしゃがみこんで一番下の段を物色していたが、じき興味を失ったように立ち上がる。
「なんだ、読まないのか?」
「だって長そうなのしかないし」
 巻数順にずらりと並んだコミックスは壮観だが、よほど時間を余していない限り、初めから読んでみる気にはなれないものだった。
「……はっ、ヒマが超寝てる」
 ベッドのほうを見ると、ヒマは腹を天井に向けて背筋を伸ばし、前足を体の横に下ろして、綺麗な仰向けの姿勢で寝ていた。
「人間みたいな寝かたするんだな。オレも寝よーっと」
 藤真はベッドの奥側に寝ているヒマの隣に、添い寝するように横になる。
「よくそんな格好で寝てる。猫背っていうが、猫も背骨まっすぐのほうが気持ちいいんだろうな」
「猫って動物臭くないんだな。洗ってるからか? いいにおいする」
 ふんふんと、ヒマの額に鼻を近づけてにおいを嗅ぐ、それだけの動作がなぜだか無性に愛おしく、温かなものが込み上げる。
「ほとんど洗ってないと思うが。なんのにおいだ?」
「わたあめみたい」
「わたあめのにおいってなんだ、知らないぞそんなの」
 牧はベッドの上に片膝を乗せ、一人と一匹に体を覆い被せるように向こうに手をついて、藤真の髪に鼻先を突っ込んだ。
「おい、オレを嗅いでどうすんだよ、ヒマを」
「紳一、」
「うおおーっ!?」
 突然背後から聞こえた女の──母親の声に、牧は反射的にベッドから飛びのいて藤真から体を離していた。
「大きな声出さないでよ、体育館じゃないんだから。おやつとお茶を持ってきたわよ」
「そんなの頼んでないだろうっ、つうか、勝手に入らないでくれっ!」
「ノックしたじゃない」
「返事してからにしてくれって、昔から言ってるだろうっ……!」
「ここに置いておくわね」
 母親は全く動じる様子を見せず、昔の牧の勉強机の上に飲みものとお菓子をトレーごと置いた。
「食べたら金(きん)ちゃんのお散歩に行ってきてちょうだい」
 牧家に飼われている、ゴールデン・レトリバーの金太郎のことだ。
「藤真がいるのにか?」
「だって、リビングにいたくなくてここでゴロゴロしてるんでしょう?」
「……まあ、そうだな、天気もいいしな」
 犬の散歩は好きだが、藤真と一緒となればなお楽しいことだろう。犬を放していい広い公園があるから、フリスビーを持って──など考えていると、藤真の押し殺した笑い声が聞こえた。
「なんだ、なにがおかしいんだ」
「ううん? とりあえずおやつ食べようぜ」

 犬の散歩に行こうと庭に出ると、牧が思いだしたように言った。
「そうだ、カメ吉も見ていくか」
「ネーミングセンスが一貫してんな」
「わかりやすくて覚えやすいのがいいじゃないか」
 庭に水槽を置いているのだろうかと牧について歩くと、低木や丈の高い草の陰に、丸い石で囲まれ、上にネットの張られた小さな池が見えた。
「あれだ」
 池の中には赤と白の模様の大きな金魚が泳いでおり、点々と置かれた石の上に、三十センチほどありそうな亀が甲羅を干すようにくつろいでいる。
「でかっ! これお祭りのカメかよ?」
「ああ、ちゃんと飼えば長生きするって話だぞ」
「……カメ吉はミドリガメの勝ち組だな。金持ちの家でちゃんと飼われて、専用の池まであって長生きして……」
 途端に元気のなくなった声でつぶやいた、藤真の表情は深い憂いを帯びている。
「どうしたんだ藤真、急に」
「なんでもない。犬の散歩に行こうぜ」
 風に乗ってにおいが流れていくのか、声が聞こえているのか、犬小屋が見えないうちから犬の鳴き声が聞こえていた。じき、イメージ通りの淡いゴールドの被毛をした金太郎の姿が見える。
「ワン、ワン!」
「おう、久しぶりだな」
「ワン!」
 金太郎は高く短く吠えると、尻尾を振り回しながら後ろ足で立ち、牧に抱きつくかのように凭れ掛かった。
「こっちもでっか!」
 体は大きいが目は優しく、口角が上がっていかにも嬉しそうな表情に見えるため、恐怖感は湧かない。
「ゴールデンの平均くらいだと思うぞ。たぶん」
 牧は金太郎の前足を地面に下ろし、軽く周囲を見回すと、唐突に藤真に抱きついた。
「っ!? おいっ、なにすんだっ!」
 藤真は慌てて牧の胸を押し返すが、牧はなおも藤真の体に手のひらを擦りつけるように触った。
「俺のにおいを藤真にうつしておけば、金太だってすぐ慣れるだろう」
「んな単純な」
「金太、おすわり。……ほら、試しに頭撫でてみろ。たぶん噛まないから」
「たぶんてっ」
 おずおずと金太郎の頭を撫でていると、低く軽快な歌声が聞こえてくる。
「あーる日金太が歩いているとっ♪ 美しいお姫様が逃げてきたっ♪」
 声から想像はできたものの、牧の父親だった。曲調はカントリー調というのだろうか。藤真たちのかたわらに来て、陽気に歌いながら体を揺らす。
「金太守〜って♪ きんたまも〜って♪」
「ぶはっ!」
 どうしても男性器の一部の俗称を思い浮かべてしまう文字列に、藤真は思わず吹き出した。
「おっ、藤真くんもやっぱりこういうの好きだよな! 男の子だもんな!」
「親父っ! 変な歌を歌わないでくれっ!」
「変な歌とはなにごとだ、つボイ先生は天才だぞ」
「藤真、早く行くぞ」
「うん……それじゃ」
「ああ、気をつけてね」
 藤真は父親に軽く会釈をして、金太郎に引っ張られるように先を行く牧を追う。家の門を出ると、冗談めかしてではあるが、牧を非難するような口調で言った。
「牧のお父さん、かわいそ〜」
「なにがだ?」
「久しぶりに帰ってきた子供に絡みたくて仕方ないのに、邪険にされてさ」
「なに言ってるんだ、絡まれてるのはお前じゃないか。しかも下品なことばっかり、あんなのセクハラだ」
 けしからんと言わんばかりに口をへの字にした横顔に対し、牧のほうがよほど過激なことをしてきたではないか、とは言わないでおいた。どちらにせよ、嫌ではないのでセクハラではない。
「別にオレ、お上品じゃないから気にしないけど?」
 父親が客人である自分に話しかけるのはある程度当然のことだ。そして、それを介して息子ともコミュニケーションを取りたがっていると藤真は感じたのだが──親の心子知らず、ということなのだろう。

 近所の〝犬の散歩ネットワーク〟の顔見知りと挨拶を交わす牧を(さすが社交的)と眺めつつ、きちんと信号待ちをする金太郎に感心しつつ歩くうち、大きな公園に着いた。金太郎もわかっているようで、敷地に入った途端に走り出す。それに引っ張られてふたりも走り出した。
「中学のときは、いつも俺が散歩してたんだっ」
「そりゃ体力もつくわっ!」
 ふたりにとってきついペースではなかったが、のんびりとおしゃべりをするのに適した状況とはいえない。人気も少ないので声を張ってぽつぽつ話しているうち、目的地である〝犬の広場〟に到着した。
 金太郎はパタパタ尻尾を振りながら、藤真の持つ手提げの紙袋の中に鼻先を突っ込み、フリスビーを咥えて引っ張り出す。牧を見上げる黒い瞳が、期待にきらきらと輝いていた。豊かな表情に、藤真も自然と笑顔になる。
「すげー嬉しそう」
「親父のやつ、あんまり遊んでやってないのか?」
「いやこれは親父さんはきついだろ」
 眉間に皺を寄せた牧に、呆れたようにつぶやいた。犬も人のことをよく見ているようなので、日ごろはこれほど走らないのかもしれないが。
 牧は受け取ったフリスビーを、金太郎の目の前に見せつけるようにゆっくりと振った。
「よーし、行くぞ、それっ!」
 掛け声とともに円盤が斜め上空へ飛び、金太郎もダッシュする。青い空を背景に綺麗に弧を描いたフリスビーを、大きな体躯の重さを感じさせない跳躍で見事にキャッチし、喜び勇んでこちらに駆け戻ってくる。
「おおーっ!」
「よーし、よしよし。藤真も褒めてやって、おやつをあげてくれ」
「ワン!」
「よーし、よしよし……」
 覚束ない手つきではあるが、牧がしていたように金太郎の頭や首回りを撫で、持参していた犬用のジャーキーを差し出す。金太郎は喜んでそれを頬張った。顔を合わせてからさほど経ってはいないが、褒めてくれておやつをくれる人間はともだちだ。
「今度は藤真が投げてみろ」
「えっ、シカトされたらショックだな……」
「大丈夫、俺のにおいがついてるじゃないか」
「なんかすげー、全然安心感ねえわ。……よしほら、いくぞ、それっ!」
 思いきってフリスビーを投げてみる。金太郎が一瞬躊躇したのは、投げる人間が違うせいか、左手で投げたせいだろうか。それでも駆け出してジャンプしたものの、高さが足りずにキャッチし損ねてしまった。
「惜しいな」
「……オレがフリスビー練習しなきゃだめかも」

 ひとしきり遊び、満足げにため息をつく金太郎を挟むようにして、ふたりも芝生に腰を下ろす。陽の光はまだ充分に明るいが、少し西に傾いていた。
「いやー、ほんといい子だな金太郎!」
「ワン!」
 初めはおそるおそるの雰囲気が見て取れた藤真もすっかり慣れたようで、太い首に抱きつくように腕を回す。ふたりの輪郭を、光の金色が淡く縁取っている。
「なんだよ?」
「カメラ持ってくればよかった」
「お前、普通に写真撮る趣味なんてねーじゃん」
「それは、そうなんだが……」
 藤真の言う通り、ポラロイドカメラで遊んだことがある程度で、日ごろコンパクトカメラを持ち歩く習慣はない。しかし、ヒマと一緒のときにも思ったのだ。単に〝藤真がかわいい犬猫と一緒にいる〟というだけではなく、高校時代は離れていたとはいえ、家族同然に暮らしてきたペットだ。彼らと藤真が仲睦まじくするさまに、藤真がいっそう近い存在になったと感じた。尊い光景だ。目に焼きつけるだけで終えるのは、あまりにもったいないような気がする。
 バスケットボールの試合や行事では誰かしらが写真を撮ってくれていたから、今まで自ら意識することはなかった。しかし、ふたりで過ごすときのために、カメラを持ち歩く癖をつけるのもいいかもしれない。
「そうだ、うちでもなんか飼うか? あのマンション、ペットOKだろう」
「うーん、いや……」
 藤真は一変して表情を曇らせる。魅力的な話ではあるのだが、重々しく首を横に振った。
「オレ、動物飼うの向いてないんだ」
「そうは思えんが」
「子供のとき、ハムスター飼ってたんだけど、いつもカゴの中にいてかわいそうだからって出してやったら、窓の隙間から外に逃げちまって……きっとネコかカラスにでも食われて……」
 あまり見たことがないくらいに、藤真は深く暗く沈み込んでしまった。無論、日ごろから気にしているようなことではないが、牧のペットたちと楽しく遊んだせいで、いたく思いだされてしまうのだ。牧は慌てる。
「こ、子供のころなら仕方ないんじゃないか? ハムスターだってきっと、最後に広い世界を見ることができて嬉しかっただろう」
「最期ね。やっぱ死んだよなーっ!」
 藤真はやけになったような口調で天を仰いだ。
「あ、いや、そういう意味じゃないぞ!? そもそも寿命が短いだろう、ハムスターって」
「いいよ、わかってる。もうほんと凹んでんのにさらに姉にブチギレられるしさー。……つうわけで、オレにはペットは飼えないんだ」
「ハムスターみたいなすごく小さい動物は、かえって飼うの難しいんじゃないか?」
 体力もなさそうだし、と続ける牧に、藤真は考える様子もなく首を横に振った。
「あと今そんなにペットに構ってる暇あるか? ふたり揃って家にいない日とかかわいそうだろ」
「まあ、それもそうか」
『家で暇してたら藤真に構ってるしな』『オレはペットなのかよ!』と頭の中でひとり漫才をして、牧は満足げに笑った。

 散歩を終えて牧の家に戻ると、玄関の土間に、脱がれた靴が増えていた。
「誰か来てる?」
「弟と妹だ」
「いやっ初めて聞いた!」
「そうだったか?」
 今まで付き合ってきて一度も聞いたことがなかったはずだし、なんとなく牧のことを〝お金持ちのひとりっ子〟と思い込んでいたために、明確に驚いた声が出てしまった。
(そういやひとりっ子ってあんまりキャプテン気質ではないか……な)
 海南を率いていた牧の頼もしい姿を思いだす。ふたりでいるときとは、またずいぶんと違った印象だった。
「休みの日だから、遊びに行ってたんだろうな」
 土間に立ったまま「じゃあそろそろ帰るか」などと話していると、母親が出てきて、牧と藤真も含めた人数分の夕食を作っているからと勧められてしまった。断るわけにもいかず、中学生の弟と小学生の妹にも軽く挨拶をして、少し早めの夕食をご馳走になった。
 その後なぜか牧の父親が写真を撮ろうと言いだしたので、玄関ホールにペットを含む牧家一同と藤真とで集合して記念写真を撮った。弟や妹はさぞかし不思議だったことだろう。
「藤真くん、写真できたら送るからね!」
 藤真に向かって親指を立てる父親と、それに応えるように親指を立てる、大人に対しては存外に愛想のいい藤真とを見比べ、牧はため息をついた。
「普通に俺に送ってくれ……」

 その後、泊まっていけと言われるのを主に牧が強く拒否して、今はふたりで帰路についている。藤真の手には、持っていったものとは違う土産ものの紙袋があった。
「なんかすまんな、鬱陶しい親で」
「全然?」
 文化の違いを感じてしまう面もあったが、さすがは牧が育った環境というか、穏やかで和やかな家族だった。牧はなおもぼやく。
「晩飯な、絶対断れなくするつもりで早めに用意してたぞ。普段あんな時間に食ったことない」
「いいじゃんか、美味しかったし、賑やかで子供のとき思いだした」
「子供のとき?」
「よその家で、友達何人かで晩御飯ご馳走になったりみたいな。……あと、嫌われてなさそうで安心した」
 挨拶が遅れ、ふたりで住みだしてから少し経ったタイミングでの対面になってしまったこともあり、気後れしていたのだ。
「そうだぞ、うちの親、お前のこと気に入ってるんだ」
「船乗せてくれるっていうの、本当かな? 社交辞令?」
 子供相手に社交辞令など言っても意味がないだろうし、特に車や船は進んで見せたがる性分のため、きっと父親は本気だと思う。牧としては気が重いことだ。
「……そんなに船乗りたいのか?」
「なんかお前、毎度極端じゃねえ? そんなにっていうか、迷惑じゃなくて乗せてくれるっていうなら乗りたいだろ」
 牧の感覚が理解できないというように、藤真は微かにだけ唇を尖らせる。見慣れた表情だが、やはり愛らしいものだ。
 今も昔も変わらない。
 体を交えても、一緒に住んでみても、未だ終わりなど見えない。平穏な日々の連なりに何度も線を描き重ね、少しずつはっきりとした輪郭を捉えていく、その営みを堪らなく愛おしく感じる。
(時間ができたら、船舶免許取るか……!)
 可愛いひとの多少のわがままに付き合うことが愉しいのもまた、昔から変わらないのだった。

ももいろドメスティック

 牧の通う深沢体育大学は、体育・スポーツ科学の分野で日本の中核をなす専門大学だ。日々軍隊のような厳しい時間を過ごしているのだろうと藤真から揶揄されることもあったが、カリキュラムはともかくそこに通う生徒たちはごく普通の若者である。青学に通う藤真ほどの頻度ではないが、牧も人付き合いの飲み会から逃れることはできなかった。
「ただいまー」
 引き止めのうるさい先輩陣をひとしきり酔い潰して一次会で帰ってきたが、藤真のいるはずのマンションの一室にはなんとなく人の気配というか、テレビの付いている気配がない。足元を見ると、藤真のよく履いているスニーカーがないようだ。
 リビングのドアを開けると、フルーティーな甘い香りが鼻腔をくすぐった。
(なんだ? ピーチなんとか、みたいな……)
 飲み会でカクテルばかり頼む同級生が「女子かよ!」と散々からかわれていたことを思い出し、甘いピーチリキュールを想像する。室内に藤真はおらず、代わりにソファの前のローテーブルに置かれた白いレジ袋が目に入った。
「ああ……」
 袋の中を覗いた牧は思わず声を漏らして苦笑した。中には桃の加工品ではなく、ころころとした桃の果実そのものが入っていたのだ。
 漂う香りから真っ先にそれを想像しなかったのは、彼らが日頃果物を買ってきて食べるということをしないせいだった。一人暮らしをしていた高校の三年間でさえ、自分で買ってきて食べた果物といえば蜜柑とバナナしか思い出せない。
 傍らの書き置きには『花形とメシいってくる。桃は食ってていいよ』とある。今日は飲み会で一緒に夜を食べられないとは前から告げてあったし、大学こそ違うものの、住んでいる場所の遠くない花形と藤真が一緒に食事などに行くのはそう珍しいことではなかった。それは構わないのだが、牧には一つ引っ掛かることがあった。
(なんで桃なんだ?)
 最近会話で話題に上がったでもなし、あまりに唐突に思えるのだ。駅からの帰り道にはスーパーも、今の時間には閉まっているが青果店もある。通りすがりに買いたくなっただけなのかもしれないが──もやもやと考えつつ、袋の中から一つを手に取った。
 表面の大半がピンク色に染まり、僅かだけ元の肌の色を残した桃は、なんとも美味そうだ。桃の形状の最大の特徴ともいえる、果実に縦に入った筋に視線を添わせ、へたの窪みにたどり着くと、牧の体に電撃が奔った。
(はっ……わかったぞ藤真! お前からのサイン……!)
 桃の形は尻に似ている。藤真はそれを食べてくれと書き置きをした。つまりはそういうことに違いないのだ。
 そわそわと落ち着かない気分で、桃を手の中で愛でるように撫で転がす。さらさらとした感触が気持ちいい。愛らしい割れ目を指でなぞると一層頬を染めたように見えて、無性にいとおしく感じられた。牧は顔を綻ばせながら、ごくありきたりな愛情表現として桃に頬ずりをした。
「い゛っっ!!?」
 途端、頬に鋭い痛みが走る。手の中にあるうちは天鵞絨のように感じられた桃の表面が、その無数の細い産毛を針のように逆立て、牧の頬を突き刺しているのだ。たかだか産毛のはずだが、甘い香りと優しげな色彩からは想像できないような痛みだ。
 咄嗟に桃を顔から離したものの、産毛は桃から抜けて肌に刺さったままのようで、痛みは消えない。
(お前、そういえばそういうやつだったな……!)
 狼狽えながらも落ち着いて収納棚からガムテープを取り出し、粘着面を表側にした輪を作って人差し指から薬指に嵌める。テープの粘着を使って頬に刺さった産毛を取り除く作戦だ。
(ちょっと粘着が強いが……まあいいか……)
 桃の痛みなのか、テープに肌を引っ張られる痛みなのか、よくわからなくなりながら、頬にテープを貼って剥がす動作を繰り返していると、不意にリビングのドアが開き、怪訝な顔をした藤真と思い切り目が合った。
「……」
「おう藤真、おかえり」
 普段なら玄関で音がしていることに気づくのだが、不意打ちの痛みにすっかり動揺してしまっていたようだ。藤真はあからさまに顔を顰める。
「……なに? 脱毛?」
「まあ、ある意味では脱毛だな。なに食ってきたんだ?」
 自分の髭の脱毛ではなく、桃の産毛の脱毛だが、あまり追求されたくはないことだ。頬から剥がしたガムテープを手のひらの中に握り、さらりと話題を変える。
「ファミレスでなんとか鶏のなんとか定食」
「いつもファミレスじゃないか?」
「ちょうどいいとこにあんだよ。あんま混んでなくてボックス席だし、ドリンクバーあるし、メニューもちょくちょく新しいの増えてるし」
「藤真、そんなに飲み物おかわりしなくないか?」
「お前といるときはお前んちとかラブホとか行き先があったけど、普通に友達とだべるときはドリンクバーだろ」
 牧は高校時代、藤真以外の友人と外食することは多くないと言っていたから、少し感覚が違うのかもしれない。花形も今は一人暮らしだが、わざわざ飲み物などを用意させることを考えれば、やはりファミレスのドリンクバーが得策に思えた。
「それとも、花形と一緒に薄暗くてムーディな店に行ってほしいのかよ?」
「い、いや、そういうわけじゃないんだ。これからもファミレスで頼む」
 三年間藤真と密接な関係にありながら一度もそういった気配を見せなかったらしい花形が、今更藤真に妙な気を起こすとは思わない。とはいえ花形も男だ(?)、二人で積極的に雰囲気のある場所へ行ってほしいとも思わない。
 藤真はレジ袋の横に一つ出してある桃を手に取った。他に皮や食べがらは見当たらない。
「部屋入ったらすげーにおいしてたから、もう食ってるかと思ってた」
「ああ、ついさっき帰ってきたところだからな」
「うし、じゃ早速食ってみるか」
「よく洗えよ」
「は? お前もしかして桃になんかした?」
「そ、そんなことないぞ?」
「あっそ」
 藤真は素っ気なく言ってダイニングテーブルの向こうのシンクに進む。
「藤真!」
「なんだよ」
「くれぐれも、桃に頬ずりなんてしたらダメだぞ」
(なんだよ桃に頬ずりって)
 広々としたLDKの間に仕切りはないが、コンロとシンクは壁際にあり、キッチンに立つとリビングの側に背中を向ける配置だ。牧はシステムキッチンがリビングを向いているほうがいいと強く主張したのだが、その他諸々の条件から現在の部屋に決定したのだった。
 蛇口から水を流し、手の中の桃を見つめる。
(頬ずりしたら、どうなるっていうんだよ)
 そんな発想はこれまで抱いたことがなかったが、言われてしまうと無性に気になるものだった。ちらりと牧のほうを顧みる。牧はテレビに夢中のようだ。
 藤真は正面に向き直ると、おもむろに桃を頬に擦り付けた。
「いっ!?」
 痛い。なぜ桃がこんなに痛いのかわからないくらいに痛いし、頬から桃を離しても痛みは続いたままだ。そして察しのよい藤真は牧の謎の行動の理由に辿り着く。
 大股の早足でどかどかとソファのほうに戻り、不機嫌に目を釣り上げて牧に手を伸ばす。
「おい、ガムテ寄越せ!」
「藤真、まさか……フフッ」
 決定的瞬間こそ見ていなかったものの、藤真の様子からその行動に容易に想像がついて、牧は笑ってしまいながらガムテープを渡した。
「ダメだって言ったじゃないか」
 藤真はビッと鋭い音を立ててガムテープの端をロールから引っ張る。
「お前がヘンなこと言わなかったらオレだってしなかった!」
「そのガムテ強いから、ちょっと弱らせてから使ったほういいぞ」
「なんだよ弱らせるって」
 牧は藤真の手からガムテープを奪い取って輪を作ると、藤真の手の甲に貼り剥がしして少し粘着を弱めてから左の頬に貼り付けた。藤真の仕草からそう察したものだったが、(左利きだから左なのか)と納得もしつつ頬にガムテープを貼って剥がす動作を繰り返す。
「おう、さすが手慣れてんな。桃毛取り師」
「俺だってそう何度もやらかしてるわけじゃないぞ。二回目だ」
「二回目かよ! 一回で懲りろよ!」
「いや、子供のときだったから……すっかり忘れてた……」
 ぺた。ぺた。ぺた。ぺた。
 黙ってしまうと、大きな手でしきりに頬を撫でられるようにしているのが途端に気恥ずかしくなってきた。一方の牧はなぜだか楽しそうだ。
「……てか、自分でやる」

(ったく、まさかこんなに苦労するとは……)
 再びシンクに向かい、今度は余計なことをせずに桃を洗う。
(……たわしで擦ったら桃の毛も取れるんじゃねーかな……)
 スポンジや洗剤と一緒に置いてあるたわしを見てそんな衝動に駆られたが、どうせ皮は剥くのだし、毛どころか桃そのものにダメージを負わせそうなのでやめた。
「藤真、大丈夫か?」
「はっ!? なにが?」
 背後、すぐ近くから声を掛けられ、藤真は驚き牧を顧みた。
「いや、ずっと水流してる音がしてるから」
 桃の切り方がわからなくて途方に暮れているのかと思った、とまでは言わないでおく。
「よく洗ってんじゃんか」
「そうなのか」
 納得した風に頷きながらも、牧が立ち去る様子はない。
「……なに」
「見てないほうがいいか?」
「別に?」
 藤真は得意げに笑うと、左手に果物ナイフを持ち、桃の縦筋に沿ってナイフを入れた。中心にある大きな種に刃が当たると、桃を回転させながらぐるりと二等分に切れ目を入れる。
「おおっ?」
 桃を潰さない程度に両手で掴み、切れ目と平行に左右にひねると、片側だけにごろんとした種を残して、桃が二つに割れた。
「なんだ藤真、いつの間にそんなワザを……」
「このくらい常識だし」
 藤真が青果店の店先で試食の桃を貰うと、ちょうど試食タッパーが空になったため、目の前での実演付きで教えてもらったものだ。
 それを思い出しながら、種に沿ってナイフで切れ目を入れ、スプーンで種を掘り出す。
「皮はどうするんだ?」
 愛らしい色味をしているが、意外に攻撃力の高い繊毛の生えた危険な皮だ。そのまま食べるわけにはいかないだろう。
「慌てんなって」
 半円の桃の平らな面を下にして置き、端から皮をめくり上げるようにしてみると、するすると手で皮を剥くことができた。
(おおっほんとに手で剥けた! 気持ちいい!)
 内心そう思いながらも、牧の手前口を噤む。
「桃の皮って手で剥けるもんなんだな」
 蜜柑などのように、身と完全に分離した分厚い皮というイメージではなかったので、牧は感心したように呟いた。
「これは熟してる桃だからな。熟してないとこうはいかないぜ」
 と青果店のおばちゃんが言っていた。そしてつるんとした果肉を露わにした桃を八等分し、綺麗に円を描くように丸い皿に乗せた。
「できた!」
「おおっ……!」
「手洗ってくからソファのほうにこれ持ってっといて」
 牧に皿を持って行かせ、手を洗って果物用のフォークを二つ持って行くと、牧はローテーブルの上に桃の載った皿一つを置いて、お預けを食らった犬かのようにそれを凝視していた。
「はい」
 フォークを差し出すと、優しげな目がこちらを向いた。
「すごい。きれいだな」
「だろ? オレって結構家庭的なんだぜ」
 いかにも満足そうに、幼い表情で微笑する藤真を見ていると、出会ったばかりのころのような、みずみずしく新鮮な感覚に襲われる。
 初めに強く惹かれたのはコートの上の彼で、その後の監督兼任や、夜のデートで見た大人びた表情から深くを知った気になっていた。しかし実際は、まだ全然足りないのだろうと思う。
(やっぱり、一緒に住んでよかった)
「絶句すんなよ。まぁいいや、いただきます」
「すまん、悪い意味じゃないんだ」
「ん〜! うまーい!」
 藤真は絶品だといわんばかりに目を細め、芝居掛かって頬に手を当てた。
「それじゃ俺も。いただきます」
 口にすると柔らかな食感とともに豊潤な果汁が溢れ、口腔に爽やかな甘みが広がる。咀嚼のたび、華やかな芳香が鼻を抜けた。
「──ああ。うまいな」
 衝撃的なものではない、あくまで優しい美味さと、直前に藤真に抱いた感慨とが相まって、なんとも幸せな気分だった。
 にこやかに、いかにも機嫌良さそうに口を動かす牧を見つめ、藤真は目を瞬く。
「そんなに桃好きだった?」
 基本的に好き嫌いはないと聞いていたし、何を食べさせても悪いようには言わない男だが、そう問いたくなるほど特別に嬉しそうに見えるのだ。
「ああ、好きだな」
 言いながらもう一つ手を伸ばす。
「駅からの途中に果物屋? 八百屋? あんじゃん。そこ通ったらいいにおいがしててさ、おばちゃんに試食貰ったのもあって」
 牧は口を動かしながらうんうん頷く。
「最近果物食べてねーな、ああ家族いないからオレか牧が買わなかったら自動的に出てくるわけないのか、って気づいて買ってみた」
 日頃しない行動に対しての照れもあったが、牧の反応が想像以上に良好なので、思い切ってみてよかったと思う。桃も綺麗に切れたし、と藤真もまた上機嫌でもう一切れ頬張った。
 テレビを眺め、飲み会のことや花形から聞いた東大の話などをしつつ桃を平らげると、牧の腕が藤真の腰を抱えた。藤真の上体を抱き寄せ、ソファの座面と藤真の尻の間に指を割り込ませる。
「そろそろ、こっちの桃もいただこうかな」
「ぶっ!」
 藤真は思わず、愛らしいとはとても言い難い調子で吹き出してしまった。
「顔はもう見慣れたけど、お前のそういうとこほんとおっさんって思うわ……」
「ん? 桃ってそういうメッセージじゃないのか?」
「はぁ!?」
 反射的に声を上げてから、牧の思い至りそうなことに簡単に見当がついて息を吐いた。
「さっき言っただろ、通りすがりにいいにおいがしたからって。……飲んできたくせに、元気だね」
「別に酔っ払ってはないし、気持ちも悪くなってないからな」
 牧はすっかりその気のようで、ソファの上で藤真のほうを向いて背中を丸め、ソファと藤真の体との間に頭を突っ込もうとしてくる。
「いや、やっぱ酔ってねえか?」
「頬ずりリベンジだ。意識は確かだぞ」
「はあぁ〜〜」
 藤真はわざとらしく盛大にため息を吐き、絡みつく牧の腕を振りほどくように強引に立ち上がった。
「藤真……?」
「桃はよく洗わなきゃ」
「!! あ、ああ、待ってる!」
 牧は一気に体温が上昇したと感じながら、壊れた玩具のようにこくこくと頷いた。
「寝落ちしてたら起こさねーからな」
「ああ! 朝までだって起きてるぞ!」
(それは適当なとこで満足して寝ろよ)
 牧に背中を向けて仕方なさそうに笑い、浴室へ歩いた。