天使たちの思惑

 修善寺温泉の夜は更け、賑やかだったカラオケ部屋はラファエルの子守唄によって安らかな寝息ばかりが聞こえるようになっていた。
 この部屋で眠っていないのはラファエルとウリエルだけで、ガブリエルは酒を呑まされたらしく、赤い顔をしてラファエルの膝にしがみついている。
「あなたまで眠くなったら困るんじゃ?」
 ラファエルはガブリエルの頭を撫でながらウリエルを見据えて言った。しかしウリエルは無表情のままその場から動こうとしない。
 相手が相手だ、『眠くならないうちにこの部屋から出て行ったら』とまで言うべきだったのかもしれない。
「大丈夫、この部屋には私たちに危害を加える者なんていないよ。だから──」
「そうですか。わかりました」
 今度は言い切るより先に立ち上がった、素直すぎて不器用な同僚に対して漏らした笑みは当人には「ラファエルのいつもの表情」としか思われなかっただろう。

 その人を見付けるのは簡単だった。すっかり消沈して、いつものような輝きは放っていなかったが、だからこそウリエルの目にははっきりと捉えることができたのだ。
 彼は中庭の池の近くのベンチに、俯き加減に一人で座っていた。
「ミカエル」
「うわあっ! ウリエル! 見て見てこの魚、ニシキゴイ、とっても綺麗だよ!!」
 ミカエルは途端に笑顔を作り、思い出したかのように足元の池を照らした。
「やめてください、魚がびっくりしていますよ」
「寝てたかな? 悪いことしちゃったね、ゴメンゴメン! ……で、ウリエルも庭園を見に来たの?」
「……あなたは? 庭園を見に来たのですか? こんな夜中に?」
「そうだよ? 夜の庭園だってとっても素敵サ!」
 ミカエルは背中に冷や汗をかきながらハイテンションを保った。無意識のうちにテンションが上がる分は良いのだが、自らの意志でそれを保つというのは案外疲れるのだ。
 ウリエルはミカエルの隣に腰掛けて言った。
「私には、座り込んで項垂れて落ち込んでいたようにしか見えませんでしたが」
 ミカエルはがっくりと肩を落とし、大袈裟に溜め息を吐く。
「はぁ〜。あのさあウリエル、君ほんとに空気読まないよねえ。私が明るく振る舞って何も無かったことにしようとしてるってのにどうしてそうほんとのこと言っちゃうかなあ!」
 ウリエルは表情を変えないまま、ただ二度、早いペースで瞬きをした。それだけでも、彼が幾許か戸惑っているということを、ミカエルは察することができた。
「いけませんでしたか?」
「ううん、別にい? ただちょっと、カッコ悪いな〜って思っただけ。君とかラファエルはいつも平然っていうか、フラットじゃない? そーゆうのときどき、すっごく羨ましくなる」
「単なる性格です。天使も悪魔も人も、それぞれですよ」
「それもわかるんだけど、さ。せめてこう、簡単にラッパ吹きそうになる癖はどうにかなんないかなと思うんだよね。もし君がいなかったらと思うとぞっとするよ」
 ミカエルは冗談めかしたように、薄ら笑いを浮かべながら言った。
 ベンチの縁に足の踵を乗せ、膝を抱えて続ける。
「天使長っていう大層な肩書きを頂いていても、一人じゃ駄目なんだ。私の側には君がいないと──」
「だから、いつも一緒にいるじゃないですか。私だけでなく、ラファエルも、ガブリエルも」
 丸めた肩に、細いながらに逞しい腕が回される。それは彼の言葉と相まって、ミカエルの中にあった不安や自己嫌悪を優しく包んで消し去って行く。
「羽根も出さずにそんな姿勢でいると、池に転げ落ちますよ」
 ミカエルはくっくと笑って言った。
「大丈夫だよ、君が一緒にいるんだから。リーダーを池に落としたら承知しないよ」
「そうですか。それではあなたがこの場を離れるまでこうしています」
 ミカエルは膝を抱える腕に顔を伏せて呟く。
「……ウリエル。私は幸せ者だ」
「それは良いことです。あなたの心が穏やかだということは、世界が平和な証なのですから」
 寄せられた頭の、ふわふわとしたくせ毛が頬に触れてくすぐったい。まるでパピヨンのフサフサした耳を擦り寄せられているようだ。
 犬派として機嫌が良くなったのか、ウリエルは珍しく言葉を続けた。
「私は思うんです。あなたが簡単にラッパを吹きそうになるのは、それだけ今の世の中が乱れているということなのではないかと。イエス様とブッダ様が揃って下界に降りられているのも、実は──」
「むにゃむにゃ……すぴ〜」

 翌朝、ミカエルと二人で部屋に戻ったウリエルは、柔和な、柔和すぎる笑みを浮かべたラファエルに腕を引かれ、部屋の隅へと連れて行かれた。
「ウリエル。昨日は一晩中ミカエルと一緒だったんだね!?」
「ええ。私が離れると、天使長が池に落ちてしまいそうでしたから」
 ウリエルの言動がおかしいのは照れているせいに違いない。二人きりで一夜を過ごしたのだから──ラファエルは親のような気持ちで根気よく問うた。
「何それどういうプレ……いや、ええと、どういう話をしたの?」
「天使長の側には常に私がいないといけない、と」
「おおっ! それでそれで?」
「私はいつも一緒にいますよ、と答えました。ラファエルも、ガブリエルも一緒だから安心してください、と」
 ラファエルはがっくりと肩を落とし、盛大に溜め息を吐いた。
「ふぅ〜……あんたほんとにウリエルだねえ……」
「ええ、私はウリエルですが何か?」

 一方のミカエルは、昨日落ち込んだことなど忘れ去ってガブリエルに絡んでいた。
「そういやガブりん、私のおかげで昨日ラファエルと二人きりだったんじゃん! ってどうしたのなんか疲れてんね〜?」
「いえ、頭がガンガンして……ラファエルとミッドナイトランデブーなんてそんなとんでもない……」
「HAHAHA、飲み過ぎたな〜? まったくもう! あれぇなんだかラファエルも疲れてるみたいだね。よしっ出発までまだ時間あるし、みんなで朝ブロ行こうか!」
「そうだねえ、まだウリエルだけに任すのは早いかもね」
 朝からテンションの高いミカエルに迎合したラファエルは、涼しげな笑みを浮かべてウリエルを見遣る。
「はっ……?」
 珍しく動揺しているらしい。ラファエルは上機嫌で歩き出した。
「なになに? ラファエルとウリエル、さっきからこそこそして!」
 頭痛が酷く、本当はもう暫く寝ていたかったガブリエルも、ラファエルとウリエルの様子を訝しんで飛び起きる。

 それぞれの思惑を抱きながら、仲良く朝風呂に赴く四大天使であった。

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