人間観察

 人の途絶えぬ渋谷駅の地下通路。見通しが良いとは言えない空間にあっても、105MEN’Sのロゴ前に佇む長身痩躯は目を惹いた。友人としての贔屓目ではないと思う。
「あの人知ってる?」
「え、誰、なんで?」
「いや知らないけど、モデルっぽくない?」
 彼をチラチラ振り返って話す、ミーハーな女子学生と擦れ違いながら、猫背、猫毛に黒縁眼鏡の少年──来栖暁は笑いを堪えて唇を歪めた。
(残念、画家志望で我らが怪盗団の喜多川祐介でした)
 人の間を縫うように少し歩き、祐介もこちらに気付いていることを確認して軽く手を挙げる。
「ふふ、お前は暇なんだな」
 祐介の口からそれを聞くのは初めてではなく、そのたびに出所不明な苛立ちのようなものがモヤッと沸き起こる。怒りというレベルでもない、些細な引っ掛かりに過ぎない。しかし気になりはする。目を伏せて口元に微笑を浮かべる今、彼は何を思うのだろう。
「別に、暇だからってわけじゃない」
 そもそも、祐介からチャットを送ってきたのではなかったか。忘れているのだろうか。
「忙しかったのか? 他に用があるならそちらを優先してはどうだ?」
「うーん……」
 そう言われると、さほど重要な用事も思い当たらない。結局祐介の言うように、自分は暇なのかもしれない。
(いや、でもやっぱり暇ってほど暇じゃないような。やることなんていくらでもあるし)
「優先度の問題、かな」
「そういうものか? まあいい、今日はどうするんだ?」
「祐介が何かしたいことがあって呼んだんじゃないのか」
 自分から呼び出しておいて、何事かと駆けつければ「暇なのか」「どうするんだ」と逆に問うてくるとは、妙な男だと思う。変というよりは、変わっている。同じだろうか。
「お前が何もないなら、また人間観察になるぞ」
「それでいいよ」
 強引なのか謙虚なのかよくわからない。それだけでなく全体的に不可思議な性格だと感じるが──面白いというか、悪くはない。今のところは。
 見遣った横顔の、鋭利な視線は既に雑踏の中に没入していた。人間観察モードだ。
『いるいる、人間観察が趣味の自称不思議ちゃん!』
 不意に、地元での仲間内での雑談を思い出す。友人の友人に、妄想癖の激しい、奇抜なファッションの女子がいるという話だった。そんな子もいるんだ、と完全に他人事として話していたものだったが、実際に関わることになろうとは。
(どこにでも居るもんだな。人間観察が趣味の……別に趣味ではないんだっけ)
 斑目のことがあって人間は複雑なものだと気付かされた、題材としての人間を理解し、考察を深めるために人間観察をするのだと、祐介は言っていたと思う。それに彼は〝自称〟ではない。
(不思議ちゃんっていうか、芸術家肌っていうか)
 祐介の顔ばかり見ていても仕方がない。今日は人間観察だ。
 暁は顔を正面に向け、特に誰に注目するわけでもなく、ざっと人々を眺めた。
 さすがに東京は人で溢れている。初めての日は時間帯的に混雑していなかったようだが、通学時間に遅延が重なった時のホームの混雑など、祭りの人出かと思うほどだ。
 それに、やはり渋谷には若者が多い。地元のことを特に田舎だと思ったことはなかったが、なんと言おうか、世界が違った。皆が皆テレビの中で見るような流行りの服を着て、女子は高校生でも化粧をして、男子もしきりに髪の毛を弄って。
(人間観察って、これでいいのか?)
 田舎者の渋谷見物では、という気もしてきた。長らく東京に住んでいるはずの祐介は、一体どのあたりに面白みを感じているのだろう。
 ちらりと視線を隣に遣る。
 艶やかな髪に覆われた横顔は心なしか憂鬱そうで、気怠げな美人、などという表現がフッと頭に浮かんだ。何の本で読んだのだったかは、忘れてしまったが。
 時折女子が注視して行くが、男の目から見ても綺麗に整った顔をしていると思う。いかにも和装が似合いそうだ、と感じるところには日本画からの連想もあるのかもしれない。
 反逆の姿の狐の面にはどんな意味があるのだろう。神社に狐が祀られていることと関係があるのだろうか。今度調べてみるのもいいかもしれない。
 例えばスカルやパンサーの、或いは自分の仮面にもそこまでの興味は惹かれなかったことに、暁はまだ気付かない。
 視線を通路に戻す。
 目の前を通り過ぎる、数多の人、人、人。
 皆違うようでいて、皆同じにも見える。
 あちらから見れば、やはり自分たちもごく普通の──皆と同じ顔をした男子高校生に見えるものだろうか。
 もう一度。祐介を見遣ると、目が合ってしまった。
「なんだ?」
「なんでもない」
 咄嗟に顔を正面に向ける。悪いことをしていたわけでもないだろうに、なんとなく気まずい。
「そうか」
 祐介は特に気に留めなかったようで、長い腕を組み直し、再び遠くへ視線を投げた。
 暁もそれを真似て雑踏を眺める。
 ゴシップ、政治への不安、同じ街の中で起こっているどこか遠くの不幸な出来事。話題として語られるだけのそれらの断片がざわざわと耳を撫でた。
 祐介を助けるべきか否か、初めは迷ったものだった。
 鴨志田の時にも全く躊躇がなかったわけではない。しかし彼の横暴は身近で知ることができたし、自分も迷惑は被った。杏や竜司だってそうだ。結果的にバレー部らにも感謝はして貰えたが、本質は自分たちのための制裁だった。
 一方の斑目の件は、完全に他人事に首を突っ込んだ形だ。
 祐介は当初、暁たちをあからさまに拒絶していた。本人が望まないのに斑目を改心させる必要があるのか、身寄りのない祐介の生活を大きく変えることになってしまっても良いのかと、杏も竜司も躊躇っていた。それもわかる。しかし暁の中にはそれとは違う、明確な恐怖が生まれていた。
 退学に追い込まれ、地元を離れて東京にいる原因だ。
 罪を認めない男の横暴と、それに従って嘘の証言をした被害者の女。
 こちらの言葉になど耳を貸さない警察と、子供が余計なことをするものじゃないと嘆く大人たち。
 褒められたかったわけではない。正しいと思ったことをしたまでだ。しかしそれは表向きに認められることなく、自分は一人知らない土地で暮らしている。
 大人のことが信じられない。自分の正義も信じられない。祐介を助けたところで、また失望させられるかもしれない。子供が振りかざして良い正義など社会にはないのかもしれない。あの頃はそんな思いが鬱々と頭の中を巡っていた。
「さて、そろそろ終わりにするか」
「え? あ、ああ」
 視線こそ人波に向けていたが、途中からすっかり物思いに耽ってしまっていた。
 今となっては当然、祐介を助けて良かったと思っている。彼自身についてもそうだし、自分たちは正しいのだと杏や竜司と共に改めて認識することができた。
 師匠も住処も失くした祐介が、なんでもないように隣にいてくれることを、救いのように感じている。大袈裟だろうか。笑われてしまうだろうか。
(人間観察……ね)
 祐介と別れ、言葉を頭にぷかぷか浮かべながら帰路につく。
 渋谷の人々よりは祐介のことを観察していたような気がするが、人間観察には違いないだろう。おそらく。

 流し台に向かって洗い物をする暁は、野暮ったく下ろした前髪の下で眉を潜め、眉間に深く縦皺を作っていた。
 同い年の友達と一緒にどこかに行く、何かをするときに、いちいち理由など考えないものだと思う。少なくとも自分は考えていない気がする。「暇なんだな」などと、祐介はどういうつもりで言うのだろう。
(祐介なんかに時間を割くなんて、っていう自虐的な?)
 彼の口からは「人間のことを知らない」「俺には絵しかない」などの発言も聞いたことがある。絵や美術関係には強気な発言をするのに対して、自身への評価が著しく低いのはなぜなのか。
「オマエ、辛気臭い顔してんなぁ?」
 ガチャン!
 大袈裟に驚いて食器をぶつけてしまったが、幸い割れてはいないようだ。傍らに顔を出した黒猫に、暁は気まずい思いで視線を向ける。
「……気のせいじゃないか?」
「じゃねぇよ、ここに来てからワガハイがどんだけオマエの顔見て過ごしてると思ってんだ?」
 自身の出自も曖昧なモルガナが、最も密に接しているのが暁だ、言葉は乱暴だが心配しているのだ。透き通った青い瞳を細めて開いて、大きなレンズ越しの暁の瞳を凝視する。
「……なんか、見えるのか?」
「ワガハイに言えないこと。つまり、怪盗任務じゃなくてプライベートの問題ってわけだな? ま、人間同士のことなんて知ったこっちゃねーけどよ」
 モルガナは流し台の縁からぴょこんと跳躍し、カウンターの上に移った。
「それ、マスターの前ではしないでくれよ」
 後で拭いておくけど、とぼやくが、モルガナが拗ねていることもわかっている。
「祐介のこと」
 それ以上、うまく言葉が出なかった。自分は祐介について、何をそんなに懸念しているのか。
「いつも腹を空かせてることか? ゴシュジンがいいって言ったんだから、カッコつけないで世話になればよかったのにな」
 思わず頷いてしまった。
 あばら屋には居たくないし、寮は環境が悪い。そう言って押し掛けて来た祐介に驚きはしたが、自分もモルガナも居候の身で彼を図々しいなどとは言えない。なぜだかすっかり祐介を受け入れる気になってしまっていて、翌日は残念だったくらいだ。
「人間にはいろいろあるんだ。遠慮とか、礼儀とか」

 深夜というには少し早い時間だったかもしれない。しかし閑静な住宅街の路地に、既に人通りはない。
 そう遠くないところで、男女の言い争う声が聞こえる。
 大人同士のいざこざだ、知っているだろう、首を突っ込んだところで理不尽な仕打ちを受けるだけだ。
「助けて!」
 それでも声を聞けば放っておけなかった。路地の奥へ走り、無理やり女を連れて行こうとする男の肩に手を掛ける。
 反射的にか突き飛ばされ、ぐらりと上体が仰向く。
「!!」
 街灯が、青白い月が、逆さに伸びたと思うや世界は完全に暗転する。
「……?」
 暗い。真っ暗だ。
 眠っていたのかもしれない。身体は重くて動かない。
「暁」
 低く穏やかな、今は随分と近しく感じるようになった声。
「暁……」
 誰だったろうか。もう少し聞いていたい気もしたが、興味のほうが勝ってゆっくりと目を開く。
 ぼやける視界がはっきりしていくと、やはり見知った顔が現れる。
「暁、平気か?」
「あ、ああ、祐介か……あの人は?」
「それならもう大丈夫だ。お前のお蔭だ、ありがとう」
「う、ん……?」
 自分は女を助けようとしていたはずだ。なぜ祐介に礼を言われるのだろう。
 いや、確かに祐介のことも助けた。だから祐介はここにいるのか──そもそもここはどこなのか。
「本当か?」
「案ずるな、暁。お前は正しい」
 白い手が頬を拭った後、そこに触れる空気はなぜかスゥと冷たかった。きっと祐介の手が冷たいのだろう。
「俺は、正しい……」
 祐介は黙って深く頷いた。優しい顔だ。彼のこんな表情を、今までに見たことがあっただろうか。頭に靄が掛かっているかのように、上手く思い出せない。

「う、ん……」
 ぶれて滲んだ輪郭が徐々に重なって形を成していく。茶色くて、古ぼけた、いい加減に見慣れた屋根裏部屋の天井だ。
「暑い……」
 トスッ!
 暁の腹部に軽い衝撃を齎らしながら、呆れ顔のモルガナが飛び乗ってきた。
「ったく、もう昼だぜ? 珍しく気持ちよさそうに寝てたから、起こさないでおいてやったけどよ?」
 身体を起こすと、暁は微かに顔を顰めた。背中がじっとりと湿っている。眠っている間は感じなかったようだが、この季節に昼まで寝ていては寝汗も掻くというものだ。
(夢だったのか)
 至極感覚的なものではあるが、イゴールと双子に見せられるものとは違う、奇妙ではあるが普通の夢だったと思う。
(深層心理、なんだっけ?)
 杏が祐介にヌードモデルを迫られていた頃には、なぜか自分がヌードモデルになる夢を見て焦ったものだった。
 今日の夢は、昨日の昼間に考えていたことの影響だろう。あの女には手酷くやられたが、祐介には認めてもらえた。それは実感以上に拠り所になっているのかもしれない。
(祐介が一方的に感謝するのは、多分違うと思う)
 階下からコーヒーの良い香りが漂ってくる。裏腹に湿った寝間着の不快感が蘇って、ようやくベッドから這い出して着替えを始める。
 時間が時間だ、朝食は外で摂ろう。その後は何をして過ごそうか。
 階下に降り、まだ客のいない店内で新聞を読む佐倉惣次郎に軽く挨拶をする。
「ったく、いい身分だな」
 すげない言葉ほど冷たい人物でないことは、暁もモルガナも薄々気付いている。聞き流してルブランから出て行こうとすると、不意に横から視線を感じた。
「んにゃ? サユリがどうかしたのか?」
 立ち止まった暁の鞄から、モルガナがひょこりと半身を乗り出す。
 二人の視線の先には、祐介が預けていった、認知世界の斑目の宝だ。絵の中で赤子を抱く女性は、一言で優しさとも言い表せないような、神秘的な表情をしている。
「サユリって、祐介に似てるよな」
「当たり前……ていうか逆だろ?」
「まあ、そうだよな」
 我ながら妙なことを言った、と顔に出さないまでも内心で苦笑する。
 夢の中の祐介は、サユリのような表情をしていた気もする。
 足の向かう先は、決まっていた。

「お前は暇なんだな」
 渋谷駅の地下通路、105MEN’Sのロゴ前に佇んで、彼は挨拶かのようにそれを言う。
 言われるほど暇ではない。人間観察がさほど面白いわけでもない。
「言ってるだろ、祐介に会いに来たんだって」
「ふ、おかしなやつだ」
「……どっちが」
 小さくだけ呟いて、今日も退屈な人波を眺める新しい仲間の横顔を観察する。

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