2.それぞれの思惑
いつもの屋根裏部屋にて。
「オイ、机の下に靴下が落ちてたぞ。……オマエ、こんなの持ってたっけ?」
作業机の下から這い出したモルガナが、口に咥えた青い靴下を暁のほうへ放る。
「ああ、きっと祐介のだな」
「やれやれだぜ。立つ鳥跡を濁さずって言っておいてやれ」
ぼやきながらもう一度机の下に潜ったが、ほどなくして出てきた。
「……片方しかなさそうだぜ?」
「片方だけ履いて帰ったのかな。あいつそういうところあるから」
「どういうところだよ! ていうか想定済みかよ!」
威勢良く言ってから、猫の身ながら密かに溜息を吐いた。
(ユースケの変人具合にも、さすがに慣れてくるって話か)
自分も元は人間だったという想いがあって、プライバシーには配慮していたつもりだった。しかし油断というか想定外というか、ある時暁と祐介の関係をただならぬ関係を知ってしまったのだった。
(そりゃだって、互いにここの居候なわけだから、そりゃ気付くわっていう……)
友達にしては激しいスキンシップだ、と納得するほど人間のことを知らないわけでもない。ただ、それについて直接話したことはないので、暁はモルガナが二人の関係を知っていることには気付いていないかもしれない。
(ま、共感はしないが否定もしないぜ。アン殿を狙うライバルが一気に二人も減ったわけだしな)
「おーい、友達が来てるぞ」
階下から惣次郎に呼ばれ、暁は勢いよく立ち上がる。
「どうせまたユースケだろ、部屋にばっかいないでどっか遊びに行け」
◇
ちりんちりん。
ドアのベルを鳴らしながら、小さな人影が元気に手を上げて入ってきた。
「そうじろう、おそよー!」
「おそようって、なんだ変な挨拶すんな」
「おっなんだ暁とおイナリもいるのか」
佐倉双葉だ。ストレートの長い髪を揺らしながらぴょこぴょこ歩き、暁と祐介の居るテーブル席に迷わず座る。
「今日は何の相談をするんだ?」
「いや、相談というわけではなくてな」
一気に賑やかになったテーブルを、惣次郎はチラと気にしながら苦笑した。
(ほんと、明るくなったもんだ)
引き籠って塞ぎ込んでいた双葉の豹変は、紛れもなく暁とその友人達のおかげだ。感謝してもしきれないが、自分には双葉を変えることはできなかったのかと、一抹の寂しさもある。それに加えて、最近は新たな気掛かりが生まれていた。
(そりゃおっさんよりは年の近い友達のほうが楽しいだろうが、ちと懐きすぎじゃないかねぇ)
双葉が暁に何の警戒心も抱かず、まるで以前から知っていたかのように振る舞うことが、気になって仕方がないのだ。
(体は小さくたって年頃ってやつだろうし)
来栖暁は信頼できる人間だ。言いつけは守るし、店の手伝いもしてくれるし、気も利く。なにより双葉を救ったこと、これは大きい。
しかし悲しいかな、彼は前科者だ。惣次郎は彼の言葉を信じている。正義感から面倒ごとに首をつっこんで、悪い大人に嵌められて罪を着せられてしまっただけなのだろうと。
真実がどうであれ、前科はまず消えない。そのせいで大人になってからも苦労するかもしれない。
友人として付き合うなという気はない。ただ、それ以上となると少し考えてしまう。
(俺も結局、大人の側だからよ、感覚がやらしいんだわ)
双葉はこれまで辛い思いをしすぎた。未来は平和で平凡で、そして幸せであって欲しいと思う。
(いい奴なんだけどな……)
ただし、気になる点がないわけではない。暁の周辺からは女の匂いがしすぎるのだ。性格がよくて行動力があり、外見は派手でなく不可もなく、ワケありの影を背負って──惣次郎の分析では、暁は間違いなく女にモテる部類だ。
若いうちは遊んでおけ、とは思う。ただ双葉の相手となると話は全く別なのだ。
「おイナリすげー! 神かよ!」
テーブル席では双葉が祐介の方に思い切り身を乗り出していた。惣次郎の位置からは双葉が祐介に覆い被さっているようにも見えて、非常に心臓に悪い。
(おい、くっつきすぎだ!)
見兼ねてというか気になってというか、惣次郎はカウンターから件のテーブルに歩み寄る。
「そうじろう! おイナリは芸術的なのだけじゃなくてこういうのも描けるんだ!」
双葉は目を輝かせながら、祐介のクロッキー帳を指し示した。祐介が双葉の好きなキャラクターを即興で描いてやったものだ。
「なんとか戦隊だっけ? さすが上手いもんだねえ」
「いいなあ、このページ、欲しい……」
「? こんな落書きで良いならやるが?」
祐介は小首を傾げてページを破り取り、双葉に渡した。
「ふおぉまじか! やったー! 俺の知ってる落書きと違うけど!」
イラストを掲げて小躍りする双葉に、惣次郎は目を据わらせて小さく溜息を吐いた。
「双葉、言葉遣い」
「ごめんちゃい」
軽い謝罪にかぶるように、ぐごごご……と地響きのような音がした。
聞き覚えのある音に、一同の目が祐介に向く。
「すまん。そういえば昨日から何も食べていなかった」
「……なんか出すわ」
テーブル席にホットサンドを出して定位置に戻ると、惣次郎の思考も自然と元の位置に戻っていった。
(ま、あいつはうちの居候ってのもあって親しむのはわかるよ。あの画家の子とはなんであんなに仲いいんだ? 絵が上手いからってだけの話なのか?)
双葉と、今度は祐介についてだ。
引き篭もりは良くなったが、双葉は相変わらず極度の人見知りだ。暁の友人というだけで、あれほど馴染むものなのだろうか。今日はいないが、もう一人の金髪の少年よりも明らかに親しく見える。
偏った趣味の双葉と、独特の感性を感じさせる祐介。何か通じ合うものがあったのかもしれない。
礼儀正しくて良さそうな少年だとは思う。ただ、彼は画家志望だという。洸星の特待生ということで才能は確かなのだろうが、収入は不安定なことが見込まれる。現に今だっていつも腹を空かせているようだ。
双葉はパソコンを使うことが得意なようだ。惣次郎にはよくわからないが、天才的な技能だと暁の友人達も口々に絶賛していた。母親を思えば双葉が天才だとしてもなんら不思議ではない。
技能はある。極度な人見知りさえ直れば問題なく働けることだろう。
(しかしITってブラック業界なんだろ……?)
今から双葉を高学歴にしてやるのは無理がある。どんなに能力が高いとしても、日本で働く分では中小企業に就職することになるのではないだろうか。
そうして人並み程度の収入を得て、画家志望の彼を養っていくというのか。全否定はしないが、あまり薦めたくはない。
それに彼はとても綺麗な顔をしている。どこか頼りなさげなところだとか、きっと女が放っておかない。正直、ああいうタイプは年上の金持ちの女のヒモになって好きなだけ絵を描いて過ごすのが幸せだと思う。
(でも双葉楽しそうなんだよな……俺が気にすることじゃねーのかなー……)
ちりんちりん。
再び開いたドアから、高いヒールの長い脚が覗く。
今度の来客は、近所の診療所の女医・武見だった。
「こんにちは。あら、お揃いなのね」
元より交流のある暁と、顔は見たことのある双葉。そしてつい先日の患者である祐介を見遣って黒いシャドウの瞼を瞬く。
「こんにちは」
返した暁の影に隠れながら、双葉は会釈だけをする。
「……他のお客さんが来る時間か。ここで騒がしくしては迷惑だろう、上に行かないか」
そう言ったのは祐介だった。空気を読んだというよりは、単に自分が居た堪れなかっただけだ。
確かに、営業の邪魔をしても悪いだろうと三人は屋根裏へ上がっていく。
「マスター、ご馳走様でした」
「ん。そのままでいいのに」
空になった皿とグラスを祐介から受け取って、惣次郎は三人の背中を見つめていた。武見は思わず笑ってしまう。
「気になります?」
「え?」
「……ごめんなさい。マスターがその、あんまり心配そうな顔してたから」
「へ、へへ」
惣次郎は照れくさそうに頭を掻いた。常連ぶった客には素っ気なくすることが多いが、気が向けばお喋りをする気になることもある。もう少し正直に言うと、美人は好きだ。
「どうもねぇ、年頃の男二人と女の子一人って……俺の感覚が古いんですかね」
男衆二人を危険な人間だと思っているわけではない。ただ、彼らは若い。間違いが起こらないなどとは誰も断言できないではないか。せめてもう一人女の子がいればまだ安心できるのだが。
(杏ちゃんとかな。あの子いいよなー気が強そうで)
武見は砂糖をかき混ぜたブラックコーヒーの渦を見つめながら、惣次郎にもわからないくらいに小さく笑んだ。そしていつもと変わらぬ調子で言う。
「来栖君、娘さんのことは妹みたいに思ってるんじゃないかしら」
「あー、そうかもしれませんねぇ」
思えばこの女医は暁の顔見知りだし、以前見掛けた怪しげなサービスのメイドもそこそこの年齢に見えた。杏と付き合っている様子もないし、暁は年上が好みなのかもしれない。安心したこともあってつい口が軽くなる。
「もう一人はどう思います? といっても、先生は彼とは知り合いじゃないですかね」
「……大丈夫なんじゃない? 知らないけど」
武見はにわかに沈黙したのち、さもどうでもよさそうに言った。
「ハハハ、先生にそう言われると、わけもなく安心しますね。俺はあの子には年上がいいと思うんですよ、真面目なんだけど頼りない感じがするでしょう。だから」
「意外と世話焼きなのね? ……じゃなきゃ来栖君を預かったりしないか」
惣次郎は肩を竦めた。
「余計なこと言いすぎたかな。さすが、先生には何か、話しやすいって感じがしちまって」
そうこうするうちに新たな来客があり、惣次郎もいつもの調子を取り戻していった。
(んー、『お客が来たからお出掛けルート』いってくれればよかったんだけどなー……今日はやめとこうか……)
屋根裏部屋に上がるや、双葉は部屋の奥のベッドをチラと見遣り、それから暁と祐介に視線を移した。
テレビの横に用意したいくつかのDVDのうち、どれを見ようかと話している。暁の目がこちらに向いた。
「双葉は?」
「ヘッ!?」
「この中で見たいものはある?」
「ど、どれも見たことないから、なんでもいいぞ!」
「そうか。じゃあこれかな」
映画のDVDをレコーダーに入れる暁の横で、こちらを見つめる祐介の視線が妙に痛いような気がしたのだが、思い過ごしだったのかもしれない。申し出は、紳士的なものだった。
「双葉、ソファに座るか?」
「んっ? ……わたしはこっちのほうが見やすいかな!」
双葉は作業机とセットになっている椅子を引っ張ってソファの横に据え、ちょこんと座った。
「そうなのか。ならば」
祐介、続いて暁が隣り合ってソファに腰掛ける。
(ん〜む……)
映画が始まると、祐介も暁も画面に食い入るように集中していた。
双葉の疑惑の視線になど気付く様子もない。
(これは……いけちゃうか? いっちゃうか!)
そろり、そろり、姿勢を低くしてベッドに近寄り、その下に手を突っ込んでもぞもぞ探る。
──フニャッ
「ヒェッ!?」
予期しなかった柔らかく生温い感触が手に触れて、思わず声を上げてしまった。
「双葉?」
「どうした?」
暁と祐介が声の方を振り向くと、双葉がベッドの前にへたり込んでいる。
「な、なんかにゅるってした!」
「人をタコみたいに言うんじゃねえ!」
昼寝でもしていたのか、不機嫌そうにベッドの下から出てきたしなやかな身体の黒猫に、暁は思わず吹き出す。
「ちょっとわかる。モルガナ、体と尻尾をこっちにすり寄せながら歩くとき、にゅるって感じ」
「ニャ、なんだとぅ!」
「暁の脚に、尻尾を巻きつけていることもあるしな」
「モナは軟体動物。学習した」
「ムムム……」
「時に双葉、ベッドの下に何か落としたのか?」
双葉がベッドの下を探るところこそ見ていなかったが、映画を見ていて自然と体が動いたわけでもあるまい。
「お、そうだそうだ、ワガハイが探してきてやるよ。どんなのだ?」
「え、い、いいって。気のせい。何も落としてないし……」
「ではなぜ、そんなところに?」
「アヤシイ……」
「こら! モナ!」
ベッドの下に潜るモルガナの尻尾を捕まえようとするが、それはするりと小さな手の中を逃げてしまった。
「あわわ、あわわわ」
ほどなくして一同の前に現れたモルガナは、口に小さなマイクのようなものを咥えていた。ころん、と床に落とされたそれを見て、双葉は両手で頭を抱える。
「あちゃ〜……」
「双葉? これは一体」
「盗聴器……?」
「えっと、それは! それはな!!!」
双葉は顔を真っ赤にして、目をグルグル回しながら首を横に振っている。電池式の玩具のように、放っておけばいつまでもそうしていそうだった。
「暁、大丈夫なのか? これ」
「双葉、落ち着け。大丈夫だ、怒らないから」
「う、うぅ、ほんとうか……?」
声を震わせながら、恐る恐るといった様子で暁を見上げる。
「ああ、本当だ。……どうして盗聴なんてしてたんだ?」
「んーと、その。夜、店にメイドみたいなのが出入りしてるのを見ちゃってな」
「……」
「……」
暁とモルガナは気まずそうな顔をして黙り込む。もとより怒る気はなかったが、居候の身で紛らわしいことをしていた自分たちにも十分に非があるように思えた。
「メイド? それは気になるな」
祐介はどういう意味でメイドを気にしているのだろうか。とりあえずこの場では無視することにする。
「そのメイドが、屋根裏に上がってってるみたいだったから、なんなんだろって……」
暁は額を押さえて溜息をついた。
「あれは家事代行サービス。部屋の掃除や洗濯をしてもらってる」
「あと、マッサージな」
モルガナが付け加えた。
「わざわざ盗聴なんてしなくても、聞かれれば普通に答えたけど……」
双葉は眉を寄せ、悲しいような、拗ねるような表情をした。
「お前たちは、息を吸うみたいに簡単におしゃべりできるだろうけど、わたしにとっては……難しいんだ」
「俺たちに対してもか?」
「うん。……普通に話すのはできる。でも、聞きづらいことを聞くなんてこわくてできない。盗聴するほうがずっと簡単」
祐介は神妙な面持ちで頷く。
「だが、良心の呵責に苛まれて回収しにきた、というわけか」
「正直今まで、盗聴って悪いことだと思ってなかったんだ。わたしは人より耳がいいだけ、聞こえるように喋ってるほうが悪い、って。でも、ちょっと間違ってたかなって思う……」
暁は複雑な表情で口を開く。
「俺たちも双葉に盗聴やハッキングをしてもらってたから、偉そうなことは言えない。でも、大丈夫だから」
暁は双葉の顔を覗き込み、しっかりと瞳を見つめる。
「何かあったら遠慮なく話してほしい。チャットでもいいしさ」
なぜだか安心できる、頼もしい瞳だ。双葉は子供のようにこくんと頷いた。
「……うん。今度から、なんかあったらがんばって正面からいく。わたしには多分、ネットの向こうに人間の姿が見えてなかった。頭ではわかってたけど、実感がなかったっていうか……見ず知らずのやつにハッキングしても平気だったけど、相手がお前たちだと、すごく悪い気がするんだなって……」
(オマエタチ……?)
モルガナはきゅぅと瞳孔を小さくして、猫の姿にあるまじき冷や汗をかいた。
「フタバ、いつから盗聴器を……?」
「へっ? え、えーと、一週間前くらい……」
「あっ」
察した。
双葉は黙って頷く。一人と一匹は今、目と目で通じ合っていた。
それを交互に見遣り、暁と祐介は不思議そうな顔をする。
「一体どうしたというんだ?」
「二人、見つめ合って」
「オマエラのせいじゃーい!!!」
モルガナが吠える。異世界であれば巨大なハリセンを出してひっぱたいているところだ。
「もうしんどいからストレートに言う。盗聴の中に、暁とおイナリのR18腐向けが含まれてた」
「腑抜け? 俺の腑抜けたところが筒抜けだったということか!?」
「すごいなおイナリ。間違ってるけど大体合ってるぞ」
意味のわからない単語も出てきているが、暁も状況はなんとなく察する。
「……ええと、妙なものを聞かせてすまなかったな……?」
疑問系なのは、双葉が割に平然としているためだ。
しかし気まずい。気まずさしかなくて、わしわしと頭を掻いた。
「ほんっと妙だったわ、動転して『私JKだけど屋根裏にホモが住んでる件』とかいって実況にスレ立てるとこだったわ」
「???」
「……いやまあ、盗聴はいけないことだってわかったからさ、自業自得っていうか。このことはうっかり誰にも言わないからな! スレも立ててないし!」
「助かる。ありがとう」
双葉の言葉の全ては理解できないが、とりあえず失望されてはいないし、秘密も守ってくれるようだ──と、思ったのだが。
「盗聴データ、真パイセンにでも見つかったら『18歳未満なのに18禁持ってちゃだめでしょ!』てボコられちゃうな〜」
チラッチラッ。双葉から意味ありげな視線を感じる。妙なところで発揮される度胸は、伊達に世界レベルのハッカーではないというところか。
「双葉、今度アキバへ行こう。フィギュアでもガジェットでも何でも買ってやる。そのあと美味しいものを食べよう。金ならいくらでもあるからな」
「ヒャッフー! おにいさん話せるぅ〜!」
「なんだよ、心配して損したぜ……」
盛り上がる二人のかたわらで、うなだれる猫。
「モナにもおみやげ買ってくるからな!」
「マジか! 今度こそ大トロ頼むぜ!」
「いっぽうその頃、おイナリは病の床に臥せっていたのであった」
物々しく言った双葉の視線の先では、祐介が頭まですっぽりとベッドに潜り込んでしまっていた。
「ゆ、祐介……」
「あーあ、暁いじめたー」
「お、俺のせいなのか?」
双葉が盗聴したせいだろう! とも言えず、暁は祐介(の入っているベッド)とモルガナを交互に見た。
「シラネ。今日は靴下忘れるなって言っとけよ」
お出かけ楽しみだなー、などと話しながら、双葉とモルガナは階下へ降りて行ってしまった。
「祐介」
布団を被っていてもわかるくらいに、祐介の体は震えていた。泣いているのだろうか。
割に古風な男女観を持つ男だ、双葉に関係を知られたことに、想像できうる以上にショックを受けているのだろう。暁はまだ位置的に男だから良いのだが──。
「……」
待てども祐介が出てくる気配はない。
いつまでもこうしていても仕方がないと、暁はそろりと布団を捲って絶句した。
「祐介……」
祐介は布団の中でクロッキー帳に絵を描いていた。震えて見えたのは、しきりに手を動かしていたためだ。
「器用だな……」
「こんなに恥ずかしい経験、一生のうちにそう何度もないだろうからな、というかもう二度と経験したくないからな! この気持ちを忘れないうちに何か残したいと思ったのだ」
ショックのあまり倒れたのでないなら良かったが、否、正気を保つために、あるいは逃避のために絵を描いているのかもしれない。
「うん。思う存分描くといいよ……あと、身近な人間に知られてるなら却って二人で過ごしやすいって思おう」
後半は、自分に言い聞かせるようでもあった。
祐介からの返事はない。絵に没頭していると大体こうなのだ。
もはや誰も見てはいない映画の、軽快なBGMが白々しく響いていた。