四茶抄

3.天使たちの昇天

 細い路地奥のコインランドリーに不似合いな、メイド服の女が一人。
 洗濯機から取り出した男物の、しかし見慣れない下着を広げて凝視していた。
(黒いピタピタのビキニ……下着の趣味、変わった……?)
 生徒であるはずの来栖暁から家事を請け負うことは、すっかり彼女──べっきぃこと川上の日課となっていた。
(彼女でもできたのかしら、なんて。ま、あの高巻さんと真っ先に仲良くなるくらいだし? 意外と肉食系か? ていうかウチの店に電話掛けてくる時点でさ……)
 初めは後ろめたくも指名を有難く思っていたものだが、最近となってははっきりと趣味になってしまっていた。
 川上は今はメイドデリバリーサービスで働いてはいない。その必要がなくなったのだ。ただ、普段着のままでは特に学校関係の知り合いに見られてはよろしくないので、相変わらずメイド服を着用している。
(17歳、子供ったって男だし? 最初は多少は意識したわよ、多少ね)
 過去にあんなことがあって、極力生徒に深入りしないようにと思っていたのに、彼から自分を呼びつけた。完全に想定外だ、想像できるはずもない。
 そして自分は彼を拒絶できずに、あろうことか指名を頼む始末で、どこまで堕落していくのかと本当に情けなかった。
 結局自分はこうしただらしない性分で、かつての教え子を亡くしたのも自分のせいでしかなくて、教育者でありながら、簡単に金を稼ぐ手段として体まで投げ出して。
 夢だとか願望だとかいう言葉は叶わないからあるのだと思い知ったし、明確な絶望の形をも見た。
 好きでなったはずの教師の仕事の時間さえも生き甲斐と思えなくなって、何のために生きているのかわからなくなっていた。
 彼と、来栖暁と出会うまでは。
(でも、今となっては世話焼きおばさんの心境なのよ、本当にね)
 惚れそうになったのは、きわめて弱っていた時に手を差し伸べられたから。
 諦めたのは、立ち直ることができたから。
 教師と生徒が結ばれることを、悪と言うつもりはない。ただ、過去のことを思えばこそ、暁とは教師と生徒であり続けたかった。
 だから、これで良かったのだと思う。
(家事やってあげてる時点で、普通の教師と生徒なのか……? ううん、これは取引だし! 世話焼きおばさんなんていうなら、こんな格好してる場合じゃないんだけどさ)
 かたわらの乾燥機の中でぐるぐると舞っていた、衣類の動きがそろそろ遅くなっていく。
 それらが重力に逆らえなくなってはたりと落ちる。ピーピーと乾燥の終了を知らせる音を聞く。
 かごの中に移す衣類を入念に見ていたつもりでもなかったが、そのうちの一着が妙に気になった。青と黒とグレーの、ニットのカットソーだ。
(彼のにしては細身なような……まさか、縮んだ!?)
 新しい──今まで見たことがなかったのでそう判断した──服をいきなり縮ませてしまうとはなんたる不覚。
 大真面目な顔をして、ニットを横方向に引き伸ばしてみる。一部分だけ形が崩れることのないように、全体に平均的に。
(へーきへーき、伸びる素材だしこのくらいはね!)
 

 洗濯かごを抱えてルブランに戻り、CLOSEDの札の下がる入り口に鍵を差して回す。が、空回りして手応えがない。
(鍵、掛け忘れた……!?)
 何か今日はミスが続く。家事もできないのかと思うと少しばかり落ち込んでしまう。
 幸い、店内には特に変わった様子はなかった。
 暁は出掛けている。洗濯物を彼の部屋に置いて、ざっと掃除すれば今日は終わりだ。
 上がっていくと、屋根裏部屋には薄明かりが点いていて、誰かベッドに寝ているらしかった。
「来栖君、戻ってたの?」
 川上が部屋の中へ進むと、うつ伏せに寝ていた頭がゆるりと持ち上がる。さらりと流れる真っ直ぐな黒髪は、顔を確かめるまでもなく暁ではなかった。
 気怠げに向けられた少年の面に、そしてシーツから覗いた細い首筋と裸の肩に、川上は絶句する。
(天使……いや堕天使!? どういうことなの! 落ち着くのよべっきぃ!)
 涼しげに整った顔貌に弱い光が落ちて、なんとも耽美的な、危うい雰囲気を感じさせる。やや不機嫌そうな表情が、禁域にでも踏み込んでしまったような、背徳的な感覚を煽った。
「なんだ、家政婦……?」
 少年は想像より低く柔らかな声で呟く。
「え、ええ! 私は来栖君に雇われてる家政婦のべっきぃ! あなたは? お友達?」
 家事を請け負った時にはこの部屋には暁しかいなかったはずだ。洗濯に行っている間に入り込んだのだろう。年の頃は暁と同じくらいに見えるし、裸で寝ているところからして強盗の類には思えない。
「友人……か。暁は?」
「出掛けてるわよ。行き先は知らないけど」
 少年はうつ伏せのままベッドに肘をつき、少しだけ上体を上げた。するりとシーツが滑り、肩から肩甲骨が露わになると、年甲斐もなく胸がざわつく。
 少年と自分を〝男女〟と見なしてときめいたわけではない。家族でテレビを見ているときに予期せず卑猥なシーンが流れたような、気まずさに近かった。
 細い肩から目を逸らし、スマートフォンを操作する端麗な横顔を見つめる。綺麗な少年だ、秀尽の生徒であれば見覚えがあっても良さそうなものだが、あいにくと思い当たらない。無論、そのほうが助かる。
「暁か? 今、お前の部屋にいるのだが……メイド? べっきぃのことか? 洗濯をしていたようだな。……うむ、わかった、待ってる」
 電話を切ってこちらを向いた少年と思い切り目が合って、不自然に顔を背けてしまった。
「暁はじきこちらに戻る。メイドは洗濯物を置いたら帰っていいとのことだ」
「そ、そうなの、了解! それじゃ、洗ったものはここに置いておくね」
 ソファの前、やや作業机寄りに洗濯かごを置く。一番上に重なっていた黒い下着が予期せず目に入った。洗濯の時にもにわかに気にした、暁の趣味とは思えなかった下着だ。
(……)
 もはや余計なことしか考えられない。
「どうした?」
「な、なんでもないですぅ! ではべっきぃこれでおいとましますにゃん♡」
 〝べっきぃ〟は本心が透けないようにとびきりのキメ顔とポーズを作り、逃げるように階下へ降りていった。
「ああ、あれが件のメイドか……」
 少年は一つ大きな欠伸をして、ベッドに潜り込んだ。

 部屋に戻るなり目に飛び込んできた光景に、暁は頭を抱えた。
「祐介、なんで脱いでるんだ」
「何故だと? どうせ遅かれ早かれ脱ぐのだからいいだろう」
「風邪ひくだろ……ていうか、その格好で川…べっきぃに会ったのか?」
 ベッドの上の祐介と、置かれた洗濯かごを交互に見る。
「あちらが闖入してきたのだ……クシャン!」
 初めて見た祐介のくしゃみがなんだか可愛らしくて、思わず笑ってしまった。
「ほら、だから……せっかく痔が治ったのに今度は風邪か?」
「俺はそんなにヤワじゃない。この部屋が少し埃っぽいんだろう。そう思うなら早く暖めてくれ」
 そうして見上げられると、暁の体は暖かいどころか一気に熱くなった。そんな台詞を一体どこで覚えてくるのかと思うが、祐介の言い回しが芝居掛かっているのはいつものことだった。
 服を脱いでベッドに潜り、祐介に顔を近づける。
「鼻が冷たい……」
 祐介は暁を見つめ、二度、三度と瞬いた。長い睫毛が音を立てそうだ。
 そして次にこう言った。
「にゃん」
「え!? ……何?」
 普段と全く変わらぬ声音で言われたそれを、咄嗟には理解できなかった。
 視線を少し下げると、手を拳にして手首を前に倒して、猫のように見えなくもない。
「猫は鼻が冷たいそうだな。モルガナも冷たかった」
「……そうだね。なんで突然猫?」
「べっきぃが、こうやっていたのでな。お前の好みなのかと」
 こう、と言いながら、猫が招くような真似をする。真顔で。
「あれはべっきぃのキャラ付けなだけで、俺がさせてるわけじゃない」
「なんだ、そうだったのか」
 ならばもはや必要ない、というように祐介は手を元に戻す。
「祐介……!」
 その仕草にじわじわと愛しさが込み上げて、暁は祐介を抱き締め、冷たい鼻を摺り寄せてキスをした。
 部屋に来た女の仕草を相手の好みかと勘ぐって真似してみるなど、まるで恋する少女ではないか。
 事実二人は友人ではなく恋人なのだが、変人だ変態だと言われる祐介の行動は理解し難いことも多い。それはそれで面白いが、時折わかりやすいことをされると暁は簡単に落ちてしまうのだ。
 
 
「祐介、まだ寒い?」
「あつい……いや、寒い」
 少し精液の匂いの残る、気怠い体を寄り添わせながら、二人くつくつ笑う。
「まあ、風邪は本当にひいてなさそうだぞ?」
「なら良かった。そうだ、祐介いつか間違って俺のパンツ履いて帰って、後で返しにきたとき自分の持って帰らなかっただろ」
「そうだったか?」
「そうだった。あと、この前杏と一緒に買い物行ってからここに寄った時」
 洗濯をするとすぐに私服が尽きてしまう祐介を見兼ねての、杏の提案だった。
「杏に見立ててもらったトップスが気に入ったので、試着からそのまま会計して着てきて、もともと着てたのを袋ごとどこかに忘れた……」
 一着増えたが一着減って、結局祐介の私服不足は解消されていない。
「うちに忘れてた」
「なんと」
「置いといたらモルガナの毛がついたから一応洗濯した。そこの洗濯かごにパンツもどっちもあるから忘れずに持ってってくれ」
「洗濯までしてもらってかたじけない」
 洗ったのはべっきぃだけど、と暁は小声で付け加える。
「祐介、ちょっと忘れ物に気を付けよう」
「うむ……画材道具ならば鉛筆一本だって置き忘れないのだが。だいたい、以前は余所で服を脱ぐ習慣などなかったからな」
「そりゃまあ、そうなんだろうけど」

 翌朝、着替えにちょうど良いと洗濯した下着とニットを身につけた祐介は、違和感に首を傾げる。
「どうした?」
「なんだか、服が大きくなっているような気がする」
「えっ。祐介が痩せたんじゃないのか? ちゃんと食べないから」
「そんなことは、ないと思うのだがな……?」
(祐介には俺がきちんと食べさせていかなきゃいけない。いろんな意味で)
 どうにもふわふわとした恋人を見つめ、暁は決意を新たにするのだった。

 あの後、川上から暁へチャットメッセージが届いていた。
「この前、君の部屋で見掛けた男の子のことなんだけど」
 見て見ぬ振りを決め込んでくれるものと思い込んでいたので面喰らったが、とりあえずしらばっくれることにする。
「男の子? 雄の黒猫なら飼ってるが?」
「あの子がネコ、ってこと? まあわかるけど、そういうのが聞きたいわけじゃないの」
 納得されてしまった。間違いではないのだが、少し困る。
「じゃあ座敷童かな」
「まあいいわ。君が私を呼び出したときみたいに、お金で買ったんじゃなきゃいいなって思っただけ」
「祐介はそんなんじゃない!」
「ならいいの。あの子も君と変わらない年に見えたから、何か事情があるのか気になってさ。普通に付き合ってるんなら、もうこの話はしないから安心して」
 どうやら祐介のことを心配したらしい。川上が副業を始めた事情が事情なので、重ねて考えてしまったのだろう。もっとも、祐介にも全く事情がないわけでもなかったが。
「大丈夫だ、祐介のことは大事にする」
「……何? ノロケ? 私が独り身だと思って言ってる?」
「違う! 間違った!」
 何を間違ったんだか、と自分でも思うが、一度送信してしまったメッセージは消せないのだから仕方がない。
 一方の川上は、焦る暁の姿を想像しながら大層愉快な気持ちでメッセージを眺めていた。
「このことはくれぐれも内密に頼む」
「当たり前。こっちだって知られたくないこと君に知られまくってるし? ただ、君も少し気をつけて。あの子にも言っといてね」
「わかった、ありがとう。また頼む」
「なんなりと」
(はあ……)
 スマートフォンのホームボタンを押し、深く息を吐く。
(あの子、本当になんなのかしら)
 前科は誤解からのものだと聞いたし、彼と接していると事実そうなのだろうと思えてくる。それでいて風俗まがいのサービスに電話を掛けて来たり、夜の新宿で目撃されたり、挙句同年代の少年と付き合っているとは。
(……面白い子)
 規格外だが、悪くはない。彼のことを思うと、なぜか心が晴れ晴れするのだ。
 ただ退屈に日々を潰すだけではない、同じ顔をした人の流れに逆らって進む彼に、何かを期待してしまうのかもしれない。羨ましいのかもしれない。
(違う)
 彼らの若さと無鉄砲さを羨み、自分は大人だからと逃げるのでは、これまでと何も変わらない。
 喪失も絶望もしたが、今まで為せなかったことがこれからも成されないわけではない。
(私にだって、まだ何かできるはず)
 彼に対する恋愛感情はもはやない。しかし許されるならば、もうしばらく彼のことを見ていたい。
 大人として、見守っていきたいと思うのだ。

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