
「素晴らしい力だな、炎邪よ」
遠く近く聞こえる、高らかに歌うような声には聞き覚えがあった。
ずっと傍らにあったようでいて、しかし懐かしくも思える声を反芻し、果たしてそれは自分の名前だったろうか、彼が言うならそうなのだろう、と大雑把に呑み込む。
身体は気怠く、まだ寝ていたいような気もしたが、頬の硬く冷たい感触が気になりだして目を開けた。
黒く濡れた地面から少しだけ頭を上げると、水溜まりの水面よりわずか上に白い爪先が見える。履き物から剥き出しの足の指が汚れてもいないことが、妙に印象的だった。
「寝足りんのか?」
ゆっくりとした声の調子に、嫌な予感がしたのかもしれない。濡れそぼった全身の冷たさを途端に認識し、炎邪は飛び起きて大きく身体を震わせた。逞しい体躯から、盛大に水滴が飛び散る。
クックッ……と喉の奥で笑いながら悠々と佇むものは、兄弟子であり、親友でもある男。ゆらりとたなびく青い髪は記憶のそれとは違い、そも人の持つ色彩でもなかったが、炎邪はそれを何の疑いもなく〝水邪〟だと認めていた。
水邪を眺めて瞬きを二度、三度。
それから漸く辺りを見渡せば、灰色の空の下に、瓦礫と呼ぶほどの形もない炭と灰が散乱する、黒色の景色が続いていた。多量の雨が降ったらしく、至る所に水が溜まっては鈍く光を反射している。
死んだような世界の中心に、青白い水邪がただ一人。否、大きな水溜まりに膝をついたままの自分と二人だけだ。
朦朧として記憶は覚束ないが、なぜこのような状況になったのかという疑問は無い。
ここに来て──魔界に堕ちて得た強大な力は、炎邪の身には炎として宿った。喜びを爆発させながら駆け巡れば辺りはたちまち火の海と化し、炎邪は尚更愉快な気分になった。身体を動かして戦うことは昔から好きだったが、ごく単純な破壊に、それまでにないほどの喜悦を感じていた。
そうして思う存分暴れた結果が、この光景なのだろう。
「っ!? ぐうおおおお!?」
炎邪は何ともなしに下を見るや、水鏡が映し出したものに仰天して声を上げた。
「なんだこれは! おれかっ、おれは化け物になっちまったのか!?」
髪と眉は激しく逆立ち、大きく見開いた目に輝く瞳はない。鋭い牙と尖った耳を持つその顔貌はまるで鬼だ。
信じたくない気持ちで自らの顔に触れてみれば、水の中の鬼もやはり同じ仕草をしてその頬を泥水で汚す。
まごうことなく、それは炎邪自身の姿であった。
「化け物? 違うな……」
ぱしゃん。
奇麗に揃った爪先が小さな音を立てて汚泥に沈む。踏みつけられた鬼の面は情けなく歪んで消える。
「人を超えた圧倒的な力を得た我らは、神にも近い、尊き存在となったのだ」
白く長い指が深く皺の刻まれた眉間をつつく。尖った耳をなぞる。頬の泥を拭う。
冷たすぎず冷めた感触は記憶のそれよりずっと心地よくて、炎邪は浸るように目を閉じた。
「ふぅむ……多少、箔がついたようではあるな」
しかし、ただそれだけのことだ。
水邪の言葉に、変貌への衝撃と痛みがスウと引いていく。
思えば以前からさほど身嗜みに気を遣っていたわけでもなし、一目見たときは驚いたが、水邪が自分を厭わないのならば何の問題もないのだ。
手の感触が離れていく。それを名残惜しく感じながら、炎邪は目を開いた。
水邪を見上げ、少し前の彼の言葉を思い出しながら鋭い爪の生えた赤い手をゆっくりと握って開く。
「力……! おれたちが、望んだ力……!!」
劉雲飛から垣間見た強大な魔界の力を求め、二人は人であることを捨てた。
話を持ち掛けてきたのは水邪だったろうが、迷わず頷いたのは自分だ。自ら望んだといっても間違いではない。
「そうだ。見渡す限りの焦土、貴様が焼き払ったのだぞ」
炎邪はもう一度辺りを見渡す。
黒い大地に濡れた艶。
炎邪が意識を失った後、炎は燃やすものをなくして消えたわけではない。消されたのだ。目前の友人がその身に宿した、自分とは相反する力によって。
炎邪はすっくと立ち上がり、大きく声を上げて笑い出した。
「ヴァーッハッハッハッハ!」
曰く〝神にも近い〟力を持ってしても焼き尽くすことのできない唯一の存在。
恐ろしいはずではあるが、相手が水邪だからこそか、無性に愉快な気分だった。
昔からそうだった。雲飛の弟子たちの中で、炎邪は実力では首位にあると度々言われていた。しかし実際に手合わせをすれば、水邪に勝てたことは一度たりともないのだ。
悔しいと思ったこともあるが、じきに二人の位置関係はそれで良いのだと思えるようになった。極端に他人を見下す水邪が、弟子たちの中で唯一炎邪のことだけは認めていた、炎邪自身がそれを知っていたためである。
「ッハッハッハ!」
突然笑い出した炎邪に、水邪はさして疑問も抱かない。〝炎邪とはこういうものだ〟と理解している。
「あれほど暴れたというのに、元気なものだな」
溜め息混じりに呟く、口元からいつもの不敵な笑みは消えない。
大声で笑う割にしっかりと聞こえていたようで、炎邪はぴたりと静かになった。
「疲れてはいるぞ。それに、腹もへっている…気がする」
水邪は首を傾げながら、淡々と言った。
「今の我らに食糧など必要ないはずなのだが……我を喰らうか?」
「!?」
炎邪は目を剥いて水邪を見返す。
鬼のような姿になったからといって、人を喰いたいとは思わない。だが──
「冗談だ」
「い、いや違う! 多分、腹はへってない。が」
水邪を喰らう、と考えたらよろしくない気分になってしまった。
「ふむ」
ごもごもと口籠る、炎邪の顔色が茹で蛸のように変わる様を見られないことを、水邪は少しだけ物足りなく思う。
「求めているのだな」
「ぐ!」
「喉が渇けば水を求める。当然のことだ」
水邪は自らの頬から顎に掛けてを指で撫で、瞳を細めて笑った。
その指先が、もしも自分に触れたなら──炎邪の内に灯った火は、すぐさま全身に広がりカッカと身体を熱くする。もはや末端までも疼いていた。
「……冷ましてやろうか」
冷たい水を浴びるのは嫌いだが、水邪に熱を奪われることはひどく気に入っている。
炎邪は迷わず頷いた。
まだ見慣れない自分の肌色を、水邪は躊躇なく受け容れた。それだけで、痺れるように身体が震えた。
使い慣れない手指の鋭く伸びた爪が白い身体に赤い線を描く。驚き退けようとした手は捕らえられ、再び彼のもとへ導かれる。
余裕無く相手の顔を仰ぎ見ながら、この男には敵わないと、そう感じるのはもう何度目になるか知れない。
しかし互いに満足もしている。
炎邪は水邪を求めるし、水邪は求められたいのだ。
二人は一つの胚から生じた運命の双児ではない。
正反対なほどに異なる形質は、しかし巧みに絡み合っては強烈な悦びを生み出した。
今この世界には二人きりしか存在していないが、世界が下らないもので満たされていたころにも、互いの唯一性は変わらなかったはずだ。
◇
「我らは肉体の制約から解き放たれ、いわば精神体としてここに在るはずなのだが……貴様は相変わらず、物質的な快楽を求めるか」
聞こえていないことを承知の上で、水邪は盛大にいびきをかく炎邪に零した。
「世界の理を無知によって超越するとは……ふむ、なかなか面白い」
憂き世も常世も世界にふたり、恐るるに足るは互いのみ──。
<了>