若葉のキオク

付き合ってて高三の四月下旬くらい。牧藤がのんびりお喋りしてるだけ [ 4,127文字/2019-10-04 ]

 緑のにおいがする、と思った。春の陽に鮮やかに晒される青葉を視界に認めたのはそれからだ。風の冷たい日は空気が澄んでいるから、瑣末なことも潰えずに届くのかもしれない。
 桜並木も真新しい制服も浮ついたようだったから、始まりのイメージは少し経った今ごろのほうが却って強い。そうして当然のように彼のことを考えていたのだ。
「藤真!」
 道すがら入った書店の一角にまさしくその姿を見つけ、牧は驚愕を隠さず声を上げていた。
「お、牧だ」
 対照的に、藤真は想像通りといった様子で満足げに微笑する。
「ちょっと用事の帰りで、ちょうどこの近く通ってさ、本屋あったよなーって。発売日だし」
 言いながら、手にしたバスケットボール専門誌を牧に翳して見せる。
「ああ、俺もそれ」
 牧は同じ本を手に取り藤真を見て、目を瞬き、大真面目な顔をして更にじっと藤真を見つめた。
「藤真、これって運命なんじゃないか?」
 去年のちょうど今ごろにも、特に翔陽や藤真の家の近くではないこの本屋で、二人は出逢っているのだ。しかし藤真は軽く鼻で笑った。
「お前、ここの本屋って通り道なんじゃねーの」
「ああ、よく来る」
「なら、なんも運命じゃねーじゃん」
「そうかな……」
 場所は牧の行動圏内で、二人が自由にしている時間帯にそう大差はない。偶然ではあるが、ありえない確率でもないだろう。
「なんか意外とそういうもんじゃね? 世間は狭いっつーか」
 会計をする藤真のすぐ後ろに並び、同じ本を買って本屋を出た。こちらを顧みた大きな瞳が、試すように愉しげに細められる。
「さて、次はなんでしょう?」
「近くの公園で1on1をしたな」
 日ごろ思い出すようなことではなかったが、去年と同じ状況のせいで迷わず答えが出た。
「今、時間あるか?」
「もちろん」

「っはー! やばい、本気になっちった」
 藤真はベンチに掛け、背もたれに体を預けてまだ青い空を仰いだ。濡れた肌が冷めた空気に撫でられて気持ちいい。
 屈託のない、幼い印象の笑顔が眩しくて、牧は思わず目を細める。
(好きだ。藤真)
 シンプルで、しかし強烈な実感が胸を締め付ける。懐かしい感触だ。彼と出会うよりずっと昔、ごく幼い時分に感じたことのある、極めて純粋で独善的な好意に近いのかもしれなかった。
「……久しぶりだな、二人でバスケしたのは」
「だな。春休み結構会ってたのに意外と。久々で超楽しかった」
「今度またバスケデートするか?」
 牧は藤真の隣に腰を下ろし、その視界に入って目を合わせるように顔を覗き込む。藤真は釣られて首を傾げた。無意識のその動作が、牧の心臓に多大な衝撃を与えたことを当人が知る由はない。
「デートなのかな、それって」
 自分で〝意外〟と言ったことに対して、自身の言葉で納得してしまった。春休みはいかにもデートらしい過ごし方ばかり考えていたために、バスケをしに行こうとはならなかったのだ。
「あと、今度ってもそろそろ忙しいんじゃね?」
「まだそうでも……まあ、一年にとってはすでに地獄かもしれんな」
「出た、ブラック部活。ホネのあるやつはいそう?」
 牧は藤真を見据え、にやりと笑った。
「練習を見に来るといい。歓迎するぞ。皆にも紹介したい」
「なんの紹介だよ」
「そっちはどうなんだ?」
 三年になり、二人ともそれぞれの部の主将となっていたが、藤真の役割はそれだけではない。
「結局オレが続投になったから、一年めちゃくちゃ少なかったらって心配してたけど、去年の頭より多かったっていう……」
 藤真は渋い顔をしている。心中を想像しつつも、牧は穏やかに笑った。
「部員が多いなら良かったじゃないか。選手兼監督・藤真健司。他校からもすごい人気らしいな?」
 高校生にして監督、しかもこの容姿となれば話題性は充分すぎた。
「ん〜〜……ウチは体育館だって充分足りてるし、バスケしたい! てのがあるんならエンジョイ組が増えるのは全然いいんだけどさ。応援も力だし」
 バスケット自体にはほとんど興味がない、ミーハーな外野が増えることを憂えているのだろう。浮かない様子の横顔も綺麗だ。正面を見据えていた瞳が、不意にこちらを向いた。
「なに? 別にもうオレの顔なんて珍しくねーだろ」
「夜とか、部屋の中とかばっかりだった」
 私的に会うときはどうしてもそうなってしまうし、日ごろ顔を合わせるのも室内競技の場が主だから、明るい自然光の下で藤真をまじまじと眺める機会はそう多くはなかったはずだ。その割に、彼に対して陽の光のイメージがあるのが不思議だった。去年も1on1のあと、まさしくこのベンチに掛けて、同じことを思ったかもしれない。

 無遠慮に藤真を見つめる視界の中に、黄色に黒い網目模様のアゲハチョウが飛び込んできた。ステンドグラスのように繊細で力強い紋様を持つ蝶は、美しさと激しさを兼ね備え、藤真によく似合うと思ったのだが──言わなくてよかったかもしれない。
「げえ! でっかい蝶!」
 当の本人は嫌悪感を露わにして、蝶を手で追い払う動作をしている。
「蝶、嫌いなのか? 虫が駄目とか?」
「別に虫は好きでも嫌いでもないけど」
「なら嫌がらなくたっていいじゃないか」
「お前『ちびっ蚊ブーン』の歌知らねーのかよ」
「知らないな。なんだそりゃあ?」
「まじで!? もしかして『子犬のプルー』も知らねえの!?」
「知らないな」
「まじかよ! お前やっぱ歳……」
「テレビの歌か? 歌ってくれたらわかるかもしれない」

「なにニヤニヤしてんだよ」
「ニコニコしてるんだ。去年のこと思い出してた」
 そして案外と覚えていた旋律を鼻唄でなぞる。藤真は怪訝な顔をしたのち、思い出したかのように「ああ」と呻き、また怪訝な顔をした。どこか間違っていたのかもしれない。
 じき二人の間に、ひらひらと頼りなさげな動きで、モンシロチョウが飛んできた。
「うっそ。牧、虫を呼ぶ周波数出せるんじゃねーの」
「やっぱり運命なんじゃないか?」
「アゲハ蝶ならワンチャンあったな。でも牧には白い蝶のほうが似合うと思う」
「え? そ、そうか?」
 藤真の口からそんなことを言われるとは全く想像していなかったから、可笑しいくらいに戸惑いが表に出てしまう。しかし決して悪い気分ではない。
「それじゃあ、花なら?」
 当然のように問うてきた牧を、藤真は目を瞬いて見返す。蝶とくれば花、牧の摂理ではそうなのだろう。
「……チューリップかな」
「色は? 紫か?」
「だっさ!」
「ださいとかいうな、海南カラーだぞ」
「だからじゃん。色は黄色とかオレンジがいいかな……ふっ」
 言葉の最後には、呆れたように吹き出していた。
「どうした?」
「男になんの花が似合うとか、ねーよって自分で思った」
「そうか? いいんじゃないか?」
「お前の感性が伝染ってきたのかも」
「一年も付き合えば写るもんもあるだろう。夫婦が似てくるのってそういうことかもしれないな!」
「オイッ!」
 幸せそうに目を細めた牧の二の腕を、藤真は咄嗟にツッコミの要領で叩いていた。
「一年も付き合ってない。半年くらいだ」
「そうだったか? 去年の今ごろもこうやってデートしてたじゃないか。じゃあさっきから俺はなにに運命を感じてるっていうんだ?」
 藤真は目を据わらせて額を押さえた。
「去年のはただ偶然会っただけ、別にデートじゃなかった。頼りねー記憶だな」
 確かに、思い返せば初めて体を重ねたのは藤真が監督になったよりあとだから、去年の秋だ。
「……そうか。まあ、お前のことは元々好きだったからな」
 表情一つ変えずにさらりと言い放った牧に、藤真は長い息を吐いて脚を組み、自らの膝に頬杖をついて牧とは逆のほうへ顔を向けた。面映さはごく小さな苛立ちに似ている。
「またそういうこと恥ずかしげもなく言う」
「好きなものを好きって言ってなにが恥ずかしいんだ。一目惚れだったかもしれないな」
「えー、それはなんか萎える」
「なんでだ?」
「一目惚れとか完全見た目じゃん」
 小さく唇を尖らす、愛らしい仕草に心をぎゅっと摘まれて、牧の持論は一層揺るがなくなる。
「見た目は大事だろう。人間は情報の何パーセントを視覚から得てるんだぞ」
「何パーセントなんだよ、そこ雑にしたらダメだろ」
「それに野生の動物がつがいになるときだって、あれは一目惚れなんじゃないか?」
「お前は野生の動物なのかよ」
「じゃあ人間らしくいく。見た目ってのは、美人かどうかって意味じゃない。顔には表情がある。性格も考えも見た目に滲み出てる。こっちに向けてる感情だって見た目からある程度わかる」
 意図して表情を作るなど、自分より藤真のほうがよほどしていることだと思う。さすがに全てが無自覚なわけではないだろう。
「まあ、ねえ。それは否定できないけど」
「あとはなんだろうな。雰囲気とか、フェロモンだな」
「お前やっぱ野生動物なんじゃね?」
「お前が好いててくれるなら動物でもなんでもいい」
「っは……!」
 疑問も不安もないような口調から、穏やかな自信を感じて、かなわないなと思った。
「そうだね」
 牧の穏やかで優しい目がこちらを見ている。表情に感情が滲み出て、その底に彼の想いが見えた気がした。
「……好きだよ、牧」
 牧の瞳がスゥと細くなり、体がこちらに傾いてくる。

 ──パァンッ!

 乾いた派手な音がして、牧は鋭い衝撃の走った頬を反射的に手で押さえていた。藤真から平手打ちを食らったのだ。さほど痛くはなかったが、単純に驚いて目を丸くする。
「まだなにもしてないじゃないか」
「まだって、やっぱりする気満々じゃねーか! さすがにこの場所ではナイぞ」
 だって、さっきのは完全にキスする流れだったじゃないか、とは怒られそうなので言わない。
「場所が違ったら、していいのか?」
 藤真は朗らかに、あくまで爽やかに笑むと、跳ねるように立ち上がった。そしてまだ座ったままの牧を顧みて猫のように目を細める。
「それじゃ、お前ん家に行くか。……この展開は去年の春にはなかっただろ?」
 言うと牧の返答を待たず、迷う素振りもなく歩き出した。
「ああ……確かに」
 家まで行けばキスだけでは済まないと思うのだが、いいのだろうか。
 到底白日には晒せないものを抱きながら、藤真を追ってまだ明るい春空の下を急ぐ。

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