その表情カオの理由を教えて

1.

「オレの名前は藤真健司。翔陽高校の二年生で、なんとバスケ部の選手兼監督! ポイントガードのポジションで、コートの外からも中からもゲームを組み立てるぜ! ……どうよ?」
 藤真は爽やかに述べ、かたわらの黒縁眼鏡を見上げた。白く反射する眼鏡の奥で、花形は微かに困惑した顔を作る。
「……間違ってはないが、なんでそんなに芝居掛かってるんだ」
「しょうがねえだろ、新しい役を与えられたのと大差ないんだ」
 藤真はさもうまいことを言ったと満足げに頷く。その表情は呑気なもので、彼の身に重大なことが起こっているようには到底見えない。花形は眉を顰め、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
 記憶喪失。
 そんなフィクションのようなことが、こんなに身近で、まさか藤真の身に起こってしまうとは。
 原因は年末の交通事故だ。事故現場は住宅地の中の公園の近く、相手は高齢者の運転する車だったという。花形は一緒にいたわけではなく、藤真が何も覚えていないので詳しいことはわからないが、交通量は多くない場所で、不運としか言いようのない事故だったと聞いている。公園で遊んでいた子供たちが騒いだため、近所の人が警察と救急車を呼んでくれたそうだ。
 検査のひとまずの結果、命に別状はなく、運動に支障が出るような怪我もなかった。ただ、頭を強く打ったようで──自身とその周辺についての記憶を失っていた。
 周囲の動揺をよそに、本人は飄々として『オレって夏にも頭ケガしてたんだろ? 盆と正月ってそんな報告が続いたから、お祓い行ったらってばあちゃんに言われた。まじで行こうかな!?』などと笑っていた。当然〝ばあちゃん〟のことも覚えてはいなかったが、事故後に会った親類のことはひと通り覚えなおしたらしい。
「お、あれだな、翔陽高校。年明け一発目だってのに結構賑やかだな」
 藤真は校名が読める程度まで近づいた校門を眺め、グラウンドから高らかに聞こえる野球部の掛け声に対し、さも珍しそうに言った。今の彼の目には全てが新鮮に映るようで、いたって楽しげなのだが、花形はその姿にどうしても狼狽えてしまう。
 不思議なものだ。ものの名前や、食事や風呂の入りかた、日々の生活のルールは覚えているというし、言葉遣いだって以前と変わらないと思う。しかし、自らのこと、家族のこと、友人関係や学校、そしてバスケットボールのことまでも忘れてしまうとは。
 記憶は脳の多くの領域に保存されていると聞く。その一部が損傷しているか、あるいはそこに辿り着けなくなっている状態なのかと想像はできるものの、最初に電話を受けたときには信じられるものではなかった。
 治療法はわかっておらず、今日寝て明日起きれば記憶が戻っているかもしれないし、一生戻らないかもしれない。現時点ではそういうものとしかいえない──と実際に言われたのは藤真で、花形は彼から話を聞いただけだ。藤真は特に困った様子もなく、カウンセリングのたぐいは『疲れたからとりあえず拒否ってきた』と言っていた。
 小走りに校門から出てきたジャージ姿の生徒が、手を上げて藤真に声を掛ける。
「おー藤真じゃん! 事故大丈夫だったのかよ!?」
「おう、ちっとびびったけど余裕!」
 藤真は愛想よく笑って親指を立てた。どうやら部活動中らしい生徒は、応えるように親指を立てると、それ以上の会話はせず校外へ走って行ってしまった。
 後ろ姿を見送り、藤真は小声で花形に問う。
「今の誰?」
「同じクラスの鈴木だ」
「オレが事故遭ったのって有名なのか?」
「そうおおっぴらにはしてないはずだが、どっかから伝わったんだろう。記憶がないことは言ってないはずだ」
 事故に遭ったことそのものは隠す必要はないが、記憶喪失についてはとりあえず内々にしておく方向で藤真や家族と話を合わせてある。先ほどのクラスメイトに対する藤真の態度もそのためだ。
 バスケ部内についても、練習の場所が分かれているレベルの部員には伝えずに──数が多すぎるため、噂として外部に漏れる可能性があるためだ──やはり特定のメンバーにだけ伝える予定でいる。藤真の仕事については極力花形とその近辺とで補っていくつもりだ。
 希望的観測ではあるが、すぐに回復する可能性だって充分にあるのだから、無用な騒ぎにはしたくない。方向性がネガティブだろうがポジティブだろうが、注目を浴びて外野から干渉されすぎることは多大なストレスを生む。花形は藤真のそばにいて、それをよくわかっていた。
「ってかさ、このまま三学期始まったら、クラスのやつ全員の名前覚えなおすのヤバくね? めんどくせ〜!」
 今日は一月四日で、あと四日後には新学期が始まる。花形は表情に出さないまでも憂いを深くするが、当の本人は『なるようになる』としか思っていないようだ。記憶がない以外は事故の前と変わらないと思っていたのだが、藤真は以前より非常に楽観的になっている気がする。彼は愛らしい顔貌に淡々とした表情を乗せて、裏では意外なほど物事を考えている男だった。夏以降、監督兼任となってからは特に顕著だった。
(自分の立場を忘れていれば、考えかたやベクトルが変わるのも当然、か……?)
 ことが決まったとき、藤真は『大丈夫だ』と、やり甲斐があっていいと笑っていた。しかし怪我明けの高校生が部の監督を兼任するなど、相当な負担だったに違いない。
(当たり前だ)
 曇る花形の内心とは裏腹に、藤真は晴れやかな笑顔を浮かべて知らないクラスメイトに手を振っていた。

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