ホワイトデーの白日

「バレンタインの幻惑」の続きのホワイトデーの話 [ 5,915文字/2022-03-14 ]

「牧さん! よかったみっけた!」
 明るい日差しとは裏腹に、冬のままの空気の昼休み。聞き慣れた声の気配に振り返ると、制服姿の後輩がこちらに駆けて来る。
「おお清田、おはよう」
「おはようございます、もう昼ですけど。で、はいこれ!」
 手提げの紙袋を掲げて押し付けられながら、牧は軽いデジャヴを感じていた。
「なんだ?」
「チョコっすよ、昨日バレンタインだったじゃないですか」
「お前から?」
「違いますって! 牧さん近寄りにくいとか、どこにいるかわかんなくて捕まらないとかって、女の子たちから俺が預かってたんです」
「そうだったのか。手間をかけさせたな」
「たいしたことねえっす。それじゃ失礼します!」
「ああ。ありがとう」
 思い返せば、去年も神からこうしてチョコを託されていた。さほど興味のある行事ではなかったため、すっかり忘れていた。
(藤真に言ったこと、嘘になっちまったが……まあいいか)
 昨日藤真に出会った時点でこのチョコを受け取っていたら、藤真からチョコをもらうことはできなかっただろう。もらいすぎて持て余したチョコを、いわば処理するために渡されただけだ。それはわかっているつもりだが、昨日のことは特別な出来事として強く印象に残っている。
 偶然に、ひさびさに藤真と出会えたこと。ライバルとは言えなくなってしまった彼とまっすぐ向き合ったときの、不思議と新鮮な感覚。
 バレンタインにチョコをもらったのだから、ホワイトデーにはお返しを贈るものだ。基本的に礼儀正しい男は、なんの疑問も抱かずにそう考え、そして卒業後にもう一度面会する機会を得て浮かれていた。なぜ嬉しいのかとまでは考えていない。
 今日清田から渡されたぶんについては、贈り主は直接の知人ではないはずだ。応援の気持ちとしてありがたく受け取っておくことにする。

 三月十四日、ホワイトデー当日。牧は百貨店の紙袋を携えて藤真の自宅へ向かっていた。食べものの好き嫌いは特にないと人づてに聞いたので、百貨店で焼菓子を買った。無難すぎるかとは思ったが牧も口にしたことがあり美味いとわかっていたし、家族でつまんでもらってもいいだろうと考えてのことだ。
 髪は久しぶりにオールバックにした。下ろしているほうが評判がいいとも聞くが、やはりこのほうが気合が入ると感じる。それにもう高校生ではないのだから、高校生らしく見えなくても問題ないだろう。
 これまで藤真の自宅に行ったことはないが、選手兼監督という立場だった彼の連絡先を手に入れるのは難しいことではなかった。似たような風景の住宅地が続くが、住所さえわかれば目的地に辿り着ける、後輩から言わせれば〝たぐい稀な散歩スキル〟が備わっているらしいので、あまり心配はしていない。
(次のT字路を曲がったところだな)
 そう認識したまさにその角の民家の塀から、見知った長身の頭部が飛び出して見えた。
(花形……!!)
 思わず電柱の影に身を隠してしまった。花形の家の住所は知らないが、藤真と非常に親しかったようだし、近所に住んでいるのかもしれない。
 盗み見た花形の視線は、こちらにはいっさい向いていなかった。おそらく、道を曲がって来ることはないだろう。そう確信しつつもう一度様子を伺った牧は、こちらに目もくれずに歩いて行ったふたりの姿にうちひしがれ、思わずその場に崩れ落ちた。
(花形……! やはり倒さねばならなかったか……!!)
 花形の隣には女装した藤真がいた。花形と一緒にいると、藤真は実際より小柄で華奢に見えるのだったが、今日は服装のせいか体型まで女性的な印象を与えた。
 物騒な言葉を頭に浮かべながら、牧は奮起とは程遠く脱力していた。彼らが親しいことは知っている。一緒に遊びに行くだけならわかる。しかし女装だ、いったいどういうことなのだろう。
(藤真はホワイトデーのお返しとして花形のために女装を……? いや逆か? んん?)
 道の端に片膝をつき、うなだれながら混乱していると、驚いたような声がした。
「牧!? どうしたんだよ、具合悪いのか!?」
「ん? あぁ、藤真? どうなってんだ……?」
 聞き覚えのある声に、見覚えのある顔。いつものボーイッシュな──男の服装の藤真だ。
「こっちが聞きたいんだけど。大丈夫なのかよ」
 道行く人の視線も感じ、牧は立ち上がって軽く膝を払う。
「ああ、体調が悪いとかじゃないんだが……お前さっき、花形と一緒に出掛けて行かなかったか?」
「それたぶん姉だけど。髪はこんな短かったのかよ? 服は?」
 藤真は当然のことのように言いながら自らの髪を指す。
「髪は肩くらいだったな。女性の服装をしてた」
「んじゃオレじゃねえだろうがっ!」
「髪の色が一緒だったし、顔が似てたんだ。そっくりだった。それにお前、文化祭でメイド喫茶をやってたって聞いたぞ」
 ものすごく興味があったのだが、あいにく練習試合が入っていて行くことはできなかった。
「んなもん学校行事だし、部の宣伝のために仕方なくやっただけだ。普段からするわけねえだろ」
 自分が日ごろから女装をする男だと海南の中で思われていたのならたいへん遺憾だが、悲しい気分になりたくはないので、単に牧が天然ボケなのだと思うことにする。
「そうだったのか。びっくりした」
「びっくりして腰抜かしてたって?」
「まあ、そんなとこだな。……今日はホワイトデーのお返しを渡しに来たんだ。入れ違いでお前が出掛けて行ったら、そりゃショックも受けるだろう」
「しかも女装してな。……ありがと。別によかったのに」
 藤真は牧から百貨店の袋を受け取る。中を見る前からすでに高そうだと思ってしまった。
「なんかのついでで寄ったとか?」
「いや、これを渡しに」
「それだけのために?」
「送るのもまわりくどいし、正直暇だからな」
「はは! 四月まであと半月あんのにもう暇なのかよ。……じ、じゃあ、親いないから、家上がる? それともどっか行く?」
「なんも考えてなかったから、少し上がらせてもらうかな」
 バレンタインデーから時間はひと月あったが、『お返しを渡さなければ!』と思うばかりで、その後については特に考えていなかった。そもそも藤真が家にいるかどうかも確認していない。牧は勝敗のある競技以外では感覚的に行動する性分で、それが周囲から〝天然〟と認識される所以でもあった。
「お邪魔します」
「ふっつーの家だけどな。牧の家ってでかいんだろ?」
「実家はまあ、そうなのかもしれないな」
「そこ適当に座っといて。コーヒーでいい?」
「ああ。……ありがとう」
 これは嬉しい誤算だ。藤真がコーヒーを入れてくれるというのだ、喫茶店などよりよほど特別感がある。ダイニングテーブルの席について待っていると、ほどなくしてホットコーヒーが出された。藤真は牧の向かいの席に座る。
「ミルクと砂糖は適当に使ってくれ。……これお菓子だよな? 開けていい?」
「ああ」
 藤真は牧からのお返しの箱をあらためてまじまじと見る。
(こんなちゃんとしてなくていいのに)
 牧の実家は裕福だと聞いたことがあるので、感覚が違う部分もあるのかもしれない。ホワイトデーのお返しの品には意味があって、キャンディは「あなたが好きです」マシュマロは「あなたが嫌いです」、クッキーなら「友達のままで」となるのは有名な話だろう。
(クッキーか? これ……まあ、そうだよなって思うけど)
 箱の様子からキャンディとは思えないまま開けてみると、個包装のフィナンシェやマドレーヌなどの詰め合わせだった。
「これは……」
「焼き菓子だぞ」
(焼き菓子って、クッキーの仲間ってことかな。でもこれはどっちかというとケーキだよな)
「どうした? 嫌いだったか?」
 不思議そうな牧の顔を見返して、思わず小さな笑いが漏れた。変に意識していた自分に対して呆れたのだと思う。おそらく牧はシンプルにお返しのお菓子をくれただけで、ホワイトデー特有の意味など気にしてはいないだろう。
「ううん。いろいろあって目移りするな。お前も食えよ」
「ああ。じゃあいただくかな」
 藤真はフィナンシェを一つ取り、袋を破いてひとくち齧る。
「うま! なにこれめちゃくちゃうめえ!」
「それはフィナンシェだな」
「んなことはわかってるけど……」
 フィナンシェを初めて食べたわけではないのだが、記憶にあるものより遥かに美味く、そして見た目がシンプルなぶん衝撃的で、「高い菓子って高いだけのことはあるんだな!」と言いたくなったが控えた。
「ああ。ひさびさに食ったがうまいな。コーヒーともよく合う」
 想定外の美味さに一時は浮かれたものの、牧の穏やかな笑みを認めると途端に情けなくなってきた。
「お前は天然だからなんとも思わないんだろうけど、男同士でバレンタインとかホワイトデーとかやってんの、本当はおかしいんだぜ」
「お菓子だからおかしい、か?」
「……」
「……すまん。俺は別におかしいとも思わねえが」
 藤真の言葉は唐突で不自然なものに感じられた。そして彼の表情だ。プライベートで接したことは多くはなかったが、ずっと見て来たのだ、原因こそわからないが、迷いやためらいは簡単に見て取れる。男女でするべきイベントだ、といわれればそうなのかもしれないが──
「別に、いいんじゃねえか? 単に好きな人に贈り物する日ってことで」
 言ってしまってから、牧は自分の言葉にハッとして目を見開いた。寝覚めの良い朝のような、爽やかな気分だ。自覚はないが、口もとには笑みが浮かんでいる。
「!!」
「そうだな、俺はお前が好きだったんだ」
 もっと一緒にバスケをしたかったし、仲良くなりたかった。海南に入ればよかったのにと言って怒られたこともある。しかし、ごく単純に〝好きだ〟と認識したことはなかった。不思議なことだが、彼を評価する理由に困らなかったぶん、気持ちに向き合う機会がなかったのだと思う。
「だから、それがっ!」
 藤真は苛立った様子で声を荒げる。牧は藤真の強く握り締めて白くなった指を見て、ふたたび視線を顔に戻す。
「男と女じゃないからか?」
「……!」
 少し俯けた顔から、大きな瞳がこちらを見上げ、おそらく睨みつけているのだが、本人が思っているほど恐くはない。むしろ愛らしいくらいだ。チョコの紙袋を差し出してきたときも、こんな顔をしていたかもしれない。
 つまり藤真の言うのは男女の間にあるべき好意で、出どころがどうであれ、そういうつもりでバレンタインの日にチョコをくれたのだ。いっぽう牧はそこまで考えたわけではなかった。藤真にチョコをもらって嬉しいと感じた。ホワイトデーにまた会えると思って浮かれた。そこには感情しかなかった。藤真のようにおかしいなどと考えたことはなかった。
「藤真、お前は考えすぎだ。たぶん、いつも。……どっちかが嫌がってるならしょうがねえが、俺たちはそうじゃないだろう。チョコもらって嬉しかったし、お返しを口実にまた会えるって思ったから、お前がいるかどうかも知らねえのに今日ここに来た。そしてお前は俺を家に上げた」
「牧は、なんも考えてなさすぎ」
 藤真は少しだけ怒っているような、困っているような──照れているように見えてしまうのは、自惚れなのだろうか。牧は自らの優位を確信する。
「好きだって感じるのに、考えることなんてあるか?」
「だって……」
 牧はずるい。話し合っているようで、力押しの暴力と変わらないと思う。
 彼が自分を好きだと実際に口にしたことに、実はあまり驚きはなかった。バレンタインに会えたことも、今日の再会も言葉も嬉しいものだった。しかし今は、拒絶されたほうがよかったと感じている。
「だって、男同士なんて、普通じゃない」
 自分の言葉に、その同調圧力的な嫌悪感に、自ら顔を顰めていた。
「そうだな。俺もお前を普通だとは思わん。そんなつまらんもんじゃない、お前は特別だ。だから俺はお前を見つけられた」
「なんだよそれ、意味わかんねえ」
「お前は普通になりたいのか?」
「!」
 『普通にしなさい』と言われたことがある。小学生のときだ。特段悪いことをした記憶はないから、原因は忘れてしまったが、生まれつきの茶色の髪も、左利きも、呑み込みが早いことさえ、かの教諭にとっては普通ではなかったようだ。他の場面でも、目立つだのなにかと特別視されることがあって、その言葉が子供の時分からずっと染み付いていた。
 高校に入ってからは、苦労もあったが昔感じた息苦しさはなかった。やればやっただけ認められたし協力も得られた。そのぶん、満足な結果を出せなかったのは悔しかったが、周囲が懸念したほど自らの立場を厭ってはいなかった。そう考えると、牧との間柄にだけ〝普通〟を求めるのはなぜなのか、という気がしてくる。
「藤真。俺たちは普通じゃなくて特別だ。それでいいじゃねえか」
「お前は……」
 将来のこととか考えないんだな。いいって思えるのなんて、たぶん今だけだよ。喉から出かかった言葉を呑み込んでしまうほど、余裕を含んだ大人びた笑みは、絶望的に魅力的だった。
「……オレのこと、なんも知らないくせに」
「昔、俺のこの髪型変かなって聞いたら、『気に入ってるならいいんじゃね』って言ってくれたよな。お前はそういうやつなんだ」
「いや、全然わかんねーんだけど……」
「まあ、確かにあんまり知らないのは事実だな。だから……教えてほしい」
 大きな褐色の手が、白い拳を包み込む。恵まれた体格をしているとは幾度も思ったが、こんなに手の大きさと彼の肌色を実感したのははじめてだった。体温が上昇する。顔が熱い。
「……冬でも黒いんだな」
「夏よりは白くなってると思うが、地黒だから全身黒いぞ。見るか?」
「はっ!? おまっなに言ってんだよ展開早すぎるだろっ! いくら人いないからって!!」
 顔を真っ赤にして慌てふためく藤真の反応を、牧は不思議に思って目を瞬いたが、すぐに意図を理解して満面の笑みを浮かべる。
「そういう意味じゃなかったんだが、お前がそのつもりなら望むところだ」
「ッ!? 人を試すようなことを言うんじゃねえ! むかつくおっさんだな!」
 試したつもりじゃなかったんだが、とは言わずに席を立ち、藤真の椅子の横に移動して肩に手を置く。
「でもお前は、おっさんみたいな俺のこと好きだろう?」
「はっ……!!」
 藤真は赤い顔で眉を吊り上げ、勢いよく立ち上がって牧の横をすり抜けていこうとする。牧は藤真の腕を思い切り掴んだ。
「おい、どこ行くんだ」
「オレの部屋。……お前も来たいなら」
「行く!」
 言い切らないうちの即答がおかしくて笑ってしまいながら、藤真は牧の腕を引くようにして自室へ向かった。
 
 
 

<了>

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