3.
「はぁっ、あ……♡」
牧の下に組み敷かれ精を注がれながら、悪魔は満足げに目を細め、精悍な色黒の頬を手袋越しの指先で撫でた。
「お前、見上げた精気だな」
「性器?」
でかいだのタフだのと前にも言われたことがあったが、付き合いはじめでもなし、いまさらで少し奇妙だ。
「なあお前、オレの眷属にならねえか?」
「けんぞく?」
最中はもちろん冷静ではなかった。しかし波が落ち着いた今は、藤真の言動を不思議に感じる。日ごろの藤真は牧の寸劇に適当に付き合う程度で、そう混み入ったストーリーは作らない。
「オレのモノになるってこと」
「!! 結婚ってことか!?」
「さあ? 人間の結婚についてよく知らねえからなあ」
牧にとってそれは願ってもないことで、落ち着きかけた頭が再び沸騰しそうになったが、いやまて、と理性が警鐘を鳴らす。藤真はエイプリルフールの告白だとか、真面目な話を冗談に混ぜ込むことは嫌いだったはずだ。もし本当に結婚に近い状態を望んでいるなら、これほど嬉しいことはないのだが、『将来どうなるなんて、仕事も決めてない状態で言えねえだろ』とすげなく返された記憶があるだけだ。
「……眷属になると、俺はどうなるんだ?」
「オレのモノになる。ずっと一緒にいられる」
迷わず言って意味ありげに笑う、口もとに覗く牙を、いつもよりシャープな印象の目尻を凝視する。よくできたコスプレだとばかり思っていたものに、急激な違和感が生まれた。体の下から伸びた細い尻尾の先が、ゆっくりとゆらめいている。一体どうなっているのだろう、静かに混乱しながら、ひとまず頭の上に浮かんだ言葉を発した。
「悪魔との契約にしちゃあ……まるで、いいことしかないみたいだな」
「悪魔が悪いモンだって言いだしたのは、残された側の人間だからな。契約した本人は現実のしがらみもなんも捨ててずっと快楽の中なんだから、幸せだと思うぜ?」
言葉を考えて選ぶ様子もなく、あまりに当然のように言ってのける、金色の瞳を見返す。これは本当に藤真なのだろうか。今まで疑いもしなかったことに、背筋が寒くなる。
「お前、一体……? 藤真……?」
頬に触れ、尖った耳に触れる。本来の耳の上に作りものを付けているにしては小ぶりに思え、人の肌のように柔らかく、体温も感じる。
「なぁ、どうすんだよ? オレと一緒にいたくねえのか……?」
甘い囁きが、得体の知れない恐怖とともに強烈な渇望を引き摺り出す。視線に縛られたかのように、目が離せない。
──ガタッ!
「な、なんだお前っ!?」
物音と聞き覚えのある声に、永劫にも感じられた甘美な呪縛が途切れる。
牧は声の方を──部屋の入り口を見やって驚愕する。そこには同じく驚愕の表情をした普段着のままの藤真と、ヴァンパイアのコスプレをした自分がいた。
藤真──普段着の藤真は目を剥き口をあぐあぐさせながら、かたわらのヴァンパイアを睨みつける。
「お、おま、お前はっ!?!?」
睨まれたほうは苦々しい顔をしつつも、いたって落ち着いて藤真を見返した。
「……まあ、お菓子でも食べながら話そうか」
◇
「話し合っ……は!? なに、誰!?」
ケーキの皿とフォークを用意しながら、藤真はぶつぶつ呟いては頭を横に振る、ということを繰り返している。
「だ、大丈夫か? 藤真」
心配そうに覗き込んだ普段着姿の牧を、藤真はキッと睨む。妙に平然としているのが気に入らないが、飲み込めない事態への八つ当たりもあった。
「ドッペルゲンガー見たら死ぬっていうの、わかる気がする」
「おい、やめてくれ」
「ひとりきりだったら気が狂ったんだって絶望してたかも」
だがしかし、牧も藤真も同じものを見ているということはこれは現実なのだ。
「……なんでケーキ四つ買ったんだよ」
しかもちょうど四つだ。何も信じられない気分になっている藤真には、牧はあらかじめこのことを知っていたのではないかと思えた。
「二つだと寂しいかと思って、なんとなく」
「だよな」
そう言われると、それ以上疑う気もしなかった。牧はそういうところのある男だ。日ごろ二人でしか使わないダイニングテーブルにだって、なんとなくで椅子が四つ置いてあるくらいだ。
ダイニングテーブルに横並びに座って待っている、悪魔の藤真とヴァンパイアの牧の前にケーキの皿とフォークを置いてやる。ふたりは目を輝かせる。
「ケーキだ!!!」
「おお……!」
それに向かい合う二つの席にもケーキの皿を置いて、藤真はむっつりとした表情で着席した。自分の偽物(?)の顔は見ていたくないので、悪魔の藤真の向かいに牧、ヴァンパイアの牧の向かいに藤真という配置だ。
「うまーっ!」
「ああ、うまいな」
勝手に食べ始めている二人を一瞥し、藤真は大きな舌打ちをして自らのケーキにフォークを突き立てた。苛立つ藤真を横目で見つつ、牧にはそう悪いようには思えなかった。うまそうにケーキを食べているふたりの姿はまるで自分と藤真だ。微笑ましくさえある。
「……それで、君たちはいったい何者なんだ?」
「悪魔とヴァンパイアで〜す」
軽い調子で言ってケタケタ笑う悪魔の藤真を、人間の藤真はフォークを握りしめて睨みつける。牧が話を進めるしかなさそうだ。
「どっから、なにしに来たんだ」
「なにしに来たじゃねえだろ、ハロウィンをやってオレらを呼び出してるのは人間だ」
「まあ、それは確かに……」
日本では仮装をしてお菓子を配ったり貰ったりする日になってしまっているが、本来は先祖の霊を迎えるための祭りであることは牧も藤真も知っている。
「普段は魔界にいる。ハロウィンのときだけ人間界に出てくる」
「人間のお菓子はうまいからな!」
小さな牙と角を持つ、悪魔の藤真は牧の目にはやはりとてもキュートに見える。牧は口もとを緩める。
「そうかそうか、おみやげにお菓子持ってくといい。藤真、なんか買い置きとかないのか?」
藤真は牧を睨むとさも不機嫌そうに舌打ちをして、キッチンに買い置きの菓子を探しに行く。
「はぁ……」
キッチンカウンターの扉を開け、深くため息をつく。悪魔だの魔界だの、普通は信じられることではないが、あのふたりは自分たちに似すぎている。確かに少し雰囲気が違うと感じた瞬間もあったが、抱き合っても行為にいたっても、仮装をした牧だとしか思えなかったのだ。生き写しの人間が、しかもふたりセットで現れるなど、人外の──霊的な現象だと考えるのが一番納得できるような気がした。
安売りのときに買ったきり置いていた菓子の箱と袋を持って、三人の歓談するテーブルへ戻る。
「んじゃあ、これやるからもう一生出てくんなよ」
「やべっチョコパイじゃん! これ酔うけど超うまいんだぜ!」
「箱ごともらっていいのか!?」
「……いいけど」
信じられないことがいっぺんに起こって無性に腹が立っていたが、悪魔とヴァンパイアの喜びようと見ると、怒る気も失せてくる。牧のようににこやかに穏やかに接する気はしない。ひたすら疲労感に襲われている。
「和菓子は食える?」
もう一つの袋は小さな和菓子の詰め合わせだ。安くなってただの言って牧が買ってきたものだ。菓子類はふたり思い思いに買ってくるため、すぐには食べられず置いておかれることがあった。
「おっすげえレアじゃん! 用意いいな人間!」
「ありがたいことだな」
「あとは、ハロウィンの菓子の残りもなんか袋に入れて持って帰るといい」
始終なごやかな雰囲気の牧に、藤真は深くため息をつく。見た目が同じなら悪魔でもどうでもいいのかと言いたくなったが、自分がヴァンパイアの牧としたことを思うと何も言えない。
「そういや、なんでお前らはオレたちにそっくりなんだよ。もしかして、変身してるとか」
「知らねえのかよ、世の中には同じ顔のやつが三人いるって」
「ええー……」
確かに聞いたことはあるが、他人のそら似程度の話なのではないだろうか。
「それにオレは十万十九歳だ。お前らが勝手に似て生まれてきたんだろ」
「あっ、そ……」
自分と同じ顔でふざけた答えが帰ってくると、それ以上追求する気も失せて、投げやりに相槌を打った。
◇
「忘れものはないか?」
「ない!」
悪魔たちに土産のお菓子を持たせ、親切に忘れものの確認までする牧に、藤真は眉間に縦皺を寄せる。悪魔はそれを見て意地悪く笑う。
「人間はすぐ見た目老けるんだから、そういうのやめたほうがいいぜ」
「うるせえ!」
悪魔は続いて牧を見据える。
「……で、お前はオレと一緒に来なくていいのかよ?」
「な、なに勝手なことっ」
「ああ。俺には藤真がいるからな」
牧は迷わず答えて藤真の肩を抱く。一時は言葉に惑わされたものの、目前の悪魔が藤真とは別人だと判明した今、この生活を捨てて彼についていく理由はない。
「ふーん。まあいっか、それじゃまた来年」
「一生来んなつっただろ!!」
半ば追い出すように部屋のドアを閉め、間髪入れずに鍵をかける。ドア越しにヴァンパイアが「ふたり仲良くな!」と言ったのが聞こえた。
(あいつ、じゃあオレに手出してんじゃねえよ!)
「……俺たちって、魔界でも付き合ってるんだな」
牧が満足げにうんうん頷くのを、藤真はじっとりとした目で睨みつける。
「本当にそう思うのかよ? あの悪魔、思っきし浮気してたじゃねえか。絶対牧だけじゃねえだろ」
決定的な瞬間を目撃されてしまっている牧は、あまりないくらいに眉を八の字にして背中に多量の汗を掻く。
「そこはまあ、悪魔だから仕方ないんじゃないか? ……しかしな藤真、俺はあれが藤真のコスプレだと信じて疑わなかったから一発やっちまったのであって、それは浮気とは言わないと思うんだ」
「一発?」
「い、いや二発だったかな? だがな藤真、俺はまだまだできるぞ! 今日はお前が満足するまで寝ないつもりだ」
大きな両手で肩を掴み、大真面目に見つめてくる牧を、藤真は軽くいなすようにふいと顔を背ける。
「……いやいいから。普通に寝てくれ」
「お、怒ってるのか? だってな、あの悪魔、ほぼ藤真だったぞ?」
「わかってるってば。だから、いいって言ってんじゃん」
「本当か? そんなこと言って、実は怒ってるんじゃ」
悪魔たちがいたときは不機嫌を隠そうとしなかったというのに、妙にあっさりとした態度が牧には逆に恐怖に思えた。
「別に、ただ疲れてるからやりたくないだけだけど。……そうだな、じゃあ、なんもしないけど一緒に寝るか。また変なもんが沸いて出ても困るし」
「!! そ、そうだな。そういうのもいいよな」
藤真は内心逃げるように、浴室の前の脱衣所に入ってピシャリと扉を閉めた。服を脱ぎ、シャワーを浴びながら考える。牧の言うことがわからないわけではない。自分だとて、あれが牧だと思っていたからこそ行為にいたったのだ、浮気だとは思わない。
しかし、心は平穏無事とは言いがたい。なぜなのか。
(寝る前に、実はオレもあいつとヤッちゃったんだ、って一応言っとくか──)
罪悪感からの懺悔というよりは、牧にも自分と同じモヤモヤを味わってほしいという思いからだ。
(悪魔ほどじゃねえけど、オレってやっぱ結構性格悪いのかも)
◇
翌年のハロウィンの日。牧が帰宅すると玄関のドアにニンニクがぶら下がっていて、中に入ると部屋の隅に塩が盛られていた。リビングでテレビを見ていた藤真に、怪訝な顔で問う。
「藤真、なんだあのニンニクと塩」
「魔除け」
「あれじゃあ、死者が帰って来られなくてハロウィンにならないんじゃねえか?」
「日本にはお盆があるんだから、ハロウィンはただのコスプレ祭りでいいんだ。それとも、オレより例の悪魔のほうがよかったって?」
藤真は眉を寄せ、牧に疑惑の目を向ける。
「そんなこと言ってないだろう」
ただ、もう間違いは起こさないにしても、またあのふたりに会えたら楽しいのではないかと牧は思っていた。ふたりの関係についても非常に興味がある。と、インターホンが鳴った。
──ピンポーン
「おっ、誰か来たぞ」
「げっ! まじかよ」
妙に嬉々として、相手を確認しようともせず出迎えに行く牧に、藤真も続く。
牧がドアを開けると、玄関がまばゆい光に包まれた。
「トリック・オア・トリート!」
「は……」
「天使!! 同じ顔の三人目か!!」
ふたりの目の前に現れたのは、白いひらひらした衣装を纏い、背中に翼と後光を背負った、ふたりと瓜二つの天使二人組だった。
「帰ってくれ」
藤真は冷静に冷酷に言い放ち、牧の前に割り込んで思いきりドアを閉めて鍵をかけた。
「おい、閉めるな! 隣人を自分のように愛せ!!」
「お菓子を出せ! 神と和解せよ!」
「うるせー! うちは仏教だ!!」
ドア越しに文句を言う天使たちに藤真もドア越しに返し、牧の腕を引いてリビングに戻る。
「うちって仏教なのか?」
「どうでもいいだろっ!」
「しかし、俺たちは魔界でも天界でも一緒にいるんだな」
「……な。どうなってんだろうな世の中」
魔界だの天界だのが日常会話に出てくる自体あり得ないと思うのだが、実際に遭遇してしまったのだから仕方がない。
「まあなんにせよ、人間の俺には人間のお前が一番だ」
「ほんとかな……」
疑わしそうに言いつつ、口もとに差し出された焼き菓子に噛みつく。ほろりとほどけた甘みに、唇は素直にほころんだ。
<了>