2.
校門を出ると、妙に目立つ人物と思いきり目が合った。
「藤真……!」
冬でも色黒の肌に茶色の髪。グレー掛かったネイビーの、スーツのような制服がウールのコートの下から覗いている。自分よりずっと年上に見える容貌に、目の下のほくろ。該当する人物に見当をつけるのは簡単だった。
「!! まき……?」
まさしく花形から聞いた通りの特徴であるし、部室にあったバスケットボールの雑誌で写真を見たので間違いないだろう。雑誌では前髪を後ろに撫でつけていたが、今は左右に自然に下ろしていて、穏やかな印象だ。
「どうしたんだ、練習中なんじゃないのか」
牧は藤真の姿をまじまじと見て目を瞬いた。藤真は制服の上にコートを羽織って肩にバッグを掛け、完全に帰る格好だ。
「えっ……と」
まだ午前中で、牧の言う通り、バスケ部のみならず部活のあるところならば確実に活動している時間だ。しかし藤真は帰宅しようとしている。いや、意図としては家に帰ることではなく、部活動を放棄することだった。
「なんか用?」
「用ってわけでもないんだが。交通事故に遭って昨日から部活に復帰してるって聞いたから、顔を見にきた」
「……」
「そんな、変なもんを見るような目で見ないでくれ」
「ああ、ごめん」
牧は今の藤真にとっては未知の存在だ。変と思ったわけではないが、観察するような目で見ていたことは事実だった。
しかし牧にとって藤真は既知の存在だ。妙に素直に謝罪を口にしたことと、部活を早退しようとしている彼の行動に、当然の違和感を抱く。
「帰るのか?」
「うん」
「少し話さないか?」
藤真は眉根を寄せて牧を見る。海南は翔陽の倒すべき相手で、同じポジションの牧と自分は双璧と呼ばれるライバル的な関係だった。しかし険悪な仲ではなく、親しげな様子だったという。牧は少し変わった男だが悪い人間ではなさそうだから、状況次第では記憶喪失のことを打ち明けるのも仕方がないだろう、とあらかじめ花形と話していた。ならばこの状況ではどうするべきか。
「……いいよ。少しなら」
道中、牧は無言だった。誰が聞いているかわからない場所で記憶がないことを露呈したくない藤真としては都合がよかったが、少し不思議でもあった。
「……」
ときおり注がれる、訝しむような視線が痛い。牧より後ろを歩こうと努めていることに、おそらく気づかれている。通学路以外の道をまだあまり覚えなおしていないせいなのだが──
(こりゃダメだ。着いたらとっとと吐いちまおう。どこ行くのか知らねーけど)
やがて牧が足を止めた店の看板を、藤真は思わず読み上げていた。
「カラオケ」
「俺だって学習するんだぞ」
藤真の周囲は何かと喧しい。会話に聞き耳を立てたり写真を盗み撮りするような不届きな輩がいるので、内容にもよるが、翔陽の近辺で彼と話すときには場所を選んだ。
藤真はその経緯は覚えていないものの、話したい内容からすれば個室は望むところだったので、何も言わず牧について指定の部屋に入った。L字型にソファが置かれており、入室順の都合で牧が奥に、藤真がドア側に掛ける。
「ジンジャーエールでいいか?」
「うん」
考えずに返事をして、二人分のドリンクを注文する牧の手と顔とを交互に見る。
(ジンジャーって、オレの好みなんだろうか。牧の好みなんだろうか)
そのうち、バチリと目が合ってしまった。
「どうした?」
「うん?」
「調子が悪いのか?」
藤真の早退の理由だ。それに、ここに来るまでの間の様子も気になった。交通事故のあと、初めは問題ないようでも、時間差で異常が出てくるというのは珍しいことではないはずだ。
「……うん」
否定してほしいと望みながら口にした言葉にあっさり頷かれ、牧は深く息を吐いて額に手を当てた。いや、重いものとは限らないだろう。ゆっくりと首を横に振る牧に、追い討ちのように衝撃的な事実が告げられる。
「オレ、記憶喪失なんだ」
「……きおく、そうしつ?」
牧はまるで子供のような口調で、辿々しくオウム返ししていた。即座には認められなかったゆえの、反射的なものだった。
「うん。記憶喪失」
「って、あの、記憶がなくなるやつか?」
「それ以外になにがあるっていうんだよ」
花形とも、ほかの部員とも、遡れば家族とも似たようなやり取りをしたのでわかってはいたが、記憶喪失とは非常に現実味がないものらしい。それでいてフィクションにはありがちなので、認知だけはされている。牧は信じられないというように目を瞠り、自身を指差した。
「だってお前、俺のこと覚えてたじゃないか」
「覚えてはない。オレに関わってきそうなやつのことを花形から聞いてたってだけだ」
牧は絶句する。そのうちに部屋のドアがノックされ、藤真は店員からドリンクのグラスを二つ受け取って一つを牧の前に置いた。牧が何も言わないので、様子を窺いつつちびちびと喉を潤す。
「覚えてないのか? なにも?」
「なにもっていうか、これはテーブルだとか、カラオケは歌う場所だとか、なんかそういうのは覚えてるけど。自分のこととか、人間関係とかは覚えてない。だからお前のことも、翔陽のバスケ部のやつらのことも知らない……んだけど! これはごく一部にしか伝えてないことだから、絶対言いふらしたりすんなよ!」
「ああ、ああそうだな。わかった……」
牧は沈みながらもこくこくと頷いた。翔陽の選手兼監督となった藤真がさらに記憶喪失だなど、噂話の好きな連中の格好の餌食だろう。
「なんだよ、そんな凹むなよ。オレは元気なんだから」
明確に不快感を顔に表した藤真に、牧は戸惑いつつも苦笑した。
「そうだな、健康ならそれで……記憶だってそのうち戻るんだろうしな」
三十代にも見えるような年齢不詳の顔貌に、なんとも寂しげで悲しげな表情を浮かべる牧を、藤真は不思議な気持ちで覗き込む。
「牧って、オレのなに?」
「え?」
上目遣いのせいで日ごろより丸く大きく見える瞳から覗くものは、試すような作為ではなく、純粋な好奇心のようだった。知っているようでいて記憶とはどこか異なる藤真の表情に、牧は思わず身構える。
「海南のポイントガードだとか、ライバルっぽいやつっていうのは聞いてるけどさ。もうちっと仲よかったんじゃね?」
「……仲は、悪いとは言わないだろうな。試合の外で揉めるようなことはなかったぞ」
藤真の疑問を解消したい気持ちはあるが、記憶を失っている相手に、主観でしかない返答はしがたいものだ。牧は唸りながらジンジャーエールを口に含み、牧の内心など知る由もない藤真はその姿にごく呑気な感想を抱く。
(同じのなのに、牧が飲んでると酒みたいに見えるな)
「藤真と俺が仲よかったって、誰かがそういうことを言ってたのか?」
「いやー……」
花形からは『悪いやつではない』としか聞いていない。誰かではなく今の藤真自身が感じた、直感的なものだった。
「なんも覚えてなくても、そいつがオレのこと好きか嫌いかってのはなんとなくわかるよ。むしろ相手と自分の関係を知らないからこそストレートに感じるものもあるんだろう、って花形が言ってたけど」
そして牧の反応だ。驚きや戸惑いの色の濃かった部員たちとはまた違って、落ち込んで寂しげに見える。同じポジションの対戦相手というだけのものとは思えなかった。
「す……うーん、なんていうかな」
牧は引き続き歯切れ悪く、言葉を探すように口もと全体を手で覆っている。
「なんなんだよ。友達?」
それならそうと言えばよさそうなものではあるが。
「前にそう言って、お前に怒られたことがある」
お前と友達になった覚えなんてねー! と、単なる軽口として言われただけで、牧も本気の拒絶とは受け止めずに笑って流したものだったが、そんなやり取りも忘れ去られてしまったのか。怪我がないというだけで喜ぶべきなのだろうが、やはりひどく寂しい。
藤真は怪訝な顔で牧を見つめた。
「お前、なんかオレに嫌われるようなことしたのかよ」
「そんなことしてないぞ。……いや、その、お前はそういうやつだったんだ。意地っ張りっていうか、天邪鬼っていうか」
言葉では突き放されても実際は嫌われてなどいないと、ひとりで思っている分にはいいのだが、当人にそれを説明するのは非常に気恥ずかしい。
「ウソぉ? オレは優等生だから監督まかされたんじゃないのかよ?」
唇を尖らせた、拗ねるような表情を、牧は不思議な気分で見つめる。知らない表情ではない。だが、ずいぶんと久しぶりだ。一年生の始めのころ、今よりずっと幼かった彼のことを思いだす。くるくると変わる表情が、非常に印象的だった。
「まあ、そういう面もあるだろうが……」
性格そのものは奔放だが、バスケットボールに対しては誠実な男だった。自身がチームの中で重要な位置にいる自覚もあった。そして少なからず、夏のインターハイの敗戦に責任を感じていた。人事については詳しい事情は知らないのだが、監督を兼任するという提案を、藤真が拒否できるとは思えなかった。
「どっちなんだよ」
「人にはいろんな面があるもんだ」
藤真はつまらなそうに、組んだ脚の膝の上に頬杖をつく。
「ふーん。じゃあ、オレのこと監督って呼んだり、偉いやつみたいに見てくる一年とか騙されてるのか。カワイソ〜」
「別に騙されてはないだろう。尊敬される面もあるし、かわいい面だってあるってことで……」
藤真は目を据わらせて牧を見た。
「いや、別に悪い意味じゃないぞ!?」
「ないよ」
「なに?」
何に対する否定なのかわからず、ごくシンプルに聞き返していた。
「オレ、バスケのことも覚えてないし、覚えなおす気もないし。尊敬されるようなところなんてもうないよ」
「……!」
牧は再び言葉を失い、藤真は素知らぬ顔でドリンクを口に含む。
「それで部活を早退してきたのか」
「うん。早退っていうか、記憶が戻るまで行かないと思う」
悔しさも何も滲ませずに淡々と言った藤真の、素っ気ない表情を信じられない思いで見つめる。記憶がないと聞いただけのときよりも遥かに衝撃的で、途方もない喪失の予感に心臓が震えた。絞り出した、声は動揺で上ずっていた。
「覚えてないんなら、翔陽の部員たちの前じゃやりづらいもんな。……そうだ、俺が練習に付き合おう。やってみれば体が覚えてることだって」
「やだよ。面白くないもん」
「バスケ部の中で、自分だけが思うようにできないって状況が面白くないだけだろう。お前ならすぐに」
言葉の途中で藤真が立ち上がる。
「帰る」
素早くコートとバッグを抱えた腕を、牧は咄嗟に掴んでいた。
「待てっ!」
「待たない」
藤真は部屋の入り口に向かおうとするが、強烈なまでの力で後ろに引っ張られ、再びソファに尻をつく。その勢いで、背中から牧の体に凭れ掛かってしまった。牧は藤真の背中を抱えるようにして、両の二の腕をがしりと掴まえる。
「放せよ!」
「藤真……」
突き刺すような鋭さで牧を睨んだ視線は、一瞬泣きそうに歪むとすぐに背けられた。
「……そうだよな。お前だってバスケ関係の知り合いなんだから、そうなるよな」
「藤真?」
藤真は牧に顔を向けないまま、部屋のドアを見据えて言った。
「放せ。バスケしてないオレになんて興味ないだろ」
「そんなこと言ってないだろう」
「言ったよ。バスケしろって言った。そうじゃなきゃオレじゃないって思ってるからだ」
「そんなことは思ってない。お前がバスケを好きだったのは事実だから、ただそれを勧めたってだけじゃないか」
「でも今は好きじゃないよ。だからしない」
「……それなら、それでいい」
それは牧の望みではなかった。強いとか鈍感だとか言われがちな心臓が、チクリと痛む。しかし藤真がしたくないというものを、無理やりさせたいとも思わない。
「いいの?」
体を後ろに傾けた藤真が思いきり上を向くと、後頭部が牧の胸に埋もれて目が合った。
「! ……いいっていうか、別に俺が決めることじゃないからな」
角度のせいでいっそう丸く見える瞳が、不思議そうにこちらを見上げている。それは子供のような言葉とも相まって、愛らしい小動物を連想させた。牧はこの状況には不似合いな感覚に戸惑って視線を逸らす。
「いや、そうだ、敵チームなんだもんな。翔陽が弱くなったほうが、都合がいいってわけだ」
牧は面食らって即座に返す。
「そんなこと、思うわけないだろう! 俺は、お前が監督をやるのだって反対だったんだ」
そこまで言ってしまってから、はっとして口をつぐんだ。
「なに、シクったみたいな顔して」
「別に……」
藤真の監督兼任については、牧が密かに思っていただけで、以前の藤真にも伝えたことはなかった。他校のことだし、藤真が発案したことでもない。いわば〝言っても仕方がない〟ことで、藤真の気勢を削ぐ形になるのも本意ではなかった。
「オレ、覚えてないから繋がりがよくわかんないんだけど。翔陽が弱くなるのと、オレが監督やるのって、関係あるのかよ?」
「いいだろう、別に」
「よくない。話聞いたら記憶が戻るかもしれないだろ、協力しろ」
そうは言ったものの、周囲の──主にバスケ部の面々の思いとは裏腹に、藤真自身には記憶がないことへの焦りはほとんどなかった。よって、記憶を取り戻すことを特段心がけて行動する気もない。単純に、牧が言い淀む話の内容が気になっただけだ。
「あと、もうちょっと帰らないでいてやるから放してくれ」
牧は掴んで引き寄せたままだった藤真の二の腕を解放し、藤真は再び元の位置に座りなおす。短い沈黙ののち、牧はすうと目を細めた。優しげな表情で、微笑しているようにも見えた。
「……俺たちのポジション、ポイントガードってのはチームの司令塔だが、お前は特にコントロール型だと俺は思ってる」
「ボールのコントロールってこと?」
「試合のコントロールだ。自分が動くことばかりじゃなく、試合中に状況を判断して味方に指示を出したりだな。ただ点を入れればいいとか、ただパスをカットすればいいとか、そういうポジションじゃない」
「リーダーみたいなもん?」
「まあ、そうだな。部活だからって言っちゃ悪いんだろうが、ほんとに司令塔ができてるポイントガードなんて、高校レベルじゃそう見かけない。だがお前は違った。お前がひとり入ればほかの四人の動きも見違えるように変わる。お前にはチームメイトに対するカリスマ性と、ゲームを支配する資質があった」
話し始めを渋った割に、牧はいたって饒舌に、熱を込めて語った。穏やかな表情も、ときおり何か思いだしたかのように微笑するさまも、敵について語っているようにはとても見えない。藤真は自分の資質と説明された事柄に驚くよりも、ひたすらに牧への違和感と興味を感じていた。
「それが試合に出ないで監督としてベンチにいるんだから、見てたって全然違うチームだ」
「監督としては素人なんだろ? じゃあ試合出てるほうがいいじゃねーか」
「……よくやってるとは思ってたが、まあ、その通りだと俺は思う。翔陽にもいろいろ事情があるんだろうが」
「オトナの事情?」
「らしいな。それについてはよく知らないんだ」
牧は困ったように笑った。藤真は納得できたようなできないような表情で唸る。
「……ふーん。まあ、どっちにしろオレがいないと困るってわけなんだな、翔陽バスケ部は」
「困るからってより、単純にお前のこと心配してるんだと思うがな。俺たちは日々バスケに明け暮れてた。人間関係がバスケ繋がりばっかりになっちまうくらい……高校生活の中心って言ってもいいだろう。俺たちがバスケをするのは、なにも特別じゃない、いつも通りのことだ。記憶が戻るのを期待するのにしたって、お前にそれを勧めるのに違和感はないな」
今度は藤真が困ったように笑った。牧のことはもはや完全に味方だと認識している。彼の言っていることも、どうしてほしいのかも、わからないわけではなかった。
「……記憶喪失のこと話した部員の一部から、オレはすごかったんだとか、憧れだったみたいなこと力説されてさ。監督になったのもかっこいいって思ってて、一緒に頑張りたいって、燃えてるんだって」
言葉の内容とは裏腹に、藤真は全く嬉しそうではなく、薄ら笑いを浮かべた。
「みんなオレのこと好きすぎて、宗教みたいって思っちゃったんだけど、今牧が言ったみたいなことなのかな」
選手としての能力はもちろんだが、藤真が翔陽の精神的支柱であったのも確かなことだろう。暴行を受けての負傷退場と正式な監督の不在という逆境で、藤真を中心とした団結はいっそう強まっていたはずだ。
「宗教とはいわんが、そうだな、お前はアイドルみたいだった。部内だけじゃなく、他校の女子のファンがキャーキャー言ってて、俺が隣にいても女子はほぼお前しか見てないんだ」
牧は嫉妬を滲ませるでもなく、ただ楽しそうにそれを語る。
(どうして)
「楽しそうだね」
「ああ、楽しかったからな」
「……そっか」
不思議だ、だが嫌いではない。牧がどういう人間なのか、もっと知りたい──そんな思いの中にもやもやと不快なものが混じりだす。
「でもそれ、オレは覚えてないんだ。一緒にいたときのこと覚えてないんだから、実は、見た目が同じだけの違う人間かも」
そう捻くれたことを言うのがまさしくお前じゃないか、と牧は笑う。
「そんなわけないだろう。……そうだな、今のお前の感じ、一年の、知り合ったばっかりのときを思いだすんだ。俺のこと覚えてないせいだっていうなら、むしろ納得できる気がする」
言いきってしまってからあらためて納得して、牧はうんうん頷いた。
「ええ? 一年と二年とでそんなに変わるかよ?」
「変わったんだよ、お前は」
藤真から受ける印象の変化には、期待のルーキーを経てチームの柱となり、やがて監督になったことによる、内面的な変化が強く影響しているのだと思う。考えを顔に出しすぎないように日ごろから気にするようになったとは、つい二ヶ月ほど前に当人の口から聞いたことだ。
「……背だって今よりちっこくて、体も細かった」
「お前の妄想なんじゃねえの。思い出補正ってやつ」
「そんなんじゃない。昔ふたりで載った雑誌を持ってるんだ」
「そういや、部室にお前が載ってる雑誌があったぜ。割と最近のやつだと思うけど」
「俺が載ってるんならお前も載ってると思うが」
「覚えてないな」
牧について花形から聞いたときにそのページを見たから、自分が載っているかどうかまでは確認しなかったのだと思う。藤真は怪訝に目を瞬く。
「そんな、セットみたいな扱いなのかよ?」
「そうだぞ。双璧って、聞かなかったか?」
あんまり自分で言うことでもないが、と牧は照れくさそうにひとりごちる。
「それは聞いたけど。なんも覚えてないから実感ないし」
言葉もわかりづらいしとぼやきながら、藤真はすっかり存在を忘れていたドリンクを口に含む。
「まずっ」
氷がとけて薄まった炭酸飲料に大袈裟に顰めた、そんな表情も愛らしく見えて、牧は息を漏らし笑った。
「別の頼むか?」
「ううん、もういいかな」
『それじゃあ、そろそろ帰るか』
そう続けるべき流れだと感じながら、発することはできなかった。また今度と言おうにも、そうそう時間は取れない。そして、藤真は当面は部に復帰しないと言った。つまり今日別れた以降、ふたりが顔を合わせる理由はなくなってしまうのだ。
「……」
色素の薄い、大きな瞳が、探るようにこちらを見つめている。いや、〝ような〟ではないだろう。何も覚えていないのだ、探り、観察するのは当然のことだと思う。そしてもうひとつ確かなこととして、バスケをしなくても構わないと話してから、藤真はすっかり気を許してくれた──ような気がする。
「藤真、これから用事あるのか?」
長い睫毛を揺らして瞬きを二つ、そして上目気味に牧を見据えたまま、微かにだけ首を傾げる。
「なんもないよ。……あったとしても、覚えてない」
「そうか。なら、もしよかったら……これからうちに来ないか? 昔の雑誌もあるし、なんか思いだすかもしれない」
「うちの人は?」
「一人暮らしなんだ」
「なにそれ? お前ほんとに高校生かよ?」
初めてそれを話したときとまるで同じ反応を返されて、思わず笑ってしまった。