その表情カオの理由を教えて

3.

 牧の住むマンションの居室。どうということもない1DKの一室だ。牧は藤真をソファに座らせて飲みものを出すと、雑誌のラックの中から一冊を引っ張り出し、目当てのページを開いてローテーブルの上に置いた。
「これが一年のとき」
「いやっ! おっさんっ! お前今より老けてんじゃね?」
 目に飛び込んだ写真を見るや否や、藤真は声を上げて笑った。
「俺のことはいいじゃないか」
 ほかに何冊か見繕ったものを並べて置くと、それに向かうように床にあぐらをかいて眉間に皺を寄せる。今は自分の話ではなく藤真の話をするつもりなのだ。
「え、まあオレもちょっと今より子供だけどさ、お前のせいで余計子供に見えるんだと思う」
 ツーショットではなく個別に撮られた写真だが、同じページにあるせいで、どうしても一度に目に入る。前髪にボリュームをもたせたリーゼントスタイルの牧と、短い前髪の下に華やかな目もとの際立つ、少女にさえ見える藤真とは、到底同級生には見えなかった。
「俺のせい?」
「そうだよ? 自覚ねえのかよ」
「ないってわけじゃないが……」
「髪型もさ! なんで? ポリシーとか?」
「気合が入るんだ」
「好きでやってんなら別にいいけどさあ。髪型のせいで余計おっさんに見えるんだよな」
「……」
 容赦のない言葉が牧の柔らかな部分にぐさぐさと突き刺さる。あだ名が〝お父さん〟だった小学生のときから、自覚はあったつもりだ。しかし藤真からここまで言われたことは今までなかったと思う。
(もしかして、今までも同じように思ってて、気を遣ってたのか……?)
 藤真は特にバスケットボール関連の場所では、自らの容姿の話題を好まない傾向があった。だから牧の容姿についても多くは語らなかったのかもしれない。
「おーい? 怒った?」
 牧はがっくりと肩を落として、怒っているというより、明らかに落ち込んでいる。藤真もさすがに焦り、慰めるように肩をポンポンと叩いた。
「ごめ、ごめんって。記憶喪失のやつに言われたことなんて気にすんなよ」
(記憶喪失だったら、むしろものすごく率直な感想だと思うんだが)
 カラオケの個室で、藤真自身がそんなことを言っていたはずだ。そして牧の憂いの原因は、自分が老け顔だとあらためて思い知ったことではなかった。
(藤真が俺に気を遣ってたこと、ほかにもあるんじゃないだろうか……)
 彼が自身の経験に基づいて牧に配慮していたことが、これからさらに露呈してしまうかもしれない。自覚していることならまだいいが、虚をつかれる可能性だってある。牧は身震いした。ものすごく恐ろしい。
「別にさ、年上に見えるのが悪いとは言ってないだろ?」
「そうだ、そうだな……」
 まさしくその通り『年上に見えるね』と、かつての藤真は言った。牧はため息をつく。
「んで、これはなんのときの記事なんだよ」
 藤真がろくに読まずに指差した誌面の見出しには、『驚異の新人!』とある。
「一年のときの、夏の地区予選の前だな。お前とはこれより前に知り合ってたから、順調にやってるんだなって思ってたもんだ」
「知り合ったのは、なんのとき?」
「翔陽との練習試合のときだ。もともと一、二年を試すって意図の試合だったが、翔陽はポイントガードに一年を使うかもってのはその前から耳に入ってて、気になってた」
「お前から声掛けた?」
「……と、思う。なんか、声掛けたってあれだな」
「なんだよ、あれって」
「いや」
 高身長の部員たちの中で、藤真の姿は、ひときわ愛らしく周囲の目に映っていたらしい。ごく単純に、同じポジションの一年同士として興味を持って話しかけに行っただけなのだが、ナンパだなんだとあとあと周囲から揶揄されたことを覚えている。
「で、地区大会ってのはどうなったんだ?」
「予選のあとのはこれだな。うちと、翔陽が全国に進んだ」
 牧は別の号を開いてテーブルの上に置いた。
「おお、なんか扱いでかくね?」
 予選の総括記事のようだが、各々の試合中のショットが大きく掲載されている。牧は相変わらずだが、先ほどよりは凛々しく写る自らの姿を、藤真はまるでよく似た他人に出会ったような気分で見ていた。
「神奈川一位、二位のポイントガードが揃って一年だからな。たぶん俺だけだったらそう騒がれなかったんじゃないか?」
「なに、オレのおかげって?」
 藤真は調子よく笑った。以前の彼はプレイへの評価こそ甘んじて受けたものの、雑誌に写真が載ることそのものを喜ぶほうではなかったから、牧は新鮮なような、やはり寂しいような、複雑な気分になる。
「海南で一年レギュラーってのはなくはなかったんだが、翔陽ではお前が初めてだったらしい。その時点で軽く話題になってて、見事結果も出したからな」
「え、オレって実は超すごい?」
「否定はしないが、翔陽の気風もあった。一、二年はあくまで下積み、公式大会では三年を優先して使ってく……って、まあ翔陽に限らずよくあることだが」
「なんで急に変えたんだよ?」
「この年から監督が変わったんだ」
 そして学年にこだわらず実力のある選手を起用していく方針に切り替えた。過去の代を遡れば、藤真のように一年時点から優れていたプレイヤーもいたかもしれない。
「ふーん、ちゃんと監督いたんだな。で、オレのことが気に入ったと」
「……プレイヤーとしてな。周りはざわついてたようだが、ともかく全国行きを決めて、お前への評価も揺るがないもんになった」
「なんだよそれ、揺らいでたのかよ?」
「まあいいじゃないか。でな、ここに」
 記事の中の、牧の指差した部分に視線を落とす。
「『牧と藤真は今後の神奈川の双璧となるかもしれない』か。こっからちょくちょく言われるようになるわけだな」
 牧の顔を見ると、落ち着いた面立ちがニッと笑った。今まで見ていた穏やかなものとは違う、野生的で男らしい笑みに、なぜだかドキリとしてしまった。
「……でもさ、司令塔の役なんだろ? 壁ってイメージちがくね?」
「かべ?」
「双璧って。二つの壁ってことだろ。並び立つ二つの高い壁! みたいな」
 やはりこれは藤真だと、牧は笑ってしまいながら、あらためて誌面の双璧の文字を指す。
「違う、よく見てみろ。これは壁(かべ)じゃない。完璧のペキだ」
「んなもんだいたい一緒だろ」
 むしろ言われても壁にしか見えない。記憶のあったころの自分はきちんと違いをわかっていたのか、はなはだ疑問だ。
「まあ見た目はだいたい一緒だが、意味は全然違う」
「どういう意味なんだよ?」
「優劣つけがたい、一対の宝玉。宝物ってことだな。ほら、〝璧〟の下のところも〝玉〟になってるだろう」
「タマ。ふたつのタマ……」
 藤真は微妙な表情で自らの腰に──股ぐらに視線を落とし、再び牧を見た。
「いいじゃないか、そんな顔をするんじゃない」
「うん、大事なタマなんだな……で、次は?」
「インターハイ、全国に行くわけだが、まあそれぞれやるべきことやってたってくらいだから省略しよう。それから、国体の合同合宿があったな」
「国体? 合同?」
「神奈川代表チームってことで、この年は学校の枠を越えた混成チームだったんだ。お前も選ばれてた」
 個人技に優れるものを集めただけで──急造のチームで満足のいく結果を出すことは容易くはない。期間的にタイトなことも影響して、混成チームとするのは通例というわけではなかった。
「それで? 合宿でふたりの間に事件が!?」
 牧は不思議そうに藤真を見返す。
「ん、なんか思いだしたのか?」
「いや? なんとなく、なんか起こるのかなって思っただけ」
「……」
 眉根を寄せる牧に、今度は藤真が首を傾げる番だった。
「おーい?」
「別に、事件ってほどのことはなかったと思う……ってよりは、国体が混成チームになって、そん中に一年で全国に行ったやつが二人いるってこと自体が事件だった」
 牧は表情を和らげ、穏やかに笑う。
「合宿は普通に楽しかったぞ」
「楽しかった?」
 藤真は目を瞬く。バスケ部の活動に対しては重くシビアなイメージを抱いていたから、牧の口から出た言葉に違和感しかなかった。
「別に遊んでたわけじゃないし、練習は厳しかったが、充実してたっていうかな。単純に、他校のやつらとできたのが楽しかった。もちろん、お前と一緒のチームでプレイできたのも、一緒にボール磨いたり体育館の掃除したのも……今にして思えばってやつなのかもしれんが」
 自ら国体合宿の話題を出しておきながら、今の藤真に伝えたほうがいいような、突出したできごとは思いつかなかった。ただ、同じ部屋に泊まって他愛もない会話をした夜、日中の忙しさや緊張感から解放された、ゆったりとした時間の居心地のよさだけを未だに覚えている。明確な言葉こそ作らなかったが、あのときのふたりは互いに共鳴していたと思う。
 追憶に浸り込みそうになって、かぶりを振るように藤真を見遣った。
「……どうだ、そろそろ思いだしてきたか?」
「全然。ただオレの歴史を学んでるだけって感じ」
「そうか。じゃあ、次は選抜だな」
 すげない返事に対する牧の表情はあくまで穏やかだったが、それでもにわかに空虚感を滲ませたと藤真は感じ取る。もとより人の心の機微には敏感なほうであるうえ、記憶を失っているため、自身が無意識に作り上げていた牧に対する距離感が取り払われているせいだった。
「牧ってさー……」
 しかし常識や一般規範は失せたわけではないから、頭に浮かんだ可能性を即座に口にするには躊躇してしまう。
「なんだ?」
「違っても引かない?」
「あ、ああ、大丈夫だ……」
 老け顔のことがあるので身構えてしまうが、窮地の藤真がわざわざ前置きをして言おうとすることを拒絶するほど、牧は臆病でも狭量でもなかった。しかし──
「牧ってもしかして、オレの彼氏だった?」
「な、ななっ、なんだとっ!?」
「違ったんだ。ごめん」
「なんでまたっ、そんなっ!」
 牧の反応は、記憶のない藤真であっても引っ掛かりを感じるような不自然なものだった。淡い色の大きな瞳が、明確な表情を乗せずに牧の姿を映す。
「なんとなく。他校なのにやたら優しいし、バスケ繋がりのくせにバスケしてなくていいっていうから、それ以上のモンがあるのかと」
 あくまで落ち着いた口調とまっすぐ見つめてくる瞳を、そこはかとなく恐ろしく感じるのはなぜだろう。以前の藤真と、こんな風に向き合ったことが果たしてあったろうか。
「……別に、バスケは無理やりやらせるようなもんじゃないと思ってるし、バスケだけがお前って思ってるわけでもない」
 歯切れの悪い返答をする牧に、対する藤真の表情は変わらない。
「なんかヘンだ。家族とか、同じクラスの友達がそれ言うならわかるけど。お前なんて一番バスケ繋がりでしかないじゃんか。……まあいいや。帰る」
「おい、藤真っ」
 牧は立ち上がった藤真の行く手を塞ぐように、その正面に立ちはだかって左右に腕を開く。藤真は前傾気味の姿勢で、瞳だけで牧を見上げる。不快感というほど強くはない、しかし抗議の色を感じさせる視線だった。
「なに、オレ今日帰れないの?」
「そうじゃない。まだ一年の途中くらいだ」
 言いながら、まだ見せていない雑誌を目で示す。
「いいよ、聞いたって思いだせないし、別にオレはこのままでもそんなに困ってないし」
「っ……!」
 記憶が戻らなきゃ、お前はバスケに復帰できないだろう──そう言いそうになって口をつぐみ、体の脇へ回ろうとする藤真の左腕を右手で掴まえた。
「なんなんだよ、一体」
「いや……」
 まだ整理がついていないのだ。
『オレはもう、お前と同じ位置には立ってられないと思う』
 インターハイ後、藤真が翔陽の監督を兼任していくことが決まったあと、ふたりで会ったときの彼の言葉が脳裏に浮上する。
『そんなカオすんなよ。別に敗北宣言のつもりじゃない。みんな俄然ヤル気になってるし、これからのオレは〝打倒・牧〟じゃなくて〝打倒・海南〟だっていう、それだけのことだ。適性あるらしいし、監督として大成してくオレを見とけ!』
 自分がどういう顔をしていたのか、具体的には聞かなかったし、当然思いだすこともできない。
『……まあ実は、オレもまだ整理しきれてないんだけどな』
 ただ藤真の言葉と、困ったような、寂しげな笑みをよく覚えている。重い唇から、つらつらと言葉がこぼれていた。
「いいんだ、別に、どっちにしたって昔のままには戻らない」
 こんなことは言うべきではないと、正しくないことだと頭の片隅で警鐘が鳴る。そも正しいとはなんだ。それを判断し選択するのは藤真自身ではないのか。
「今のお前がしたいようにすればいい」
「ていう割にさ、帰ってほしくないんだろ。なんでだよ」
 藤真は大きな手に掴まれたままの自らの腕を見る。目もとに不審げな表情を浮かべながら、唇は試すように微かに笑んでいた。
「その、なんだろうな、心配で……」
 自分が藤真を捕まえている格好でありながら、なぜだかその瞳の光に追い詰められるイメージが浮かび、逃れるように視線を泳がせる。バスケットボールのセンスとは別の部分で、藤真は元来人を操ることに長けるタイプの人間なのだろうと、かつて感じたことを思いだす。
「なら、駅まで送ってくれよ。それなら心配じゃないだろ?」
「そういうことじゃない」
「どういうことなんだよ」
 藤真は苛立った声で言い、牧に掴まれた腕をぶんぶんと揺らした。まるで子供が駄々をこねるかのような仕草だが、駄々をこねているのはどちらかというと牧のほうだった。
「記憶がないままで三学期が始まって、お前がちゃんと学校生活できるのかっていう心配をだな」
「そんなのは花形とかオレの周りのやつがなんとかするだろ。お前が気にすることじゃねえし、オレを帰さない理由にもなってない」
「帰さない、とは……っ!?」
 藤真は自らの体を牧の胸にぶつけるように収めた。自由にされている右腕を牧の背中に回し、意味ありげに笑う。
「ふ、藤真? どうした、寒いのか?」
「ぶはっ!」
 藤真は咄嗟に俯いて思いきり吹き出し、そのまま牧の胸に額を押しつけた。
「そうくるか。寒いって言ったら、あっためてくれるのかよ?」
「エアコンの温度を……」
 藤真の肩が震えている。寒いのではなく笑っているのだと、さすがの牧にも理解できた。
「お前、試合の写真だとめちゃくちゃ押し強そうなのに、全然違うんだな」
「藤真、一体」
「手、放せよ。逃げないから」
 掴まえていた左腕を解放すると、それはやはり牧の背に回り、藤真はすっかり牧に抱きついて懐に収まる格好になる。
「藤真っ……」
 肩に手を置いたきり、抱き返しはせず、困惑の声こそ上げたが、力ずくで引き剥がそうとはしない。なぜだろう。藤真は体を縮めて牧の胸に頬を、耳を押しつける。体が熱く、鼓動は速い。思い出などなくとも込み上げる言葉がある。果たして以前の自分は知っていただろうか。
「牧。オレ、お前のことが好きだ」
 肩に置かれた指が、ぎこちなく波打つ。
「藤真、それはっ……!?」
 否定の気配を感じて顔を上げ、言いきる前にキスで唇を塞いだ。明確な拒絶は相変わらずなく、顔を離すまで牧は身を強張らせていた。
「嫌じゃないんだろ?」
 確信して覗き込む瞳から、牧は逃れるように顔を背け、自らを落ち着けるよう息を吐く。
「……お前のこと、そんな風に見たことなかったんだ」
 おそらくそれは違う──藤真は漠然と感じながらも口には出さず、肩に置かれたままの牧の手を掴み、自分の背に回させた。牧はされるがままだ。両方ともそうさせて、駄目押しのように顎を捉え自分のほうへ向ける。
「じゃあ、今からそんな風に見てくれ」
「お前は男だ」
 声も表情もいかめしい雰囲気はあるが、凄みがないのは視線が逃げているせいだろう。顔が赤らんでいるように、見えなくもない。
「NGの理由はそれだけか? いいじゃん別に、そんなの」
 くだらないと言わんばかりに、藤真は腕に力を込めてぎゅうと牧に抱きつく。
「俺たちはそんな関係じゃなかった」
 牧は自らの声を、ひどく白々しいと感じながら聞いていた。相反するように、顎をくすぐる髪の感触は生々しく艶かしく、腕の中の体は布越しにも充分な体温を感じさせる。甘美な誘惑に抗うように、体じゅうの関節が軋んだ。
「オレはこうしてここにいるのに、お前はなにをそんなに守ろうとしてる?」
「は……」
「結局、記憶がないオレが感じてることってのは、お前の知ってるオレのものとは認められないんだな」
「……!」
 失望を感じさせる声とともに藤真の腕が緩み、密着していたふたりの体に隙間ができる。顔は俯けたままで、表情は見えない。
「思い出なんてなくても、オレはちゃんとお前が好きなのに」
「藤真……!」
 堪えられなかった。ずっと抱いていた罪悪感を押し潰すほど膨らんだ愛しさと、つらい言葉を吐かせた苦しさとで何も考えられなくなって、離れようとする体を思いきり抱きしめていた。
「俺もお前が好きだ、藤真……」
 隠匿した衝動だった。風に撫でられる柔らかな髪に、青い空の下で透明感を増した肌に、太陽の粒子を乗せた長い睫毛に、それが作り出す表情の数々に、目を奪われた。触れたいと思った。その先にいたものは、好敵手でも友人でもなかった。
 心臓の音がうるさい。体じゅうの血が沸いている。急激に体温が上がって、服の下の肌にじわりと汗が滲む。
「すまん、藤真……」
「なんで謝る?」
 甘い声だった──痺れていく頭脳が、そう解釈しただけだったかもしれない。期待するように細められる瞳から、逃れることはできなかった。
 上向けられた顎に、緩く弧を描く唇に、吸い寄せられるようにキスをする。唇を重ね、皮膚のみでなく粘膜を合わせ、どちらともなく舌を縺れ合わせる。
「っ……!」
 藤真の手が牧の下腹部を撫で、遊ぶような仕草で明確な欲求の形をなぞる。牧ももはや、衝動に抗う気は失せていた。

 カルキのにおいは時間の経過とともに薄まったのか、それとも鼻が慣れて感じなくなったのか、判断がつかない。男二人が寝るには窮屈なベッドの中で、ふたりは裸で身を寄せ合っていた。
「藤真、あのな……お前は昔、かわいいとか、女みたいだとか言われるの気にしてて、嫌がってたんだ」
 牧は藤真の体を抱え、愛おしげに背中を撫でる。余計なことを教える必要はないのかもしれないが、どうにも藤真を騙すように感じて気が咎め、黙っていられなかった。藤真は牧の肩口に頭を寄せている。
「って言われても、覚えてないし」
「覚えてないにしろ、俺とこうなっちまって、平気なのかと思ってな」
 してしまったあとで言うことでもないのかもしれないが、とまでは言わなかった。
「え? だって別に、キスして体触って、ちんぽ触ったり舐めたりしただけじゃんか。お前、オレのこと女扱いしてたのかよ?」
「んなっ……!?」
 言われてみれば、今日のふたりは〝そこ〟にまではいたっていない。牧は自分が雄の立場であると思い込んで疑っていなかったのだが、もしかして盛大に勘違いをしていたのだろうか。
「ふっ……すげえ、絶望したみたいな顔!」
 藤真は意地悪く笑い、牧は背中に冷たい汗をかく。
「す、すまん藤真、ええと……」
「ウソウソ、平気。なんとなくそんな感じはしたし」
 挿入こそなかったものの、組み敷いての愛撫の格好など完全に男女のようだったし、自分もすっかり喰らわれる感覚になっていたから、文句はなかった。少しからかってみただけだ。
「あと、オレが先にお前のこと『彼氏』って言ったんだしな」
「!! そういえばそうだな!?」
「ヘイ! カレシ!」
 ふざけた口調で言ってくつくつ笑った、愛らしい笑顔にくすぐられる胸がなぜか苦しい。新しい恋人と引き換えに大切なものを失ってしまうのではないかと、押し寄せた不安は柔らかな唇の感触に呑まれて消えた。

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