その表情カオの理由を教えて

4.

 冬晴れの昼下がり。陽射しは明るく藍色の海も穏やかな、のどかな景色が続く。しかし、その堤防沿いを歩く藤真は自らの判断を激しく後悔していた。
(くっそ寒い! 家の近くより明らかに寒い!!)
 制服のジャケットの代わりにニットのカーディガンを着てコートを羽織り、肩には部活用のバッグという格好で、歩いているうちに暖かくなるだろうと思っていたのだが──天気がよくとも海沿いは風があって冷えるのだと、身に沁みて覚えなおしながら、胸の前で腕を抱えた。
 昨日の夜、牧のマンションから自宅に帰ったあと、花形から電話があって少し話をした。体が痛いわけではないが部活には行かない、明日(今日のことだ)の朝は迎えに来るなと伝えると、花形は『待ってる』とだけ言って電話を切った。
(素直なもんだな、優等生くんは。さて、どこ行こう……)
 今日は昼過ぎまで寝て、昼食をとると半ば追い出されるように家を出た。服装こそ部活に行く風にしたものの、もちろんそんな気はない。このまま近所をうろついていれば家族に見つかるかもしれないし、知らないご近所さんに出会ってしまうのも面倒だ。翔陽の近辺も危険。かといって、土地勘を失っているのに何も考えずに歩き回るわけにもいかない。
(迷子とか、一番最悪だからな)
 幸い、花形から貰った手帳サイズの地図帳がある。目印がなくわかりづらいような場所に入り込まなければ、帰れなくなることはないだろう。賑やかなところに行きたい気分ではなかったので、大型商業施設以外でわかりやすい場所、と考えて海が頭に浮かんだのは、牧がサーファーだと昨日聞いたせいだと思う。冬の海に面白いものがあるとも思えなかったが、夜まで時間が潰せればいいだけだ、散歩をしているうちに興味を引く店も見つかるだろう──そうしてこの堤防沿いの道をひとり歩いているのだが、運がいいのか悪いのか、藤真は再び自らの判断を疑う事象に遭遇する。
「……!」
 向かいから、髪を逆立てた長身の男が歩いてくる。髪型や顔というよりは、体つきからそれとなく察してしまった。
(なんか、やな予感が……)
 男はこちらに気づくと一瞬驚いた顔をしたあと、のんびりした調子で軽く手を上げて笑った。
「あれー? 藤真さんじゃないですか」
(や、やっぱり? なんでこんなとこで知り合いに会うんだよ……)
 なぜならここはこの男の散歩と釣りのルートのひとつだからだ。大股で小走りに近寄ってきた男の全身を、藤真は視線だけ上下させて観察する。身長は一九〇センチほどだろうが、髪型のせいでより大きく見える。眉も目も垂れていて、温和そうには見えるが、腹に一物ありそうにも思える。一度は忘れたものの、人の顔と名前を一致させるのは得意なようで、名前はすぐに出てきた。
「せんどう……」
 陵南高校の一年で、花形曰く『よくわからんが藤真になついている』とのことだ。
「珍しいですね、サボりなんて」
「この格好のどこがサボりだっていうんだよ」
「いや、この時間にその格好でこんなとこにいるのがサボりかと……」
 部活の最中に用事で抜け出してきたのなら制服姿は不自然だし、練習試合などのための移動ならば藤真ひとりきりということはあり得ない。
「いろいろあんだよ、オレだって」
 道もわからないし、時間を潰すためにひとりではないほうがいいのだが、本当に色々ある真っ最中で、この男が信用するに足るものなのかはわからない。一年ならば雑に扱うくらいが自然だろうと考え、仙道の横を無愛想に素通りして歩を進めた。仙道は慌てる様子もなくあとに続く。
「怪我、もう大丈夫なんですか?」
「ケガ?」
「交通事故の怪我」
「んなもんほとんどねえよ。ってか、他校にまで知れ渡ってるのか? 事故のこと」
 牧にいたっては部活に出ている情報まで得ていた。一体自分のプライバシーはどうなっているのだろう。
「知れ渡ってるってわけじゃないです。翔陽の一年に友達がいるって、前言いませんでしたっけ」
「そうだっけ」
 覚えていなくても不自然ではない程度の情報だろう。藤真は軽く返し、仙道のほうを振り返りもせずに歩き続ける。
(んーむ……)
 仙道は眉を八の字にして、口もとに形ばかりの笑みを浮かべた。実は事故の怪我を引きずっていて部活に出られる状態ではない──という可能性は簡単に想像できるが、まっすぐそこに突っ込むほど無神経ではないつもりだ。しかし、この珍しい邂逅を見す見すふいにするほどストイックでもない。ステップを踏むように何歩か大股で行くと、簡単に藤真に追いついて顔を覗き込む。
「どこ行くんですか? 藤真さん」
「内緒」
 言おうにも言えない。夜は牧と待ち合わせをしているが、それまでどうするか、どこに行くかなど決めてはいないのだ。
「……ついてくんなよ」
「たまたま俺もこっちに用事あるんですよ」
「ウソつけ! 今こっちからきたじゃねえか!」
「ぼうっとしながら歩いてたから、通り過ぎちゃったんです」
(なんだろうなーこいつ、うさんくせえ……)
 たまたま行き先が同じだけならば相手をする必要はあるまい。藤真は無言で歩き続ける。
「……藤真さんて結構、俺と似てるタイプだと思うんですよね。やってみたら割と飄々となんとかできちゃうってタイプ」
「そうかな」
「あ、別にがんばってないって意味じゃないですよ?」
「うん」
(まあ、少なくとも今のオレは特にがんばってはないわけだが)
「俺が比較的気楽なのはまあ、学校の違いですよね。あ、別に翔陽が悪いって話じゃないですよ」
「なんかお前、さっきからなにその言い回し」
「藤真さんのツッコミが厳しいんで、あらかじめ自分で突っ込んでおくクセがつきました」
「ふーん……」
(他校の割に接点あったってのは、結構仲よかったってことなんだろうか……)
 その考えの根拠となるのは牧の存在だったが、それだけでもない。自分の周囲には不届きなモブも跋扈していると花形から聞いたが、ならば人付き合いの相手は選んでいたと思う。花形が知らないうちに親しくなっていたというのならなおさらだ──と考えていると、不意に生理的な反射に襲われた。
「っくしゅん!」
 予期せぬ登場人物の追加に意識を逸らされていたものの、海沿いの寒さが失せたわけではないのだ。ぶるっと体を震わせて身をすくめるかたわらで、仙道は声を殺して笑っていた。
「……あんだよ」
「いや、かわいいくしゃみするなあって。男のくしゃみって、怒鳴ってるみたいなやついるじゃないですか? たまに」
「あー……」
 藤真は面白くなさそうに仙道を見たが、すぐに興味を失ったように正面を向いて鼻を啜った。そのあまりに素っ気ない態度に、仙道は目を瞬く。
「なんか今日の藤真さん、やっぱりヘンな感じ」
「そうかな?」
「うん。なんか、フワフワしてます」
「うーん……」
 藤真は短く唸ったのち、呆気なく決断を下した。
「内緒の話があるんだけど、聞きたい?」
「聞きたいですっ! なになに?」
 日ごろの先輩然とした振る舞いとは違った、幼い印象の提案に、仙道は嬉々として頭を横に傾ける。藤真は口の横に手を添え、子供のような仕草で耳打ちした。
「あのね、オレ、記憶喪失なんだ。事故でアタマ打って」
「……!? またまた、そんなぁ〜」
 冗談だろうと言わんばかりに手をひらひらさせると、藤真は不愉快そうに正面に向きなおり、歩いて行こうとする。慌てて二の腕を掴んだ。
「ほ、本当に?」
「そんなウソついてどうするっていうんだよ」
「だって俺のこと」
「界隈の人間のことは花形からなんとなく聞いてる」
(こいつには言わないほうがよかったのかな……)
 藤真は顔を曇らせる。仙道の目に、気丈に振る舞うイメージの強かった藤真のこの態度は、明確に異変として映っていた。
「そうだ! そんな状態の藤真さんをほっぽって、花形さんはなにしてるんですか」
「あいつはオレより部活のほうが大事だからな」
「……いや、そんなことないと思いますけどね?」
 愚問だったと思う。正式な監督を欠いている翔陽で、次期部長と副部長が揃って不在となってはさすがにほかの部員に示しがつかないだろう。かたわらで、藤真が大きく体を震わせた。
「っくしゅッ!! ……おい、いちいち笑うな」
「フフッ、すいません。どっか入ってお茶でもしていきませんか? 寒いですよね」
「うん。クソ寒い……」
 ガチガチと歯を鳴らして体を縮める藤真に妙に庇護欲を掻き立てられる、自分自身に困惑する。
(なんとなく危なっかしいのも、記憶がないせいなのか?)
 記憶喪失などにわかには信じがたいことだったが、今日の藤真に対して感じるそこはかとない違和感の正体は何かと考えると、腑に落ちるような気もした。

 今の藤真は知らない道だが、仙道にとってはよく知った道だ。道路を横断して少し行くと、小さな喫茶店に入った。そう混んではおらず、二人で四人掛けのテーブル席に座ることができた。
「おっ、藤真さん、今の時間はケーキセットが頼めますよ」
「いらねえよ。オレはコーヒーだな」
「でもおトクですよ? ほら見てくださいよ、コーヒー紅茶単品でこの値段なのに、ケーキをつけてもこう」
(オレ、ケーキが好きだったから勧められてるとか?)
 テーブルに置かれた別紙のメニューをしきりにアピールされるうち、そんな気分になってきた。
「ほんとだ。じゃあケーキセットにしよ」
 仙道は頷くと、ちょうど近くに来た店員に軽く手を挙げる。
「ケーキとコーヒーのセットを一つと、コーヒー単品で一つ」
 にこやかに店員を見送った仙道とは対象的に、藤真は不満げに目を据わらせた。
「お前はケーキ頼まねえのかよ」
 同じものを頼むのかと思っていたから、なんとなく騙されたような気がして面白くない。
「怒んないでくださいよ。久々のデートなのに」
「は?」
 仙道はため息をつき、悲しげな視線をテーブルの上に落とした。
「やっぱり、それも覚えてないんですよね。俺たちって実は……いや、ここではやめとこうかな」
 自嘲気味に笑った男に対し、藤真は鼻で笑い返す。
「人づてに交通事故って聞いて、偶然会うまで放置って? そんなん絶対付き合ってねーし、億が一付き合ってても冷めきってるだろ」
 迷いもせずに言い返してきた藤真に、仙道は目を瞬く。
「なんだ、意外としっかりしてるんですね。知らないおじさんについて行ったりしなそうで安心しました」
 日ごろとは異なる可愛らしい反応を示すことに、多少の期待はあったのだが、根は藤真ということだろうか。
「自分と周りのこと覚えてないってだけで、あとは別にマトモだし」
「いや記憶失っててマトモなわけないですから! ほんと気をつけてくださいよ、なんか今日藤真さんかわいいんで!」
「えー?」
 そうかな、自分だとよくわかんないけど、など言いつつ首を傾げているところにケーキが運ばれてくると、反射的なものなのか愛想よく微笑する。そこらの女子よりよほど美少女に見える、目の前の光景に男子高校生の概念を崩されて、仙道は額に指を当てた。
「……いつまで外ぶらついてる気なんです? 夜はちゃんとおウチ帰るんですよね?」
 ケーキをひとくち、口に運んだフォークを咥えたままで、桜色の唇が綻ぶように愛らしい曲線を描く。
「夜は牧と会うんだ」
「はい???」
 理解を阻害するのは視覚だ。藤真は愛想笑いなどではなく、本当に嬉しそうに、そして照れたように目を伏せて微笑している。長い睫毛が影を落とす、秘密を孕んだ可憐な表情は、まるで恋する乙女だった。
「海南の牧、知らない?」
「そりゃあ知ってますけど。……てか神奈川の高校で真面目にバスケやってたらだいたい知ってると思いますし、ついでに藤真さんとソコソコ仲いいんだなってのもわかりますけど〜……」
 そこそことは言ったが、ふたりの間にあるものは執着だと思っている。ライバルなのか戦友なのか仲間なのか、最適な言葉の形までは考えたことがなかったが、少なくとも今藤真が浮かべた表情と合致するものではなかったと思う。
「なんだ、やっぱ仲よかったのか!」
「いやっ、」
(知ってるおじさんならいいって話じゃないんですよ!?)
 そう言いたいところを堪えた、仙道の口からはただ戸惑いだけが漏れる。
「ええっと、聞いちゃっていいのかな……」
 仙道が狼狽を表に出すことは非常に珍しいのだが、今の藤真がそれを知る由はない。
「夜に牧さんと会って、一体ナニを……」
「そんなこと、聞くなよう」
 藤真は白い頬をみるみる上気させ、困ったように、しかし思わせぶりに笑った。
(うっそ牧さん、記憶喪失のひと相手になんてことしちゃってるんだ……男のひとって、ケダモノなのね……)
 コートの上の姿のみではなく、日ごろの牧の穏やかな人となりを知っているからこそ、困惑してしまう。しかし、あくまで冗談のつもりではあったが、自分がデートだのと口にしたときは藤真は即座に否定していた。
(んー、俺が知らなかっただけで、ふたりはもともとそうだったってこと……?)

 嬉しかったんだ。
 昨日牧に体を触られながら『なにも覚えてないから初めてと同じだよ』って言ったら、牧は驚いたみたいに、照れたみたいに、でもすごく嬉しそうに笑った。こうなってから初めて誰かに褒められたような気分だった。
 バスケはしない、昔話を聞いてもなにも思いだせない、そう言ったとき、優しげな表情の下で筋肉が強張るのがわかった。牧の明らかな落胆を感じてた。ベッドの上で縺れてるうち、今のオレにも牧を喜ばせることができるってわかったら嬉しくて、なにされたっていいって思った。……結局昨日はセックスまではいかなくて、オレはなんだか拍子抜けしたような、安心したような気分で家に帰ったんだけど。
 今日は昼間は仙道と時間潰して、夜になって牧と駅で待ち合わせてメシ食って、牧の家に来たってところだ。
 玄関に上がると、だだっ広いダイニングキッチンの片隅に放置されてる黒いレジ袋の存在が妙に気になった。牧がトイレに入ってる隙に中を覗いて、オレは固まってしまった。
「藤真、どうした? ……!!」
 袋の中にはコンドームの箱とローションとイチジク浣腸が入ってて、オレの行動に気づいた牧はあからさまに動揺していた。
「そ、それはだな! 違うんだ!」
「なにが違うっていうんだよ」
 どうなってもいいって思ったのは本当だし、それがどういうことかってのもぼんやり知ってたけど、こうもあからさまなものを見てしまうとやっぱり戸惑う。
「備えあれば憂いなしっていうか……」
 つまり昨日しなかったのは備えがなかったからか、と納得してしまった。昨日の今日で明らかにやる気で買ってきたくせに、今否定しちゃってるのはなんなんだろう。やっぱりオレへの遠慮なんだろうか。牧の目が泳いでる。オレは少しだけ嘘をついた。
「いいよ、大丈夫。……そういうのも、興味あったし」

 本当は少しこわかった。痛いのが嫌ってことじゃなくて、誰にも知られちゃいけない犯罪をするみたいな……牧が昨日言ってた女顔コンプは覚えてないけど、元のオレが持ってた常識ってのは今も残ってるから、本能が拒否ってるのかもしれない。
 でもいいんだ。そんなのよりも、オレは牧と先に進みたい。牧の中で、昔のオレと比べられないようなものになんなきゃいけない。
 牧は鷹みたいな目でオレを見て、噛みつくようにキスをした。
(こわい……)
 オレは優しい牧しか知らない。それとも牧のこんな顔、お前(オレ)は見たことあった……?

 広い手のひらが、硬い指の皮膚が、厚い唇と舌が、しるしをつけるみたいにオレの体のいたるところに触れていく。湿った息が肌を撫でるだけで感じて、恥ずかしいくらい体が波打った。視界に入るふたりの肌の色の違いに、堪らなく興奮する。
 体温が高いのか、牧の体は熱くて、筋肉質な胸と腕に潰されるように抱かれると、熱をうつされたみたいにオレの体も一気に熱くなった。落ち着いてるようでいて働いてない頭で、牧はどういう気持ちで力を込めてるんだろうとか考えていた。
 太腿には勃起した牧のモノがしきりに押しつけられてて、威圧されてるような、急かされてるような気分でオレは、だけどそれを嬉しいって感じてた。昨日からずっとそうだ。牧がオレを求めてるっていう、それがカタチでわかるのが嬉しい。

 ベッドの上にうつぶせになって、膝をついて尻を掲げた、無様な格好を晒すことそのものに感じてるみたいに、体じゅうの敏感なところが疼いてる。
「あっ…!」
 冷たくて、ぬるりとした感触が尻の穴に触れた。少し硬い皮膚をした、牧の指だ。穴をほじくるようにして、じりじりと中に入ってくる。
「ぁ、んっ……」
 恥ずかしいのを気持ちいいって感じる性癖なのか、よくわかんないけどそこを触られるのは思いのほか気持ちよくて、普通にヘンな声が出てしまった。
「痛くないか?」
「うん。平気」
 意外と大丈夫だなって思ってたら「そうか。まだ小指だからな」って言われてちょっと気が遠くなった。

 牧は丁寧にそこを慣らしていった。
 尻の穴を剥き出しにして触られて、指を突っ込んで中を探られる。記憶がなくてもまともな行為じゃないのはわかってて、でも今は恐怖心よりひたすら〝いけないことをされてる〟実感に盛り上がってる。なんか絶対的なものに反抗してるって感じで……体に受ける感触とは別のところでイイ気分になってた。
「あぅっ、あ、んんっ……あっぁぁっ…!」
 ぐちゅぐちゅ音を立てて掻き回されながら前に触られると堪らなく気持ちよくて、中で感じてる気分になって頭の中までぐるぐる掻き混ぜられるみたいで──本来の目的を忘れてそれだけでイきそうになるのを、まるで見越してたみたいに寸止めされてしまった。
 牧はオレの背中に覆い被さって耳もとに囁いた。
「挿れていいか?」
 優しい風に聞いてきながら、すっかりでかくなったモノが尻に当たってる。ここまできてわざわざ聞くのかって思いながら、オレは声を絞り出した。
「いいよ、いれて……」
 後ろのほうで包装を破る音とゴムをつけてる音が聞こえて、忘れかけてた緊張とこわさが戻ってくる。尻の谷間にゴム越しのそれを擦りつけられてる時点で、もう圧倒されていた。
「っく、あ、あぁっ…!」
 棒なんかじゃなくて塊だった。ゴムを被った肉の塊。それをローションの滑りを使って押し込まれて、オレは快感とは呼べない感触に腕を噛んで声を殺した。
「うぐっ、うっ…」
 苦しくて、牧が腰を押しつけてくるたびに声が漏れた。喘ぎじゃなくて、潰したら鳴る子供のおもちゃみたいに、体の中の空気が押し出されるついでに声帯が揺れてるって感じだ。
「入ったぞ、藤真……」
 牧は静かな声で呟いて、大きな手で、ここに入ってるよってオレの腹を撫でた。灼けるみたいな腹の中とは全然違う、優しい感触だった。だからたぶん、これでいいんだと思う。

 後ろから抱えられて胸とか前とか弄られるうち、オレも苦しいばっかりじゃなくなっていた。痛みに慣れただけかもしれないけど、それよりもただ、牧のことが好きだって感じてた。
「ふじま…」
 ほとんど息だけで何度もオレを呼んで、ときどき耳とか肩とか弱く噛んできて、かわいいライオンの子供みたいって、よくわかんない妄想が頭に浮かんだ。
「好きだ、藤真……」
 言葉、感触、息遣い。苦痛のために快楽に浸りきれなかった意識も、牧のリズムに絡め取られ呑まれていく。

(結ばれてしまった……)
 体が痛い。脚の間もまだジンジン疼いてる。だけどすごく満たされた気分だ。幸せって言っていいと思う。隣でまったり横になってる牧の肩に頭を寄せる。
「まき」
「どうした?」
「……なんでもない」
 めちゃ鍛えてるなとか、肌は地黒なんだなとか、たぶんそれはいまさら藤真が言うべきことじゃないんだろうって、不意に気づいて言うのをやめた。幸せになったはずなのに、少し苦しい。
「好きだよ」
 だから事実がほしかった。セックスすればオレはお前の特別になって、昔のオレを上書きできるんじゃないかって、そんな気がしてた。
「ああ、俺もだ……」
 そう言って牧がキスをした、左のこめかみにはオレの知らない傷がある。夏の大会でやったってくらいは聞いてるけど、たぶん今のオレよりは牧のほうが詳しいと思う。
(別にさ、覚えなおせばいいだけじゃんか)
「牧。双璧の話をしてよ」
「双璧の話って?」
「うん。バスケの細かいこと言われてもわかんないけどさ、ふたりのできごとみたいなやつ。なんかあるんだろ」
 昔のオレについて話すとき、牧はすごく優しい顔してた。性的な意味かどうかはわかんなかったけど、オレのこと好きなんだってすぐわかるくらいに。オレも全然嫌な気がしなくて、それで仲よかったんだろうなって自然に思った。だけど他校のふたりが仲よくなるまでに、きっといろんなことがあったはずだ。
「……と言われても、そう特別なことはなかったと思うぞ。バスケに向き合えば自然とお前を意識することになったし、たぶんお前も同じだったと思う」
 はぐらかされた。
(どうして教えてくれないんだ)
 牧の中にあるオレの思い出をオレが全部呑み込めば、牧に寂しい顔させなくて済むと思うのに、牧はどうしてもそれを許してくれないみたいだ。

 翌朝、牧はアラームが鳴るより先に起きてたようだった。習慣ってやつか。あくびをしながら牧のベッドの中でもぞもぞしてると、笑われてしまった。
「すまん、起こしちまったな。まだ寝てていいぞ」
 オレは意地で起き上がった。昨日あれから帰るのがダルかったのと、牧もいいよって言ったからお泊まりしたものの、牧は今日も部活だ。
「パン食うか?」
「……いい。腹減ってない」
 なんも考えてなかったけど、迷惑だったかもしれない。実際腹は空いてなかったけど、ちょっとは遠慮もあって、オレは首を横に振った。
「じゃあ、腹減ったら冷蔵庫にあるもん勝手に食っていいからな。カップ麺もあるし……まあ、出前でも外食でもいいが」
 お父さんみたいだなって思ったけど言わなかった。オレは配慮するってことを覚えたんだ。
「そうだ、これ」
 牧の手から、鍵を一つ渡された。
「なに?」
「うちのスペアキーだ。外に出るときは鍵掛けてってくれ」
「ああ、うん……」
 当たり前のことで、必要だから渡されただけなんだろうけど、合鍵のイメージがあって照れくさい。さっさと身支度をして玄関に行ってしまう牧に、オレものそのそと続いて歩いた。
「あと一応ここに金置いてくから、適当に使ってくれ」
「いいってそんなの、オレだって一応あるし」
 聞こえてるくせに、牧は財布から札を何枚か取り出して靴入れの上に置いた。まあ、使わなきゃいいだけだ。
「じゃあ、いってくるな」
「はーい、いってら」
 靴を履いてこっちを見た牧に、ぎゅうと抱きついてキスをした。いってらっしゃいのキスだ。
「!! ……」
 牧は応えるみたいにオレを抱き返して、抱き返して──
「おい、はやく行け!」
 いつまでもそうしてるから、オレのほうから体を剥がして、家から追い出すみたいに背中を押して送り出してやった。

 二度寝して昼過ぎに起きて、キッチンにあったパンを齧りながらテレビをつけた。
(なんもやってねー。近くにレンタル屋があるらしいから、なんか借りてくるか)
 特別なものになったつもりでいても、牧はオレを置いて部活に行ってしまう。それを当然だって感じるのは、染み付いた記憶なのか、ここ数日で学習しなおしただけなのか。
(オレにだって、たぶんバスケしかなかったんだ)
 昨日も今日も、こうして無駄に時間を潰してるのがその証拠だと思う。
 ていうか、バスケに向き合ったらオレに向き合うって牧が言ってたの、適当にごまかされたんだと思ってたけど、ほとんどバスケ部ばっかりの生活してたら、ライバル校のやつとかそりゃ意識するようになるか……な? いまいち実感が湧かない。
 記憶が戻らないままでも、意外と困らないかもしれないとは未だに思ってる。今朝だって、いい感じに恋人みたいにできたと思うし──そうやって新しいものは積み上がっていくだろうけど、でも、昔のことは埋まらない。双璧は宝物って意味だって牧は言ってた。牧の宝物のことを、オレはずっと覚えてないままなんだ。

 夜、玄関で鍵の音がしてるのに気づいて、オレはドア前で待機していた。
「牧、おつかれ! おかえり!」
「藤真……! ただいま」
 牧は面食らって笑うと、抱きしめてキスをしてくれた。別にこれだけで充分なんじゃないかって揺らぎそうになるけど、でも決めたから、オレは俯いて牧の肩に顔を寄せた。
「牧。オレ、バスケの練習をしようと思うんだけど……付き合ってくれる?」
「!! ああ、もちろんだとも!」
 牧はオレの両肩をがっしり掴むと、いかにも体育会系な感じで揺らした。たぶん牧はすごく嬉しそうな顔してるんだろうって思ったから、体が離れるまでオレは顔を上げることができなかった。

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