3.
待ち合わせの駅は浴衣姿の人々で混み合っていた。違う場所を指定するべきだったかと辺りを見回すと、簡単に藤真の姿を見つけることができた。まず思い切り目が合って、こちらに向かって軽く手を挙げて見せた清爽な笑顔に意識を持っていかれ、人の波を乗り越えて近くまで行くと、改めてその姿に感嘆の声を上げた。
「藤真! 浴衣だな……!」
そして藤真をちらちら見ながら話している女子二人組との間に割って入るように立ちはだかる。
「おう。花火大会デートだからな!」
浴衣の袖を掴んで見せてくる、子供のような仕草がまた堪らない。ともすれば日本人離れして見える容貌だが、柔和な雰囲気に浴衣はよく似合っていた。青みの掛かったグレーに縞の入った浴衣は女子のそれのような華やかな印象ではないが、涼しげで艶やかだ。
「浴衣着てくるんなら、教えてくれてたらよかったじゃないか」
一方の牧はといえば、そんな発想にも至らず、ラフなシャツにハーフパンツというごく普通の出で立ちで来てしまった。
「浴衣持ってるのか?」
「いや、ない」
「だろ。うちは家族全員分あるからさ。でも着る機会ってほとんどなくて。……とりあえず歩こうぜ。ここ人が多すぎ」
「ああ」
歩きながら、藤真が嬉しそうに右手を見せてくる。
「指輪してきたぜ。左だとなんか慣れなくて右手にしたけど」
牧は面食らった。藤真のことだから、思わせぶりにしてなかなかつけてくれないのではないかと思っていたし、相手がいるアピールのためならば、二人一緒にいる今指輪をつける必要はないはずだった。慌ててポケットから揃いの指輪を取り出し、自らの左手に嵌める。
「お、俺もあるぞ……!」
「おいっ! 今しただろ!」
「俺だけしててお前がしてなかったら悲しいからな」
「オレを信じろよな、まったく。……お前だけ指輪してて、オレがしてない状態だと、不倫みたいに見えるのかな。男同士だから見えないか」
「不倫……」
牧は眉根を寄せる。むしろ男同士のこの取り合わせはどう見えるのだろうか。かたやサラリーマンにも間違えられる風貌で、かたや浴衣姿の美少年。指輪の問題ではない気もする。
そんな恋人の様子を気にも留めず、藤真は指輪を嵌めた互いの手を近づけて眺め、満足げに微笑した。
「すげえ。カップルみたい」
「カップルだぞ」
牧は咄嗟に口から飛び出した自らの言葉に赤面する。夜にばかり会っていた時期もあるし、ラブホテルにも行った。大人びた玩具で遊んだこともある。やることはやってきたはずなのに、ひどく初々しい響きに、なぜだか狼狽えてしまう。藤真は小さく笑った。
「ふ。そうだね」
日ごろこの駅を利用しない人々の目指す先は皆同じで、二人もそのぽつぽつとした列に混ざって歩いて行く。人が多いといっても有名かつ混雑する部類の花火大会の比ではなく、近くを歩く人との間隔が充分に取れる程度のものだ。
「有名なとこの花火も昔行ったけど、人がすごすぎて疲れて、もういいやってなったな。もっとばらければいいのにって。このくらいならいいな」
「やっぱり評判いいところに行きたいんじゃないか? 頻繁に行くもんでもないだろうし」
「まあ、わかんなくはないけど」
子供の時分には、花火が見たくて花火大会に行くのだと思っていた。しかし今は、それだけではないと知っている。手を繋ぎ、あるいは暑い中でも身を寄せて歩くカップルたちの目的は、二人での体験や共に過ごす時間であるはずだ。もう二度とは訪れない、高校生活最後の夏休み、牧を誘った理由もそんなものだった。
「……藤真」
「なに?」
「手を、繋いでもいいだろうか」
ぎこちない声色に藤真は盛大に吹き出し、自分から牧の手を握った。
「……!! い、いいのか?」
「やりたい放題ヤってるくせに、なんでいきなり童貞みたいになるんだよ」
「いや、やっぱり外だとお前は嫌だろうかと……」
しっかりと指を絡めて握った手の甲を、牧の指が確かめるように撫でてくるのがくすぐったくて愛しい。
「状況によるけど、今は暗いしなんとなく平気かな。そう他人のこと見てないだろうし、麻痺してんのかもしれないけど、見られたって慣れてるし」
「赤の他人じゃなくて、お前を知ってるやつがいたら?」
藤真の返答に納得しなかったわけではない。さして深い意味のない会話のつもりだった。
「それもまあ別に……オレは〝海南の牧のオンナ〟だからな」
「? どういう意味だ?」
「オレがお前と付き合ってる、ヤってるってのは昔つまんねーネタとしてよく言われてたことで、今更花火大会で見たくらいの話じゃ大して盛り上がんないと思う」
牧は絶句する。
「俺はそんな話、聞いたことなかったぞ」
「誰もお前に喧嘩なんて売りたくないだろ」
手を握る牧の力が強くなった。余計なことを言ってしまったと、藤真は自分に溜め息をつく。
「俺のせいか?」
「違うよ」
牧が他校生にしては親しげにしてきたのは事実だが、そんな相手は他にもいるし、品のない揶揄の数々はその現場を目撃されて生まれたものでもない。
「一年でレギュラー獲ったときは監督とヤってる説あったし、オレのことがむかつくだけなんだろ」
把握している事実を語っただけのつもりではあるが、牧は渋い顔になってしまった。覗き込んで笑い掛け、明るい声を作る。
「昔のことだから、もうそんなやつらはオレの周りにはいないからな。お前のほうこそ知り合いに目撃されてるかもよ」
「俺は別に構わない。むしろ見せびらかしたいくらいだ」
「見せびらかすってなんだよ、自慢げかよ」
藤真は可笑しそうに笑うが、対する牧はさも不思議そうな顔をする。
「ああ、自慢したいぞ? お前は最高だからな」
「えー、なんか褒め方が雑じゃねえ? なんだよ最高って」
不満げに唇を尖らせる、そんな些細な表情も含めてのことだ。
「仕方ないだろう、いいと思うところがたくさんあるんだ。帰ったらひとつずつ教えてやろうか」
「帰ったらって、完全にエロいことじゃねーか!」
「それはどうかな」
話しながら歩いているうちに会場に到着し、二人は適当な場所を見つけて腰を下ろした。
「はー」
「疲れたか?」
藤真がこの程度で疲れるわけもないのだが、咄嗟にそんな言葉が出てしまった。
「そうでもないけど。下駄なんて履いてこなくてよかった」
藤真の履き物は底の平らなビーチサンダルだった。しかしそれよりも、普段と同じように脚を開いて座るせいで、裾がはだけているほうが気になった。
「藤真、いつもと違うの着てるんだから気を遣え」
「えー?」
大真面目な顔で窘められると面白くなって、わざとがばりと脚を開く。
「おいっ」
浴衣を着た男が胡座をかく絵面は通常はおかしいものではないが、今の藤真の様相は少し違っていた。どうもあまりしっかり着付けられていなかった様子の浴衣は、簡単に裾が割れてしまい、牧の角度から太腿の内側が覗けるほどだった。牧は裾を合わせようとするが、藤真は意地悪い顔で笑うだけだ。
「別に、オレの脚とかパンツとか見て喜ぶのなんてお前くらいじゃん?」
「そんなわけないだろうっ」
過去に投げ掛けられたらしい下卑た言葉を、藤真は単純な揶揄としか捉えていないのだろうか。牧にはそうは思えなかった。そしてパンツと言われたせいだろうが、ふと藤真の下着の端が目に入る。グレーのボクサーパンツだ。
「……ん?」
既視感のある風情に、まだ閉じていた裾の上のほうまで思わずめくって凝視してしまう。
「これ、俺がやったやつか?」
「そうだよ。この時点で気づくとはさすがパンツにこだわる男。穿き心地いいなこれ」
取るに足らない雑談だったが、牧の愛用している下着は穿き心地がいいとか、いやそんなに変わらないだろうとか言い合って、未着用のものを強引に押し付けられたのだった。
「なんだ、言ってくれたらもっとプレゼントしたのに」
そう言われると思ったので今まで口にしたことはなかったし、牧に会うときに穿いてきたこともなかった。
「なんでそうなるんだよ。パンツくらい自分で買うっつーの」
牧はこちらに物を買い与えようとする傾向がある。飲み物や菓子類くらいなら気にしないが、形の残るものとなると気が引けた。親類が過剰に小遣いやお年玉を寄越すので貯まって使い道がないのだと言うが、それならば牧のために貯めておくべきだろうと藤真は常々思っていた。
「今ちょっと涼しいバージョンが出てるぞ」
「涼しいパンツって腹冷えそうじゃね?」
無理矢理渡したものではあるが、使ってもらえているとは嬉しいことだ。牧は上機嫌で藤真の股ぐらを眺めている。今の状況をすっかり忘れているようだ。
「あのさー、脚出して座ってるより、こんなとこで男のパンツ覗いてるやつのほうがよっぽどやばいと思うんだけど」
「!! そ、そうだな」
牧は慌てて藤真の裾を直し、誰にともなく居住まいを正した。
ほどなくして花火が始まった。口笛のような音、破裂の音に続いて光の花弁が視野一面を埋め尽くす。まるで伸びた火の粉がこちらへ向かってくるようで、手を伸ばせば届きそうだ。自然とどよめきのような歓声が沸き起こり、藤真も感心した様子で呟く。
「へー。結構すげーな」
赤、青、緑など、様々な色の花が咲くと、それに照らされ浮かび上がる藤真の横顔もとりどりに染まる。穏やかな表情が微かに憂いを帯びているように見えるのは、浴衣の与える印象なのだろうか。牧の視線は花火より藤真のほうへ向いてしまっていた。
「オレ、ちゃんと花火見たの久々かも」
「そうなのか?」
「しょっちゅうやってるだろ。だから、ああまたやってるなーって流す感じになって」
周囲に弱い照明があるため、夜とはいえ視覚はある程度確保されていて、大きく隙間のできた藤真の衿元から、白い胸が覗いて見えた。裾ばかり気にしているうち、衿の合わせが緩んでしまったようだ。
体育や部活の着替えの際に男の肌に興味を示したことはないし、その状況ならばおそらく相手が藤真でも平然としていられると思う。しかし今は何かが違っていて、非常に不埒な気分でそこに目を惹かれてしまう。胸から視線を逸らせば白い脚が露わになっていて、落ち着くところがない。
空には菊や牡丹が花を開いては消え、光の滝が流れ、あるいは柳のように垂れる。
打ち上げの音と歓声を聞けばそちらを見遣り、また藤真の顔を見て、胸と脚を盗み見て、我慢できなくなって裾を直し。花火大会とはこんなにせわしないものだったろうか。
短い破裂音とともに、次々に花火が打ち上がる。それらは花というより光の柱となって、暗灰色の夜空を、そして目を瞠る二人の横顔を明るく照らす。盛大で華やかなスターマインに終わりを感じながら、ふと隣を見ると互いに目が合って、二人のどちらともなく顔を寄せて唇を重ねていた。まだ続く炸裂の音に耳を塞がれ、瞑った目に感じる光は強くはなかった。ただ互いの感触に沈むように、辺りが静かになるまでそうしていた。
「……終わりかな。よかったなー、花火!」
「ああ、そうだな……」
ゆうに半分以上は藤真のなにかしらを見ていたような気もするが、花火も見ていたのだから同意の言葉も嘘ではないだろう。帰路に就きはじめる周囲に倣って立ち上がると、牧は藤真の姿を認めて苦笑した。
「浴衣がガバガバになってるぞ。直していったほうがいい」
花火の最中に覗いていた通り、胸元が大きく開き、裾も斜めに乱れてしまっている。
「ほんとだ。牧がやたら裾引っ張ったから」
「俺は直してやったんだ」
裾や衿を引いたところでどうにもならないようだったので、一からやり直したほうがよいだろうと、道の端に寄り、人の歩く側に背を向けて帯をほどいた。
「……」
「どうした?」
「これさ、閉じる向きで死人になるんだよな。どっちだっけ」
「今までどっちだったんだ?」
「覚えてない」
なんで覚えてないんだと呆れたものの、言われてみれば牧にもどちらだったか思い出せない。
「右前とか言わないか?」
「前ってなんだよ」
「前は前だろう」
「右が上ってこと?」
言い合いながらもたついていると、背後から藤真の肩を叩くものがあった。
「ちょっとあなた、大丈夫?」
着物のようにきっちりと浴衣を着た年上の女性だった。藤真の知り合いではなく、牧も知らないようだ。
「浴衣、着られなくなったんじゃないの?」
「あ、ええ、その通りで……」
いたたまれない様子で言ったのは牧のほうだった。夫婦なのか、連れらしき男性が二歩ほど離れた場所で待っている。
「ちょっと貸してね」
言うと夫人はてきぱきと藤真に浴衣を着せつけ、旅館の寝起きのようなだらしない姿から、見違えるような艶姿に生まれ変わらせた。
「おお、綺麗になったな藤真!」
「ラクに着るのも悪くはないけど、あんまりだらしないのはね」
「ありがとうございます!」
体育会系の二人の声を揃えた折り目正しい挨拶と、特に浴衣の少年の爽やかな微笑に、夫人は思わず扇子で口元を覆った。
「あらあらいいのよ、そんな」
「おい、そろそろ……」
連れの男からすれば面白くないことだろう。少しばかり申し訳ない気持ちになりつつ、気をつけてねと言って去っていった夫人に二人で会釈をした。
少し歩くと同じ夫人がまた浴衣姿の、今度は女子をなにやら助けている。
「……着付けの先生とかなのかな」
「そうかもな」
「でもピシっとしたから、食事寄っても恥ずかしくないな!」
「そうだな。最初よりちゃんとしてるんじゃないか?」
「でー、軽く食べて帰って、シャワー浴びて、セックスする!」
「それは言わなくていいだろう」
「しないのかよ?」
「しないわけないだろう!」
むきになったように声を上げてしまい、一気に顔が熱くなった。即座に藤真の手が頬に触れて、にやりと意地の悪い笑みが覗き込んでくる。
「暑いなー、牧?」
「ああ、お前の手は気持ちいいな」
頬に触れた手に自分の手を重ね、そこから外して下ろしたあともそのまま握っていた。
◇
部屋に帰り着くや、牧はいそいそとバスルームへ向かおうとする藤真の手首を掴まえた。
「そのままでしたい」
「ええ? 結構汗かいたけど」
「気にしない」
腰に腕を回して見下ろすと、再び緩み始めた衿元から覗く平らな胸元がやはり魅力的だ。
「浴衣のままがいいって?」
「浴衣デートの醍醐味じゃないか」
「エロいの見すぎなんじゃねーの。……お前がいいなら、オレは別にいいけど」
弱い明かりの中、ベッドのヘッドボードに背中を預けるしどけない和装の姿は、頼りなさげで儚いものに見えた。首筋も、布の合わせから覗く胸元も脚も、見慣れたものでありながらひどく艶やかで新鮮な印象だ。
牧はそそくさと衣服を脱ぎ捨てると藤真の隣に寄り添い、唇に軽いキスを何度も繰り返しながら胸に手を滑らせる。一度汗をかいた肌は乾いた手のひらに吸い付くような感触を与え、外の熱気を思い出させるようだった。
浴衣の中に褐色の手が潜り込んで蠢く光景はひどく背徳的で、常とは趣の異なる興奮を牧に与える。心臓をざわめかせ、股間を疼かせながら小さな突起に触れると、藤真は淡く息を吐き、もぞりと身を捩りながら膝を立てた。褐色の手は浴衣の裾の切れ目を開き、露わにした白い脚を、膝から太腿へと撫で上げる。藤真は長い睫毛を伏せて牧にしなだれ、すっかり身を委ねている。普段は行為に対して積極的なほうだが、彼もまたいつもとは違う気分になっているようだ。
緩く握った手指を控えめに飾るリングは牧が贈ったもので、今指先が触れたこの下着も同様だ。いつも至るところで意地を張るのに、今日の藤真はひどくしおらしく可愛らしい。
思えば海に行った日も至って素直で、スキンシップにも積極的に応えてくれた。場所柄開放的になったせいだと思っていたが、真意はわからない。
その翌日、一人きりになった部屋で、おかしいくらいに絶望的な気分になったことを今でも思い出せる。
最後の花火が終わったあとの、形容しがたい寂寥感が不意に蘇った。
「藤真……」
美しい思い出はまだ要らない。
ずっと燻っていた言葉が口から零れていた。
「高校出たら、一緒に住まないか?」
「……えっ!?」
藤真は驚きと疑問の入り混じった声を上げる。しっとりとした気分も一瞬で失せ、思考が混沌として、牧の言葉の意味はわかるようで理解できていない。
「ごめん、もう一度言ってくれ」
「東京の大学に進んで、一人暮らしするつもりだって言ってただろう。なら、一緒に住まないか?」
以前そんな話をしたとき、牧は海南大ではなく東京の深体大に進む予定であること、そうなれば東京に引っ越すだろうということも聞いていた。そして二人とも一つのシンプルな可能性を意識しながら、そこには頑なに触れずにきたのだった──つい、今しがたまでは。
さすがに聞き違う余地はなく、意味もしっかり理解できる。しかしどうしても指摘したいことがあった。
「お前、ムードとかタイミングとか考えないのかよ……」
本来なら告げられた内容に対して反応するところだろうが、状況に対する話題の飛躍のインパクトが強すぎる。
「この前、指輪渡したときに言おうかと思ってたんだ」
「そうだよ! それならわかる。なんで言わなかったんだよ」
不満げに、今まで申し出がなかったことを咎めるかのように、とは果たして牧は気づかない。
「指輪渡しただけで緊張したし、途端に怖くなってだな……」
「牧でも怖いとか思うことあるんだ?」
意外そうな目を向けてくる藤真に、牧は苦笑しながら頷いた。
「そりゃああるさ。いくらでもある。……あれからずっと考えてた。進路が確定するまで引っ張ろうかとも思ったんだが、お前のこと絶対手放したくないって、今、咄嗟に思って」
ときに視線を横に逸らし、照れた様子も見せながら、浴衣の衿に突っ込んだままになっていた手の指を動かし、薄い皮膚の感触を探る。
「返事は、すぐにはできないか?」
「お前、だから……なんなんだよこの状況は……」
少し硬い指は撫でるどころでなく敏感なところを摘み上げていて、落ち着いて考えられる状況などではない。
「お前の返事を聞きたいが、早くやりたいって状況だ」
硬くなった突起を指先で潰し、しきりに捏ね回す。
「ぁんっ…、もうっ! いいよ、一緒に住んでやる! それまでに破局してなかったらな!」
軽口のような調子だが、自棄ではなかった。口には出さなかったものの、藤真も想像しなかったことではないのだ。牧がそうしたいと言うなら、断る理由はなかった。
「本当か……! よかった、もちろん破局なんてさせない」
しっかりと藤真の体を抱き締め、真摯な口調で言ったかと思えば、手は下肢に伸びて太腿をまさぐっている。
「あ、んっ…!」
(忙しいやつ……)
慌ただしく決まった少しだけ先の未来について浸るより、肉体は即物的な刺激を欲しているようだ。互いに同じことではあった。
「藤真……! 嬉しいぞ、俺は……!」
牧は静かに、しかし力強く呟くと、白い太腿の覗く浴衣の裾に頭を突っ込み、藤真の下着をずり下ろして半勃ちの性器を口に含んだ。
「っ…!」
柔らかく可愛らしい感触はすぐに失せ、それは体積を増し、頭をもたげて牧の口腔内で存在を主張する。相手が男であることを明確に示されながらも、藤真の欲求をストレートに示すそれが愛しくて堪らず、夢中で舌を這わせ舐めずった。
「んっ、あぁっ、うンっ…」
こらえるような細い声を漏らしながら、腰は更なる快楽を求めるように浮いて、頭を挟み込んだ太腿の内側はしきりにぴくぴくと痙攣している。牧はいじらしい反応を悦んで意気揚々と口淫に耽り、ときおり顔を離してはその姿を眺めた。ふしだらに浴衣を乱した麗人の白い体の中心に、血肉を感じさせる色の欲望の象徴がそそり立っている。美しいとは言いがたいであろうその姿に、しかし心は躍り、惹かれてやまない。
(藤真、お前も俺と同じなんだよな……?)
ときにつれないことを言ったとて、他人にみだりに見せない場所を晒し、触れることを許し、そしてことの続きを待ちわびているのだ。自らの下半身の一点にひときわの熱が集まったと感じ、思わず喉が鳴った。
上体を伸ばして唇を求めると、藤真も応えるように顔を傾けてくれた。見た目には特に小さいとも薄いとも思わない形のよい唇だが、重ねた感触は儚げで、牧はその全体を包むかのように吸い付き、味わうように舌を這わせた。
「んっ、む……」
食物を摂取する器官を密着させ、呼気を、唾液を混ぜ合わせながら粘膜を撫で回される。強く求められ、喰らわれる感覚に陥りながらも、性器への直接的な刺激が止んだせいか、藤真の頭の底にはどこか落ち着いた思惟が漂っていた。
(卒業したら、牧と一緒に……)
力強い腕が、熱い体温が、筋肉の弾力が体を包む。そんな日々が刹那の戯れ、あるいは逃避などではなく日常になる。一体いつまで続く関係なのか──飽きられるか、互いに都合が悪くなるか、卒業とともに消滅するのかと、とりとめもなく頭に浮かべてきた可能性がひとまず消えた。
(日常……)
何の変哲もない言葉がひどく漠然としたものに感じられ、地に足がつかないような、覚束ない感覚に襲われる。
「はっ、んっ……!」
冷たく濡れた感触が柔らかな窄まりを撫でた。驚き収縮した粘膜は潤滑剤を絡めた指を簡単に呑み込んで、藤真の意識も目前の行為に引き戻される。
牧は丁寧に内部を探り、拡げていきながら、空いている手で藤真の一方の太腿を持ち上げた。浴衣の裾から伸びる白い脚と、指を呑み込む陰部とに目を細める。
「ああ、いいな、いい……」
「なに、鑑賞?」
「ああ……素敵だ。浴衣……」
牧は嬉しそうに言って唇に控えめな笑みを乗せる。藤真は満足げに目を細め、内部を撫でる指の感触に低く喘ぎながら天井を仰いだ。
(牧って、やっぱりかわいい)
今のような関係としてではないが、その存在は初対面のときから強く意識していた。そのうち純粋に、純朴に──包み隠さず示された好意の数々に、初めは優越感を抱いていたものの、いつの間にかそれだけではなくなっていた。自分もそれに応えたいし伝えたいのだと察するまでに、そう時間は掛からなかった。
「あぅっ、あぁっ…んっ、牧…っ」
秘所は三本もの指を呑み込んで、感じる場所を刺激されるたびに大きく収縮して淫猥な音を立てる。しばらく鑑賞していたいと思っていたはずが、求めるように名前を呼ばれると耐えられず、牧は藤真の耳に顔を寄せた。
「上になってくれるか? お前の姿がよく見えるように」
低い声が、湿った息が敏感な耳元を撫でる。舌で耳のふちをなぞられ食まれると、ざわりと全身が総毛立ち、血が沸騰するようだった。
「ふ……いいよ」
藤真は微笑し、二人の位置を入れ替えるために体を横にずらす。牧は猛る性器を自らの手で上下に撫でながらベッドに仰向けになった。濡らしているのだろうが、いかにも待ち構えるようでなんとも卑猥な動作だ。牧の腰の上に跨り、自ら腰を摺り寄せそれを体内に導いていく。
「あぁ……」
色も高さも違う二人の声が同じ音で重なって、思わず顔を見合わせて笑った。
「っん…ふっ……」
男の目で見ても圧倒されるサイズの男根は、充分に慣らされた体でもそう容易く受け容れきれるものではない。ゆっくりと腰を落とし、味わうように咥え込んでいく。
「あぁ、あっ……」
臀部が牧の体に触れるまで挿入し、深く息を吐く。牧はその腰を両手で掴まえ、下に──自らの腰に強く押し付けた。
「ぅあっ!」
限界と思ったところから更に深くを突かれ、声が押し出されるように漏れた。褐色の手は柔らかな太腿を愛しげに撫で上げながら、落ちてくる浴衣の裾をすっかり左右に開いて藤真の下半身を露わにする。
「力抜いて、体重掛けていいぞ」
「う、うん……」
優しいようで、非情な要求だった。脚の力を抜くと牧の先端部が体の最奥を撫でるが、ともすればそこを突き抜けて更に奥を暴かれてしまいそうな、非常に落ち着かない感覚に襲われる。しかし不安だけでなく興味も期待も綯い交ぜになっているから、恐る恐るも従ってしまう。二人での初めてのことについては、いつだってそうだった気がする。
「ぅ、あぁ……」
白い太腿に爪を立てる藤真の両の手を、大きな褐色の手が包み、交互に指を組み合わせてしっかり握る。藤真の右手と牧の左手に、揃いの銀の光が小さく煌めいた。
「藤真……」
藤真は俯いたまま、視線だけを向ける。
「これからも、よろしく」
ふっ、と小さく吹き出したが、返答までに沈黙はなかった。
「とりあえず大学の四年間はな」
「ああ……」
藤真の設定する条件や期限そのものに、さほど深い意味はない。限られた機会で少しずつ察してきたことだが、意地を張る性質であることと──信じて裏切られることを怖れているのかもしれない、だからあらかじめ終点を想定するのではないか。牧はそう感じていた。
そんな不安もいずれ払拭してやれるだろうかと思いながら、指を絡めたままの藤真の右手を引き寄せ、白く滑らかな甲にキスをした。
ベッドを激しく軋ませながら、褐色の腹が一定の調子で波打ち、申し訳程度に布を纏った白く細い肢体がしきりにその上を跳ねる。
「んくっ、んっ、あぐっ、あぁっ…」
握り合ったままの両の手と穿たれた器官とで体重の多くを支える深い結合に、苦しげに喘ぐ声は確かな快楽の色に染まっていた。
溺れるような行為だった。ただでさえ湿った空気に熱い呼気が混ざり、空調の涼しさはもはや感じない。二人の体の内も外もじっとり濡れて、まるで離れたがらないように張り付き、二つの身体の間で湿気と粘性を帯びた音を止めどなく立てている。
「ふじま……いいのか?」
「ぅぐっ、んぁっ…んっ…」
「なあっ…気持ちいいか?」
臓腑を揺さぶられ体内を掻き乱される荒々しい快楽の中、優しい問い掛けにも厳しい詰問にも聞こえるそれに、どうにか声を絞り出す。
「ぁんっ、いっ……はぁっ…まきっ…いいっ……」
「そうか……俺もだ」
安心したように白い歯を見せた、口元は穏やかだが穿つものは相変わらず傲慢で、それでいて手指はしっかりと藤真の体を支えている。そのどれもが牧の本質だった。