みわくのくすり

「新人さん達、もう第五迷宮踏破だなんてなかなかやるねえ。僕らも大変だ♪」
 オーベルフェの青い空の下、エミルは言葉の内容とは裏腹に、歌うように言いながら笑った。澄んだ陽の光を受けてその輪郭は淡く輝き、瞬きする睫毛の先にまで小さな光の粒子が煌めく。美しい光景だ、外見だけなら立派にさまになっている──ネッドは傍らでアイスブルーの瞳を細めた。
 エミルは非常に飲み込みが早く、元来胆も据わっている。二人はあれからクエストをこなしつつ順調に迷宮を踏破し、今や街では実力者の一端と認められるほどに腕を上げていた。目的も〝妖魔の行方を探る〟という漠然としたものから、〝新人ギルドに同行する娘を追うこと〟とより明確になった。しかしエミルは相変わらずエミルなのだ。
「本当ですよ。彼らのこと、見失わないようにしないと」
 ネッドは身に纏う陰を一層濃密にして溜め息を吐く。気鬱の原因は新人ギルドの進行の早さというよりは、この状況すら楽しんでいる様子のエミルだ。ネッドのスタンスはここに来てしばらく経った今でも変わっていない。任務に対する義務感は希薄で、呑気で危機感のないエミルのことがただ心配なのだった。
「でも残念だな。一番乗りになって冒険者ギルドからご褒美を貰おうって、結構本気で思ってたのに」
 麗しく整った造作に対して、不満げに唇を尖らせる仕草は随分と幼い。アンバランスは奔放さの象徴なのかもしれないと、敢えて余計なことを考えて柔らかな曲線を描く横顔から意識を逸らす。
「それなら踏破にも本気出してくれません? 遊んでばっかりじゃないですか」
「だって、迷宮の中っていろんなものが落ちてて面白いじゃん。いかにも冒険してるって感じ♪ せっかく外に出て来たんだから、みんなにお土産も持って帰りたいし」
(お土産だなんて、可愛らしいことを……)
 ついそんなことを思ってしまい、根っから厳しくはなれない。これもまたエミルの資質なのだと、自分の甘さから目を逸らす。エミルが危ないことや珍しいものを好むのも昔からのことだった。
「……そんなだから、先越されるんですよ」
 探索だ採集だと歩き回り、腹が空けば弁当を食べ、結晶床を踏み荒らし、パンの巻物ではしゃぎ、疲れながら最下層に辿り着く頃には魔物はすでに新人ギルドに討伐されていた。
「ほんとは新人さんたちと一緒にサッピアオルコンと戦いたかったんだよな。共闘って燃える♪ て楽しみにしてたのにペース配分間違えたよね。イルコフさんたちと乱交でもよかったけど」
「ゲホッゴホゴホッ……ゼェゼェ……ヘンなこと言わないでください!」
 壮年のガンナーに身体を暴かれるエミルを思わず想像してしまい、あまりのことに噎せて死にそうになってしまった。突拍子もないことを平然と口に出す、そんな悪戯にも覚えはある。しかしさすがにこれはよくない。
「なに? 僕ヘンなことなんて言ったかな?」
 咳き込んで長身を屈めるネッドを下から覗き込む、エミルの瞳は至って無邪気でまるで何が悪いのかわからないといった調子だ。
「だってらんこ……いえ、なんでもないです」
 若いなりに性欲があることはよく知っているが、きっと乱闘の言い間違いか聞き間違いだろう。
「歯切れわるいな。まあいいや、疲れたし宿にもどろ」
「そうですね……ふむ」
 思えば冒険者ギルドの報酬は迷宮の踏破に対してであって、魔物の討伐は直接の目的ではなかったはずだ。エミルは自分たちに報酬はないと思い込んでいるようだが、トラオレに確認してみたほうがいいかもしれない。
「て若!?」
 懐にあったはずのエミルの姿が消えている。大袈裟にローブを翻しながら見回すと、甘い匂いをさせる屋台にふらふらと吸い寄せられていく後ろ姿を見つけ、慌てて駆け寄った。
「若、虫じゃないんですから」
「だって、お腹がすいたよ」
「……いいですよ。これ買ってあげますから、食べながらちょっと待っててもらえますか?」
 ネッドはワッフルのようなものを焼く屋台とその傍らのベンチとを目で示す。最後まで言い終わらないうちに、エミルは前のめりに店主に向かって手を上げていた。
「やった♪ おじさん、ふたつちょうだい!」
「はいよ」
 魚の形にくり抜かれた鉄板に流し込まれた生地が、軽やかな音を立てて焼き上げられていく。間にクリームを挟み、薄く焼いた二枚を合わせれば完成だ。近辺でよく獲れる魚の形を模しているのだという。
「おまちどうさん」
「わぁい♪ ネッド、食べよ」
 受け取った茶色の紙袋に鼻を突っ込んでめいっぱい香りを吸い込む。菓子の甘い香りのみでなく、紙袋の独特の匂いがなぜだか無性に良いものに感じられた。
 会計を済ませたネッドは、エミルの仕草に思わず表情を緩める。生憎、生来の造作のせいで、彼を深く知るものにしか判別できない程度のものではあった。
「お腹すいてるんでしょう? 二つとも食べていいですよ」
「ネッドは?」
「最後まで聞いてなかったと思いますが、ギルドで事務処理する用事を思い出したんです。すぐ戻りますから、食べながらここで待っててください」
 エミルを近くのベンチに座らせて、幼い子供に言い聞かせるかのように言う。
「勝手にどっか行かないでくださいね。これ、フリじゃないですからね!」
「わかってるってば。僕ってそんなに聞き分けなさそうに見えるのかな」
「見えるから言ってるんですよ、まったく……」
 ぶつぶつと呟きながら、ネッドは冒険者ギルドの方へと歩いて行く。エミルは明るい街並みの中で異様に目立つ黒い長身が視界から消えるまで眺め、それから退屈そうにベンチの背凭れに仰け反った。
「うーん。僕、待つのって苦手なんだよね」
 一人ならば尚更だ。当然ネッドも承知していて、だから菓子を買い与えたのだ。育ち柄、行儀は悪いほうではないから、食べ歩きながら危ない場所に行くようなことはないだろう、と。
「お腹すいてるからって二つ頼んだわけじゃないんだよな」
 エミルはまだ暖かい紙袋を抱え、大真面目な顔で考え込む。
(あったかいまま食べるのと、二人で食べるのと、どっちがおいしいかな)
 穏やかな風が吹き、鳥が鳴き、散歩する人が通り過ぎていく。難しい顔をしていたのはさほどの時間ではなかった。
(ネッドがすぐ戻ってきて、あったかいうちに二人で食べるのが一番いいね♪)
 紙袋の口を閉じ、体に括り付けた鞄に大切に仕舞い込む。冒険中の道具袋はネッドが管理しており、この鞄は完全に私物用のものだ。中に古びた小瓶を見つけ、驚き見開いた目を輝かせる。
(すっかり忘れてたけど、今日はいいもの拾ったんだよね♪ じゃーん!)
 エミルの手の中に収まってしまうほどの小さな瓶の中身は〝魅惑の水薬〟。使用者の身に相手の注意を引き付けるようになる薬だという。
 迷宮内で使えば魔物を引き寄せる。盾役のいない我々には危険なだけだと、以前入手したときにはネッドが崖下に投げ捨ててしまったのだが、今日は捨てられる前に鞄に忍ばせた。
(だってさ、魔物のいない場所で使ったらどうなると思う? ネッドだって僕に夢中になっちゃうんじゃない!? ドキドキする……!)
 ネッドはその手の欲求が極めて希薄だと言うが、それでも里にいるときにはエミルが求めれば応じていた。それがオーベルフェに来てからというもの、拒絶するばかりなのだ。
(任務中だって宿屋にいたら危ないことなんてないのに。妖魔ってやつは鈍感みたいだしさ)
 エミルとしては常と違う環境だからこそネッドと交わりたかった。違う空気の中で、二人で一緒に新しいことをしたい。ごく単純に、前回からの期間が空き過ぎているとも感じていた。
(でも、これがあればきっと)
 夢の詰まった小瓶を太陽に翳して眺める。効能を知っているせいだろうが、ごく淡い琥珀の液体はどことなく妖しげに輝いて見えた。
 ──バサバサッ!
「カァー! カァー!」
「わわっ!?」
 ガラス瓶の反射する光が目に付いたのか、大きな鴉が急降下して襲ってきた。くちばしの一撃により手の中から弾き飛ばされた小瓶は放物線を描き空に舞い、エミルは慌て地面を蹴って腕を伸ばす。なんとか瓶は捕まえたものの、勢い余って蓋を弾き飛ばしてしまっていた。
「あっ……!?」
 瓶の口から溢れ出したきらきらと光を帯びた水滴が、エミルの頭上に降り注ぐ。可笑しいくらいにスローモーションで再生される光景に、しかし為す術はない。
 祈るような気持ちで瓶を凝視するが、中身はすっかり空になっていた。
「これ、飲み薬……だよね……なくなっちゃった……」
 これでは今夜もまたネッドと愛し合えない。失意のエミルはその場に座り込み、深い悲しみに包まれながら頭を垂れた。
 と、背後から声を掛ける者があった。
「おう、どうしたんだい王子様。腰が立たねえってか」
 やや呂律の回っていない、粗雑な口調だ。顔を上げて振り返ると、赤い顔をした白髪の男がこちらを見下ろしている。
「あ、酒場の酔っ払いさん」
 度々見掛ける顔だが、まともに会話をしたことは未だなかった。関わる価値のない人間だといって、ネッドが跳ね除けてしまうのだ。男は目を細め、口元を歪めてニタリと笑う。
「なんだい、一人なら俺の相手をしてくれよ、ゲヘヘッ……」
「お酒の相手かな? いいよ、今ネッドいないし」
 平和な里の中で丁重に扱われてきたエミルは、魔物の出現しない街中で自分に危険が及ぶ可能性を基本的に想定しない。知らない人間への単純な興味も相まって、考えもせずに頷いていた。
 言い終わらないうちにぐいと手を引かれ、半ば強引に連れて行かれる。向かうのはいつも足を運ぶ黄金の麦酒場の方向ではなく、やがて昼でも薄暗い裏路地に入っていく。
「ヨボさんのとこの他にも酒場があるのかな?」
 見知らぬ人間に連れられて人気のない建物の狭間を歩きながら、あまりに呑気な発言だった。エミルは一際強く腕を引かれ、勢い余って前方に倒れそうになる。
「うわっ!?」
 不安定な体勢を男に支えられたと思うや、両の肩を掴まれ背中を壁に押し付けられていた。脚の間に男の膝が割り込んでくる。
「なに!?」
「相手してくれるんだろぉ? なぁ?」
 卑しい笑みを浮かべ、酒臭い息を獣のように荒くしながら顔を近付けてくる男に、さすがのエミルも状況を理解する。
「はっ!? それは無理!!」
 本気で危機を感じて思い切り突き飛ばすと、男は後方によろめいて木箱やら樽の積まれているところに突っ込んでしまった。
「ぐわあぁ!」
 ドスン、ガタン、積まれていたものが崩壊して大きな音を立てる。当のエミルも男の体が心配になってしまうような惨状だ。
「だ、大丈夫かな……?」
「なんだなんだ! 喧嘩か!?」
 騒ぎを聞きつけたのであろう、海賊風の身なりの男たちが駆け寄ってくる。アントニカのギルドの者だろうか。
「ちょっと酔っ払いに絡まれちゃって。僕は平気だけど、むしろあの人のほうが」
 すっかり瓦礫だか積荷だかに埋もれてしまった酔っ払いを指差すが、男たちはそちらには目もくれずにエミルを取り囲む。
「へぇ、王子様、意外と強いんだなァ」
「そうだよ。僕、このところ毎日迷宮に冒険にいってるからね♪」
 妙に距離を詰めてくる男たちに違和感を抱かなくもないが、褒められて悪い気はしない。エミルは腰に手を当てて胸を張った。
「そりゃあイイ。俺たちも冒険者なんだ。仲良くしようぜ」
 一人の男の逞しい腕が細い肩を抱く。
「?」
「そそ、仲良く、仲良く」
 別の男は二の腕に指を絡め、感触を確かめるようにまさぐった。
「っっ!?」
 改めて男たちを見上げると、ある者は顔に赤みが差し、ある者はニタニタと笑みを浮かべ、皆一様にぎらついた目をしてエミルを舐め回すように見つめている。もしや頭から浴びた魅惑の水薬のせいなのだろうか。先ほどの酔っ払いだけならまだしも、続けてのこの状況はそうとしか思えない。
 男たちはエミルを羽交い締めにして、その手を下肢にまで及ばせる。
「さ、触るな! 手を離せ!」
 じたばたするが、脚を捕まえられ、却って男の手を鎧の下の無防備な部分に誘い込んでしまう。エミルも一般人よりは腕力はあるとはいえ、屈強な海賊の男が何人も掛かれば子供の相手をするようなものだった。鎧に覆われていない部分を探る乱暴な手の感触に寒気がする。
(このままじゃ僕、屈強な海賊たちの獰猛な肉棒で調教されてカラダで稼がされた挙句に奴隷商人に売られちゃうよお!)
「やぁっ! いやだ! ネッド……!」
 エミルが悲鳴のような声を上げるや、凛々しい女の声が響いた。
「何やってんだい、おまえたち!」
「げぇっ! お頭!」
「アントニカさん!」
 男たちの頭の間から、豊かなブロンドを靡かせる長身に女の姿が見える。彼らのギルドのリーダー、女海賊のアントニカだ。理性を失った風であった男たちもさすがに動きを止める。
 アントニカは恐ろしい形相で腰のサーベルを抜き、男たちに突きつけた。
「へっ!?」
 エミルは目を丸くする。助けて欲しいのは山々だが、街中で武器を振り回すほどのことはして欲しくはない。
「大の男が寄って集って一人の女の子を無理矢理だなんて、おまえら本当に最低だよ。覚悟しな!」
「あっ、あ、僕でーす! 女の子じゃないよ! あとこれは薬のせいだから、そんなに怒らないで! 僕のために争わないで!!」
海賊たちの間から顔を覗かせて手を振るエミルの姿を認めると、アントニカはすぅと目を細めた。
「ふぅん……」
 エミルのことは知っている。しかし今はそれだけではない。
「男の子だったらいいってもんじゃあないけど、今回はエミルに免じて見逃してやる。とっとと持ち場に戻りな」
「へ、へい!」
 海賊たちは蜘蛛の子を散らすように逃げて行き、アントニカは武器を仕舞うとエミルに歩み寄って手を差し出す。
「あ、ありがとう、アントニカさん……」
 上体を屈めたアントニカの胸の谷間がいやに目について、エミルは目を逸らしながらもその手を握る。アントニカはエミルを助け起こすと、マントの形を整えて埃を払ってやる。
「まったく、あんな奴らだとは思ってなかったよ……」
「あ、えと、だからそれは薬のせいで、彼らは混乱してただけっていうか、本当に」
 身嗜みを整えるという以上に、アントニカが不自然に体を触ってくるような気がする。女性ならば平気かと思ったが、嫌な予感がしてきた。
「ねぇエミル、もっと用心しなきゃだめだよ、あんたかわいいんだからさ」
 細められた切れ長の瞳は獲物を狙う蛇のような妖しい光を湛え、薄い唇の端が綺麗な弧を描いて釣り上がる。
「いっそ私のモノになったら、守ってあげられるんだけど?」
(や、やっぱり……!)
 男の海賊たちよりよほど男前な女の凄味に目眩がした。
「海賊船にだって乗せてやる。冒険が好きだろう?」
 正直なところ非常に惹かれる提案ではあったが、なにしろ今のアントニカは正気ではない。エミルはぶんぶんと首を横に振った。
「うぅっ、だめ! だめなんです! あなたは正気じゃないし、僕には心に決めたひとがいるからっ!」
 そしてアントニカの脇をすり抜けて駆け出す。
「っふ、素早さで私に敵うと思うのかい?」
 長身ではあるがしなやかな筋肉に包まれた体躯に重々しさはなく、長い脚で踏み出す一歩はエミルよりも随分と大きい。敢え無く追い付き、今まさに手が届こうというとき、アントニカの視界は白い光に覆われる。
「……!?」
 眩しさに目を閉じたアントニカが次に目を開いたとき、エミルの姿は忽然と消えていた。

「ああ〜! ビクトルだ〜〜!」
 助かった、そしてよく知った顔に出会えた安堵感から、エミルは思わずビクトルに抱きついていた。アントニカに使った目眩しは〝人間の前で能力を曝さない〟という一族の掟に反することだったが、相手は正気を失っていたのだ、おそらく何も覚えてはいないだろう。助けてもらったのでそういうことにしておく。
「そんな物欲しそうな顔してフラフラ出歩いてるから、悪いヤツに食われそうになるんですよ」
 ビクトルはごく自然な動作でエミルの腰に腕を回し、ぴたりと身体を密着させる。
「わぁん! ビクトルお前まで!!」
 言い草からしてビクトルも薬の影響を受けているようだが、しかし彼は元からこういったところのある男だ。そのためかどうにも危機感が湧かない。馴染みのない土地の中で、数少ない同じ精霊族の同胞だということもあるだろう。
「お前までって、なんですか?」
「僕は普通の顔してるからなっ! お前が僕にヘンな気持ちになるとしたら、それは魅惑の水薬のせいだからっ」
「普通? へえ、これが?」
 ビクトルの指先がエミルの顎を捕らえ、優雅な動作で上を向かせる。武器を握る男の手でありながら、踊りを生業にするその感触はしなやかで優しい。
「な、なに」
 女の子みたいだなんて言わせないぞと、キッと凛々しい顔をしたつもりだ。青藍の瞳がエミルを試すように覗き込み、甘いマスクがニヤリと笑う。
「エッチなことしたくてしたくて仕方ない、って顔してますけど?」
「!?」
 それは紛れもない事実だった。無論、相手は行きずりの人間でもビクトルでもないが、交わりたい強い欲求があればこそ薬を隠し持ったのだ。本当に顔に出てしまっていたのだろうか。
「欲求不満なんだろ?」
 凄絶な色を帯びた嗜虐的な声が鼓膜を撫で、エミルは身体中の血が沸騰する心地だった。
「オレなら絶対満足させるし、もっとすごいのも教えてあげる」
「すごいの、て……」
「すっごく気持ちいいコト。若、普通のプレイしか知らないだろ?」
「うぅう……」
 ビクトルがそう言うのなら、それはもう間違いなく〝すっごく気持ちいい〟のだろう。若い肉体に宿る欲求をうまく昇華できずにいるエミルにとって、いたく魅力的な話だった。
「なあ、別に悪いことじゃないだろ? 互いに同意があって気持ちいいことをするってのはさ」
 耳元に熱い息を吹き込むように囁かれ、全身が総毛立って汗が噴き出す。悪感ではない。悪徳の裏に潜む強烈な快楽の予感に体の芯が疼くようだった。それでもなけなしの理性で頭を振る。
「だめだよ、僕には……」
「可愛いエミル。それじゃあ、オレと恋人ごっこをしよう。恋人なら抱き合ったって、エッチなことしたって悪くはないだろ?」
 意味深く微笑う唇に、甘い声で、名前を呼ばれるだけで目眩がしていた。エミルはビクトルの服をぎゅっと掴む。身体を寄せ合っても鎧のせいで体温を感じないのがもどかしい。
「うん……ぼく、ビクトルなら、いいかなって……」
「エミル……」
 接近してくるビクトルの顔の背後に炎のように蠢く黒い影を見て、エミルは驚きに目を見開く。
 ──ゴッ!
 鈍い音がしたと思うや、白目を剥いたビクトルが倒れ込んでくる。二人に覆い被さるかのような大きな影の正体に、エミルは既に気付いていた。
「ネ、ネッド」
「いいわけないでしょっ!」
 ネッドはもともと血の気のない顔色を一層白くして、細い手指が震えるほどに強く杖を握りしめている。
「若、一体何が──」
 答えを聞くより早くに違和感の正体に気付き、ネッドは魔杖の先端に意識を集中させて首から下げたベルを鳴らす。
「それが実は、ネッドを待ってる間に事故に遭って魅惑の水薬を浴びちゃったんだよね……て僕の身体消えてない!?」
 意識も声も確かにあるのに、いつもは視界の端にあるはずの前髪も、自分の手足も身体も見えなくなってしまった。ネッドの姿は変わらずそこにある。
「ええ。少しの間、消えていてもらいます。何もないところにはさすがに欲情できませんからね」
「ふぅん。見えないだけで、存在はここにあるんだ。面白いね♪」
 ネッドのローブの端がひとりでに動く──のはいつものことではあるのだが、今はネッドの能力ではなくエミルが手で引っ張って揺らしている。
「何が面白いっていうんですか。存在まで透明になってるわけじゃないですから、剣の素振りに当たったり馬に蹴られたりしたら怪我しますからね。気をつけてくださいよ」
「そっか。見えてないから相手から避けてくれないのか。危ないからくっついとくね」
 エミルはごく軽く言ってローブにぴたりと寄り添う。全く悪びれた風のない様子に、ネッドは深く息を吐いた。彼の痕跡を追ってここにたどり着くまでに、海賊の男たち、木箱の散らかった裏路地、倒れた酔っ払いなどを見てきてどれだけ心配したかわかっていないのだろう。
「……まったく。さあ、宿に戻りますよ」
 姿の見えない状態できまぐれに逃げ出されでもしたら厄介だ。小言も事情聴取も後にする。
 道中、ネッドの傍らから声だけが聞こえていた。
「ビクトル、大丈夫かなぁ……」
「私の殴りなんて大したことないの知ってるでしょ」
「ネッド、ビクトルのこと呪ったりしないでね」
「誰のせいだと思ってんですか。そう思うなら軽率な行動は慎むことです」
 エミルを見つけるまでに見た光景が自然発生したものでないことには薄々感づいていた。ビクトルを殴ったのは反射的なものだったが、魅惑の水薬を浴びたという一言で大方の想像はつく。
「ネッド、僕が他の人とやったら怒るんだ」
「はっ!? そういうことではないでしょう。くだらない薬を使って、自ら危険を引き寄せて……ビクトルだって、あなたの様子がおかしいことに気付かなかったとは……」
「ビクトルは──」
 言い掛けて言葉を呑む。本当に呪うようなことはないだろうが、ネッドからビクトルへの心証をあまり悪くしたくはない。
(ビクトルはもっと、いろんなことに気付いてたよ)
 あのときビクトルに対して揺らいでしまったのは薬のせいではなかったはずだ。きっとああいった刺激を求めていたし、それを汲み取ってもらえたようで嬉しかったのだと思う。
 エミルの言葉が続くことはなく、そも傍目には独り言を言っているようにしか見えていなかったネッドも黙り込む。次にエミルが口を開いたのは、連日宿泊している温泉宿こもれびの自室に二人が帰り着いた後だった。
「あの場で……他の人のいるところで薬を浴びたのは想定外の事故だった。本当は、宿に戻って二人きりになってから使うつもりだったよ。どうしてだと思う?」
 ネッドの態度がいかにも不服だと、表情がなくても声色から充分に伺える。エミルが何を言いたいのかわからないわけではない。
「……早いところ、お風呂に入って薬を洗い流してください。そうしたら術を解いてあげます」
 姿が見えないままのエミルの背中を押して室内の浴室の脱衣所に押し込む。さすがに今日は露天風呂というわけにはいかない。
 ばさり。何もない空間から唐突に脱衣カゴの中に赤いマントが現れた。案外と聞き分けよくエミルが服を脱ぎ始めたと見ると、ネッドは脱衣所の戸を閉めて部屋に戻っていく。
 自身の手も足も見えないが感覚や感触はあって、すっかり身に付け慣れた装備品を外していくことにはさほど手間取らなかった。ようやく二人きりになれたのに薬を流してしまうのは勿体無い気もしたが、姿が見えない状態では薬の効果もないようなので、大人しく従って元に戻してもらうしかない。
(ネッドにとっては、くだらないことなんだよね)
 悶々と考えながら頭をシャワーで濡らし、もこもことシャンプーを泡立てていく。薬が落ちているのかどうなのか、自分ではよくわからないから念入りにしないといけない。
(もともとあんまり興味ないって言ってたし、僕みたいに我慢できないってなることもないかも)
 自分の愉しみがネッドにとっては面倒ごとでしかないのかもしれないと考えると、急激に悲しくなってきた。欲求の度合いが違うことは昔から知っていた。それでも求めれば応じてくれたし「私がこんな欲求を抱くのはあなただけ」と言われて単純に舞い上がっていたものだった。
 頭を流し、長い髪を一つに纏め上げ、身体も念入りに洗っていく。
(でも僕がビクトルとしたらネッドは怒るみたいだし……)
 ビクトルには、エミルが抱える欲求はごく当然のものだと言われたことがある。術師や学者の類には変わり者が多く、こと精霊族ともなればそれは顕著なのだとも。ならば、ネッドではなくもっとペースの合う相手を見つけるべきなのでは、という考えに至らなくもない。
(ううん。僕はやっぱりネッドが好き)
 似たような内容を何度もぐるぐると考えているせいで、随分長いこと身体を洗っているような、そうでもないような──時間の感覚を失ってしまう。
(……よくわかんないね)
 まあそろそろ良いだろう、と身体を流して湯船に浸かった。

 暖かく濡れた感触と息苦しさとに、ネッドは瞼を上げる。エミルを風呂に入れてソファに腰掛けたきり、眠り込んでしまっていたようだ。迷宮探索の後でエミルを探して歩き回ったのだ、疲れが出るのも無理はない。おかげで身体もずっしりと重く──いや、違う。
 ネッドはじわりと暖かい身体の上の、何もない空間を抱くようにゆるゆると腕を動かした。そこには確かに柔らかな布に覆われた肢体が存在している。
 視界には天井しか見えなかったが、唇に触れる淡い皮膚の感触は交わりを深くして、口腔内に濡れた粘膜を押し込んでくる。ざらりとした感触が上顎をなぞった。
「ふ……」
 目を細めて微笑し、解呪に意識を集中させる。赤い線の収束していくイメージの次に、カラン、とベルの音が二人の頭の中に反響する。瞳を閉じて、再び開くと、バスローブ姿のエミルがネッドの膝を跨いで伸し掛かっていた。
「あ。呪い解けた」
 風呂を上がってすぐなのだろう、髪の毛は頭の上で一つに纏めたままで、布越しでも肌の火照りが伝わってくるようだ。バスローブの裾から手指を忍ばせれば、太腿の感触は柔らかくしっとりとして、誘うようだった。
「んっ……」
 ひどく久しく感じる骨ばった指の感触に、エミルは小さく身じろぎして不思議そうに目を瞬く。
「薬、ちゃんと落ちてない……?」
 首を傾げるエミルに対して、ネッドは無表情のまま、さも当然の調子で言った。
「薬なんてなくても、私たちはもともとこうじゃないですか」
「そりゃあ、そうだけど……」
(オーベルフェに来てから、拒んでばっかりだったのに?)
 突然の心変わりが不思議ではあったが、余計なことを言って気を削いでもいけない。エミルは黙り、両の手でネッドの頬を愛おしげに包む。こんな風にするのも随分と久しぶりだ。
 冷めた薄青色の瞳。血の気の淡い肌に淡雪のような銀の髪。全身に纏った陰の気配。幼い日、一目見た時から惹かれて止まなかった彼の色。
「素敵だよ。ネッド……」
 エミルは囁くように言って陶然と目を細め、青白く薄い唇に、愛らしい桜色の花弁を重ねた。ネッドの冷たい唇に舌先を這わせ、受け容れるように緩く開かれたそこに闖入して内奥を探る。求めるように引き込まれ、ぬるりと蠢き絡み合う感触が、体の内奥にまで響くようだった。
「んん、むぅ……」
 すっかり昂ぶったエミルの身体はしなをつくってネッドに寄り添う。体の中心に硬く隆起した熱の存在を感じながら、痩せ細った手はそこには触れず、太腿の柔らかな内側を撫で上げ、或いは身体の輪郭をなぞって小ぶりな尻を揉みしだく。
 小さな身体は期待に震え、強請るように腰を擦り寄せてくる。唇を一旦は離し、再び角度を変えて重ね、何度も何度もキスをしながら、枯れ枝のような指は若々しい肉体の感触を愉しむ。吸い付く膚の摩擦は心地よい。綺麗な皮に覆われた肉と体液と、流麗な大腿骨を想うととても落ち着いてはいられない。極めてその気になりにくいというだけで、一度火がついてしまえばネッドは寧ろ貪欲だった。
 ふっくらとした唇の端を伝う唾液を舐め取り、顎を食み、首筋にキスを落としていく。
「あふっ、あぁ…♡」
 エミルは小さく喘ぎ自ら首を差し出すように仰け反る。ネッドは扇情的にしなる頚椎を愛撫し、白い膚に薄ら透ける動脈を舌先で辿り、小さく隆起した喉仏を口に含んで甘く噛み付く。
「はっ…」
 華奢な鎖骨を撫でてバスローブの襟を大きくはだかせると、ネッドの目は一点に釘付けになる。平坦ではあるがなだらかな線を描く胸の中心が、目に見えるほどにピクピクと脈打っていた。
 乾いた手のひらにどくどくと震える脈動を捉える。滑らかな皮膚の下、彼の淫らな心臓は艶かしく蠢いて、甘やかな血潮をしきりに呑み込み吐き出しているだろう。常時はひた隠しにしているネッドの欲望が、腹の底から湧き上がって明確な形を帯びていく。
「ん……」
 こうして唇を重ねれば、交えた唾液も吹き込んだ息も彼の中を巡って彼のものになる。或いは自分は彼の吐息を酸素にして生きている。他の者になど触れさせたくもない。
 上気して全体に淡く色づいた肌の上で、皮膚の薄い箇所はひときわ鮮やかな色をして、いかにも触れて欲しそうにぷっくりと膨らんでいる。誘われるまま、その中心で上を向く小突起を指先に捉えた。
「あんっ! あ、あ、あぁっ……♡」
指の腹で胸の上を転がすように撫で回せばもどかしそうに体をくねらせ、小刻みに爪先で弾けば歓喜に震えて鳴くように声を上げる。
「やっ♡ おっぱいだめ…♡」
 赤い顔で甘い声で、強請るように胸を突き出しながら言われたところで何の抑止力にもならない。二つの指で痼りをきゅうと摘み上げ、尚も捏ねるように愛撫する。
「だめ? なぜ?」
 いつもはへの字に引き結ばれた薄い唇が、嗜虐的な笑みを載せて歪んでいる。冷たい色の瞳の奥に陰とも炎とも言い難いものを視てエミルはぞくりと背筋を震わせる。
「ん、感じちゃう、からっ……♡」
「いいですよ、感じて」
 弄り回されて血の色を濃くした乳首を手のひらに捉え、胸全体を揉みしだきながら愛おしげに目を細める。
「ぁんっ♡ だって、僕、もぉ…」
 待ちきれないというように、エミルは自らバスローブの帯を解いて身体の前面を露わにする。下腹部には若い猛りが反り返り、潤んだピンク色の先端からは粘ついた体液が滴り落ちて長い糸を引いていた。微細な血管を浮き上がらせ、まざまざと肉の色を見せつけながら震えるそれは品の良い容姿にはまったく不似合いで、その不均衡が一層ネッドを煽った。
「いけないひとだ」
「ひんっ♡ だって…!」
 先端に触れる、乾いた指先の感触に鋭い快感が走り、身体全体が震えてまた溢れる蜜が下品に糸を引く。熱を孕む粘膜とは対象的に白く冷めた指先は体液を搦め捕り、塗り広げるように先端を撫で回し、淫らな幹を握り込み扱き始める。
「あっ、あんっ、やだよ待って……!」
 エミルは身体を折って声を上げながら、ネッドの手首を両手で掴んで引き剥がす。
 膝立ちの体勢から腰を下ろし、両の膝を立てて身体の中心を見せつける。脚の間にはふっくらとした陰嚢の奥に、ぷくりと膨らんだ窄まりが覗いていた。
 エミルは陰嚢を持ち上げ、期待にひくつく蕾に自らの指を挿入して見せる。
「ん……僕、もう、準備オッケーだから、ネッドのおチンポでイかせて欲しいな♡」
 ネッドは深く息を吐き、自らのローブの裾をはだいて前を寛げる。エミルは手を伸ばし、ネッドの落ち着いた佇まいには不似合いな熱の塊を捉えた。
「ネッドも準備オッケーみたいだね♪」
 引き摺り出したそれは長大で筋張って反り返り、ネッドが表に出すまいとする欲求をエミルにまざまざと見せつけて悦ばせる。
「こんなの入ったら、身体の奥の奥まで届いちゃうな♡」
 もはやそれが欲しくて仕方がなくて、陶然とした面持ちで手のひらに唾液を垂らし、性急にその表面を濡らすように愛撫した。腰を浮かせると、ネッドも応じるように下半身をずらして昂りを充てがう。感触を確かめるように、二度、三度、尻の谷間にそれを擦り付けた。
「あぁ……硬い……♡」
 遊ぶ仕草を咎めるように、ネッドはエミルの細腰を捕まえて自らの昂りを突き立てる。
「ふあ、あぁ……入って、くる……♡」
 小さな蕾はふしだらに襞を拡げ、大きく張り出した先端部をずるりと呑み込んでしまう。身体を開かれ、体内を抉られていく快感はエミルの記憶にあるそれよりずっと強烈だった。
「あぁ、あ……!?」
 熱い肉の塊がゆっくりと内壁を押し分け、拡げて、敏感な場所を擦り上げる。それに引き摺られるように、強烈な快楽の波が押し寄せて一点に収束していく。
「ウソ、すご…待っ、あ、あぁぁぁっ……♡」
 ──びゅるるるっ! 
 エミルは張り詰めた淫茎を大きく震わせ、濃厚な精液を勢いよく吐き出していた。ネッドのローブに白濁が落ち、青臭い匂いが立ち込める。瞬間、ネッドは強く締め付けられて動きを止めるものの、びくびくと痙攣するエミルの中が緩むと再び少しずつ身体を進めていく。
「あんっ♡ またっ♡」
 一度では吐き出し切らなかったものが、ネッドが進むたびにぴゅっぴゅっと噴き出し、エミルの腹やネッドの服を汚す。
「出ちゃっ♡ 止まらないよぅ♡ アアァッ…♡」
 ひとしきり吐き出しても終わりの実感のないまま、体の最奥を穿たれる強烈な快楽に仰け反った。
「いあ、あぁあっ…♡」
 先端を押し込むようにぐりぐりと腰を動かされると、自分でさえも知らない身体の深部を灼かれるようで、恐怖と紙一重の得体の知れない興奮に襲われる。
 人並み外れた逸物をエミルの中に収め、ネッドもまた快感に打ち震えていた。愛らしい主君があられもない姿を曝して、そのはらわたに醜い肉杭を銜え込んで喘いでいる。不道徳な姿態に視覚を犯される心地だった。
 弾力を帯びてみっちりと纏わりつく内壁がきゅうきゅうと締め上げてくる。心地よくはあるが、このままでは埒が明かない。
「動けますか? エミル」
「も、もちろん…♪」
 エミルは囀るように喘ぎながらゆっくりと腰を持ち上げる。ずるずると引き抜いてもまだ先端は体内にあって、これほどのものを受け容れていたのかと実感すると一層昂ぶった。
「はぁっ……♡」
 息を荒げながら腰を落とし、再び持ち上げる。そうしてエミルが身体を上下させるたび絡む襞で至る所を締められ扱かれて、堪らずネッドも腰を使い出す。
「あっ、あ、あぁ、あっ……♡」
 体を打ち付ける弱い音とソファの軋む音にエミルの嬌声が一定の調子で混ざる。緩慢だった動作はどちらともなく激しくなり、男の象徴を咥えこまされ何度も最奥を突かれるエミルは女性的な絶頂に導かれていく。
「あんっ…おくっ……きもぢい、よぉ……っ♡ あぁ、あひ、あぁぁぁっ……♡」
 悲鳴のような声を上げてネッドにしがみつき、びくびくと全身を痙攣させる。余程内部が感じるのか、陰茎は半勃ちで、先端から透明な体液をとろとろと垂らしている。
「あっ、あぁっ…! ぼく、またイッちゃったぁ……♡」
 そうは言うが到底収まらないようで、内部は緩やかにうねり、最奥はなおも強請るように吸い付いてネッドの敏感な先端を撫で回す。促されるかのように感じて腰を浮かせれば、エミルもまた応じるように身体を揺らした。
「あんっ、あ、ネッド、ネッド……♡」
 腰を振るたび陰囊と竿が揺れるさまがなんとも浅ましく愛らしい。ネッドは滴る体液に濡れた囊を指で持ち上げ、やわやわと揉みしだいた。
「ひゃんっ♡」
 エミルが身体を震わせれば、ネッドもまた戒めのように締め上げられる。
「そんなにイイんですか? エミル?」
 問いながら腰を持ち上げ、内部を搔きまわすように動かす。
「あんっ♡ イイッ…! かんじるとこぜんぶっ♡ ネッドのおチンポでこすられてっ♡ すっごくえっちだよぉっ♡♡♡」
 息を乱し声を上ずらせながら、品のない言葉を吐くさまは滑稽でしかないだろうに、無性に愛おしくて、心を掴まれて仕方がない。
「ネッドもぼくのナカでいっぱい気持ちよくなって♡ 命令だぞっ♡」
 瞳をとろんとさせたエミルの顔が近づき、ネッドの唇を食む。
 ネッドは深く息を吐き、自らが達するまでエミルの身体を揺さぶり続けた。

 ソファの上だけでは飽き足らず、二人はベッドに場所を移して尚も交わった。ネッドも服を脱ぎ捨て、肌を重ねて互いの体温を直接感じ、背後から獣のように深く繋がり、或いは手を繋ぎ指を絡めて抱き合った。
 やがて疲れ果てて眠ってしまったエミルの傍ら、ネッドは鬱々とした気分でいた。いつものことではある。
 ネッドは自ら性的衝動を抱くことが少ないというだけで、性欲がないわけではなかった。一度火が着いてしまえば衝動には抗い難いもので、エミルが求めるのならば尚更だ。
 そして基本的に寝付きの良いエミルにこうして一人取り残され、やりすぎたのではないか、体格の差もあるのだし自重するべきでは、と悶々考え込む。行為そのものを頑なに拒んでは今日のようなことが起こってしまうし、長く生きているだけ知識は豊富だと思っていた分、エミルと関わると想定外のことが多くて参ってしまう。
「ネッド……」
 弱い声の主を省みるが、瞼は安らかに閉ざされ金の睫毛が扇型に影を落としていた。どうやら寝言のようだ。
(薬などなくとも、あなたは誰からも愛される資質を持っているのに)
 エミルの入浴中に一眠りしたこともあって妙に目が冴えているが、そろそろ寝なければ明日に差し支えるだろう。もっとも、明日はまだ次の迷宮には進めないかもしれない。トラオレが曖昧な口調でそんな内容のことを言っていた。

「ああ〜!?」
 翌朝、エミルは私物の鞄を覗き込んで声を上げる。起こされたネッドはいかにも面倒臭いといった表情をしながらも、ベッドを這い出てエミルの元へ歩いた。
「どうしたんですか、朝っぱらから……」
「おやつ忘れてた!」
 鞄から取り出された茶色の紙袋には見覚えがある。昨日屋台で買ったものだ。二つ買ったうちの一つしか食べなかったのかと考えたが、袋の中からエミルが取り出した小さな包みは二つあった。そのうちの一つが手渡される。
「食べなかったんですか?」
「ネッドがすぐ戻るっていうから、一緒に食べようと思ってて」
 ネッドは表情こそ変えないものの、いたく動揺していた。エミルの行動の根底にあったものは何だろう。自分の自惚れかもしれないし、単に腹が空いていなかっただけかもしれないが。
『可愛いエミル』
 昨日ビクトルの口から同じ言葉を聞いたとき、腑が煮えくり返るようだった。あの男の軽薄さに対してかもしれないし、思うばかりで素直に発せない自分に対してかもしれない。
 エミルは包装紙を剥がし、魚の頭に鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅いでいる。
「ヘンな匂いはしないけど、よくわかんないや」
「大して暑くなかったですから、腐ってはないと思いますが」
 表面の様子からして美味いかどうかは保証しかねるが、とネッドはそれを一口齧る。パサついた食感とともに、甘みがほろりと口腔内に広がった。滲みる。漠然とそう感じた。
「大丈夫?」
「平気でしょう。ちょっと硬いですけど」
「そっか。うん……うーんん……」
 大きめに一口を齧ったエミルは、想像以上に口内の水分を奪われて眉を顰める。んぐんぐ言いながらどうにか咀嚼し飲み下すと、ネッドがカップにミルクを注いで差し出していた。エミルは素直にそれを受け取り喉を潤す。
「っは〜……ちょっともったいない感じだねえ」
「仕方ないですよ。ご所望ならまた買いましょう。違うものでもいいですけど」
 言いつつ、固い焼き菓子を齧って口を動かす。
「やったね♪」
 無邪気に笑う幼い表情に穏やかでない想像が起こり、ネッドは眉根を寄せる。
「若、くれぐれも危ないことはしないでくださいね。ここであなたを守れる者は限られてるんですから」
 人間はエミルが考えるほど善いものではない。たとえ彼に人を絆す魅力があるとしても、それが悪い方向に作用することもある。
「出たっ唐突な説教!」
 ネッドは溜め息を吐く。エミルにではなく、自らに対してだった。説教などしたいわけではないのに、口を開けば小言めいたものが出てしまう。昔に比べれば大分ましになったと思っているのだが、言葉で人を喜ばせることは相変わらず苦手だ。
「!?」
 頬に降った柔らかな感触に、エミルは目を白黒させてネッドを凝視する。背中を曲げたネッドの顔はまだ至近にあって、少し前にはその唇が頬に触れていた──はずだ。ネッドから、それも朝から仕掛けてくるとは非常に珍しいことだった。
「ネッドどうしたの!? 具合悪いの!?」
「……違いますよ。いいです、もうしませんから」
「拗ねるなよ。ねっ、もっといっぱいキスしていいからさ♪」
 背伸びしたエミルに思い切り首を引き寄せられ、愛らしく突き出された唇に、ネッドは抗わず唇を重ねた。軽く吸って離し、また促されて重ね、軽快な音を立てながら、何度も何度もキスをする。小さな舌先が唇を撫でる感触に、さすがにまずいと顔を離した。
「エミル。……薬なんてなくても、私にはあなたしかありません」
 改まって何を言い出すのかと、エミルはネッドの瞳を下から覗き込む。
「ただ、寂しい思いをさせたのも事実なんでしょう。それは反省してます」
 エミルは短くだけ考えるように首を傾げ、口をUの字にしてにこりと笑った。
「反省なんて堅苦しいこといってないでも、昨日態度で示してくれただろ。それでいいんだよ♪」
 踊るように抱きついてキスをして、強引に唇を割り開く。くちづけは深く甘かった。

「っは〜、言ってるそばから……ゲホッ」
 ネッドの支度が遅いと言って、エミルは先に外へ出て行ってしまった。もちろん一人で迷宮へは行かないだろうし、街の中は比較的安全ではあるが、全く人の話を聞いていないではないか。
「コホッ、ゴホッ……」
 思い出したように咳き込みながら、朝から疲れた気分でのろのろとロビーに歩くと、店主のコヌアが顔の前で両の指先を合わせ、にこにことしてこちらを見つめてくる。
「おはようございます。若は外に?」
「おはようございますネッドさん。ええ、止める間もなく飛び出して行きましたよ。いつも元気いっぱいですね」
「ふう。まったく仕方のない……」
 職業柄と言おうか、ネッドは人の感情の機微には敏感なほうだった。どうにもコヌアの視線が常とは異なるものを含んでいる気がして、恐る恐る問い掛ける。
「ええと、私に何か?」
「ゆうべはお楽しみでしたね」
「ブフォッ! ゲホゲホッ ぐふぁあ──!!!」
 ネッドは体を折って激しく咳き込み、苦しげに胸を押さえてその場に倒れ込んでしまった。
「きゃっ! ごめんなさい、長年言ってみたかったセリフでっ……」
 ネッドが倒れ臥す光景など日常的に見慣れたと思っていたが、その原因がエミルではなく自分となると案外と狼狽えてしまうものだ。
「生きてくださいネッドさん! 何も聞かなかったことにしますから!」
 無自覚にとどめを刺しながら、コヌアがネッドを助け起こそうと屈むと、入り口ドアの方から明るい声がした。
「ネッド、遅いと思ったらこんなところで死んでる! ったく、しょうがないな」
 エミルが歩み寄ると、うつ伏せに倒れていたネッドががばりと起き上がる。
「しょうがないのはどっちなんですかっ!」
「ふふ、無事でよかった。いってらっしゃい」
 いつも通りの光景だ。コヌアはほっと安堵しエミルは愛らしく手を振る。
「うん、いってくるね。じゃあ♪」
(だから嫌だったんですよ……)
 ネッドは無言でエミルの横をすり抜け、そそくさと宿屋の外へ出て行った。

Twitter