のろいのことば

2.夜と太陽

 ネッドが城に住み込んで一週間ほどが経つ。
 城での暮らしは想像したほど窮屈なものではなく、廊下でたまに人に会うこと、決まった時間に食事が運ばれてくること以外は塔にいた頃とそう変わらない日々を過ごしていた。
(本当に、若の道楽のためだけに呼ばれたのだろうか)
 特段仕事を言い渡されるでもなければ自然とそんな考えにもなる。幼い息子が可愛いのだろうが、族長も甘過ぎではないだろうか。城の空き部屋に食い扶持を一人増やす程度、大したことではないということか。
 コココンッと、軽快にドアをノックする音がした。嫌な予感がする。歩み寄るより先に、ドアは勝手に開いていた。
「やあ♪ 遊びにきたよ♪」
 想像通り、太陽のような少年がにこりと笑って手を上げる。城内の人間は必要以上にネッドに関わろうとしないが、エミルだけは別だった。
「若。一体何しに」
 ネッドは早くも疲れた気持ちで弱々しい声を発する。嫌ではないのだが、相変わらず接し方はわからないし目上の人間に気を遣うことも苦手だ。できれば放っておいて欲しい。
「遊びに! だってネッド、引きこもっててぜんぜん出会わないんだもん」
 いや、とネッドは首を振る。自分はなぜだかエミルの要望で呼ばれたのだから、むしろ彼の相手をするのが仕事のようなものだろう。おそらく、だから彼は気ままにここに来るのだ。そうは思えど愛想よく振る舞う柄でもない。
「この部屋以外に用事はありませんので……」
「ぼくの部屋に遊びにきていいよ♪」
「人の話聞いてます?」
「もう引っ越しは片付いたんだね♪」
 聞いていないのか、聞いていて無視しているのか。エミルはネッドの脇をすり抜けて部屋の中へ進み、辺りを見回して踊るようにくるりと回った。
「か〜っこいい♪」
 黒い帳、分厚い本、古いキャンドル立て、瓶の中の干からびた植物──呪術的なオブジェクトの数々に、エミルは大きな瞳を一層輝かせた。
「こ、壊さないでくださいね?」
 ふらふらと歩み寄ってはそれらを物珍しそうに眺めるエミルに、ネッドは肝の冷える思いだ。
「……好きなんですか? そういうの」
「好きだよ♪」
 迷いなく言い放たれる言葉に、向けられる笑顔に、心がざらついてひどく落ち着かない。だから彼のことは苦手だ。
「本でしか見たことなかったからね、どきどきする!」
 この光を帯びたプリンスがよもや死や呪いに惹かれるわけでもあるまい、単なる好奇心だろう。自分を呼び付けたのだとてその程度の理由に違いないのだ。命を受けて城に来るまでに、そして来てからも、もう何度も繰り返し同じようなことを考えている。さもなくば、愚かな錯覚に惑わされてしまいそうだった。
「変わってますね」
「ぼくは特別だってよく言われるよ♪」
「そういう意味ではないです」
 無礼は承知だが、エミルはあまり頭が良くないのかもしれない。同年代の子供がどの程度のものなのかは知らないから、案外年相応なのかもしれないが、とかく彼にでも理解できそうな言葉を探すことに難儀する。
「……私は人に本能的な恐怖心や嫌悪感を与える存在です」
 室内の短い距離ではあるが、エミルはトトトッと小さく駆けてネッドの足元に戻って来ると、遥か上にあるフードの下の顔を覗き込むようにまじまじと見つめた。
「そうかなぁ?」
「そういったものを長らく研究してますし、身体にもすっかり染み付いてます」
 元来体は丈夫ではなかったが、ここ最近は年々衰弱している気がしていた。目眩でふらつくことやひどく咳き込むことはしょっちゅうだが、たまにお節介な医者が往診に来ても病気はないという。生まれ持っての体質なのだろうとその場では濁してきたが、ネッドの見立ては呪いだ。自らの身が呪われているのだろうと考えていたが、ここしばらく影を潜めていることを思えばあの塔に何かがあるのか、或いはこの場所がネッドの宿す呪いよりも強い陽の気に満ちているためか──
「でも、そういうのも必要だろ」
「はい?」
「おまえの呪術が人を恐怖で支配して操る力だって、ぼくは知ってるんだよ」
 前に会ったときにそんな話をした気もするし、自分を城に呼ぶにあたって、族長からも何かしら聞いたのだろう。
「強い力が怖いっていうんなら、武器を持った兵士だって、印術師だって、ぼくらは怖がって嫌わなきゃいけない」
 普段の子供然とした物言いとは異なる、しっかりとした口調にネッドは目を瞬く。伊達にプリンスではないというところだろうか。
「回りくどい言い方してません?」
「ぼくはネッドのこと怖くないよ」
「それは……」
 どういう意味なのだろうか。全ての事物に物怖じしないと言いたいのか、別の意図があるのか。ネッドのローブの裾をエミルは両手でばさりと広げる。それでもたっぷりとした暗幕の中からネッドの体は現れなかった。
「ネッドは夜のイメージ。ぼくはお日様の下にいるの好きだけど、夜だってワクワクして好き。早く寝なさいって言われるの、きっとみんな何か隠してると思うんだよ」
 何かを悟っているのか、ただの思い付きなのか。恐ろしいものに惹かれるのもまた人の本能ではあるが、エミルの抱く興味もその類のものなのだろうか。
「ネッドもさ、夜とかずっと起きてるんだろ」
「別に……夜は寝ますけど」
 作業の区切りが悪いなどで多少起きていることもあるが、蝋燭の消費もばかにならないから、基本的には夜は寝て昼間に起きる、割に真っ当な生活を送ってきたつもりだ。
「ええっ! そうなの!?」
 エミルは心底驚いた様子で目を見開く。大きな瞳が零れ落ちてしまいそうだった。ネッドもまた、それを見返して首を傾げる。
「……はい?」
「ネッドって夜寝なそうだしごはんも食べなそうって思ってた!」
 大真面目に言ってのけるエミルに、返す声も思わず強張る。
「……いえ、普通の人と大体同じかと……そういう期待をされて呼ばれたのなら、まったくご期待に添えないかと……」
 自分のことが物珍しいのだろうとは思っていたが、そこまで別種のものとみなされているとはさすがに想像していなかった。
「そうなのかぁ。じゃあ何の食べ物が好き?」
「えー……特にないですね。考えたことなかったです」
「好きな食べ物ないの!? そんなの楽しくないじゃん!」
 エミルは驚いた顔をしてローブを掴み、ぴょんぴょん飛び跳ねる。微笑ましいと言おうか、ネッドもつい笑ってしまう。
「食べ物に興味がないというか……最低限のエネルギーの摂取というか……」
 常人が食べることに喜びや楽しみを感じるのだとすれば、自分の暮らしはエミルの言うように「楽しくない」のかもしれない。何しろ興味が失せてしまって何とも感じないのだ。
「エネルギー……」
 エミルは眉を寄せ、疑惑に満ち満ちた視線を送ってくる。
「ネッド、何食べてそんなに大きくなったの」
「さあ、なんでしょうねぇ。……草?」
「くさ!?」
 エミルはまるでこの世の終わりかのような顔をした。大袈裟すぎる反応が可笑しくて、ネッドは思わず吹き出しながら声を絞り出す。
「ああ、野菜とか、果物、木の実とかですかね。森で手に入るものですよ」
「ぼくも草食べたら大きくなるかな!」
 今度はきらきらと瞳を輝かせる。くるくると忙しい王子様だ。
「やめてくださいよ。野菜だって言ってるでしょ」
「んじゃやっぱり大きくならなくていいかな。次はぼくの好きなおやつ持って来てあげるね♪」
「別に、いいですよ、興味ないんで……」
 次と言われたことは否定できないまま、ネッドは頬を掻く。
「ネッドっておもしろい。またお話しようね。じゃあ♪」
「……はい……」
 小さく手を振って軽やかに部屋を出て行く後ろ姿を見送る。自分の力は恐ろしいものだと教えたかったはずだが、なぜ食べ物の話になったのか──子供らしい脈絡のない会話だったのだろう。切り上げ方は若干唐突だったような気もする。
 それからさほど経たないうちに、再びドアをノックする者があった。
「まだ何か?」
 エミルが忘れ物でもしたのかといつも通り無愛想にドアを開けると、そこに立っていたのは印術師のマリーだった。
「あっなんかすみません。若、お邪魔してません?」
「あー……いや、ついさっきまでここにいたので、戻って来たのかと……」
 マリーは愛らしい容貌に不似合いな様子で腕を組み、低く唸る。
「なるほど、悟られたか……ありがとうございますっ!」
 言って、早足で去って行ってしまった。
(彼女も大変だな……)

 翌日の午後、部屋の外でなにやらガラガラと音がしていた。食事のワゴンのようではあるが、昼食はとうに済んでいる。ノックの音に扉を開けると、ティーセットと焼き菓子を乗せたワゴンが目に飛び込んできた。
「……?」
 よくよく見れば、ワゴンの向こうに体の殆どを隠しながらエミルが立っている。
「約束どおり、お茶会しにきたよ♪」
「や、約束なんてしましたっけ?」
「したじゃないか、もう!」
 次回おやつを持って来る、と言われたことは覚えている。ネッドにとってそれはお茶会の約束とはいえず、しかしエミルにとってはお茶会の約束にあたるのだった。
 押し入るワゴンを押し返すわけにもいかず、ネッドは甘んじてそれを受け入れる。エミルは部屋を一瞥してむっつりとした顔をした。
「あーはいはい、片付けますね」
 慌てて丸テーブルの上の資料類を片付ける。一人の食事であれば壁際の机にトレイを乗せて摂るだけだが、それではエミルの気は済まないだろう。
 機嫌良さそうに小さな体でワゴンを押す姿を眺めれば、愛らしいとかいじらしいという扱い慣れない感情が湧いて、果たしてこれは父性や母性の類なのか、いや自分にそんなものはないはず──とネッドは一人でうんうん唸る。
「ネッド、何ぶつぶつ言ってるの」
「いえ……」
 首を横に振りながら、寄せられたワゴンからティーポット、食器、焼き菓子のバスケットをテーブルの上に移す。二人向き合って席に着くと、テーブルに対してエミルの体は随分と沈んだようになってしまう。ネッドは思わず小さく笑う。
「笑うなっ」
「フフッ……いや、何か下に敷きましょうかね」
 軽く部屋を物色するとトランク型のケースを持ってきてエミルの椅子の座面に置き、その上にチェアクッションを重ねた。
「これでなんとか」
「いい感じ♪」
 それでも上背のあるネッドと比べればエミルの視点は随分と低く、二人の姿を傍目にみればなんともアンバランスではあった。
 ティーポットに手を伸ばしたエミルより先にネッドがそれを奪い、二つのカップに緋色の液体を注ぐ。湯気とともに、ふわりと花のような香りが漂った。
「ジャム入れてね♪」
「どのくらい?」
「スプーンに一つ♪」
 仰せの通り、とティーポットの横の苺ジャムの瓶を開け、小さなスプーンにひとすくいしてカップに落とす。自分の分にも同じようにした。
「お砂糖入れるときもあるけど、ぼくはジャムのが好きなんだ♪」
 エミルはカップの中をかき混ぜるとにこりと笑い、そっと口をつける。ネッドも倣うように、ジャムを溶かした紅茶を口に含んだ。
「おいしいでしょ! ネッドも好きになった?」
「ええ……まあ……」
 悪くはないが、ネッドの口には多少甘味が強すぎた。菓子と一緒ならばジャムはなくてもよいくらいだ。さすがにそれを素直に言うつもりはなかったが、他に気の利いた言葉も思いつかず、それでもエミルが楽しげに笑うのが不思議だった。
「若は甘いもの好きなんですか」
「うん。大好き♪」
 だろうなと、甘い紅茶を飲みながら甘いクッキーを齧る姿を眺めて思う。
「甘いものばっかり食べてると、体の中が甘くなっちゃうんだって。でもぼくは体甘いほうがいいと思うからたくさん食べるよ♪」
「それは……糖分の摂りすぎは体に悪いとかそういう話では……」
 元の話を聞いていないので何とも言い難いが、おそらくは注意喚起的な内容だろうと思う。
「そうなのかな。でも、どう悪いのかわかんないよ」
「うーん。美味しそうな体してると食べられちゃうのかもしれないですよ」
 何か非常に不適切なことを言っているような気もしなくもないが、飽くまで悪い魔物に食べられるとかそういう脅しであって──
「アリに!?」
「まあ、蟻でも別にいいですけど……」
 エミルが純粋な子供で良かったと思う。
「でもアリは小さいから噛まれても平気だなっ」
「いや、大きくて凶暴な蟻の魔物もいるもんですよ。障壁の中なら平気ですけどね」
 エミルはぱちぱちと目を瞬いて身を乗り出す。
「本当に? 見たことあるの?」
「本で読んだだけです」
「ぼくね、いつか里の外に行ってみたいんだ」
 精霊族は基本的には障壁の内側の里の中で暮らす。族長から任じられた勤めのために外に出ている者も幾ばくか存在し、稀に一族を捨てて行く者もあったが、族長の子であるエミルにはそのどちらも叶わぬことのように思われた。
 それからしばらく、エミルの冒険願望や〝おつとめ〟から戻った者に聞いた外の話などをしながらティータイムを過ごした。案外と慣れるもので、エミルの言動に躊躇い戸惑うことはあるものの、当初の苦手意識は既になくなっていた。むしろそんな自分に戸惑うくらいだ。

 エミルはしばしばネッドの元を訪れ、ときには夜にも襲来した。
 ココンッ、ココンッ、急かすような特徴的なノックの主をあらかた想像しつつも、ドアを開けてその姿を目にするとネッドは躊躇い目を瞬いた。
「ネッド、眠れないよ。怖い話して」
 首元の大きく開いたゆったりした寝間着の姿はいつにも増して無防備で、昼間はあまり見せないけだるげな表情も相まって、ひどく私的な姿を見せられているような後ろめたさに、ネッドは思わず背中を向ける。
「それじゃ余計眠れなくなるでしょう」
「そんなことないと思うけどな」
 エミルはネッドの脇をすり抜けて部屋の奥へ進み、ベッドの上にころんと転がった。日々交換されている清潔なシーツの上ではあるが、妙に気恥ずかしくて落ち着かない。
 本でも与えれば飽きて眠るだろうかと本棚を物色している間、布団の中で寝返りを打つような音が聞こえていたが、それが不意に途絶える。ベッドを見遣るとエミルは体を横にしてこちらに背中を向けている。眠ったのだろうか。物音を立てないように近付き、身を乗り出して顔を覗き込むと
「がおーっ!」
 エミルが飛び起きて掴み掛かって来た。
「っ……!?」
「あんまりおどろいてない……」
 エミルは唇を尖らせる。どうやら寝たふりだったようだ。ネッドは小さく咳払いをする。
「大人をからかうもんじゃありませんよ」
 実際はかなり驚いていたのだが、あいにく大袈裟にリアクションをする方ではないのでエミルの期待には添えなかったようだ。
 エミルはネッドのローブの胸元を掴んだまま、じっとネッドの顔を見つめる。
「な、なんです?」
 長い睫毛、大きな瞳、少しだけ不機嫌に突き出した唇の愛らしさ、柔らかな曲線を描く輪郭。初めて目の当たりにしたわけでもないだろうに、普段より距離が近いせいか妙にそわそわとして落ち着かない。
「なんか、ネッドの顔を近くで見るのってめずらしい♪」
「え」
「いつも上の方にあるからさぁ」
「ああ……」
 思えば、印術師はエミルに接するとき膝をつくなどして目線を下げてはいなかったろうか。単純に配慮がなかったというべきだろうが、今まで全く意識したことがなかった。
 不意に強く胸元を引っ張られて思わず体を前のめりにさせると、首にしがみ付かれるのと同時に頬に柔らかな感触があった。
「んなっ!?」
 ちゅっと軽く音を立てて離れたエミルの顔を信じられない思いで見返して、その身を強引に引き剥がして大袈裟に後ずさる。
「ななな、何をっっ!」
 頬に、キスをされたような気がする。おそらく、多分そうだ。だがどうして。意味がわからない。
「あっははは! すっごいビックリ顔♪」
 想像もしなかったほどのネッドの反応に、エミルはからから笑い、手を叩いて喜んだ。
「わ、若っ! イタズラにもほどがありますっ……!」
「イタズラっていうか、おやすみのキスじゃないか。そんなおどろくとは思わなかったよ?」
 エミルは不思議そうにきょときょと瞬きをする。様子からして嘘ではないのかもしれないが、それはそれで困ってしまう。
「ね、ぼくにもキスしてよ」
 エミルは自らの頬を指差しながらさも当然のように言う。ネッドは壊れたおもちゃのようにぶんぶんと首を横に振った。
「そ、そそそういうことは、別の人にお願いしてくださいっ……!」
 エミルは不満げに唇を尖らせる。
「キスしてくれたら寝るよう」
 子供が親に強請るようなもので、エミルにとっては些細なことなのかもしれない。そうは考えるがネッドにとっては受け入れ難い行為だった。
「あなたが寝なくても、私は困りませんので」
「ほんとかなあ。ネッドの部屋から寝不足のぼくが出てきたら」
「私はお役御免になるかもしれませんね」
「そんなのやだあ! ぼくは寝るぞ!」
 駄々を捏ねるように頭を振って、エミルは勢いよくベッドに体を沈めた。
「はいはい、おとなしく眠ってくださいね」
 溜め息を吐きながら布団を直してやり、踵を返そうとすると、小さな手がローブをきつく握りしめていた。振り払うこともできず、まだ何かあるのかとエミルを見遣る。
「ネッド、ぼくはおまえが好き。だからキスしてほしいな♪」
「……!」
 彼に好意を示されて嬉しくない人間などいないはずだ。おそらくそうして今までわがままを通してきたのだろうし、ネッドもまた抗うことはできないと感じていた。
「若、良くないですそういうの……」
 そうは言うが、期待に満ち満ちた瞳を無視することもできない。
「う……」
 ポキリ。ネッドの中で何かが儚く折れる。ベッドに手を付き腰を曲げて顔を寄せれば、引き寄せられるように白く柔らかな頬に唇を寄せていた。
「うふふっ……おやすみ♪」
 エミルは鈴を転がすように笑うと満足げに目を閉じる。
(ここで寝るんですか……)
 明日の朝、エミルが自室に居ないと騒ぎにはならないだろうか。
(そして私の寝る場所がない……)
 エミルは早くも眠ってしまったようで、規則正しい寝息を立てている。大きな瞳が印象的だと思っていたが、薄暗い明かりの下で瞼を閉じた表情は芸術的に美しかった。寝息、小さく上下する胸、時折小さくだけ動く唇が、辛うじてそれが絵画や作り物ではないと主張する。
 他人の部屋で無防備な姿を晒して眠って、自分の立場をわかっているのだろうか。出会ってまだ日も浅い、得体の知れない呪術師に、なぜこうも懐いてしまったのか。
 いや、何も考えてなどいないだろう。幼さゆえに無防備なだけだ。

 翌朝は早めにエミルを叩き起こして部屋に帰したが、少し遅かったようで、騒ぎにこそならなかったもののネッドにも注意が寄越されてしまった。
 それからというもの、エミルがネッドの部屋で寝ようとすることはなくなったが、しばしばネッドが呼びつけられることとなっていた。
 郷に入って郷に従ったといおうか、絆されたというべきなのか、少し前までは誰とも関わりたくないと思っていたネッドもエミルの要求にはすっかり従うようになっていた。
(仕方ないでしょう、相手が相手なんですから)
 そう自分を納得させながらエミルの部屋を訪れると、日課の日記を書き終えたところのようだった。エミルはにこりと笑うと手招きをして、革製の袋の中をごそごそと漁る。
「今日は採集に行ってきたんだよ♪ これはネッドにおみやげ♪」
 言いながら、大きな黒い羽根を手渡す。
「これは……」
「なんだかよくわからない鳥の羽根!」
「よくわからない、て」
「だってヨハンもわかんないっていうんだもん」
 ヨハンとは、エミルの教育係の一人である印術師の男だ。一緒に外出していたのだろう。
「真っ黒に見えるけど光に当てると虹色に反射するんだよ♪ きれいだよね」
「ふむ……」
 確かに、部屋の弱い光の中ではあるが、羽根を傾けると黒い表面に虹色のスペクトルが見える。ネッドの目にはそう珍しいものとは映らなかったが、柄にもなく微笑ましい気分になって、しばらくそれを傾け眺めていた。
 気に入って貰えたに違いないと、機嫌をよくしたエミルは再び袋の中に手を突っ込む。
「もう一つあるよ♪ ジャーン!」
 楽しげに言いながら、角状の突起のある白い石のようなものを取り出した。机に置かれたときの音からして、重量は無さそうだ。
「これさ、小さいドラゴンの骨じゃないかな!?」
 ネッドはそれを指で摘み上げて眺め、迷いなく言った。
「これは軽石ですね」
「ええー!? こんな形してるのに?」
「自然の中にはいろいろな形のものがありますよ。これは割れたか何かでこうなったんでしょう」
「ヨハンも骨かもって言ってたのに?」
「ああ……彼は、本物の骨を見たことないのかもしれませんよ」
 ヨハンもそれが何かわからなかったわけではなく、ただ話を合わせただけだろうとは思う。そういう点では、やはり自分に子供の話し相手は向いていないと思う。
「そうなのかあ。でも、ネッドは本物の骨見たことあるんだね♪」
 余計なことを言ってしまったかもしれない。エミルが瞳を輝かせてこちらを見上げている。
「ええと、ドラゴンの骨ではないですけど……」
「もしかして部屋にある!? 今度見せてよ!」
「そんなに面白いものではないと思いますよ。それに、動物の骨や皮なんて身の回りのものにいくらでも使われていて、そう珍しがるものでもないです」
 ネッドが乗り気でないと見るや、エミルは目を据わらせて頬を膨らませる。
「ぼくの探究心をガッカリさせるようなこと言わないで」
「また都合の良い言葉を覚えたものですね」
 一体誰が教えたのか、いや、何も悪用されるつもりで言ったわけでもないだろうが。
「じゃあさ、次はネッドが採集についてきてよ」
「私が? 外に?」
「ちょっと前まで森に住んでたんじゃないか。ぼく一人で行っちゃだめって言われてるんだよ」
「いつも通りヨハンか、あの、兵士の方でいいんじゃないですか」
 深く考えず、ひとまずは慣習の確認と否定から入る。それは単純にネッドの性分であった。
「ディラックはね〜、一緒に遊ぶのはいいんだけど、採集に連れてくと雑なんだよな。で、ヨハンにもわからないことはあるからネッドと一緒に行きたいってわけ。じゃあ明後日ね、決まり!」
「はぁ」
 人の都合を考えないものだろうかと思うが、あいにくネッドに都合も予定もない。そう言われてしまうと断ることはできなかった。
「じゃあ寝るね♪」
 エミルは席を立ってベッドに向かい、ネッドもゆっくりとした動作でその後に続く。布団に入り、ベッドの上に半身を起こして待ち詫びるように見上げるエミルに、ネッドは身を屈めてぽつりと呟いた。
「おやすみなさい」
 そしてすっかり決まりごとになった、おやすみのキスをエミルの頬に落とす──
「!?」
 頬ではなかった。
 頬より柔らかな、それはエミルの唇で、痩けた頬には彼の小さな鼻先が触れている。いつもとは違う感触と景色に、理解が追いつかない。
「あっははは! ヘンな顔!」
 ネッドが頬にキスをしようとした瞬間、エミルが横を向いて唇を重ねたようだった。さぞかしひどい顔をしているのだろう、エミルはこちらを指差して容赦無く笑っている。
「若……悪いイタズラはやめてください……」
 驚いたのはもちろんだが、この感情はなんなのだろう。怒りとも違う、何かひどく情けない気持ちが湧いてくる。おそらくエミルに対してではなく、自分に対してだ。
「怒った? そんなに嫌だった?」
「嫌というか……おやすみの挨拶のキスでは……」
 なぜだろう、冗談と笑い飛ばすこともできない。自己嫌悪に陥りながら、ネッドは苦々しい顔で奥歯を噛みしめる。
「おやすみのキスは口にしちゃダメなの?」
「ダメです」
「おでこは」
「それならいいですよ」
「鼻の頭は」
「……まあ、いいでしょう」
「口は」
「ダメです」
「なんで」
 語尾に被せるような即答が続いたが、ここでようやく僅かな沈黙が訪れる。
「……それは、誰とでも軽々しくするようなことじゃないからです」
 子供相手に変に意識してしまう自分がおかしいのだろうか。それともエミルは挨拶で唇にキスをするという育て方をされてきたのか。それが実の親との間であるのなら自分が口を挟めることでもないが──言いながらも、悶々と考え込んでしまう。
「誰とでもなんてしないもん。でも、ネッドは嫌なんだよね。わかったよ」
「は? いえ……別に、嫌なわけでは……」
 なんと返すのが適切なのか、全く頭が回らない。もとより会話は苦手だ。特にエミルとの会話に戸惑う理由として、好きか嫌いかしか選択肢を与えられない点があった。嫌かと言われれば「嫌ではない」と返すことになるが、だからといって二人はくちづけを交わす関係ではないはずだ。
「……」
 エミルはこちらに背中を向ける格好でベッドに転がり、既に寝息を立てている。この寝付きの良さは大したものだと毎度感心する。
 誰とでもするわけではないと、エミルは言った。悪戯にしても、唇へのキスは単なる挨拶ではないと認識しながら仕掛けたというのだろうか。
 小さく上下する肩を眺めながら、ネッドは指先で自らの唇を押さえる。驚きが強すぎて触れた感触などはっきりとは覚えていないが、それは柔らかくしっとりと吸い付いて、ああ、小さな鼻から漏れる生温い呼気も感じていたかもしれない。
 記憶をなぞっているのか良くない妄想なのか区別もつかなくなって、ただ頭に血が昇っている実感があった。
(ダメですよ、若、私はそんなに清廉な人間じゃない……)

Twitter