独善的ラブストーリー

【R18】出会ったり告ったり致したりします。全5話 [ 1話目:10,901文字/2022-06-04 ]

1.

「いい素質を持ってるのにこんなところで埋もれてるなんて、信じられないなあ」
 ある日いつものテニススクールで出会ったそのひとは、あまりに簡単に俺の心を掠め取った。
「裕太君」
 跳ね上がった心臓と、ほほえむ薄い唇を今も覚えてる。
「あの! 観月さん、聖ルドルフのこと聞かせてください」
 俺は観月さんに手伝ってもらって、その日のうちに聖ルドルフへの編入届を書いて親に渡した。
(あのひとは天使かもしれない)
 夜、ベッドの中で思いだす。偶然だろうけど、スクールで話しかけられたとき、観月さんの後ろから差してた陽が後光みたいに見えた。初対面でのきれいなひとって印象とか、丁寧な感じとか、しかも〝聖〟ルドルフだなんて、できすぎてるよな。
 編入について、親からは「一晩考える」って言われてしまった。感触は悪くなかったと思うけど……大丈夫、俺には天使がついてる。

 天使は俺をここに導く役目を果たして、もう二度と現れないんじゃないか──十字架を掲げた聖ルドルフの校舎を眺めて待ってると、そんな妄想が湧いた。
「裕太君」
 だけど観月さんは時間どおりに現れた。金曜の放課後、部活の時間だと思うけど、少し早いせいか制服姿だ。スクールで会ったときのジャージ姿より華奢に見えて、襟と袖に飾り模様の入った学校指定のシャツが妙にしっくり似合ってる。
「あ……よかった。会えて」
「はい?」
「いえ、すみません。なんでもないです」
 観月さんは低く息を漏らして笑った。
「家族と離れて寮生活が始まるんです、不安もあるでしょう。なにかあったら気兼ねなく言ってくださいね」
「は、はい!」
 具体的になにがとは思いつかないけど、変な妄想するのも不安からかもしれない。けど、観月さんと会えたんだからもう大丈夫のはず。
「では、まず事務局に行きましょう」
 学校への書類とか、寮への書類とか、なんとか、かんとか……観月さんにくっついてひととおりの手続きを済ませる。こんなの得意なわけないから、すごくありがたかった。俺を連れてきた責任があるからって。どこまでも親切なひとだ。
 それから簡単に寮を案内してもらって、部屋に荷物を置いた。
「ここが君の部屋になります。野村拓也という二年生と二人部屋です。このあと紹介しますが、野村君もこの秋からの補強組です。先輩だからって恐縮することはないですよ」
 観月さんと出会ったときに欠けてたメンバーだろう。俺の運命を変えたひとって言ってもいいかもしれない。
 部屋の中にはベッドが二つに机が二つに収納。トイレはフロアで共用、お風呂は自慢の大浴場があるそうだ。
「これはお風呂じゃないんですか?」
 それらしい戸を開けて覗くと、中にはシャワーだけがあった。浴槽はない。
「それはシャワーブースです。掃除が面倒だからと、男子寮ではあまり使われてないようですね」
「ああ、部屋の中の掃除は自分たちなんですね」
「そういうことです。それから、隣の部屋──こっちが柳沢と木更津の部屋。あっちがボクの部屋です」
 階段側から見て、手前がこの前会ったふたりの部屋。次が俺と野村先輩の部屋。その奥が観月さんの部屋って並びだ。みんな今は部活中ってことだから、俺も運動する格好に着替えて部室に向かう。
 
 新しい木の内装の部室棟は、俺の中のイメージと違ってちょっと不思議な感じだけど、そのうち見慣れるんだろう。
「そんなに特別なものはないですが……とりあえずこれが部員用のロッカー。名前貼ってないところは空きですから、好きなところひとつ選んでいいですよ。上の段が使いやすいでしょうね」
「空き、多くないですか?」
 戸のついてないタイプのロッカーだから、名前のラベル以前に見た感じでわかる。
「引退した三年生のぶんです」
 なるほど、だから観月さんっていうか二年生が上級生として動いてるわけか。青学で部活に入ってなかったせいで、そのへんの感覚がなかった。
「女子もいるんですか? マネージャー?」
「え?」
「だって、あれ」
 ロッカーの上段左端の一つにだけ、バラ柄のカーテンがついてる。
「あれはボクのロッカーです。中が丸見えなの、みんな平気なんですかね。裕太君も気になるならカーテンつけるといいですよ」
「え、あ、俺も気にならないかも……」
 女子って思ったのは、カーテンで隠してることじゃなくて、バラ柄だったからだ。
「バラ、好きなんですか?」
「わざわざ嫌いな柄のカーテンはつけないでしょう」
「……!!」
 当たり前の感じで返されて、頭に電撃が走ったみたいだった。そうか、観月さんはバラが好きだからバラ柄のカーテンなんだ。花柄だから女子だって思ってしまったの、すごく恥ずかしくなる。それって先入観だ。つまり俺が『不二周助の弟だから(なのに)』って言われるのと同じこと。
 でも観月さんはそんなの気にしない。バラが好きだからバラ柄のカーテンをつけてるし、学校や兄貴のことなんて関係なく俺のこと認めてくれた。観月さんって本当に素晴らしいひとだ。もともと好感度しかなかったけど、さらに上がった。爆上がりだ。
 やっぱり赤いバラが好きなのかな。これは先入観なんだろうか。いや、色が白いからはっきりした赤い色のバラは似合いそうだし。きれいだけど棘のあるバラは、観月さんのイメージにぴったりだ──この時点では観月さんの性格は知らなかったんだけど、本能的に感じるものってあるのかもしれない。

「裕太、新しい生活にはもう慣れただーね?」
 寮のラウンジで声をかけてきたのは柳沢先輩だ。
「はい。最初からあんまり不安じゃなかったけど、もうぜんぜん大丈夫です」
 柳沢先輩の横で、淳先輩がクスクス笑う。
「頼もしいね。観月も大丈夫?」
「大丈夫っていうのは?」 
 どういう意味なのかわからなくて、素で聞き返していた。
「横暴なことされてない?」
 横暴? たしかにちょっと口うるさ……細かいところはあるけど、横暴なんて感じたことないぞ。
「寮の決まりのことで注意されたのはありますけど、それは俺が悪かったし、納得してますよ」
「そう。ならいいや」
 なんとなく含みを感じるな。このひとはいつもこんな感じっぽいけど。でもちょっと気になる。観月さんのことは気になるんだ。
「観月とうまくやっていけそうなら安心だーね。あいつはちゃんとしてるのはいいけど神経質だーね」
 それは、感じないことはないけど。でもまだ寮に入って少しだけど、もし観月さんが仕切らなかったら、みんなめちゃくちゃだらしなくなるんじゃないか? 俺は胸を張って宣言する。
「大丈夫ですよ。俺、観月さんのこと大好きですから!」
「……裕太、その言いかたはちょっと」
 柳沢先輩の顔が引きつって、唇の端がすごい上がりかたしてる。
「なんですか? 俺、観月さんには本当に感謝してるんです」
 まだ結果って言えるものなんてないけど、ちゃんと俺自身のこと見てくれるってだけでありがたいと思う。もちろんそれで満足するつもりじゃない。強くなって観月さんの期待に応えて、周助アニキを超えるんだ。
「誤解を招くだーね。……誤解だーね?」
「俺は、好きなものは好きだって言うことにしたんです」
 観月さんがそうであるように。実際、子どもっぽいって言われて封印してたけど、こっち来て甘いものが好きって公言するようになったらよくお菓子とかもらうようになったし。やっぱり好きなものは素直に好きって言うべきなんだ。
「だとしても、観月は黙ってれば美少年に見えるし、裕太の事情を知らないやつは勘違いするだーね。裕太はよくても、観月がどう思うか」
「うーん……」
 確かに、観月さんが嫌がる可能性は考えてなかったな。鬱陶しいって嫌われたら困る。感謝してる……恩人っていうのはセーフかな? そんなよそよそしいのじゃなくて、俺はもうちょっと普通に観月さんのこと好きなんだけどな。
「あいつ、そんなにいいやつじゃないよ」
「淳先輩?」
 我が強かったり、気分屋だったりっていうのもわかるけど。激しいひとだなって面白く感じるくらいで、観月さんが恩人なのは変わらない。淳先輩は観月さんのこと、好きじゃないんだろうか。
「裕太、別に、観月は悪いやつではないんだーね。たぶん」
「仲違いさせたいわけじゃないんだけどね。ただ、信用しすぎるとガッカリするかもってことだよ」
「はあ……覚えておきます」
 あとで聞いたけど、淳先輩は双子のお兄さんと間違って連れて来られて、長かった髪の毛を観月さんにバッサリ切られたそうだ。それで『嫌いじゃないけど聖人や天使みたいなもんではない』っていうのが淳先輩のかたくなな主張。まあ、別にそこ摺り合わせる必要はないよな。好みは人それぞれってことだ。

 授業と部活と寮での生活。忙しくも楽しい日々が過ぎていった。修学旅行の夜みたいな感覚はすぐになくなって、寮の先輩たちとも友達みたいに接するようになった。呼ぶときは一応先輩って付けるけど。
 でも観月さんだけは少し違う。壁を作るつもりじゃないけど、友達ってほど気安くは思えない。勉強教えてもらったりするし、ちょっと気まぐれだけど頼りになる先輩っていうか
「観月ってお母さんみたいだーね」
 そういうとこもある。
 第一印象ってたぶんすごく大きい。観月さんはどうも嫌味っていうか、皮肉っぽく攻撃的な言いかたをすることがある。俺はほんとは親切で世話焼きなの知ってるから引きずらないけど、あんまり知らない人だと観月さんのこと苦手に思うみたいだ。まあ、当たり前なんだけど。
 知ってても妙に攻撃的だなって気になるときはあって、でも「どうしてそんな言いかたするんですか?」って、実際聞いたことはない。あれは観月さんのバラの棘なんじゃないか。繊細できれいな観月さんのことを守ってるんじゃないかって思ったら、それでいいような気もして。

 ある日の部活の時間。
「ひゃあっ!? あ、あぁあ赤澤ッッ!!」
 部室のほうから女の人みたいな高い悲鳴が聞こえた。
「観月さん!?」
 慌てて部室に飛び込むと、白い小さななにかとすれ違った気がした。観月さんは動揺した様子で、赤澤部長の──次期部長だからそう呼んでる──二の腕をバシバシひっぱたいてる。音はするが、あんまり痛くはないだろう。部室にはノムタク先輩と金田と、ほかにも何人か。
「なんだよ観月、エロい声出すなって」
 赤澤部長、なんてこと言いだすんだ!! って変な声が出そうになったけど、その前に観月さんの狼狽えた声が上がる。
「だ、だってネズミ! 見たでしょう今ロッカーからネズミが出てきましたよっ!!」
「もういねえだろ。なんだ、ネズミが怖いのかよ?」
 さっきすれ違った白っぽいもの、ネズミってあんな大きさかもしれない。赤澤部長は観月さんの弱点を見つけて嬉しいって感じで、にやにや冷やかすみたいな顔をしてる。
「怖いのはネズミが持ってる病原菌ですよ!」
 しかし、運動部いち清潔だと言われるテニス部の部室に、ネズミなんて入ってくるんだろうか?
「つっかまえた! だーね!」
「え?」
 柳沢先輩が機嫌よさそうに部室に入ってくる。両の手を丸くして合わせてる、そのサイズ感はいかにも──
「ひあぁあ!?」
「大丈夫だーね観月、これはうちの教室から脱走したハムちゃんだーね」
 柳沢先輩の指の隙間から、白に茶色の模様のハムスターの顔が覗いてる。黒くて丸い目がかわいい。
「……だとよ、観月」
「じゃあ教室に戻してくるだーね!」
 怒られる前にと思ったのか、柳沢先輩はダッシュで逃げていった。観月さんの顔は険しいままだ。
「ボクが来たとき、部室の鍵は閉まってました。では、あのハムスターはどこから入って来たのでしょう?」
「窓じゃねーの」
「ダクト……とか」
「正解」
 観月さんの細い指がビシッと俺を差す。正解だって。ちょっと嬉しい。
「つまり、侵入経路はネズミと変わらないってことですよ。……消毒します」
 観月さんはいつの間にか用意してたマスクをすると、消毒の噴霧器を構えた。そんなのこの部室にあったんだ。
 ──ブシュー!!
「うわぁっ!?」
 合図もなにもなしに、ノズルから白い霧が大量に噴き出す。観月さん以外の部員は反射的に外に逃げだしていた。

 観月さんが潔癖症気味なのはみんな知ってる。部室でドタバタするのもそう珍しくない。ただ、俺にはひとつ引っ掛かってることがあった。
(観月さんの声って、エロいだろうか……)
 赤澤部長が言ってたことだ。あの場で誰も突っ込まなかったってのは、赤澤部長だからってことか、みんな同じように思ったのか、それどころじゃなかったのか。
(きれいな声じゃないか)
 柔らかく、優しく耳を撫でるようだったり、鋭かったり、不意に女の人みたいにも聞こえる。観月さんて最初のイメージと違って意外と表情豊かなんだけど、声も一緒だ。
 歌うとまた違う感じになって。去年のクリスマス礼拝の讃美歌独唱は圧巻だった。カラオケがうまいとかのレベルじゃない。なんもわかってない俺だって感動したくらいだ。あの体のどこから、って思うような歌声が教会中に広がって、みんながそれに驚いて、聴き惚れて、観月さんに注目して。なぜだか俺まで誇らしい気持ちだった。あとで赤澤部長が「どうだうちの観月はすごいだろう」って威張ってるの見たから、テニス部みんな同じ気持ちだったと思う。
 ぼんやり光るステンドグラスを背後に、蝋燭の光に囲まれて歌う観月さんは、普段の性格を知っててもやっぱり天使に見えた。
 ……で、そんな観月さんの声がエロいだって? 赤澤部長は皮肉とか言うタイプじゃないから、思ったこと口に出しただけだろうけど。観月さんのことそういう目で見てるってことなのか? なんか、やだな。もやもやする。
 別に、赤澤部長のことは嫌いじゃない。ただ、寮のメンバーほど仲よくないのも確かで、たぶん、だから、よく知らないせいで妙に気になるんだろう。
『ボクが君を、お兄さんに勝てるようにしてあげましょう』
 俺は観月さんの指導で対左利きの特訓をして、観月さんから教えてもらった新しいショットでどんどん勝ちを増やしている。兄貴を倒したいのに対左? って疑問もなくはなかったけど、まずは成功の体験を得ること、勝ちかたを覚えることが大事なんだそうだ。確かに、強くなってる実感は俺に自信と喜びをくれて、きつい練習にもやりがいを感じてる。
 それに、俺が勝つと観月さんも喜んでくれる。俺はひとりじゃないんだって思える、それがすごく嬉しくて。自分の目標もあるけど、観月さんの期待には応えたいって思ってる。
 観月さんは本当に素晴らしいひと。俺の恩人。大事なひとなんだ。部長だからって変なこと言わないでほしい。
 
 次の日の朝食の時間、いつもどおりに観月さんの向かいの席に座る。
「おはようございます」
「おはよう、裕太君」
 本当にいつもどおり。もうネクタイまできっちり身支度できてるのだって、いつもと変わらない。華奢な首、きれいな顔。そんなの最初から知ってる。出会ったときから中性的なひとだと思ってたけど、ただそれだけだ。エロいとかそんなこと思うわけないだろう。おかしいんじゃないのか。
「裕太君、なんかこわい顔してますよ?」
「えっ!? あ、す、すみません」
 観月さんが不思議そうに首を傾げる。申しわけなさなのか、なんだかドキッとしてしまった。
「もともとじゃない?」
「あ!?」
 隣のノムタク先輩を見ると、フッと心が落ち着いた。言ってることはむかつくけどちょっと感謝する。うん、ノムタク先輩を見てもぜんぜん心動かないもんな、安心感しかない。
 いや、観月さんのことだっていつも見てるじゃないか。なんなんだ、どうしたんだ俺は。
 その後、なんだか変なスイッチが入ってしまったみたいに、食事する観月さんの指先やら口もとやらが妙に気になって、あんまり見ちゃいけない気がしてときどきノムタク先輩を見ては心を落ち着けていた。
 食事のあと、ちょうどふたりだけのタイミングで観月さんに声をかけられてしまった。
「裕太君」
「はい!?」
「なにか悩んでることがあるなら、気兼ねなく相談してくださいね。メールでもいいので」
 声を潜めて顔を近めで話すせいで、観月さんのいいにおいがする。そう強いもんじゃなくて、もっと嗅ぎたいって思ってしまうような……なんか俺、変態みたいじゃないか?
「は、はい、ありがとうございます……」
 優しくされてるのに、いじわるされてるような居心地の悪さ。観月さんは本当にいいひとで、やっぱり俺は観月さんのこと好きだなぁ……って思うのに、胸がぎゅっと詰まったようで苦しかった。

 別の日、俺は部室に行く前に学校のエントランス近くのトイレに入った。新しい学校だから設備は基本きれいだけど、ここのトイレは来賓も使うってことで、広くて明るい鏡がついたスペースがある。
「あ……」
 鏡の前に人がいて、一瞬間違って女子トイレ入ったかと思ったら観月さんだった。
「おや、裕太君。珍しいですね」
 観月さんは鏡に向かって小指の先で唇をちょんちょんなぞってて、俺はドキッとしながらそれをガン見してしまった。
「な、なにしてるんですか?」
「リップですよ」
 観月さんは顔の横に小さなチューブを掲げる。
「リップ?」
「スティックタイプのものは苦手なんです」
 そう言われてようやく、ああメン◯レータムとかの……って思った。スティックのりみたいなタイプのイメージしかなかったから、チューブを見ても咄嗟にわかんなかった。観月さんも突っ込まれ慣れてるって感じだ。
「苦手って?」
「圧迫が嫌なんですよ。固い状態のリップを唇に擦りつけるでしょう」
「ええ……」
 まじか、リップに圧なんて感じたことなかった。擦りつけるって言われたら、それはそうなんだろうけど。
「めんどくさいってよく言われますよ」
「え、いや、感じやすいんだなって……」
「そうみたいです。ボクからしたら世の中の人が鈍感すぎるんですけどね。ところで裕太君、トイレに用事じゃないんですか?」
「そうだった! 忘れてた!」
 言われたら一気に尿意がきて、慌てて個室に飛び込んだ。別に個室じゃなくていいんだけど、よくわかんないけどそうしてしまった。
「ボクは先に行ってますね」
「はい! そうしてください!」
 寮だって共同トイレだし、ほかに人がいるなんて基本は気にしないけど。寮のフロアのトイレって全部個室で立ち便器がなくて、誰が入ってるかわかんないから気にならないってのもある。
(……ふぅ)
 ひとけのなくなったトイレでのんびりしながら思いだす。小指で唇に触れる動作、ちょっと驚いたけど違和感はなかった。まぁ観月さんだし、みたいな。
(感じやすいって、さあ……)
 咄嗟だったとはいえ、言いかたがなんかアレだなって自分で思ってしまった。敏感だって言いたかったんだけど。観月さんの肌は紫外線に弱いから、いつも日焼け止め使ってるし、長く日に当たるようなときは夏でも長袖なんだって。思えば、肌が弱いのに唇だけ強いってこともないよな。全身が敏感だってことだ。
(全身が敏感……)
 それもなんか、不適切なような……いや、なんだ俺は、なにを考えてるんだ。感じやすいのも敏感なのも肌が弱いってだけで、別にエロいことじゃないじゃないか。そうだそうだ、観月さんはエロくない!
(よし)
 気を取り直してトイレから出る。これから部活だけど、けっこう居座った気がするから、観月さんはとっくに着替え終わってるだろう。なんとなく安心しながら部室に向かった。

 観月さんの部屋は俺たちの部屋と同じつくりだけど、一人部屋なぶん広々してる。備え付けかと思ってたもうひとつのベッドと机がなくて、空いた場所に丸い座卓と座椅子やらクッションやら置いてある。小さいけどテレビもある。試合のビデオを見て研究するためだそうだ。角部屋なんで日当たりもよくて、いつも片付いてて、いいにおいがして、紅茶とお菓子が出てくる、良さしかない場所だった。
 俺は前からよくここに来てた。もちろん予定聞いてからだけど、勉強を教えてほしいって言うと観月さんは快く応じてくれた。わがまま言って家を出てきたんだから、部活だけじゃなくて成績も振るわないと家の人が心配するだろうって。うちはそんな厳しくないと思うけど、そう言われたらそういう気持ちはある。むしろ、観月さんの実家はそうなのかなって考えたりするけど、観月さんめちゃめちゃ頭いいから心配いらないと思うな。
 最初は本当に困って勉強聞きに来てたけど、そのうち単に居心地いいし静かだからってここに宿題しにくるようになって。俺は座卓のほうで勉強して、俺が声をかけなければ、観月さんは机に向かってパソコンでカタカタなんかやってて。別に会話なんてなくてよくて、今思えばある意味俺は、満たされてたのかもしれなかった。テニスとかゲームみたいな興奮する楽しさはないけど、なんかいいなあって。
 心地いい時間だった──過去形だ。俺は観月さんが好きだった。嫌いな人の部屋になんてわざわざ来ない。だけどお気に入りのこの部屋に、ふたりでいるのがいつからか苦しくなってしまった。
(赤澤部長のせいだ)
 どうしようもないような気持ちで頭の中に吐き捨てたが、遅かれ早かれ気づくことだったんだと思う。最初から好きだって思ってた。どっかで方向性が変わったのか、気づいてないだけで本当に最初からそうだったのかは、わからないけど。つまり俺は、いつか柳沢先輩に『誤解を招く』って言われた、そういう意味で観月さんを好きになっていた。
 ドキドキするんだ。意味ありげな視線も、耳に絡みつく声も、唇の動きも。観月さんの唇。敏感な唇っていうのが、あのときから忘れられなくて。リップも嫌なのに、たとえば人に触れられたらどんな反応するんだろう、とか……さすがにみんなでいるときはそんなこと考えないけど、ふたりきりになったらダメだった。
 部室でも、寮のロビーでも顔合わせるけど、ふたりきりなのは基本観月さんの部屋だけ。もうこの部屋には来ないほうがいいって、何度かそう思いながら、ずるずる会いに来ていた。
 だけどもう、今日で終わりにする。
 パソコンに向かう細い体を眺める。躊躇は一瞬だった。
「観月さん。ちょっと、教えてほしいところがあるんですけど」
「どれ」
 観月さんは椅子から立ってこっちに来ると、いつもと同じく座卓の俺の向かいに腰を下ろす。丸い座布団みたいなクッションの上に、行儀よく膝をそろえて正座して。
「これなんですけど……」
 俺は持ってきた問題集を座卓の上で百八十度回し、観月さんのほうに向ける。
「どこですか?」
「観月さんっ!」
 問題集の上を泳いでた、シャーペンを握る観月さんのこぶしを包むようにぎゅっと握る。思ったより小さい、って実感に浸る余裕もなく吐き出した。
「好きです、付き合ってくださいっ……!」
 観月さんは大きく表情は変えないまま、細い眉の根もとを寄せた。怪訝な顔ってやつ。いい予感はぜんぜんしない。捕まえてた白い手が、思いきり俺の手の中から逃げていく。しなやかで儚い感触だった。
「……熱でもあるんですか?」
 たぶん熱のせいにすれば、このやりとりはなかったことになるんだろう。でもそんなことしたら今までと同じだ。
「違いますっ! 俺は本気です」
 観月さんは眉尻を吊り上げて、はぁ〜と深くため息をついた。いかにも呆れてるって感じだ。
「裕太君。もうすぐ都大会、対戦相手は青学です。今は大事な時期ですよ、わかっていますか?」
「もちろんです」
 しょっぱなから兄貴のいる青学と当たるんだ、俺だって当然めちゃくちゃ意識してる。だからこそ、このままではいられない。
「だけど俺、観月さんのことが気になってしょうがなくて、このままじゃ試合に集中できないっていうか……大事な試合だからこそ、クリアな状態で臨みたいんです」
 悶々として苦しいのが嫌なだけで、無理矢理付き合ってほしいなんて言ってない。叶わないってわかったら、こんな気持ちも忘れられるはず。
 観月さんは指先で顔の横の髪をくるくるいじってる。大人っぽい観月さんなのに、子供っぽい印象の癖。自覚はないんだろうけど、かわいいからそのままでいいと思う。
「観月さん、正直に言ってください。そしたら俺、吹っ切れて青学戦がんばれますから」
 青学と、兄貴とやるのは俺のもともとの目標だ。ここで観月さんにフラれたって関係ない。だから嫌そうな顔だけじゃなくて、ひと思いにやってほしい。
 観月さんはふぅ、とひとつ息を吐く。
「……急にそんなこと言われたって困りますよ。君はボクをそういう目で見てたかもしれませんが、ボクは今まで君をそんなふうに見ていなかった」
「じゃあ、今からそう見てください」
「今から見たって、今すぐ答えは出せません」
「……」
 そう言われると、そうなのかもしれなかった。俺はOKかNGかしか考えてなかったけど、観月さんにとってはそれ以前ってことだ。
「そうですね、青学に勝ったら……」
 はぐらかされてる、そのくらい俺にだってわかる。観月さんの言葉を遮るように言っていた。
「ここでフラれたからって、やる気なくしたりしませんよ。青学には周助アイツがいるんだから」
「フってほしいと言わんばかりですね。でもね裕太君、それは冤罪でヤケになって死刑を望むのと同じだ」
 観月さんの白い手が伸びて、問題集の上にあった俺のこぶしを包む。少し冷たい感触は冷静な観月さんそのものみたいで、対照的に俺は握った手のひらに汗かいてるのを自覚してすげー恥ずかしい。いやそれよりも! この手はどういう意味なんだ。
「裕太君。君がボクに想いを募らせたのと同じだけ、ボクも君と一緒に過ごしてきました。ただ、ボクは色ごとに疎いから、気づくことができなかった。……今までは」
 俺だってそうだ。本当はいつからこういう好きになってたのか、よくわからない。
「そして今ボクの頭の中は青学戦のことでいっぱいだ。重要な局面です。絶対落とすわけにはいきません。だからもう少し、答えは待ってくれませんか? ボクは君を切り捨てたくない」
「!!」
 観月さん、困ったように笑ってる。見たことない顔だ。切り捨てたくないって。それって、それって?
 俺が想ってたのと同じだけの観月さんの気持ち。完璧なひとって思ってしまってたけど、観月さんだって俺と同じくいろいろ感じるし考えるし、きっと迷うんだよな。
 いきなり告っておいてフってくれって、俺はものすごく自分勝手なことを言ってたのかもしれない。
「……観月さん。急なこと言ってすみませんでした。俺、絶対勝ちます!」
 観月さんは俺の答えに満足してくれたみたいな、優雅っていうのがぴったりの微笑を浮かべた。バラの香りがしてきそうだ。
「期待してますよ、裕太君」
 俺を見て、俺の名前を呼んで、汗ばんだ手のひらをしっかり握られると、なぜだか泣きそうになった。
 観月さんは俺の勝利を望んでる。俺は観月さんの期待は絶対裏切らない。そしたら、きっと──

 
 
 

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