独善的ラブストーリー

5.観月の答え  ボクを裏切った君は晴れやかな顔をしていた。 ボクに従わない君なんて要らない、確かにそう思ったはずだったのに、君の吐いた幼い言葉と目を背けたくなる欲求を、しかしボクは受け入れていた。 ◇  想定外のことば... [ 5話目:7,437文字/2022-06-06 ]

5.観月の答え

 ボクを裏切った君は晴れやかな顔をしていた。
 ボクに従わない君なんて要らない、確かにそう思ったはずだったのに、君の吐いた幼い言葉と目を背けたくなる欲求を、しかしボクは受け入れていた。

 想定外のことばかり起こる。なにもうまくいかない。都大会前のあのときからもう、それははじまっていたのかもしれない。
「観月さんっ! 好きです、付き合ってくださいっ……!」
 ボクは君にきわめて親切に振る舞ってきたから、好意を寄せられること自体は望むところだったが、恋愛感情は想定外だ。少年を愛でるのは大人の男の倒錯的な趣味だと思っていたから、まさか子供の君からそう見られるとは。
 失望した。あの大事なときにそんなことを言いだすなんて、呆れるしかなかった。
 フられても平気だと君は言ったが、信用できるわけがなかった。だからボクは君と曖昧な約束をした。切り捨てたくなかったのは本当だ。あくまで戦力としてだったけれど。
 
 そんな機転も空しく青学戦は負けてしまった。木更津も裕太もボクの期待を裏切ったし、不二周助は日ごろから人を欺くプレーをしていた。所詮他人などそんなものだという諦観と、ボクの力不足だったのかという自責とに襲われた。
 できうる限りの対策とトレーニングをして臨んだ氷帝戦にも勝つことはできなかった。組み合わせの運がなかったという思いもなくはないが、負けは負けだ。弁明の余地はない。

 あの日ボクは落ち込んでいた。当たり前だ、あれほど練りに練ったものが、ボクのシナリオが、ことごとく空転した。青学戦までは上手くいっていたのに、とたんに足場が崩れたようだった。
 ボクがいちばん信頼するのはボク自身だ。そうじゃなきゃ人に指図なんてできない。常に自分を信じなきゃならないのに、根拠にするものを見失ってしまった。けれどそういうときの対処法も、ボクはちゃんと知っている。
(気持ちが赤く沈むときには──)
 好きな映画の一節を思いだす。ここにはティファニーはないが、ボクだけの劇場がある。
 教会。人が救いと癒しを求める場所。あの聖なる夜の、素敵な時間を思いだす。ボクの歌声だけが響き、皆がそれに酔い痴れ、喝采を送る。永遠に続いてほしかった理想の現実。
 信仰などなくても讃美歌は歌えるし、人の心を動かせる。それがここでボクが成したこと。
 本当はボクはテニスのために召集されたのだから、そこでこそ結果を出さなければならなかったのだけれど。鈍い痛みは残るが、それでもこの場所はボクに自信を取り戻させるには充分だった──はずだった。
「観月さん……」
 不二裕太。とうとうボクの武器になり得なかった、図々しいだけの子供。
「観月さん。俺はやっぱりあなたのことが好きです」
 信じられない。君にとってボクが魅力的だとして、どうしてボクが君に応えると思う? なにも考えてない、考える必要がないもんな。君にはお兄さんがいて、君はいつも庇護される。本当はなにもできなくたって許される、ボクとは対極の存在。
「観月さんにバカだって言われるのを、否定はできませんけど。俺は、観月さんが利用しようと思うくらいの能力を持っててよかったと思ってます」
 ああ、そうだ。君は単純で操りやすかった。それと、テニスの素質についてはボクは素直に評価していた。いい素材を見つけたと思った、期待してたんだ。それなのに君はボクを裏切った。
「──っ!?」
 君はボクを抱きしめている。傲慢、自己中、即物的。ボクはなにも答えてないのに、まともじゃないと思う。
 だけど突き放すことはできなかった。肌のぬくもりがひどく懐かしくて泣きたくなった。ボクは孤高でありたいが、本当はひとりでいるのは好きじゃない。それにくわえて今はとても弱っている。信じられないくらい卑怯なことをしている自覚は、きっと君にはないんだろう。
「観月さん……大好きです」
 まっすぐな瞳と、とろけるような甘い声色だった。君が声を操って嘘をつけるほど器用でないことを、ボクはよく知っている。
(ボクは君の体に負担をかけて、なんの結果も出せなかったのに……?)
 嬉しいとは感じなかったと思う。君がどうしてボクを好きなのか、どうしてそこまで愚直でいられるのか、よくわからなかった。しかし痛みも消えていた。無遠慮にハチミツを塗りたくって覆い隠したように。ただジリジリと胸が焼けるように。
「……いいですよ。付き合ってあげても」
 あとあと考えるに自覚以上に弱っていたのだろうが、ともかくボクは告白を受け入れた。ただの気まぐれだ。しつこい君は断っても引き下がらなかっただろうし、都大会の結果より最悪なことなど起こらないという、ヤケもあったかもしれない。自己不信のさなかだったから、予測できないものの只中に自分を置いてみたかったのかもしれない。
「観月さん……」
 君の笑顔は輝いていた。この場にそぐわぬ太陽のように、純粋で暴力的だった。どうして君はすべての言葉に感情が伴うと信じられる? 言葉なんて簡単に作れる。こんなに単純じゃあいつか取り返しのつかない痛手を負うんじゃないか。
「……!」
 君はボクにキスをした。嫌悪感よりただただ衝撃的で、かつてないくらいの侵掠にめまいがした。
(そんなにボクが欲しいのか)
 唇を食まれるうち、頭の芯が痺れてさざ波のような恍惚感に襲われる。それも悪くないかもしれないと溺れてしまいたくなったが──ボクの皮膚は人一倍敏感だ。柔らかな交接から引きずり出されそうになるものが恐ろしくて、次の波が来る前に君の体を突き放していた。
 場に不似合いな衝動から逃げるように出口を目指すが、すぐに手をつかまえられてしまった。しっかりと横幅のある手のひらの、少し硬い皮膚と指のふしの感触はいかにも男のもので、ボクの抱く君の印象とは乖離していた。その気になればボクの抵抗などものともしないだろうという憂惧もあったが、漫画かなにかのまねごとであろう君の行動を、むきになって咎めるのも大人げないように思えた。
「観月さん、これから観月さんの部屋に行ってもいいですか!?」
 別れ際の発言に、おそらく込められていた期待に気づいたのはひとりになってからだった。
(そんな、まさか)
 性急すぎる。君はボクより二つも年下だし、今日の試合の敗戦のあとで、どうしてすぐそんな発想に至れる? けれど思えば、抱きついてきたのもキスしてきたのも、根底にあったのは同じ衝動だったろう。

 試合の翌日、部活動は休みの日。この日に次への対策を練るのがボクのルーティーンだった。大会最後の試合のあとだってそれは変わらないつもりで柳沢の誘いを断ったが、邪魔者はひとりじゃなかった。
『観月さん 放課後会いに行ってもいいですか』
(なんなんだ、君たちは……)
 呆れて頭を抱えるが、すぐに昨日の夜のことを思い出した。部屋に来たいという君に、明日にしろと言ったのはボクだ。そして君はボクの〝用事〟を昨夜の約束だと思い込んでいる。
 定型句のようなつもりで、深く考えずに発したものだった。ことわることも考えたが、浮かれた君を思い返すと、約束を反故にするようなばつの悪さも感じた。
『いいですよ。放課後、部屋に戻ったら連絡しますね』
 ボクは重大な判断ミスをしたかもしれない。昨夜感じた不穏、なにかが起こる予感。それらを認知の片隅に置きながら、意識からは追いやって日中を過ごした。

 ボクが思ってる以上に君は早熟だったようだ。
 授業を終えて部屋に戻ったあと、隣室のシャワーの音に気づくと、思わずベッドの上に倒れ伏してしまった。
(隣が部屋のシャワー使ってる音なんて初めて聞こえたんだが?)
 つまり、なにかしらの目的があるんだろう。昨夜のやり取りからまったく想像しないわけじゃなかったが、あまり信じたくはなくて(ある意味君を信じて)必要なものの準備はできていない。
「ん────っ……」
 自分しかいない部屋で、思わず声に出して唸ってしまった。ひとまず最悪の場合の策はある。心底重い足取りでシャワーブースに篭り、沐浴を終えると新しい下着に着替えたが、いったん脱いだ制服をまた着直した。学校から戻ったばかりということにしたかったのだ。そして君にメッセージを送る。
『戻りました。以後在室してますよ』
『すぐ行きます!』
 返信も、実際に君がやって来たのもあっという間で、苦笑する暇もなかった。
「観月さん、勉強教えてください。──こうすればふたりで見れます」
「いつもそんなふうにしないじゃないですか」
 本来ボクは過剰なスキンシップは苦手だ。よそよそしいやり取りの先に耐えがたい行為の存在を察しながら、しかし全力で拒絶しようとは思わなかった。さすがに君には早いと感じたが、ボクの年ごろならば健全な好奇心の範疇だろう。

 風情もロマンもない無様な戯れ合いを経て、ボクは君を受け容れた。

 人は生きているだけで汚れていく。みんなそうして大人になっていく。誰しもにいずれ訪れることなら、ここで君に流されるのも悪くないと思ってしまった。なぜだろうな。
 君に対して、自分が拾ってきたものだという思い入れを捨てられずにいるのかもしれない。あるいは、自立するだの虚勢を張った君が、結局ボクを求めたからかもしれない──そうだな。君が求めてボクが与える、もともとボクらはそうだった。少し前の平穏な日々の、本来のボクに戻れる気がしたのかもしれなかった。
「観月さん、みづきさん」
 夢みるような君の瞳の中にはボクしかいない。ボクは君に組み敷かれながら君を支配する。常にこんなに従順だったならば、愛してやる意義もあるだろうに──敏感すぎる体のせいで、思考がぐちゃぐちゃになっていく。体と心は繋がっている、これはボクにだってどうしようもないことだ。
 やがてボクも君も犬のようになって、互いの存在を舐め合っていた。

 体の気だるさはテニスの疲労とはまったく違うものだった。それでも朝のうちはなにごともなく過ごしたが、放課後が近づくごとに憂鬱の重みは増していった。
 部活が休みだった昨日、ボクはこれからのプランを考えておかなければならなかった。三年にはもう大会がないからと、無責任に引退して遊んでいるわけにはいかない。ボクらが特待生として集められた事実は変わらず、寮の連中もこのまま高等部に進んでテニスを続けるつもりだと聞いている。受験勉強がないぶん、よそと差を縮めるためには今こそが重要だ。
 残していく下級生のことだってもちろん考えてる。ボクはあくまで個人ではなく、聖ルドルフに勝利をもたらしたかった。学校への恩義も部への思い入れもある。今回はうまくいかなかったが、強豪校との対戦で得たものを、伝え遺していくことはできるはずだ。
 しかし、昨日、せっかくの休日を君に邪魔されたせいでプランはまとめられていない。
 そもそも本来のボクなら来客に振りまわされっぱなしになんてならないんだが──敗戦、そしてその夜のできごと。落ち着く暇がなくて、元の調子を取り戻せてないんだろう。
(やっぱり、君のせいじゃないか)
 調子が悪い。見捨てるつもりは毛頭ないが、先週みたいに急を要してるわけでもなし、一日くらい休みをもらってもいいだろう。
 どっちにしたって、これからの新しいメニューは決まってない。自主練の指示が口頭かメールかの違いだけだ。ボクがいなくても赤澤がいれば部は回る、それが現実として露呈してしまったのだし──頭が痛い。吐き気がする。そうしてボクは珍しく部活を休んだ。

『観月さん 体調大丈夫ですか?』
『観月さん これから会えませんか? 話したいだけなので なにもしません』
(誰のせいだと思ってる……!)
 感情に任せて携帯電話をベッドの上に投げつけた。壁にぶつけて壊すなんてバカなまねはしない。返事もしたくなかったが、すぐ隣の部屋にいるんだ、余計な面倒が起こらないうちに処理したほうがいいだろう。それに──
「はぁ……」
 部屋の片隅のビニール袋を見ると、重いため息が漏れた。学校の近くにもあるドラッグストアのものだが、わざわざ私服に着替えて遠くの店舗まで買いに行った。どうせ君は用意してこないだろうし、そのせいで迷惑被るのはボクなんだから、自分で用意しておくのが手っ取り早い。人の世話を焼くのにも、泥臭いことにも慣れてるが、なかなか屈辱的な体験だった。念のための備えのつもりだったが、こんなにすぐに使うことになるとは。自分の周到さを褒めるのと君に呆れるのとで、ものすごく複雑な気持ちだ。
『いいですよ。今、部屋にいますから』

「それで、話っていうのは?」
「えっと、今日観月さんが部活休んだ理由って、俺のせいかなと思って……すみませんでした」
「はい?」
 確かにボクが不調から脱せずにいるのは君のせいだが、なにかがおかしい。君がそんなに察しがいいわけない。
「俺、本当に観月さんのことが好きで、乱暴なこととか、傷つけるなんてしたくないのに、昨日はつい夢中になりすぎちゃって……」
 やっぱり見当違いのことを言っている。それで反省した気になって許されるつもりなんだろうから、めでたいものだ。
「君は昨日のことを後悔してるんですか?」
 もしそうだとしたら。昨日のできごとを否定するとしたら、それはおおいに心外で許しがたいことだ。絶交なんかじゃ足らない。聖ルドルフから追い出してやる。
「そんなことないですっ! ……や、やりすぎたのは反省してますけど、観月さんと、その、結ばれたのは、本当に特別で、嬉しくて……」
 なにが言いたいのかわからない。要点を先に述べろと言いたくなる。そういえば今日はなにもしないと言ってたか。じゃあなにしに来たんだ、君はボクを求めてる、そうだろう?
 少し煽ると君は簡単に乗ってきた。名前を呼ぶだけ、体を開くだけ、あまりに簡単だった。
(君はこんなにもボクに囚われている)
 たとえばここで君を好きだと告げたら、君はいったいどんな反応をするだろう。ただの戯れだ。いずれ忘れ去られる一過性の興味だ。ボクは君が嫌いだ。ボクは君を信じない。
「観月さん、俺、幸せです……」
 無為に遊んでる時間なんてない、常にそんな焦りがあるのに、義務を投げ捨て享楽に耽る時間は甘美な沼のようにボクを引きずり込んでいく。

 結局今日も部のための作業はろくに進まなかった。

 堕落した昨日を過ごしたせいで今日もまた憂鬱が幅を利かせる。
 しかしボクには不思議と焦りがなかった。三年にはもう大会はないし、下級生には充分な時間がある。熟考したっていいだろう。『部活を休む』と赤澤に連絡をする、指の動作は昨日よりずっと軽快だった。人が腐敗した方向に適応するのはあまりに簡単なのだと、身をもって実感する。
 自室にいると、赤澤が向かっていると君から連絡があった。
 青学戦も氷帝戦も、赤澤と金田のペアだけが勝利した。それはボクの読みどおりであるのと同時に屈辱で、彼らへの賛辞が聞こえるたびにボクへの当てつけかと感じるほどだった。口先はともかく、心からの賞賛を送れない自分を嫌悪した。補強組としてやってきたことのすべてが無駄だったんじゃないか──というのはさすがに悲観的すぎるだろうが、たまにはカタルシスに浸ったっていいだろう。
 その後しばらくは図書室で過ごした。
「裕太君。ボクと赤澤を会わせたくないと思ったのはなぜですか」
 君はそう思ってボクに連絡してきたはずだ。
「……なんか、嫌だったんです。なんとなく、ふたりきりで話してほしくないって思いました」
 あまりにくだらない理由だな。だけど君はそれでいい。
「観月さん、どうして部活に来ないんですか。みんな心配してます。落ち込んでるのか、実は怪我してるんじゃないかとか」
 どうせそんな話だろうとは思っていた。
「三日も考えがまとまらないなんて観月さんらしくないって」
 そう、そのとおり。ボクだってここまで引きずるなんて──いや、邪魔が入り続けるなんて思わなかった。
「俺は兄貴がなんと言おうと──誰がなにを言っても、出会ったときから今もあなたのことが好きです。いや、今のほうが好きだ。だから俺は、あなたの力になりたい」
「君は本当に自分の気持ちばかりだ」
 青学戦でも、あの教会でも、ずっとそればかり主張して押しつける。それが正しいことだと信じて疑わない。今までそうして、それで許されて、お兄さんの件があるまでは、なに不自由なく過ごしてきたんだろう。そんな君にボクの気持ちがわかるものか。
「君のせいですよ。ボクが部活に行けない理由」
 ここ数日、ボクの思考を止めたのは君だ。君がボクをおかしくした。ボクにはひとりの時間が必要だったのに、君は何度も何度もボクを邪魔した。ボクの気分を逆撫で乱して、ボクでないようにさせた。とんでもないことをさせた。
「……嫌だ。別れません。俺は観月さんが好きです」
 やめてくれ。妙な暗示にでも掛かったみたいに、その言葉を聞くと思考が鈍る。抱かれると涙が出る。ボクの体、君のせいでおかしくなってしまった。
「ねえ観月さん。好きです。好き」
 君はそれしか言葉を知らないのか、子供みたいだな。いや子供なのか……ボクはなんでこんなものに振りまわされてるんだっけ。

 泣いたあとで少し話したら、だいぶ落ち着いた。涙には沈静とリラックスの作用があるという。無様ではあるが、ボクは本能的に合理的な行動を取ったともいえる。
 すべてを君に諭されたわけじゃない。エキストラに成り下がるつもりなんてない。これはひとときのエスケープ、誰にだって必要な休息の時間だった。

『観月さん大好きです おやすみなさい』
 君は思いもよらないだろうな。ボクは君が嫌いだった。ボクは君が羨ましかった。甘えることに長けた、躊躇のない君のことが。
 求められるまま、認められるように、堅実であらねばと思いながら、ボクの心は自由を欲していた。堕落に身を置き、君とピカレスクを演じることで、ボクの心は確かに救われていた。
(まあ、君にわかるわけがないか)
 君は文章を読むのが苦手だ。多少曲げてでも、わかりやすくしてやらないと通じない。
『裕太君。ボクも君が』
 そこまで打ってゴミ箱に捨てた。どうせ君は浮かれてつけ上がるだろうから、利用価値を見つけるまでこの言葉は取っておこう。
 ボクらの心は通わない。だけどボクらは求め合う。ただそれだけが事実で真理なのだ。
 
 

(了)

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