恋愛をしてみたい

2.  数日前のことだった。「恋愛をしてみたい」 いつも通りの真面目な顔で、いつもの彼なら到底言わないようなことを呟いたイグニスに、グラディオは目を丸くしてヒュゥと口笛を吹いた。「ついにイグニスにも好きな子ができたか! ... [ 2話目:6,205文字/2017-08-05 ]

2.

 数日前のことだった。
「恋愛をしてみたい」
 いつも通りの真面目な顔で、いつもの彼なら到底言わないようなことを呟いたイグニスに、グラディオは目を丸くしてヒュゥと口笛を吹いた。
「ついにイグニスにも好きな子ができたか! 祝杯あげるか? 赤飯炊くか?」
 相談があるというから何事かと思えば、なんとも可愛らしいことではないか。今まですげない態度を取られ続けて来た話題のためか、妙に興奮してしまう。楽しげなグラディオとは対照的に、イグニスは目を伏せて首を横に振った。
「いや、相手はまだいないんだ」
「なんだそりゃ。恋に恋する、てやつ?」
「そう……なのかもしれない。ものの本によると、恋愛は人を豊かにするという。だが俺はそれがどういうものか知らない」
「豊かな人間になりたい? ノクトのために?」
 随分昔のことだが、ノクトが寂しくないようにノクトの母親のように在りたいと言っていた覚えがある。今回のこともその類なのだろう。イグニスも当然のように頷いた。
「ふぅん、ご感心なことで。まあきっかけなんてなんでもいいか」
 大仰な動機ではあるが、有り体に言えば「誰でもいいから彼女が欲しい」ということだろう。よくある話だ。
 お堅いイグニスが色に溺れるところを見てみたい──想像して、不覚にも興奮してしまった。頼られることは単純に嬉しいし、一肌脱いでやるかという気にもなる。
「ああ。おもしろそうだな。手っ取り早く手頃なのを紹介するのもいいが……ううむ」
 グラディオの友人知人だ、悪い人間はいない。しかし何でもスマートにこなすイグニスの隣に立つことを思うと、些か不似合いな気もしてしまう。
(イグニスが浮世離れしてんだよな。浮世つうか、俺だって一応お城の中の人なんだけど?)
「どういう感じの子が好きなんだ?」
「俺と一緒にノクトの力になって国を支えてくれる、子供が好きな女性……かな」
 模範解答すぎる。お前には自分の欲がないのかとつっこみたくなるが、イグニスがそういう男であることもよく知っている。
「……いやまあ、その辺はお前の仕事に理解があれば大丈夫じゃ? 別に初めて付き合った相手と結婚しなきゃいけないわけでもねえ。最初なんて見た目で決めてもいいんじゃねーの?」
 イグニスは年に似合わぬ渋い顔をする。
「簡単なことのように言うな。お前にとってはそうなのかもしれないが……」
「大丈夫だって、お前頭も見た目もいいんだから、愛想よくしてその気見せれば彼女なんてすぐできんだろ。今までソノ気がなかったってだけで」
 上品なアッシュブロンドに明るく綺麗な色の瞳。やさしげな造作の唇をした白皙の美少年。そう冷静に分析すると、今まで相手がいなかったことが不思議にも思えるが、女がコミュニケーションを重視するものであることもグラディオはよく知っている。
「……しかし、子供のことを考えると見た目も大事かもしれないな」
「意外とシビアなこと言うのな。子供欲しいんだ?」
 グラディオは肩を竦める。計算高いという点は意外でもないのだが、〝ノクト第一〟のこの男が自らの子供を望んでいるということに対してだ。元来子供が好きな性分だからノクトの世話を焼くのも好きということなのだろうか。
「ノクトとルナフレーナ様の子供……新しい王子か王女のために、付き人が必要だろう」
 珍しく愛らしく笑いながら、恐ろしいことを言っている自覚はおそらくないのだろう。もっとも、イグニスは自分の立場を厭わしく思ったことはないらしいから、仕方のないことかもしれない。グラディオは苦い顔をする。
「……俺がちょうどそんな感じだから、そこはいいとも悪いとも言えねえが、とりあえず彼女探しは協力するぜ。今日はちと時間ねえから、また今度作戦を立てよう」
「ああ。ありがとう」

 そして今日。小一時間ほど前のことだ。
「イグニスのうち……って、初めて来た気がするな」
 女の部屋でもあるまいに、妙にそわそわしてしまう。
 ノクトが一人暮らししているマンションからそう遠くないところに、イグニスの居室はあった。その位置どりも、ノクトの世話を焼きやすいようにというところだろう。
「帰らない日もあるし、城やノクトのところにいる時間のほうが長いからな。グラディオとは大体そのどちらかで顔を合わせるから……」
「普段はわざわざ家に呼ぶ理由はないわな」
 相談の内容が内容だ、邪魔が入らないほうがいいだろうと、イリスもノクトも立ち寄らないこの場所を使うことにしたのだった。
 部屋へ上がってソファに案内されると、途中のコンビニで買い物して来た袋をテーブルに置き、中から雑誌だけを引き抜いた。残りは飲み物と菓子類だ。
「気を遣わなくてよかったのに」
「ん。癖みたいなもんだな。……んじゃ始めるか」
 グラディオはバシッと音を立てながら、手にしていた雑誌をイグニスに向けてテーブルに置いた。今にも溢れそうなバストをアピールする女性の表紙に、イグニスは目を瞠る。
「グ、グラディオ!? どうしてこんなものを……!」
「こんなんそこらへんで売ってるだろ。別にナニが出てるわけでもねーし」
 煽るつもりではなく、実際にグラディオの感覚ではそうなのだが、イグニスは顔を赤くして慌てている様子だ。彼がこうして取り乱すところなど初めて見たような気がする。
(なんか、かわいいな……?)
 向かい合わせに座っていた位置からイグニスの隣に移動して、俯いた顔を覗き込む。
「ふ〜〜ん。なるほどね、軍師殿こういうのに弱いわけか。耐性つけとかなきゃ、敵国の美人スパイに騙されちまうな」
 にやりと笑って雑誌の表紙を開く。ドレスなのか下着なのか判断しかねるような、布の面積の小さすぎるグラビアに、イグニスはたまらず向こうを向いた。
「フィクションの読みすぎだ、今時そんな」
「どこに向かって話し掛けてんだよ。無いとは言い切れねえだろ。……別に、お前をからかうために買って来たんじゃねえよ。どういうタイプが好みなのかってな。巨乳、美脚、ブロンドにブルネット……いろいろいる」
 パラパラと雑誌のページを捲る音を聞いて、イグニスは視線だけそちらに向ける。
「……」
 グラディオの言った通り、どこにでも売っている市販のグラビア雑誌だろう。想定外だったために取り乱しただけで、冷静な気持ちで眺めればどうということもないはずだ。
 イグニスはおもむろに眼鏡を外し、カタンと軽い音を立ててテーブルに置くと雑誌に向き直った。
「……よし」
 グラディオは思わず吹き出してしまった。
「いいのかよ!? 見えねえだろそれじゃ!」
「全く見えないわけじゃないんだ。眼鏡をしていればはっきりとは見えるが、なくても生活できないレベルじゃない」
 イグニスは雑誌から視線を外しグラディオを見上げる。
(!?)
 心臓が飛び跳ね身体に電流が走る。全身の血が体の一点に集中していくようだった。
(イグニスって、こんな顔してたっけ……?)
 昔から知っているが、イグニスの素顔を見る機会はほとんどなかったかもしれない。眼鏡がないだけで面立ちは随分と柔和で幼く──セクシーだ。
 何にも遮られていない瞳の色は一層鮮やかで、視力が弱いせいか少し遠くを見るような視線が儚げな印象だった。
 雑誌を見て照れたせいで、ミルク色の肌の各所に淡く血の色が昇り、皮膚の薄い唇が特に目を惹く。
(柔らかそ)
 ぷに。
 思っただけのはずが、つい触れてしまっていた。
 指の腹に柔らかでしっとりとした肉感を感じると、燻る衝動をいよいよ無視できなくなってくる。
「グラディオ?」
 不思議そうに名前を呼んでくる、行動か表情か、とにかく理解不能なくらい可愛らしく思えて、我慢ができなかった。
「ん……!」
 細い腰に腕を回し、唇を重ねる。初めは唇だけ、じきに柔らかな皮膚を舌先でなぞって、吸い付いて──抵抗はない。
「はぁっ……」
 腕の中で小刻みに震える体も、喘ぐような呼吸も、一層血の色を濃くした濡れた唇も、まるでグラディオを誘っているかのようだ。
(イグニス……嫌がってない……)
 そう認識すると、いよいよ歯止めがきかなかった。呼吸を奪い、身体中に触れて反応と感触を愉しみ、ついには彼の陰部に手を伸ばす。
「いいのか?」
 問うてはいるが、手の中の硬い感触には確信しかない。
 色事になど興味ないように振舞っていたイグニスが、自分のキスで興奮して勃起している。堪らなかった。もっと乱れさせて、感じさせてやりたい。
 グラディオは躊躇わずイグニスの敏感な場所に直接触れる。
「あぅ、ん…、んぅ……」
(イグニス……めちゃくちゃかわいい……)
 先走りを滴らせ、篭った声を漏らしながら、腕の中で震える体が堪らなく愛おしい。男の身体に欲情するなど今まで想像すらしなかったが、感じていることが明確な分だけ満足感も大きい。
 夢中で行為を続け、やがて達したイグニスの吐き出した精液を手の中に受け止めティッシュで拭う。
 陶然とこちらを見上げてくるイグニスを眺めると、唐突に理性が騒ぎ出した。
(いやいやいや! ヤバイだろこれは! 俺は何をした? イグニスに、何をしようとしてる!?)
「すまん、イグニス……」
 情けなく掠れる声で呟いた。
 
 気付けば自分の部屋だった。帰ってくる道中の記憶が飛んでいる。まさか、と自分の股間に手を突っ込み、どうやら最大の間違いは犯さずに済んだようだと安堵する。
(そうだ、間違いだ、過ちだ、魔が差したってやつだ)
 自分自身に刷り込むかのように、深くは考えず頭の中に似たような単語を並べながら、携帯電話を取り出す。記憶はないが、イグニスに対してまともなフォローはできていないだろう。謝らなければならない。
 通話するのはまだ気まずいような気がして、メールを打つことにした。
『すまん。お前があんまり色っぽくてかわいかったからついムラッときて衝動的に』
 自分の打った文面を見て沈黙してしまう。事実なのだが、男の友人に送る内容ではない気がした。侮辱と捉えられては敵わない。
『すまん。あれは間違いだ。悪かった。忘れてくれ』
 うんうん唸って書いて消して書いて消して、最後に残った文章はこれだけだった。まだ自分の行動に動揺していて、あまり落ち着いて考えられていないだろうし、そもそも文章なんて考えるのは苦手だ。
 何もないよりはマシだろうと、とりあえず送信してしまうことにする。後で顔を合わせたときにでもしっかり謝っておこう。

 イグニスから一言の返信もなく、〝後で顔を合わせたとき〟も訪れないまま、数日が経過してしまった。学校にせよ城にせよ、同じ敷地内にいたとしても二人の居場所はそう近くはない。グラディオが意識して会いに行こうとしなければそうそう鉢合わせることはないし、逆に言えば互いを避けるのは至極簡単だった。昨日など、遠目にこちらの存在に気付いて思い切り方向転換されたような気がする。
(俺、避けられてるんだろーか……て、当たり前か)
 黙っていても出会えないのなら、自ら会いにいけばいい。元来グラディオはそういった性分だが、今回はそれをせずにただ機会を待ってしまっている。迷っているのだ。
(間違いって、正しいって、なんなんだろうな)
 あの日の行動は唐突ではあったろうが、決して無理やりではなかったはずで、イグニスだっていくら驚いていたにしても、嫌なら声くらい上げられたはずだ。
 相手が一介の女ならば、イグニスでなければ、あの出来事をなかったことにしようとは考えず、むしろあのまま最後まで突き進んでいた気がする。
(だけどあいつはイグニスなんだ……)
 男だからと躊躇したわけではない。幼い頃から生き方を決め付けられて、それを疑問にも思わずに今まで過ごしてきて、動機はどうであれようやく外側へ意識を向ける気になったというのに、それを自分がこの手で刈り取って、女のように扱って良いというのか。
 抵抗はなかった。しかしそれが本当に彼の意志なのかと、そら恐ろしくも感じた。イグニスはノクトのために自由を奪われることになっても「そういうものだ」「俺はそのためにいる」と当然のように受け容れてきた子供で、自分は王家と親交の深いアミシティア家の総領だ。実感ほど、対等な立場とは思われていない可能性もある。
 イグニスのことは好きだ。本人にとっては心外かもしれないが、友人という以上に勝手にシンパシーを感じていた。王の盾として生まれた自分と、王子につきっきりで私的な時間が見えない彼とを重ね合わせていた。もっとも彼は自分の境遇に全く疑問を抱いていないようだったから、こちらが勝手にやきもきすることばかりではあった。
(相談してくれたの、素直に嬉しかったんだけどな……)
 ぼんやりと考えながら警備に立っていると、傍らからのんびりとした、抑揚の少ない声がした。
「なー。もしかして、イグニスと喧嘩した?」
 ギクッ!
 顔を強張らせがっしりとした肩を思い切り跳ねさせては、肯定しているとしかとれない。グラディオに動揺をもたらして静かに笑うのは、ノクトだった。
「おーめっちゃビクってる。ウケる」
「……ど、どうかしたのか?」
 やや上ずった声に、ノクトは常より更に目を据わらせる。
「イグニスが最近なんか、ぼーっとしてることがあって。たまに深刻なカオもして……てのは前からかもしれないけど。危なっかしいっつか、らしくねー」
「お前、意外とイグニスのことよく見てるんだな」
「はぁ?」
 イグニスがノクトをよく見ているのは重々承知だが、逆についてはあまり考えたことがなかった。ごく素直な感想だったのだが、どうやらノクトの癇に障ってしまったらしい。それだけイグニスを心配しているということだろうか。
 思い当たるふししかないグラディオは、拳の中に妙な汗が滲んでくることを実感する。顔すら真っ当に見ない日が続いていたから、イグニスがそこまで参っているとは思いもよらなかった。
「おっさん無神経だから、イグニスが凹むようなこと言ったんだろ。ちゃんと菓子折り持って謝っとけよ」
「……」
 年齢より年上に見られることは多いがノクトより二つ上なだけだ、おっさんとは失敬な、と真っ当な反論をする気力もない。欲望に抗えずその後のフォローもできていない現状に、今更ながら情けなさに襲われる。
「あーあ」
 気にはなるが、過剰に首を突っ込む性分でもない。ノクトはつまらなそうに呟き、グラディオのもとを立ち去った。
(そりゃ、そうだよな……)
 何も知らずに恋愛相談をした相手に初めてのキスをされて、体を触られて、感じて──下半身に危うい気配を感じて、それ以上具体的なことを掘り起こすのはやめにした。
 そんなことがあったのに間違いだとか忘れろだとかメールが届いただけで、放って置かれて。今更ながら、ひどい対応をしてしまったものだと思う。
(俺にとっては、間違いでもなかったわけで……)
 友人や弟のように思っていた相手に性的衝動を感じてしまった場合、それは恋愛と呼べるのだろうか。
(まあ、そんな分類はどうでもいいか)
 機会を待っていないで、直接会いに行ってイグニスの意志を聞こう。そしてイグニスが望まないならもうあんなことはしない。憂えたところで二人の将来が変わるわけでもないのだ、一時の衝動より友人としての信用のほうがずっと大切だ。
 ごく当然の選択に辿り着くまでに何日掛かっているのかと苦笑した。

Twitter