新宿の夜

「暁。お前は最近、所謂オカマバーでバイトをしているそうだな」
 祐介の表情は至って真剣だ。なんとなくではあるが、彼が何かを憂えているように思え、暁はつとめて取り留めのないことのように言った。
「取引相手の記者の行きつけの店なんだ。大丈夫、祐介を駆り出すようなことにはならないから」
 口元に浮かんだ笑みは愛想というより苦笑だった。具体的にどこでバイトしているとは告げていなかったから、オカマバーだと伝え聞いたらそれは驚くだろう。
 男の暁から見ても、祐介ははっきりときっぱりと美男子だ。そして夜の新宿は噂に違わぬ魔境だった。昼間か団体で行動するときならばともかく、積極的に祐介を近付けたいとは思わない。
 案じられた当人は不思議そうに二つ、短い感覚で瞬く。出鼻を挫かれたとでも言おうか、考えを読まれたかのようで至極奇妙だったのだ。
「俺も、手伝いたいと思ったのだが」
 暁はすげなく首を横に振る。
「必要ない。人手は足りてる」
「お前が器用なのは知っているが、そんなに難しい仕事なのか?」
 祐介がなぜそれほど食い下がるのかと少し考えて、当たりを付けてみる。
「牛丼屋みたいな賄いはないぞ。それに祐介には危ない」
「危ない? 腕っぷしに自信はあるが?」
「それは、知ってるけど……」
 異世界での彼は日本刀で敵を一刀両断する肉体派だ。しかし今憂慮するのはそういった危険ではない。いや結局はそこに繋がるのかもしれないが──祐介は自らが見目麗しいという自覚に乏しいのかもしれない。
「俺が働いてるのはそういう店だし、やっぱりあの辺は同性愛の人が多いから、酔っ払いに変なことされるかもしれない。こっちの世界で模造刀を振り回すわけにはいかないし、正当防衛だって通ると限らないし……」
 自分で言っておきながら、胃をぎゅっと掴まれたような、苦々しいものが込み上げる。相手によっては、祐介があらぬ汚名を着せられることだってあり得るのだ。
 祐介は小さく首を傾げる。
「お前だって条件は変わらないだろう」
「変わる、すごい変わる」
「フ、そうだな。お前の方が魅力的だ」
「いやいやいや」
「お前は俺たちのリーダーだ。数多の協力者も得ている。素晴らしいことだ」
 祐介は一方の手を胸に、もう一方の腕を外側に広げて陶然と天を仰ぐ。反り返った背筋とピンと伸びた腕がフィギュアスケートのポージングを想起させた。役者でもやっていけそうだ。
「ええと、何の話だっけ?」
「俺もにゅぅカマーでバイトをしたいという話だ」
「あ、そこはブレないんだ……」
 いっそ脱線しきって本筋を忘れてくれても良かったのだが。
「なんでまた、いきなり」
「よくぞ聞いてくれたな、暁、俺は気付いてしまったんだ」
 いかにも勿体つけて、声のトーンを落とす。
「画家、写真家、服飾デザイナー……美的感覚に秀でた人間には、同性愛者の割合が高いということに」
 祐介はしてやったりとでもいうように小さく鼻を鳴らし、暁は難しい顔をして唇を一の字にした。
「そうきたか」
 なるほどね、とは思うが、だからといって見す見す提案を呑むわけにはいかない。
「わからなくはないけど、インパクトが強いせいで多いように思えるだけじゃ? どっかに統計でも出てた?」
「彼らには性別という境界がない。彼らの世界は異性愛者より広いといっていい」
「そうかな……男だけが好きで女に全く興味ない男なら、範囲は異性愛者と変わんないような……」
「暁、俺は自分の世界を広げたい。そしてよりよい絵を描きたいんだ!」
 演説のように熱を込めて語り、ぐっと拳を握る。自分の言葉が全て聞き流されたことに腹を立てる気はしない。祐介にとって絵が極めて重要なものであることはよく知っているつもりだ。
「まあいい、新宿のオカマバーはそこだけではないだろう。雇ってくれそうなところを適当に探す。それならお前の手を煩わせることもないだろうからな」
「煩わしいとかじゃなくて、とにかくだめなものはだめなんだ。やめてくれ」
「むう。それほど否定するというのは、お前なりに考えがあるのだろうな。心に留めておこう」
 納得してもらえたのなら良いのだが、改めて考えと言われると自分でも首を傾げるところがある。
 怪盗団のリーダーは喜多川祐介の保護者ではない。自由を手に入れた彼の行動を制限したがるというのも、おかしな話なのかもしれない。

***

 夜の新宿を行き交う人間の層は渋谷より雑然としている。
(混沌、ミクスチャー、みたいな……)
 にゅぅカマーに向かう道すがら、黒い車に乗り込もうと身を屈める人物が目に止まった。
「祐介!」
 夜の街で祐介がそう目立つわけでもなかったが、見知った人間の姿は不思議と意識に飛び込んでくるものだ。
 かなり声を張り上げたため、祐介だけでなく近くを歩いていた人間もちらほらと暁を振り返る。暁は構わず走り、祐介の腕を思い切り引いて車のドアを閉めた。
「……なんだね、君は」
 半分まで閉じた窓から落ち着いた、しかし訝しげな声がした。
「すみません、こいつ俺のツレなんですけど、迷子になってて!」
「ああ、そうなの。……気をつけてね」
 きっちりと髪をセットした、スーツ姿の中年の男だった。言葉は穏やかだが、さすがに不愉快そうだ。それはそうだろう。
 車の窓が閉まっていく音を背後にして、暁は祐介の腕を抱え、ぐいぐいと引っ張ってその場から離れた。
 人通りと喧騒の落ち着いた路地まで来ると、足を止めた祐介がぼそりと呟く。
「……俺は迷子ではない」
 暁は思わず項垂れる。そこなのか? いや祐介らしいか、と妙に納得してしまった。
「じゃあ、あの車の行き先を知ってた?」
「肉を食わせてくれるという話だった」
「お前は──」
 (本当に、しょうがない……!)
 何か得体の知れない、強い感情がブワッと込み上げる。嫌悪感や呆れとも違う。正体不明だ。とにかく放っては置けないと思わせる。
「そんなに悪いことか?」
「え?」
 妙に落ち着いた調子の祐介に、反射的に間抜けな声が出てしまった。
「俺が彼らの世界を知ることを、お前は好ましく思ってない。だから俺のことを止めた」
「……そうだな。だって、興味本位なんだろ。たとえばお前が本気で同性愛の悩みを抱えて彼らを知りたいっていうなら、止めない……と、思う」
 多分、と言い淀みながら続ける。
「でも、いわば取材なわけだ、世界を広げたいっていうのはさ」
 言葉が纏まらない。それでも伝えたいことがある気がする。
「なんか俺も、どうして祐介の取材を妨害したいのかよくわかんなくなってきたけど……いや、お前の言動は俺の想定を超えてるから。さっき車に乗ろうとしてたみたいに、興味本位で一線を超えるんじゃないか、とかさ」
 眼鏡の奥で視線が泳ぐ。男同士の軽度な猥談とも違う、こんな話を祐介にするのはなぜだか非常に居心地が悪い。
「だとしたら?」
「へ?」
「例えば俺がこの街で、お前の知らない人間と一線を超えたら、俺はお前の仲間ではいられなくなるのか?」
「……」
 驚愕は喉の奥に引っ掛かって、もはや声にならない。想定外だ、さきほど自分で口にした、本当に想定を超えてくる。
「そんなことは、ないと思う……それがお前の望みで、お前が後悔しないなら……」
 高校生の夜遊びが良くないと、件の店で働いている身で言えたものではない。祐介が自身の意志で関係を望んだとして、果たしてそこに介入できるものだろうか。
「でも、その、興味本位で身体を投げ出すもんじゃないと思うっていうか、後悔するかもしれないし」
 苦しい。理屈ではなく、祐介がそんなことになったらと思うととにかく苦しいのだ。妙なところで迷ってしまう自分の性格が、竜司のような突進力の無さが恨めしい。
「意外に古風だな」
「絵を描くためにホモになろうっていうのが斬新すぎるんだ」
「そうか? 良い考えだと思ったんだがな」
「本当かよ……いや、本当にお前が男に恋したっていうならしょうがないけど。そういう話じゃないんだろ」
 これからアルバイトの予定だというのに既に疲れている。今日はあまり癖の強い客が来なければ良いと思う。
「恋、か」
「どうした?」
 祐介は彼にありがちな、気取った微笑を浮かべた。
「いや。俺の頭が固いったようだ」
「そうか?」
 芸術のためにジェンダーを越えようとする男の頭が固いとは到底思えない。
「お前といるといろいろなことに気付かされる。俺の世界が広がっていく。つまり、そういうことなんだろうな」
 祐介は至極納得したというように深く頷くと、踵を返し歩き出した。いやどういうことなんだよ、とは言えないまま、暁は細い腕を捕まえる。
「どこ行くんだ」
「せっかく電車賃を払って来たんだ、人間観察でもして帰る。安心しろ、見知らぬ紳士に付いて行ったりはしない」
「……バイト、一緒に来るか? 酒を飲まなければカウンターに座ってていいと思う」
 祐介のことを信用しないわけではないが、そもそも最初はあの店に行きたいという話だったし、目の届く場所に居るのなら心配事もないだろう。
「本当か! 是非そうさせてくれ」

 開店準備中のにゅぅカマーには、既に客が居た。
「よっ勤労少年! えっなに同伴!? 将来有望じゃ〜ん?」
 カウンターに陣取り、グラスを回しながらケタケタ笑うのは、大宅一子。既に酒が入っているようだ。今日はあまり会いたくなかった、と愛想笑いも思わず引き攣る。
「……どうも」
「知り合いか? 暁」
「ああ……新聞記者の大宅さん。いろいろ〝協力〟してもらってる」
「なるほど、それでお前はこの店で働くようになったのか」
「まあ、そんなところ」
「んん? きみ、どっかで見たことあるな。どこだったかなー……」
 大宅は身を乗り出し、眉を潜めて祐介を見つめた。祐介は律儀に一礼する。
「同伴者の喜多川祐介です」
「同伴って言わないでくれ、なんか違う感じになる……」
 大宅の指した同伴とは、風俗店のキャストが事前に待ち合わせた客と食事などをしてから一緒に出勤することだ。この店で働くうち、そんな言葉も自然と覚えてしまった。
「やめやめ、そんな畏まらないで。……で、思い出したわ。きみ、斑目の弟子だ」
 思えば、大宅と出会って名刺を貰ったのは斑目のあばら家の前だった。ただ一人残った弟子であった祐介の存在を知っていても不思議ではない。
「なるほどなるほど? 晴れて自由の身だもんねえ?」
 大宅は暁と祐介に交互に視線を遣って、意味ありげににやりと笑った。
「存分に青い春を謳歌したまえよ! ララちゃん、酒足りない!」
 ララちゃんと呼ばれた店主は大宅に酒を注ぎ、芝居掛かって溜息を吐いた。睨めつける視線は暁に向いている。
「アンタ、どういうつもりなの?」
「どうって、酒を飲まなければ彼も客として」
「デートなら他所でやってちょうだい」
「デート!?」
「堅いこと言わないでよ、きっとシェイカー振る姿とか見せたいんだよ、かわいいじゃん?」
 大宅は受け取ったグラスを煽り、ひゃひゃひゃと笑う。大いに勘違いされているようだが、機嫌悪く絡まれるよりは良い──のだろうか。
「ええと、そういうんじゃないんで……」
「いいっていいって、こういう店で働いてんだからそりゃそういうことでしょ。私は見ての通り偏見ないしさ」
「いえ、そもそもあなたがこの店に俺を連れ」
 ゴホン。ララが大きく咳払いをした。
「余計な勘繰りされるのも面倒でしょ。悪いこと言わないから今日は帰りな」
「は、はあ、そうします……なんか、すみませんでした」
 ララの言葉には基本的に従うべきだと思っている。それに、金にならない客をカウンターに座らせておくというのもよくよく考えれば迷惑な話だ。
「いいわよ。また今度お願いね」
「えぇ〜! 折角面白いもん見れそうだったのに〜!」
 大宅の無責任な叫びを聞き流しながら、二人はぺこりと頭を下げて店を後にした。

「これは、デートなのだろうか?」
「そんなことないと思うけど……店が店だから、そう思われたんだろ」
「認知の問題か」
「だな、多分渋谷に二人でいてもデートとは言われないと思う。……いや」
 似たような経験を、唐突に思い出す。
「なんだ?」
「前に二人でスワンボートに乗っただろ。あれも周りにはデートと認知されてたっぽい」
 無論二人ともそんなつもりではなかった。
「なんと。認知の歪みは意外と身近に存在するのだな」
「ほんとに」
「……しかし、俺のせいで今日のバイトができなくなってしまったな。すまない」
 祐介はエキセントリックなようでいて折り目正しい。憎めない男だ。
「いいって、店に連れてくって言い出したのは俺だ。予定がなくなったから、人間観察に付き合おう」
「そうか、それはありがたい。……む、あの店は」
 入り口上の欄間看板に大きく〝雑貨〟の文字の見える店に、祐介はツカツカと歩んで行く。年中無休、愛のコンビニ──暁は慌てて祐介の後を追った。
「祐介! それはだめだ!」
 コスチュームプレイ用のレオタードやチャイナ服が吊るされた店頭に何を思ったのか。祐介は店内に進んでいく。
(ええ、祐介……)
 所謂アダルトグッズのショップだ。これが例えば竜司や三島ならば納得できるのだが、祐介だと思うと意外というか卑猥というか、非常に落ち着かない気持ちになってしまう。
 祐介はパッケージされた強烈な蛍光ピンクの下着を手に取り、まじまじと見つめている。
「ゆ、祐介そういうのに興味あるんだ?」
 我ながら妙な質問をしていると思う。罪を犯しているわけでもない、同年代の真っ当な興味に、なぜこうも落ち着かないのか、自分でもよくわからないのだ。
 少し落ち着いて考えよう。
 彼があのあばら家でどういう暮らしをしていたのかはあまり知らないが、夜になってから電車賃の掛かる新宿まで出向くことは多くなかったのではないだろうか。余計なことを言わず、今くらいは好きにさせてやろう──。
 そう広くない敷地にみっしりと商品が並べられた狭い店内には、彼ら以外にも客がいた。
 至って普通の男女二人組の後ろ姿を眺めると、この店で買ったものをこれから使うんだろう、と自然ではあるが下衆なことをつい考えてしまう。
 また別の客が店に入ってきて、暁と祐介の後ろを窮屈そうに通過する。邪魔にならないようにと体に鞄を引き寄せながら、暁は痛いほどの視線を感じていた。
(そりゃそうだよな……)
 少し前に見ず知らずの二人に巡らせた想像を思い出す。ひどくいたたまれない気持ちだ。変な汗が出てきた。
「祐介、そろそろ行かないか。買わないのに居ても邪魔になりそうだ」
「うむ、そうだな。狭い店だしな」
 祐介が素直でよかった。
 店を出ると、通りの空気が不思議と美味い。
「何か、美しいものはあった?」
「いや……」
 祐介は顔を顰めて首を振った。その割に食いつきは良かったように見えたのだが。
「安っぽく、けばけばしく、繊細さの欠片もない色彩に溢れていたな。だが、敢えて下品に見せようとしているのかと、そうすることで客が煽られるのだろうかと考えると、なかなか興味深かった」
「へえ。芸術のヌードとエロ画像が違うようなもんかな」
 さすが目の付け所が違うものだと、改めて感心する。周囲のカップルを気にしてばかりいた自分を思えば尚更だ。
「そういうことだろうな」

 少し歩くと、見知った通りに出た。
 建物沿いに、御船千早が路上占いをしているのが見える。
「あれは……?」
「タロット占いだな。興味あるのか?」
「ふむ、なかなか面白そうだ」
 丁度、客はいないようだ。占いの机に近付いていくと、こちらに気付いた千早が穏やかに笑った。
「こんばんは、来栖さん。今日はお友達と一緒なんですね〜」
「ああ。ちょっと散策を」
 祐介は目を瞬き、千早、そして暁を見た。
「なんだ、また知り合いか? 随分と顔が広いんだな」
「言うほどじゃないよ、新宿にはこんなに沢山の人がいるんだ」
「うふふ。でも、こんなに沢山の人たちがいるからこそ、出会いって特別なものです。きっと、来栖さんとお友達も」
「そうだな。つい最近まで、俺たちは名前も顔も知らなかった。そんな俺のことを、彼はあの家から連れ出してくれて──」
「祐介?」
 放って置けば根深いところまで語り出しそうな調子の祐介に面喰らい、肘で腕を小突いた。怪盗団のことにまで言及されてはさすがにまずい。
「あら? まあ……?」
 首を傾げながらも意味深長に微笑する、千早の手には〝恋人〟のカードが握られている。
「違う、違います! そういうんじゃないんで!」
「大丈夫ですよ〜、このカードには、絆とか信頼っていう意味もありますから」
 どちらにしても、面と向かって言われるには照れくさい言葉だ。
「それで、何を占いましょうか? お二人の相性ですか?」
 祐介は首を横に振った。
「いや、それはいい」
「そうですよね、お二人ならきっと大丈夫です」
 やはり何か誤解されている気もするが、いい加減面倒なので放っておくことにする。
「他には、開運、金運、運命占いがありますよ〜」
「金運を頼む」
 即答した祐介に、つい吹き出してしまった。素直でよろしい。
「はい、ではお友達、そこに座ってください」
 祐介は言われる通り、折りたたみ式の小さな椅子に腰掛ける。
「喜多川祐介だ」
「では、喜多川祐介さんの金運を占いますね。ふむ〜、ふむふむ……」
 千早は難しそうに、細い眉を寄せた。
「喜多川さん、ズバリ今、お金に困っていますね?」
「その通りだ。よくわかったな」
「必要なものを見極めて、衝動買いは控えてくださいね。そうすれば少しずつ、良い方向に向かっていきますから」
「確かに、俺はインスピレーションで買い物をしてしまいがちだ……」
 占いというよりは至極真っ当な助言に思えたが、祐介が納得しているのだから良いのかもしれない。
「潤って溢れるということは当分なさそうですが、悲観する必要もないという運勢です。ただし、伊勢エビには気をつけてくださいね」
 千早の腕は確かだと踏んでいる。彼女の表情からして、ふざけているわけではないだろう。占う対象が浮世離れしていると、占いの結果にも奇妙なものが映し出されるのだろうか。祐介は神妙な面持ちで頷いている。
「うむ、気をつけよう」
「はい、それでは5000円になります」
「ごっ……」
 祐介は言葉を失い、不自然に硬直してプルプルと震えている。目を見開いて打ち拉がれているであろうその表情を想像しながら、暁は財布から5000円札を取り出し千早に渡した。
「ありがとうございますぅ」
 千早は朗らかに笑い、愛らしく小首を傾げた。そこはかとなく恐ろしい女だ。
「ねっ喜多川さん、言ったでしょう? もっと楽観的にいきましょう! スマイル!」
「そうだな、フフ、フハハハ!」
「……行こうか、祐介」

「祐介、いきなり何言い出すのかと思ってびっくりした」
「何のことだ?」
「名前を名乗るより先に、俺がお前を助けたとか語り出して」
「ああ……何か、彼女の言葉にいたく共感して、つい語りたくなってしまった」
「出会いが特別って話? まあ、本当だけどな」
 祐介と、怪盗団の仲間と出会ったこと。自分たちに目覚めた不思議な能力。ここ最近で起こったことはあまりに特別すぎた。
 千早が言いたかったのはそういうことではないのだろうとも、思ってはいる。
「彼女も協力者なのか?」
「そうなるかな。まだ知り合ってあまり経ってないけど、何か抱えてそうな感じはする」
「……本当に、不思議な星の巡りだな」
 迷える人間が道標を探して暁に引き寄せられているようだ、と祐介は思う。
 自分はずっとあのあばら家で、斑目のために生きていくのだと思っていた。それが運命なのだと信じて疑ったことがなかった。しかし暁はそれを変えた。運命など存在しないのだと思った。だから運命占いを選ぶ気もしなかったのだが──
「一体どこまでが、定められた運命なのだろうな」
 そもそも自分の思い込みが間違っていて、暁に助けられることもまた運命だった、とは考えられないだろうか。
「ないよ、そんなの。……定められた運命なんて、ない」
「……」
「生まれとか、育った環境とか、どうしようもない運命っていうのは確かにあって。でも、その先のことは変わると思う。俺たちなら、変えられるはずだろ」
「ああ、そうだな。……下らないことを言った」
 もしも運命が、未来が確定しているのなら、自分たちがこれから何を為そうが為すまいが、結果は変わらないということになる。だが、そんなはずはないのだ。

 ネオンの光る店の前に立つ、嫌でも目を引く大柄な二人組に、暁と祐介はどちらともなく自然と視線を遣っていた。
「あらぁン、かわいいお兄さんたち☆︎」
 ゴージャスな白金髪の巻き毛に青いイブニングドレスを着た、巨大なオネエだ。もとより体格が良い上に、ヒールを履いているために威圧感さえある。
「ちょっとウチの店寄ってかない? ……にしては若すぎるか! アッハッハー!」
 ギラギラと塗りたくったアイシャドウに刷毛のような睫毛、ハート型に分厚く塗った唇というのは彼女らの標準装備なのだろうか。こちらは黄色のボブカットで、その巨軀に赤いドレスを纏っている。
「ええと……」
 店の看板には〝HIGEギャルズ〟とある。
「なんというか、そのままだな」
 祐介は呟き、ドーランの下に青髭の気配を伺わせるギャルたちをまじまじと眺める。
「ゆ、祐介」
「フフン、綺麗なボクちゃんたちに、化け物は珍しいかしらね?」
 黄色ボブのオネエが二人に凄むように顔を近づける。香水なのか化粧品なのか、強い人工的な香りがした。
「店の中にはもっとすっっごいのがいるわよン。見てって欲しいトコだけど、大人になってからまた遊びに来てネ☆」
 白金髪の巻き毛は愛想よくひらひらと手を振る。上背も肩幅も男でしかないのだが、手の仕草が妙に女っぽいのが不思議だった。
「ああ、そうさせてもらう」
 暁は応えるようにひらりと手を振って、祐介の腕を引きながらそそくさとその場を立ち去った。
「嘘はよくないぞ、暁」
「あの人たちだって仕事なんだ、いちいち気にしてないだろ。で、祐介はああいう人たちと仲良くなりたいのか? 世界が広がりそう?」
 祐介は腕を組んで難しい顔をした。
「俺の追求する美とは違うし、俺がああなりたいわけでもないが……ごく単純に、興味はある」
「はは、ちょっとわかる。ステージに立ってそうな出で立ちだったしな」
「なんというか、楽しそうに見えた。彼らは、強い人間なのかもしれないな」
「……そうかも」
 少し考えてしまう。
 事実として、彼らは少数派だ。居場所を見つけて、秘密を曝け出して働くようになるまでに、暁には想像もできない経験をしてきたのかもしれない。後ろ指をさされたこともあるかもしれない。或いは、意外に悩まず欲求に忠実に生きているのかもしれない。
 つい一年前、前科もないごく普通の高校生だった頃ならば、こんな想像はしなかっただろう。
「祐介が人間観察を面白いっていうの、少しわかった気がする」
「なんだ、これまで面白みを感じずに俺に付き合っていたのか? おかしな奴だ」
 祐介にだけは言われたくないと思った。そして彼の言葉に反論したくて、暁は眉根を寄せる。
「祐介と一緒にいて、面白くないってことはないよ。人間観察のやり方をよくわかってなかったってこと」
「フ。ここには随分といろいろな人間がいるようだから、観察のしがいはあるだろうな」
 祐介はスゥと目を細め、薄い唇に微かにだけ笑みを乗せた。
 視線の先には、手に持ったヒールのパンプスを振って歌いながら歩くOLがいる。仕立ての良いスーツを着込み、書類を抱えたサラリーマンは項垂れる。若い女と、随分と年上の男が腕を組んで歩く。外国人の女性同士が頬にキスをして、金茶色の髪を逆立てたホストは電柱の根元に蹲って嘔吐いていた。
「普通に生きていれば俺たちは、自分の人生しか知り得ない。幸も不幸も、自由に生きるならば自分次第なのだろうな」
(自由に……)
 祐介の言葉が重く胸に引っ掛かり、声が出ない。彼の表情は穏やかだ。感傷的な意味は含まれていなかったかもしれない。それでも。
「暁、今日は楽しかった。ありがとう」
「なんで俺に、お礼なんて……俺はむしろ、祐介の邪魔してただろ」
 伏せ気味の瞼と子供のような感謝の言葉に、なぜだか胸が痛くなる。
「そうだったか? 何にせよ、道案内がいれば助かる。本当に迷子にならないとも限らないからな」
「そっか。じゃあ、また一緒に来よう」
 迷子は一体どっちなんだろうね、と頭の中で何かが囁いた。

Twitter