星と矢印

2.  ──パシッ 「駆逐せよ、ダークインフェルノ飛車!」  静謐な空気に満ちた教会に、軽快な音とともに凛とした声が響く。  盤上では祐介の駒が敢え無く討ち取られていた。 「なっ!? ック、これでどうだ……」  覚束ない... [ 2話目:7,068文字/2016-12-31 ]

2.

 ──パシッ
「駆逐せよ、ダークインフェルノ飛車!」
 静謐な空気に満ちた教会に、軽快な音とともに凛とした声が響く。
 盤上では祐介の駒が敢え無く討ち取られていた。
「なっ!? ック、これでどうだ……」
 覚束ない手付きで動かす駒に、一二三の視線が鋭く光る。
「掛かりましたね、私のエターナルアビス矢倉に」
「謀られた……のか!?」
 ──そっ
 ──パシッ
 ──カタン
 ──パシッ
 考え、迷いながら駒を置く祐介に対して、一二三には迷いがなさそうに見える。まるで点を繋いで線を引いていくように、と思うや
「これで終わりです! アルティメット東郷キングダム!」
 ──パシッ
 高らかに宣言して駒を置いた一二三を、祐介は怪訝に見返す。
「終わり、だと? まだ俺の王は」
「よくご覧なさい。次はどちらに指しますか?」
「か、完全に包囲されているだと……!」
 不利は感じていたが、いつの間にここまで追い詰められていたのか。祐介は驚愕に肩を震わせた。
「アルティメット東郷キングダムは私の必勝の型。貴方はもっと早くに気付くべきでした……」
「く……参った。これが本当に詰み、投了、ということなのだな」
 凄すぎて笑いさえ込み上げてくる。穏やかな表情で椅子に凭れた祐介を、一二三は意外な思いで見つめる。
「……どうした?」
「喜多川さんは対局中の私のこと、引いたり笑ったりしないんですね」
「集中力を高める方法など人それぞれだろう、何もおかしくはないさ。絵だって、目の前に何も見えなければ画けないからな」
「そう言っていただけると、なんだか安心します」
 一二三は微笑する。改めるべきだと、思ってはいるのだが。
「王に将軍、騎馬武者……一二三の盤上には、キングダムの軍勢の躍動が描かれているわけだな。実に興味深い。俺も見てみたいものだ」
「ふふ。喜多川さんになら、きっとそのうち見えますよ。そうしたら、絵に描きますか?」
「それもいいかもしれん」
「……」
「どうした?」
「いえ、少し、不思議なんです」
 俄かに躊躇うように唇を閉ざしたが、やはり、と続ける。
「私、昔から友達が少なくて。同じ趣味を──将棋を通じて人と仲良くなれればいいなって、想像したことがあって。けれど喜多川さんは……今は将棋に興味をお持ちのようですけど、将棋を通じてのお友達、というわけではないと思うので……」
 友達と声に出してしまってから、途端におこがましいような気がして俯く。棋士でないときの一二三は、年齢相応の内気な少女だった。
「そうだな……俺も、昔は絵に関する知り合いしかいなかった」
 兄弟子、斑目、それを通じて知り合った人々。
「最近だ。暁とその仲間と……絵にほとんど関わらない世界の人間と、深く交流するようになったのは。不思議だな、本当に。俺にとって一番大切な絵のことをさほど共有できていなくても、共にいて心地良いのだから」
「喜多川さんも、同じなんですね……?」
 一二三は目を瞠ってぱちぱちと音がしそうな調子で瞬いた。瞳はきらきらと輝いて、常よりも随分と幼く見える。
「ああ……来栖暁、彼が手繰り寄せた縁なのだと思う」
「来栖さんから貴方の名前を聞いたとき、本当に糸が繋がったようなイメージがあって……あの方は、一体何者なのでしょうか?」
「何者、とは?」
 祐介は眉を顰める。一二三に親近感を覚えたとはいえ、まさか怪盗だと打ち明けるわけにもいかない。
「失礼に感じられたのなら、ごめんなさい。私には盤上の軍勢、喜多川さんにはキャンバスの中の世界があるように、あの方も別の世界を持っているのではと、思うことがあって」
「すべての人間の目に世界が同じに見えているとは限らない、というところだろうな」
「……そうですよね。おかしなことを言いました」
 祐介はゆるゆると首を横に振って苦笑する。一二三は察しがよすぎる。
 多くの人々の目には〝大衆〟が認知した姿の世界が映っている。現実ともそれとも異なる別世界を見ることのできる、暁と自分たち怪盗団が特別なのは事実だった。
「私たち、二つに割れた月なのかもしれません」
「なんだそれは」
 まだ月のない中空を眺め細められた一二三の瞳は、夢見るように蕩けている。
「満月のときにだけ出逢う、よく似た双児の欠けた月。来栖さんは……そうですね、金星でしょうか」
「なるほど、いっとう明るいうえに美を司る星か。彼に丁度いい」
 天体にも占星術にも詳しくはないが、要は感性が納得できればよいのだ。
 祐介は深く頷き、親指と人差し指で作ったフレームの中に、微笑する一二三を見つめる。
 彼女の存在は以前から知っていた。雑誌のグラビアに取り上げられるほどの、なるほど整った容姿だとは認識していたが、交流を持つ前は校内で見掛けても特別印象に残ることはなかった。
 ある日駅で見掛けた高巻杏には外見もさることながら内面から湧き出でるような美しさを感じ、居ても立ってもいられなくなって声を掛けた。今思えば、第一の標的を打ち負かし彼女の心が解放されたせいかもしれないし、彼女の──自分たちの持つ特別な力が惹かれ合ったのかもしれなかった。
 これまでそう突出したものを感じなかった一二三に対して、最近は美しいと、描きたいという衝動に駆られることがあった。
 将棋の話をするとき、そして暁の話をするとき、一二三は何かから解き放たれたかのように生き生きとしているのだ。
(一二三はきっと、暁を好きになる)
 否、既になっているのかもしれない。彼は特別に魅力的な人間だし、彼女は自分に似ている。一つ懸念するならば、来栖暁は既に自分と特別な関係にあるということ。
 何も感じないわけではない。執着がないわけでもない。それでも彼女を恨めしいとは思わない。
 失うことは恐ろしい。それでも実際に状況が変われば、自分はきっと彼の決断を受け入れるのだろう。

「お、あれ祐介じゃねーか?」
 モデルのような長身は人混みの中でも目を引いた。竜司は手を振ろうとするや否や、杏に強く腕を引かれてふらつきながら建物の影に引っ込んだ。暁も釣られて同じようにする。怪盗の時の癖のようなものだった。
「っテェな、なんで隠れんだよ」
「シッ、ほら、よく見なさい!」
 杏は小声で、しかし強い口調で言った。
 竜司と共に通りを覗く。祐介は一人ではなかった。
「ンなっ、女の子と一緒じゃねーか! しかもすげえ美人!」
「もう! 声でかいっての!」
 ストレートの黒髪に赤い紐の髪飾り。遠目にも整った横顔は、暁も見知ったものだ。二人が談笑しながらショーウィンドウを覗き込む様に、なんとも言い難い奇妙な気分になる。
「チクショーあいつ、抜け駆けしやがって……」
「は? ちょっと竜司言葉の意味わかって言ってる? 抜け駆けっていうのはね」
「わかってるけどよぉ、祐介の中身の残念さは知ってるだろ? ったく、結局男は見た目なんだよな」
「中身は変わってるかもしれないけど、性格が悪いわけじゃないし、波長が合えばアリなんじゃない? ……ん〜、あの子、どっかで見たような」
「モデルか? おっ、こっち来る」
 三人が息を潜めて隠れる路地を何も知らない祐介が通り過ぎて行くのを確認して、暁はぼそりと言った。
「東郷一二三だ。女子高生棋士の」
「あ、それだ! そういえば同じ学校だってね」
「棋士と日本画か、なるほどなー」
「何がなるほどなのかわかんないけど、お似合いだったね」
 杏はなぜだか嬉しそうだ。
「だな、あいつも彼女ができて、いろんな嫌なこと忘れちまえばいいと思うぜ」
 竜司までも一転してうんうんと頷いている。暁には珍しく二人の言葉が理解できない。
「彼女?」
 問うと、竜司に肘で小突かれてしまった。
「おい、意外と察しが悪いな?」
「付き合ってるって決めつけるのは早いかもだけど……でも、ねぇ?」
「あいつ逆ナンを追い返したんだぜ? 女の子に誘われたって興味なきゃホイホイ一緒に出掛けねーよ」
「……」
 最近祐介が部屋に遊びに来たとき、彼が席を外すと手持ち無沙汰になってクロッキー帳をぱらぱらと捲った。それ自体は初めてのことではなかったが、その日は妙に目に止まったページがあった。
 こちらの──おそらくは描き手の祐介の──様子を伺うかのような一二三の姿。その背後にはなぜか孔雀が二羽描かれていた。東京にだって孔雀がいる動物公園くらいあるのだろうが、二人で遊びに行ったのか。その時は珍しいなとか、随分と仲良くなったものだとか呑気な感想しか抱かなかったが、もしかして自分はひどい間抜けだったのかもしれない。
 学校で孤立していると、特別に親しい友人もいないと言った祐介が、自分の知る限り短期間で急激に一二三と親しくなり二人で出掛けていた。
 一二三の抱えている悩みは祐介の状況と少し似ているようにも思えたし、それでなくとも二人は気が合うかもしれないと考えたのは、他でもない暁自身だった。
 お似合いだった、と杏は言った。その通りだと思う。よく似たつがいの美しい鳥の姿が脳裏に浮かぶ。クロッキーに描かれた孔雀だったかもしれない。
「あいつ、顔はいいけど言動がアレだからさ、俺たちが応援してやるべきじゃね?」
「はあ? 竜司に何ができるってのよ。余計なことしないの。それに、東郷さんも変わった子だって聞くよ。案外、それで気が合っちゃったのかも!」
 笑えない軽口の応酬に、頭の底が冷めきっていくようだった。
 怪盗団だけが自分の居場所だと、はにかんだように言ったくせに。
「おーい暁、どした?」
「別に?」
 これは怒りなのだろうか。
(誰に対して)
 祐介と一二三の接触の原因を作ったのは自分だ。
(あんなこと、聞かなきゃよかった)

「祐介。最近一二三と仲がいいみたいだな」
「お前に勧められた通り、一二三に将棋を教わってみたぞ。なかなか面白かったし、彼女も喜んでくれたようだ」
 満足げな表情の祐介に苛立って仕方がない。彼に友達ができれば良いとしか考えなかった、めでたさが恨めしい。傍目に友達に見えるのは自分のほうだというのに。
 祐介は暁の鬱々とした思いなど知る由もない。
「この前は弁当をご馳走になった。俺がもやしばかり食っているのを哀れんだらしい。まあ、もやしも旨いんだが……」
「へえ。一緒にお昼食べたんだ」
 よかったな、いつもカレーとコーヒーじゃ飽きるだろうし。
「うむ。屋上は静かで落ち着いていていい」
「目立つんじゃない」
「互いに校内では浮いた存在だ。興味の種類が多少変わるだけに過ぎない。お前と杏と竜司だって十分目立つんじゃないか?」
「それは、まあ……」
 否定はできなかった。マイペースなようでいて妙なところで鋭い男だ。最初は勘なのかと思っていたが、本人曰く観察眼らしい。
「そうだ、将棋の対局をしないか」
 能天気な提案に、到底乗りたい気分ではない。
「この前、一二三と二人で歩いてるところを見た」
「ああ、そんなこともあったな。互いに自分の没頭する時間は大切にしたいはずなのだが、人と過ごしたいと思うとは……不思議なものだ」
 俺が変わったのは暁のおかげだ、といつか言ってくれた言葉が思い出され、どす黒い感情が湧いてくる。
「暁、どうかしたのか?」
「何が」
「様子が変だ」
 そう思うのなら何が原因なのかも察して欲しい、というのは過ぎた要求だろうか。
 暁は祐介に顔を近付ける。祐介は目を閉じる。そうして当たり前のように応えようとする、キスはしない。
「祐介には俺がいるってこと、わかってる?」
「……? そんなことはわかっているが、一体どうしたというんだ」
 目を開き、見返した暁の様子は常とは違った。怒っているのだろうか。しかしなぜ。
 祐介の視界は再び閉ざされる。今度は暁の手によって。
「暁?」
「見えないね、祐介」
 ひどく冷めた声だ、と暁は自分で思っていた。これが自分の本質なのかもしれない。
 身動きの取れなかった祐介を虚飾の美術館から救い出し、自分たちは同類なのだと、ここが祐介の居場所なのだと諭した。
 その目を塞いだ手を退ける。
「見えたぞ、暁」
 ぱちぱちと瞬く、仕草はまるで子供のようだ。祐介に時たま感じる危うさは、こういった所作と彼の生い立ちに起因する。
「そうだな」
 このままでいいのだろうか。
 今、祐介の目には自分が映っている。それは本当に彼の意志なのか。斑目を失った彼にとって、自分しかいなかったせいではないのか。
 祐介は未だに斑目への恩義を捨てられずにいる。幼い頃拾われて育てられたから、その後どんな扱いを受けてもそれを忘れられずにいるのだ。義理堅い男だ。
 ならば、自分に対してはどうだ。当の祐介本人が、人間の心がよくわからないと、もっと知りたいと言ったのだ。
 祐介の中には自分への感謝だとか環境が変わった混乱だとかいろいろなことが重なっていたはずで──同性へ抱いたそれが正しく恋愛感情であると、どうして判断できるだろう。
「一体どうしたというんだ。随分と機嫌が悪いようだが」
 相手の自覚がないことを一方的に思い詰めても仕方がない。少し落ち着こう。あまり聞きたくはないが、ストレートに聞かないことには話が進みそうにない。
 暁は深呼吸をして、祐介の顎の辺りに視線を落として言った。
「……あのさ祐介。一二三とは、どういう関係?」
「一二三は友人だ。杏とだって二人で出掛けたことはある。……もしかして、それが気に食わないのか?」
 祐介は迷う様子も何もなく、あっさりとそう言った。
 確かに、二人が一緒に歩いているのを見ただけで、それ以上に決定的な瞬間を目撃したわけではない。しかし、竜司や杏の話に流されただけだとも言い切れない。
 暁の中にもやもやと渦巻いている懸念だ。一二三との関係というよりも、祐介と自分の関係を未だ確かなものと思えないのかもしれなかった。
 視線は更に落ちて、祐介の首筋から胸元を見つめる。
「祐介にとって、俺は特別だ」
「その通りだが……?」
 祐介は相手を懐疑的に見返す。肯定はするが、暁が自らそれを言うのは意外だ。
「それは俺が祐介を助けた恩人だからだろう。そんなもの誰だって好意を持つと思うし……それが恋愛感情だなんて、祐介に言い切れるのか?」
 フン、と鼻で笑うような呼吸が聞こえた。視線を上げると祐介は真っ直ぐにこちらを見ていた。おそらく、先ほどからずっと。
 そして強い口調で言い放つ。
「自惚れるな」
 予想もしなかった言葉に心臓が飛び跳ね、身体中の血が凍るようだった。
「お前が一人で俺を救ったと思っているのか? 杏も竜司もモルガナも、さぞかし失望するだろうな」
「……」
 声が出ない。喉の奥が小さく鳴るだけだ。もとより、何を言いたいのかも纏まってはいなかった。
「皆が俺を救ってくれた。居心地の悪い世の中で身を寄せ協力し合う、そんな怪盗団に俺も居場所を見つけた。リーダーの働きが大きいのはわかるが、何もお前一人にだけ感謝しているわけではない」
「……わかってるさ」
 怪盗団の活躍を自分一人の手柄だなどと驕っていたつもりはないはずだ。ただ、祐介の件についてはそう思い込んでしまっていた。なぜだろう。
「なら……怪盗団の全員が特別なら、俺じゃなくたっていいはずだ」
「何を言っているのかよくわからない。感謝の気持ちは皆に対してだが、特別な気持ちになるのはお前にだけだ。……お前は違うのか?」
「いや……」
 相手が嘘を言っていると思うわけでもない。自分は何をこんなに迷っている。
 祐介は暁の頬を両手で挟む。
「俺を信じろ、暁」
 そして顔をぐいと引き寄せてキスをした。
 唇と唇を合わせるだけの、儀式のような口付けだった。
「ああ……ああ。ごめん、祐介」
 こくこくと頷きながら、暁は呟き、祐介を抱き締めた。
 彼の心情を考えたようでいて、単に自分が迷っていただけだったのかもしれない。二人の関係が何であるのか、理解しきれていないのは自分の方なのかもしれない。
 人の気持ちは変わるものかもしれないが、今恐るべきことではないだろう。
「暁。俺と一二三が親しくするのは嫌か?」
「気にしないでくれ。竜司や杏がお似合いだっていうから、そんな風に思えたってだけだ」
 完全に二人のせいにしてしまった。今度何かしら埋め合わせはしておこう。
「一二三は俺に似ているところがあって、なんというか、昔から知っているような安心感がある。お前といると常に刺激があって、新しいものが生まれる気がする。二人の存在は俺にとって全く違うものだ」
 二人は似ているのかもしれないとは、暁も思っていた。疑念の消えた今は最初のように、単純に祐介に友達ができたのなら良かったと思っている。
「言うなれば俺と一二三は双児の月で、お前は美を司る金星だ。どうだ、腑に落ちたか?」
「……それはよくわかんないけど、もう大丈夫だ。変なこと言ってごめんな」

 暁の肩越しに屋根裏の天井を見ながら、彼が怒った理由について思いを馳せる。
 自分と一二三がただならぬ仲であると誤解した、と──予想だにしなかったことではあるが、理解できないわけではなかった。
 自分の知らない暁の知り合いを見掛けるたび、どういう関係なのか、知りたいような知りたくないような、複雑な気分になった。深い間柄でないにしても、彼には広い世界があって、自分はそのごく一部でしかないのだと思い知らされるようだった。
 首に腕を回し肩口に顔を埋めて、祐介は密かに笑う。
(お前も同じだったと、思っていいのだろうか、暁……?)
 人はいろいろな面を見せるものだと、融け合う体温をいじらしく感じながら。

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