「猫、カフェ……?」
突きつけられたチラシに大きく躍る文字を、牧は不思議そうに読み上げた。
「郵便受けに入ってたんだ、結構近くだぜ。今度オープンだって」
「猫カフェ、とは?」
猫は飲みものじゃないぞ、と怪訝な顔をする。ばっちりカメラ目線の猫の写真も、洒落た外観の店の写真も目に入ってはいるが、それが何を意味するのかわからない。
「ちゃんと読めよ。コーヒーとか飲んでダラダラしながら、店の猫と遊べるんだ」
「ああ、キャバクラみたいなもんか」
「お前わざと言ってるだろ」
牧の例えもそう間違ってはいなかったが、いかんせん年齢不相応だ。
「藤真、そんなに猫が好きだったのか?」
「え? そんなにって?」
好きか嫌いの二択ならば好きだが、おそらく人並みだ。無類の猫好きというわけではない。新しく近所にオープンする未知の店に行ってみたいだけだった。
「早く教えてくれればよかったじゃないか。実家に猫がいるんだ、紹介する。今度ふたりとも休めるときに一緒に行こう」
「えっ、いや、いいってそんな。この猫カフェのほうが近いじゃん。猫カフェ行こうぜ」
友人の家にはこれまで何度も行っているが、牧の家といえば彼が一人暮らしをしていた部屋で、実家には行ったことがなかった。家には当然家族がいるだろうし、久々に帰ってきた我が子が人を連れているとなれば気も遣うだろう。裕福な家であろうこと、そして今のふたりの関係から、どうしても敷居の高さを感じてしまう。無論、ルームシェアについては快諾とのことだったが、率直に言って遠慮したかった。
「うちの猫な、ヒマって名前なんだが」
「ヒマラヤン?」
牧は「よくわかったな!」と言わんばかりに驚いた顔をしている。
「いや、名付けが単純すぎだからな!?」
「すごくかわいいぞ。ふかふかしてて、顔の真ん中と耳と手としっぽが焦げ茶色で」
「うん、それはヒマラヤンの特徴だからな……」
「あと犬もいるぞ。亀もいるし」
「カメ?」
「おっ、興味持ったな!」
「いやそんなに興味ない、ほんと、大丈夫だから」
「お祭りの亀すくいでとったやつだが、このくらいだったのがこんなにでかくなったんだ」
牧はまず片手の親指と人差し指で円を作り、次いで両手で直径二十センチほどの楕円を作って大きさを示す。
「動作は意外と素早い」
「そうなんだ……」
藤真は浮かない表情だ。大きく育った亀は気に入らなかったのだろうか。慌てて続ける。
「犬はな、金太郎っていって」
「ゴールデンレトリバーとか言うなよ」
「正解! すごいな、俺たちフィーリングカップルなんじゃないか?」
「まあ、ヒマよりは捻ったかなって感じ……」
「お利口だぞ。フリスビーで遊ぶのが大好きだ。どうだ、うちに来たくなったか?」
「……だって、家のひといるだろ? なんか悪いっつーか」
口ごもる藤真に対して、牧はさもショックだという顔をする。
「お前、もしかしてうちの親に会いたくないのか!?」
「ええ? いや、なんだろ、嫌ってのじゃないけど、特に〝会いたい〟とは思わないかな」
「なんで!」
「友達んちに行くのは友達に会うためで、その親に会いたいと思ったことはない。今まで一度も」
結果的に友人の親とも顔を合わせることになりがちだったが、当初からの目的ではない。
「藤真、俺たちは友達なのか?」
「違うけどさぁ」
「俺は、お前の家族に会いたいってずっと思ってたぞ。だから、引っ越し前にお前が家族の方を紹介してくれたとき、すごく嬉しかったんだ」
感じ入るような表情でしみじみと言った牧に、藤真は唇を尖らせた。
「お前がどうしても挨拶したいって言うからじゃんか」
「そりゃそうだろう、かわいい子供が家を出て、知らない男と暮らそうっていうんだ。挨拶くらいしないでどうする」
東京の大学に進むにあたって友達と一緒に住みたいと言ったとき、母親の口からは真っ先に花形の名前が出た。牧は学校が違ううえ、一度も家に呼んだことがなかったので、当然ではあったのだろうが。
「あら、花形くんと? こっちとしたら安心だけど、お勉強の邪魔なんじゃないの?」
「いや、花形じゃなくて、牧っていうやつなんだけど……海南の……」
「え!? 海南の牧さんて、いっつもあんたの邪魔をしてくるあの憎たらしい牧さん!?」
「うん。その牧さん」
母親の顔がみるみる曇り、心配そうに藤真を覗き込む。
「牧さんて、恐いひとなんでしょう? 大丈夫なの? 脅されてるんじゃないの……?」
「なにそれ、どこ情報なんだよ。牧は恐くねえよ」
「だって、あのひと一体何回留年してるの?」
「ただの老け顔のタメ年だってば。この三年間オレの話を聞いてねーのかよ……」
などなど、とても本人には聞かせられない誤解を抱かれていたこともあり、牧が挨拶に来たいと言いだしたときには、そのほうが得策だろうと藤真も同意したのだった。
「まあ、それはよかったと思うけどさ。お前が帰ったあと、めちゃ評判上がってたし」
実際に会ってみれば、ごく穏やかで紳士的なひととなりに、親もすっかり安心した様子だった。事前の印象とのギャップのせいもあったと思う。
「そうだろう、そうだろう。お父さんにもお会いしたかったな」
「いいだろ別にそんな」
挨拶のとき、藤真の母や姉のことを牧が『お母さん』『お姉さん』と呼ぶのが非常に気になっていたのだが、相変わらずそういう方針らしい。
「藤真家は、空気がきれいだったな」
「ちょっと意味がわからない」
「シルバニアファミリーみたいだった」
「……ウサギ小屋的な?」
牧が嫌味を言うような人間でないことはよく知っているのだが、もう少し常人にもわかる表現をしてほしいと思う。
「違う。顔の似てるかわいい家族が集まってる、素敵な空間だったってことだ」
「……それ、絶対ほかのやつに言わないほういいよ。シルバニアファミリー褒め言葉だと思わねえから普通」
あくまでにこやかな牧に対し、藤真は目を据わらせた。もしあの場でそれを言われていたら、牧の評判もそう上がりはしなかったかもしれない。
「ん……? そういえば、藤真もうちに挨拶に来たいって言ってたんじゃなかったか。あれ結局どうなったんだ?」
「チッ、思いだしたか」
牧が高価そうな手土産まで持って家に挨拶に来たものだから、さすがに自分も牧の親族に顔を見せておくべきだろうと思っていた。しかし引越しの日程やら牧の実家側の都合やらでタイミングが合わないまま、その後は新生活の忙しさもあり、今まで忘れ去られていたのだ。牧は途端に不安げな顔つきになる。
「お前がそんなに嫌なら、別に無理にとは言わんが」
「なにその唐突な気遣い。いいよ、大丈夫、行くって」
「なんか懸念があるのか?」
「んー……挨拶行けてなくて、不義理っつうか、無礼なやつだと思われてんじゃないかとか……」
それから、牧と恋愛関係にあるということだ。自分の親に牧を会わせるのは平気だったのだが、牧の親に会うのは後ろめたい気がして、少し怖い。
(別に、同居する友達として紹介されるだけなのはわかってるけどさ)
「そんな堅苦しい家じゃない。じいさまの家はでかくて人も多いが、うちは普通だ」
「そうなんだ?」
「ああ、親父は次男坊だからな」
(次男だったらなに? 相続的な? そんなに違うもんなのか?)
やはり異世界のような気がする。牧が普通と言ったところで当てにはならない。
「……手土産、なにがいいかな」
「そんなの鳩サブレでいいだろう」
「なんでだよ、よくねえよ!」
「俺は好きだぞ、鳩サブレ」
「お前のためじゃねえし」
とはいえ、相手方も庶民の手土産に期待などしていないだろうから、深く考えずに旨そうに思える菓子でも探そう。要は気持ちだ。
「よし、じゃあ都合聞いてみるな」
牧は電話台の前に立ち、実家の番号をプッシュする。
(素早いな。まあ、変に引っ張るよりとっとと終わらせたほうがいいか……)
「──そう、一緒に住んでる藤真だ。その藤真がヒマを見たいって言うから」
「そっち!?」
思わず声を上げて牧を顧みたが、こちらからは広い背中しか見ることができない。
(そりゃ最初は猫の話だったけどさ、もう挨拶に行くってことでよくねえ? 顔も合わせたことないのに、猫見るために押しかけるとか引くわ……)
「藤真、次の次の日曜はなんもないよな?」
受話器を押さえてこちらを振り返った牧に頷く。
「ないな。大丈夫」
「じゃあその日にするか。もしもし──」
牧も頷き、再び受話器を耳に当てた。
「で、猫カフェのほうはいつ行こうか」
「結局行くのかよ!」
それなら牧の実家に(猫を見に)行かなくていいのではと往生際悪く思ってしまったが、すでに連絡は入れてあるのだ、腹を括ろう。
「オープン直後は混むんだろうから、ちょっと落ち着いてからでいいや……」
そして目下の課題である手土産に思いを馳せるのだった。