1.
四角く囲んで閉じ込めた、笑顔の輪郭は僅かにぶれて、白ずんだ空は黄ばんでいた。
烟る睫毛の視線の先、写真の向こうには彼の私的な時間があるのだろう。
それはおそらく彼らしか知ることのない、非日常的な。
◇
「藤真、あのな、頼みがあるんだ」
いかにもあらたまった調子の牧に、藤真も自然と居住まいを正す。
「なんだよ?」
「怒らないで聞いてほしい」
「もったいつけないで言え」
「なんかもう怒ってないか?」
「めんどくせーこと言ってるとほんとに怒るぞ」
藤真に気圧されるように、牧はおずおずと口を開く。
「……バレンタインチョコが欲しい」
照れくさそうに言って視線を逸らした相手を、藤真はぽかんとして見つめた。
「そんなこと?」
ふたりは少し前から付き合っていて、体も繋いだ関係だ。牧は初めから積極的だったし、そういう状況になってしまえば迷いも見せなかった。それがバレンタインチョコを要望することには妙に躊躇しているというのが、藤真にはどうにも不思議に感じられた。それに──
「そんなの、言われなくたって用意するつもりだったけど」
「本当なのか!?」
さも驚いた様子の牧に、藤真は訝しげに眉根を寄せて目を細める。
「オレって、そんな甲斐性なさそうに見えるのか?」
「そういうわけじゃないんだが。バレンタインって、女子から男子に贈る日だろう」
「……ああ?」
藤真は特に疑問を抱いていなかったのだが、言われてみればそうだ。
「んまあ、だってヤってるときのポジがそうだから、そういうもんかなっていうか」
自分の中での性別の自覚は男だが、事実として牧との行為のときの位置というか役割は女側だ。女顔と言われるのは嬉しいことではないが、全否定する気にならない程度に自覚もある。
「そうなのか。お前が嫌じゃないんならよかった」
牧は安心したように口もとを緩めた。気を遣っていたのだろう。女扱いするなだのと牧に話したことはなかったと記憶しているが、どこかから何か耳に入ったのかもしれない。
「なんだろ、お前がオレを悪い意味で女扱いとかしないのはわかってるから、あんま気にしなくて大丈夫だぜ。たぶんその辺気にしてるくらいなら、まず告られたときに殴ってるし」
◇
「ハッピーバレンタイン!」
目の前に差し出された小さな手提げの紙袋を、牧は相好を崩しながら受け取った。
「おお、待ってたぞ、ありがとう……! 手作りかな?」
「んなわけねーじゃん、今インフル流行ってんのに手作りとか危ねえ」
「チョコからインフルエンザはうつらないだろう」
「わかんねーよ? ともかく店のやつなら安心、安全!」
白い紙袋の中から、鮮やかな水彩で風景の描かれた外国製のチョコのパッケージが現れる。
「綺麗だな」
「チョコのブランドとか全然わかんねーけど、とりあえず外国のチョコって美味いじゃん?」
そう思ってデパートのブランドチョコの売り場に行ったのだ。当然女性ばかりだったが、同年代の女子の群がる若者向けの店よりは気分的にだいぶましに思えた。牧はプレゼントの値段など気にしないかもしれないが、多少の意地もなくはなかった。
箱の中には、ひとくちサイズのチョコが仕切られて並んでいた。花、葉っぱ、鮮やかな赤いハート、チョコ二個分はありそうなミツバチなど、目にも楽しい。
「藤真……! かわいいな、ハチさん……!」
縞模様の体にローストアーモンドの羽根をつけて、愛嬌のある顔で見上げてくる赤い鼻のミツバチと見つめ合い、牧は感極まったように言った。
「おう、かわいいだろ。ハチさんはハチミツ味だ。試食したら美味かったからそれにした」
加えて、牧は可愛らしいものが好きな気がして選んだのだが、どうやら正解だったようだ。自分の思惑通りにことが進むのが何より嬉しい藤真は、満足げにうんうん頷く。
「こっちはハチの巣かな」
牧はしげしげとチョコを眺めていたが、じきに箱を閉じてしまった。
「食わないのかよ?」
「藤真が選んでくれたチョコだ。もったいなくて食べられない」
「食え!」
「日々少しずつ食べる」
「……まあ、そう簡単に腐らないと思うけど、早めに食えよ……」
牧が喜びそうなところで手作りも考えたのだが、味と、やはり衛生面が気になってやめた。買ったものでこの調子ならば、正しい判断だったと思う。
「売り場のおねえさん、『最近は友チョコ流行ってますもんね〜』って言いながら絶対頭ン中でホモチョコって思ってたぜ」
「なんだ、感じ悪い人だったのか?」
「ううん? すごくにこやかだったぜ、女はホモに優しいからな」
優しくされるうえ無用に言い寄られることもないと考えれば、決して悪くはなかった。今のような立場でなければ、もう少しオープンにしていたかもしれない。
「そうだ、チョコだけだとつまんないと思って、これ」
藤真は洋形の白い封筒を差し出す。
「おっ、ラブレターか?」
箱の隙間からチョコのにおいを嗅いで深呼吸していた牧は、目を輝かせてそれを受け取った。手紙にしては重い。取ってつけたようなハートのシールにまんまとときめきながら封を開けると、中から何枚かのポラロイド写真が出てきた。
「こ、これは……!」
写っているのはいずれも藤真ひとりだけで、制服や私服、部屋着でくつろぎながらこちらに意味ありげな視線を向け、あるいはセクシーに微笑している。
「焼き増しできないから綺麗に使えよ」
そして写真の外の藤真もまた、思わせぶりに艶やかに微笑む。ファンの女子が聞けば幻滅するであろう、いわゆる下ネタ会話もいくらでもしてきた仲だ。藤真の態度と言葉から、その言わんとするところを想像するのは簡単なことだった。
「使……あ、あぁ、そうだな、助かる。ありがとう……!」
牧はにやけて歪みそうになる唇を必死で平静の形に保ち、コクコク頷く。藤真は猫のように瞳を細めた。
「どれがいい? 写真」
「ん? どれもいいが……」
「やっぱこのベッドにいるやつ?」
「そうだな……だがあえてこっちの、制服で勉強してる姿で抜くっていうのもまた……いや、抜くとは言ってないぞ」
慌ててぶんぶん首を振る牧を、藤真は腹を抱えて笑った。
「なんだよその無意味な嘘は。……ほんとはもっとあからさまにエロいの撮りたかったんだけど、自分で撮るの意外と難しくて無理でさ」
「よく撮れてるぞ?」
「それは花形に撮ってもらったからな」
「うっ、そ、そうなのか……」
あまり聞きたくなかったが、聞かなければそれはそれで撮影者のことが気になったのかもしれない。牧は苦しげに呻き俯いたものの、すぐに弾かれたように顔を上げた。
「そうだ、じゃあ俺が撮ってやろうか」
「それはオレになんの得があるんだよ」
「ドキドキするじゃないか」
しょうもないことを、迷いも惑いもなく言ってのけるところには少しだけ感心してしまう。藤真は迷う素振りをしてから頷いた。
「……それじゃあ、ホワイトデーのお返しが気に入ったら撮らせてやろうかな」
「本当か! よし、めちゃくちゃ気合い入れるぞ!! カメラもこっちで用意しておくからな!」
「えっ、あ、いや、あんまり大袈裟だったり高級すぎたら引くからな! オレに丁度いいくらいのやつにしろよ、てか普通にお菓子類でいいから!」
なんとなく突っ込んではいないのだが、牧の実家は裕福なようで、一緒にいて育ちや金銭感覚の違いを感じることもままあった。下手に煽ると高額なプレゼントを用意しかねない。
(別にうち貧乏じゃないはずだけど、オレってなんか小市民だなって、牧といると思う……)
「難しいことを言うんだな。……いや、気持ちが大事だもんな。わかった、よさそうなもん探しておく」
それはそれとして、と牧は藤真の肩を抱き、戯れるように鼻先をすり寄せると、柔らかな唇を味わった。チョコはデザートだ。まずはメインディッシュをいただこう。