牧の通う深沢体育大学は、体育・スポーツ科学の分野で日本の中核をなす専門大学だ。日々軍隊のような厳しい時間を過ごしているのだろうと藤真から揶揄されることもあったが、カリキュラムはともかくそこに通う生徒たちはごく普通の若者である。青学に通う藤真ほどの頻度ではないが、牧も人付き合いの飲み会から逃れることはできなかった。
「ただいまー」
引き止めのうるさい先輩陣をひとしきり酔い潰して一次会で帰ってきたが、藤真のいるはずのマンションの一室にはなんとなく人の気配というか、テレビの付いている気配がない。足元を見ると、藤真のよく履いているスニーカーがないようだ。
リビングのドアを開けると、フルーティーな甘い香りが鼻腔をくすぐった。
(なんだ? ピーチなんとか、みたいな……)
飲み会でカクテルばかり頼む同級生が「女子かよ!」と散々からかわれていたことを思い出し、甘いピーチリキュールを想像する。室内に藤真はおらず、代わりにソファの前のローテーブルに置かれた白いレジ袋が目に入った。
「ああ……」
袋の中を覗いた牧は思わず声を漏らして苦笑した。中には桃の加工品ではなく、ころころとした桃の果実そのものが入っていたのだ。
漂う香りから真っ先にそれを想像しなかったのは、彼らが日頃果物を買ってきて食べるということをしないせいだった。一人暮らしをしていた高校の三年間でさえ、自分で買ってきて食べた果物といえば蜜柑とバナナしか思い出せない。
傍らの書き置きには『花形とメシいってくる。桃は食ってていいよ』とある。今日は飲み会で一緒に夜を食べられないとは前から告げてあったし、大学こそ違うものの、住んでいる場所の遠くない花形と藤真が一緒に食事などに行くのはそう珍しいことではなかった。それは構わないのだが、牧には一つ引っ掛かることがあった。
(なんで桃なんだ?)
最近会話で話題に上がったでもなし、あまりに唐突に思えるのだ。駅からの帰り道にはスーパーも、今の時間には閉まっているが青果店もある。通りすがりに買いたくなっただけなのかもしれないが──もやもやと考えつつ、袋の中から一つを手に取った。
表面の大半がピンク色に染まり、僅かだけ元の肌の色を残した桃は、なんとも美味そうだ。桃の形状の最大の特徴ともいえる、果実に縦に入った筋に視線を添わせ、へたの窪みにたどり着くと、牧の体に電撃が奔った。
(はっ……わかったぞ藤真! お前からのサイン……!)
桃の形は尻に似ている。藤真はそれを食べてくれと書き置きをした。つまりはそういうことに違いないのだ。
そわそわと落ち着かない気分で、桃を手の中で愛でるように撫で転がす。さらさらとした感触が気持ちいい。愛らしい割れ目を指でなぞると一層頬を染めたように見えて、無性にいとおしく感じられた。牧は顔を綻ばせながら、ごくありきたりな愛情表現として桃に頬ずりをした。
「い゛っっ!!?」
途端、頬に鋭い痛みが走る。手の中にあるうちは天鵞絨のように感じられた桃の表面が、その無数の細い産毛を針のように逆立て、牧の頬を突き刺しているのだ。たかだか産毛のはずだが、甘い香りと優しげな色彩からは想像できないような痛みだ。
咄嗟に桃を顔から離したものの、産毛は桃から抜けて肌に刺さったままのようで、痛みは消えない。
(お前、そういえばそういうやつだったな……!)
狼狽えながらも落ち着いて収納棚からガムテープを取り出し、粘着面を表側にした輪を作って人差し指から薬指に嵌める。テープの粘着を使って頬に刺さった産毛を取り除く作戦だ。
(ちょっと粘着が強いが……まあいいか……)
桃の痛みなのか、テープに肌を引っ張られる痛みなのか、よくわからなくなりながら、頬にテープを貼って剥がす動作を繰り返していると、不意にリビングのドアが開き、怪訝な顔をした藤真と思い切り目が合った。
「……」
「おう藤真、おかえり」
普段なら玄関で音がしていることに気づくのだが、不意打ちの痛みにすっかり動揺してしまっていたようだ。藤真はあからさまに顔を顰める。
「……なに? 脱毛?」
「まあ、ある意味では脱毛だな。なに食ってきたんだ?」
自分の髭の脱毛ではなく、桃の産毛の脱毛だが、あまり追求されたくはないことだ。頬から剥がしたガムテープを手のひらの中に握り、さらりと話題を変える。
「ファミレスでなんとか鶏のなんとか定食」
「いつもファミレスじゃないか?」
「ちょうどいいとこにあんだよ。あんま混んでなくてボックス席だし、ドリンクバーあるし、メニューもちょくちょく新しいの増えてるし」
「藤真、そんなに飲み物おかわりしなくないか?」
「お前といるときはお前んちとかラブホとか行き先があったけど、普通に友達とだべるときはドリンクバーだろ」
牧は高校時代、藤真以外の友人と外食することは多くないと言っていたから、少し感覚が違うのかもしれない。花形も今は一人暮らしだが、わざわざ飲み物などを用意させることを考えれば、やはりファミレスのドリンクバーが得策に思えた。
「それとも、花形と一緒に薄暗くてムーディな店に行ってほしいのかよ?」
「い、いや、そういうわけじゃないんだ。これからもファミレスで頼む」
三年間藤真と密接な関係にありながら一度もそういった気配を見せなかったらしい花形が、今更藤真に妙な気を起こすとは思わない。とはいえ花形も男だ(?)、二人で積極的に雰囲気のある場所へ行ってほしいとも思わない。
藤真はレジ袋の横に一つ出してある桃を手に取った。他に皮や食べがらは見当たらない。
「部屋入ったらすげーにおいしてたから、もう食ってるかと思ってた」
「ああ、ついさっき帰ってきたところだからな」
「うし、じゃ早速食ってみるか」
「よく洗えよ」
「は? お前もしかして桃になんかした?」
「そ、そんなことないぞ?」
「あっそ」
藤真は素っ気なく言ってダイニングテーブルの向こうのシンクに進む。
「藤真!」
「なんだよ」
「くれぐれも、桃に頬ずりなんてしたらダメだぞ」
(なんだよ桃に頬ずりって)
広々としたLDKの間に仕切りはないが、コンロとシンクは壁際にあり、キッチンに立つとリビングの側に背中を向ける配置だ。牧はシステムキッチンがリビングを向いているほうがいいと強く主張したのだが、その他諸々の条件から現在の部屋に決定したのだった。
蛇口から水を流し、手の中の桃を見つめる。
(頬ずりしたら、どうなるっていうんだよ)
そんな発想はこれまで抱いたことがなかったが、言われてしまうと無性に気になるものだった。ちらりと牧のほうを顧みる。牧はテレビに夢中のようだ。
藤真は正面に向き直ると、おもむろに桃を頬に擦り付けた。
「いっ!?」
痛い。なぜ桃がこんなに痛いのかわからないくらいに痛いし、頬から桃を離しても痛みは続いたままだ。そして察しのよい藤真は牧の謎の行動の理由に辿り着く。
大股の早足でどかどかとソファのほうに戻り、不機嫌に目を釣り上げて牧に手を伸ばす。
「おい、ガムテ寄越せ!」
「藤真、まさか……フフッ」
決定的瞬間こそ見ていなかったものの、藤真の様子からその行動に容易に想像がついて、牧は笑ってしまいながらガムテープを渡した。
「ダメだって言ったじゃないか」
藤真はビッと鋭い音を立ててガムテープの端をロールから引っ張る。
「お前がヘンなこと言わなかったらオレだってしなかった!」
「そのガムテ強いから、ちょっと弱らせてから使ったほういいぞ」
「なんだよ弱らせるって」
牧は藤真の手からガムテープを奪い取って輪を作ると、藤真の手の甲に貼り剥がしして少し粘着を弱めてから左の頬に貼り付けた。藤真の仕草からそう察したものだったが、(左利きだから左なのか)と納得もしつつ頬にガムテープを貼って剥がす動作を繰り返す。
「おう、さすが手慣れてんな。桃毛取り師」
「俺だってそう何度もやらかしてるわけじゃないぞ。二回目だ」
「二回目かよ! 一回で懲りろよ!」
「いや、子供のときだったから……すっかり忘れてた……」
ぺた。ぺた。ぺた。ぺた。
黙ってしまうと、大きな手でしきりに頬を撫でられるようにしているのが途端に気恥ずかしくなってきた。一方の牧はなぜだか楽しそうだ。
「……てか、自分でやる」
◇
(ったく、まさかこんなに苦労するとは……)
再びシンクに向かい、今度は余計なことをせずに桃を洗う。
(……たわしで擦ったら桃の毛も取れるんじゃねーかな……)
スポンジや洗剤と一緒に置いてあるたわしを見てそんな衝動に駆られたが、どうせ皮は剥くのだし、毛どころか桃そのものにダメージを負わせそうなのでやめた。
「藤真、大丈夫か?」
「はっ!? なにが?」
背後、すぐ近くから声を掛けられ、藤真は驚き牧を顧みた。
「いや、ずっと水流してる音がしてるから」
桃の切り方がわからなくて途方に暮れているのかと思った、とまでは言わないでおく。
「よく洗ってんじゃんか」
「そうなのか」
納得した風に頷きながらも、牧が立ち去る様子はない。
「……なに」
「見てないほうがいいか?」
「別に?」
藤真は得意げに笑うと、左手に果物ナイフを持ち、桃の縦筋に沿ってナイフを入れた。中心にある大きな種に刃が当たると、桃を回転させながらぐるりと二等分に切れ目を入れる。
「おおっ?」
桃を潰さない程度に両手で掴み、切れ目と平行に左右にひねると、片側だけにごろんとした種を残して、桃が二つに割れた。
「なんだ藤真、いつの間にそんなワザを……」
「このくらい常識だし」
藤真が青果店の店先で試食の桃を貰うと、ちょうど試食タッパーが空になったため、目の前での実演付きで教えてもらったものだ。
それを思い出しながら、種に沿ってナイフで切れ目を入れ、スプーンで種を掘り出す。
「皮はどうするんだ?」
愛らしい色味をしているが、意外に攻撃力の高い繊毛の生えた危険な皮だ。そのまま食べるわけにはいかないだろう。
「慌てんなって」
半円の桃の平らな面を下にして置き、端から皮をめくり上げるようにしてみると、するすると手で皮を剥くことができた。
(おおっほんとに手で剥けた! 気持ちいい!)
内心そう思いながらも、牧の手前口を噤む。
「桃の皮って手で剥けるもんなんだな」
蜜柑などのように、身と完全に分離した分厚い皮というイメージではなかったので、牧は感心したように呟いた。
「これは熟してる桃だからな。熟してないとこうはいかないぜ」
と青果店のおばちゃんが言っていた。そしてつるんとした果肉を露わにした桃を八等分し、綺麗に円を描くように丸い皿に乗せた。
「できた!」
「おおっ……!」
「手洗ってくからソファのほうにこれ持ってっといて」
牧に皿を持って行かせ、手を洗って果物用のフォークを二つ持って行くと、牧はローテーブルの上に桃の載った皿一つを置いて、お預けを食らった犬かのようにそれを凝視していた。
「はい」
フォークを差し出すと、優しげな目がこちらを向いた。
「すごい。きれいだな」
「だろ? オレって結構家庭的なんだぜ」
いかにも満足そうに、幼い表情で微笑する藤真を見ていると、出会ったばかりのころのような、みずみずしく新鮮な感覚に襲われる。
初めに強く惹かれたのはコートの上の彼で、その後の監督兼任や、夜のデートで見た大人びた表情から深くを知った気になっていた。しかし実際は、まだ全然足りないのだろうと思う。
(やっぱり、一緒に住んでよかった)
「絶句すんなよ。まぁいいや、いただきます」
「すまん、悪い意味じゃないんだ」
「ん〜! うまーい!」
藤真は絶品だといわんばかりに目を細め、芝居掛かって頬に手を当てた。
「それじゃ俺も。いただきます」
口にすると柔らかな食感とともに豊潤な果汁が溢れ、口腔に爽やかな甘みが広がる。咀嚼のたび、華やかな芳香が鼻を抜けた。
「──ああ。うまいな」
衝撃的なものではない、あくまで優しい美味さと、直前に藤真に抱いた感慨とが相まって、なんとも幸せな気分だった。
にこやかに、いかにも機嫌良さそうに口を動かす牧を見つめ、藤真は目を瞬く。
「そんなに桃好きだった?」
基本的に好き嫌いはないと聞いていたし、何を食べさせても悪いようには言わない男だが、そう問いたくなるほど特別に嬉しそうに見えるのだ。
「ああ、好きだな」
言いながらもう一つ手を伸ばす。
「駅からの途中に果物屋? 八百屋? あんじゃん。そこ通ったらいいにおいがしててさ、おばちゃんに試食貰ったのもあって」
牧は口を動かしながらうんうん頷く。
「最近果物食べてねーな、ああ家族いないからオレか牧が買わなかったら自動的に出てくるわけないのか、って気づいて買ってみた」
日頃しない行動に対しての照れもあったが、牧の反応が想像以上に良好なので、思い切ってみてよかったと思う。桃も綺麗に切れたし、と藤真もまた上機嫌でもう一切れ頬張った。
テレビを眺め、飲み会のことや花形から聞いた東大の話などをしつつ桃を平らげると、牧の腕が藤真の腰を抱えた。藤真の上体を抱き寄せ、ソファの座面と藤真の尻の間に指を割り込ませる。
「そろそろ、こっちの桃もいただこうかな」
「ぶっ!」
藤真は思わず、愛らしいとはとても言い難い調子で吹き出してしまった。
「顔はもう見慣れたけど、お前のそういうとこほんとおっさんって思うわ……」
「ん? 桃ってそういうメッセージじゃないのか?」
「はぁ!?」
反射的に声を上げてから、牧の思い至りそうなことに簡単に見当がついて息を吐いた。
「さっき言っただろ、通りすがりにいいにおいがしたからって。……飲んできたくせに、元気だね」
「別に酔っ払ってはないし、気持ちも悪くなってないからな」
牧はすっかりその気のようで、ソファの上で藤真のほうを向いて背中を丸め、ソファと藤真の体との間に頭を突っ込もうとしてくる。
「いや、やっぱ酔ってねえか?」
「頬ずりリベンジだ。意識は確かだぞ」
「はあぁ〜〜」
藤真はわざとらしく盛大にため息を吐き、絡みつく牧の腕を振りほどくように強引に立ち上がった。
「藤真……?」
「桃はよく洗わなきゃ」
「!! あ、ああ、待ってる!」
牧は一気に体温が上昇したと感じながら、壊れた玩具のようにこくこくと頷いた。
「寝落ちしてたら起こさねーからな」
「ああ! 朝までだって起きてるぞ!」
(それは適当なとこで満足して寝ろよ)
牧に背中を向けて仕方なさそうに笑い、浴室へ歩いた。