きみがいて誰もいない

大人になって一緒に暮らしている牧藤の日常話 [ 4,174文字/2020-06-21 ]

 玄関のドアを開けると夕食のにおいがしていた。体力には未だに自信があって、一週間にも及ぶ出張帰りでも疲れは感じていなかったが、うちのにおいだ、帰ってきた、と実感すれば多少の気怠さも生まれ、そこに滲み入るように甘やかな幸福感が湧いてくる。
 部屋に入ると、ダイニングテーブルの側を向いた調理台の前に立って、藤真が鍋を掻き回していた。対面の形になるカウンターキッチンは、牧が昔から熱望していたものだ。
「ただいま」
「おかえり」
 顔を見て短い挨拶を交わすと、牧はカウンターの向こう──藤真の背後に回り、細い腰に腕を回す。そして襟足に鼻先を埋め、すうはあと深く呼吸した。
「……なに」
「久しぶりだから、藤真を吸ってる」
「そう」
 藤真は素っ気なく返しただけで牧に構わず料理を続け、牧もまた気が済むと黙って離れて自室へ行く。久しぶりではあるが、いつも通りのやり取りだった。

 背広とネクタイから解放されて食卓につくと、牧は長く息を吐き、ゆっくりと首を横に振った。
「一週間ぶりだ。考えられない」
 仕事関係で家を空けること自体はそう珍しくはなかったが、今回は少し長かった。藤真の顔を見たのも、当然こうして食事をともにするのも一週間ぶりだ。藤真が向かいの席に座るのを見届け、律儀に手を合わせる。
「いただきます。……ああ、本当に久しぶりだ」
 黙々と食べ、しみじみと呟く。藤真の作る料理に特別な特徴があるわけではないと思うが、それでも食べ慣れた〝うちの味〟というものがあるのだなと、不思議な感覚に陥っていた。
 藤真は大袈裟だと言わんばかりに、怪訝そうに牧を見る。少しだけ顔を俯けた上目遣いは、昔から変わらない癖だ。
「別に、高校のときなんて一ヶ月近く会わないとかあっただろ」
 牧は意外そうに目を瞬いて頷き、喉仏を大きく上下させて口の中のものを飲み下す。
「──ほんとだな。今思うとすごい忍耐力だ。あのころなんて今と比べものにならんくらいサカってて、毎日のようにお前のこと考えて抜いてたぞ」
 藤真はもの言いたげにちらりと牧を見たが、小さく肩を竦めるだけにした。食べてるときにそういう話するのやめれば、と前にも何度か言ったはずだが、直す様子を微塵も見せないまま、あれからもう何年が経ったのだろう。
「まあ、昔はバスケが一番だったしな」
「そうだな。それはある」
 バスケットが全てだったから、目下の目標である互いの存在が大きくなっていったのは自然なことだったと思う。それが性的な欲求を孕んだ好意になったのは──もしくは友情として処理してしまわなかった、その一歩目は若さゆえの過ちだったのかもしれない。しかし、それだけでは終わらなかった。
 大人に近づくにつれ、世の中にはバスケット以外のことのほうがずっと多いのだと思い知った。好きなことをするばかりでは生きていけないと、少なくとも藤真は高校生のときからわかっていたつもりでいたが、実感が伴ったのはそれよりしばらくあとのことだ。
 そしてじきにふたりともバスケットから離れ、しかしこうして一緒に暮らしている。
「オレたちって、なんでいつまでも一緒にいるんだろうな」
 牧は激しく音を立てて食器を置き、藤真は思わず眉を顰める。
「乱暴にすんなよ、割れるだろ」
「すまん。いや、お前が不吉なこと言うからだろう」
「不吉? なんでっていう、ただの疑問じゃんか」
「なんでそんな疑問を抱いたんだって、気になるだろう。ほっといたから機嫌悪いのかとか」
「ほっといたのは仕事なんだから仕方ねえだろ。いい加減そのくらいわかってる。……オレたちはバスケで知り合って、でももうガチじゃやってなくて、でも一緒にいるよなーって、なんでだろって思わないか?」
「そりゃあだって、バスケは知り合ったきっかけってだけで、付き合いが続くこととは別の話じゃないか。俺のタイプの条件に『バスケットプレイヤーであること』なんてないぞ」
「そうなんだ?」
 昔の交友関係の条件にはあったように見えたけど、と全国的に顔の広かった男に対して思うが、昔のことなので置いておく。
「まあ、純粋な高校生だったから、おセックスしたいためにお付き合いしだしたんだよな」
 でもセフレとかじゃなくてちゃんと告って付き合ってたの、今思うと真面目だよな、と藤真がひとりごちるのに牧の声が被る。
「それは語弊がある。やりたくなったのは好きだったからだ。それで、だから、今だって一緒にいるんじゃないか。確かに俺は、バスケをしてるお前のことが好きだと思ってた。だが、違ったってことだ」
 卵焼きを一切れ口に含んだきり、黙り込んでしまった牧の言葉が中途半端に思えて、藤真は眉を顰めて牧を見る。
「……うまい」
「そんなに卵焼き好きだっけ?」
「好きだ」
「あっちでうまいもんいろいろ食ってきただろ」
 接待されてさ、とまでは言わないでおく。
「そりゃそうだが、うちのメシはうまいんだ。落ち着くっていうか。……だが、お前も連れて行きたかったな」
「オレだって仕事があるっつうの」
 もしそうでないにしても、仕事での出張に同居人を連れて行くことなどあるのだろうか。
(……あるか。社長が愛人を秘書にして連れてるみたいな)
 牧は今は親族の経営する企業の役員についている。真面目な男だ、身内の会社だからといって怠けているようなことはないだろうが、特別な立場であることは確かだった。
「じゃあ、今度長めの休みが取れたらだな」
「うん」
 普通の旅行ならばともかく、仕事の場について行きたいとはやはり思えない。しかし出張帰りの牧と余計な議論をする気もなかったので、ごく軽く頷いた。牧もまた、満足げに頷く。
(しかし、藤真の長めの休みっていつだ……?)
 実のところ、休みというよりは、ずっと藤真に家にいてほしいと思わなくもない。働きに出る父親と、それをいつも家で迎える母親という、自分が子供のころに当たり前に見てきた家族像のせいだと思う。今回は自分だったが、藤真だとて仕事が忙しければ帰りが遅くなることもあるし、互いに疲れていれば穏やかに接する時間も短くなってしまう。
 ふたりで暮らすには、牧の収入だけでも不便はなかった。しかし牧が藤真に直接「家にいてほしい」と言ったことはない。一方的に養われるという関係性を、彼はよしとしないだろう。無論、藤真自身が働きたくないと言うなら、喜んで受け容れるつもりだが──
「仕事は楽しいか?」
「うん」
 藤真が好きなことをしているのが好きだ。
 バスケットでなくても構わないのだと気づいたのは、大人になってからのことだった。だから仕事が楽しくないと耳に挟めば転職を勧めたし、協力も惜しまなかった。順調だと聞けば、自分のことのように喜んだ。
「……牧はさ、昔から決めてたって言ってたろ、今みたいになるの」
 藤真は大学を出て初めに就職した会社にしばらく勤めたのち、何度か転職をしている。基本的に器用なほうではあるのだが、それゆえになのか『退屈だ』『しっくりこない』と感じてしまい、牧の勧めもあって、というところだ。
 一方の牧は、バスケットから離れると、迷わず親類関係の企業に就職した。当時は『就活いらなくてラクでいいな!』などと冷やかしていたが、しがらみなく職場を転々とする自分を思えば、果たして本当に簡単な選択だったのかは疑問だ。
「そうだな」
「ほかの仕事したかったとか、思ったことないのか?」
「ないな。最初からそういうつもりで若いころわがまま言ってたからな」
 主にバスケットのことだろう。東京出身でありながら神奈川の高校に通い、かと思えば付属の大学を捨てて東京の深体大に進み、その後は選手としてしばらく活動し──牧の周囲も、その期間が限られていることを理解したうえでそれらを許していたとのことだ。
「それに、俺は今だって自由だぞ」
 牧の黒い瞳の光がまっすぐ藤真に注ぐ。それは撫でるように優しく、しかし彼の逞しい腕のような強硬さも感じさせた。
 大学のときからずっと、いい年になった今でも、結婚するそぶりも見せずにふたりで一緒に暮らしている。その意味するところは、牧の親族もとうに察しているはずだった。
「……理解のある親御さんでよかったな」
「本当だ。感謝してる。お前のとこだってそうだろう」
「うちは別に普通の家だから、お前んとことは事情が違う」
「それにしてもだ」
「まあ、そうだなぁ」
 社会に出て、世界の構成要素がバスケットだけではなくなり、様々なものと繋がり絡み合って今の自分があるのだと思い知って、それでも結局自分の世界の中心にあるのがこの男なのが、やはりどうにも不思議なのだが、牧はきっとごく当然のような顔をするのだろう。
「……オレ、昔、お前のこと嫌いだったと思うんだけど」
 ほぼ初対面のときから強く意識していたことは確かだが、ある段階までは決して好意ではなかったはずだ。牧は目を見開いたが、案の定、至極嬉しそうな顔をした。
「嫌いも好きも全部俺だったってことか? すごいじゃないか」
「はぁ〜? どんだけポジティブなんだよ」
 とはいえ、あながち間違ってもいないのが悔しいところだ。高校のころ、少なくとも自分がただの選手でいられた一年半はずっと牧の背中ばかり見ていたし、そのあとだとて意識から消えることはなかった。
 若くて多感なころに触れたものの影響は年を経てもずっと残っていて、未だにそのころの歌や作品が好きだとか、むしろそこで人生の方向が決まったとか、どこかで聞いた覚えのある話を思いだす。つまり自分にとってそれは──
「藤真はちょっと考えるとこがあるから、俺とでちょうどバランスがいいんじゃないか?」
 本当にポジティブだなと呆れながら、食べ終わった二人分の食器をトレーの上に集めると、牧のほうが先に席を立ってそれを持って行ってしまった。
「お利口さん」
 藤真は椅子に座り直してそれを見送る。あとのことは食洗機がやってくれるので心配はしない。背後から肩に、甘えるように腕が回された。
「久しぶりに、一緒に風呂に入らないか?」
「出張から帰って今日で、疲れてんじゃねえの」
「疲れてるから癒されたいんじゃないか」
「まあ、お前が平気なんなら別にいいけど」
 仰ぐように見上げた、意味ありげな瞳に撃ち落とされるようにキスをしていた。この腕に抱えるものは、まごうことなき自由だ。

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