夏果て

「もうすぐ夏が終わるって思うと、なんとなく寂しい気分になるよな」
 一年ぶりの浴衣に腕を通しながら、薄い唇に何の意図もなく乗せた言葉に、正解など設定したつもりはなかった。
「そうか? ……そうだな、来年の夏まで、夏の遊びはできなくなるしな」
 しかし牧の返答に、明確に『違う』と感じてしまった。『そういうことじゃねえんだよ、お前ってやっぱズレてんな』と、常ならば軽く笑い飛ばす程度のことだったろうが、今日はなぜか、それができなかった。
(ああ、そっか……こいつはオレとは違うもんな)
 何か、いや、正体もわかってはいるのだ。小さな棘が胸に突き刺さり、引っ掛かって抜けず、表情を作れない無表情が顔に張りつく。
(だからオレは、どこまでお前に話していいもんだか)
 わからなくなる。神奈川の双璧と呼ばれたのは高校時代のことで、ふたりとも東京の大学に進んで二年にもなった今、そのたぐいの言い回しを使ったり、ふたりを関連づけて話そうとするのは、神奈川時代の知り合いくらいだった。男友達と同居していて、その相手が深体大の牧だと言えば興味を示す者もいたが、単に牧がよく知られているせいと、女を連れ込めないだの、実は女と住んでるだのといった下卑た話のネタになる程度のことだ。
 つまり、現在のふたりの客観的な関係性は、昔ほど繊細なものではない。そう実感しているゆえに、藤真は高校時代の──当時はあえて話題にしなかったことを、不意に話してみたくなる。
(……なんで?)
 終わったことだ。いまさら他者からの助言を欲するわけではない。こぼしたいだけの愚痴のようなもので、今一番身近にいるのが牧だというだけのことだ。そうして口を開きかけては、しかし牧はきっと忌憚ない意見を述べるだろう、自分は性懲りもなく苛立ったり傷ついたりするかもしれない、そう思いいたって口をつぐんだ。ちょうど今のように。
「帯、やってやろうか」
「……ん? ああ、うん」
 浴衣を羽織ったきり動きを止めていた藤真の眼前に、穏やかに笑んだ牧の顔が現れる。これからふたりで浴衣を着て、近場の夏祭りに行く予定だ。まだ前も全開にしている藤真とは違って、牧は腰ひもを結ぶまでは自分でできたようだった。
「ほら、藤真、前を押さえててくれ」
「うん」
 藤真はテーブルの上に置いた〝ゆかたの着付けガイド〟を脇目に見ながら、身ごろの上下を気にしつつ浴衣の襟を重ねて押さえる。牧は藤真の腰に腰ひもをぐるぐると回し、前で結んで留めた。続いて帯だ。ガイドの通りに細く折って藤真の体に巻きつけ、後ろで結んでやる。
「……こんなもんか?」
 女性の大きなリボン結びの後ろ姿は容易に想像できるが、男性の帯結びの形は意外なほど印象になく、おかしくはないと思うが、本当に合っているのかどうかは少し不安だ。
「まあ、歩いてて取れなきゃいんじゃね?」
 軽い調子の藤真に対し、絶対に大丈夫だと言いきる自信はなかったが、昨年も持ったのでなんとかなるだろう。
 昨年は日程の都合で夏祭りには行かなかったが、別の場所で行われた花火大会を、やはりふたりで浴衣を着て見に行った。その前の年、高校三年の夏の花火大会では藤真のみ浴衣で牧は普段着という失態を演じてしまったので、はりきって浴衣を用意したのだ。
「じゃあ、今度はオレが結ぶ番だな」
 近場で行われる祭りだ、花火が上がるらしいが、ほかはさほど特別なこともないだろう。そうは思いながらも、ささやかで穏やかで、しかし非日常的な触れ合いが、否応なく気分を盛り上げる。

 支度の間にバラバラと大きな音を立てて降ってきた雨は、少し様子を見ているとサッと上がっていった。この季節には珍しくない通り雨だ。
「雨、止んでよかったな」
 群青の空の向こうに薄くたなびく夕焼けは、赤みが強く、燃えるような色をしている。対照的に涼やかな趣きの恋人を見据え、牧は満足げに目を細めた。部屋の中で着付けをしあっていたときには、客観的に見られていなかったのだと思う。
 首が細く肩幅もあまり広くない藤真に、浴衣はよく似合った。体に沿わない袖のラインのせいか体躯が華奢にも見えて、愛らしい印象だ。ユニフォームや普段のTシャツ姿より肌の露出がないのに色っぽく感じてしまうのは、余計なことを考えすぎなのだろうか。
「うん、ちょうどよかった。涼しいし」
 雨に冷めた空気はひんやりとして気持ちよく、夏の夕方特有の生暖かさを感じさせない。石のにおいなのか、土のにおいなのか、雨上がりのにおいは藤真が東京に越してきてから好きになったもののひとつだった。
「うっかりすると足が濡れそうだな」
 履きものはふたりとも雪駄だ。
「濡れてもすぐ乾くだろ」
 だから逆にちょうどいいな、などと他愛のない話をしながら祭りの会場に向かって歩く。
「……なんでちょっと笑ってんの」
「ん? 怒ってたほうがいいか?」
「ふはっ! やべえそれウケる、ムダに通行人威嚇して歩く牧」
 藤真が普段より印象を柔らかくするのとは対照的に、浴衣を着た牧は日ごろよりいっそう堂々として見えた。貫禄があると言えば、案外繊細な彼は傷ついてしまうかもしれない。不機嫌そうな顔をして歩いていたなら、さぞかし不穏な空気になることだろう。
「そんなのが面白いのか? しかしさすがになあ……」
 牧はあたりを見回す仕草をする。周囲には、同じように祭りに向かっているらしきカップルや友人連れが見える。
「ウソウソ、善良な市民をおびやかすなよ!」
 藤真は軽く笑うと、ぽんと牧の肩を叩いた。
 なんの気兼ねもなく浮かれた気分でいられる夏の休日は、藤真にはずいぶんと久しぶりのもののように感じられて、少しばかり落ち着かない。
 高校のときは単純に忙しかったうえ、二、三年については精神的な余裕もなかったと思う。やりたくてやっていたことだったから、ほかの遊びをしたいとはほとんど思わなかったが、まれにある全く練習をしない休日には、妙な罪悪感に駆られたものだった。
 大学だとて暇というほどではないが、高校よりはずいぶんと時間に余裕ができた。環境に慣れた二年目ともなればなおさらだ。そして何より、牧と都合も合わせやすい。

 八月下旬、日の落ちるのは想像以上に早く、さほど長い道のりではなかったが、祭りの気配を感じるころにはすっかり暗くなっていた。
 通りは灯火で飾られ、スピーカーから聞こえる祭囃子と、おしゃべりをしながら歩く人々、屋台の呼び込みとでざわざわ賑やかだ。しかし、穏やかな騒がしさだとも感じる。日ごろ通う渋谷や、たまに足を運ぶ新宿にある、せわしなさや人の〝圧〟のようなものはない。
「東京の祭りも、うちのほうとあんまり変わんないんだな」
「このあたりだとな。比較的近くに住んでる人間が多いんだろうし」
(確かに、オレらが住んでるのだって特に大都会! って感じでもないフツーの住宅地だしな)
「興味あるなら、浅草とかあっちのほうの祭りなら全然違うと思うぞ」
「いいよ、そんなに興味ない。てか、飲みもの買おうぜ」
 藤真はドリンクを売る屋台を目で示した。外に出てすぐは想像より涼しかったものの、少し歩いた今は肌に纏わりつくような暑さを感じる。ドリンクの缶や瓶の浸かった、氷水を張ったスタンド式のクーラーボックスは、いかにも涼しげで魅力的だ。
「ああ。なんにする?」
「んなの、ビールに決まってんじゃん!」
「……決まってるか?」
 そんな話は初めて聞いた。なにしろ藤真が合法的に酒を飲める年齢になったのはつい最近のことで、牧にいたってはまだ未成年だ。まあいいかとぼやきながら、藤真の缶ビールと、自分用に瓶入りのラムネを買った。心地よい笑い声が耳を撫でる。
「別に、お前も酒飲んだって誰もなんも言わねーと思うけど」
 見た目的な意味で、とは心の中だけで付け加える。それに、部活の飲み会で断りきれずに酒を飲んでいることだって知っている。
「必要がなけりゃ飲まない。それに、ラムネって祭りのときくらいしか見なくないか?」
「あーそっか、ラムネいいな。つぎ飲みたくなったらそうしよっかな」
 牧は空いているテーブルに淡い水色のラムネ瓶を置くと、キャップから取り外した部品を使い、飲み口を塞ぐビー玉を思いきり押し込んだ。ブシュッという開栓音とほぼ同時に、ビー玉が鋭く透き通った音を立てて瓶のくびれに落ちる。シュワーと小さな音とともに、瓶の中を気泡が昇っていくのが見た目にも爽やかだ。
 藤真も自分の缶のプルタブを引く。こちらもまたいい音がした。ふたりして、口もとには愉しげな弧を置いている。
「んじゃおつかれー」
「おう、おつかれ」
 もちろんどちらも疲れてなどいなかったが、定型句のようなものだ。すぐに歩くつもりだったから、ふたりともその場に立ったまま、缶ビールとラムネ瓶を合わせて音の出ない乾杯をする。
 藤真は缶に口をつけると、炭酸入りのジュースを飲むのと大差ない調子でゴクゴク喉を鳴らし、大きく息を吐いた。
「ぷはーっ! まずい!」
「まずいのかよ」
 爽やかに言い放たれた言葉に、思わず笑ってしまった。
「ビールって、味は別にうまくなくねえ?」
 ならば無理して飲まなくていいのでは、と牧が言うより早く、藤真の言葉が続く。
「でもなんとなく飲みたいって感じがする。のどごしかな」
 自覚は薄いが、二十歳を越えたからには酒を飲まなくては、という思いもなくはない。飲みかけの缶を牧の口もとに差し出すが、腕ごと押し返されてしまった。
「俺はいい」
「ノリわるっ、外だから?」
「そうだな……」
 藤真は一瞬怪訝な顔を作ったが、すぐに表情を戻して言う。
「んじゃ、そっちひとくちちょーだい」
「ん? ラムネがよかったなら交換でもいいが……」
「そういう意味じゃねーよ。もういいや、じゃあいらね」
 藤真は小さく舌を出して不愉快をアピールするが、牧の目にはそんな表情も愛らしく映ってしまう。家だったらその唇を塞いで舌を吸っている、と想像しかけて頭を横に振った。
 藤真はふいと顔を背け、見せつけるように缶ビールをあおって勝手に歩きだす。
「おい、藤真っ……!」
 牧は大股で藤真に追いついて隣を歩く。ビールを断ったことには、藤真が酒を飲むなら自分は素面でいるべきだと思ったところが大きい。藤真は酒に強くないのだ。加えて、傍目には友人同士の飲みもののシェアでしかなくとも、牧にとってはデートだ。外で堂々と間接キスをするのは照れくさいと感じてしまった。
 しかし、ひとくち程度ならもらっておけばよかったかもしれない。そうすれば藤真の機嫌を損ねることもなかっただろう。
(俺もまだまだだな)
 近くの屋台から香ばしいにおいが漂ってくる。この状況をあまり放置しないほうがいいように思えたこともあり、とりあえず提案してみる。
「藤真、いろんな屋台があるな。なんか食うか?」
「えー? うーん……おっ、肉棒が売ってんじゃん!」
「にっ!?」
 驚きながら藤真の視線の先を見ると、フランクフルトの屋台だった。のれんには〝ジャンボフランク〟とある。
「藤真、そういう言いかたは……」
「いいだろ、通じてんだから。ジャンボだって。ジャンボな肉棒!」
 藤真はなぜだかその言い回しを気に入ってしまったらしい。牧は誰か聞いていやしないかと周囲の様子を窺いたいような、やめておいたほうがいいような、至極複雑な気分だった。
「じゃあ買ってくるから、ちょっとここで待っててくれ」
 藤真にラムネ瓶を預けて屋台から少し離れた場所に残し、急ぎフランクフルトを買いに行く。屋台のそばで肉棒だの言われるのはさすがに気まずいと感じてのことだが、牧が財布を持っていること自体はいつものデートと同じだ。フランクフルトを二本購入し、戻って藤真に渡すと、ぱぁっと花が開いたような、晴れやかな笑みが返ってくる。本当に、本当に愛らしい、周囲の空気まで輝かせる、夏のひまわりのような笑顔だった。
「わぁ〜、でかい! オレぶっとい肉棒大好き!」
「藤真……」
 藤真は溜息をつく牧の様子などお構いなしにフランクフルトにかぶりつく。
「はふっ、熱いっ、汁がっ……♡」
「藤真、酔ってるのか?」
 やや前傾の姿勢でフランクフルトを齧りながら、藤真はさも面白くなさそうに、視線だけを牧に向ける。
「ちょっとビール飲んだくらいで酔うかよ。てかお前ってそんなんだっけ? 家で食ってるときとか、普通に下ネタ言ってくんじゃん」
「それは家だからだ」
「あっそ。外ヅラがよろしいんですね」
 藤真に言われたくはないと思ったが、さすがに口には出さなかった。歯を見せた藤真ががぶりと噛みついた口もとで、フランクフルトの皮がパリっといい音を立てる。熱い肉汁が染み出て旨いのだが、藤真の言葉を思いだすと股間が痛くなるような気もして、牧は眉間に皺を寄せた。
 大胆な表現に戸惑ったのは、品よく見られたいと思ってではない。藤真の言った通り、男しかいない場なら下ネタも気にしないほうだが、なぜだか今日は妙に意識してしまうのだ。缶ビールを勧められたときも同じだった。私的で性的な興奮を刺激されるシーンを、その中にある恋人の姿を、傍目に触れさせたくないと感じる。いつもとは違う印象の、柔和な色香の漂う藤真が、自分以外から不埒な目で見られることが心配なのだと思う。
 近くにあった車止めの柵に腰掛けてフランクフルトを食べ、串を捨てて少し歩くと、浴衣姿のカップルらしき男女が声を掛けてきた。
「あれ、藤真じゃん」
「わぁ〜藤真くん、浴衣似合うねー!」
 華やいだ声を上げてにこにこと笑う彼女に対し、男は明確に気疎い顔になる。牧は一瞬で状況を察した。
(そりゃそうだ)
 藤真が美人なのは確かだが、隣にいる浴衣姿の彼女にそんな反応をされては、男はたまったものではないだろう。
「おお、鈴木とカナちゃん。やっぱ女子の浴衣は映えるなー」
 世辞のつもりではない、素直な感想だった。華やかな浴衣に、メイクも髪型も合うように考えているのだろう。自分がそれを待たされる側と考えると面倒でしかないが、他人ごととして見ている分には感心する。
「ほんと? わぁ〜浴衣着てきてよかった〜♡」
 鈴木は後悔していた。特に藤真を呼び止めたかったわけではないのだ。人並みの中でも目立つ、いかつい浴衣姿の男に目を止めたら隣に友人を見つけて、思わずその名を呟いてしまった。黙っていればこの状況は回避できたかもしれない──が、やはり目立つ二人組なので、彼女のほうが気づいていたかもしれない。
「藤真、大学の友達か?」
「うん。バスケ部じゃないけど」
「藤真は同居人と一緒なんだな」
 以前にも藤真と一緒にいるのを見かけて聞いたことがあった。立派な体格と日本人離れした容貌だけでも充分だったが、さらに藤真と(自分とも)同級生というのが衝撃的でよく覚えている。
「うん」
 鈴木の横で、カナは目を丸くする。
「へえ〜、友達とルームシェアって、同級生かと思ってたよ。おとなのひとだったんだね」
 興味津々といった様子だが、この展開は牧にも、そして鈴木にも嬉しくないものだ。ならば、と牧は口を開く。
「……藤真、そろそろ行くか」
「おっ、そうだな藤真、引き止めてすまなかったな、じゃあな!」
 早々に話題を畳もうとするふたりを見て、藤真はさも愉快そうにニヤニヤと笑ったが、抗わずその場を離れることにする。それぞれのペアは逆方向に歩いたが、女子のよく通る声は牧と藤真の耳に届いていた。
「同居人のひと、どういう繋がりのひとなんだろ? 知ってる?」
 藤真は牧を見遣って小さく笑う。
「ぷっ、おっさんに見えるってよ」
「いまさら、慣れてることだ」
「どういう関係のひとに見えるんだろうな?」
「さあ……」
「お前は、どう見えたらいいと思うんだよ?」
「んー? 『あのふたり、バスケやってるひとかな』とか」
「頭ん中バスケでいっぱいかよ、ねーわ」
 ふたりにとっては身近なものでも、今の日本ではそこまで浸透しきったスポーツでないことは牧も重々承知している。だからこその、願望のようなものだった。
「……なんか、ちょっと食うと余計ハラ減る現象あるよな。なんなんだろうなこれ」
「普通に晩飯どきだしな。なんか食おうか、なにがいい?」
 藤真は近くの屋台に目を止める。
「んーじゃあたこ焼き」
「あれはひとり分か? 二パックいるかな」
「一個でいいだろ、いろいろ食ってこうぜ」
「飲みもんは?」
「まだある」
 とりあえずたこ焼き一パックと、その隣の屋台でじゃがバター、牧は新しいドリンクを買って、ちょうど空いたテーブルに陣取った。
「おお〜、祭りっぽい!」
 藤真は嬉々としてたこ焼きのパックを開けると、一つに楊枝を突き刺した。
「はい牧、あーん♡」
「!?」
 唇の前にまで持ってこられたそれを、牧は考える暇もなく口で受け取って咀嚼する。熱い。口の中も、それから顔も。
「オレにもあーんして♡」
 最後まで口の中に残っていたタコを妙な音を立てて飲み下し、牧は顔を険しくする。普段の外食ではこんなことはしないのだ。
「どういうつもりなんだ? 藤真」
「どうって、祭りだし」
「なんなんだその理屈は」
「嫌ならいいけど。お前今日、ノリ悪すぎ」
「嫌じゃないが、そういうのは家でだな……」
「はいはい」
 藤真はじろじろと、いかにも胡散臭いといった目で牧を見る。もともとシャイな男ならば納得もするが、牧はそうではなかったはずだ。カップルだらけの店に男二人で入ったのも、クリスマスのイルミネーションの中を歩いたのも、花火大会で手を繋いだのも、思えば高校生のときだった。
(付き合って三年目じゃ、もう飽きられてんのかな)
「藤真、芋もうまいぞ」
 牧は藤真の内心など知る由もなく、穏やかな表情でじゃがバターを勧めてくる。
「うん。……うまい」
 屋台のじゃがバターはひときわ旨い。それは確かなのだが、気分的にはどうにも煮えきらなくて気持ちが悪い。藤真は缶の中に残っていたぬるいビールを全部あおった。
 その場での食事を終えると、二本目の缶ビールを買い、「ビールにはやきとりだ!」と知ったようなことを言ってやきとりを買って食べた。ビールの味は相変わらず不味かった。
 次はどうしようかと歩いていると、若い女に声を掛けられる。
「すみませぇん♡」
「男性おふたりなんですかぁ?」
 浴衣姿の若い女二人組。アップにした髪の明るさに対して、黒く長いつけ睫毛には迫力さえ感じる。藤真はあからさまに面倒そうに返す。
「そうだけど」
「ウチらもちょうど女子ふたりなんですけどぉ〜♡」
「そうなんだ、でもオレらデート中だからごめんね! バイバイ!」
 藤真はにこりと笑って牧の腰を抱くと、密着させた体を押してふたりから離れていく。逆ナンパなど珍しくもない。それだけで終わっていれば何も言うつもりはなかったのだが、背中の向こうでかん高い声が上がった。
「はぁア? ないわー!」
「うっざ、調子乗りすぎ! 面白いと思ってんのかよ、つまんねーんだよ!」
 最近はこんな女性もいるのか、嘆かわしいことだ、と年齢不相応な感想を抱いて首を振る牧のかたわら、藤真は振り返って思いきり叫んだ。
「うるせえブーーース!!」
 そして舌打ちと、ひとが愛想よくしてやれば調子に乗りやがって、というぼやきが続く。キャーだのひどいだの言う女の声が遠ざかっていくが、自業自得だろう。
「……激しいな」
 藤真にアグレッシブな面もあることはよく知っているが、女子のファンには愛想よく接する姿ばかり見てきたので、少し面食らってしまった。
「なに、引いた?」
「いや……まあ、お前もいろいろ大変なんだろうなと思った」
 相手の態度もあるだろうが、やはり酔っているのだろう。女の気配が失せても藤真が離れる様子はなく、半身は相変わらずぴったりと密着している。ふざけているだけにしては、凭れてくる体が重い。よくよく見れば頬には赤みがさして、目はとろんと垂れている。体を擦り寄せたことと角度のせいで胸もとが大きく開いて見えて、気になって仕方がない。じっくりと見ていたいような、見てはいけないような落ち着かない気分で、夜の明かりの中でもひときわ白い胸をちらちら盗み見ていた。
(この辺にホテルは……あっても今日は満室のような……)
 おとなしく家まで我慢するのが最善のようだ。となると、あまりくっついてもらわないほうが助かる。
「藤真、大丈夫か? 少し座って休むか?」
「なんで」
「酔ってるだろう」
「酔ってねえよ」
 酔っている人間おなじみのセリフを言って、藤真はぎゅうと牧に抱きついた。半身どころでなく完全に抱き合う形だ。
「おい、藤真っ!」
 牧は藤真を抱えて道の端に移動する。覗き込んだ藤真の顔は相変わらず赤いが、長い睫毛の下の瞳は明確な意思を持って、妖しげに牧を見返す。
「いいじゃん別に、酔っ払いがふざけあってるようにしか見えねえよ」
「俺はそういうふうには思ってない」
 牧は責めるような、甘えるような視線から逃れるように顔を背ける。
「はあ?」
 どういう意味だ。つまり、牧はこれをカップルの接触と認識したうえで拒否しているのだ。なおさら悪い。
(昔は違った)
 しかし、今日は初めからそうだったのかもしれない。なんだか自分ばかりが浮かれていたような気がして、急激に悲しく、そして馬鹿馬鹿しくなってしまった。
「帰る」
 呟いて押し返した牧の体はびくともせず、その反動で藤真の体だけがふらふらと歩きだす。
「おいっ……!」
 牧が咄嗟に藤真の袖の端を捕まえたのと同時に、遠くで籠もった破裂の音が聞こえた。
「花火だ」
 周囲の人間が一斉に空を見上げる。夜空に次々に咲いた花は、海辺の花火大会で見るような、大きく近くに感じるものではなかったが、祭りに来た人々を喜ばせるには充分で、ほうぼうで小さな歓声が上がった。
 帰ると言った藤真も足を止めていた。光の滴を、それが落下しながら描く線のひとつひとつを凝視していると、空が落ちてくる錯覚に襲われる。足もとの覚束ない感覚に、思わず空に伸ばしかけて引っ込めた手を、大きな手が後ろから包んで握った。
「……!」
 牧は藤真の腰に腕を回すような格好のまま、花火が終わるまで無言で寄り添っていた。
「よし、帰るか」
 帰り道では、ずっと手を繋いでいた。
(拒否ってたくせに、どういうつもりなんだろ、変なの)
 牧は何も話そうとしない。月明かりの縁取る、高い鼻梁をした特徴的な横顔がこちらを向くと感じて、藤真は慌てて目を逸らす。手を振りほどく気になれないのが、少し悔しかった。

 帰宅すると、藤真が先に玄関に入って照明を点けた。背後でドアロックの音が聞こえたかと思うと、即座に抱きすくめられていた。
「っ!!」
 押し殺してもなお荒い呼吸が耳を撫で、密着した体からは布越しにもじっとりと高い体温が伝わる。尻に当たる硬いものからは、ひときわの熱を感じた。
「なんだよ、帰った途端発情かよっ……んむっ!」
 顎を捕らえられ、顔だけ振り向かされる形で唇を塞がれる。舌を押し込んで絡め取る、貪るようなキスだった。くらくらする。まだ少し酒が残っているのだろう。体を抱え込まれて牧のほうを向かされると、厚い胸を押し返してささやかに抵抗を示した。
「途端? 俺はずっと我慢してたんだぞ。お前がくっついてくるから、気が気じゃなかった」
 当然のように言ってのける牧に、藤真は眉を跳ね上げて怪訝な顔をする。
「我慢? ずっとオレのこと拒否ってたくせに?」
「拒否なんてしてない。家でしようって言ったんじゃないか」
「じゃあ最初から出かけなくて、家でやってりゃよかったじゃん」
 このままでは喧嘩になってしまいそうだ。拗ねた調子の藤真に、牧はことさら穏やかな口調を意識して返す。
「どうしてそうなるんだ?」
「だってお前、昔はそんなじゃなかった」
「昔? デートか試合のときくらいしか会えなかったからだろう。だが今は違う。家でふたりきりで、ゆっくりいちゃいちゃできるじゃないか」
 高校のころはふたりとも今よりずっと忙しかったし、互いに目立つ立場だったから、ずいぶんと都合を考えたものだった。貴重なデートの機会はいつだって特別で、当然浮かれていただろう。今日のデートだとてもちろん楽しみだったが、昔と違うと言われれば違うかもしれない。しかし牧にはそれが悪いことだとは思えなかった。
「いちゃいちゃ……?」
 思ったまま口にした言葉だったが、あらためて藤真の口から聞くと途端に照れくさくなる。だが、はっきり言わなければ伝わらないこともあるだろう。
「ああ、藤真といちゃいちゃしたくて、ドキドキしてた」
「ふうん……」
 触れ合う体は熱いが、牧は強引にキスしたきり、それ以上先に進もうとはしない。こういうところは昔と同じだ。玄関で迫られることにも覚えはある。
「……じゃあ、いちゃいちゃしよっか」
 藤真は玄関の段差部分に腰を下ろすと、まだ雪駄を履いたまま土間に立ち尽くす牧の浴衣の裾を左右に大きく開く。
 わかりきっていたはずだが、下着越しにもくっきりと形を主張するものを目の当たりにすると、あらためて動揺を孕んだ興奮が起こり、自らの下半身まで疼いてくる。
 すりすりと音を立てて撫でると、汗だろうが、じっとりと湿っていた。下着を下ろし、こぼれ落ちるように現れた立派な男根を下から支えるように掴まえる。色黒の逞しい竿から、高く張り出した先端部に肉の色を見せ、ときおりピクンと脈打って、牧とはまた別の生命を持っているように思えた。
 男の体の仕組みはよく知っているつもりだが、牧が自分に対してこうなってしまうことは未だに少し不思議だ。嫌なわけではない。むしろ──
「ジャンボフランク……」
「あれより太いんじゃないか?」
「スーパージャンボフランク」
 まじまじと見つめて呟き、大きく口を開けて咥え込む。蒸れたようなにおいが鼻を抜けるが、先端を喉に押しつけるように、より奥へと導くとそれも感じなくなった。
(やっぱりオレ、こいつが好き)
「ンぐっ……」
 さほど経たないうちに、息が詰まって気が遠くなる。酩酊に似た感覚と嘔吐反射に逆らわず口から出すと、豊満な亀頭にねっとりとした唾液が糸を引いた。
「肉棒が好きとか、言ってたな」
「うん。すき」
 挑発的な笑みを作ると、ぴちゃぴちゃと音を立て、表面全体に舌を這わせて愛撫を施していく。ふざけて言ったつもりではなかった。これについては〝牧のためにしてやっている〟という感覚ばかりではなく、体の一部に過ぎないはずのそれそのものが、無性に愛しく感じられるのだ。無論、誰のものでも同じように思うわけではないだろう。
「ああ……藤真……」
 牧は一方的な奉仕を求めたつもりではなかったのだが、藤真がその気ならば拒否する手はない。帰宅直後の状態をためらわず咥えられることには、恥ずかしさと同時に妙な興奮があった。
「んむっ、んんっ」
 ときに苦しげに呻きながらも、まるでそれが美味であるかのように、音を立ててしゃぶりつく。喉奥と舌を使いながら、顔を前後させるピストンの動作を繰り返されるうち、牧はたまらず藤真の顔を引き剥がす。
「くっ、藤真っ……!」
「なに?」
「いや、出そうになったから……」
「いいよ、出して。飲みたい」
「!」
 妖艶に微笑して再び唇を寄せられると、もう咎めることはできなかった。髪を撫で、頭を包み、高みに昇るように自ら腰を振る。窄められた唇が、しきりにいやらしい水音を立てていた。
「っ、いくぞ……ッ!!」
 体が震え、強烈な快感が一本の鋭い線のように奔る。閉じ込めていた欲望は放たれ、吸い出されて、藤真の口内に受け止められる。身動きできないほどの充足感だった。
 藤真はべろりと舌を出し、受け止めた精液を見せつけると喉を鳴らして飲み下し、唇の端を吊り上げて笑う。牧の欲求は落ち着くどころか止めどなく湧き起こる。
「まだやれる?」
「当然だ」

 薄明るい部屋のベッドの上、浴衣を乱して肌の多くを露わにしながら、組み敷かれた白い肢体が艶かしく踊る。
「あっ、あんっ、んっ、うぅっ…」
 腰を抱え上げられ、大きく開かれた脚の間に、浅黒い男根がしきりに出入りする。肉の薄い体を暴力的なまでの体格差と質量で穿たれながら、藤真はそのたび苦悶に似た歓喜の声を上げた。
「んぅっ! あっ、あぁっ、あんっ…」
 その身に纏わりつく浴衣が、衣服というより動作を拘束するもののように見えて、日ごろは息を潜める牧の攻撃性と支配欲をしきりに煽る。
「お前だって、やりたかったんだろう?」
 動きを止めると、体を穿ったままで、ツンと尖った胸の突起をひねり上げて弄る。
「あンっ! ぅうっ、あぁっあ…」
 背を反らし、強請るように胸を突き出して悶えながら、秘部は大きくうねり、淫らに締めつけてくる。牧は求めるものを察しながらも与えず、とろとろとよだれを垂らす先端部を、指の腹を小刻みに動かして虐めた。
「ひんっ! あぅ、ああっ、そこ、やめっ…! んうぅっ…!」
 びくびくと痙攣するように腰を揺らし、拒絶のような言葉もすっかり快感に濡れている。いじらしくて、愛らしくて堪らない。
「はぁっ…あぁっ…ぅっ…」
 責める手を止めても快楽の余韻が残っているかのように、体はぴくり、ぴくりと震え、内奥はもの欲しそうに吸いついてくる。もうあまり余裕はない。
「動かすぞ」
「ぅあっ…!」
 返事をする前にすでに牧は体を引いていた。ひとつになったようだった粘膜が引き剥がされ抜けていく感触に、藤真は身震いする。
(ぞくぞくする……)
 行為には慣れているし、牧のこともいい加減よく知っているつもりだが、ときめきと恐怖と、自らの肉体への後ろめたさが綯い交ぜになったこの感覚は失せない。
「あぁっ、んっ、うぅ…んっ…」
 牧は何度かゆっくりと動作したのち、欲望のままに抽送の速度を上げていく。
「うぐっ、んっ、ぅあっ、んんッ!」
 波打つ体を押さえつけ、あるいは大きく開かせた脚の間に好き勝手に打ち込まれる自らの肌色。自分だけが見ることを許されている、極めてプライベートで、たまらなく卑猥な光景だ。
(藤真……藤真、好きだっ……!)
 あさはかだと言われようが、体が強く求めるたびに、自らの心をあらためて思い知らされる。パンパンと規則正しく肌がぶつかる音に、濡れた肉が擦れる音、乱れる息。肉体の受ける直接の快感を、視覚と聴覚とが増幅していく。
「藤真、いくぞ…ッ」
「っあっ、んっ…はぁっ、あっ、あぁーっ…!!」
 昇りつめ弾け飛ぶスパークの中で、あるいは体ごと意識をさらう波の中で、思考を失ったまま、ただ腕に抱えた、互いの存在を愛おしいとばかり感じていた。
「あっ……あぁ…っ…」
 藤真は潰れそうなほど強く抱かれながら、自らのうちに注がれた温かな感触と、どちらのものか判別できなくなった鼓動に浸る。熱い息が、大きな音を立ててしきりに耳を撫でていた。
「ふーっ……」
 牧はひときわ大きくため息をついて上体を起こす。しかし繋がれた下腹部は離さないまま、藤真の片足だけ持ち上げて体を横向きにひねらせ、体を交差させる角度でなおも腰を揺らした。
「あぅっ、んあっ…ぁんっ、んッ…!」
 ぐちゅ、ぐぽ、動くたびに粘性の音を立てる局部が悦び咽んで収縮し、自ら注いだ精液が愛液のように溢れ出る。牧はうっとりと息を吐いた。
「やらしいな、藤真……」
 現在の行為の主導権が牧にあったとしても、藤真が拒絶を示せないわけではない。しかしそれをしないのだ。身を乗り出して顔を覗き込むと、乙女のように染まった頬と、快楽に潤んだ瞳が微笑んだように見えた。
「……最高だ」
 呟いてくちづけると、それきり言葉を忘れたように、獣のように貪った。

 力の抜けた体で裸の温度を共有しながら、牧は藤真の背中を包むように抱く。
「なあ藤真。来年もまた、浴衣を着て祭りに行こう。そうしたら、楽しみなんじゃないか? 夏が終わったって」
「……なんの話だよ」
「祭りに行く前に言ってた」
「あー……」
 働かない頭で思いだす。夏の終わりは寂しいものだとか、言った気もしなくもない。
『そういうことじゃねえんだよ、お前ってやっぱズレてんな』
 言葉は出なかったが、いかにも名案だというように得意げな顔をしている牧を認めたら、それでいいような気がしてしまった。
「そうだね」
(次の夏が楽しみだとしたって、その夏の終わりにはまた同じように、オレは寂しい気分になってると思うんだけど)
 子供時代の、夏休みの終わる名残惜しさ。道端に増えていく蝉の死骸。高校のときに感じた焦りと絶望と空虚感。追いつけない逃げ水。印象的な光景と体験とが絡み合って作られた感情が、この季節には染みついている。夏は嫌いではないが、だから夏の終わりは嫌いだ。しかし、牧にそれを理解してもらおうとも今は思わない。
 男らしい無骨な輪郭をした頬に、なんともなしに触れようとして、ゆっくりと宙を掻いた白い指が、大きく暖かな手に包まれる。ふたりとも、今日の花火が上がった直後の光景を幻視していた。
「なあ藤真、明日の夜、たこ焼きでもいいか?」
「あ?」
 あまりに唐突に思えた話題に、間の抜けた声が出てしまった。牧は藤真の手を掴まえたまま、照れくさそうに視線を泳がせる。
「今日あんまり食えなかったから、明日ちゃんと食いたいと……」
「明日も夜店探しに行く?」
「違う。買ってきて家で食べるんだ」
「ふーん。たこ焼き好きなんだな」
 何か言いたげに手の甲を指で弄ってくる、牧の意図もわかってはいる。
(こいつといると、なんだかしんみりできねえなー……?)
 ふっと、唇から笑みを含んだ息が漏れる。
 夏が終われば秋がきて、蝉が死のうが人は明日の食事を考える。何も特別なことのない、当たり前の営みの端にしがみつくように、広い背中に腕を回した。

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