彼はいつもこの道を歩いているだろうか。もう一つ奥の通りか、あるいは全く見当違いの道かもしれない。
閑静な住宅街だと思うや否や、キャンキャンと犬の鳴き声が聞こえ、牧は俯いて微かに笑った。この辺りに来るのは初めてだ。たまたま用事のあった駅が藤真の家の最寄りだと気づいた、ただそれだけの理由で散策を始めた。
土曜の夕方だ、翔陽の練習ももう終わった頃だろう。しかしいくらこの辺だからといって、そう都合のいい偶然もないだろうと思ったそのときだった。
陽に輪郭を透かした明るい髪色に、烟る長い睫毛と琥珀のような大きな瞳。牧が彼に抱く印象はどこか小動物じみている。
「藤真!」
「はい!?」
しかしその声は想像したものとは異なり、透き通るように高かった。まるで女性のように──いや、まごうことなき女性だ。よくよく見れば髪も肩まで長く、牧の知る藤真よりも随分と小柄で、薄く化粧をしているし服装も完全に女のものだ。
女は牧の頭の天辺から靴の爪先までをまじまじと見つめた。
「ああ、健司の知り合いのバスケの人?」
「あれ、牧とねーちゃん」
女の語尾に被るように、後方からよく知った声が聞こえた。振り返るとスポーツバッグを肩に掛けた藤真の姿があり、牧は彼らがよく似た姉弟なのだと一瞬で理解する。家が近所のようで、姉は「先に行ってるね」と弟を残して行ってしまった。
「牧、なんでこんなとこに?」
「たまたま近くに用事があって、お前の家がこの辺だったかと思い出してな」
藤真は目を瞬いた。実家住まいで大抵家に家族がいるため、牧を家に呼んだことはない。緊急連絡先として住所は教えたことがあったか。
「? ……なんかこわいぞそれ」
「あまり来たことない場所って歩いてみたくならないか?」
「ならない」
藤真は即答で首を横に振ったが、思えば牧は異様にフットワークが軽いのだった。行動力や財力の賜物と思っていたが、散策好きも関係しているのかもしれない。
「翔陽の練習も終わる頃かと思ったしな」
「んなアバウトな。会えなかったらどうするつもりだったんだよ」
「別に、この辺に藤真が住んでるのかと思いながら散歩するだけだ」
「いや、なんかストーカーみたいそれ……」
藤真がぶるぶると首を振るのに構わずに、牧は話を続ける。
「お姉さん、お前に似て可愛らしい人だったな」
藤真を小さくした感じだった、と思うと自然と顔が綻ぶ。それに気づいた藤真は眉根を寄せた。
「順番的にはオレが似たんだけどな」
「お姉さん、今時間取れないだろうか?」
「はあ? なんで?」
「せっかくだからご挨拶を」
牧がなんとなく嬉しそうにしているのが無性に腹立たしかった。
「なんの挨拶だよ。あいつワガママで性格悪いし、料理しねーし、胸も盛ってるからほんとは平らなんだぞ」
「そんな言い方しなくたっていいだろう。胸ならお前のほうが平らじゃないか」
「あと今男いるからな!」
「藤真……」
彼がなぜ姉を貶すようなことを言うのか、最後の言葉で合点がいって、思わず笑ってしまった。
「お前の家族っていうとこへの興味があるだけで、それ以上のものはなにもないぞ。それにお前のほうがずっとかわいい」
誤解してやきもち焼くところも、とまでは言わずに腰に腕を回した。住宅街の路地に、今は人目はほとんどない。
「別にかわいさなんて競ってねーし。ちょっと荷物置いてくるから待ってろ」
藤真は言うと、小走りで家に向かった。不貞腐れたような言葉を吐いたものの、唇は笑みを形作りそうで、悔しいので引き結んで噛み締めた。
(かわいいなんて言われるの、嫌いだったんだけどな……)
姉より自分が可愛いということも到底ありえず、牧の贔屓目でしかないと思うのだが、それを真顔で言ってのけるところに参ってしまう。そして住んでいる場所や家族など、自分の周辺にまで牧の興味は及んでいるらしい。
(変なヤツ)
藤真は牧そのものにしか興味がなかったから、いまいち理解できないことだった。今はただ早く荷物を置いて、彼のところへ戻ってやらなくてはと思うだけだ。