ふたりぐらし

大学進学に合わせて同棲しようという牧藤が不動産屋に行ったり引っ越ししたりする話。1話のみモブ視点。全2話 [ 2話目:4,554文字/2020-09-28 ]

2.

 東京都世田谷区某所の賃貸マンション。個別の部屋が二つに、ひと繋がりになったリビング・ダイニング・キッチンというオーソドックスな2LDKの物件を、牧と藤真は契約した。複数人で住むことを想定されたつくりのため、バス・トイレは別で洗面所もある。牧の希望だったカウンターキッチンではないものの、角部屋で日当たり良好な三階であることなど、諸々の条件から決定したものだった。
 まだ何もない、がらんどうな居間を、藤真はひとり見渡す。不動産屋の担当者と牧と三人で内見に来たときよりも、ずっと広く見えた。
「藤真」
「牧。さすがに今日はスーツじゃねえんだな」
 藤真は声のほうを──居間から廊下に続くドアを振り返り、愉快そうに笑った。不動産屋に物件を探しに行ったときの牧がスーツ姿だったためだ。気合を入れたとか、嘗められないようにだとかよくわからないことを言っていたが、その甲斐あってか店員の対応は丁寧だった気がする。最初のアンケートにしっかりと年齢は書いていたのだが。
「今日は引っ越しの作業があるからな」
「つっても、重いもの運ぶのは引っ越し屋だろ? ベッドだって組み立てサービス付きだし」
「それより、ちゃんと鍵を掛けてくれ」
「あ?」
 牧はいかにもよろしくないと言いたげに眉を顰めている。
「無用心だろう」
 藤真もあえて牧と同じように眉を顰める。理解できないというアピールだ。
「別に、オレがいるし、盗られるもんなんてまだないし、お前がすぐ来るって思ってたからじゃんか」
「……とにかく、今度から気をつけてくれ」
「はいはい」
 牧はおおらかなようでいて意外と神経質なところがある。たいてい藤真にとっては些細なことで、あまり共感はできないのだが、意地を張るようなことでもないだろうと頷いた。
「しっかし、ほんとになんもねえなー」
 藤真はあらためて見たままを呟いた。彼にとっては初めての引越しだ。
「お前がいる」
「ん?」
 牧は藤真の手を取ると、包み込むように握った。
「なにもない部屋に藤真と俺がいて、これから新しい生活が始まるんだ。わくわくする」
「ワクワクて……」
 牧の晴れやかで穏やかな笑顔を見ると無性に照れくさくなって、「あんまり言わなくねえ?」と小さく口籠もる。牧は不思議そうな顔をした。
「なんだ、お前は楽しみじゃないのか?」
「……オレはなんか、ヘンな感じ」
 大学進学にあたってはふたりともスポーツ推薦を受け、昨年のうちに合格をもらっていた。それから部屋の場所や条件、どういう家具を置きたいなど話し合い、不動産屋や(藤真は遠慮したのだが)家具屋にも一緒に行った。親に相談することもあったが、基本的にはふたりでことを進めてきて、今日までにいくらでも時間はあった。それでもどこか現実味がないと感じてしまう。
「や、別に嫌って意味じゃなくて」
「嫌じゃないならいい。……お前は親もとを離れるわけだしな」
「あー、そういうのもあるかな」
 牧と一緒に暮らすことと、家族から離れて自分で家事などをして生活していくことと。経験のないことが重なって、手探りの感覚なのだと思う。牧は高校時代から一人暮らしだったから、その点の心配はしていないのだろう。
 ──ピンポーン
 インターホンの音がした。予定通り、牧の部屋に置く新しいベッドが届いたようだ。彼の強い願望だったダブルベッドである。男二人暮らしの家にそれはいかがなものかと藤真は思ったのだが、牧の持ちものに口を出すことでもないかと黙っていた。もともと牧が使っていたセミダブルのベッドは藤真が貰うことになっている。じきに引越し業者が運んでくるだろう。
『俺が使ってたベッドをこれからお前が使うのか! なんだかドキドキするな』
『なにそれこわ、やっぱり貰うのやめようかな……』
『すまん、気にしないでくれ。ベッド自体は汚れてないし、マットレスは新しいの買うからな』
『いやマットレスくらい自分で買うし』
 そんなやり取りもあったが、牧のベッドは使わないなら処分するしかないこと、藤真の実家の部屋にベッドを置いたままにできることから、結局藤真が譲り受けることになったのだった。

 ベッドの配送業者が帰ったあと、藤真は牧の部屋を覗いて思わず笑う。
「この部屋、ベッド置いて終わりじゃんかっ!」
 もともとあまり広くはない部屋にダブルベッドを置いたものだから、残りのスペースはごく限られたものになってしまった。部屋とベッドの寸法は確認済みだった牧も、実際設置してみての圧迫感には少し戸惑ってしまう。
「……まあ、いいんじゃないか、ラブホみたいで」
「うん、思った」
「テレビとテーブルとソファは居間にいくし、あとは小さいタンスとベッドの横のあれだけだから大丈夫だろう」
 あれ、と言いながら両の指で四角を作る。ベッドのサイドテーブルのことだった。
「机は相変わらずないんだな」
「置けないだろう?」
「初めから置く気なかっただろ」
「だって、家で勉強なんてしなくないか? いや、テーブルはあるんだし、問題ないだろう」
「オレはちゃんと勉強してたぜ?」
(監督の勉強だけど)
 テスト前の勉強については主に花形のところで済ませていたので、もはや自室の机は無くてもそう困らないのかもしれない。一応、引越しの荷物には含めたが。

 牧の旧居からきたベッドと新しいマットレスと、積み上げられた段ボールに囲まれて、藤真は途方に暮れていた。
(くそぅ、どっから手をつければいいんだ……!?)
 藤真は牧とは違って実家からの引越しだ。こまごまとしたものについては必要になってから取りに行くなり宅配で送るという選択肢もあったのだが、何度も行き来するのも面倒だと感じ、引越し業者を使った通常の引越しにした。しかし、選択を誤ったかもしれない。
 とりあえず窓にカーテンは取り付けた。それから段ボール箱の開封だが、どの箱に何が入っているのかわからない。本の箱は明らかに重くて小さいのでわかるが──というか、なぜこんなに箱があるのだろう。ひとりの部屋にこんなに物が必要だったろうか。
(オレって、引っ越し苦手だったんだな。初めて知った)
 手近な箱を開けると、バスタオルが入っていた。母親が詰めたものだ。引越し先で新しく買えばいいと思っていたが、今日これから買いに出るのは面倒だったかもしれない。
(で、バスタオルって普通どこにしまうんだよ……つうか、パジャマとお風呂セットを発掘しないと困るよな)
「藤真、なんか手伝うか?」
 開けっぱなしにしていた部屋のドアから、牧が顔を覗かせた。
「え、自分のほうをやれよ」
「俺の部屋は終わった」
「もう!?」
「あんまり物ないからな。……これだと寝るまでに片付かないんじゃないか? そうだ、今日は俺の部屋で寝たらどうだ?」
 牧はにこにことして、さも名案だと言わんばかりだ。一方藤真は顔を顰める。
「えー、今日ヤる気しない。そんな暇あるなら部屋片付けるし」
「やらなくたっていいじゃないか。ダブルベッドだぞ、一緒に寝ても狭くないんだ」
 無理やり行為に及ぶようなことはない男だ。単純に、新しいベッドにふたりで寝てみたいというだけだろう。藤真のベッドの上には、収納場所に困ったものがとりあえず並べて置いてある。
「……じゃあ気が向いたら」
「で、そろそろ晩メシにしないか?」
「え? うわまじだ」
 藤真は牧の腕時計を見て目を瞬いた。今後は当番制で自炊などもしていく予定だが、今日は忙しいかもしれないから外食か出前にしよう、とは以前から決めていたことだ。
「外を散策するには明るいときのほうがいいだろうから、今日は宅配ピザなんてどうだ?」
 牧は手に持っていたチラシを藤真の目の前に広げた。
「……いいけど、牧っぽくねえな」
「そ、そうか?」
 以前一緒にハンバーガーを食べたとき、ファーストフードはあまり食べないと言っていた。時間帯や、知り合いに遭遇したくないという事情もあり、ふたりでの食事は比較的大人の客が多い店が主だった。
「うん。でも、いんじゃね? ドリンクはジンジャーエールな」
「嫌いじゃないならよかった。……俺はずっと、お前と一緒に宅配ピザを食ってみたかったんだ」
「なんっっだそりゃ」
 妙に切々とした語り口の牧に、ごく素直な反応を返す。
「量的にはいけるんだが、食べ終わったあとのもたれる感じがよくないっつうか……ひとりで食うもんじゃねえなと思ったことがある」
「あー、お前あんまり悪いアブラ摂らねえもんな」
 悪いかどうかはピザの内容にもよるだろうが、あくまで藤真の主観だ。体を作るために栄養価を気にしているというよりは、元々の食事の好みによるものだと聞いたことがあった。
「さあ、好きなの選んでくれ」
「あいよ」
 注文するものを決めると、牧は居間に電話を掛けに行き、藤真は荷ほどきを再開した。少しすると牧が「手伝おうか」と再びやってきたが、変なものが出てきても困るので追い返した。

「藤真、ピザ届いたぞ」
「ああ、今行く」
 荷物は全て片付いてはいないが、今日使いたいものや下着は見つけたので上出来だろう。
 見慣れた家具の置かれた、まだ見慣れない居間へ行くと、ダイニングテーブルの上に蓋を閉じたままのピザとフライドポテト、ナゲット、サラダ、飲みものが並べられていた。サラダを頼んでいるのは牧らしいと思う。そして当の牧は、この上なくにこやかに藤真を待っていた。
「……なに?」
 なぜそんなに嬉しそうなのか。今日はずっと機嫌がいいようなので、いまさらではあったが、藤真は椅子に掛けて牧を見返す。
「俺たちの新しい住所に、ちゃんとピザが届いたんだ」
「お、おう……」
 新築のマンションでもなし、配達区域内ならば──住所を伝え間違えていなければ届くに決まっているのだが、牧の実感の問題なのだろう。なんとなくわかるような、やはりわからないような気分でピザの箱を開けると、熱気とともにトマトとチーズのよい香りが立ち昇った。藤真にとっては宅配ピザは特に珍しいものでもなかったが、向かいに座る牧を含めたこの光景は、ひどく特別なもののように感じる。
『お前がいる』
 引越し作業の前の、何もない部屋での言葉を唐突に思いだし、急激に顔に血が上る気がした。牧に感化されてしまったのだろうか。
「うまそうだな」
「うん。……いただきます」
「ああ。いただきます」
 食卓をともにする相手は家族ではなく、ピザを取り合う手は翔陽の部員のものでもない。フルーツトマトの甘酸っぱさが、新鮮に口の中に広がった。
「あ、これうま」
「ああ……そうだな」
 それだけの会話で、ふたりとも顔を見合わせて笑ってしまった。
「なんだよ」
「なんでもないさ」
 ただ嬉しくて、そしてまだ照れくさいのだ。
「──ああ、そうだ藤真、ひさしぶりに、一緒に風呂に入らないか?」
「はっ? なんでだよ」
「新居の一番風呂だぞ」
「一番風呂とか、今まで生きてて気にしたことなかったけど。おっさんかよ」
 牧だとて、ここ三年は一人暮らしだったのだから、気にしていたわけがないと思う。藤真は目を据わらせ、意地悪く唇の端を吊り上げ、そして緩めた。
「まあいいや。じゃあ入っとくかな一番風呂」
 どうせそのあと一緒に寝るんだしな、とまでは言わないでおく。
 こうして彼らの長い長いふたり暮らしが始まった。

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