ハニー・バニー

3.

 外に出ると、牧はもうそこで待ってた。
「おうっ、牧……」
「お疲れ」
「お、おつかれ……」
 牧が目を逸らすもんだから、オレもなんとなく気まずい感じになってぼそっと喋った。それだけのやりとりで牧が歩き出したんで、慌てて付いて歩く。
「……うん、バスケの練習よりよっぽど疲れた。気疲れかな。一緒にいた人たちは?」
「次の店に行った。系列店らしい」
「お前は次行かなくていいのかよ」
「付き合いで連れて来られただけだ、俺のリクエストってわけじゃない」
「へえ。じゃあ、こういう、なに? 男とお喋りする店みたいなのは、行ったことなかったんだ?」
「ないな。初めてだ」
 口を開けば全然普通に言葉が出たし、牧もごく普通の感じで答えてたから、オレはすっかり安心していた。
「てかその格好なに? 付き合いって?」
 牧はスーツにネクタイ姿だった。海南の制服だってそんな感じだったけど、今はお互い大学生だ、スーツなんてそうそう着ない。
「親族のやってる会社に関わっていてな」
「なにそれ、こわっ」
「名前と役職があるだけだ。別に怖い会社じゃないし、よくあることだと思うぞ」
「へ、へぇ〜……?」
 正直よくわかんなかったけど、やっぱりこわいから突っ込まないことにした。
 今歩いてる路地は暗くて、駅前みたいに人で溢れてるわけじゃないけど、酔っ払いが好き勝手に歩くんでなかなか歩きにくい。あとなんだか外国人が多くて、あんまりいい印象は受けない場所だ。
 牧の歩きが早いってわけでもないだろうけど、どうにも歩き慣れないオレは、置いて行かれないように一生懸命広い背中を追ってた。
 最近は夜はもう寒いと思ってたけど、ここの空気は生暖かくて湿ってる感じがする。それからなんとなく臭い。建物が多くて風の通り道が少ないせいで、こんなに空気が淀んでるんだろうか。
 不意に牧が手首を掴んできた。
「っ……!?」
「はぐれそうだ」
「……なんだろうね。なんか、すげー歩きにくくて」
 牧の言うことを否定しきれなかったから、オレはそのまま手を引かれて歩いた。安心したみたいに感じたのは、つまり何かしら不安だったんだろう。何に対してかはよくわかんないけど。
 周りの景色も目に入ってるようで入ってなくて、建物や店よりは人が気になってた。大きい通りにいたような客引きとかは全然いなくて、代わりに職質されてる人がいた。あと黒い車、パトカー、消防車、救急車……勝手なイメージだけど、夜の新宿って感じだ。
 そのうち牧が足を止めた建物を、オレは凝視した。そういえば、どこに行くとか全然聞いてなかったんだ。
「えーと……ホテル?」
 ビジネスホテルじゃなくてラブホだと思う、これは。ていうかこの界隈きっと全部そうだ。
「この辺使ったことないから詳しくないんだ。どっかいいところ知ってるか?」
「えっ? いや、えっ?」
 オレは混乱した。そして理解した。牧はオレをからかってるんだ。もしくは天然。部屋に入ったらきっとなんてことなく、近況報告とか昔話とかがはじまるんだろう。
「ううん、ここで大丈夫」
 それにざわざわ騒がしい食べ物屋とかよりホテルの部屋の中の方が静かで話しやすいと思う。なんか妙に疲れてるしゆっくりしたい。
 中に入ると、牧は暗転ばっかりのパネルの中から点灯しているところを押した。部屋を選んだみたいだ。暗くなってるのが使用中ってことは、結構埋まってる。
 ラブホ来たのって実は初めてだ。いくらオレの顔が良くたって、高校の時ってとてもそれどころじゃなかったし。ていうか高校生ってラブホ入れるんだっけ?
 エレベーターに乗って、牧の後について入った部屋は我慢できないほどじゃないけど少しタバコ臭かった。あと狭い感じがした。
「狭いな……」
 牧も同じに思ったみたいでボヤいてる。けどさすがにベッドは大きくて、オレは吸い込まれるようにそこにダイブした。
 ──ばたっ!
「痛って……」
 ベッドのマット? が硬くて、イメージしたみたいに体が弾まなかった。
「なんかすごい音がしたぞ。……こういう感じなんだな、安いホテルって」
 牧は辺りを見回して、シクったな〜みたいな感じに頭を掻いてる。なんか珍しい仕草だなって思ったけど、オレは言うほどこいつのこと知らないんだった。大学生にしてどっかの会社の役職についてるらしいセレブだから、きっと日頃はお高いホテルを使うんだろう。
 牧はまあしょうがないな、とかボヤきながらジャケットをハンガーに掛けてネクタイを外してる。オレも上着を脱いでソファの方に放った。
「は〜〜」
 思ったより硬いベッドだったけど、そういうもんって思えばそこまで不満はなくて、オレはうつ伏せになって、両腕を横に伸ばしてくつろいだ。いやほんと、バスケの練習の方がずっと運動量あるんだけどな。自由に動き回れないのが却って疲れるのかもしれない。
 軋む音がして、ベッドのマットが沈んで体がぶれる。咄嗟に顔を上げて振り返ると、背中から伸し掛られて、思い切り顎を捕まえられて口を塞がれていた。
「んーっ!?」
 重い! 苦しい! それにキスされて──この状況、牧はオレとヤる気だ!? まじでそういう気でラブホだったんだ!?
 そう悟ったところで、もがくばかりでどうにもできない。体勢も悪いだろうし、相手が牧じゃあ力で敵わないのはよく知ってる。
 牧はオレの口を食べるみたいに、がっつくみたいにキスをして、容赦なく口の中に舌を突っ込んで掻き回したり、オレの舌を吸ったりしてくる。
 ぞわぞわする。いやだ。怖い。なんで。牧がオレの全然知らないものに変わってしまったみたいで、なぜだか涙が出そうになった。
「ん、んぅっ…!」
 牧の手はオレの腹、脇腹、と下りていって、尻を撫でたり掴んだりしだした。あのおっさんのこと窘めてながら、お前だってそういうつもりだったんじゃないか。
「っ…!!」
 その手つきがものすごくやらしくて、いや、たぶん尻なんて揉まれたら誰だって感じるだろう。体は反応して危ない感じになってきてるし、ズボン越しだけど尻の割れ目に硬いモノがぐいぐいと擦り付けられてる。ズボン履いてなかったらもう突っ込まれてるんじゃないだろうか。
「んんーッ!!」
 火事場の馬鹿力っていうのか、本気でヤバイって思ったらキスから顔を背けることができて、オレは声を絞り出した。
「牧ッ! やめろっ!」
「照れてるのか?」
 顔なんて見えなかったけど、牧は甘い声で言って、オレをぎゅうと抱き締めてきた。すごい力だ。あと牧の体温が熱い。興奮してるからってことなんだろうか。
「照れてないっ! 嫌なんだ、放してくれ……!」
「……そうか! すまん」
 牧は意外なほど素直に、跳ねるようにオレの上を退いた。
「シャワーを浴びてくる」
 そして風呂場と思しきほうへ行ってしまった。
「……」
 どうも、シャワーを浴びてないから嫌だっていう風にとったみたいだ。違う、そうじゃない。オレは呆然とした。
 なんで牧がオレを押し倒すんだ。何考えてるんだあいつ。
「……いや……」
 ちょっと落ち着いてきたら、むしろ牧の行動は当たり前のような気がしてきた。お持ち帰りしてきた子がラブホのベッドで寝てたら、多分普通は襲うよな。男同士ってことに関しては、事前にソッチ系の店で会ってて、オレは拒否権がありながらOKして付いてきたわけで……。
 うん。そりゃヤるだろう。
 天然はオレのほうだった。自分のやらかした行動に、壁に思い切り頭を打ち付けたくなった。それには嫌な思い出があるから絶対しないけど。
 疲れてるのかな。いや、牧を信用してた結果だ。仕事関係の付き合いだっていうから、結局あいつもホモだなんて思わなかったんだ。
 どうが正しいにしたってオレは牧とヤる気なんてなかったから、上着を羽織りカバンを背負っていそいそと部屋の出口に向かった。
 ドアのレバーを掴んでガチャガチャやるけど開かない。押しても引いても開かない。鍵が掛かってる? 閉じ込められ……?
「何してるんだ、藤真」
「ひっ!?」
 後ろから牧の声がして、オレはショック死するんじゃないかってくらいびびってしまった。
「すまん、驚かせたか」
 そんなの謝らなくていいから! 見た目にわかるくらいびびってたのかと思うと恥ずかしくて、あとバスローブ姿の牧の腰に思い切り盛り上がってるものが目に入ってしまって、一旦振り返ったオレは慌ててドアの方を向き直した。
「タバコくさいの苦手で、ちょっと、外でたくて」
 こじつけだった。確かに匂いはあるけど我慢できないほどじゃないし、オレはちょっと前までベッドに寝そべってくつろいでたんだ。それにこの格好、思い切りカバン背負って『ちょっと外でたくて』もないだろうとは思ってる。
「そうか……」
 牧は頭を掻いたのか、横目だからよくわかんないけど、多分参ってるような考えてるようなアクションをして、オレをその場に置いて部屋に戻ってしまった。
「……」
 さすがにオレがヤる気ないのに気付いたろうし、帰りたきゃ帰れって意味なのかな。それにしてもドアが開かないんだが。もしかして決まった時間になるまで開かないんだろうか。往生際悪くドアをガチャガチャやってたけど、ずっと玄関に座り込んで待ってるのもなんか、って思って部屋に戻ることにした。
 怖さも気まずさもあるけど、牧は無理矢理ヤる気はないみたいだから多分大丈夫。それどころかオレが帰ろうとしても怒りもしなかった。
 牧はソファに座って、冷蔵庫に入ってたのか缶ビールを飲みながら項垂れてる。まあそりゃ凹むよな。だってオレが同意してラブホについてきたと思ってて、ヤる気満々でシャワー浴びたんだもん。
 オレは行き場に困って、またベッドに戻った。ソファじゃ牧の隣になるし、もうヤる気ないの知ってるんだから、ベッドに座ったくらいで襲ってはこないだろう。
「牧。なんか、ごめん……」
 オレも悪かったと思ってるよ。迂闊だった。牧のことを天然だと思ってたら、いつの間にか自分が天然になってた。なんでかっていうと
「お前がオレとヤりたいだなんて思いもしなかった」
 そう口に出して言うと、やっぱりおかしいのは牧のほうのような気がしてきた。どうしてそんな気になったんだ。
「藤真、ラブホテルがどういう場所か知ってるか?」
「そりゃ知ってるけど」
「知ってて部屋まで来た」
「う、うん、だからごめんって。冗談かと思ったんだよ。お前にそういうケがあるなんて思わなかったし。……ていうかそうだよ! なんなんだよお前は!」
 オレが悪かったって思うのと、いや牧がおかしいんだろって思うのが交互に沸いてきて忙しい。牧は力のない目でこっちを見てるけど、脱力してるのはこっちだ。
「お前、オレのことをそういう目で見てたんだな」
 高校の時、一年にして強豪校のレギュラーを勝ち取ったオレへの嫉妬はすごいもんだった。プレイのことでは難癖つけにくいから外見のほうにいって、女みたいな顔とか、男に体売ってるの見たとか、そういう系のやつ。すぐ慣れたっていうか、くだらねーって思うくらいでガチで悩むまでじゃなかったんだけど、鬱陶しくて不快感はあって。
 でも牧は絶対そんなこと言わなかった。まあ、牧にはオレを言葉で下げる必要なんて全くないからってのもあったろうけど。
 だけど、つまり悪口じゃなくて本気でそういう風に見てたってことなんだろうか。それってすげーショックで、なんだか、悲しくなってくる。
「オレとヤりたいとか、思ってたんだ……」
 お前は完璧なオレのライバルだったはずなのに。オレがイビられてちょっと凹んでたとき、さりげなく気を遣ってくれたりしたの、いいやつだって思ってたのに、そういうの全部下心だったのかって思えてくる。オレの美しい青春を返してくれ。悲しくて、悔しくて、言葉の最後が弱くなる。
「そんなに嫌か?」
「……は?」
「ああいう店で働いて、おっさんどもに身体を売るのは平気なのに、俺とは」
 ──バチンッ!!
 オレは牧のところに大股で歩いて牧の頬をひっぱたいていた。左手だ。利き手でだ。
 視界が歪んで頰に熱いものが伝った。あんまり馴染みのある感触じゃないけどすぐやばいって思って、オレは玄関に走って部屋のドアをガチャガチャやった。やっぱり開かない。
「藤真!」
「なん…で……」
 いろんなものに対する「なんで」だった。あんまり情けなくて、その場に膝をついて崩れ落ちてしまった。
 オレはあんまり泣かない方だと思う。人と比べたことなんてないけど、欠伸とかしょうがないやつ以外で泣いた記憶は高校のバスケ部のお別れ会と、三年のインターハイが強く記憶に残ってるくらいだ。それをこんなところで、こんなしょうもないことで上書きされるなんて無性に腹が立って、それで余計に涙が出てくるような気がした。そもそもオレはなんで泣いてるんだろう。何がこんなに悲しいのか、悔しいのか。
「そのドアなら精算しないと開かない」
 牧が後ろでなんか言ってる。知らねーよそんなこと。ていうか
「ラブホのシステムも知らないオレがカラダを売ってるわけないだろう!!!」
 なんてかっこわるいキレ方なんだろう、しかも半分涙声で。
「売ってないのか……?」
「売ってねえよ」
 こんなの、昔よく言われたクソしょうもねー悪口で、どうってことなかったはずなのに、なんでこんなに胸が痛くて涙が出るのか、意味がわかんなかった。
「そうなのか、よかった……」
 オレはこんなに惨めな気持ちなのに、牧は安心したみたいな感じでそんなこと言ってる。むかつくやつ。オレはドアの下に座り込んだまま、ドアを見つめたまんまで言った。
「お前もあいつらと同じだったんだな」
「あいつらとは?」
「オレが枕だとか体売ってるとか、くだらねー話で盛り上がってたやつら」
「高校の時の話なら、ただの中傷だとしか思ってなかった。見た目がいいのも苦労があるんだなって思ってたくらいだ。今日のことなら、あの店で会ったことが全てだ」
「……オレは大学の友達の穴埋めで、今日初めて入ったんだって、聞いてない? それにあの店は性的なサービスはしてない」
 アフターデートはあるけど。
「ヘルプだとは聞いた。だがあの店じゃない別のところで、似たような……もっと過激なことをしてるんだろうと思った。同行者に煽られたのもあるし、高校時代聞いたことの影響もあるだろうな。でも、そうじゃないんなら良かった」
 何言ってんだこいつ。声には出さなかったけど、もうそんな気持ちしか湧かない。急にいいやつぶったって無駄だ。オレの中でお前の株は大暴落したんだ。
「よかったんだ? ラブホまで連れ込んだあげくヤれなかったのに」
「ああ。……安心した」
「オレが誰とヤってたって、お前に関係ねーじゃん」
「……まあ、実際お前が好んでそういうことしてるなら、俺には何も言えることじゃないんだろうな」
「そうだよ。オレたちって、勝手に周りからセット扱いされてただけのただの知り合いなんだよ」
「そうか……友達まではなってなかったか」
「……そうだよ」
 なんかヘンな感じ。牧が消沈してるみたいな調子だから、オレが悪者みたいじゃねーか。
「高校のうちにもっと……友達になりたかったな」
 なに恥ずかしいこと言い出してんだ。こっちのほうが恥ずかしくて顔が熱くなってくる。よくわかんない。しんどい。胸の辺りがモヤモヤする。オレはうなだれて、ドアにこつんと頭をぶつけた。
「友達はセックスしないよ」
「……そうだな」
「早くドアを開けてくれ」
「ああ。着替えてくるからちょっと待ってくれ」
 ずっとドア見てたから忘れてたけど、そういや牧ってバスローブのままか。オレとヤりたいばっかりに。いや、まだ解決してないぞ。
「売ってると思ったからって、買いたいと思うのが理解できない。結局お前は高校の時からオレのこと」
「言っただろう。高校の時は友達だと思ってた。誰が何を言ってたって、そういう対象として意識したことなんてなかった。だが、あの店でお前を見て」
 ちょっといかがわしい風な店にいたからって、そんな突然そうなるもんなんだろうか。
「いや……違うな。大学入ってから、高校の時みたいにお前の名前を聞かなくなってた。なんか物足りないように感じるのはそれなんだろうなって、お前のこと思いだしたりしてた」
 オレもそう。全然名前が聞こえなくなって、でも牧の存在は消えなかった。
「昔のこととか、今はどうしてるんだろうとか。もちろん、大学のこともバスケやってることも知ってるが、そういうことじゃなくて……会いたいと思ってた」
「ううん……」
 なんとも言えない呻きみたいな返事をしてしまったのは、実際オレの頭の中がそんなだからだ。ショックだ、見損なったって思ったのに、オレのこと思い出してて会いたかったって言われたらなんだか嬉しくて、やっぱり嫌いになれないっても思ってる。大して仲良かったわけでもないのにな。
「それで今日だ。場所柄とか、バイトの衣装とか、連れに言われたこととか、まあいろんな要素のせいで、お前が金と引き換えにいかがわしいことをさせてるって思い込んでしまった。ショックだった。大事なものを汚されたみたいな、喪失感っていうか、茫然っていうか……だが、興奮もした。それでお前のこと好きだって自覚したんだ」
「!?!???」
 オレはその場でフリーズしてた。牧の言葉が続かないから後ろを見たら、そこにはもう誰もいなかった。部屋に戻って着替えてるんだろう。
 なんだかすげー複雑な気分だ。言ってることは理解できなくはない。あのセクハラおっさんが変なこと言ったんだろうって想像もつく。ショック受けたとこからヤる気になったのだって、あいつはメンタルも強いしなって妙な納得感がある。でもさらっと好きだなんて言われて、オレは一体、どういう反応したらいいんだろう……。
 少し待ってるとしっかりとスーツを着込んだ牧が戻ってきて、精算機に金を入れてる。
「……ネクタイは?」
「持ってる」
 思いのほか普通の会話をして、オレはようやくラブホの部屋から脱出した。ドアを閉めながら、牧は戸惑うみたいに、ちょっと不思議そうにオレを見た。
「なに?」
「逃げないのかと思って」
「別にもう何も起こらないだろ?」
 ラブホの密室の中で、バスローブ姿になってすら何もしてこなかったやつに、路上で犯される想像をするほどオレの頭はめちゃくちゃじゃない。なんだかんだ思ったけど、結局、牧はいいやつのままだった。
「嫌じゃないのか。一緒に居て」
「別に。あんまりめんどくさいこと言ってると嫌になるかもしれないけど」
 牧はコートの上で帝王とか呼ばれてた感じとは違って、素の時は穏やかで、ちょっとずれてるけど案外普通だったって印象がある。多分、今もごく普通の発想として、オレに嫌がられてるんじゃないかって心配してるんだろう。そりゃそうだよな、押し倒したし告白までしたんだ。
 こ、告白……? だめだ、頭が働かない。

 部屋にそんなに長居はしなかったはずだけど、ラストオーダーで店を出たんで時間はそれなりだった。相変わらず外はオレみたいな物知らないガキには嫌な雰囲気で、オレは牧とはぐれないようにくっついて歩いた。来た時みたいに牧から手首を掴んでこないのは、そりゃヤる気満々だったときと拒否られた後との違いだよな。オレは自分から牧の袖を掴んだ。牧は驚いた様子でオレを見る。
「歩きにくくて、はぐれそうだから」
 本当のことだ。もうこいつ相手に恥ずかしいとかどうだっていいんだ、長いものには巻かれる。ちょっと違うかもしれないけど。
 新宿駅が近付いたら祭りでもやってんのかよってくらい一気に人が増えて、それはそれではぐれそうだったからオレは相変わらず牧の袖を掴んで歩いてた。酔っ払いが多くて誰も他人のことなんて見てやしないし、オレもそんなに周りのこと気にしてられないような、すごく落ち着かない気分だった。
 人の渋滞の中、改札に向かって進んでるうち不意に気付いた。その気がないくせに牧にデート代とホテル代払わせたのって完全に詐欺じゃんか。バイト代が入ったら返さなきゃ。周りはいろんな音がしててうるさいんで、オレは牧の腕を引っ張って背伸びして、耳元に言った。
「牧、連絡先教えて」
「えっ!? あ、ああ」
 牧はすげー驚いた様子で、オレの手を引いて端の方に寄ってった。人波の中、通り道のど真ん中に立ち止まってられないからな。オレも納得して従った。
 牧はオレを壁際に寄せて、自分は人が歩く側に立った。近いなって思うくらいだから、そんなに通行の邪魔にはなってないはずだけど、それでも牧の背中にはときどき人がぶつかっていって、なんだかこえーなってオレはちょっと引いてしまった。
 牧はスーツの内ポケットから取り出した手帳に電話番号を書くと、そのページを破って折り畳み、オレの手に持たせて──そのまま手を握ってキスをしてきた。
「っ……!!?」
 ラブホでされたみたいじゃない、唇を重ねるだけのキスだった。オレは唖然として牧を見た。驚きすぎて感情はあんまり付いて来てなかった。
「お前、なに、こんな人が多いところで……」
「誰も見てない。見てたとしても気に留めない」
「ああ……?」
 そうかもしれない。ただの駅の構内にこんなにもたくさんの人間がいて、ただただ足早に流れて行く。さっき牧にぶつかっていったやつだって障害物に掠ったくらいにしか思ってないだろうし、オレがいかがわしいバイトをしようが、牧が会社の役員だろうが、そんなのはこの場所にいる殆どの人間にはどうでもいいことで、ただ自分たちの目的地を目指すだけだ。
 オレはオレの世界の中心人物だけど、それと同時にこの人混みの中の一員でしかないんだって、なんだか唐突に気付いてしまった。それは牧も同じことで、オレたちはもう、周りから双璧とか言われてた〝特別な二人〟じゃないんだ。
「それじゃあ、また」
「あ、うん、また……」
 牧の姿が遠ざかる。群衆の一部になって雑踏に紛れて消える。オレも同じように、人の流れに乗って改札を通って帰路へのホームを目指した。
 何かぽっかり穴の空いたような気持ちと、どっか引き攣れてるみたいな感じがしながら、手の中のメモを失くさないように上着の内ポケットにしまった。

Twitter