2.
ひと月後。
牧の部屋を訪れた藤真は、長方形の包みを差し出されていた。清楚な白いリボンが印象的だ。
「気に入ってもらえるといいんだが……」
期待と不安の入り混じった、幼いとも感じられる表情は、コートの上の牧からはあまり想像されないものだった。〝特別〟を向けられている実感に、藤真は満足げに微笑を作る。
(やっぱ牧っておもしろ)
ホワイトデーのお返しが気に入れば卑猥な写真を撮らせてやると、先月約束したことはもちろん覚えている。しかしそのために牧がはりきっているのかと思うと、馬鹿にするつもりではないのだが、どうにも笑えてしまう。
「サンキュ。開けていい?」
「ああ、もちろんだ」
ダイニングテーブルの上に包みを置くと、ポラロイドカメラが視界に入ったが、あえて無視してリボンと包装紙を取り去った。中から現れた、フランス語らしき外国語の書かれた箱は、質感といいデザインといい、シンプルながらそこはかとなく上品で洒落た雰囲気だ。
(なんとなく、お高そうな……)
蓋と薄紙を開くと、中には個包装された綺麗なパステルカラーが並んでいた。ピンク、薄紫、黄色、黄緑、茶色、とりどりだ。
(石鹸? じゃねえか、さすがに)
よく見ると、二つの円形の生地の間にクリームのようなものが挟まっている。
(カラフルなモナカ的な?)
「ホワイトデーのお返しって、意味が設定されてるだろう。マカロンは『特別に大切な人へ』だそうだ」
「マカロン」
聞いたことはあるような気がしたが、マカロニやマロニーと頭の中で混ざっているだけかもしれない。とりあえず藤真には馴染みのないものだった。
「またえらいオシャレなもんを……」
「嫌いだったか?」
藤真は大袈裟なくらいに首を横に振った。好き嫌いという話ではない。記憶のうちではおそらく食べたことがないのだ。
(上流階級のお菓子かな……なんとなくネーミングもそんな感じするし)
「食っていい?」
「ああ、もちろん」
見た目からチョコ味が想像できる茶色を食べてみることにする。小さなリボンのついた個装からマカロンを取り出して、ひとくち齧った。サクッと軽い外側の歯触りから、次にしっとり、もっちりとした予想外の感触が訪れる。新食感だった。同時に、アーモンドの風味とチョコレートの深い甘みが口腔内に広がる。藤真は目を瞠った。
「なにこれうまっ!」
綺麗ではあるが、パステルカラーが作りもののように見えてしまい、正直なところあまり美味しそうには見えなかったのだ。
「チョコ味のマカロンだな」
「うまい」
石鹸などと思ってしまったことを心の中で反省しながら、素材の味を意識しつつ咀嚼する。味への細かいこだわりはないほうだと思っているが、うまいものはうまい。
「気に入ったならよかった。……食ってるとこ撮ってもいいか?」
「おう。んじゃもう一個持っとくか」
藤真はピンク色のマカロンを取り出す。牧がポラロイドカメラを向けると、食べかけのチョコ味を口もとに、もう一つを頬の横に持っていき、愛らしく上目気味のカメラ目線を決めた。
「ッ……!」
あまりに完璧にフレームに収まったその姿に、牧は衝撃的な気分でシャッターを押した。じき、ジーと音を立てながら、カメラの前面下部からゆっくりと写真が排出される。
「おー、出た出た」
藤真は仕上がりを待ちきれない様子で、徐々に鮮明になる印画面を凝視している。
「……藤真お前、えらい写真慣れしてるんだな」
「え、なんで? 知らなかった?」
確かに先月貰ったポラロイド写真も粒揃いだったが、カメラ越しに一瞬で被写体モードになるさまを目の当たりにして感心してしまった。
「いや、なんだろうな……たまに雑誌に載ってる写真と違うっつうか」
「バスケ雑誌で愛想振り撒くなんて、ただの勘違い野郎じゃん」
「そういうもんか……」
プロとかアイドルとかいう言葉が頭に浮かんだが、怒られそうなので口には出さなかった。藤真はチョコ味のマカロンを齧りながら、牧の前に箱を押し出す。
「なあこれめちゃうまいぜ。お前も食えよ」
「お前へのお返しじゃないか、俺はいい」
「遠慮すんなって」
「それじゃあ少し貰うか」
牧は立ち上がり藤真の前で身を屈めると、ちゅっと音を立てて唇を吸った。
「むっ……!」
「ああ、うまいな」
そう言ってにやりと笑う。
(イタリア人かよ)
イタリア人の知り合いがいるわけではない。単なるイメージだ。
「……なあ、これって流行ってるのか?」
「どうだろうな。特に流行りって話は聞かないが」
「じゃあきっとそのうち流行るな。流行先取りだ」
今度はピンクのマカロンを齧る。駄菓子によくあるような香料の味ではなく、しっかりと苺の味がした。
「牧って、女子にモテそうだよな」
「なんだ、いきなり」
「いや、なんとなく」
そうは言ったが、なんとなくでもなかった。藤真はパステルカラーに浮かれる趣味ではないものの、プレゼントとして牧が考えて選んだものであろうことはわかる。気遣いを感じれば嬉しいものだし、かわいいものが好きな女子などはもっと素直に喜ぶだろうと想像できた。
「藤真みたいにキャーキャー騒がれたことはないぞ」
「ああ、そういうんじゃなくて……」
モテるという言葉は少し違ったかもしれない。その後のケアというのだろうか。甲斐性というものかもしれない。
「相手のこと考えてるって感じがする」
牧は不思議そうに目を瞬く。
「つまり、お返しを気に入ってくれたってことか?」
「え? ああ、うん、そうだな」
「そうか、それならよかった……!!」
牧が本当に嬉しそうに笑ったので、藤真も釣られて笑ってしまった。感心したせいで遠回しな言いかたになってしまったが、マカロンは文句なく美味しかったし、そして一つ賢くもなった。家に持ち帰ったら姉や母親に見せびらかしたいくらいだったが、今日はバレンタインデーではなくホワイトデーだ、やめておいたほうがいいかもしれない。
「じゃあ約束の……」
「エロ写真だろ、いいぜ」
「よし、ちょっと待っててくれ」
太腿の横に下げられた牧の拳が密かにガッツポーズをしたことに、藤真は気づいてほくそ笑む。一旦部屋に引っ込んで、白いシャツを持って戻ってきた牧を、ダイニングテーブルの椅子に掛けたまま、にやにやと見上げた。
「なんだ?」
「いや、残念な男だなーと思って」
「なんだと!?」
「だって、(バスケができて、金持ってて、性格よくて、女にも気を遣えそうな感じなのに)ホモだなんて」
「俺はお前が好きなだけでホモのつもりはないし、ホモだとしたって別に残念ではないだろう」
「いやぁ、女側からしたら損失じゃね?」
自分で言っておきながら、なぜ女の立場で考えているのかはよくわからなかった。
「そっくりそのまま返す。ともかく、これに着替えてくれ」
渡されたものは、男もののワイシャツ一枚のみだ。
「着替えろっていうか、脱げっていうか?」
意図を察してしまうあたり、染まってきているのかもしれない。そもそもの目的がそういう写真だ、卑猥な設定など望むところである。藤真は上を全て脱ぎ、ワイシャツの袖に素肌の腕を通す。
「これお前の? サイズでかくねえ?」
「俺のだが。袖の長さで合わそうとすると動いたときに窮屈になるんで、少し長いのかもしれないな」
「あー、お前、体厚いもんな」
肩幅も、横から見たときの厚みも安定感もある。牧の姿をじろじろと眺めながら、上背はあるが牧と比べるとずっと細い印象の花形の体躯を思いだしていた。
「これ前は……閉めるんだよな。胸もとはちょい開けて」
「ああ……いいな……」
オーバーサイズのシャツをラフに着て、ズボンを脱いで脚を露わにする。いわゆる〝彼シャツ〟である。牧がすでに少し前のめりなのが面白い。
「パンツは穿いといたほうよさげだな。女ならいけたかもしれねーけど」
シャツは大きいとはいえ、漫画で見かけた彼シャツの女子ほど大袈裟なサイズ感ではない。男性である都合、シャツの裾から体の一部が覗いてしまうのは、セクシーというより笑いの要素のように思えた。
「せっかくだから下着も見てみたんだが、男もんのエロ下着ってなんかアレでな……」
何がせっかくなのかとは思ったが、それより『なんかアレ』のほうが気になってしまった。
「アレって?」
「なんつうか、えぐいというかギャグっぽいというか……」
「ブーメランパンツとか、Tバックとか?」
あまり考えたことはなかったが、とりあえず思いついたものを言ってみる。
「いや、もっとすごかった。メッシュ素材だったり、竿カバーみたいだったり、紐だったり……俺はまだそこまではいけない」
ありありと目に浮かぶ、というわけではなかったが、少し聞いただけでも着用してみたいとは思えなかった。
「おう、いかなくていいと思うぜ……女だったらレースとかになるんだろうけど、男はやりようがねえよな」
「今回のテーマは別に女装じゃないしな」
「なんだよ今回って」
「まあ、気にしないでくれ。……うん、シンプルイズベストだな。まず一枚撮ろう」
牧は藤真の彼シャツ姿をあらためて眺めると深く頷き、カメラを手にして距離を取った。
「一枚って? 立ったまま?」
「ああ、とりあえず全身が一枚ほしい」
「ポーズは?」
「自然体で」
(彼シャツの自然体とか習ってねーわ)
とは思いつつ、それとなく視線を横にそらして物憂げに立ち尽くしてみる。
「おー、いいな、北欧のモデルみたいだ」
(まじかよ)
牧は不慣れな手つきでカメラを構え、シャッターを押す。焦らすかのような間を置いて、出てきた写真を見ると、満足げに頷いた。
「ああ、すごくいい感じだ。じゃあ次、キッチンに向かって立とうか」
「はいよ、カントク」
牧の口調が微妙におじさん化していることには触れず、藤真は少し移動してキッチンのシンクの前に立った。
「それからこれを持って」
牧が冷蔵庫から取り出して渡してきたものは、ナスとキュウリだった。仕様もない意図が透けすぎていて、藤真は呆れた笑いを浮かべながら、それを二本並べて調理台の上に置く。
「包丁でちょん切ればいい?」
「恐ろしいことを言うんじゃない。こう、今日はどっちかなみたいな、悩ましげな感じで……」
牧は手指で何かを握るような、扱くような動作をする。
「くっだらねぇ〜。お前、そういうのが好きなんだ?」
「定番じゃないか? それに、想像が膨らむシチュエーションは好きだ」
「想像ねえ」
そもそも、彼シャツ一枚でナスとキュウリを持ってキッチン台に向かうというのはどういうシチュエーションなのか。牧の想像力には、この状況の不自然さが気にならないのだろうか。
「想像……」
藤真はナスとキュウリを片手ずつに握り、眉を顰める。
「これ、紫と緑なの狙った?」
「ん? いや、そういうつもりじゃなかったが、言われてみればそうだな」
紫のナスと緑のキュウリ。色味はだいぶ濃いが、海南と翔陽のイメージカラーだ。手の中に握り込んだものを、藤真は目を据わらせて凝視する。
「つまりこれは……牧VS花形……」
「なにがVSなんだ!? お前、まさか花形とそういう!」
「はあ? 気持ち悪りぃこと言うなよ」
少し前ならば牧に対しても同じ反応だっただろうが、あまり考えないことにしておく。
「でも実際花形のは長いぜ」
「見たことあるのか?」
「こっちだって泊まり合宿とかあるからな。初めてのとき、思わず三度見した」
「……」
つまり、翔陽の部員たちはみな藤真と寝泊まりして、おそらく一緒に風呂に入ったこともある。これまで考えもしなかった。彼らは藤真を崇拝している。きっと裸も寝起きの顔も、役得とばかりに目に焼きつけていただろう。自分の知らないところでそんなことが起こっていたとは──想像したら悲しくなってきた。
「キュウリはやめよう。ナスだな、藤真、お前にはナスが似合う」
「ナス似合うって、褒めてなくねえ?」
「ほら、写真撮るぞ。ナス握って」
「へーい」
やる気がなさそうに返事をしたものの、モデルを務めるのは約束だ。両手で握ったナスの先端を口のそばまで持っていき、熱を込めて見つめる。
「そう! いい!」
(やっぱり残念なやつ……)
握った手からナスを長く飛び出させてみたり、頬に寄せてカメラに視線を遣ったり、唇を沿わせてみたり。牧が満足するまで〝藤真とナス〟の撮影会は続いた。
「よぉーし、よし、いい画が撮れた。じゃあ次はベッドに行こうか!」
大して広い部屋でもなかろうに、大袈裟な手振りで移動を促す牧に笑ってしまいながら、藤真は素直にベッドの前に歩く。