幻日

2.

「海に行きたい」
 来たる八月十五日、盆休みの只中の藤真の誕生日は、運よく二人とも丸一日時間を使える日だった。どうして過ごそうかという話し合いのうち、藤真の口から出た言葉に、牧は意外だと言わんばかりに目を瞬く。
「海とか、あんまり興味ないのかと思ってたな」
「そんなこと言ったっけ? なんかさ、誕生日っぽさは別にいいから、夏休みっぽいことしたいなって。でも牧には特別感ないよな」
 じゃあ却下かなと再び頬杖をついた藤真に、牧は首を横に振った。
「いいんじゃないか? 俺もここしばらくは行けてないし、ボード無しならなおさらだ」
「そうか! じゃあ決まりだな。持ち物リストを作ろうぜ」
 輝くような笑みを浮かべた藤真に、釣られて牧も笑顔になる。考えてみれば、去年の藤真は夏休みを楽しむような気分ではなかったかもしれない。今更掘り返す気もしなかったが、それを思えば『夏休みっぽいこと』というリクエストももっともに思えた。
「……なにが必要なのかよくわかんねーからお前が作れよ」
 早々に音を上げて紙とペンを押し付けてきた恋人が心底可愛らしい、穏やかな夏の日だ。

 気の遠くなるようなひたすらの青に、細く掠れた雲が塗り残しのように白く残っている。八月の陽射しも陸の上で浴びるほど暴力的ではなかったが、体を包む黄色に反射して、目が痛いほどに世界が明るく見えた。
 水の音は穏やかで、潮のにおいに微かに甘い香りが混ざっている。濡れた体に太陽の暖かさと揺れが心地よく、藤真は長い睫毛に烟る瞳を細めた。
 大人一人が寝られる程度のマット型の黄色いフロートの上に寝そべって、藤真は海に浮かんでいた。自称・保護者枠として傍らに牧がついている。牧が立って肩が少し水面に出る程度の場所で、浜にはいくらでも見える家族連れやカップルは付近にはいない。
 淡い髪の輪郭と睫毛の先が日影に金色に透けている。花の上の蝶が羽根を動かすような、ゆっくりとしたまばたきの動作を──その横顔を、いつまででも眺めていられる気がしながらも、牧は声を発した。
「眠いのか?」
 ぱち、ぱち、瞬きのリズムが明確に変わり、色素の薄い瞳がこちらを向いた。
 もう随分と見慣れた容姿のはずだが、些細な動作の一つ一つに密かにどきりとしてしまうのが我がことながら滑稽だった。今日は全てが輝いている。
「ううん? ……気持ちよくて。牧はそうしてて飽きないか?」
 牧のほうに顔を向けると、逆光のせいでいつもより黒く見える相手から、ココナッツの甘い香りが漂ってくる。彼の体に塗ったサンオイルのもので、「サーファーのにおいだ!」と言って浜でひとしきりはしゃいだものだった。
「全然飽きないな」
 藤真はふと、海に入る前に話していたことを思い出す。
「実際、保護者には見えないよな? いくらなんでも」
 初対面に近いときこそインパクトはあったが、もうすっかり見慣れてしまって、牧が客観的に何歳程度に見えるものなのかいまいちわからなかった。ただ、自分と比べれば随分年上に見えるであろうことは想像できる。
「仮にお前を十六として、俺が三十四なら無くもないんじゃないか?」
 十八歳になった当日には無粋な仮定だが、牧ばかりでなく藤真もまた年齢不詳だった。中性的な顔立ちは幼いと見られることもあったし、着るものによっては性別も間違われるくらいで、それでいて一般的には長身の部類であるため、やはり不詳とするのがしっくりくるように牧には思えた。
「あー、意外とあるな。チャラくて若い感じの三十四な。でも年の差があったって親子には見えないだろ。色とか違うし」
「だからまあ、保護者だな」
 言ってから、無性に不安になってきた。
「俺、悪いやつに見えてないだろうか」
「なんだよそれ」
 藤真は呑気に笑ったが、牧は至って神妙な面持ちだ。
「いや、割と恐がられることがあるから、お前なんて連れてたら」
「なに? 買春とか?」
「!!!」
「大丈夫だろ、昼間に堂々と海に遊びに来てんだから」
 実情は知らないものの、藤真のイメージするその関係は夜に人目を憚って食事やホテルに行くようなものだったから、ごく軽い調子で言った。
 しかし牧は非常にショックを受けていた。自分たちがどう見えるかという話ではない。藤真の意思にかかわらず、彼にならば金を出したい人間などいくらでもいるだろう。気づいてしまうと、とても落ち着いてはいられなかった。
「なんなんだよ、急にめちゃくちゃ心配そうな顔して。そんなん気にしてたら二人でどこも行けないだろ」
 牧は鬼気迫る表情で藤真を見据える。藤真は仰向けの体勢から、思わず肘をついて上体を起こしかけた。
「藤真は俺のだ」
 牧は言い放つと、身を乗り出して藤真を抱き締める。体がぐらりと後ろに傾いた。
「うおいっ!?」
 ──バシャン!
 鋭い水音とともに、塞がった耳元がごぼごぼ音を立てる。薄ら青い視界の中で、藤真は咄嗟に腕をばたつかせて水面に浮上し、ぶはっと思い切り息を吐いた。
「お前っ! いきなりなにすんだ!」
「すまん、落ちるとは思わなかった」
「はあ!? 普通落ちるだろ!」
「いや……」
 牧の様子を見るに、どうも本当に落とす気ではなかったようだ。少し考えてみると、なんとも面白くない想像に辿り着く。
「サーファーだったらあのくらいバランス取って耐えれるって?」
「いや……どうなんだろうな。こういうものは俺も扱い慣れてないんだ」
 牧は決まり悪そうにフロートマットを示した。
「まあ、海に来てるんだから水に落ちたっていいじゃないか」
「そうなんだけどさ。……てか、オレって牧のだったのか?」
「駄目か?」
 藤真を多情だと思うわけではない。しかし基本的に人目を引いて好意を抱かれやすい容姿をしているのだから、心配するくらいは許してほしいと思う。
「オレはオレのだ」
 牧が唐突にそれを言い出した理由は藤真にはよくわからなかったが、とりあえず権利は主張しておく。
「そうか、それはそうだな。じゃあ二番目を俺にしてくれ」
「えー。オレ今家族に養われてる身だし」
「じゃあお父さんとお母さんとお姉さんの次でいいぞ。他に家族はいないか?」
 藤真は牧の顔をじっと見つめて瞳を光らせた。
「お前、きっと疲れてるから変なこと言い出すんだ。今度はお前がこれに乗れよ」
 言いながらフロートを押し付けてくる。嫌な予感がするが、従うしかないだろう。
 黄色いフロートの上に仰向けになり、不安げな瞳を向けてくる牧に、藤真は満足げに笑う。
「やっぱ色黒いほうが海似合うよなー。ちょうどエロい感じにテカってるし」
「オイルのせいだろう」
 そうしてにこにことして牧を眺めていたかと思えば
「えいっ!」
 ──バシャーン!
 フロートの片側を下から思い切り押し上げて転覆させ、牧を海に投げ出した。
「ゲホッ!」
 想像できていた展開ではあったが、ちょうど話そうとしたところだったので、口に水が入ってしまった。藤真はこちらに目もくれず、フロートもそこに置き去りのまま、沖のほうへ泳いで行ってしまう。
「……ふ」
 一人取り残されて、なぜだか笑ってしまった。こうして子供のように戯れること自体も楽しいのかもしれなかったが、おそらく相手が藤真だからだ。

 悠々と泳ぎながら後ろを振り返ると、黄色のフロートが凄まじい速さでこちらに近づいてくる。実際には、それを牽引しながら泳ぐ牧だ。
「えっ……」
 戸惑いながらしばし泳いだが、すぐに追いつかれてしまった。
「それ持って追いつくのかよ。こわっ」
「あんまり沖のほうに行くんじゃない。帰るのが大変になるぞ」
「はーい」
 もう底に足が付かない深さだ。藤真は体を休めるようにフロートにしがみつく。向こう側にいる牧も同じようにした。長方形のフロートの短辺を挟んで、二人が互い違いに向き合う格好だ。
「この辺、全然人いないな」
 牧の言った通り、ある程度泳げないと戻るのが困難になる場所のせいで、女性や子供がおらず、よってその付き添いもいない。藤真は特別に泳ぎが得意というわけではなかったが、運動神経と体力があるため、人並み以上には泳ぐことができた。
「これ、二人で寝れる大きさがあるとよかったのにな」
 藤真は黄色いフロートを見つめて言った。海の家でレンタルしていたものだが、今使っている一人用の他は随分と大掛かりなサイズのものしか置いていなかったのだ。
「もう借りられちまったのかもしれないな。そんなに数置いてないだろうし。……いや、二人並んで寝るのは無理だが、重なった状態なら乗れるぞ」
 口元にいやらしい笑みを浮かべた牧に、藤真はあからさまに嫌な顔を作る。
「オレ、お前と合体した状態で溺れて救助されるとか、死ぬしかないんだけど」
「公共の海で合体なんてするわけないだろう」
「でも重なって寝たらするだろ、お前は」
「……するだろうな」
 ふふっと声を漏らして楽しそうに笑った牧に目を据わらせて、海中でその下半身へ脚を伸ばして探り、見つけてしまった硬い感触に藤真はますます顔を険しくした。
「お前さあ」
「触らないでくれ。収まるものも収まらなくなる」
「……そうだね」
「そう嫌がるな。カップルでいたら普通なるだろう」
「カップル……まあね」
 外見に年の差があるように見えようが、バスケットのライバル校に所属していようが、男同士だろうが、二人の関係がそうであることは間違いなかった。むしろベッドの上でならば、牧の素直で大袈裟な反応は喜ばしいものなのだが──藤真は首を横に振った。余計なことを考えると、牧のことを言えない状態になってしまいそうだ。
「……これさー、さっきから回ってないか?」
 二人の凭れ掛かっているフロートのことだ。藤真は脚で水を掻いて、彼に対して前方に進もうとする。向かい側にいる牧も同じようにすると、二人の進みたい方向が逆なものだから、フロートの中心を軸にして水の上でぐるりと回転してしまうのだ。
「回ってるな」
 二人して一生懸命脚をばたつかせ、ぐるぐるとその場で回るうち、不意に藤真が吹き出した。
「ふっ……なんだこりゃ」
「新しい海の遊び」
 水の中での運動は想像以上に体力を使うようで、藤真はほどなくして動作をやめてフロートに抱きついた。はあ、と大きく一息吐いて、海と空と太陽と、眩しいのか目を細めている牧とを順に視認していく。
「たのしー。……?」
 自分で呟いた言葉に、藤真は自ら疑問符を付けた。
「どうした?」
「なんかさ、これに掴まって浮いてたくらいで、すげー面白いことがあったわけじゃないと思うんだけど」
 胸がむずむずする。牧も同じ気持ちでいるだろうかと、唐突に不安になって言葉を切った。視線を落とした黄色の上を、褐色の手が這って、白い手指を捕まえる。交互に指を組み合わせてみてもマーブルのように異なる色が並ぶだけで、溶けて混ざり合うことはない。しかし堪らなく愛しい光景だと思った。
「なんとなくたのしいような気がする」
「俺も同じだ」
 牧の言葉を聞くと安堵して、藤真は組んだ手の指で牧の手の甲を撫でた。バスケットボールもセックスもなく、さほどの会話もしていなかったが、退屈とも思わず、まだ日も高いというのに、この時間が過ぎることを惜しいとさえ感じている。理由はわかっていた。
「どうしてだろうね」
 肘をついて凭れながら、藤真が目を細めて笑う。睫毛の先に微かに水滴が付いているのか、笑顔がきらきら光っていた。
「どうしてなんだ?」
 頭の中に、一つの言葉を浮かべながら──藤真の発するものはそれとは違う響きをしているかもしれないが、そこに込められた確かな甘さを想像しながら、牧は問うた。藤真は小さく肩を揺らして笑う。
「耳貸せ」
 向かい合わせの状態で顔を近づけ、唇を重ねたい衝動を抑えて藤真に耳を向ける。藤真は牧の耳に唇を寄せ──かぷりと噛みついた。
「!!」
 予想しなかった感触に、牧は弾かれたように身を引く。顔が熱い。驚いた顔が可笑しいのか、藤真は声を上げて笑っている。
「それならこうだ」
 牧は藤真の二の腕を掴まえて引き寄せ、思い切り身を乗り出して、悪戯する唇を塞いだ。
 夏の海のにおいは、甘いにおいだった。

 夕食は牧の部屋でゆっくりすることに決めていたし、日中からつまみ食いをしていて夜をきっちり食べたい感じでもないと話し合って、寿司とケーキを買って帰った。今日のことを決めるとき、牧はホールの誕生日ケーキにロウソクを立てようと提案したが、四人家族でも余すのに二人では無理だし、カットされたケーキが何種類かあるほうがいいと藤真が却下した。
 ダイニングのテーブルに着くと、牧は改まった調子で言った。
「誕生日おめでとう、藤真」
「ありがと」
 今朝出会い頭にも言われたし、誕生日自体さほど嬉しいとも思わなくなっていたので、大袈裟なように感じられてなんとなく笑ってしまう。
「プレゼントがあるんだ」
「!! いらないって言ったけど」
「聞いてなかった。まあせっかくだし受け取ってくれ」
 平然と言い返すあたり、聞いていて無視したのだろう。牧らしいとは思う。片手に収まるほどの小さな箱をどことなくぞんざいな動作で差し出され、藤真は両の手でそれを受け取った。箱のサイズと形状から中身を想像することは難しくはなく、中を見ないまま家に持ち帰ったら牧はどんな反応をするだろうと一瞬思ったものの、そこは乗ってやることにする。
「開けていい?」
「ああ」
 リボンの付いた包装を解いて小箱を開けると、ビロードに覆われたケースが入っている。それを取り出して更に開くと、シンプルな装飾のシルバーリングが現れた。
「指輪……」
 予想通りではあるが、恋人からの指輪というプレゼントを実際に目の当たりにすると、思った以上に嬉しいような、恥ずかしいような、くすぐったいような──ほとんど顔に出さないまでも、藤真の内心は非常に忙しい状態になっていた。
「前に話してたことあっただろう。女子に寄ってこられるのが面倒なら、相手がいるアピールで指輪をしたらどうだって」
「ああ、言ってたな」
 翔陽は校則が厳しく、貰ったところで指輪は着けられないから意味がない、というような結論に至ったはずだ。
「少し早いが、プレゼントを渡すタイミングとしてはちょうどいいと思ってな」
 牧の言葉で思い出した。高校のうちは着けられないから、卒業が近くなったらと話した記憶がある。藤真は手の甲を上に向けた左手を牧の目の前に突き出し、ケースに入ったままの指輪を右手で返した。牧は不思議そうに目を瞬く。
「はめてくれ。よくあるだろ」
 牧が俯く直前、緩んだ唇を噛んだのが見えた。照れているのだろう。藤真は心底愉快な気分で牧にケースを押し付ける。牧は「ああ、わかってる」などと呟きながらそれを受け取り、リングを取り出した。差し出された左手を掴むと、リングの外周を挟んだ褐色の指が大袈裟に震えてぶれる。
「う……」
 試合の高揚を伴わない純粋な緊張は珍しいもので、多分に牧を戸惑わせた。何を誓ったわけでもない、単なる魔除けの指輪だとは思っているのだが。
「落とすなよ」
 二人きりでいるときには珍しいほどに、牧は大真面目な顔をしている。微笑ましさからつい笑ってしまいそうになるが、ふざける場面でもないだろうと噛み殺した。
「わかってる……」
 しっかりと目を凝らし、慎重に指輪を運ぶと、藤真の白い左手の薬指に、それはスッと綺麗に嵌まった。
「おー、サイズぴったりじゃん」
 藤真は自らのもとに取り戻した左手の甲を満足げに眺め、くるりと翻して牧に向けると、顔の横に掲げてにこりと笑った。芸能人の結婚会見でよく見掛ける仕草だが、さまになってしまうのが恐ろしい。
「寝てる間にちゃんと測ったからな」
「なにそれこわっ! ……そうだ、お前のは?」
「あるぞ」
 牧はポケットを探り、テーブルの下でごそごそやると、藤真の前に左手を翳した。薬指には見覚えのあるデザインのシルバーリングが嵌められている。
「お揃いだな!」
 牧の手の横に自分の手を翳し、藤真は子供のように笑った。
「休み明け、学校にしてこうかな」
「厳しいんじゃなかったのか?」
「うん。だからしない」
 比較的おとなしいと言われる翔陽の校内でも、髪の色や服装、装飾品について指導されている生徒を見掛けることはある。生徒指導の常套句は『高校生らしくしなさい、大人になってからいくらでも好きにしなさい』であって、後半については藤真も同意していたのだが、違反生徒の気持ちも少しわかるような気がしてしまった。
(大人になってからじゃなくて、今したいんだよな)
 とはいえ、藤真の場合は立場が立場なので実際にするわけにはいかない。憂えるように視線を落とし、再び取り戻した左手の薬指のリングに唇を寄せた。
 美しい光景に見入る牧を、淡い色の瞳がちらりと見遣り、唇は愉しげな笑みを形作る。
「試合でさ、シュート決めて指輪にキスするのよくね? もちろん海南戦で」
「残念ながらそれは無理だ。俺が全部止めるからな」
 次に唇は不満げに尖る。
「誕生日だぞ。リップサービスくらいしてみろ」
「ベッドの上でいくらでもしてやる」
 指輪を嵌めることに緊張しきっていた男が平然と言ってのけたことに呆れ、藤真はあからさまに視線を逸らした。
「それは別にいいや……ていうかいい加減食おうぜ」

 翌朝目を覚ますと、隣に寝ているはずの藤真はいなかった。
「……藤真?」
 昨日も今日も休みだから泊まっていくとあらかじめ話していて、一緒に眠りについたのだ。夢だったのだろうか。
(いや……いやいや)
 そんなはずがない。昨日のことが実際は起こっていなかったなど──絶望的な気持ちになりながらのろのろと起き上がり、ベッドサイドやテーブルの上を見るが、書き置きはないようだ。ふと目を落としたくず箱の中に昨夜の痕跡があって、にわかに救われた気持ちになった。
 しかし浴室にもトイレにも藤真はいないようだ。玄関を見ると靴がない。帰ってしまったのだろうか。呆然として玄関のドアを眺めていると、ガチャガチャと鍵を開ける音がして、なんともないような顔をした藤真が現れた。
「おうっ……おはよう。なに、お出迎え?」
 手にはコンビニで買い物したのであろう袋を提げている。
「おはよう。起こして構わないから、ひと声掛けてから行ってくれ」
 あまり機嫌の良さそうな様子でない牧に、藤真もまた眉根を寄せて返す。
「寝かしといてやろうっていう思いやりじゃんか」
「なら書き置きくらいしていけ」
「ちょっと近所のコンビニ行くだけなのに?」
「そうだ」
 藤真は納得できないような表情で部屋に上がったが、すぐにどうでもよくなったようで、次に牧を見たときには平時の顔をしていた。
「ごはん買ってきた」
 ダイニングテーブルの上にコンビニ袋をがさつにひっくり返し、中身をばら撒く。
「パンだな」
「パンだった。好きなの取れよ」
 言われるままパンと飲み物を取ると、藤真は残った中から好みを取って、そのまま椅子に座ってもそもそと朝食を摂り始めた。牧は着席すると頬杖をつき、珍しい動物でも観察するような気持ちでそれを眺める。
 まだどことなく眠そうな顔をして、髪にも寝癖がついたままだ。早朝にコンビニに行く程度ではさほど身だしなみも整えないのだろうが、自分だけのもののように感じていたごく私的な格好を案外簡単に外に晒すのだなと、身勝手な口惜しさが湧いた。
「なに?」
「別に、なんでも。……これは?」
 ばら撒かれた中にあった薄い冊子を手に取る。近隣の花火大会のガイドのようだ。
「花火見に行かないか? すぐじゃなくてもいいし、どっか都合いい日で」
「ああ、いいな」
 牧は引き結んでいた口元を緩めて冊子をめくった。
「もう今のうちに予定決めときたい。オレ今日は家の用事があるから、午後には帰るからさ」
「そうだったな。……ならやっぱり起こしてくれればよかったんだ」
「どうせまたすぐ会うだろ。牧ってときどきヘンなとこにこだわるよな」
 牧は仕方なさそうに息を吐く。
「居ると思ってるもんがいきなり消えてたら、心配するだろう」
「海の泡になる的な? ……まあいいや、じゃあ今度から叩き起こす」
 藤真は深く考えていないようだが、牧は実際に背筋が寒くなる光景を見たのだ。
 去年の夏のことだ。衝撃的だった。自分の視界の中で、しかし決して手出しのできない領域で、大切なものが壊されるかもしれなかった。
 思えばあのときすでに、藤真に対して特別な想いを抱いていたのだろう。それが具体的な形を得るのは、もう少しだけあとのことだった。

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