3.お伽話
『じゃあさ、次はネッドが採集についてきてよ』
自分の一存では決められない、きちんと族長やヨハンにも許可を得ること、と改めてエミルに伝えながら、誰かエミルを止めてくれないものかと密かに思っていた。しかし残念ながら今ネッドはエミルと二人で森に向かっている。
(まったく、大丈夫なんでしょうかねこの一族は)
ごく最近まで隠遁者だった呪術師と幼い若君が二人きりで外出というこの状況だ。エミルが無防備なのは子供だからとしても、城内の人間や彼の父親は何を考えているのか。能天気すぎる、何も考えていないのではないかと思うとなぜだか憂鬱になってくる。
精霊族は基本的に同胞意識が強く、神から役割を与えられたこの種族の中に真なる悪など生まれないという楽観性を共通して持っている。それを不自然と感じるのはネッドのような少数派の悲観主義者と、外の勤めでしばらく人間の社会に暮らしてから里に戻った者くらいのものだった。
実際、障壁に守られた里の中には魔物も人間も入り込むことはないし、元来の友好的で楽観的な性格のせいで同族同士で大きな争いも起こらない。ネッドだとて、エミルや城の人間に不利益をもたらすことなど企てたこともなかった。
それでも族長は、集落を離れて暮らすネッドに定期報告を義務付ける程度には、なにがしかの警戒をしていたはずなのだ。
(信用されたというよりは、取るに足らないって感じでしょうかね)
エミルに危害を加えるとか、攫うとか、そんな大それたことをする器ではないと見なされているに違いない。無論その通りで、善悪に関わらず、呪術の探求以外のことで自発的に行動しようという気力はほぼ持ち合わせていない。
しかしそれはあくまでネッドの想像であって、実際にはもっとシンプルだ。
精霊族の、特に長に近しい一族は情緒的な感覚が鋭い。エミルに接するネッドを日々見ていれば、彼に対する恐怖も警戒心も自然と潰えるものだった。
「二人で外に来るのって初めてじゃない? どきどきする!」
「どきどき……ですか?」
幼くて多感なのだろう。或いは案外緊張しているのだろうかとも思ったが、顔を見ている限りはそういう感じもしない。
「ふふっ♪ お城の外ってやっぱりいいなあ♪」
木々の隙間から覗く青空を見上げながら、エミルは天に腕を突き上げて背伸びをした。
「……そうなんですか?」
「なんで? ネッドだってそうだろ?」
「そうですけど、若がそう感じてるってことが少し意外だっただけです」
そもそも人と接することも、集団に倣うことも苦手だ。だから人気のない場所の方が好きなのだが、好感度の塊のようなエミルと自分の感覚が同じとは到底思えない。
「みんなそうなんじゃない。たまにこういうとこ来ると手足がのびるような感じがするよ」
「……羽を伸ばす、的な……?」
言い回しの問題ではあるが、ネッドは人間の書いた本で見た、人の姿をして背中に蝶の羽根を持つ精霊の挿画を思い出していた。身の丈は三十センチにも満たないと記されていたはずだ。よもや人間とさほど変わらぬ姿で精霊族というものが存在しているとは思いもよらないのだろうが、エミルにならそれも似合いそうな気がした。
(私は……何を……)
「ぼくにも羽根が生えてこないかな?」
「はっ!?」
考えを見透かされた気がして声が裏返ってしまった。
「なんだよその反応。ありえないって? わかってるよ」
「別にそういうわけでは……」
「まあいいや。よし、採集開始!」
「はい、はい」
手帳を広げて歩き出したエミルの後にのんびりとした動作で続く。遊びに来ているようではあるが、学習の一環なので課題が出されており、エミルの持つ手帳にその絵と特徴などが記されている。
「一つ目は、ニレの木の根っこに生えてることが多いって。まずニレの木をさがそう。ジグザグの枝でギザギザの葉っぱをしてて──」
「ふむ……」
意外と真面目なのだなと、無礼なことを考えながら後ろを歩く。
立ち並ぶ木々の葉をざっと眺めていると、足元から視線を感じた。エミルが真面目な顔をして、こちらをじっと見つめているのだ。両の手にはそれぞれ一枚ずつ木の葉を持っている。
「どうかしました?」
「ネッドはいいよね、高いところのものが見えて」
「得することはあまりないですよ。天井が低いと頭打ちますしね」
とはいえ、木を探せという今の課題は小さなエミルにはやりづらいことだろう。
「それは?」
エミルの手にする木の葉に視線を移す。
「落ちてた葉っぱ。でもどっちもニレと違うね」
「なるほど、地面から探そうというわけですね。意外とお利口じゃないですか」
思ったことがついそのまま口から出てしまった。エミルの目が据わる。
「ネッドさ、ぼくのことバカだと思ってない?」
「そ、そんなことないですよ。褒めてるじゃないですかっ」
とはいえ「意外と」は余計だったろうし、エミルのことをあまり頭が良くないと思っていたのも事実だ。
「そりゃネッドより何も知らないかもしれないけどさ、子供なんだからしょうがないだろ?」
前々から思っていたが、エミルは不意に自分の立場や子供であることを盾にしてくる。狡いというほどでもないが、調子が良いというか、好意的に表現するならば立場をわきまえているということになるのだろうか。
「気分を害されたのなら謝りますから、拗ねないでくださいよ」
「すねてないもん」
言いながら一人で森の奥に進んでいく。完全に拗ねているではないか。とはいえ歩幅が違う、エミルが多少先行したところでネッドが追いつくのは簡単なことだった。
辺りを見回し、上を見て、下を見て、しゃがみ込み。小さな体のぴょこぴょことした動作は妙に目を引いて、見ていて飽きない。そんなことを何度か繰り返した後、エミルが声を上げた。
「あった! これだよね?」
なるほど、エミルが根元にしゃがみ込むのはネッドにも見覚えのある木で、その手に握られた植物は手帳に記された通りの特徴的な三つ葉の形をしている。
「そうですね、正解の薬草のようです」
「……」
エミルはネッドを見上げ、不満げに眉根を寄せる。
「あのさ、もっと褒めてよ」
「ええと、多分顔に出てないんだと思いますけど、内心は感服してるんですよ。本当です」
言い訳ではなく、事実その通りだった。感情が顔に表れにくい自覚はあるが、かといって人を喜ばせるような演技もできない。だから特に子供には好かれにくい。
「思ってたって、伝わらないと意味ないんだよ」
エミルは腰に両の手を当て、ネッドを見上げていながら上から言い聞かせるような口調だ。
「それは、そうなんでしょうけど……」
もっともだと思ってはいる。意思疎通など今まで拒絶して生きてきたようなもので、返す言葉がなかった。
「わかってるなら褒めて♪」
しかし、子供の褒め方とはどうするべきなのか。
「……よくできました」
しゃがみ、エミルに目線を合わせておずおずと手を伸ばし、そっと頭を撫でる。するするとした柔らかな感触だ。エミルはぱっと表情を明るくすると、飛び付くように抱きついてきた。
「わ、若!?」
抱擁というほどでもない、もっと軽い意味のハグだろうとは思う。それでもネッドはぎこちなく体を強張らせ、行き場のない腕を宙に彷徨わせた。エミルはなんともないように体を離してネッドを見つめる。
「もっと撫でていいよ♪ 頭撫でてくれる人はあんまりいないからね♪」
「あー……ええと……」
子供とはいえ〝若〟の頭を撫でるのは無礼に当たるのではないか。エミルの言葉を聞いてからその可能性に思い当たり、つくづく自分は不適合だと思う。
「んじゃ二つ目いこう♪」
ここに至るまでの不安な思いとは裏腹にエミルの採集は順調に進み、二人は何事もなく──多少ネッドが気疲れした程度で──帰路につく。
◇
日々は過ぎ、城での暮らしにもはや違和感もない。エミルに対しても同様だ。懐柔されてしまったのかもしれない。幼かろうが末子であろうが、彼は紛うことなき主の資質で人の心を搦め捕る。
自らがエミルに惹かれていくのは流れる水に身を任せるようなものだと納得しているが、エミルがこの偏屈な呪術師に固着することについては未だ時折疑問に思う。いや、それは自惚れ、或いは主観にしか基づかない事実の歪曲だ。自分が殆どエミルとしか接しないために一対一のように錯覚するだけで、エミルにとっては多の中の一つに過ぎないはずなのだから。
随分と低い位置にあるエミルのつむじを眺めてとりとめなく考えながら、採ってきた薬草やらを詰めた袋を抱えて森の小道を歩く。こうしてエミルの採集に付き合うのも慣れたものだった。
やがて木々が途切れ視界が明るくなるのと同時に、エミルは両手を広げ、遮るもののない陽の光に金の髪を輝かせながら言った。
「よしっ♪ きゅうけーい!」
楽しげにこちらを見上げる大きな瞳は、陽射しに透けていつもとは違った光彩を放っている。見入りながら返した言葉はまるで棒読みだった。
「……ええ? 帰らないんですか?」
今日の課題の採取物は全て集め終わっている。当然、あとは帰るだけだとばかり思っていた。
「だってまだ明るいよ♪ もう少し遊んでいこう♪」
せめて休憩という建前は貫いてほしいものだと思うが年相応なのだろうか。遊ぶといっても目の前には丈の短い草原が広がるばかりで、特段面白いものは見当たらない。
「そうだ、四つ葉のクローバー探そ♪」
よくもころころと興味の矛先を見つけるものだと感心するが、自分が物事に無関心すぎる自覚もなくはない。自然と零れた声の調子は柔らかだった。
「休憩じゃないんですか?」
「ネッドは休憩してなね」
「はい……はい」
城に移ってから体調不良を感じることは殆どなくなったものの、体力のなさはそれとは無関係だったようで、しばらくエミルと一緒に過ごせばネッドの方が先に疲れを感じるのが常だった。ネッドは素直に柔らかな草の上に腰を下ろす。
(燃費の差ですかね)
背中を曲げ、綺麗とは言い難い姿勢で座り込んだ自身よりは高い程度の身長の、まだ小さな体をまじまじと眺める。と、なかなかその場を動こうとしないエミルと目が合ってしまった。
「……♪」
「何か?」
エミルは楽しげに笑い、ネッドの足元──ローブの裾を指差した。
「ネッドの服からシロツメクサが生えてるみたい♪」
同じようなものを何着か所持している濃紺のローブのうち、特に外出用と決めているものは裾が擦り切れてところどころに穴が空いてしまっている。ちょうどその穴を潜って、シロツメクサの花が顔を出していた。
「これも随分ボロボロになりました」
エミルと共に外出すれば本来は道ではないようなところを歩かされることも多い。服の裾など気にしていては置いていかれて見失ってしまう。
「短いの着たらいいのに」
エミルはネッドのローブの裾を掴み上げる。
「落ち着かないんですよ。……あ、若、あまり綺麗じゃないので」
そしてネッドの言葉など聞こえないといった様子でローブの中に頭を突っ込んでしまう。
「えぇっ……ちょっ、若っ……!」
滑稽なほど狼狽えるネッドに対して、エミルは至って楽しげだ。
「こうやってると、夜じゃないのに星が見えるみたい♪」
「ええ?」
エミルの言葉の意味が咄嗟に理解できない。よくあることではあった。
「こっから光が入ってきてさ」
「はあ……」
ローブの穴から小さな指がにょきりと生えて動いている。そこから漏れ入る光を星に喩えているのだろうが、よく思いつくものだ。
「……」
「若?」
「す〜……」
「寝ないでください!」
「ううん、どうもネッドといると落ち着いちゃうんだよね。ドキドキするときもあるんだけどさ」
だからといって眠ってしまうのは落ち着きすぎだ。エミルは呑気に言いながら夜の帳を這い出し、乱れた髪を大雑把に撫で付ける。地面に膝をついたまま、目の前に群生するシロツメクサを凝視すると、名案を思いついたかのようににこりと笑い、背の高いものを何本か引き抜いた。束にしたそれに対し、新たに引き抜いたシロツメクサの茎を斜めに巻きつけていく。
「うーん???」
「……?」
エミルは茎を巻きつけては解き、首を傾げている。
「ネッドさ、花冠ってわかる?」
「ええと、花を輪っかに編んだものですよね?」
四つ葉を探すのではなかったか、とは思ったが特にこだわりもないのでエミルに従う。
「前にマリーに作り方教えてもらったんだけど忘れちゃった。こんな感じだったんだけどな」
記憶の中の動作を真似てぐるぐると茎を巻くが、うまく留めることができずにバラバラと落としてしまう。
「そりゃあ、どっかで固定してやらないと」
エミルは不満げに唇を尖らせ、ネッドにシロツメクサの束を押し付ける。
「私も作ったことはないんですが……」
とはいえ、要はこの草花の茎を輪の形に編めばよいのだ。理屈はわからないことはないので、マリーが教えたものと同じとは思えないながらに編んでいく。
「えっすご、ネッド花冠なんてつくれるんだ!」
身を乗り出してネッドの手元を凝視する、エミルの瞳はさも面白いものを見るようにきらきらと輝いている。
「黄色も入れましょうか」
傍らに生えていたタンポポを抜いて白と緑の輪の中に編み込む。
「アレンジしてる!」
「いえ……やってることは同じなので……」
この調子では日々楽しいことしかなさそうだ。子供は皆こんなものなのか、エミルが変わっているのだろうか。
「できましたよ」
エミルは目の前に現れた綺麗な円形の花冠を見つめる。くるりと裏返された裏面までもよくできたそれに素直に感嘆の声を漏らした。
「ネッド器用なんだね!」
ネッドは当然のように──何も考えずにそれをエミルの頭に載せる。花も霞むように笑う主はあまりに可憐だった。まるで現実味がないほどに。
「似合うかな?」
「ええ、とても……」
「うん、いいじゃん♪ とっても素敵な冠だ♪」
エミルは小さな鏡を取り出して満足げに自分の姿を眺めている。それもマリーから持たされたものだったはずだ。
「僕は末っ子だから、族長にはならないと思うけど」
「だとしても、あなたは私の──」
つらつらと口をついた言葉は考えて捻り出したものではなかった。今のネッドの素直な実感といえるだろう。
「ネッドのおうさまかっ♪ それもいいね♪」
ただ改めて返されると自分がひどく不適切で妄りがましいことを口走ってしまったような気もして、なにかひどく居心地が悪い。
「じゃあお返しにこれをあげよう」
小さく柔らかな手のひらが大きいだけの薄っぺらい手のひらを捕まえて、そこからにょきりと長く伸びた、節の目立つ細長い薬指にシロツメクサの茎を結びつける。
「指輪♪ ……なんだよ、気に入らないって? 僕が将来手先が器用になったらもっとすごいのつくってやるからな!」
ネッドの無言、無反応を不満と受け取ったエミルは、それでも消沈することなく、どこかふざけた調子で声を荒げる。(違う、そうではなくて)ネッドは内心ひどく慌て、頭も言葉も整理しきれないまま声を絞り出す。
「あ、いえ……うれしくて……」
掠れるように、なんとか絞り出したが、それだけだった。言葉が続いてこない。頰は熱く、目の奥が痛くて、感動だとか、おそらく喜びだとか──いとおしさとか。胸の内にはこんなにも多大なものが渦巻いているのに、そのどれもが伝えるための言葉を成さない。
「ほんとに?」
「本当です」
昔から、子供の頃からそうだった。人と話すことそのものが苦手で、自分の気持ちを相手に伝えることができなかった。何か施しを受けても他の子供のように表情を変えて喜ぶことができず、同じ年頃の子と遊んでも相手の面白がる反応も返せず、そんな子供が孤立することは当然だと理解していたし、独りでいるほうが気楽だと感じていたから、都合がいいとさえ思っていた。
今ではとりとめのない会話は問題ないが、強い感情を伴えば未だに言葉を失う。人を呪う言葉ばかりしか知らないことを、今はひどく悲しいと感じている。初めてかもしれなかった。伝えたいのだ。
(離れていかないでほしい)
「私はあまり、人と関わってこなかったので……感謝を伝える言葉が、すぐには出てこないというか……」
感謝というのもまだ違う感じがする。呪術師という、ことばを扱うものでありながら、水の中でもがくように不自由な自らの在り方に嘲笑が漏れる。
「ネッド、本を読まなきゃ♪」
いつか教育係から言われた言葉をそのままネッドに言って、エミルは自分の方が大人になったような気分で得意げに笑った。
「そう……ですね」
頷きはしたが、語彙が乏しいのとはまた違う気もする。言葉としては知っているものが、感情と結びつかず、自分の言葉として口から出てこないのだ。
「じゃあ、今度出かけるときは本を持ってこよう♪」
「わざわざ外で本を読むんですか?」
言いつつも、当たり前のように次の外出予定を立てられていることに、ひどく安心していた。
「そのほうが気持ちいいじゃないか♪」
「あ……」
「何?」
「四つ葉のクローバーがありましたよ。……どうぞ」
何気なく視線を落とした先に四つ葉を見つけ、引き抜いてエミルに渡す。
「くれるの? ネッドが見つけたのに?」
「私には必要ないので」
必要ないというか、興味がないといおうか。
「やった! ありがと♪ ネッドさ顔色悪いけど実は運いいんじゃないの?」
「顔色関係あります?」
とはいえエミルのいうことも強ち冗談ではないかもしれない。なぜ自分はここに、愛らしい主を得て明るい陽の下にいるのか。目指した場所でも望んで得た立場でもなく、巡り合わせとか、運とか、そういった言葉でしか言い表せないと思う。昔読んだお伽話でさえ、もう少し納得のいく組み立てをしていたはずだ。
「ふふ♪ 本に挟んで押し花にしよ♪」
「若は、私のどこが良かったんです?」
うまく話せないと打ち明けたら却って口が軽くなったようだ。良かったと自分で言うのはおこがましいのかもしれないが、エミルの対人関係はそれなりに広いだろうし、何かしらを評価したからそばに置くことにしたのだろうと思う。
「ええ? どこって言われてもなあ。第一印象はやっぱり見た目じゃない?」
全く納得できないが、思えばエミルは初対面のときから好意的だった。
「……変わってますね」
「珍しかったんだよね。僕の周りにいないタイプだった」
周りにいなかったという点は理解できる。興味本位や好奇心で呼び出されたのだろうとは当初散々思ってきたことだったが、本当にそれだけと言われるとやはり面食らう。
「おとぎ話の登場人物みたいでさ!」
まるで少し前の自分の思いを見透かされたかのようで、ネッドは目を丸くした。いや、本の話題が出ていたから、二人ともたまたまそれを想像しただけだろう。
「僕のお気に入りの絵本なんだ♪ ホネホネの骸骨が主人公の、お化けの国の話で」
「お化け、ですか」
ごく小さくではあるが、思わず笑ってしまった。人に怖れを与え、子供には到底好かれない大きな黒い塊。エミルの感覚もそう突飛ではなく、ただそれさえも好意的に捉えていただけだった。
「怒った?」
「いえ、納得しました」
「お化けもみんな、悩んだり考えたり、あこがれたりするんだよ。僕らと一緒なんだ」
(憧れ……か)
頭の中で反芻した言葉とともに、エミルの姿を躊躇いなく真っ直ぐに見据える。手が届かないどころか積極的に触れ合いにくる、この先にはもはや失うことしか残されていないように感じる自分は生きることに向いていないと思う。
「ネッドだって、昔から一人だったわけじゃないだろ」
お化けに国や仲間がいるように、黒い森の呪術師にだって家族はいたはずだ。特段考えず、雑談の軽さで発しただけの言葉だった。
「……ひとりですよ。私は、昔から、あなたのことしか知らないみたいに」
(そんなわけないのに)
同じ精霊族だ、何もないところから湧いて出たわけでもあるまい。しかしネッドの声色がひどく寂しげに感じられて、エミルは言葉を発することができなかった。
「私が生まれたとき、私の母親は既に死んでましたから」
言葉に矛盾を感じるよりもただ悲しさが迫り上がって、エミルは反射的にネッドに抱きついていた。心情としては自分が親にされてきたように、包むように抱き締めたかったが、あいにく腕が短すぎて適わない。
ネッドは苦笑する。胸が苦しくて仕方がない。今更昔を思って悲しむわけではなかった。エミルの同情を誘うような言い方をした、みっともない自分に対してだ。
「幼い頃は施設で他の孤児たちと一緒に育ちましたから、一人だったというのはウソになりますね。だから大丈夫ですよ。そんな顔しないでください」
コミュニケーションが苦手で、友人もできなかったし、信頼を寄せた大人もいなかったから、事実孤独だったのだろうとは思う。しかしそれを特別に辛いと感じていなかったのもまた事実だ。
ネッドの言葉はエミルの右の耳から入って左の耳から抜けていくようだった。大丈夫だなんてうわべだけの言葉だ、漠然とそう感じた。なぜネッドは施設を抜け、集落から外れた森の奥に住むようになったのか。そこに居たくない理由があったからではないのか。父親について問うこともできなかった。
ネッドは初めて見たときから大きくて、大人で、おとぎ話の登場人物のように、自分とはまるで違うもののようで。一人森に籠もっていたことだって、まるでそういう生き物のように感じていたから、そこに至った理由や原因について深く考えたことはなかった。しかしネッドにも子供の頃はあって、今の自分が到底独りではいられないことを思うと、ただただ辛さしかないのだ。
「若? 平気ですよ。私、鈍感ですし、好き勝手させてもらってきましたから」
「……ネッドはどうして、呪術師になったの」
いかにも納得できないといったような、懐疑的な声はエミルにしては珍しく遠回りなようでいて──ひどく核心を突いていた。これも彼の資質なのだろうか。
「さあ……忘れてしまいました。若みたいに、かっこいいって思ったのかもしれません」
◇
幼い日、里の孤児院の門前で発見されたネッドには記憶がなかった。頭の中には常に薄く靄が掛かったようだったが、不幸なことに地頭は良かったから、自分の両親について誰も語らないことの不自然さ、そもそも自分が誰なのかさえ確からしくはないという事実にはすぐに行き当たった。
(誰でもない私は、この世に生きてはいないかもしれない)
そんなことを呟けば職員には面倒がられ、同じ施設の子供には頭がおかしいと言われた。そうかもしれない、とも思っていた。
同じ年頃の子が興味を示す殆どのことに無関心だったのも、思い返せば記憶障害の弊害だったのかもしれない。時間潰しに読む本にもさほどの感心はなく、ただ情報を頭に詰め込むばかりの日々の中で、何かの用事で施設を訪れた呪術師の姿を偶然目にしたとき、頭に電撃が走った。
そして霧の一端の晴れたところから(自分はああいった人間を知っている)と強く感じた。ネッドはそこから自身の状態に違和感を覚えることになる。
記憶は、失われたのではなく隠されたのではないか。
去りゆく呪術師の後ろ姿を物陰から眺めるばかりで追わなかったことを、その日からしばらく後悔し続けたものだった。
「呪術師に会いたい」
珍しくネッドのほうから話し掛けられた職員は、あからさまに怪訝な顔をする。
「どうして呪術師なんかに? まさか誰かを呪いたいとでも?」
他の子が相手でもいい顔はできない話だが、至極消極的なネッドがたまに口を開いたと思えばそれでは、怪訝な顔をせざるを得ない。この子供を特に悪とみなすわけではないが、信頼関係を築けていないのも事実だ。
「……呪う相手なんていない。ただ会いたいだけ」
呪術師の存在がヒントになって忘れていることを思い出せそうな気がすると、そこまで説明できれば結果は違ったかもしれない。或いは変わらなかったかもしれないが、とかくネッドはコミュニケーションが不得手だった。どのくらいの声を出せば相手に聞こえるものかわからないし、なにより相手が面倒そうにするのが嫌だった。他の子供より、人の感情の機微に敏感だったといえるかもしれない。
「やめときなさい、子供の見世物じゃないんだよ。それなら今度印術師が来て、みんなにルーンの術を見せてくれるから……」
子供たちの退屈しのぎと、将来の進路を考えてもらう機会も兼ねて、施設ではときたま各職の人間を呼んで話す機会を儲けている。ネッドの発言について、単に術使いに興味を持ったものかと捉えたのだが、ネッドはとうに踵を返していた。
「どこに行けば呪術師に会える?」
「えっ?」
別の職員に聞いてもやはり微妙な反応だ。まず自分から話し掛けた時点で相手は驚くらしかった。だから話すことは嫌いなのだ。
「なんでそんなこと思うの? 呪われちゃうかもしれないよ」
何人かに話を聞いた感じでは、呪術師は悪人ではないのだが、気難しく変わり者で、つまるところ、嫌われ者らしかった。少し自分に似ていると思う。
「呪われるようなことなんてしない」
頭が痛んで耳鳴りがした。強い違和感を感じる。
「……呪いって、どういう仕組みなんだ……?」
彼らは首から下げたベルの音で人を操るのだという。人を操るとはどういうことか。人の心の動きに、そして頭で考える力に働きかけることだ。記憶を司るのはどこだろうか。自分の違和感は、常に頭の奥になかったろうか。なぜこんなにも呪術師の存在が気になるのか、辿り着いた可能性の確度は極めて高いように思えた。
「変なこと言ってないで、もう寝なさい」
ネッドが部屋に閉じ篭って本ばかり読んでいるのは幼い頃からのことで、少し成長した彼が「図書館に行ってもっとたくさん本を読みたい」と言い出したところで誰も不審には思わなかったし、むしろようやく興味の矛先を見つけたかと歓迎されるくらいだった。
ネッドは様々な本を読んだ。術使いのこと、過去の住人の記録、壁の外のこと、この里の地図。ただ呪術の入門書とでも言おうか、それを読めば術が身に付けられるといった類の本はなかった。それこそ呪術師の元にあるのかもしれないが──彼らに直接会えないのなら自力で呪術を学ぶのはどうかと考えたのだが、なかなか難しいようだ。
やがてネッドは里の外れにかつて呪術師が住んだ塔があること、遠くはあるが磁軸を経由すれば辿り着けない距離ではないことを知る。数日分のパンと水を用意して夜に施設を抜け出すまでに、そう時間は掛からなかった。
過去に見たあの呪術師は自分とは無関係だと思う。鍵は呪術そのものだ、そう強く感じられることがまたネッドの背中を押して、疲れも忘れ駆り立てられるように歩を進めていく。ネッドはここで初めて子供らしい好奇心と冒険心をくすぐられる高揚感を得る。
(やっと……!)
歩きはするが平和な里の障壁の中だ、方向さえ誤らなければ到達できないことはない。とはいえ空も森も塔も黒いといった状態で子供一人がそこに辿り着いたのは執念だったかもしれない。
塔の全貌も見えないまま、ランプで照らし出したおどろおどろしいドアの飾りを押してみる。ひどく重く、錆びついた音もするが、鍵は掛かっていなかった。
明かりを灯せば塔の中には数多の呪術的なオブジェ、それに施設や図書館では見ることのできなかった類の書物。遺品であろうか、呪術師の身に着けるベルとタリスマンも見つけた。
それを見るや薄らと細身の女の姿が脳裏に浮かぶ。本来の持ち主の姿ではないだろう。ネッドの記憶の底の呪術師──彼の母親の姿だった。そして確信する。自分の記憶は不慮のことで失われたわけではなく、呪いにより封じられているのだと。
夢中で書物を読み漁ったネッドは、呪術の入り口をあっさりと乗り越える。適性があったのかもしれない。やがて自らの呪いを解くことにも成功し、記憶も健常な子供が覚えている程度にまでは明らかになったが、得たものは虚しさだけだった。
障壁の外で働く人間には定期的な里への帰還と報告が義務付けられている。しかしそれも生きていればこそだで、ネッドの母親は彼が生まれるよりも前に記録上は死亡したこととされていた。なぜか──里に戻りたくなかったのだ。
詳しい事情は思い出せない。これは呪いのせいではなく健全な範囲の忘却で、或いは幼いネッドには理解できなかったのかもしれないが、とかく気難しい人物で、ネッドでさえも接しにくいと感じていた記憶があるから、何かしら問題を抱えていたのだろう。施設の大人が呪術師と関わるなと言っていたこと、自分の性質もふまえて考えてみれば、ろくでもない人間だったに違いない。
自らを死んだことにして、おそらく男を使い、二度と戻る気のない里に記憶を封じた子供を捨てた女。それが自分の母親だ。
一体何を求めて記憶を明らかにしたのだったか。自分について自分でさえも知らないということが、落ち着かなかったからだろう。出自はわかった。頭の靄も晴れている。それでよいではないか。
なぜこんなに悲しいのだろう。何に失望しているのだろう。職員の誰もが自分の親について口を噤んだ、その時点でろくな結末ではないことを想像できなかったか、期待していたとでもいうのか。
わからない。
わからないまま考えることを放棄して、呪術の本を読み漁った。現実逃避だったのかもしれない。
施設の職員がネッドの居場所を突き止めて連れ戻しに来る頃、ネッドは濃紺色のローブに身を包んで口元に歪んだ笑みを浮かべていた。
怯んだ相手に古いベルを鳴らし、覚えたての呪術を施せば効果は面白いほどに覿面で、目の焦点の合わない職員はネッドの言う通りに食糧などを置いただけで引き返して行った。帰り着けば、塔には誰も住んでいなかったと報告することだろう。
生まれて初めてともいえる悦びの実感に、若いネッドは呪術の探求に没頭していった。
◇
萎れかけた野草の絡みついた長い手指に、しっとりとした小さな感触が絡みつく。驚いたネッドの視線を受け止めて包み込むように、翳りだした日を映すエミルの瞳の色は柔らかだ。
「帰ろ」
「そうですね」
手を繋ぎ、草を踏みしめて歩きながら、言葉が口から零れていた。
「若。私、捨てられたんです」
「え?」
「……親とは、死別ではなくて」
両親ともに、記録上は壁の外で死んだことになっていた。だが実は生きてネッドを産み、そして里に置き去りにして外へ戻った。
「自分の子を捨てるなんて、そんなワケないだろ。孤児院に預けていったんだよ」
口元に歪んだ笑みが張り付く。エミルはまだ人の浅はかさも悪意も知らない。ずっと知らないでいて欲しいとも思う。
「会いたい?」
「いえ……もう、本当に死んでるんじゃないですかね」
「ネッド、きっとお父さんとお母さんがびっくりするくらい、すっごく大きくなったのにね!」
「どうでもいいことです」
「どうでもいいことを、わざわざ言ったの?」
意味のない雑談は好まないほうだと知っているから、エミルは意外な気持ちでネッドを仰ぐ。
「たまにはいいでしょ」
「いいけどさ♪」
飽くまで明るい調子で話すエミルの内心が、ネッドにはわからなかった。いつものことだ、今特段気にすることでもないだろうけれど。
「とに……」
「え?」
ごく弱い風に流され掻き消えた声の出どころを、エミルは花冠を押さえながら思い切り仰ぐ。
「若は、壁の外に行きたいんですよね」
「そうだよ♪ 外には僕らが知らないものがたくさんあるんだ。話で聞くだけじゃなくてこの目で見てこなきゃ! ネッドも連れてってあげるね♪」
「私も……?」
心臓を貫かれたようだった。全身の血流が活発になって、指先までも巡った血がジンジンと疼痛をもたらす。暑さも寒さも感じず、地面を踏みしめる感覚さえ覚束なくなって、倒れてしまわないように順繰りに足を運ぶことで精一杯だ。
「だってネッド、ひきこもりがひどくて一人で外に出ないじゃないか。僕がこうやって連れていかなくちゃ」
エミルは言いながら、繋いだ手をぶんぶんと振り回す。ごく子供じみた動作ではある。
(どうして……)
声は出なかった。思考を殺していく甘やかな感触の中で、沈みゆく夕日を眺めながら、エミルに手を引かれながら歩いていた。
「最近、夜になるのが早いみたい」
「そう、ですね」
季節の移り変わりも何も気にして過ごしてなどいない。完全に上の空で返事をしていた。
日が沈み、今日が終わる。花は萎れ、時は確実に過ぎて、こうして穏やかに過ごす日々が潰えても、エミルはこの手を引くと言った。
息が詰まる。あまりに早い鼓動を刻む心臓は既に壊れていて、今夜眠りにつけばそのまま死んでしまうかもしれない。
望むところだ、これを最期の景色にして、明日はもう訪れず、夢見心地のままで終わればいい。
エミルを信じないわけではない。空恐ろしいのだ。
得体の知れない怪物のような幸福感が。