にんじんウサギと明け方の夢

付き合ってるユタミヅ おだやかな世界 [ 4,596文字/2022-09-19 ]

 観月さんはやわらかい。頬に触れる髪の毛や、ゆったりしたパジャマ。肉づきがいいわけじゃないけど、肌の表面もやっぱりやわらかくって、くちびるなら格別だ。そっと抱いて目を閉じると、ふわふわでいいにおいで、あったかくて、安心してよく眠れる。
 最初のころはドキドキざわざわすることばっかりで、こんなの身が持たないんじゃないかって心配になったけど。観月さんだって人間だ、あんまり見せないだけでリラックスしてる時間もあるんだって、そのうちわかった。
 人間だって言ったばかりだけど、観月さんはウサギに似てる。むかし子供のころ、抱っこして一緒に寝てた、にんじん持ってるウサギのぬいぐるみだ。黒くて丸い目の素朴な顔をして、白くてふかふかで、お日さまのにおいがして、大好きだったな──
「……」
 夢か寝ぼけながらの回想か、区別はつかなかったけど、腕のなかにあるはずのものが消えてるのは現実で
「!?」
 あわてて飛び起きると、観月さんはベッドを降りたすぐそこにいて、窓から外を見ていた。寝起きのふわふわの前髪と、横顔の輪郭が白い朝日にふちどられてとてもきれいだ。細い顎が、光の粒子を乗せたまつ毛がこっちを向く。
「おはよう、裕太君」
「お、おはようございます……」
「どうしたんです、勢いよく起きて。こわい夢でも見ました?」
「い、いえ……
 むしろ幸せな夢だったと思う。こわい夢を見たって言ったらどう返ってきたかな、って考える程度に俺はずるい。

 俺と観月さんは付き合っている。恋愛関係って意味だ。俺が中三に、観月さんが高校に上がると四六時中は会えなくなったが、ふたりきりで会える日はそのぶん特別になった。
 俺が高校の寮に行くのは目立つし、いろいろ雑音もあるから、観月さんが俺のとこに泊まりに来ることが多い。中学寮だって部外者は立ち入り禁止だけど、まあ観月さんは顔パスだからな。空きになった観月さんの部屋に引っ越して、今は俺が一人部屋だ。

 予定のない日曜の昼間、家に帰って居間に行くと、母さんと姉貴がいた。
「なぁに裕太、『姉貴いるのかよ』みたいな顔して」
「んなこと言ってねえだろ」
 実際、親くらいしかいないかと思ったから今の時間にしたんだが、兄貴がいないならまあいいか。
「帰ってくるって教えてくれたらおやつ用意してたのに」
「いいよ、用事が済んだらすぐ寮に戻るし」
「用事って?」
「むかし俺、ウサギのぬいぐるみを持ってたと思うんだけど、あれってどうなったんだっけ」
 母さんに向かって言ったんだが、答えたのは姉貴だった。
「私覚えてるわよ。裕太、あれもういらないってお母さんに渡したじゃない」
 そんなことは俺だって覚えてる。聞きたいのはそのあとウサギがどうなったのかってことだ。
 いつの間にか忘れてずっと意識もせずにきたけど、この前観月さんが泊まった朝に不意に思いだしたウサギ。手放した記憶と、目を開けたら観月さんが見えなかったことが一瞬重なって、ぞっとして飛び起きた。それで、あのウサギがどうなったのか無性に気になって。
 母さんは穏やかに、でも嬉しそうに笑った。友達には『裕太のお母さんいつも笑ってるな』って言われるけど、そういう顔なだけでちゃんと笑ってるときと笑ってないときがある。
「あれなら、とっておいてあるわよ。ちょっと待っててね」
「あ、えっと……」
 出してくれともなんとも俺は言ってない。っていうか、どうしたいのかちゃんと考えて来なかった。前はよほどの用事がないと家に近寄らなかったのに、最近は電話で説明するより早いかってふらっと立ち寄ったりしてる。あれはよくある反抗期ってやつで、それが終わったってことなのかと思わなくもない。まあ、高校もルドルフで進んで引き続き寮にいるつもりだ。ルドルフに通うならそのほうがいろいろ楽だし、なにより観月さんもいるし。そうだな、今の俺にはちゃんとあそこにいたい理由があるんだ。逃げ場所とか、救いとかじゃなくて。
「はい。おひさしぶりね〜」
 テーブルの上にビニールの掛かった白い塊が現れる。テープで止められたビニールを開けると、もこもこの耳をして両手でにんじんを持った、見覚えのあるウサギが出てきた。やさしげな、おっとりした顔だちは懐かしいのと同時に今見てもかわいくて、ちょっと笑ってしまった。
「……なんか、思ってたよりきれいだな? こんなだったっけ?」
 記憶のなかのウサギもだいたい白くてふかふかだったが、もうちょっと〝ずっと持ってた感〟っていうか、毛がボソボソしてるとこがあった気がする。
「そうなの。ぬいぐるみのクリーニング屋さんっていうチラシが入ってたから出してみたら、新品みたいになったのよ!」
 手でひらひら空をはたく仕草。母さんにしてはテンション高めで、釣られて(?)俺も強めに返す。
「なに勝手なことしてんだよ!」
 姉貴が口を挟む。
「いいじゃない、裕太それいらないって言ったんだから」
「そうだけど……」
「必要になったの?」
「そういうわけじゃ、ねえけど」
 ふと思いだして様子見に来ただけだ、ってそのまま言ってしまえばよかったのかもしれない。
「学校の活動で、近くの幼稚園の子と遊んであげたりするんでしょう?」
「え?」
 確かに福祉の授業でそういうのもあったけど。具体的に家族に話したことはないと思う。あれ系の学校はそういうもんって常識なのか?
「周助から写真見せてもらったのよ」
「まじかよ!」
 いつの間に。ぜんぜん気づかなかった。兄貴、そういうのは俺にことわりを入れるべきなんじゃないだろうか。
「なるほど、学校の活動で必要になったの?」
「……まぁ、そんなとこだ」
 俺はまた嘘をついてしまった。心が鈍く痛む。

 小さいころ、このウサギをすごく気に入ってて、寝るときだけでなく外に遊びに行くにも連れていた。
 あるとき近所の子に「男なのにウサギなのか」ってバカにされて、掴まれたとこが汚れちゃって。なにかと俺に絡んで泣かせにくる子だったから、あれもわざとだったと思う。
「白いウサギは汚れやすいから、専用のバッグを用意してあげるのがいいかもね」
 兄貴がそんなこと言ってたのを覚えてる、っていうか思いだした。今なら素直に『持ち歩くにはそれがいいかも』って思える気がするけど、そのときはバカにされた、男がウサギ持ってちゃだめなんだ、そういうものなんだ、ってものすごいショックでさ。
 それからウサギを外に持ち出すのをやめて、少しの間はベッドに置いてたけど、見てるうちすごく悲しい気分になって「いらなくなった」って母さんに渡したんだった。
(いらなく……)
 確かにあのときの俺にとって、いらないものになってしまったんだろう。
(でも嫌いになったわけじゃなかったよ)
 ひとりで眠れるようになった。にんじんも食べられるようになった。そうしてぬいぐるみを卒業したってことで、別におかしくもないのかもしれない。
 だけど妙に引っ掛かって悲しいのは、好きだったものを人のこと気にして無理やり嫌いになった、そうして手放してしまったってことだ。
 別に、あの近所の子が俺にとって特別だったってわけじゃない。だけど、特に子供のときって〝兄貴と同じがいい〟〝みんなと同じじゃなきゃ〟っていうのが誰に教えられたでもなく漠然と、たぶんけっこう強めにあって。このウサギは兄貴のはなくて、俺だけが持ってたから……。
 寮の自室、連れ帰ってきたウサギは離れ気味の目で、寂しそうに俺を見上げている。
(ごめんな)
 昔みたいに胸に抱き締めてみた、感触は記憶よりずっと小さくて頼りない。観月さんとは雰囲気はちょっと似てるけど、ボリューム感がぜんぜん違った。当たり前だけど。
「ゆーうーたー君! いるんでしょう入りますよ」
 リズミカルなノックの直後、部屋のドアが開いた。
「うわぁあ! 観月さん!!」
「そんなに驚かなくてもいいでしょう。嫌なら鍵を掛けなさいとあれほど」
「はい、……はい」
「返事は一度」
「はい!」
 中学寮を出入りするところって、高校生寮の観月さんの部屋からちょうど見えてるらしく、予定のない昼間にはこうしてたまに突撃してくることがある。『事前にメールで教えてください』って言ったら『裕太くんがいなかったら寮を見回りして帰るだけなので』って返されてしまった。そんな感じなんで、ほかの寮生も観月さんを見掛けても特別不思議には思わないようだ。
 観月さんの視線が、俺の抱えるものに思いきり注がれる。
「ずいぶんとかわいらしいものを持ってますね」
「ええと、これは俺が子供のときのもんで、実家に行ったらたまたま綺麗になってあったので……っ!」
「別に、がんばって言いわけしなくたっていいですよ」
 なんでもないように言って、細い指がウサギの丸いおでこをやさしく撫でる。それを見てたらなんだか俺までくすぐったいような、無性に嬉しい気分になった。感動っていってもいいかもしれない。やっぱり俺はこのひとが好きだ、大好きだ。
 観月さんは神経質だから、心が狭いって見られることもあるけど、それは正しくないと俺は思う。観月さんは理由のない否定はしない。存在を認めたうえで、必要ならそれなりの対応をするってだけだ。
「にんじん嫌いだったんですか?」
「よ、よくわかりましたね……? すごいな……今は食べれますよ」
「んふっ、裕太君のことはお見通しですよ。古いもののわりにきれいですね」
「ぬいぐるみのクリーニング屋に出したって言ってました」
「大切にされてたんですね」
「え? 俺は別に」
「親御さんがですよ。裕太君の子供のときを見守ってたぬいぐるみ、長く持っていようと思ってきれいにしたんでしょう」
「……な、なるほど……?」
 そんなこと言われなかったし、なんでって考えもしなかったな。それじゃあ、俺が思いつきで持ち出さないほうがよかったんだろうか。
「君、なんだかウサギを抱っこしてるのが似合いますね」
「!! 本当ですか!」
 観月さんはウサギに似てる。直接言ったことはないから、本人がそれを知るはずはないけれど。
「そんな嘘ついてどうするんですか。家から持ち出したんなら、大切にしなさい」
「はい……! 大切にします!」
 思わずぎゅっとウサギを抱きしめた。感触はやわらかくて、ふかふかでやさしいけど、やっぱりそれだけじゃ足りないって感じる。
「あのっ……俺、やっぱり観月さんが大好きです」
 ウサギを押し付けると、観月さんは不思議そうに首を傾げつつ受け取ってくれた。俺はやっぱり嬉しくなって、抱きしめるって強さではなく、ふたつの体を包むように抱える。
「なんなんですか、今日、何かの日でしたっけ?」
 観月さんはひたすら困惑して、少し照れてるみたいだった。
「何かの日じゃなくたって、いいじゃないですか。俺が観月さんを好きだなぁって、あらためて伝えたくなった日です」
 毎日会えなくなってもいつも想ってる。すぐ近くにいるし、観月さんは言わなくてもなんでもわかってくれる。だけどそれを当たり前にしすぎてちゃいけないんじゃないか。もし観月さんが〝察する〟ことをやめたらどうなる?
 恥ずかしがってごまかさないで、気持ちのまんまを伝えること。いまだに苦手だけど、伝えられる相手なら、やっぱりちゃんと伝えるべきなんだ。俺にお似合いのやわらかくてやさしくてきまぐれなウサギを、いつの間にか見失ってしまわないように。
 
 
 

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