その表情カオの理由を教えて 5

5.

 幕切れは呆気ないものだった。
「公園でシュート練習してるうちに思いだしたんだ。今のは違う、もうちょっとこう……とかやってるうちに、あれ? 思い出してるじゃん! って」
 高校に入ってからはバスケットボール漬けの生活を送っていた。それが彼らの日常だったし、藤真も含む一部の部員にとっては勉強以上のウェイトを占めるものになっていた。
 藤真が記憶を取り戻すために必要なのはバスケットボールなのではないかと、誰もが想像しただろうし、自身でも察しはついていた。だから逃げた。そして花形も牧も、おそらく仙道もそれを許した。優しく閉じた世界での、ひとときの休息だった。
 部員たちが練習に出て行き二人だけが残った部室の中で、花形は躊躇しつつも切り出した。
「事故の日、なんであんなところにいたんだ?」
「あんなとこって?」
「事故に遭ったところ。お前の家から遠くはないが、まっすぐ帰ったら通らない道だ」
 冬休みに入り、部活動の時間が長くなると、藤真はときおりひどく疲れた様子を見せた。監督とはいうものの自らもきっちりとトレーニングメニューをこなしていたし、空き時間には指導関係の本を読んでいた。気丈な風にしていても、心労もあったと思う。
 あの日も藤真は調子がよくない様子だった。練習が終わったあと、後片付けや日誌の記入を請け負って藤真を一人先に帰らせたのは花形の提案だった。そして藤真は事故に遭った。花形は自らの判断を呪った。藤真が戻るまでずっと、自責の念に駆られていた。
「内緒の話」
 藤真は唇の前に人差し指を立てる。愛らしい仕草だが、花形にとっては見慣れたものでもある。
「ああ」
「あそこの近くの公園って、バスケのゴールがあって、よく小学生の、低学年くらいの子供たちが遊んでるんだ。ルールとかめちゃくちゃなんだけど、楽しそうにさ。それ見てると、あーバスケって楽しいんだよなって、思い出すっていうか、元気が出るっていうか」
 花形は続きを促すように、黙って頷いた。
「たまにしんどいときとか、眺めに行ってて。家が近いんだろうけど、結構夜まで遊んでるんだよな。……ま、あの日はちょっとだけ早めだったけど」
 寒かろうが暗かろうが遊びに夢中の子供たちには関係ないようで、その日も地面にボールをつく音と、賑やかな声が聞こえていた。
「多分さ、好きなもんでも毎日全部の料理に入ってたら嫌いになるみたいな、そのくらいのことだったと思うんだ」
 疲れていた。一生徒の分際でベストを尽くせたとして、果たして報われるのかと疑問が湧いた。そも報いとはなにか、自分はどこへ行きたいのか、よくわからなくなっていた。
「で公園の近くまできたら、いきなり車が出てきて。避けようとしたのは覚えてるんだけど、多分それで電柱か塀かなんかに頭ぶつけたんだろうな」
「そこはお前に過失はないわけだな」
「ない! もうさ、今度まじでお祓い行こうぜ、夏からちょっとおかしいから」
「俺もか?」
「だって、お前が帰れって言わなかったらオレは事故に遭わなかった」
 堂々とそう言い放たれると、花形には返す言葉がなかった。うなだれたところで思い切り背中を叩かれ、思わず噎せる。
「ウソウソ、お前には感謝してるって! んじゃ行くか」
 少し長くなった冬休みを終えて、新学期とともに翔陽バスケ部にもようやく日常が戻る。「打倒・海南!!」ランニングの列に、次期部長兼監督の掛け声が加わった。

 夜の街の人工の光が、あどけなさの残る頬のなだらかな曲線をなぞる。大人びた鼻先は暖を求めるように擦り寄って、乾いた二つの唇の間に湿度を生んだ。
 些細な物音に弾かれたように顔を離したが、寒さを理由にして再び寄り添い指を絡めた。
 密やかな逢瀬に青い衝動をひそめて、新しい二人の日常がはじまる。

〈了〉

その表情カオの理由を教えて 4

4.

 冬晴れの昼下がり。陽射しは明るく藍色の海も穏やかな、のどかな景色が続く。しかし、その堤防沿いを歩く藤真は自らの判断を激しく後悔していた。
(くっそ寒い! 家の近くより明らかに寒い!!)
 制服のジャケットの代わりにニットのカーディガンを着てコートを羽織り、肩には部活用のバッグという格好で、歩いているうちに暖かくなるだろうと思っていたのだが──天気がよくとも海沿いは風があって冷えるのだと、身に沁みて覚えなおしながら、胸の前で腕を抱えた。
 昨日の夜、牧のマンションから自宅に帰ったあと、花形から電話があって少し話をした。体が痛いわけではないが部活には行かない、明日(今日のことだ)の朝は迎えに来るなと伝えると、花形は『待ってる』とだけ言って電話を切った。
(素直なもんだな、優等生くんは。さて、どこ行こう……)
 今日は昼過ぎまで寝て、昼食をとると半ば追い出されるように家を出た。服装こそ部活に行く風にしたものの、もちろんそんな気はない。このまま近所をうろついていれば家族に見つかるかもしれないし、知らないご近所さんに出会ってしまうのも面倒だ。翔陽の近辺も危険。かといって、土地勘を失っているのに何も考えずに歩き回るわけにもいかない。
(迷子とか、一番最悪だからな)
 幸い、花形から貰った手帳サイズの地図帳がある。目印がなくわかりづらいような場所に入り込まなければ、帰れなくなることはないだろう。賑やかなところに行きたい気分ではなかったので、大型商業施設以外でわかりやすい場所、と考えて海が頭に浮かんだのは、牧がサーファーだと昨日聞いたせいだと思う。冬の海に面白いものがあるとも思えなかったが、夜まで時間が潰せればいいだけだ、散歩をしているうちに興味を引く店も見つかるだろう──そうしてこの堤防沿いの道をひとり歩いているのだが、運がいいのか悪いのか、藤真は再び自らの判断を疑う事象に遭遇する。
「……!」
 向かいから、髪を逆立てた長身の男が歩いてくる。髪型や顔というよりは、体つきからそれとなく察してしまった。
(なんか、やな予感が……)
 男はこちらに気づくと一瞬驚いた顔をしたあと、のんびりした調子で軽く手を上げて笑った。
「あれー? 藤真さんじゃないですか」
(や、やっぱり? なんでこんなとこで知り合いに会うんだよ……)
 なぜならここはこの男の散歩と釣りのルートのひとつだからだ。大股で小走りに近寄ってきた男の全身を、藤真は視線だけ上下させて観察する。身長は一九〇センチほどだろうが、髪型のせいでより大きく見える。眉も目も垂れていて、温和そうには見えるが、腹に一物ありそうにも思える。一度は忘れたものの、人の顔と名前を一致させるのは得意なようで、名前はすぐに出てきた。
「せんどう……」
 陵南高校の一年で、花形曰く『よくわからんが藤真になついている』とのことだ。
「珍しいですね、サボりなんて」
「この格好のどこがサボりだっていうんだよ」
「いや、この時間にその格好でこんなとこにいるのがサボりかと……」
 部活の最中に用事で抜け出してきたのなら制服姿は不自然だし、練習試合などのための移動ならば藤真ひとりきりということはあり得ない。
「いろいろあんだよ、オレだって」
 道もわからないし、時間を潰すためにひとりではないほうがいいのだが、本当に色々ある真っ最中で、この男が信用するに足るものなのかはわからない。一年ならば雑に扱うくらいが自然だろうと考え、仙道の横を無愛想に素通りして歩を進めた。仙道は慌てる様子もなくあとに続く。
「怪我、もう大丈夫なんですか?」
「ケガ?」
「交通事故の怪我」
「んなもんほとんどねえよ。ってか、他校にまで知れ渡ってるのか? 事故のこと」
 牧にいたっては部活に出ている情報まで得ていた。一体自分のプライバシーはどうなっているのだろう。
「知れ渡ってるってわけじゃないです。翔陽の一年に友達がいるって、前言いませんでしたっけ」
「そうだっけ」
 覚えていなくても不自然ではない程度の情報だろう。藤真は軽く返し、仙道のほうを振り返りもせずに歩き続ける。
(んーむ……)
 仙道は眉を八の字にして、口もとに形ばかりの笑みを浮かべた。実は事故の怪我を引きずっていて部活に出られる状態ではない──という可能性は簡単に想像できるが、まっすぐそこに突っ込むほど無神経ではないつもりだ。しかし、この珍しい邂逅を見す見すふいにするほどストイックでもない。ステップを踏むように何歩か大股で行くと、簡単に藤真に追いついて顔を覗き込む。
「どこ行くんですか? 藤真さん」
「内緒」
 言おうにも言えない。夜は牧と待ち合わせをしているが、それまでどうするか、どこに行くかなど決めてはいないのだ。
「……ついてくんなよ」
「たまたま俺もこっちに用事あるんですよ」
「ウソつけ! 今こっちからきたじゃねえか!」
「ぼうっとしながら歩いてたから、通り過ぎちゃったんです」
(なんだろうなーこいつ、うさんくせえ……)
 たまたま行き先が同じだけならば相手をする必要はあるまい。藤真は無言で歩き続ける。
「……藤真さんて結構、俺と似てるタイプだと思うんですよね。やってみたら割と飄々となんとかできちゃうってタイプ」
「そうかな」
「あ、別にがんばってないって意味じゃないですよ?」
「うん」
(まあ、少なくとも今のオレは特にがんばってはないわけだが)
「俺が比較的気楽なのはまあ、学校の違いですよね。あ、別に翔陽が悪いって話じゃないですよ」
「なんかお前、さっきからなにその言い回し」
「藤真さんのツッコミが厳しいんで、あらかじめ自分で突っ込んでおくクセがつきました」
「ふーん……」
(他校の割に接点あったってのは、結構仲よかったってことなんだろうか……)
 その考えの根拠となるのは牧の存在だったが、それだけでもない。自分の周囲には不届きなモブも跋扈していると花形から聞いたが、ならば人付き合いの相手は選んでいたと思う。花形が知らないうちに親しくなっていたというのならなおさらだ──と考えていると、不意に生理的な反射に襲われた。
「っくしゅん!」
 予期せぬ登場人物の追加に意識を逸らされていたものの、海沿いの寒さが失せたわけではないのだ。ぶるっと体を震わせて身をすくめるかたわらで、仙道は声を殺して笑っていた。
「……あんだよ」
「いや、かわいいくしゃみするなあって。男のくしゃみって、怒鳴ってるみたいなやついるじゃないですか? たまに」
「あー……」
 藤真は面白くなさそうに仙道を見たが、すぐに興味を失ったように正面を向いて鼻を啜った。そのあまりに素っ気ない態度に、仙道は目を瞬く。
「なんか今日の藤真さん、やっぱりヘンな感じ」
「そうかな?」
「うん。なんか、フワフワしてます」
「うーん……」
 藤真は短く唸ったのち、呆気なく決断を下した。
「内緒の話があるんだけど、聞きたい?」
「聞きたいですっ! なになに?」
 日ごろの先輩然とした振る舞いとは違った、幼い印象の提案に、仙道は嬉々として頭を横に傾ける。藤真は口の横に手を添え、子供のような仕草で耳打ちした。
「あのね、オレ、記憶喪失なんだ。事故でアタマ打って」
「……!? またまた、そんなぁ〜」
 冗談だろうと言わんばかりに手をひらひらさせると、藤真は不愉快そうに正面に向きなおり、歩いて行こうとする。慌てて二の腕を掴んだ。
「ほ、本当に?」
「そんなウソついてどうするっていうんだよ」
「だって俺のこと」
「界隈の人間のことは花形からなんとなく聞いてる」
(こいつには言わないほうがよかったのかな……)
 藤真は顔を曇らせる。仙道の目に、気丈に振る舞うイメージの強かった藤真のこの態度は、明確に異変として映っていた。
「そうだ! そんな状態の藤真さんをほっぽって、花形さんはなにしてるんですか」
「あいつはオレより部活のほうが大事だからな」
「……いや、そんなことないと思いますけどね?」
 愚問だったと思う。正式な監督を欠いている翔陽で、次期部長と副部長が揃って不在となってはさすがにほかの部員に示しがつかないだろう。かたわらで、藤真が大きく体を震わせた。
「っくしゅッ!! ……おい、いちいち笑うな」
「フフッ、すいません。どっか入ってお茶でもしていきませんか? 寒いですよね」
「うん。クソ寒い……」
 ガチガチと歯を鳴らして体を縮める藤真に妙に庇護欲を掻き立てられる、自分自身に困惑する。
(なんとなく危なっかしいのも、記憶がないせいなのか?)
 記憶喪失などにわかには信じがたいことだったが、今日の藤真に対して感じるそこはかとない違和感の正体は何かと考えると、腑に落ちるような気もした。

 今の藤真は知らない道だが、仙道にとってはよく知った道だ。道路を横断して少し行くと、小さな喫茶店に入った。そう混んではおらず、二人で四人掛けのテーブル席に座ることができた。
「おっ、藤真さん、今の時間はケーキセットが頼めますよ」
「いらねえよ。オレはコーヒーだな」
「でもおトクですよ? ほら見てくださいよ、コーヒー紅茶単品でこの値段なのに、ケーキをつけてもこう」
(オレ、ケーキが好きだったから勧められてるとか?)
 テーブルに置かれた別紙のメニューをしきりにアピールされるうち、そんな気分になってきた。
「ほんとだ。じゃあケーキセットにしよ」
 仙道は頷くと、ちょうど近くに来た店員に軽く手を挙げる。
「ケーキとコーヒーのセットを一つと、コーヒー単品で一つ」
 にこやかに店員を見送った仙道とは対象的に、藤真は不満げに目を据わらせた。
「お前はケーキ頼まねえのかよ」
 同じものを頼むのかと思っていたから、なんとなく騙されたような気がして面白くない。
「怒んないでくださいよ。久々のデートなのに」
「は?」
 仙道はため息をつき、悲しげな視線をテーブルの上に落とした。
「やっぱり、それも覚えてないんですよね。俺たちって実は……いや、ここではやめとこうかな」
 自嘲気味に笑った男に対し、藤真は鼻で笑い返す。
「人づてに交通事故って聞いて、偶然会うまで放置って? そんなん絶対付き合ってねーし、億が一付き合ってても冷めきってるだろ」
 迷いもせずに言い返してきた藤真に、仙道は目を瞬く。
「なんだ、意外としっかりしてるんですね。知らないおじさんについて行ったりしなそうで安心しました」
 日ごろとは異なる可愛らしい反応を示すことに、多少の期待はあったのだが、根は藤真ということだろうか。
「自分と周りのこと覚えてないってだけで、あとは別にマトモだし」
「いや記憶失っててマトモなわけないですから! ほんと気をつけてくださいよ、なんか今日藤真さんかわいいんで!」
「えー?」
 そうかな、自分だとよくわかんないけど、など言いつつ首を傾げているところにケーキが運ばれてくると、反射的なものなのか愛想よく微笑する。そこらの女子よりよほど美少女に見える、目の前の光景に男子高校生の概念を崩されて、仙道は額に指を当てた。
「……いつまで外ぶらついてる気なんです? 夜はちゃんとおウチ帰るんですよね?」
 ケーキをひとくち、口に運んだフォークを咥えたままで、桜色の唇が綻ぶように愛らしい曲線を描く。
「夜は牧と会うんだ」
「はい???」
 理解を阻害するのは視覚だ。藤真は愛想笑いなどではなく、本当に嬉しそうに、そして照れたように目を伏せて微笑している。長い睫毛が影を落とす、秘密を孕んだ可憐な表情は、まるで恋する乙女だった。
「海南の牧、知らない?」
「そりゃあ知ってますけど。……てか神奈川の高校で真面目にバスケやってたらだいたい知ってると思いますし、ついでに藤真さんとソコソコ仲いいんだなってのもわかりますけど〜……」
 そこそことは言ったが、ふたりの間にあるものは執着だと思っている。ライバルなのか戦友なのか仲間なのか、最適な言葉の形までは考えたことがなかったが、少なくとも今藤真が浮かべた表情と合致するものではなかったと思う。
「なんだ、やっぱ仲よかったのか!」
「いやっ、」
(知ってるおじさんならいいって話じゃないんですよ!?)
 そう言いたいところを堪えた、仙道の口からはただ戸惑いだけが漏れる。
「ええっと、聞いちゃっていいのかな……」
 仙道が狼狽を表に出すことは非常に珍しいのだが、今の藤真がそれを知る由はない。
「夜に牧さんと会って、一体ナニを……」
「そんなこと、聞くなよう」
 藤真は白い頬をみるみる上気させ、困ったように、しかし思わせぶりに笑った。
(うっそ牧さん、記憶喪失のひと相手になんてことしちゃってるんだ……男のひとって、ケダモノなのね……)
 コートの上の姿のみではなく、日ごろの牧の穏やかな人となりを知っているからこそ、困惑してしまう。しかし、あくまで冗談のつもりではあったが、自分がデートだのと口にしたときは藤真は即座に否定していた。
(んー、俺が知らなかっただけで、ふたりはもともとそうだったってこと……?)

 嬉しかったんだ。
 昨日牧に体を触られながら『なにも覚えてないから初めてと同じだよ』って言ったら、牧は驚いたみたいに、照れたみたいに、でもすごく嬉しそうに笑った。こうなってから初めて誰かに褒められたような気分だった。
 バスケはしない、昔話を聞いてもなにも思いだせない、そう言ったとき、優しげな表情の下で筋肉が強張るのがわかった。牧の明らかな落胆を感じてた。ベッドの上で縺れてるうち、今のオレにも牧を喜ばせることができるってわかったら嬉しくて、なにされたっていいって思った。……結局昨日はセックスまではいかなくて、オレはなんだか拍子抜けしたような、安心したような気分で家に帰ったんだけど。
 今日は昼間は仙道と時間潰して、夜になって牧と駅で待ち合わせてメシ食って、牧の家に来たってところだ。
 玄関に上がると、だだっ広いダイニングキッチンの片隅に放置されてる黒いレジ袋の存在が妙に気になった。牧がトイレに入ってる隙に中を覗いて、オレは固まってしまった。
「藤真、どうした? ……!!」
 袋の中にはコンドームの箱とローションとイチジク浣腸が入ってて、オレの行動に気づいた牧はあからさまに動揺していた。
「そ、それはだな! 違うんだ!」
「なにが違うっていうんだよ」
 どうなってもいいって思ったのは本当だし、それがどういうことかってのもぼんやり知ってたけど、こうもあからさまなものを見てしまうとやっぱり戸惑う。
「備えあれば憂いなしっていうか……」
 つまり昨日しなかったのは備えがなかったからか、と納得してしまった。昨日の今日で明らかにやる気で買ってきたくせに、今否定しちゃってるのはなんなんだろう。やっぱりオレへの遠慮なんだろうか。牧の目が泳いでる。オレは少しだけ嘘をついた。
「いいよ、大丈夫。……そういうのも、興味あったし」

 本当は少しこわかった。痛いのが嫌ってことじゃなくて、誰にも知られちゃいけない犯罪をするみたいな……牧が昨日言ってた女顔コンプは覚えてないけど、元のオレが持ってた常識ってのは今も残ってるから、本能が拒否ってるのかもしれない。
 でもいいんだ。そんなのよりも、オレは牧と先に進みたい。牧の中で、昔のオレと比べられないようなものになんなきゃいけない。
 牧は鷹みたいな目でオレを見て、噛みつくようにキスをした。
(こわい……)
 オレは優しい牧しか知らない。それとも牧のこんな顔、お前(オレ)は見たことあった……?

 広い手のひらが、硬い指の皮膚が、厚い唇と舌が、しるしをつけるみたいにオレの体のいたるところに触れていく。湿った息が肌を撫でるだけで感じて、恥ずかしいくらい体が波打った。視界に入るふたりの肌の色の違いに、堪らなく興奮する。
 体温が高いのか、牧の体は熱くて、筋肉質な胸と腕に潰されるように抱かれると、熱をうつされたみたいにオレの体も一気に熱くなった。落ち着いてるようでいて働いてない頭で、牧はどういう気持ちで力を込めてるんだろうとか考えていた。
 太腿には勃起した牧のモノがしきりに押しつけられてて、威圧されてるような、急かされてるような気分でオレは、だけどそれを嬉しいって感じてた。昨日からずっとそうだ。牧がオレを求めてるっていう、それがカタチでわかるのが嬉しい。

 ベッドの上にうつぶせになって、膝をついて尻を掲げた、無様な格好を晒すことそのものに感じてるみたいに、体じゅうの敏感なところが疼いてる。
「あっ…!」
 冷たくて、ぬるりとした感触が尻の穴に触れた。少し硬い皮膚をした、牧の指だ。穴をほじくるようにして、じりじりと中に入ってくる。
「ぁ、んっ……」
 恥ずかしいのを気持ちいいって感じる性癖なのか、よくわかんないけどそこを触られるのは思いのほか気持ちよくて、普通にヘンな声が出てしまった。
「痛くないか?」
「うん。平気」
 意外と大丈夫だなって思ってたら「そうか。まだ小指だからな」って言われてちょっと気が遠くなった。

 牧は丁寧にそこを慣らしていった。
 尻の穴を剥き出しにして触られて、指を突っ込んで中を探られる。記憶がなくてもまともな行為じゃないのはわかってて、でも今は恐怖心よりひたすら〝いけないことをされてる〟実感に盛り上がってる。なんか絶対的なものに反抗してるって感じで……体に受ける感触とは別のところでイイ気分になってた。
「あぅっ、あ、んんっ……あっぁぁっ…!」
 ぐちゅぐちゅ音を立てて掻き回されながら前に触られると堪らなく気持ちよくて、中で感じてる気分になって頭の中までぐるぐる掻き混ぜられるみたいで──本来の目的を忘れてそれだけでイきそうになるのを、まるで見越してたみたいに寸止めされてしまった。
 牧はオレの背中に覆い被さって耳もとに囁いた。
「挿れていいか?」
 優しい風に聞いてきながら、すっかりでかくなったモノが尻に当たってる。ここまできてわざわざ聞くのかって思いながら、オレは声を絞り出した。
「いいよ、いれて……」
 後ろのほうで包装を破る音とゴムをつけてる音が聞こえて、忘れかけてた緊張とこわさが戻ってくる。尻の谷間にゴム越しのそれを擦りつけられてる時点で、もう圧倒されていた。
「っく、あ、あぁっ…!」
 棒なんかじゃなくて塊だった。ゴムを被った肉の塊。それをローションの滑りを使って押し込まれて、オレは快感とは呼べない感触に腕を噛んで声を殺した。
「うぐっ、うっ…」
 苦しくて、牧が腰を押しつけてくるたびに声が漏れた。喘ぎじゃなくて、潰したら鳴る子供のおもちゃみたいに、体の中の空気が押し出されるついでに声帯が揺れてるって感じだ。
「入ったぞ、藤真……」
 牧は静かな声で呟いて、大きな手で、ここに入ってるよってオレの腹を撫でた。灼けるみたいな腹の中とは全然違う、優しい感触だった。だからたぶん、これでいいんだと思う。

 後ろから抱えられて胸とか前とか弄られるうち、オレも苦しいばっかりじゃなくなっていた。痛みに慣れただけかもしれないけど、それよりもただ、牧のことが好きだって感じてた。
「ふじま…」
 ほとんど息だけで何度もオレを呼んで、ときどき耳とか肩とか弱く噛んできて、かわいいライオンの子供みたいって、よくわかんない妄想が頭に浮かんだ。
「好きだ、藤真……」
 言葉、感触、息遣い。苦痛のために快楽に浸りきれなかった意識も、牧のリズムに絡め取られ呑まれていく。

(結ばれてしまった……)
 体が痛い。脚の間もまだジンジン疼いてる。だけどすごく満たされた気分だ。幸せって言っていいと思う。隣でまったり横になってる牧の肩に頭を寄せる。
「まき」
「どうした?」
「……なんでもない」
 めちゃ鍛えてるなとか、肌は地黒なんだなとか、たぶんそれはいまさら藤真が言うべきことじゃないんだろうって、不意に気づいて言うのをやめた。幸せになったはずなのに、少し苦しい。
「好きだよ」
 だから事実がほしかった。セックスすればオレはお前の特別になって、昔のオレを上書きできるんじゃないかって、そんな気がしてた。
「ああ、俺もだ……」
 そう言って牧がキスをした、左のこめかみにはオレの知らない傷がある。夏の大会でやったってくらいは聞いてるけど、たぶん今のオレよりは牧のほうが詳しいと思う。
(別にさ、覚えなおせばいいだけじゃんか)
「牧。双璧の話をしてよ」
「双璧の話って?」
「うん。バスケの細かいこと言われてもわかんないけどさ、ふたりのできごとみたいなやつ。なんかあるんだろ」
 昔のオレについて話すとき、牧はすごく優しい顔してた。性的な意味かどうかはわかんなかったけど、オレのこと好きなんだってすぐわかるくらいに。オレも全然嫌な気がしなくて、それで仲よかったんだろうなって自然に思った。だけど他校のふたりが仲よくなるまでに、きっといろんなことがあったはずだ。
「……と言われても、そう特別なことはなかったと思うぞ。バスケに向き合えば自然とお前を意識することになったし、たぶんお前も同じだったと思う」
 はぐらかされた。
(どうして教えてくれないんだ)
 牧の中にあるオレの思い出をオレが全部呑み込めば、牧に寂しい顔させなくて済むと思うのに、牧はどうしてもそれを許してくれないみたいだ。

 翌朝、牧はアラームが鳴るより先に起きてたようだった。習慣ってやつか。あくびをしながら牧のベッドの中でもぞもぞしてると、笑われてしまった。
「すまん、起こしちまったな。まだ寝てていいぞ」
 オレは意地で起き上がった。昨日あれから帰るのがダルかったのと、牧もいいよって言ったからお泊まりしたものの、牧は今日も部活だ。
「パン食うか?」
「……いい。腹減ってない」
 なんも考えてなかったけど、迷惑だったかもしれない。実際腹は空いてなかったけど、ちょっとは遠慮もあって、オレは首を横に振った。
「じゃあ、腹減ったら冷蔵庫にあるもん勝手に食っていいからな。カップ麺もあるし……まあ、出前でも外食でもいいが」
 お父さんみたいだなって思ったけど言わなかった。オレは配慮するってことを覚えたんだ。
「そうだ、これ」
 牧の手から、鍵を一つ渡された。
「なに?」
「うちのスペアキーだ。外に出るときは鍵掛けてってくれ」
「ああ、うん……」
 当たり前のことで、必要だから渡されただけなんだろうけど、合鍵のイメージがあって照れくさい。さっさと身支度をして玄関に行ってしまう牧に、オレものそのそと続いて歩いた。
「あと一応ここに金置いてくから、適当に使ってくれ」
「いいってそんなの、オレだって一応あるし」
 聞こえてるくせに、牧は財布から札を何枚か取り出して靴入れの上に置いた。まあ、使わなきゃいいだけだ。
「じゃあ、いってくるな」
「はーい、いってら」
 靴を履いてこっちを見た牧に、ぎゅうと抱きついてキスをした。いってらっしゃいのキスだ。
「!! ……」
 牧は応えるみたいにオレを抱き返して、抱き返して──
「おい、はやく行け!」
 いつまでもそうしてるから、オレのほうから体を剥がして、家から追い出すみたいに背中を押して送り出してやった。

 二度寝して昼過ぎに起きて、キッチンにあったパンを齧りながらテレビをつけた。
(なんもやってねー。近くにレンタル屋があるらしいから、なんか借りてくるか)
 特別なものになったつもりでいても、牧はオレを置いて部活に行ってしまう。それを当然だって感じるのは、染み付いた記憶なのか、ここ数日で学習しなおしただけなのか。
(オレにだって、たぶんバスケしかなかったんだ)
 昨日も今日も、こうして無駄に時間を潰してるのがその証拠だと思う。
 ていうか、バスケに向き合ったらオレに向き合うって牧が言ってたの、適当にごまかされたんだと思ってたけど、ほとんどバスケ部ばっかりの生活してたら、ライバル校のやつとかそりゃ意識するようになるか……な? いまいち実感が湧かない。
 記憶が戻らないままでも、意外と困らないかもしれないとは未だに思ってる。今朝だって、いい感じに恋人みたいにできたと思うし──そうやって新しいものは積み上がっていくだろうけど、でも、昔のことは埋まらない。双璧は宝物って意味だって牧は言ってた。牧の宝物のことを、オレはずっと覚えてないままなんだ。

 夜、玄関で鍵の音がしてるのに気づいて、オレはドア前で待機していた。
「牧、おつかれ! おかえり!」
「藤真……! ただいま」
 牧は面食らって笑うと、抱きしめてキスをしてくれた。別にこれだけで充分なんじゃないかって揺らぎそうになるけど、でも決めたから、オレは俯いて牧の肩に顔を寄せた。
「牧。オレ、バスケの練習をしようと思うんだけど……付き合ってくれる?」
「!! ああ、もちろんだとも!」
 牧はオレの両肩をがっしり掴むと、いかにも体育会系な感じで揺らした。たぶん牧はすごく嬉しそうな顔してるんだろうって思ったから、体が離れるまでオレは顔を上げることができなかった。

その表情カオの理由を教えて 3

3.

 牧の住むマンションの居室。どうということもない1DKの一室だ。牧は藤真をソファに座らせて飲みものを出すと、雑誌のラックの中から一冊を引っ張り出し、目当てのページを開いてローテーブルの上に置いた。
「これが一年のとき」
「いやっ! おっさんっ! お前今より老けてんじゃね?」
 目に飛び込んだ写真を見るや否や、藤真は声を上げて笑った。
「俺のことはいいじゃないか」
 ほかに何冊か見繕ったものを並べて置くと、それに向かうように床にあぐらをかいて眉間に皺を寄せる。今は自分の話ではなく藤真の話をするつもりなのだ。
「え、まあオレもちょっと今より子供だけどさ、お前のせいで余計子供に見えるんだと思う」
 ツーショットではなく個別に撮られた写真だが、同じページにあるせいで、どうしても一度に目に入る。前髪にボリュームをもたせたリーゼントスタイルの牧と、短い前髪の下に華やかな目もとの際立つ、少女にさえ見える藤真とは、到底同級生には見えなかった。
「俺のせい?」
「そうだよ? 自覚ねえのかよ」
「ないってわけじゃないが……」
「髪型もさ! なんで? ポリシーとか?」
「気合が入るんだ」
「好きでやってんなら別にいいけどさあ。髪型のせいで余計おっさんに見えるんだよな」
「……」
 容赦のない言葉が牧の柔らかな部分にぐさぐさと突き刺さる。あだ名が〝お父さん〟だった小学生のときから、自覚はあったつもりだ。しかし藤真からここまで言われたことは今までなかったと思う。
(もしかして、今までも同じように思ってて、気を遣ってたのか……?)
 藤真は特にバスケットボール関連の場所では、自らの容姿の話題を好まない傾向があった。だから牧の容姿についても多くは語らなかったのかもしれない。
「おーい? 怒った?」
 牧はがっくりと肩を落として、怒っているというより、明らかに落ち込んでいる。藤真もさすがに焦り、慰めるように肩をポンポンと叩いた。
「ごめ、ごめんって。記憶喪失のやつに言われたことなんて気にすんなよ」
(記憶喪失だったら、むしろものすごく率直な感想だと思うんだが)
 カラオケの個室で、藤真自身がそんなことを言っていたはずだ。そして牧の憂いの原因は、自分が老け顔だとあらためて思い知ったことではなかった。
(藤真が俺に気を遣ってたこと、ほかにもあるんじゃないだろうか……)
 彼が自身の経験に基づいて牧に配慮していたことが、これからさらに露呈してしまうかもしれない。自覚していることならまだいいが、虚をつかれる可能性だってある。牧は身震いした。ものすごく恐ろしい。
「別にさ、年上に見えるのが悪いとは言ってないだろ?」
「そうだ、そうだな……」
 まさしくその通り『年上に見えるね』と、かつての藤真は言った。牧はため息をつく。
「んで、これはなんのときの記事なんだよ」
 藤真がろくに読まずに指差した誌面の見出しには、『驚異の新人!』とある。
「一年のときの、夏の地区予選の前だな。お前とはこれより前に知り合ってたから、順調にやってるんだなって思ってたもんだ」
「知り合ったのは、なんのとき?」
「翔陽との練習試合のときだ。もともと一、二年を試すって意図の試合だったが、翔陽はポイントガードに一年を使うかもってのはその前から耳に入ってて、気になってた」
「お前から声掛けた?」
「……と、思う。なんか、声掛けたってあれだな」
「なんだよ、あれって」
「いや」
 高身長の部員たちの中で、藤真の姿は、ひときわ愛らしく周囲の目に映っていたらしい。ごく単純に、同じポジションの一年同士として興味を持って話しかけに行っただけなのだが、ナンパだなんだとあとあと周囲から揶揄されたことを覚えている。
「で、地区大会ってのはどうなったんだ?」
「予選のあとのはこれだな。うちと、翔陽が全国に進んだ」
 牧は別の号を開いてテーブルの上に置いた。
「おお、なんか扱いでかくね?」
 予選の総括記事のようだが、各々の試合中のショットが大きく掲載されている。牧は相変わらずだが、先ほどよりは凛々しく写る自らの姿を、藤真はまるでよく似た他人に出会ったような気分で見ていた。
「神奈川一位、二位のポイントガードが揃って一年だからな。たぶん俺だけだったらそう騒がれなかったんじゃないか?」
「なに、オレのおかげって?」
 藤真は調子よく笑った。以前の彼はプレイへの評価こそ甘んじて受けたものの、雑誌に写真が載ることそのものを喜ぶほうではなかったから、牧は新鮮なような、やはり寂しいような、複雑な気分になる。
「海南で一年レギュラーってのはなくはなかったんだが、翔陽ではお前が初めてだったらしい。その時点で軽く話題になってて、見事結果も出したからな」
「え、オレって実は超すごい?」
「否定はしないが、翔陽の気風もあった。一、二年はあくまで下積み、公式大会では三年を優先して使ってく……って、まあ翔陽に限らずよくあることだが」
「なんで急に変えたんだよ?」
「この年から監督が変わったんだ」
 そして学年にこだわらず実力のある選手を起用していく方針に切り替えた。過去の代を遡れば、藤真のように一年時点から優れていたプレイヤーもいたかもしれない。
「ふーん、ちゃんと監督いたんだな。で、オレのことが気に入ったと」
「……プレイヤーとしてな。周りはざわついてたようだが、ともかく全国行きを決めて、お前への評価も揺るがないもんになった」
「なんだよそれ、揺らいでたのかよ?」
「まあいいじゃないか。でな、ここに」
 記事の中の、牧の指差した部分に視線を落とす。
「『牧と藤真は今後の神奈川の双璧となるかもしれない』か。こっからちょくちょく言われるようになるわけだな」
 牧の顔を見ると、落ち着いた面立ちがニッと笑った。今まで見ていた穏やかなものとは違う、野生的で男らしい笑みに、なぜだかドキリとしてしまった。
「……でもさ、司令塔の役なんだろ? 壁ってイメージちがくね?」
「かべ?」
「双璧って。二つの壁ってことだろ。並び立つ二つの高い壁! みたいな」
 やはりこれは藤真だと、牧は笑ってしまいながら、あらためて誌面の双璧の文字を指す。
「違う、よく見てみろ。これは壁(かべ)じゃない。完璧のペキだ」
「んなもんだいたい一緒だろ」
 むしろ言われても壁にしか見えない。記憶のあったころの自分はきちんと違いをわかっていたのか、はなはだ疑問だ。
「まあ見た目はだいたい一緒だが、意味は全然違う」
「どういう意味なんだよ?」
「優劣つけがたい、一対の宝玉。宝物ってことだな。ほら、〝璧〟の下のところも〝玉〟になってるだろう」
「タマ。ふたつのタマ……」
 藤真は微妙な表情で自らの腰に──股ぐらに視線を落とし、再び牧を見た。
「いいじゃないか、そんな顔をするんじゃない」
「うん、大事なタマなんだな……で、次は?」
「インターハイ、全国に行くわけだが、まあそれぞれやるべきことやってたってくらいだから省略しよう。それから、国体の合同合宿があったな」
「国体? 合同?」
「神奈川代表チームってことで、この年は学校の枠を越えた混成チームだったんだ。お前も選ばれてた」
 個人技に優れるものを集めただけで──急造のチームで満足のいく結果を出すことは容易くはない。期間的にタイトなことも影響して、混成チームとするのは通例というわけではなかった。
「それで? 合宿でふたりの間に事件が!?」
 牧は不思議そうに藤真を見返す。
「ん、なんか思いだしたのか?」
「いや? なんとなく、なんか起こるのかなって思っただけ」
「……」
 眉根を寄せる牧に、今度は藤真が首を傾げる番だった。
「おーい?」
「別に、事件ってほどのことはなかったと思う……ってよりは、国体が混成チームになって、そん中に一年で全国に行ったやつが二人いるってこと自体が事件だった」
 牧は表情を和らげ、穏やかに笑う。
「合宿は普通に楽しかったぞ」
「楽しかった?」
 藤真は目を瞬く。バスケ部の活動に対しては重くシビアなイメージを抱いていたから、牧の口から出た言葉に違和感しかなかった。
「別に遊んでたわけじゃないし、練習は厳しかったが、充実してたっていうかな。単純に、他校のやつらとできたのが楽しかった。もちろん、お前と一緒のチームでプレイできたのも、一緒にボール磨いたり体育館の掃除したのも……今にして思えばってやつなのかもしれんが」
 自ら国体合宿の話題を出しておきながら、今の藤真に伝えたほうがいいような、突出したできごとは思いつかなかった。ただ、同じ部屋に泊まって他愛もない会話をした夜、日中の忙しさや緊張感から解放された、ゆったりとした時間の居心地のよさだけを未だに覚えている。明確な言葉こそ作らなかったが、あのときのふたりは互いに共鳴していたと思う。
 追憶に浸り込みそうになって、かぶりを振るように藤真を見遣った。
「……どうだ、そろそろ思いだしてきたか?」
「全然。ただオレの歴史を学んでるだけって感じ」
「そうか。じゃあ、次は選抜だな」
 すげない返事に対する牧の表情はあくまで穏やかだったが、それでもにわかに空虚感を滲ませたと藤真は感じ取る。もとより人の心の機微には敏感なほうであるうえ、記憶を失っているため、自身が無意識に作り上げていた牧に対する距離感が取り払われているせいだった。
「牧ってさー……」
 しかし常識や一般規範は失せたわけではないから、頭に浮かんだ可能性を即座に口にするには躊躇してしまう。
「なんだ?」
「違っても引かない?」
「あ、ああ、大丈夫だ……」
 老け顔のことがあるので身構えてしまうが、窮地の藤真がわざわざ前置きをして言おうとすることを拒絶するほど、牧は臆病でも狭量でもなかった。しかし──
「牧ってもしかして、オレの彼氏だった?」
「な、ななっ、なんだとっ!?」
「違ったんだ。ごめん」
「なんでまたっ、そんなっ!」
 牧の反応は、記憶のない藤真であっても引っ掛かりを感じるような不自然なものだった。淡い色の大きな瞳が、明確な表情を乗せずに牧の姿を映す。
「なんとなく。他校なのにやたら優しいし、バスケ繋がりのくせにバスケしてなくていいっていうから、それ以上のモンがあるのかと」
 あくまで落ち着いた口調とまっすぐ見つめてくる瞳を、そこはかとなく恐ろしく感じるのはなぜだろう。以前の藤真と、こんな風に向き合ったことが果たしてあったろうか。
「……別に、バスケは無理やりやらせるようなもんじゃないと思ってるし、バスケだけがお前って思ってるわけでもない」
 歯切れの悪い返答をする牧に、対する藤真の表情は変わらない。
「なんかヘンだ。家族とか、同じクラスの友達がそれ言うならわかるけど。お前なんて一番バスケ繋がりでしかないじゃんか。……まあいいや。帰る」
「おい、藤真っ」
 牧は立ち上がった藤真の行く手を塞ぐように、その正面に立ちはだかって左右に腕を開く。藤真は前傾気味の姿勢で、瞳だけで牧を見上げる。不快感というほど強くはない、しかし抗議の色を感じさせる視線だった。
「なに、オレ今日帰れないの?」
「そうじゃない。まだ一年の途中くらいだ」
 言いながら、まだ見せていない雑誌を目で示す。
「いいよ、聞いたって思いだせないし、別にオレはこのままでもそんなに困ってないし」
「っ……!」
 記憶が戻らなきゃ、お前はバスケに復帰できないだろう──そう言いそうになって口をつぐみ、体の脇へ回ろうとする藤真の左腕を右手で掴まえた。
「なんなんだよ、一体」
「いや……」
 まだ整理がついていないのだ。
『オレはもう、お前と同じ位置には立ってられないと思う』
 インターハイ後、藤真が翔陽の監督を兼任していくことが決まったあと、ふたりで会ったときの彼の言葉が脳裏に浮上する。
『そんなカオすんなよ。別に敗北宣言のつもりじゃない。みんな俄然ヤル気になってるし、これからのオレは〝打倒・牧〟じゃなくて〝打倒・海南〟だっていう、それだけのことだ。適性あるらしいし、監督として大成してくオレを見とけ!』
 自分がどういう顔をしていたのか、具体的には聞かなかったし、当然思いだすこともできない。
『……まあ実は、オレもまだ整理しきれてないんだけどな』
 ただ藤真の言葉と、困ったような、寂しげな笑みをよく覚えている。重い唇から、つらつらと言葉がこぼれていた。
「いいんだ、別に、どっちにしたって昔のままには戻らない」
 こんなことは言うべきではないと、正しくないことだと頭の片隅で警鐘が鳴る。そも正しいとはなんだ。それを判断し選択するのは藤真自身ではないのか。
「今のお前がしたいようにすればいい」
「ていう割にさ、帰ってほしくないんだろ。なんでだよ」
 藤真は大きな手に掴まれたままの自らの腕を見る。目もとに不審げな表情を浮かべながら、唇は試すように微かに笑んでいた。
「その、なんだろうな、心配で……」
 自分が藤真を捕まえている格好でありながら、なぜだかその瞳の光に追い詰められるイメージが浮かび、逃れるように視線を泳がせる。バスケットボールのセンスとは別の部分で、藤真は元来人を操ることに長けるタイプの人間なのだろうと、かつて感じたことを思いだす。
「なら、駅まで送ってくれよ。それなら心配じゃないだろ?」
「そういうことじゃない」
「どういうことなんだよ」
 藤真は苛立った声で言い、牧に掴まれた腕をぶんぶんと揺らした。まるで子供が駄々をこねるかのような仕草だが、駄々をこねているのはどちらかというと牧のほうだった。
「記憶がないままで三学期が始まって、お前がちゃんと学校生活できるのかっていう心配をだな」
「そんなのは花形とかオレの周りのやつがなんとかするだろ。お前が気にすることじゃねえし、オレを帰さない理由にもなってない」
「帰さない、とは……っ!?」
 藤真は自らの体を牧の胸にぶつけるように収めた。自由にされている右腕を牧の背中に回し、意味ありげに笑う。
「ふ、藤真? どうした、寒いのか?」
「ぶはっ!」
 藤真は咄嗟に俯いて思いきり吹き出し、そのまま牧の胸に額を押しつけた。
「そうくるか。寒いって言ったら、あっためてくれるのかよ?」
「エアコンの温度を……」
 藤真の肩が震えている。寒いのではなく笑っているのだと、さすがの牧にも理解できた。
「お前、試合の写真だとめちゃくちゃ押し強そうなのに、全然違うんだな」
「藤真、一体」
「手、放せよ。逃げないから」
 掴まえていた左腕を解放すると、それはやはり牧の背に回り、藤真はすっかり牧に抱きついて懐に収まる格好になる。
「藤真っ……」
 肩に手を置いたきり、抱き返しはせず、困惑の声こそ上げたが、力ずくで引き剥がそうとはしない。なぜだろう。藤真は体を縮めて牧の胸に頬を、耳を押しつける。体が熱く、鼓動は速い。思い出などなくとも込み上げる言葉がある。果たして以前の自分は知っていただろうか。
「牧。オレ、お前のことが好きだ」
 肩に置かれた指が、ぎこちなく波打つ。
「藤真、それはっ……!?」
 否定の気配を感じて顔を上げ、言いきる前にキスで唇を塞いだ。明確な拒絶は相変わらずなく、顔を離すまで牧は身を強張らせていた。
「嫌じゃないんだろ?」
 確信して覗き込む瞳から、牧は逃れるように顔を背け、自らを落ち着けるよう息を吐く。
「……お前のこと、そんな風に見たことなかったんだ」
 おそらくそれは違う──藤真は漠然と感じながらも口には出さず、肩に置かれたままの牧の手を掴み、自分の背に回させた。牧はされるがままだ。両方ともそうさせて、駄目押しのように顎を捉え自分のほうへ向ける。
「じゃあ、今からそんな風に見てくれ」
「お前は男だ」
 声も表情もいかめしい雰囲気はあるが、凄みがないのは視線が逃げているせいだろう。顔が赤らんでいるように、見えなくもない。
「NGの理由はそれだけか? いいじゃん別に、そんなの」
 くだらないと言わんばかりに、藤真は腕に力を込めてぎゅうと牧に抱きつく。
「俺たちはそんな関係じゃなかった」
 牧は自らの声を、ひどく白々しいと感じながら聞いていた。相反するように、顎をくすぐる髪の感触は生々しく艶かしく、腕の中の体は布越しにも充分な体温を感じさせる。甘美な誘惑に抗うように、体じゅうの関節が軋んだ。
「オレはこうしてここにいるのに、お前はなにをそんなに守ろうとしてる?」
「は……」
「結局、記憶がないオレが感じてることってのは、お前の知ってるオレのものとは認められないんだな」
「……!」
 失望を感じさせる声とともに藤真の腕が緩み、密着していたふたりの体に隙間ができる。顔は俯けたままで、表情は見えない。
「思い出なんてなくても、オレはちゃんとお前が好きなのに」
「藤真……!」
 堪えられなかった。ずっと抱いていた罪悪感を押し潰すほど膨らんだ愛しさと、つらい言葉を吐かせた苦しさとで何も考えられなくなって、離れようとする体を思いきり抱きしめていた。
「俺もお前が好きだ、藤真……」
 隠匿した衝動だった。風に撫でられる柔らかな髪に、青い空の下で透明感を増した肌に、太陽の粒子を乗せた長い睫毛に、それが作り出す表情の数々に、目を奪われた。触れたいと思った。その先にいたものは、好敵手でも友人でもなかった。
 心臓の音がうるさい。体じゅうの血が沸いている。急激に体温が上がって、服の下の肌にじわりと汗が滲む。
「すまん、藤真……」
「なんで謝る?」
 甘い声だった──痺れていく頭脳が、そう解釈しただけだったかもしれない。期待するように細められる瞳から、逃れることはできなかった。
 上向けられた顎に、緩く弧を描く唇に、吸い寄せられるようにキスをする。唇を重ね、皮膚のみでなく粘膜を合わせ、どちらともなく舌を縺れ合わせる。
「っ……!」
 藤真の手が牧の下腹部を撫で、遊ぶような仕草で明確な欲求の形をなぞる。牧ももはや、衝動に抗う気は失せていた。

 カルキのにおいは時間の経過とともに薄まったのか、それとも鼻が慣れて感じなくなったのか、判断がつかない。男二人が寝るには窮屈なベッドの中で、ふたりは裸で身を寄せ合っていた。
「藤真、あのな……お前は昔、かわいいとか、女みたいだとか言われるの気にしてて、嫌がってたんだ」
 牧は藤真の体を抱え、愛おしげに背中を撫でる。余計なことを教える必要はないのかもしれないが、どうにも藤真を騙すように感じて気が咎め、黙っていられなかった。藤真は牧の肩口に頭を寄せている。
「って言われても、覚えてないし」
「覚えてないにしろ、俺とこうなっちまって、平気なのかと思ってな」
 してしまったあとで言うことでもないのかもしれないが、とまでは言わなかった。
「え? だって別に、キスして体触って、ちんぽ触ったり舐めたりしただけじゃんか。お前、オレのこと女扱いしてたのかよ?」
「んなっ……!?」
 言われてみれば、今日のふたりは〝そこ〟にまではいたっていない。牧は自分が雄の立場であると思い込んで疑っていなかったのだが、もしかして盛大に勘違いをしていたのだろうか。
「ふっ……すげえ、絶望したみたいな顔!」
 藤真は意地悪く笑い、牧は背中に冷たい汗をかく。
「す、すまん藤真、ええと……」
「ウソウソ、平気。なんとなくそんな感じはしたし」
 挿入こそなかったものの、組み敷いての愛撫の格好など完全に男女のようだったし、自分もすっかり喰らわれる感覚になっていたから、文句はなかった。少しからかってみただけだ。
「あと、オレが先にお前のこと『彼氏』って言ったんだしな」
「!! そういえばそうだな!?」
「ヘイ! カレシ!」
 ふざけた口調で言ってくつくつ笑った、愛らしい笑顔にくすぐられる胸がなぜか苦しい。新しい恋人と引き換えに大切なものを失ってしまうのではないかと、押し寄せた不安は柔らかな唇の感触に呑まれて消えた。

その表情カオの理由を教えて 2

2.

 校門を出ると、妙に目立つ人物と思いきり目が合った。
「藤真……!」
 冬でも色黒の肌に茶色の髪。グレー掛かったネイビーの、スーツのような制服がウールのコートの下から覗いている。自分よりずっと年上に見える容貌に、目の下のほくろ。該当する人物に見当をつけるのは簡単だった。
「!! まき……?」
 まさしく花形から聞いた通りの特徴であるし、部室にあったバスケットボールの雑誌で写真を見たので間違いないだろう。雑誌では前髪を後ろに撫でつけていたが、今は左右に自然に下ろしていて、穏やかな印象だ。
「どうしたんだ、練習中なんじゃないのか」
 牧は藤真の姿をまじまじと見て目を瞬いた。藤真は制服の上にコートを羽織って肩にバッグを掛け、完全に帰る格好だ。
「えっ……と」
 まだ午前中で、牧の言う通り、バスケ部のみならず部活のあるところならば確実に活動している時間だ。しかし藤真は帰宅しようとしている。いや、意図としては家に帰ることではなく、部活動を放棄することだった。
「なんか用?」
「用ってわけでもないんだが。交通事故に遭って昨日から部活に復帰してるって聞いたから、顔を見にきた」
「……」
「そんな、変なもんを見るような目で見ないでくれ」
「ああ、ごめん」
 牧は今の藤真にとっては未知の存在だ。変と思ったわけではないが、観察するような目で見ていたことは事実だった。
 しかし牧にとって藤真は既知の存在だ。妙に素直に謝罪を口にしたことと、部活を早退しようとしている彼の行動に、当然の違和感を抱く。
「帰るのか?」
「うん」
「少し話さないか?」
 藤真は眉根を寄せて牧を見る。海南は翔陽の倒すべき相手で、同じポジションの牧と自分は双璧と呼ばれるライバル的な関係だった。しかし険悪な仲ではなく、親しげな様子だったという。牧は少し変わった男だが悪い人間ではなさそうだから、状況次第では記憶喪失のことを打ち明けるのも仕方がないだろう、とあらかじめ花形と話していた。ならばこの状況ではどうするべきか。
「……いいよ。少しなら」

 道中、牧は無言だった。誰が聞いているかわからない場所で記憶がないことを露呈したくない藤真としては都合がよかったが、少し不思議でもあった。
「……」
 ときおり注がれる、訝しむような視線が痛い。牧より後ろを歩こうと努めていることに、おそらく気づかれている。通学路以外の道をまだあまり覚えなおしていないせいなのだが──
(こりゃダメだ。着いたらとっとと吐いちまおう。どこ行くのか知らねーけど)
 やがて牧が足を止めた店の看板を、藤真は思わず読み上げていた。
「カラオケ」
「俺だって学習するんだぞ」
 藤真の周囲は何かと喧しい。会話に聞き耳を立てたり写真を盗み撮りするような不届きな輩がいるので、内容にもよるが、翔陽の近辺で彼と話すときには場所を選んだ。
 藤真はその経緯は覚えていないものの、話したい内容からすれば個室は望むところだったので、何も言わず牧について指定の部屋に入った。L字型にソファが置かれており、入室順の都合で牧が奥に、藤真がドア側に掛ける。
「ジンジャーエールでいいか?」
「うん」
 考えずに返事をして、二人分のドリンクを注文する牧の手と顔とを交互に見る。
(ジンジャーって、オレの好みなんだろうか。牧の好みなんだろうか)
 そのうち、バチリと目が合ってしまった。
「どうした?」
「うん?」
「調子が悪いのか?」
 藤真の早退の理由だ。それに、ここに来るまでの間の様子も気になった。交通事故のあと、初めは問題ないようでも、時間差で異常が出てくるというのは珍しいことではないはずだ。
「……うん」
 否定してほしいと望みながら口にした言葉にあっさり頷かれ、牧は深く息を吐いて額に手を当てた。いや、重いものとは限らないだろう。ゆっくりと首を横に振る牧に、追い討ちのように衝撃的な事実が告げられる。
「オレ、記憶喪失なんだ」
「……きおく、そうしつ?」
 牧はまるで子供のような口調で、辿々しくオウム返ししていた。即座には認められなかったゆえの、反射的なものだった。
「うん。記憶喪失」
「って、あの、記憶がなくなるやつか?」
「それ以外になにがあるっていうんだよ」
 花形とも、ほかの部員とも、遡れば家族とも似たようなやり取りをしたのでわかってはいたが、記憶喪失とは非常に現実味がないものらしい。それでいてフィクションにはありがちなので、認知だけはされている。牧は信じられないというように目を瞠り、自身を指差した。
「だってお前、俺のこと覚えてたじゃないか」
「覚えてはない。オレに関わってきそうなやつのことを花形から聞いてたってだけだ」
 牧は絶句する。そのうちに部屋のドアがノックされ、藤真は店員からドリンクのグラスを二つ受け取って一つを牧の前に置いた。牧が何も言わないので、様子を窺いつつちびちびと喉を潤す。
「覚えてないのか? なにも?」
「なにもっていうか、これはテーブルだとか、カラオケは歌う場所だとか、なんかそういうのは覚えてるけど。自分のこととか、人間関係とかは覚えてない。だからお前のことも、翔陽のバスケ部のやつらのことも知らない……んだけど! これはごく一部にしか伝えてないことだから、絶対言いふらしたりすんなよ!」
「ああ、ああそうだな。わかった……」
 牧は沈みながらもこくこくと頷いた。翔陽の選手兼監督となった藤真がさらに記憶喪失だなど、噂話の好きな連中の格好の餌食だろう。
「なんだよ、そんな凹むなよ。オレは元気なんだから」
 明確に不快感を顔に表した藤真に、牧は戸惑いつつも苦笑した。
「そうだな、健康ならそれで……記憶だってそのうち戻るんだろうしな」
 三十代にも見えるような年齢不詳の顔貌に、なんとも寂しげで悲しげな表情を浮かべる牧を、藤真は不思議な気持ちで覗き込む。
「牧って、オレのなに?」
「え?」
 上目遣いのせいで日ごろより丸く大きく見える瞳から覗くものは、試すような作為ではなく、純粋な好奇心のようだった。知っているようでいて記憶とはどこか異なる藤真の表情に、牧は思わず身構える。
「海南のポイントガードだとか、ライバルっぽいやつっていうのは聞いてるけどさ。もうちっと仲よかったんじゃね?」
「……仲は、悪いとは言わないだろうな。試合の外で揉めるようなことはなかったぞ」
 藤真の疑問を解消したい気持ちはあるが、記憶を失っている相手に、主観でしかない返答はしがたいものだ。牧は唸りながらジンジャーエールを口に含み、牧の内心など知る由もない藤真はその姿にごく呑気な感想を抱く。
(同じのなのに、牧が飲んでると酒みたいに見えるな)
「藤真と俺が仲よかったって、誰かがそういうことを言ってたのか?」
「いやー……」
 花形からは『悪いやつではない』としか聞いていない。誰かではなく今の藤真自身が感じた、直感的なものだった。
「なんも覚えてなくても、そいつがオレのこと好きか嫌いかってのはなんとなくわかるよ。むしろ相手と自分の関係を知らないからこそストレートに感じるものもあるんだろう、って花形が言ってたけど」
 そして牧の反応だ。驚きや戸惑いの色の濃かった部員たちとはまた違って、落ち込んで寂しげに見える。同じポジションの対戦相手というだけのものとは思えなかった。
「す……うーん、なんていうかな」
 牧は引き続き歯切れ悪く、言葉を探すように口もと全体を手で覆っている。
「なんなんだよ。友達?」
 それならそうと言えばよさそうなものではあるが。
「前にそう言って、お前に怒られたことがある」
 お前と友達になった覚えなんてねー! と、単なる軽口として言われただけで、牧も本気の拒絶とは受け止めずに笑って流したものだったが、そんなやり取りも忘れ去られてしまったのか。怪我がないというだけで喜ぶべきなのだろうが、やはりひどく寂しい。
 藤真は怪訝な顔で牧を見つめた。
「お前、なんかオレに嫌われるようなことしたのかよ」
「そんなことしてないぞ。……いや、その、お前はそういうやつだったんだ。意地っ張りっていうか、天邪鬼っていうか」
 言葉では突き放されても実際は嫌われてなどいないと、ひとりで思っている分にはいいのだが、当人にそれを説明するのは非常に気恥ずかしい。
「ウソぉ? オレは優等生だから監督まかされたんじゃないのかよ?」
 唇を尖らせた、拗ねるような表情を、牧は不思議な気分で見つめる。知らない表情ではない。だが、ずいぶんと久しぶりだ。一年生の始めのころ、今よりずっと幼かった彼のことを思いだす。くるくると変わる表情が、非常に印象的だった。
「まあ、そういう面もあるだろうが……」
 性格そのものは奔放だが、バスケットボールに対しては誠実な男だった。自身がチームの中で重要な位置にいる自覚もあった。そして少なからず、夏のインターハイの敗戦に責任を感じていた。人事については詳しい事情は知らないのだが、監督を兼任するという提案を、藤真が拒否できるとは思えなかった。
「どっちなんだよ」
「人にはいろんな面があるもんだ」
 藤真はつまらなそうに、組んだ脚の膝の上に頬杖をつく。
「ふーん。じゃあ、オレのこと監督って呼んだり、偉いやつみたいに見てくる一年とか騙されてるのか。カワイソ〜」
「別に騙されてはないだろう。尊敬される面もあるし、かわいい面だってあるってことで……」
 藤真は目を据わらせて牧を見た。
「いや、別に悪い意味じゃないぞ!?」
「ないよ」
「なに?」
 何に対する否定なのかわからず、ごくシンプルに聞き返していた。
「オレ、バスケのことも覚えてないし、覚えなおす気もないし。尊敬されるようなところなんてもうないよ」
「……!」
 牧は再び言葉を失い、藤真は素知らぬ顔でドリンクを口に含む。
「それで部活を早退してきたのか」
「うん。早退っていうか、記憶が戻るまで行かないと思う」
 悔しさも何も滲ませずに淡々と言った藤真の、素っ気ない表情を信じられない思いで見つめる。記憶がないと聞いただけのときよりも遥かに衝撃的で、途方もない喪失の予感に心臓が震えた。絞り出した、声は動揺で上ずっていた。
「覚えてないんなら、翔陽の部員たちの前じゃやりづらいもんな。……そうだ、俺が練習に付き合おう。やってみれば体が覚えてることだって」
「やだよ。面白くないもん」
「バスケ部の中で、自分だけが思うようにできないって状況が面白くないだけだろう。お前ならすぐに」
 言葉の途中で藤真が立ち上がる。
「帰る」
 素早くコートとバッグを抱えた腕を、牧は咄嗟に掴んでいた。
「待てっ!」
「待たない」
 藤真は部屋の入り口に向かおうとするが、強烈なまでの力で後ろに引っ張られ、再びソファに尻をつく。その勢いで、背中から牧の体に凭れ掛かってしまった。牧は藤真の背中を抱えるようにして、両の二の腕をがしりと掴まえる。
「放せよ!」
「藤真……」
 突き刺すような鋭さで牧を睨んだ視線は、一瞬泣きそうに歪むとすぐに背けられた。
「……そうだよな。お前だってバスケ関係の知り合いなんだから、そうなるよな」
「藤真?」
 藤真は牧に顔を向けないまま、部屋のドアを見据えて言った。
「放せ。バスケしてないオレになんて興味ないだろ」
「そんなこと言ってないだろう」
「言ったよ。バスケしろって言った。そうじゃなきゃオレじゃないって思ってるからだ」
「そんなことは思ってない。お前がバスケを好きだったのは事実だから、ただそれを勧めたってだけじゃないか」
「でも今は好きじゃないよ。だからしない」
「……それなら、それでいい」
 それは牧の望みではなかった。強いとか鈍感だとか言われがちな心臓が、チクリと痛む。しかし藤真がしたくないというものを、無理やりさせたいとも思わない。
「いいの?」
 体を後ろに傾けた藤真が思いきり上を向くと、後頭部が牧の胸に埋もれて目が合った。
「! ……いいっていうか、別に俺が決めることじゃないからな」
 角度のせいでいっそう丸く見える瞳が、不思議そうにこちらを見上げている。それは子供のような言葉とも相まって、愛らしい小動物を連想させた。牧はこの状況には不似合いな感覚に戸惑って視線を逸らす。
「いや、そうだ、敵チームなんだもんな。翔陽が弱くなったほうが、都合がいいってわけだ」
 牧は面食らって即座に返す。
「そんなこと、思うわけないだろう! 俺は、お前が監督をやるのだって反対だったんだ」
 そこまで言ってしまってから、はっとして口をつぐんだ。
「なに、シクったみたいな顔して」
「別に……」
 藤真の監督兼任については、牧が密かに思っていただけで、以前の藤真にも伝えたことはなかった。他校のことだし、藤真が発案したことでもない。いわば〝言っても仕方がない〟ことで、藤真の気勢を削ぐ形になるのも本意ではなかった。
「オレ、覚えてないから繋がりがよくわかんないんだけど。翔陽が弱くなるのと、オレが監督やるのって、関係あるのかよ?」
「いいだろう、別に」
「よくない。話聞いたら記憶が戻るかもしれないだろ、協力しろ」
 そうは言ったものの、周囲の──主にバスケ部の面々の思いとは裏腹に、藤真自身には記憶がないことへの焦りはほとんどなかった。よって、記憶を取り戻すことを特段心がけて行動する気もない。単純に、牧が言い淀む話の内容が気になっただけだ。
「あと、もうちょっと帰らないでいてやるから放してくれ」
 牧は掴んで引き寄せたままだった藤真の二の腕を解放し、藤真は再び元の位置に座りなおす。短い沈黙ののち、牧はすうと目を細めた。優しげな表情で、微笑しているようにも見えた。
「……俺たちのポジション、ポイントガードってのはチームの司令塔だが、お前は特にコントロール型だと俺は思ってる」
「ボールのコントロールってこと?」
「試合のコントロールだ。自分が動くことばかりじゃなく、試合中に状況を判断して味方に指示を出したりだな。ただ点を入れればいいとか、ただパスをカットすればいいとか、そういうポジションじゃない」
「リーダーみたいなもん?」
「まあ、そうだな。部活だからって言っちゃ悪いんだろうが、ほんとに司令塔ができてるポイントガードなんて、高校レベルじゃそう見かけない。だがお前は違った。お前がひとり入ればほかの四人の動きも見違えるように変わる。お前にはチームメイトに対するカリスマ性と、ゲームを支配する資質があった」
 話し始めを渋った割に、牧はいたって饒舌に、熱を込めて語った。穏やかな表情も、ときおり何か思いだしたかのように微笑するさまも、敵について語っているようにはとても見えない。藤真は自分の資質と説明された事柄に驚くよりも、ひたすらに牧への違和感と興味を感じていた。
「それが試合に出ないで監督としてベンチにいるんだから、見てたって全然違うチームだ」
「監督としては素人なんだろ? じゃあ試合出てるほうがいいじゃねーか」
「……よくやってるとは思ってたが、まあ、その通りだと俺は思う。翔陽にもいろいろ事情があるんだろうが」
「オトナの事情?」
「らしいな。それについてはよく知らないんだ」
 牧は困ったように笑った。藤真は納得できたようなできないような表情で唸る。
「……ふーん。まあ、どっちにしろオレがいないと困るってわけなんだな、翔陽バスケ部は」
「困るからってより、単純にお前のこと心配してるんだと思うがな。俺たちは日々バスケに明け暮れてた。人間関係がバスケ繋がりばっかりになっちまうくらい……高校生活の中心って言ってもいいだろう。俺たちがバスケをするのは、なにも特別じゃない、いつも通りのことだ。記憶が戻るのを期待するのにしたって、お前にそれを勧めるのに違和感はないな」
 今度は藤真が困ったように笑った。牧のことはもはや完全に味方だと認識している。彼の言っていることも、どうしてほしいのかも、わからないわけではなかった。
「……記憶喪失のこと話した部員の一部から、オレはすごかったんだとか、憧れだったみたいなこと力説されてさ。監督になったのもかっこいいって思ってて、一緒に頑張りたいって、燃えてるんだって」
 言葉の内容とは裏腹に、藤真は全く嬉しそうではなく、薄ら笑いを浮かべた。
「みんなオレのこと好きすぎて、宗教みたいって思っちゃったんだけど、今牧が言ったみたいなことなのかな」
 選手としての能力はもちろんだが、藤真が翔陽の精神的支柱であったのも確かなことだろう。暴行を受けての負傷退場と正式な監督の不在という逆境で、藤真を中心とした団結はいっそう強まっていたはずだ。
「宗教とはいわんが、そうだな、お前はアイドルみたいだった。部内だけじゃなく、他校の女子のファンがキャーキャー言ってて、俺が隣にいても女子はほぼお前しか見てないんだ」
 牧は嫉妬を滲ませるでもなく、ただ楽しそうにそれを語る。
(どうして)
「楽しそうだね」
「ああ、楽しかったからな」
「……そっか」
 不思議だ、だが嫌いではない。牧がどういう人間なのか、もっと知りたい──そんな思いの中にもやもやと不快なものが混じりだす。
「でもそれ、オレは覚えてないんだ。一緒にいたときのこと覚えてないんだから、実は、見た目が同じだけの違う人間かも」
 そう捻くれたことを言うのがまさしくお前じゃないか、と牧は笑う。
「そんなわけないだろう。……そうだな、今のお前の感じ、一年の、知り合ったばっかりのときを思いだすんだ。俺のこと覚えてないせいだっていうなら、むしろ納得できる気がする」
 言いきってしまってからあらためて納得して、牧はうんうん頷いた。
「ええ? 一年と二年とでそんなに変わるかよ?」
「変わったんだよ、お前は」
 藤真から受ける印象の変化には、期待のルーキーを経てチームの柱となり、やがて監督になったことによる、内面的な変化が強く影響しているのだと思う。考えを顔に出しすぎないように日ごろから気にするようになったとは、つい二ヶ月ほど前に当人の口から聞いたことだ。
「……背だって今よりちっこくて、体も細かった」
「お前の妄想なんじゃねえの。思い出補正ってやつ」
「そんなんじゃない。昔ふたりで載った雑誌を持ってるんだ」
「そういや、部室にお前が載ってる雑誌があったぜ。割と最近のやつだと思うけど」
「俺が載ってるんならお前も載ってると思うが」
「覚えてないな」
 牧について花形から聞いたときにそのページを見たから、自分が載っているかどうかまでは確認しなかったのだと思う。藤真は怪訝に目を瞬く。
「そんな、セットみたいな扱いなのかよ?」
「そうだぞ。双璧って、聞かなかったか?」
 あんまり自分で言うことでもないが、と牧は照れくさそうにひとりごちる。
「それは聞いたけど。なんも覚えてないから実感ないし」
 言葉もわかりづらいしとぼやきながら、藤真はすっかり存在を忘れていたドリンクを口に含む。
「まずっ」
 氷がとけて薄まった炭酸飲料に大袈裟に顰めた、そんな表情も愛らしく見えて、牧は息を漏らし笑った。
「別の頼むか?」
「ううん、もういいかな」
『それじゃあ、そろそろ帰るか』
 そう続けるべき流れだと感じながら、発することはできなかった。また今度と言おうにも、そうそう時間は取れない。そして、藤真は当面は部に復帰しないと言った。つまり今日別れた以降、ふたりが顔を合わせる理由はなくなってしまうのだ。
「……」
 色素の薄い、大きな瞳が、探るようにこちらを見つめている。いや、〝ような〟ではないだろう。何も覚えていないのだ、探り、観察するのは当然のことだと思う。そしてもうひとつ確かなこととして、バスケをしなくても構わないと話してから、藤真はすっかり気を許してくれた──ような気がする。
「藤真、これから用事あるのか?」
 長い睫毛を揺らして瞬きを二つ、そして上目気味に牧を見据えたまま、微かにだけ首を傾げる。
「なんもないよ。……あったとしても、覚えてない」
「そうか。なら、もしよかったら……これからうちに来ないか? 昔の雑誌もあるし、なんか思いだすかもしれない」
「うちの人は?」
「一人暮らしなんだ」
「なにそれ? お前ほんとに高校生かよ?」
 初めてそれを話したときとまるで同じ反応を返されて、思わず笑ってしまった。

その表情カオの理由を教えて 1

1.

「オレの名前は藤真健司。翔陽高校の二年生で、なんとバスケ部の選手兼監督! ポイントガードのポジションで、コートの外からも中からもゲームを組み立てるぜ! ……どうよ?」
 藤真は爽やかに述べ、かたわらの黒縁眼鏡を見上げた。白く反射する眼鏡の奥で、花形は微かに困惑した顔を作る。
「……間違ってはないが、なんでそんなに芝居掛かってるんだ」
「しょうがねえだろ、新しい役を与えられたのと大差ないんだ」
 藤真はさもうまいことを言ったと満足げに頷く。その表情は呑気なもので、彼の身に重大なことが起こっているようには到底見えない。花形は眉を顰め、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
 記憶喪失。
 そんなフィクションのようなことが、こんなに身近で、まさか藤真の身に起こってしまうとは。
 原因は年末の交通事故だ。事故現場は住宅地の中の公園の近く、相手は高齢者の運転する車だったという。花形は一緒にいたわけではなく、藤真が何も覚えていないので詳しいことはわからないが、交通量は多くない場所で、不運としか言いようのない事故だったと聞いている。公園で遊んでいた子供たちが騒いだため、近所の人が警察と救急車を呼んでくれたそうだ。
 検査のひとまずの結果、命に別状はなく、運動に支障が出るような怪我もなかった。ただ、頭を強く打ったようで──自身とその周辺についての記憶を失っていた。
 周囲の動揺をよそに、本人は飄々として『オレって夏にも頭ケガしてたんだろ? 盆と正月ってそんな報告が続いたから、お祓い行ったらってばあちゃんに言われた。まじで行こうかな!?』などと笑っていた。当然〝ばあちゃん〟のことも覚えてはいなかったが、事故後に会った親類のことはひと通り覚えなおしたらしい。
「お、あれだな、翔陽高校。年明け一発目だってのに結構賑やかだな」
 藤真は校名が読める程度まで近づいた校門を眺め、グラウンドから高らかに聞こえる野球部の掛け声に対し、さも珍しそうに言った。今の彼の目には全てが新鮮に映るようで、いたって楽しげなのだが、花形はその姿にどうしても狼狽えてしまう。
 不思議なものだ。ものの名前や、食事や風呂の入りかた、日々の生活のルールは覚えているというし、言葉遣いだって以前と変わらないと思う。しかし、自らのこと、家族のこと、友人関係や学校、そしてバスケットボールのことまでも忘れてしまうとは。
 記憶は脳の多くの領域に保存されていると聞く。その一部が損傷しているか、あるいはそこに辿り着けなくなっている状態なのかと想像はできるものの、最初に電話を受けたときには信じられるものではなかった。
 治療法はわかっておらず、今日寝て明日起きれば記憶が戻っているかもしれないし、一生戻らないかもしれない。現時点ではそういうものとしかいえない──と実際に言われたのは藤真で、花形は彼から話を聞いただけだ。藤真は特に困った様子もなく、カウンセリングのたぐいは『疲れたからとりあえず拒否ってきた』と言っていた。
 小走りに校門から出てきたジャージ姿の生徒が、手を上げて藤真に声を掛ける。
「おー藤真じゃん! 事故大丈夫だったのかよ!?」
「おう、ちっとびびったけど余裕!」
 藤真は愛想よく笑って親指を立てた。どうやら部活動中らしい生徒は、応えるように親指を立てると、それ以上の会話はせず校外へ走って行ってしまった。
 後ろ姿を見送り、藤真は小声で花形に問う。
「今の誰?」
「同じクラスの鈴木だ」
「オレが事故遭ったのって有名なのか?」
「そうおおっぴらにはしてないはずだが、どっかから伝わったんだろう。記憶がないことは言ってないはずだ」
 事故に遭ったことそのものは隠す必要はないが、記憶喪失についてはとりあえず内々にしておく方向で藤真や家族と話を合わせてある。先ほどのクラスメイトに対する藤真の態度もそのためだ。
 バスケ部内についても、練習の場所が分かれているレベルの部員には伝えずに──数が多すぎるため、噂として外部に漏れる可能性があるためだ──やはり特定のメンバーにだけ伝える予定でいる。藤真の仕事については極力花形とその近辺とで補っていくつもりだ。
 希望的観測ではあるが、すぐに回復する可能性だって充分にあるのだから、無用な騒ぎにはしたくない。方向性がネガティブだろうがポジティブだろうが、注目を浴びて外野から干渉されすぎることは多大なストレスを生む。花形は藤真のそばにいて、それをよくわかっていた。
「ってかさ、このまま三学期始まったら、クラスのやつ全員の名前覚えなおすのヤバくね? めんどくせ〜!」
 今日は一月四日で、あと四日後には新学期が始まる。花形は表情に出さないまでも憂いを深くするが、当の本人は『なるようになる』としか思っていないようだ。記憶がない以外は事故の前と変わらないと思っていたのだが、藤真は以前より非常に楽観的になっている気がする。彼は愛らしい顔貌に淡々とした表情を乗せて、裏では意外なほど物事を考えている男だった。夏以降、監督兼任となってからは特に顕著だった。
(自分の立場を忘れていれば、考えかたやベクトルが変わるのも当然、か……?)
 ことが決まったとき、藤真は『大丈夫だ』と、やり甲斐があっていいと笑っていた。しかし怪我明けの高校生が部の監督を兼任するなど、相当な負担だったに違いない。
(当たり前だ)
 曇る花形の内心とは裏腹に、藤真は晴れやかな笑顔を浮かべて知らないクラスメイトに手を振っていた。