ラブファントム

「なん……だと……」
 合宿先のホテルを目の前にして、藤真の言葉を受けた牧は呆然と立ち尽くした。眉の下には暗い影が落ちている。
「あれ、どうしたんスか牧さん」
「邪魔しちゃ駄目だよノブ、先行ってよう」
 海南の二人の声も耳に入らず、あとについて来ていたほかのメンバー達にも追い抜かれながら、緑に囲まれた建物と藤真と、そのすぐ斜め後ろに当然のように居る花形とを順繰りに見遣った。
「だから、オレとお前と花形の三人部屋なんだってば」
「三人部屋なんて、そんな中途半端なことがあるか!?」
 いや、ない。そう言いたくて仕方がなくて、つい語気が強くなる。
「三人で四人部屋、って言えば納得するか? 施設の都合なんだからしょうがねえだろ。広い部屋になったんだからいいじゃんか」
 たかだか数日寝泊まりする部屋の広さなどどうでもよかった。藤真と二人で一人部屋でも歓迎するくらいだ。
「翔陽三人部屋にしようかと思ったんだけど、お前と話せるほうが都合いいし、花形の意見聞けるのも面白いかと思って。お前が邪魔だっていうなら追い払うしさ」
 藤真が都合がいいだの邪魔なら云々だの言うのは、今回の混成代表チームについて話し合うためであろう。安西監督からもその旨は聞いている。
「お前、わざとか?」
「オレの勝手で二人部屋が使えなくなるわけないだろ。それとも三人部屋だと困る理由でもあるのかよ、代表チームの合宿で」
「……ない……」
 むしろあってはならないのだ、藤真と二人きりで泊まりたかった理由など──。
 ようやく歩き出した主将二人に続きながら、花形は誰にともなく静かに溜め息をついた。

 練習のあと、夕食前に入浴するため、一同は着替えなどを取りに一旦部屋へ戻っていた。
「風呂だっ! 温泉だっ! いくぞ花形!」
「美肌の湯とか書いてたな」
「まじかよ、お肌スベスベになるじゃねーか! 牧も早くしろよ」
「ああ……」
 牧は力なく返事をすると、必要なものを持って二人のあとに続いた。まださほどの時間を過ごしたわけではないが、些細なことから藤真と花形の親しさを見せつけられ、その度に気力が奪われるようだった。抱き合う等の特別なスキンシップではない。あれどこやっただの、それ取ってだの、藤真は逐一花形に言うのだ。それだけのことではあるが、遠慮のない態度は単なる横暴ではなく信頼ゆえだと知っているから、有り体に言って嫉妬しているのだろう。大人気ないとは思うが、どうすれば気持ちに収まりをつけられるのか、まだ見出せていない。
 花形は鬼門だ。インターハイ地区予選のころにも、それで藤真と軽く揉めた。藤真だって忘れたわけではないだろうに──いや、忘れていないからこそのこの部屋割りなのだろうか。
(どういうつもりだ)
 悪ふざけなのか、あるいは合宿中は触れてくるなという強い意思表示なのだろうか。
(なら、言ってくれればいいだけだと思うが……)
「牧さん、眉間のシワがすげえっす。もしや翔陽のヤツらにいじめられてるんでは!?」
 脱衣所に来たものの、考え込みながらのらりくらりと服を脱いでいるうち藤真たちはすでに隣におらず、清田が怪訝な顔で覗き込んできた。その横で神が呆れたように溜め息を吐く。
「んなわけないだろ?」
 しかし牧は清田の言葉に頷きたい心地だった。

 一方、一足先に浴場に入ろうとしていた藤真は、その手前で仙道に絡まれていた。
「藤真さん乳首ピンクじゃないですか! えっちだな〜!」
 しかし藤真は全く動じない。
「そんなん色白いやつだいたいそうなんじゃねーの、流川とかもそうだろ」
「んー? どれどれ」
 仙道が流川に絡みに行って、すげなく追い返されて戻ってきたときにはすでに、藤真の姿は花形と長谷川に阻まれ隠されていた。覗こうとしても絶妙な位置でブロックされてしまう。
「いいじゃないですか見るくらい!」
「仙道なんかヤらしいからヤダ。観覧料取るかなあ。いくらがいいかな?」
 不毛なやり取りの一部始終を目撃しながら、藤真の乳首を弄っていいのは俺だけだぞ! と言うわけにもいかず、牧は近くにいた清田にぼやいた。
「仙道ってあんな奴だったのか」
「割と見た目まんまの印象じゃないすか? うさんくさいっていうか、人をナメくさってるっていうか!」
 二年の仙道は清田にとって一応先輩にあたるのだが、彼は海南以外の選手には礼儀を欠くところがあった。
「舐め……」
「牧さんも気をつけてくださいよ〜?」
 清田は牧のことを偉大なキャプテンで、尊敬すべき先輩だと思っているが、コートの外での穏やかな人柄にはシンプルに親しみを感じているし、他意は一切含まずに「俺牧さんめちゃめちゃ好き! 一生ついていく!」と公言して憚らない。ゆえに、牧が一目置く仙道は看過できない存在だった。
「要注意人物であることは確かだな……」
 あくまで選手としてのつもりだったが、それだけでもないかもしれない。今現在に限っては、花形(と長谷川)の存在が頼もしく感じられた。その調子で藤真の裸体を守りぬいてほしい。
「でも牧さんもめっちゃ藤真さんのこと気にしてますよね」
「そりゃするだろう、翔陽のキャプテンだし、藤真のことは一年のときから気にしてる。別におかしいことじゃない」
「うーーん。そういうもんっすかね……」
 翔陽のキャプテンと言われたところで、彼らと公式戦で当たることは今年度はもうないはずで、試合での藤真のプレイをあまり見たことのない清田は、牧が藤真を評価する理由を実感できずにいた。顔が中性的で可愛らしいから気に入っているのだろうと思っている節はあるが、さすがに当人にそれを言ったことはない。

 牧が湯に浸かっていると、いつの間にか近くに来ていたらしい仙道の声が耳に入ってきた。
「藤真さん、白い肌がほんのり染まって、顔もちょっと赤くて、しかも花形さんの隣にいるからやたら小さくて可愛いように見えるんだよなぁ。可愛いって言われるの嫌いなら一緒にいるのやめたらいいのに」
 仙道の視線の先には確かにその通りの光景があったが、語りかけの形ではない、不自然に大きな独り言を、牧は無視することができなかった。
「印象を歪曲して広めるような言いかたはやめろ」
「あ、やっぱ気になっちゃいます? 牧さん」
「……」
「そんな怖い顔しないでくださいよ。俺は意味深なこと言うのがシュミなだけなんで、別に藤真さんとはなんにもないですからね?」
 含みのある笑顔の胡散臭いこと。藤真の周辺について、花形とはごく健全な関係であることは理解している。しかし仙道はなんだ。以前藤真に尋ねたときは、後輩だから可愛がってるだけだとか言っていたが、自覚していないだけで狙われているのではないだろうか。
(花形、一志、ガードが甘いぞ!)
 悶々としながら、視線の先の翔陽組に八つ当たりのように念を送った。

 風呂上がり、着替えてコーヒー牛乳を飲んでいると、藤真が話しかけてきた。
「牧、これ知ってる?」
 長い睫毛の烟る瞳は柔らかに細められ、桜色の唇は愉しげな弧を描いている。
(顔がいい……藤真は本当に顔がいいな……)
 目に心地よい容貌は、どれだけ見ても見飽きない。合宿が始まってからというもの、予期せぬストレスに晒され続けてきたから、至極癒される心地だ。ストレスの根本もまた藤真なのではあったが。
「えいっ」
 惚けた様子の牧の頬に、藤真は手にした袋を押しつける。
「んんっ!?」
 不意の冷たい感触に、牧はようやく藤真が手にするものを見た。手のひらサイズのビニール包装の中に、白く丸いものが入っていて、たまごアイスという商品名が書いてある。
「おお、懐かしいな。まだあったのか。しかし、こんな名前だったか?」
 楕円型の小さな風船の中にアイスが詰められているもので、子供のころに食べた記憶があった。
「なんだよ知ってんのかよ、つまんねー」
 とたんに藤真が不服そうな顔をした。地域によるのか育った環境によるのか、藤真の〝懐かしネタ〟が牧にはときおり通じないことがあった。それを期待したのだが、今回は当てが外れた形だ。
「知ってるぞ? タメ年だからな?」
「知らなかったらラストのビュルル! って噴射するとこ見て笑おうと思ってたのに」
 牧にも覚えはあった。残り少なくなって手の熱で溶けたアイスが、容器となっているゴム風船の収縮によって一気に飛び出すのだ。
「じゃあ俺が見ててやるから藤真が食べるといい」
「えー。てか昔はなんとも思わないで食ってたけど、ゴムしゃぶるのってなんか卑猥だよなー。どういう意図で考えたんだろこのアイス」
 ごく朗らかな調子で言われた内容に、近くで牛乳を飲んでいた三井が盛大に噎せていた。
 それを視界から遮るように、花形が現れる。
「藤真、ハサミ借りてきたぞ」
「おっ、サンキュ」
 ハサミを受け取った藤真は牧の背後に一瞬視線を遣ったあと、くるりと向こうを向いてしまった。直後
「牧さぁーん! あっちにマッサージチェアがありますよ! マッサージしましょうよ!」
 清田の威勢のいい声がした。
(こいつのせいか……)
 牧は内心で深く溜め息をついた。清田のことが嫌なわけではないが、藤真がゴムをしゃぶって白い噴射に襲われる様を見られなかった落胆は大きい。
「いや、俺は別に……」
 そんな牧の悲しみなど知る由もなく、清田は浅黒い腕をぐいぐいと引っ張って行ってマッサージチェアに座らせた。怖いもの知らずという言葉は彼のためにある。
「スイッチON!」
「うおっ!?」
 清田が気合とスイッチを入れると、肩が、脚が、ぐいんぐいんと揉まれ始めた。意外な感触に、牧は目を瞬く。
「ほう、これはなかなか……?」
「この辺のスイッチはなんだろ。とりあえず押してみっか!」
 スイッチがあると押してみたくなる体質の清田は、操作盤を思うままに弄った。
「おぅっ!?」
 体の至るところに複雑な振動がきて、牧は体に電撃が走ったかのような感触を受ける。
 マッサージチェアで感電などしないだろうが、牧の体の跳ね具合にそれに近いような印象を受けて、神は慌てた。強度が強すぎるのだろう。
「わああっ! ノブ、元に戻してっ!」
「ええっ? 元ってどれですか神さん!」
「知らないよ! 自分がやったんだろ!」
 牧が殆ど黙り込んでいるのもまた恐ろしい。あーだこーだと言い合いながらようやくマッサージチェアを止めると、解放された牧は軽快な動作で立ち上がり、寝起きのように伸びをした。
「ふむ、体が軽くなった。マッサージチェア侮れないな」
「まじっすか!? すげえっす牧さん!」
「ええっ、牧さん……ほんとうに……?」
「これは家具屋に売ってるのか? 電気屋か?」
 半ば本気で購入を検討しながら、牧はマッサージチェアの周囲をぐるりと周ってその様子を観察した。
 今の部屋には置き場所がないが、もうじき引っ越すから、そのときに藤真と一緒に──などなど考えながら部屋に戻ると、おぞましい光景が目に飛び込んできた。
「ああ〜っ! いい…っ♡」
「ここか? ここがいいのか? 藤真」
「あっ、あ……花形やっぱすげーうまい……」
 一つだけ敷かれた布団の上に藤真がうつ伏せに伸びていて、その脚を跨いで花形が背中を押している。自らが体験してきた直後だから、マッサージをしていることはすぐに理解できたが、藤真の発言がとにかくよくない。
「花形の手、気持ちいい。もっとして♡」
 花形は体を下方へずらし、藤真の足を捕まえた。
「あぁ〜……くるぶし、いいっ……♡」
 花形が手のひら、側面、手の下部などを巧みに使って藤真の足を揉みしだくたび、藤真は敏感に反応を示した。
「おおっ、効くぅ……!」
(マッサージチェアじゃなくて、俺もマッサージを覚えるかな……)
「なんだよ牧、こっち見て。お前もしてほしいのか?」
 されたくはないがしたい。と花形の前で言ったら藤真は怒るだろうか。そんな思いが花形に読み取られてしまったかのようだった。
「結構力要るが、するのも意外と楽しいぞ。押せば鳴るって感じで」
「あ゛〜♡」
「……確かに楽しそうだ」
 押せば鳴る藤真など、大層可愛いしそれはそれは楽しいことだろう。しかし、花形は藤真の体に触れていて何も感じないのか、まだ若いのに枯れているのではないだろうか──自分を基準にしてそんなことを考えながら少しの間眺めていたが、居た堪れなくなって立ち上がった。
「どこ行くんだよ」
「散歩」
「おっさんくせー」
 マッサージに骨抜きにされているやつには言われたくない、と思いながら牧は部屋をあとにした。

 庭などをひとしきり見て回って部屋へ戻ると、藤真は体にタオルケットを掛けて布団で眠ってしまっていて、花形はかたわらの座卓で参考書を開き勉強をしているようだった。
(俺だったら多分添い寝してるな)
 牧は安心したような身につまされるような思いで座椅子に掛ける。
「すまんな、藤真がマッサージしろって言うから」
「え?」
「チームについて打ち合わせする予定だったんだろう」
「あー……」
 聞いていたのか。それは聞こえているだろう、常に藤真の背景のような位置にいるのだし。一人納得しながら小さく頷いた。
「別にお前が謝ることでもないだろう」
 打ち合わせができなくなったのはマッサージをしたせいではなく、今藤真が寝ているためで、起こせばよいだけの話だ。
「……」
「……」
 天使のような寝顔を見せる藤真を二人とも起こすことができず、結局夕食の時間まで寝かせたままにしてしまった。食後すぐ寝るわけではないだろうし、チームの話はそのときでいいだろう。

 夕食後、部屋に戻ると、藤真が白いビニール袋をガサガサさせていた。
「なんだよ、とんがりコーン買ってんじゃん。ゴミかと思った」
 入浴のあと、売店に寄って菓子を買い込んできたときのレジ袋だ。ひとしきり食べたつもりだったが、まだ未開封のままのスナック菓子が残されていたのだ。
「ああ……」
 花形は本を開きながら浮かない様子で返事をする。彼にはそれを食べられない理由があった。藤真はすぐにピンときた顔をする。
「あ。アレがない」
「……しくじった」
「牧、こいつさ割り箸でスナック菓子食うんだぜ、手が汚れるからって」
 藤真は至って楽しげに言いながら、バリバリと豪快にスナック菓子の包装を開けた。しかし話を振られた牧は全く楽しい気分にはなれない。まだ丸一日も過ごしていないが、花形に対してはすっかり無気力で投げやりな気持ちが根付いていた。言わずもがな藤真のせいである。ただ、元来穏やかな性格のためそう無愛想にはしない。
「……潔癖症なのか?」
 言っているそばから、藤真が円錐型のスナック菓子を指に嵌めて花形の口に押し込み、花形は特に嫌がらずにそれを食べていた。牧は唖然としてそれを眺める。潔癖症ならば他人の手からスナック菓子は食べないだろう。
「別に手が汚れるのが嫌なわけじゃない。本とかノートとかペンとかいろんなものに油がつく」
「拭けよ!」
「拭いたって油はつく。あとティッシュの無駄だ」
 もごもごとスナック菓子を頬張りながら、花形は器用に落ち着いて話す。その横から藤真の指によって次々菓子が突っ込まれていく。
「ったく、とんがりコーンを指に嵌めて食わないなんて人生損してるよな」
「俺だって子供のころは正しい食べかたで食べてたぞ」
(翔陽って頭いいんじゃなかったかな……)
 複雑な気持ちで二人のやり取りを眺めながら、特に損はしていなさそうだ、むしろ得しているのではないかと思ってしまった。
「牧も食えよ」
 そう言って座卓の上に大きく開かれた袋を示されたものの、花形にしているように食べさせてはくれないようだ。確かに、本を読んでいるわけでもなければ、スナック菓子を手掴みしないポリシーもない。
「やっべ、すげー久々に食べたなこれ」
 そう言いながら、自らの指に嵌めたとんがりコーンを自分で食べている藤真は猫のようでとても可愛らしい。
「うむ……」
 不意に、牧の目の前に三角に尖った藤真の指先が現れた。
「!!」
 予想外の展開に、勇んだ牧は白い指ごとそれを口に含んで受け取り、粉も残さないようにしっかりと舐め取った。藤真は思いきり顔を引き攣らせ、かつて見たことのないくらいに冷たい目で牧を一瞥し、以降その手からとんがりコーンを食べさせてくれることはなかった。
(調子に乗りすぎたか、難しいな……)
 今度藤真を家に呼ぶ機会にリベンジしようと思う。

「うし、じゃ寝るか。明日そこそこ朝早いからな、寝坊すんなよ」
 三つ並べて敷いた布団の真ん中に潜り込み、機嫌よく言った藤真に、花形が胡散臭げな視線を向けた。眼鏡のレンズを通さない、素顔の視線だ。
「誰に言ってるんだ?」
「え? 二人じゃんか」
 そんな些細なやり取りにも、すっかりささくれ立った牧の心は刺激されてしまう。花形の言い分は、まるで藤真の寝起きについて知っているかのようだ──落ち着いて考えれば、一緒に過ごした時間の長さがあまりに違うのだから当然のことなのだが、今の牧は朝からの度重なる不遇により、彼にしては珍しく卑屈になっていた。
「じゃあ消灯! おやすみ!」
「おやすみ」
「おやすみ……」
 部屋を真っ暗にしてしばらくのち、藤真が眠りに落ちようかというときだった。
「!」
 布団の中の藤真の腕を何者かの手が掴んだ。左手側、牧だ。寝惚けているのだろうか。右手側からは花形の規則正しい寝息が聞こえている。起こしては悪いだろうと、ひとまず事態を静観することを選んだが、このときに声の一つでも上げておくべきだったかもしれない。
 掴まえた腕を少し下に伝い、牧の手が藤真の手を握った。思えば牧とこうして触れ合うのは久々だ。微笑ましく、くすぐったい気分になりながら握り返し、指を絡めて戯れていると、牧の体が寝返りを打つ要領で転がり、藤真の布団の中に入ってきた。
「!!」
 硬直する藤真の体に腕を回し、頭を擦り寄せていたかと思うと、左の頬に唇を押し当ててくる。無視していると、大きな手が右の頬を包み込み、やがて唇にキスをされた。
「!!!」
 唇を重ねたまま、手は首筋を撫でて下降し、Tシャツ越しに胸をまさぐる。
(花形が隣にいるのに!)
 意識すると妙に興奮してしまい、牧の手の感触にざわざわと全身が総毛立つ。
 シャツの上からでもごく僅かに飛び出した胸の突起を、牧は指先に捉えて摘み上げた。
「っ…!」
 息を漏らし、小さく動いた藤真の唇を割って牧の舌が口の中に侵入する。舌の腹を使って強引に、無遠慮に藤真の舌を撫でながら、手はシャツをたくし上げて直接乳首に触れていた。
 柔らかな皮膚の中心に硬く勃ち上がった愛らしい感触を、指先で苛めるように押し潰して転がす。執拗に続けるうち、藤真の息遣いは熱を帯び、不埒な欲求を孕んだ舌先がねっとりと牧の舌を撫でた。脚をもぞもぞさせる動作に誘われて、藤真の股間で頭をもたげているものを掴まえる。
「んっ……!」
 水音を立てていただけだった唇から、ごく小さくではあるが声が出てしまった。しかし牧はまるで構わない様子で布越しに愛撫を続ける。
「んぅうっ!?」
(それはダメだって!)
 動揺から、じゅるりと唾液を啜る音もこぼれる。体を押し返そうにも力が入らず、藤真はようやく思い至って牧の手の甲を思いきり抓った。
「い゛っ…!」
「シーッ!」
 堪らず声を漏らした牧に、憤りながら静粛を促す。しかし牧は懲りずに股ぐらに手を伸ばしてくる。徹底的に悪戯してくるつもりらしい。音が出てしまうので殴るわけにはいかず、藤真は牧の頬を抓ったり、髪を引っ張ったりするが、牧の体を傷つけてはと思ってしまい、どうにも抗えずにいた。
 静かな攻防ではあったが、音のない夜に布団と二人の体の擦れ合う音は案外と大きなものだった。藤真の右手側から声が上がる。
「藤真? どうした?」
「ふぇっ!? なにが!?」
「なんか、バサバサ言ってたような」
「牧が寝相悪くてさっ……!」
 花形の声を聞いた瞬間、牧は咄嗟に藤真の布団に頭まで潜っていた。現在牧の布団は空になっているのだが、この闇の中で、まして花形の視力では確認できないだろう。
「場所替わるか?」
「だ、大丈夫……!」
 今替わろうものなら、藤真の布団の中の牧の存在が花形に知られてしまう。牧を変質者にするわけにはいかない。
「っっ…!」
 そんな気も知らずに、牧の手は布団の中で藤真の太腿や尻を、音を立てないように慎重に撫で、揉みしだいていた。藤真は冷や汗をかきながら声を堪える。
(なんでオレがこんな目に……)
「そうか? お前がいいならいいが、我慢できなくなったら替わるから起こしてくれ」
「あ、あぁっ……!」

 各部屋にもトイレはあるが、二人は部屋から離れた廊下にある共用のトイレに来ていた。
「お前ちっとは我慢しろよ、サルかよっ!」
 藤真は個室に押し込まれながら、声を潜めて抗議する。
「昼間散々煽ってきたのはどいつだ?」
 牧は藤真のハーフパンツと下着を下ろし、便座に座らせながら、丁寧に足から抜き取って個室のドアのフックにしっかりと引っ掛けた。
(あっ、そこは紳士なんだ……)
 一瞬感心してしまったが、こんなことで懐柔されるわけにはいかない。脚を閉じて前傾姿勢になり、腕で性器を覆い隠しながら、キッと牧を睨みつける。
「煽ってねーし、オレと花形は普通にしてただけだしっ」
「俺がお前たちの普通のスキンシップを気にしてるってことを、お前は知ってる」
「そんなんじゃ不便だろうから、慣れさせてやろうと思って」
「別に必要ないだろう。お前らが一緒にいるのなんてあと少しのことだ」
 棘のある言葉が出てしまったと、にわかに狼狽えるが、藤真の態度が追い討ちをかける。
「花形は友だちだから、別れるとかねーし……んむっ」
 珍しいくらいにしおらしく、寂しそうにするのに苛立って、咄嗟にキスをして言葉を奪った。
「それに、なんだあのやる気のない抵抗は。あんなんじゃ本物の変態に襲われたら……」
 自分から言いだしたことではあるが、考えたくなくなって言葉を切った。
「本物のやつにはそりゃ本気で抵抗するだろ。目に指を突っ込んで金玉蹴っ飛ばしてやる」
「お前、案外恐ろしいことを言うな……」
 冗談でも、後ろから不意に襲ったりするのはやめておこうと思った。
「それじゃあ、俺は許されてるってことだな」
 牧は機嫌よさげに藤真の両の膝を折りながら持ち上げ、便座の上に踵を乗せさせた。
「ふむ、模範的なM字開脚。いい眺めだ。表情もいい」
 半勃ちの性器をまざまざと晒す格好にされ、藤真は羞恥に顔を赤くしたものの、牧を睨みつけるだけで抵抗はしなかった。トイレについてきたのも、大人しく下を脱がされたのも、応じなければ牧の気が済まないだろうと思ったためだ。腹は括っている。
「マジックペンを持ってくればよかったな」
「なんで?」
「よくあるだろう。ここに〝正〟を書き連ねていくやつ」
 牧は藤真の太腿の内側に指先で直線を書いた。
「ええ、お前ってそういうの好みなの……」
 藤真はぴくりと眉を動かして顔を顰めた。牧は性欲が旺盛なのと、多少マニアックなところがあるとは思っていたが、鬼畜なものを好むイメージはなかった。
「特に好みってわけじゃない。たまたま見かけたんだ」
「たまたま見かけるもんかなぁ? まあいいや、とっととやれよ。オレは早く寝たいんだ」
「そんな言いかたをするな。お前はそういう、処理みたいなのは嫌いだろう?」
 牧は藤真のシャツを捲り上げ、ツンと上を向いた乳首に唇を寄せて吸いついた。
「ぁっ!」
 軽く歯を当てながら舌でねぶり、あるいは強く吸って、じっくりと快感を与えていく。もう一方もしきりに指先で捏ね回した。
「あン、んんっ…!」
 藤真は堪らず声を漏らし、何度も体を跳ねさせる。牧と体を重ね、触れられるうちにすっかり敏感になってしまったそこは、もはや性器と呼べるまでに強い快感を感じるようになっていた。
「ふっ…あぁっ…」
 股間のものがすっかりと張り詰めて、行儀悪く先走りを滴らせていることが感触でわかる。
(こんなとこでしといて……)
 合宿が終わるまで待つこともしない、衝動に任せた行動だろうに、牧があくまで丁寧に振る舞おうとすることに苛々した。そして、まんまと絆され流され、快楽が欲しくて仕方がなくなっている自分に対しても。
「ひゃんっ!」
 乾いた指先で鈴口をなぞられ、藤真は思わず高い声を上げた。
「そう人は通らないだろうが、あんまり声は出さないほうがいいんじゃないか?」
 咎めるように言いながら、牧の唇は愉しげな弧を描いている。藤真は気まずい思いで小さく呟いた。
「ああ、そ、そうだな……ッ」
 言いきらないうちに性器を舐められて、言葉の最後は声を揺らして呑み込んだ。
 牧の目にそれは涙を流しながら期待に震えているように見えて、愛しくて仕方がなかった。散々つれない態度をとってきていながら、結局は求めているのだ。感触を、脈動を味わうように丁寧に舌を這わせ、やがて口腔内に咥え込む。
「っ…! あ、ぁっ…」
 股ぐらに顔を押しつけ、貪るように口淫されて、藤真は堪らず仰け反った。わざとだろうが、下品な水音にも興奮してしまう。藤真だとて牧に触れられるのは久々だ。口唇と舌にもたらされる感触は味気ない自己処理とは全く違って、すぐに達してしまいそうだった。
 そんな藤真の状況もよくわかっているかのように、牧は顔を上げた。肉厚な唇の先に、体液がねっとりと糸を引く。
「牧エッロ…」
「どっちが」
 牧はポケットからコンドームの個装を引っ張り出した。ピリ、とビニールを千切る軽い音がしたから、忍ばせているのは一個だけではないだろう。藤真は大袈裟に顔を顰める。
「なんだ、ナマのほうがいいか?」
「そういう意味じゃない」
 牧は個装を破いて円形のゴムを取り出すと、藤真の性器に被せた。
「はっ? さすがにお前の尻には興味ないんだけど?」
 面食らって見上げると、牧は愉しげに笑っていた。
「違う。汚れないように」
「ああ……?」
(そんな気遣いするならこんなとこでやらなきゃいいのに。あと、牧のサイズだとちょっとでかいんだけど……)
 以前コンドームを買う際に牧のサイズを測ったから、よく知っているのだ。
 牧は薄い皮膜に包まれた藤真の性器に目を細める。
「これはこれでエロいな」
「お前、ところどころで変態がはみ出てくるな」
「生足よりストッキングのほうがセクシーみたいなことだ」
「……感受性豊かなんだね」
 牧の感性に真面目に寄り添う気はなかった。藤真は目を据わらせるが、牧はさも愛しげに、淫猥なピンク色に染まった性器を指でなぞる。
「キャンディみたいでおいしそうだ」
「もう老眼かよ、お先真っ暗だな」
 表面に塗布された潤滑剤を指に絡め取り、藤真の脚の間の窄まりに差し込んだ。
「っぁ…!」
 すっかり行為に慣れた体は、指一本程度なら容易く受け容れてしまう。入り口をほぐすように指で掻き回すと、悦んで指を深く咥え込むように収縮した。
「もっと欲しいって?」
 牧は指を抜くと、ポケットから使いきりサイズの潤滑剤を取り出す。
「お前、ほんと最低」
「仕方ないだろう、こっちに着くまでお前と二人部屋だと思い込んでたんだから」
「二人部屋でもだろ! なにしに来てんだ合宿に!」
「藤真、意外と頭が硬いんだな」
 藤真はむっつりとして口を噤んでいる。
「怒ったのか?」
 特に心配もしていない調子で言いながら、潤滑剤のチューブの細長い口を、物欲しげな箇所に差し込み、粘性の強いローションを注入する。
「ふぁ、あぁっ……」
 藤真は声に明らかな快感を滲ませながら身震いした。
「お前、さっきから言ってることと反応が噛み合ってないぞ」
 牧はだらしなく緩みそうになる表情をなんとか保ちながら、挿入した二本の指で藤真の中を丁寧に慣らし、潤していく。
「っ、あ、んんっ……しょうがねえだろ、そういうお年ごろなんだからっ」
 声は甘く、吐息はすっかり湿ったものになっていた。
 男のものとは呼べない快楽の存在を、藤真の体はすでによく知っている。中が畝り、牧の指の感触を味わおうとするのが自分でもわかった。しかしそれでは足りない。奥が疼き、もっと太く大きなものが欲しくて堪らない。
「なら、俺だってお年ごろだ」
 牧は言うと、身を屈めて藤真に深くキスをした。唇と視界を塞ぎながら、自分のものに手早くコンドームを着け、すっかり潤んだ藤真の秘部に押しつける。
「んむっ! んんっ……!」
 大きく張り出した牧の欲望が、肉の門を押し拡げて体の内に潜り込んでくる。藤真はその感触と、体を開かれる異様な興奮とに身を仰け反らせた。ローションの滑りでずるりと入り込んだそれは、しかし先端を含ませた程度で動きを止めてしまい、藤真の望む箇所までは到達しない。
「牧?」
 強請るような声に、牧は思わず苦笑する。
「……あんまり意地悪しないでくれ。俺だって傷つくんだ」
「意地悪? って?」
「今日、なんで花形と三人部屋になったんだ?」
 全ての元凶はそれだ。二人きりが無理だというのでも、牧だとて聞き分けがないわけではない。人選によっては充分に納得できたはずだ。しかし藤真には明らかに他意がある。結果、牧は小さなストレスの積み重ねから藤真に悪戯を仕掛けるに至った。
「なんで今その話?」
 藤真は早く先に進めたいとでも言うように自ら膝を抱え、牧のものを締めつけてくる。牧は小さく息を漏らした。
「あとからじゃ教えてくれない気がする。話が終わったら続きをしよう」
 朝だって、施設の都合だとかいまいち納得できないことを言っていたくらいだ。藤真は不思議そうに牧を見つめると、迷う様子もなく言った。
「思いつきで。面白いかなと思って」
「……」
 脱力した。藤真の顔を見ていると、本当にそれだけのようだ。確かに、お気に入りの花形と、恋人の自分とを並べれば、藤真にとっては面白いのかもしれないが──。
「牧は花形のこと嫌いみたいだな」
 強豪校の監督を務める男が言うにはあまりに子供じみた言葉だったが、自分に接するときの彼はほとんど年相応であることもよく知っている。
「嫌いとか好きとか言うほど知らない。……別に知りたくもないが」
 花形情報を教えられても困るので、慌ててつけ加え、ゆっくりと体を進めた。
「あ、あぁっ……」
 気持ちいいようで、藤真はうっとりと目を細めている。
「奥好きだもんな、藤真」
 言いながら、根元まで挿入してもなお腰をぐいぐいと押しつける。
 最奥を突かれ、藤真は堪らず悶絶する。
「あぅっ! あんっ、あぁっ…」
「あぁ、奥の口が先っぽにキスしてくるみたいだ」
「っ…BL小説の読みすぎ!」
「俺は小説は読まない」
「偉そうに言うことじゃねー!」
 愉しげな牧を睨みつけるが、腰を動かされると表情は簡単に愉悦に歪み、唇から情けない声が漏れた。
「あぐっ、あぁ、ぁっ……」
 腰をゆっくりと引き、再び奥まで貫いて、長いストロークを描きながら、藤真の性器を握った。ゴムの中はすっかり濡れているようで、扱くとぐじゅぐじゅと卑猥な音がした。
「んんっ…! んぅっ、むぅ…!」
 ストレートな快感に、藤真は慌てて手で自らの口を塞ぐ。体が跳ねてしまうたび、貫かれた肉杭に戒められるようだった。
「ああ、締まる……」
 牧は藤真の性器を愛撫しながら抽送を続けた。
 柔らかな髪を揺らし、眉を寄せ目を細めて快楽に喘ぐ、美しい体の内側では粘液を帯びた肉壁が貪欲に男の欲望に吸いついている。淫らな光景と、自らが求められている実感とに、快楽と至福とが綯い交ぜになって、ただただ藤真のことが愛しかった。
「あぅ、ああっ、あ……!」
 コンドームの中に先に吐き出された藤真の精液が、牧の手の動作によってゴムの下端から溢れ出し、やがて二人の結合部を濡らす。
 耳もとで名前を呼び、好きだと呟くと、応えるように牧の腰に藤真の脚が巻きついた。頭はとうに働かず、昼間感じた小さな苛立ちも理不尽さもすでに忘れ去って、牧は肉体が満たされるまで藤真を求め続けた。

 翌日の朝食時、三井が同じテーブルの赤木の顔をまじまじ見ながら言った。
「どうしたんだ赤木、なんか浮かない顔だな?」
「うむ……」
 ほかの面々の中にもそれを感じていた者はいたが、赤木はもともと精悍な顔立ちであるし、他校の人間からは微妙に問い質しにくかったのだ。
「別に、枕が変わると眠れねーとかってタイプでもねーだろ?」
 赤木は重々しく口を開く。
「実は昨日の夜中、廊下を歩いていたら、苦しそうな女性の呻き声が聞こえてな……」
 三井の隣で宮城が声を上げた。
「女? 今ってオレたち以外に客いるんですっけ?」
「見かけないよな。従業員? ていうかそれって本当に苦しんでたのか?」
 三井は口もとを歪めて笑いながら赤木に訝しげな視線を向ける。その表情を見て、宮城は察したように同調した。
「おおっ! そうッスよ、だって、オンナでしょう!? それも夜中に!」
「ん? ……いや、どういうことなんだ?」
 二人の言いたいことがわからなかった赤木は、おそらく聞こえていたであろう向かいの席を見たが、藤真は下を向いて焼き魚の小骨を取ることに夢中になっているし、牧は口いっぱいに食べものを頬張っていて話すタイミングではなさそうだ。口を開いたのは花形だった。
「このホテル、幽霊が出るって聞いたことがある」
「んぐっ!? ゲホッ、ゴホッ!」
 牧は驚いて妙なタイミングで口の中のものを飲み込んでしまい、盛大に咳き込んだ。
「だ、大丈夫ですか牧さん……」
「牧さんもしかして幽霊とかダメなんスか!? いいなぁ、ギャップ萌え!」
 神が心配そうに声を掛け、清田は呑気にはしゃぐ。牧の反応は幽霊に対してではなく、発言したのが花形だったことに対してだ。藤真は額を押さえる。
(バレてる、これ絶対バレてる……)
 少し前まで楽しげだった宮城は、一転顔を青くして身を竦めた。
「こっわ! オレもそういうの無理! 今日も出たらどうしよう!?」
 花形は至って落ち着いて応える。
「夜中に歩き回らなきゃいいんじゃないか?」
「……」
 藤真と牧は黙って頷くことしかできなかった。

「今日は早く寝ろよ、幽霊が出ると困るからな」
 その日の夜、三つ並べた真ん中の布団に入って言った花形に、二人とも返す言葉もなく大人しく就寝した。
 以降、この施設での幽霊の出現情報はない。

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