ひと夏の経験

 初めてのセックスは中学生のときだった。
 問われればそう答えてるが、本当は違う。
 いや、厳密にはそうなんだが、もっと前に本番まではいかなかったくらいのことがあって、オレの中では初めてはそっちの印象のほうが強かったりする。

 あれは小学五年の夏休み、家族でどこだかの高原の避暑地に行ったときのことだ。
 オレは一人でバスケのゴールに向かってボールを放ってた。どうしてその状況になったのかは覚えてない。そもそも旅行の理由も理解してなかったし、反抗期っていうのか、とりあえず首を横に振ってたような時期だった記憶はある。
 他に誰もいないからゲームはできないものの、ひんやりした風と周りを囲む緑と鳥の声が気持ちよくて、子供ながらになんとなく贅沢な気分になってたのを覚えてる。きっと、海じゃなくて山っていうのが珍しかったんだろう。
 シュート練習っていう意識はまだなかったと思う。地面はボコボコで、ゴールには軽くツタが巻きついてる。そんなんでも最初は不安定だったシュートが安定していくのが単純に楽しくて。声援を送られるのは好きだったけど、こういう静かなのも意外といいもんだなとか、そんなことを思ってたときだった。
「面白いシュートだな。それに、サウスポーか」
 後ろのほうからのんびりした男の声がした。家族の誰かじゃない。振り返ると、体の大きい、色黒の上級生がいた。オレもクラスじゃまあまあ背はあるほうだったが、それより全然高くて、肩幅なんて大人みたいにでかくて。制服じゃないからわかんないけど、中学生か、もしかしたら高校生かもしれない。髪が茶色くて、鼻が高くて、顔立ちはなんとなく外国人とかハーフに見えるような感じ。オレもよく言われることだったから、そこにどうこうはなかったけど。
 せっかく独り占めできるゴールを見つけたのに、ここでも目上のやつに譲らないといけないのか。近所での出来事なら譲ったろうけど、でもこいつはでかいけどあんまり怖くなさそうだなって思った。口調もあるし、こっちを見てる目も邪魔ってよりただ物珍しそうで。ああ、そうだ。オレは直前に言われたことを思い出す。左利きだったらなんだって?
「……悪い?」
「やりづらい相手だ。敵チームにいるなら嬉しかないな」
 やりづらい。つまりバスケをやりたくない相手って言われたんだって、オレはむかついてそいつに思い切りボールを投げつけた。左利きだからやりづらい、ずるい、とかはお遊びの球技や体育のときには言われがちなことで、相手は笑いながらだったりするが、こっちとしたらずるなんてしてないんだから腹立たしいもんだった。
「怒るなよ。てこずる相手、強敵だって意味じゃないか」
 そいつはでかい手のひらでボールを受け止めると、いかにも余裕って感じに笑って白い歯を見せた。年下だと思って完全にナメてるな。オレは近所でも学校でもすげーバスケうまいんだぞ。周りが下手なだけかもしれないけど。
「ほら、ボール取ってみろ」
 なんだか偉そうにそう言ってガバガバなドリブルをしだしたから、オレは颯爽とボールを奪ってやった。ちょろいもんだ。
「……ほう?」
 そのままシュート! ……はできずに、長い腕が伸びてきてカットされてしまった。そのボールを拾ったのはまたオレ。でもどうする? ドキドキする、こんなの初めてだ。一瞬で血が沸騰したような高揚感の底で、不思議と頭は冴えていた。でかいし反応もいい相手で、上は多分無理──って、ゴールを見上げながら相手の脚の間の地面にボールを弾ませくぐらせ、オレは回り込んでボールを拾ってジャンプシュート!
 バシッ!
「うわぁあっ!?」
 オレのジャンプより全然高い位置で、背後から伸びた腕にボールははたき落とされ、後ろから伸し掛かる体と縺れるようにオレの体もゴール下に崩れ落ちた。
「すまん、大丈夫か?」
 意外とオレは潰されないで済んでたが、それは相手が思っきし地面に手を突っ張ってたからだった。胸に抱えられる格好で、耳に掛かった息に驚いて体を縮めながら、顧みて睨みつける。
「なに謝ってんだよ、ただのファウルだろ」
 実際こんなの、大人の試合の映像でしか見たことないようなもんだったけど、だけど試合だったら多分ありえることで、それで謝られるっていうのが気に食わなかった。
 何歳なんだかわかんない顔が、じっとオレを見つめてる。
「な、なに……?」
 先に動いたら負けみたいな気がして、オレは対抗するように見つめ返した。いかにも男っぽい頬と顎の形をしてるけど、左目の下に泣きボクロがあるからきっと泣き虫って冷やかされてたと思う。そんなことを考えてるうち高い鼻先が擦り寄って、両の肩を大きな手で捕まえられて
「……」
「……!?」
 オレはそいつにキスをされていた。体がでかいから顔も口もでかくて、厚い唇がオレの唇を包むみたいに覆ってる。驚きすぎて固まってしまって、声も出なければ体を押し返すこともできなかった。ただ、むにむにとした柔らかい感触が、でかくて強そうな相手のイメージとは違って、なんかヘンな感じだなって思った。
 顔が離れて、恐いくらい真剣な目がこっちを見たとき、オレの口から出たのは拒絶でも怒りでもなかった。
「誰か来る」
 人の気配っていうか足音っていうか、そんなのを感じて口走ってた。相手も気づいたんだろう、慌てた様子でオレの手を引いてすぐ近くの林に走った。ためらいもせずについて行ったのは、どうしてだったろう。
 知らないおじさんについて行ったら危ないのは知ってるけど、こいつは年上だけどおじさんではないから、誘拐とかははないと思ったし。ちょっとだけバスケしただけだけど、どっちかといえば嫌いじゃないっていうか、その逆っていうか。
 小五にもなってキスの意味を知らないわけはなかった。『誰か来る』って言ったのは見られちゃ困ることをしてるって思ったからだし、だけどオレは、この先なにがあるのか、このあと自分がどうなってしまうのか、知りたくて仕方がなかったんだろう。
 好奇心とか、子供だったからとか、今だったらそう処理するんだろうけど、〝はじめて〟のドキドキはもうここから始まってて、中学時代の普通の男女交際では覆せなかったのも納得で。

 少し歩くとコテージに着いた。うちが借りてるとことは様子の違う、孤立してて、明らかに立派な感じの建物だ。
「ここに泊まってるんだ」
 鍵を開けてる、広い背中に続いて中に入る。やっぱり中も広いな、金持ちなのかなってきょろきょろしてると、「手を洗おう」ってお父さんみたいなことを言われた。確かに地面に手をついたりしたから、オレも手を洗うことにする。
 それから細かいことは忘れたけど、奥の部屋、ベッドがある部屋で背中から抱きしめられて、二人でベッドの上に崩れるように倒れ込んだ。
「わっ……!?」
 熱い。ゴール下で倒れたときとは違う、完全に密着した体がすごく熱くて、どくん、どくん、相手の鼓動が伝わってくる。
 体に回された腕も手首もがっしりと太くて、力強さは感じるけど乱暴な感じはしなかった。無理やり落ち着かせようとしてるみたいな、不自然な息が後ろから耳をくすぐってる。
「なに……?」
 そう言っただけで、抵抗はしなかった。嫌じゃなかったんだ。細かいこと知らなくても、全く想像できないわけでもなくて──待ってたんだと思う。
 大きな手がシャツの裾から入り込んで、腹を撫でながら胸まで登ってくる。シャツがめくれ上がったところから見える、自分の腹の色に対してそいつの手は随分色黒で、未知のものに触られてる感じにぞわぞわドキドキして、体じゅうからジワッと汗が噴き出した。相手のほうも、ごく珍しいものの形を確かめるみたいにオレの腹を撫でてる。後ろで溜め息が聞こえた。少し硬い指先が乳首を掠めて、思わず声が出た。
「ぁっ…」
 最初のそれは反射的なものだったと思う。だけど指先が調子に乗ったみたいに乳首を摘んで弄り回すうち、オレも(これは気持ちいいってことなんだ)ってわかりはじめて……自分が勃起してることに気づいたのと、どっちが先だったか忘れたけど、とにかく気持ちよくなって、されるままになってた。
「あっ、んっ…」
 太腿の後ろに硬いものが当たってて、相手の勃起なんだろうかって思ったらちょっとこわくなって、でもそれ以上にものすごく興奮した。触ったら怒られるかな、なんて思ってたらハーフパンツと下着を一緒に下ろされて尻を直接撫でられた。
「はっ…ぅ、んんっ…」
 太腿から尻に、指先を肌に埋めながら何度も行き来させて撫でたり、尻の肉を揉んだり。自分じゃなんともないのに、そいつに触られるとすごく感じて、オレは堪らずもぞもぞ身をよじった。尻を触ってないほうの腕はオレの胸をがっしり抱いてて、それ以上の抵抗はできない。
「柔らかい……」
 うっとりしてる感じで囁かれて、全身が総毛立った。あぁ、オレこれからこの人とセックスするのかなって、空気に晒されたちんちんが反応してピクピクしていた。
「はっ…」
 見越したみたいに、ていうか多分後ろから見えてると思うけど、大きな手がオレの股間に伸びて、覆い包むみたいにゆるく握った。それだけで思い切り体がビクッてなって、恥ずかしくて一気に顔が熱くなった。感じたってより驚いたんだと思う。
 胸に回ってる腕の力が強くなって、後ろから頬を摺り寄せられて、体を縛るみたいに抱き締められる。そう強いもんじゃないが相手の体臭っていうか、自分じゃないもののニオイと熱に包まれて頭がくらくらした。酔っ払ったらこんな感じなのかな。
 大胆っぽいくせに手の中のモノには弱く、軽くしか触ってこないのがもどかしくて、オレは腕の中で思い切り体をよじった。腕の力が緩んで、オレは相手と向き合う格好になる。大人びた顔が驚いたみたいに目を丸くして、それから優しそうに、やらしそうに目を細めて近づいてきた。キスするんだ、って思ってオレも目を閉じた。
 外でしたのとは違って、ちゅって音を立てて吸われたり、舌を入れられたりして、それ自体が気持ちいいのかどうかはよくわかんなかったけど、オレはきっと特別なことをしてるって思って興奮しながら、にゅるにゅる動く舌を夢中で舐めてた。
 そうして抱き合いながら、自分がされたみたいに、相手のシャツの下から手を突っ込んで腹に触ってみる。
「すご……」
 硬い腹に筋肉のでこぼこを感じて、思わず声に出てしまった。多分線を描いたらマンガみたいな形になるんだろう。
「ん?」
「筋肉、すごい」
「そうか?」
 相手は嬉しそうにして、体を起こすとシャツを脱ぎ捨てた。筋肉を見せるためだろうけど、オレの目は裸の上半身より、下半身にできてる小山に釘付けになってしまった。オレが勃ってるんだから相手も同じなんだろうけど、だけどそれは異様にでかく見えた。体がでかいんだからそのぶんなんだろうけど、それにしてもだ。
 視線に気づいたのか、褐色の手がハーフパンツをずり下ろすと、その下に隠されていたものがボロンとこぼれるように顔を出した。
「ひっ」
 重そうに首をもたげる勃起ちんぽはでっかくて大人みたいで、っていうかオレはちゃんと大人の勃起を見たことなかったと思うけど、毛も濃かったし、とにかくオレとは違ってて圧倒されてしまった。地黒らしく、ソレも色黒なのが余計にものものしさを増してる。
「嫌になったか?」
 オレは咄嗟に首を横に振っていた。驚いたし、全く戸惑いがないわけじゃないけど、そいつの手がそれをさする動きがすごくエロくて、興味と期待は俄然高まってた。
「ならよかった」
 相手は安心したように笑うとオレの口にキスをして、起こしてた体をもう一度二人してベッドに沈める。首筋をべろべろ舐められると、気持ちいいのかくすぐったいのかよくわかんなくて、笑いの混じった高い声が出た。
「ふぁっ、あぁんっ…♡」
 シャツをたくし上げられ、正面から乳首をしゃぶられる。顔がそこにあるのも、舌がチロチロ動いてるのも恥ずかしくて堪んなくて思い切り顔を背けた。もう片方は、おっぱいないのに手の全体を使って胸を揉まれてる。
「あんっ、あっ、あぁっ…」
 ぴちゃぴちゃ、ちゅぱちゅぱやらしい音を立ててねぶられ、手指で押し潰され捏ね回されて、乳首で感じながら、ちんぽも熱くてジンジンしてる。オレってヘンタイなんだろうか。
「気持ちいい?」
 問われて顔を見ると、赤らんで丸く、大きくなった気がする乳首が視界に入ってものすごく恥ずかしい。
「わ、わかんにゃい……」
「じゃあこっちか?」
 相手は言って、オレのちんぽを握った。
「ひゃっ」
「すごい、トロトロだ」
「あっ、ぅ、だってっ、あんっ!」
 指先に、先走りの汁が糸を引いたのが見えた。それに、濡れてるせいでめちゃくちゃ感じてしまう。
「おいしそうだな」
「なにっ…ぁんっ、あっ、やぁっ…んっ!」
 厚い唇が楽しげに歪んでオレのちんぽを咥え込んだ。そんなの気持ちいいに決まってる。吸ったり、横に舌を絡めたり、先っぽをべろべろ舐めたり。
「ぅあっ、んんっ、あっあぁっ…!」
 脚を開かされた恥ずかしい格好でやりたい放題されながら、でも自分の思い通りってわけでもないもどかしさもあって、オレは思わず浮かせた腰を揺らしていた。
 派手な音を立てて、不意に唇が離れる。先っぽと厚い唇の間にぬろっと粘液が糸を引いてものすごくやらしい。
「気持ちいい? わかんない?」
 わかってるくせに、意地悪するつもりなんだろうか。でも、この状況で恥ずかしがることなんてもうないだろう。
「きもちい、もっとして…」
「ああ……」
 相手は溜め息混じりに呟いて、少し間を置いて続けた。
「舐めっこしようか」
 シックスナインってことだろう、エロい漫画で見たことあるから知ってる。本当にあるんだ、クラスでしたことあるやついるかな。
 ハーフパンツと下着を脱ぎ捨て、促される通り相手の顔を跨いで、その腰にそびえ立つものに向き合った。上も下も恥ずかしいなんて、大人ってド変態だな。
「ぅあっ…!」
 待ち構えてたみたいにしゃぶりつかれて、思わず声が出た。義務感に駆られるように目の前のものを口に押し込むと、汗っていうか体臭っていうかそれなりのにおいがしたけど、いかにもって感じでむしろ興奮した。でっかくて全然口に入りきらないそれの根っこを支えて、口の中で舌を使って先っぽを撫で回すと、股の下で低い呻き声が聞こえた。相手も感じてるってことが嬉しくて、オレは夢中でそれを舐め回した。
「んむっ、んぅ…んんっ……あぁっ!?」
 ちんぽだけで気持ちいいのに、相手は太腿とか尻を揉んでくるのがずるい。そのうち玉とか尻の穴まで触られて、それがまた気持ちよくて、オレは途中からただ相手のモノに唇を寄せるだけになって喘いでた。
「ぁはっ、ぅ、あんっ、あぁっ、だめっ…!」
 いきそうになって、オレは思い切り腰を引いて相手の上から体をどけた。
「なにがだめだった?」
「だって……」
 舐めっこなのに、オレだけ先にいったらだめだと思ったんだけど。でもオレのほうが子供だから、向こうは対等に思ってないかもしれない。そう考えたらなんも言えなくなってしまった。優しい顔が、オレを覗き込んで笑う。
「やっぱり、顔が見えてるほうがいいよな」
「……うん」
 なんか、なんだかすごく、なんだろう。よくわかんないけど、体を起こしてた相手の逞しい首に思い切り抱きついてしまった。
「ねえ」
「なに?」
「……なんでもない」
 唇に、体じゅうにキスをしながら、肌を合わせて、二人の体温を同じにするみたいに撫で合った。
「あのね」
「うん?」
「……」
 肉の色の透けてる、感じるところを摺り寄せて、互いの体液を混ぜ合わせ、泡立てて。いけない遊びに没頭しながら、あいつもオレと同じだったかな。
「ね。一緒にいこ」
「ああ……」

(ねえ、あのね、……好きだよ。)

「おい、起きろ」
 体を揺すられて、コソコソ声で起こされた。ことが済んだあと、ベッドの上でだらだらしてるうちに眠ってたみたいだ。相手は慌てた様子で服を着込んでて、ドアの外、多分コテージの玄関のほうで話し声が聞こえてる。少しして、大人の女の人の張り上げた声がした。
「紳一? 誰か来てるの?」
 家の人が戻ってきたんだろう。オレも急いで服を着る。そうしてるうちに、着替えを終えた相手は部屋から出て行ったみたいだ。シャツを被ってる間に、部屋のドアが開いて閉まる音がしてた。
 着替えたオレは働かない頭のまま、白いカーテンの揺れる大きな窓から外に逃げ出した。靴は玄関だから、裸足っていうか靴下のままだ。今思えば、服を着たんなら別に普通に友達のフリしてあの部屋にいればよかったんだ。だけどあのときは大人がいない間に上がりこんで、知られちゃいけないことをしてたっていう意識が強かったから、姿を見られちゃいけないって思った。
 帰ったら当然怒られたし呆れられたし、連れ去りに遭ってたのかとか、変態に靴だけ盗まれたのかとか変な心配までされてしまった。
 次の日の午後、一人であのコテージに行ったらオレの靴が玄関先に出してあって、中にはもう誰もいないみたいだった。帰ってしまったんだろう。
 旅先で、どこの誰かも知らない上級生とセックスしてしまった──もう少しして男同士でもその先もできるって知るまでそう思ってたから、それがオレの実感の中での初体験だ。

 透明な日差しの下、緑の狭間に淡い人影が見えた。忘れ去られたようなゴールの下に誰かいるなんて思わなかったから、幻かと疑ったくらいだ。
 近づいてみるともちろん幻なんかじゃなかったし、人がシュート練習してる風景なんて珍しくもなかったが、彼の纏う淡い色のせいか、いつもと違う環境のせいか、漠然と(綺麗だな)って思ってしばらく眺めていた。珍しい鳥でも見つけたような気分だったと思う。
 だがそれは鳥じゃない。男の子だ。光にふちどられて金色にも見える髪と、眩しいくらいに白い肌をしてる。顔は見えない。
 バスケをしてるってのと身長から、同い年くらいかもしれないと思ったのは単なる願望だったかもしれない。珍しい左利きと正確なシュートもあって俄然興味が湧いて、じき見てるだけじゃいられなくなった。

 綺麗な顔に浮かんだ強気な表情と言葉に、初めから好感は持ってたと思う。それは友達に向けるものでしかなくて、仕掛けたときには不埒な思いなんて全くなかったはずだったんだが──ゴール下でバランスを崩したとき、つかまえた体から甘い香りが漂った。そこからだ。
 胸にすっぽりおさまっちまうくらいの肩幅と、振り返ったときの噛みつくような表情、それから至近距離で改めて観察した造形。色素の薄い、長いまつ毛は華やかなのに清楚で、それに飾られた大きな瞳には力があった。引き結んだ唇はそこはかとない意志の強さを感じさせた。こんなにかわいい子がこの世にいるのか、妖精かなんかじゃないのかって思った。しかもバスケが好きだなんて、なんて運命的だ!
 恋に落ちるのは簡単だった。好きだと感じた、その衝動のままキスをした。拒絶はなかった。生々しい期待が膨らんでいく。
「誰か来る」
 俺は細い手首を掴んで、二人で森に身を隠すように駆け込んだ。誰かに見られたら奪われてしまうような気がした。明日には東京に帰る、もう二度と会えないかもしれない、まだ一緒にいたいんだ──思考ってより、それも衝動だったと思う。
 自分の泊まってるコテージに連れてったのは、そこに今誰もいないと知ってたからだが、下心があったからじゃないと思う。多分。おやつでも食べながら話をしようと思ってたはずだ。
 だが無理だった。
 柔らかな髪が、ミルク色の肌が、なにも知らないふりをした、見透かすような視線が。全部が俺を誘ってた。触れたい。頭で知るより体で感じたい。
 きれいだ、かわいい、好きだ。勝気なところも、甘える声も拗ねた顔もきっと全部。言葉だけじゃ足りなかった。純粋な感情に生臭い欲求を孕んだ、あれはおとなになって初めての恋だった。

 あのとき確かに二人は通じ合ったはずなのに。
 夢か幻か、それこそ妖精の仕業だったかもしれない、そう思い込んで忘れたはずだった邂逅は、しかし五年後にもう一度訪れた。

 東京から神奈川の海南大附属高校に進んだ理由には、バスケと海と、親元を離れてみたかったことと、まあいろいろあった。だがまさか、こんな巡り合わせがあっていいんだろうか。
 深緑のブレザーに、チームのカラーも緑。その時点で胸騒ぎはしてた。そして体育館で一目見て気づいた。彼も同じだったみたいだ。さらさらとした前髪の下で、長いまつ毛にふちどられた、大きな瞳がこぼれ落ちそうに見開かれてこっちを見てる。左手にはバスケットボールが抱えられていた。
「藤真、なんだ、知り合いか?」
「知るわけねーだろっ、あんなやつ!」
 藤真と呼ばれた彼は、顔を真っ赤にして体育倉庫に引っ込んで行ってしまった。忘れたわけでも、まして人違いでもないだろう。
 だが俺は後を追えなかった。他校だから遠慮したってわけじゃない。俺にとって儚く美しい出来事だったそれは、彼にとっては忘れたいあやまちだったのかもしれない。無理矢理に掘り返すことなんてできなかった。

 恋も運命も終わった。
 大きく開かれた窓に白いカーテンが揺れて、ベッドに注ぐ透明な日差しがミルク色の肌と栗色の髪を明るく際立たせる。よく眠れるもんだなと、俺は扇型に閉じたままの長いまつ毛を飽きもせずに眺めていた。
 この避暑地の別荘で、藤真と一緒に過ごすのはもう何度目になるだろう。

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