きみを知った日

【R18】牧藤はじめて物語。出会ったり致したりします。全4話 [ 2話目:9,350文字/2019-07-09 ]

2.

 目を覚ますと見慣れない白い天井があって、妙に圧迫感のある頭部の、左のこめかみがずきりと痛んだ。記憶は試合の途中で途切れている。
「藤真!」
 声とともに、よく見慣れた黒縁眼鏡が視界に飛び込んだ。
「花形……?」
 辺りを見回す。白いベッドと白いカーテンの、ここはどう見ても病室だ。花形の他に二年の部員が何人か居て、安堵と緊張の入り混じった、なんとも言いがたい表情をしている。相手選手の肘を受けたきり、記憶は試合の途中で──そうだ、今は試合中だ。自らの置かれた状況を理解しきらないまま、藤真は勢いよく飛び起きた。
「試合! 早く戻るぞ!」
「……」
 沈黙が答えだった。チームメイトが困ったように顔を見合わせ、花形は眼鏡の奥で目を伏せる。
「もう、終わったよ」
 様子から、結果を想像することは難しくはなかった。しかし気づかない、信じないとでもいうように、藤真はゆっくりと首を横に振る。
「オレたちのほうがリードしてた。あのまま勝ったんだろ?」
 声が震え細く掠れる。まだ夏だというのに、病室の寒々しい空気が肌に刺さるようだった。早く戻らなくてはならないのに、花形の腕が体を縛ってベッドから出られない。
 花形は深く息を吐き、重い口を開いた。
「試合は俺たちの負けだ、藤真。夏は終わった、切り替えていこう。傷が大したことないようでよかった」
 まるで子供に言い聞かせるようにゆっくり、はっきりと告げられた事実に感情が伴ったのは、家に帰り着き自室で一人になってからだった。

 翔陽高校バスケットボール部にとって、波乱の夏だった。
 インターハイ・豊玉戦。藤真は二年生唯一のレギュラーにして、早くもエースの座にいた。ポイントガードでありながらチームの得点の半分以上を挙げ、良い雰囲気でゲームを進められると思った矢先──相手選手の肘を頭部に受け負傷退場してしまう。
 エースの抜けたチームは足並みも乱れて逆転負けを喫し、猛バッシングを受けた監督は元々の体調不良に加え、心労のため療養、復帰は未定となった。
「なんで監督が叩かれてんだ、悪いのはあいつだってのに!」
 忌々しげに声を荒げるチームメイトに、藤真は対照的に静かな口調で言った。
「そんなこと言うもんじゃない。言ったって、仕方ないだろう」
「藤真っ……!」
 あの試合の当事者ならば、或いは相手のプレイスタイルについて知っていれば、単純な事故ではないことは明白だった。張本人に宥められ、チームメイトは余計に苛立ちを募らせる。
「俺たちは見てたんだ、奴はお前を狙って」
『黙れ。聞きたくないと言ってる』
 藤真が不快感を露わにして発するよりも、花形が二人の間に入るほうが早かった。
「藤真、先生が呼んでる。行こう」
 その姿を相手から覆い隠しながら、花形は遣る瀬なさに伏せられた藤真の瞳を見た。悔しいはずだ。悲しいはずだ。しかし彼の涙を見たことは未だない。気の強い男だ、一人になったときにでも素直に泣くことができていればいいと思う。
 すぐに後ろを向いてしまった、藤真の背中を押して花形も部室から退散する。いっそ何の疑惑もない事故だったなら。いっそ完全なる敗北だったなら。決して口には出せない仮定と想像が脳裏を巡っていた。
 監督への批判、相手への誹謗、外野からの慰めの言葉、周囲の落胆。そのどれも聞きたくなどないのだと、藤真は言った。あのとき自分が違う判断をしていれば、もっとフィジカルが強ければ、全ては今と違ったかもしれないと、いつまでも考えてしまうからと。
 ならばどうすれば彼は救われるのだろう。託し、期待する側でしかなかった自分に一体何ができるのだろう。
「藤真。その……俺にできることがあったら、なんでも言ってくれ。本当に、なんでもいいから」
「なんだよ、急に。……ああ、それじゃ理科のノートを見せてくれ」

 事前から明言していた者も、そうではなかった者も、三年生の全員がインターハイを最後に実質引退し、翔陽高校バスケットボール部は藤真を中心とするチームに生まれ変わった。
 一年のときからすでに中心選手ではあったものの、今回はそれだけではない。上層部の意向や現監督との契約の問題など、諸々の事情が折り重なって、二年の藤真がプレイングマネージャーとして監督を兼ねることとなったのだ。
 強豪校の異例の人事は近隣の学校でも話題になったが、外部から口を挟めることでもない。選手としての藤真に注目していた他校の監督陣も関係者も、見守るほかなかった。
(オレは、オレたちは翔陽なんだ。今度こそ、皆の期待に──)
 自らを奮い立たせるように頭に浮かべた言葉に、藤真は自ら首を横に振る。
 次の公式の試合はウインターカップ──彼らが〝冬の選抜〟と呼ぶ大会の予選だ。その名の通り本戦は十二月下旬だが、神奈川県予選は九月に行われる。今年のように全員揃ってではないが、インターハイを境に三年の多くが引退するのは翔陽では通例で、一方、大学の附属校である海南は三年も大半が残る。本戦に進めるのは県から一校だ、結果は見えているようなものだった。そのためウインターカップ予選については試合の場数を踏む意味合いが強く、インターハイほどの期待はされていないのが実情で、年度の途中から新監督を招聘しなかった理由の一つでもあった。
(皆のモチベを保つこと。少しでもいい結果になるように努めること……)
 そして何より自分が経験を積むこと。
 同級生も後輩も、大半が協力的な態度を示してくれたことが救いだった。それらに背中を支えられていると感じ、大きな意欲が湧いた。
 しかし、同時に責任も感じていた。重荷でなかったといえば嘘になる。
 新たに学ぶこと、覚えなければならないことは膨大で、余計なことは気にしていられなかった。ショックから立ち直るには丁度良かったかもしれない。
 しかし疲れてもいた。重い瞼に抗って、ベンチで本を抱えながら、ミニゲームに勤しむ仲間を羨ましく眺めたものだった。

 十月下旬、陵南と他校の練習試合の会場。
 二階の手すりに寄り掛かり、藤真は一人──珍しく花形と一緒ではなく──真剣な顔で試合を眺めていた。ルーキーの仙道を始めとする選手たち。ベンチの様子、監督の指示、その意図するところ。これまでとは違う領域の動きも追いながら、少しでも思うところがあればメモを取った。
 ふと隣に、それも赤の他人が並ぶにしては妙に近くに、人が立っていることに気づく。前に傾けたままの姿勢で見上げると、よく見知った大人びた顔があった。
「うおっ、牧! なんだ、声掛けろよ」
 整った眉をぴくりと釣り上げ、小さく不満を表した藤真に対して、牧は飽くまで悠々と構える。
「邪魔したら悪いかと」
 ウインターカップ予選で監督席に座り、ほとんど試合に出ない藤真の姿には、虚脱感さえ感じたものだった。怪我の具合が悪いのかとも思ったが、海南対翔陽戦では後半から出ていたので、おそらく大丈夫なのだろうと思い込むようにしていた。
 試合の後「うちと当たるまで勝ち進むなんて大したもんだ」と素直な賛辞を口にすると、藤真との間に他の部員達が壁のように立ちはだかって、その向こうから「そりゃどーも」と不貞腐れたような声が聞こえた。その場での直接の会話はそれだけだった。
「怪我は、もう大丈夫なのか?」
「お前こそ大丈夫か? 記憶失ってる? 選抜予選、一応対戦したんですけど?」
「そりゃ覚えてるが、フルでは出てなかったし、タイミングが合わなくて声掛けられなかったから気になってた」
「素人がフルで試合出ながら監督やるなんて無理だって。それに、オレが入ってなくてもやってけるチームにしたいって思ってるし」
「春から新しい監督が来るんじゃないのか」
 それは牧の願望でもあった。藤真とのマッチアップを心待ちにしているし、彼がコートで動き回る姿をこそ見たいと思っているのだ。
「どうなんだろうな。どっちにしろ、層は厚いほうがいいだろ」
 遠くを見つめて目を細めた、声は少しだけ投げ遣りなようにも聞こえた。
「……インターハイの。あの試合、俺も見てたし、ずっと心配してた。時間さえ許せば見舞いに行きたかった」
 藤真は苦笑した。
「来なくて正解だろ。自分の立場わかってんのか?」
 牧が少し寂しそうな顔をした気もするが、愛想を振り撒いてやる義理もないので構わず続ける。
「だってそうだろ。順調に勝ち進んだライバル校のやつに会って、傷心のオレはなんて言えばいいんだ? オメデトウって?」
「そんなつもりじゃない。悪気はないんだ」
「ああ、知ってる」
 いつ、どんなタイミングでだって、牧に自分への悪意などないことを知っている。フィジカルの強さや試合中の印象とは打って変わって、彼はコートの外では穏やかで紳士だった。今だとて、友好的な感情以外は抱いていないだろう。
 途端、情けなくなって、牧から視線を外した。
「なんか駄目だな、オレ。お前に八つ当たりしてる」
 こんなことで監督など務まるのだろうか、とは喉の奥に呑み込んで、再びコートを見つめる。次に牧が口を開いたのは、試合が終わったときだった。
「別に、八つ当たりくらいしてもいいぞ」
「え? ……いや、その話はとっくに終わってるって」
 頭の中で前の会話を遡り、あまりに律儀な男に思わず吹き出した。試合中だって話し掛けられても構わなかったのだが、どうにもこちらに気を遣っているようだ。
「そうか……そうだな、藤真、これから忙しいか? よかったらお茶でも」
 不意に。そう、本当に不意に、いつかの花形との会話が光のような速さで頭を過った。
『お前、随分気に入られてるな』
『ヘンなことされそうになったら言えよ』
『なんだよ、変なことって?』
(──つまり、そういうことなんだろうか)
 唐突に浮上した可能性と、それを確かめるための思い付きを、熟慮せずに口にする。
「大丈夫だけど、話すんなら静かなとこがいいな。……そうだ、お前の家はどうだ?」
「うち?」
 牧は面食らって目を瞬く。彼の余裕を失った表情を見られただけで、藤真はにわかに愉快な気持ちになっていた。
「一人暮らしだろ? 無理なら別にいいけど」
「いや、大丈夫だ。少し遠いが」
「平気」

 牧の住居は、シンプルな外観の、比較的新しく見えるマンションだった。
「へえ、綺麗なところだな。ゴミ置き場も散らかってないし」
 途中のコンビニで菓子などを買ったビニール袋を鳴らしながら、藤真は感心したように呟いた。
「別に普通じゃないか?」
「東京でだけど、家族に付いて一人暮らしの物件を見て回ったことがあって。これはハイソなほうだと思うぞ」
「家族? 兄弟とかいるのか?」
「姉がいる」
 牧はまじまじと藤真を見つめ、深く考えずに呟いていた。
「さぞかし美人なんだろうな」
「……似てるって言われる」
 男女の差はあるものの、明らかに血縁者だとわかる特徴と造作をした、見目麗しい姉弟だった。女きょうだいに似ていると言われることを気にした時期もあったが、昔のことだ。
 三階に上り、牧のあとに付いて部屋に入ると、ダイニングキッチンというのだろうか、玄関から続くだだっ広いキッチンの壁にサーフボードが立て掛けてあった。
「牧ってサーフィンするんだ。それで焼けてるんだな」
 藤真はさも納得したというように頷く。
「海南って練習厳しいんだろ? 海に行く時間なんてあるのか?」
「まあ、たまにだな。最初に思ったほどは行けてない」
 サーフィンは昔からの趣味だった。引越しに際し、それについても期待していたのだが、どうやら海南の練習量を甘く見ていたようだ。バスケットにおいては充実した日々を送っているので、不満ではなかった。
「藤真は海行くのか?」
「高校入ってから行ってないかも」
「波乗り、楽しいぞ」
「多分、今までの人生で一度もサーフィンに興味持ったことない」
「そうか……」
 もちろん今も、と言わんばかりに本当に興味がなさそうな様子なので、牧はそれ以上話すことができなくなって居室へ進んだ。
「出た! バスケオタクの部屋!」
 壁に貼られたバスケットボール選手のポスター、レプリカユニフォームやシューズ、本の棚にはバスケットボール専門誌。それに混ざって飾ってある小さなトロフィーも、おそらくバスケット関連のものだろう。部屋自体は片付いていて、学生の一人暮らしにしては広々として見えた。
「皆こんなもんなんじゃないか?」
 ただの遊びで齧っているわけでもない、強豪校のバスケ部員だ、牧の言う通りではあった。
「そうかも。花形の部屋はさ、バスケのやつと勉強の難しいやつが交互に貼ってあって。なんとなくシュールで笑ったな」
 唐突に登場人物を増やして思い出し笑いをする藤真の言葉に、いつも彼の近くにいる長身の黒縁眼鏡を思い出す。
「花形……確か、センターの」
「うん、デカいメガネのやつな。あいつバスケもうまいのに、めちゃめちゃ頭良くて学年一位とか取るんだ。やばいよな」
「仲いいんだな」
 チームメイトならば部屋に遊びに行くことくらいあるだろう──あるのだろうか? 牧の感覚に照らせば珍しいことに思えたが、現に今こうして他校生の部屋にまで来ているのだし、藤真はそういうタイプということなのだろう。
「一年のときから同じクラスでさ、最初のとき席順が一志、花形、オレ、て並んでて。背でかいしバスケやってんのかなーって……いや、なんで花形の話?」
「お前が言い出したんだろう。まあ、座ってくれ」
 ようやく話題に疑問を感じたらしい藤真に、牧は一人掛けのソファを勧めた。基本的に人を呼ぶことを想定していない部屋のため、テレビ、ローテーブル、今示したソファと、ソファの右手側にベッドがあるくらいで、客人を座らせる場所はごく限られていた。
 藤真はコンビニ袋を傍らに置いてソファに座ると、リモコンを手にして勝手にテレビをつける。
「今なんかやってたっけなー」
 興味なさげな表情でチャンネルを切り変えていく藤真に適当に相槌を打ちながら、牧は自分の部屋で藤真が寛いでいるという光景を、至極不思議な気分で眺めていた。
 そこにあるはずのないものがある、違和感、あるいは現実味のなさというのか。
 知人というほど他人ではないが、友人と呼ぶほど気の置けない仲でもない。連絡先だってまだ知らない。それでいて、一番大切なこと(言わずもがなバスケットのことだ)に向き合うときにはいつだってその存在を意識している。いわば藤真は特別だった。
 そんな人物が、唐突に懐に飛び込んできたというのが今の状況だ。決して悪い気分ではないが、なんとも落ち着かない、危うい気配を感じなくもない。
 藤真は適当なところにチャンネルを据え、コンビニ袋から飲み物と菓子を取り出して外装を開くと、訝しげな顔で牧を見上げた。
「なんでずっと突っ立ってるんだ? オレがソファを乗っ取ったせい?」
「……いや、少し考えごとをしてた」
 のんびりとした答えに軽く吹き出しながら、菓子の個装を破く。
「牧って結構天然だよな」
「そんなことないと思うが」
「はいはい。……ん、これうまい。ほら」
 牧がソファの背凭れの後ろを通り過ぎようとすると、整った面が不意にこちらを仰ぎ、濃いピンク色のポッキーが一本突き付けられる。半ば口に押し込まれながら受け取って咀嚼すると、苺の爽やかな酸味と甘みが口の中に広がった。
「ちょっと高いポッキー。牧って甘いの好き?」
 食べさせてからそれを聞くのか、順番が逆ではないのかと思わなくもない。
「むしろ、嫌いな食べ物が思いつかないな」
「お、いいじゃん。好き嫌い多いやつって一緒にいてめんどくさいからな」
 中性的で優しげな顔立ちに、天使と形容される微笑を浮かべながら明け透けな物言いをするものだから、つい面白くなって笑ってしまった。
「なんだよ?」
「いいや。なんでも」
 ついでに、平時でないとき──バスケットをしている最中などはまた違う顔を見せてくれるのだが、それはまた別の話だ。
 牧は藤真の座るソファの右斜め前まで移動して床に腰を下ろした。そうすると、丁度ベッドに背中を預けて座ることができる。
「……」
 特別面白いとも思えないテレビ番組を眺め、藤真の顔を盗み見ると、目の前にポッキーの箱が差し出された。そういう意味ではなかったが、と思いつつ一本頂いて口にする。少し酸味が強いか。
「藤真、話ってのは一体?」
「こっちのセリフだろ。静かな場所をリクエストしたのはオレだけど、先にお茶に誘ってきたのはお前だ」
「あー……、あぁ……」
 そう言われればそうだったかもしれない。いや、そうだった。牧は気まずい気分で呻いた。そして実際のところ、話というほどの話はない。久々に会えたものの試合中は静かにしていたから、もう少し雑談でもしたいと思った、それだけだった。
「だからさ、そういうとこが天然なんだって」
 藤真はさも愉快そうに笑っているが、特に理由もないのに家に連れてきてしまったと言ったら怒られるだろうか。話題を探そうにも、試合会場でのことを思えばインターハイについてはやめておいたほうがいいだろうし、それと密接に絡んでいると思われる、翔陽バスケ部の現状や監督の件にも触れにくい。
(しかし、バスケ以外の話題なんてますます無いような気がするな)
 そこまで考えて、愕然としてしまった。それなりに知った間柄だと感じていたのに、バスケットを除いてしまえば、二人の間には何の所縁もないのだ。
 初対面は練習試合だったし、その後顔を合わせる機会も全てバスケット関連だった。互いにバスケットを主目的としてその場に居たに過ぎないのだ。牧にとっての藤真の存在が、他の選手と一線を画すものであることもまた確かではあるのだが──
「あのさ、もしかしてなんだけど」
 ゆっくりと、淡々とした口調だった。見遣ると藤真もまたこちらを見ていたが、表情にはつい先ほどまでの穏やかな笑みはない。感情を察せない整った顔貌はまるで作り物のように綺麗で、牧は無性に落ち着かない気分になった。
「な、なんだ?」
「牧って、オレのこと好き?」
「……!?」
 言葉は、シンプルであるほどに力を帯びるのだと思う。たった二文字のそれに想定外の衝撃を受け、牧はしどろもどろに答えた。
「いや、まあ、嫌いな相手を部屋に上げようとは思わないというか……」
 脈拍がおかしい。体温もカッカと上がって、握った手の中に汗が滲んだ。一部で帝王などと呼ばれていても、彼はコートの外では至って温和で、普通の少年らしい面も持ち合わせていた。
「そっか。そうだよな」
 藤真は小さく頷くと、視線をテレビに戻してポッキーを口に咥えた。
「……」
「……」
 二人の間にはテレビの音と小さな咀嚼音だけが流れていたが、牧の頭の中には藤真の言葉が何度も繰り返されていた。
『オレのこと好き?』
(それに対して俺はなんだ、なんて言った)
 がしがしと頭を掻く。今感じているものは、〝嫌いではない〟という程度の消極的な感情ではないはずだ。
 このまま流してしまえば、二人はいつまでもバスケットだけで繋がっている間柄だ。いや、それでいいのではないか、一体藤真とどうなりたいというのだ、そもそも彼の発言の真意はなんだ。
 混迷を極める内心に反して、口調は案外と落ち着いていた。
「待て藤真。好きってのは一体どういう意味で」
「……こういう意味」
「!!」
 藤真はソファから体をずり落として牧のそばに膝を付き、その手を掴んだ。握られていた拳を丁寧に広げて手のひらを重ね、二人の指の一本一本を互い違いに組んで握る。握手とは呼べない、男の友人同士ですることでもない、いわゆる恋人繋ぎというものだった。
「オレの勘違いなら忘れてくれ」
 無言の牧に対し、藤真は軽い調子で言って手を離そうとする──が、離れない。がしりと掴まれた手を自分のほうに引き戻そうとしても、びくともしなかった。牧はといえば、きまり悪そうに視線を泳がせている。
「その、そうだな、確かにお前のことは好きだ……が、具体的なことについては全く考えたことがなかったというか……」
 握ったままの熱い手のひらが、答えのようなものだった。
(照れてんのかな、これ)
 藤真は俯き、前髪に目元を隠しながらほくそ笑んだ。牧の目には、弧を描いた薄い唇が、ひどく色めいて映っていた。
「なら、試してみるか? 具体的なこと」
 顔を上げて目を細め、愉しむように微笑した、その表情に〝小悪魔的な〟という形容が浮かんだときには藤真の顔は随分と接近していて、牧は状況を理解するより先に目を閉じていた。
「……!」
 唇の感触は柔らかく、ごく優しいようなのに、体の芯に電撃が走ったようだった。もはや否定しようのないものを自覚しながら、藤真の背中に腕を回し、その身をしっかりと抱き寄せる。触れるだけだった唇を吸い、深く重ねた。
(甘い……)
 唇を割って舌を差し込み、柔らかな口腔内を探り、藤真の舌に触れる。応えるように蠢き絡みつく感触が淫靡だった。
 小さな頭を手のひらに包むように撫でると、柔らかな髪のさらさらとした感触が好くて、このまま腕の中に閉じ込めて大切に触れていたいと思えるのに、心臓はうるさく、呼吸は荒く乱れ、肉体は逸って熱い血を滾らせている。
「んっ…」
 藤真は苦しげに息を漏らす。一瞬唇が離れても、追い縋るようにまた塞がれる。最初は触れて撫でるだけのようだった行為が、深く喰らいつき貪るように変貌していた。
 牧の気持ちを探った理由は〝本当にそうなのか気になった〟それだけだったと思う。結果を蔑もうと思ったわけでもない、単純で純粋な興味だったはずだ。
 しかし彼の言葉を引き出したとき、藤真の中に確かな、そして多大な悦びが生まれていた。恋愛が成就した感覚とは違うと思う。想像が的中し、思い通りの展開になった嬉しさ。そしていつも自分の前に立ちはだかるこの完璧な男が、自分にただならぬ想いを寄せているという事実への、少し歪んだ陶酔感だった。
 今、牧に求められ喰らわれそうになっていることに、間違いなく興奮している。男を相手に体の中心が熱く疼き、自分の身が得体の知れないものになったようで恐ろしくもあった。
(それにしても)
「……はぁっ」
 思い切り顔を背けて長い長いキスからようやく逃れ、藤真は大きく息を吐いて思わず笑った。
「キス、好きなのか?」
「違う。お前のことが好きなんだ」
 もはや迷いなく言い放った、牧の表情は恐いくらい真剣で、瞳は肉食の獣のように鋭くギラついていた。好きだなど言われ慣れた言葉だろうに、重く臓腑に響くようで目眩がした。危うい心地は紛うことなき快楽だ。
 逃す気などないというように両の手首を捕らえられながら、藤真はあくまで柔和に笑い、すっかり牧の体に密着している自らの脚を僅かに動かした。腿に、硬い感触が擦れる。
「そうみたいだな」
「す、すまん……」
 謝りながらも離れる気配の見えない、牧の内情を想像しながら、藤真は逞しい首筋に額を埋めて小さく笑った。この先は経験したことのない領域だが、不思議と迷いはなかった。
「いいよ、オレも同じだし。……やっちゃう?」
 軽い調子で言って牧の顔を覗き見ると、ごくりと喉の鳴る音が聞こえた。

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