4.
俺たちが初めて愛し合った次の日、観月さんは部活を休んだ。
放課後部室に行くと、赤澤部長がしかめ面で柳沢先輩に詰め寄っていた。手には携帯を握ってる。
「おい、観月は大丈夫なのか?」
「あ?」
「聞いてねえのか? 体調不良で部活休むって」
「! 初耳だーね、朝ごはんのとき普通だっただーね? 裕太」
「はい。別に普通だったと……」
どっちかというと俺のほうが普通じゃなくて、昨日の今日で観月さんをまじまじ見るのが照れくさくて盗み見みたいにしてた。けど、観月さんは普通だったと思う。いや、普通よりかわいく見えた。だって、名実ともに俺の恋人になったんだ。それが今日体調が悪いって?
ざわざわしだす俺の横で、淳先輩が静かに言う。
「日中どうだったのかわかんないけど、倒れたとかなら知らされてそうだけどな」
「たいしたことないって書いてる。用事で部活休むのはかまわねえが、ぼんやりした理由で気になるな。……電話してみるか?」
「やめとくだーね、観月は部長と話すとエネルギー使うだーね」
「それもそうか」
赤澤部長はよく観月さんに怒られてる。毎度反省は見えないけど怒らせてる自覚はあるみたいで、おとなしく携帯をしまった。
「観月は体力バカと違うから、おととい跡部とやって疲れてるだーね。今日はそっとしとくだーね」
「そうだな。練習は自主練やっとけって書いてあった」
「あいよ。みんなそうするだーね」
部室からスクールのトレーニングセンターに移動しながら、小声で尋ねる。
「柳沢先輩、なんか知ってるんですか?」
「いんや? でもオレたちの大会は終わったんだし、休みたいなら休んだらいいだーね。観月は練習してないときも頭脳労働してるだーね」
「確かに……」
そんな疲れきってた観月さんと、俺は昨日セックスしてしまった。しかも三発も。拒否られなかったからって、調子に乗ってやっちゃったけど、本当は俺が観月さんを気づかってあげるべきだったんじゃないか。それどころか俺は、観月さんが壊れそうとか不穏なこと考えながら燃えてしまった──サッと血の気が引いて青ざめてくのがわかる。観月さんが休んだのは俺のせいだ。
(腰とかお尻が痛いってなら、具体的に言いたくなくてぼかすよな……?)
「まだ凹んでるのかな」
「だ、大丈夫じゃないですか? きっと疲れてるだけですよ」
「ならいいけど」
菓子折り持って謝りに行きたいくらいだけど、これから部活だし寮の門限もあるし、みんなに秘密なのに怪しすぎる。
俺は上の空でずっとトレーニングマシーンを使ってたけど、それを咎める声も今日はない。
夕食の時間にも観月さんはいなかった。
「観月は部屋で食べるだーね」
って言う柳沢先輩は直接なりメールなりで聞いたんだろうけど、俺は知らなかった。ちょっとショックだな。いや、むしろ俺が原因だから直接言いづらいのかもしれない。部活休んだの突っ込まれたくなくて夕食に出てこないんだろうってのは想像できるけど。
「なんだろうね。僕ら避けられてる?」
淳先輩があんまり心配してなさそうな口調で不穏なことを言う。
「避けられるようなことしてなくないですか?」
俺はしたけど。これは俺たちの問題だから気にしないでほしい。
「放課後具合悪くなったなら、晩ごはん食べるのまだつらいだーね」
「そうですよね、きっとそう」
「裕太、なんか知ってそうだね?」
「知りませんよ! なにも!!」
「ふーん。まあいいや」
クスクスって笑いはついてこなかった。なんか俺、疑われてる? 疑いっていうか、まあ、実際俺のせいなんだけど……。
「観月がいないと静かだね」
食事中、ノムタク先輩が言った。ちょっと寂しそう、かな? 観月さんは行儀悪く喋るほうじゃないけど、なんだかんだ口数多いからな。
別に、体調崩して部活休むなんてしょうがないことだと思うけど、夕食にいないとか連絡がメールだけとか、いきなりよそよそしくなってるのがみんな気になってるんだと思う。事情知ってる俺だって気になるくらいだし。だけど俺は観月さんのためにも秘密を守らなきゃいけない。
夕食後、メッセージを送ってみる。
『観月さん 体調大丈夫ですか?』
『大丈夫、たいしたことないですよ』
昨日は無理させてすみませんでした、って送ろうかと思ったけど、まどろっこしいっていうか、直接謝りたいなって思った。実際どういう状態なのか、聞けるもんなら聞いときたいし。
『観月さん これから会えませんか? 話したいだけなので なにもしません』
返事が来るまでには少し間があった。
『いいですよ。今、部屋にいますから』
よっしゃ! 心の中でガッツポーズを取る。なんもしないけど、一応歯を磨いて、鏡を確認して観月さんの部屋に行った。
誰にも見られてないか確認して、観月さんの部屋のドアをノックして室内に滑り込む。
「観月さん。……こんばんは」
「こんばんは。いつもそんなこと言わないじゃないですか」
「部活で会わなかったから、ひさびさだなって思って……」
「朝会ったでしょう。なにか飲みますか? ジュース、ルイボスティー、まだ紅茶でもいい時間かもしれませんね」
「朝以来です。……ジュースで」
喉は渇いてなかったけど、飲みものがあるほうがのんびり居座っていい感じがするからお願いした。しかし、観月さんとこでジュースって珍しい気がするな。
いつもの座卓に座って少しすると、五〇〇ミリリットルのペットボトルのオレンジジュースを渡された。珍しいっていうか初めてかもしれない。俺のために用意しててくれたんだろうか。
「ありがとうございます」
「それで、話っていうのは?」
うう。きた。百パーセントのオレンジジュースが苦い。
「えっと、今日観月さんが部活休んだ理由って、俺のせいかなと思って……すみませんでした」
座卓に額をぶつけそうなくらい頭を下げる。
「はい?」
「俺、本当に観月さんのことが好きで、乱暴なこととか、傷つけるなんてしたくないのに、昨日はつい夢中になりすぎちゃって……」
ああ、ほんとかっこ悪いな。恥ずかしくて顔が熱くなってくる。
「君は昨日のことを後悔してるんですか?」
「そんなことないですっ!」
ガバッと顔を上げると、観月さんの冷めた目と思いきり視線が合った。声は静かだったのに、なんかすげーこわい。呆れてるのかな。
「や、やりすぎたのは反省してますけど、観月さんと、その、結ばれたのは、本当に特別で、嬉しくて……」
「じゃあ、いいんじゃないですか」
なんか突き放すような言いかただな。なんなんだろう。不思議に思ってると、氷の美貌って感じの観月さんの顔が近づいてきて、俺にキスした。
「っ!?」
唇を重ねるだけで離れた軽いキスだったけど、俺を煽るには充分すぎた。キスだけ。キスだけならいいよな。俺は即座に追い縋るように体を前に倒し、細い肩をつかまえて、ふたたび唇を塞いでいた。
「んっ……!」
喉の奥から漏れる声が色っぽい。
(ああ、やばい……)
俺の理性はなけなしだ。柔らかな唇の表面を舐めてこじ開け、舌先で歯並びを確かめる。歯の感触すらかわいく感じるって、もうわけがわからない。観月さんの舌に出会うと、舌を絡めて夢中で撫でまわしてた。ただただ、気持ちいい。
「ぅんっ、はぁッ……! 君、本当にスケベですね」
「っっ! 仕掛けてきたのは観月さんです」
舌を突っ込んだのは俺だけど。だって、しょうがないだろ。
「そんな君のために、これを買ってきたんですけど」
座卓の上に近所のドラッグストアの袋が置かれる。中を見たら、ヒィッて変な声が出そうになった。
「観月さんっ……観月さんッッ!!」
コンドームと、潤滑ゼリーって書いてるパッケージ。乳液じゃなくて本来はこういうの使うんだろう。俺、エロい想像してたくせにこんなのぜんぜん思いつかなかったな。興奮しつつちょっと凹む。
「今日はなにもしないんでしたっけ。……君、なにしに来たんですか?」
「謝りに来たんですよ! それに、観月さんに会いたかったし」
なんか、まただ。って思った。今日は一応口実あるけど、別になんもなくたって会いたい。観月さんは違うんだろうか。
いや、観月さんはなんもないわけじゃなくて、そういうことしようって、俺のためにこれを買って待っててくれたんだ。意外と積極的なんだな、最高すぎてくらくらする。
「……観月さん、腰痛いんじゃないんですか」
言いながら、腰が痛くない体勢でやればいいのかなとか考えてしまってた。だって、せっかく観月さんが用意してくれたんだ。
「誰がそんなこと言ったんですか?」
「え、だって、体調不良ってそういうことかと」
「違いますよ。根拠のない思い込みはよくないですね」
昨日やった事実があるから、根拠なくはないと思うけど……。
「じゃあ、どこが痛いんですか? 俺、気をつけますから」
「別に、もうなんともないですよ。それより裕太君、これ使ってみたくないですか?」
観月さんが袋の中をガサガサやりだす。俺に迷いはなかった。
「使ってみたいですっ!!」
◇
さらに次の日も観月さんは部活を休んだ。今日は体調不良じゃなくて、新しい練習メニューがまとまらないからもう少し時間をくれって内容のメールだったそうだ。
「お前ら、観月は本当に大丈夫なのか?」
俺たちはたまに観月さんの姿を見てるけど、赤澤部長はたぶんほぼ会ってないだろうから気になるんだろう。
「って、言われてもだーね。寮で見かけるぶんは別に普通だーね」
「昨日は体調悪くて寝てたから、今日新しい練習メニューができてないっていうのも、言ってることおかしくはないと思うけど……」
言いながらも、淳先輩はなんか引っかかるって様子だ。赤澤部長は腰に手を当てて怪訝な顔をする。背も肩幅もあるから、いかつくてちょっとこわい感じだ。
「おとといは全員休みだったから、試合からもう三日経ってる。メニューがまとまらないってのがほんとだとして、今までそんなことあったか? 観月がそんな状態になってるっての、大丈夫じゃねえんじゃねーのか」
確かに変だ。俺が会ってる限り、観月さんは体調悪そうでもなく俺とやってたし……。まさかサボり? 観月さんが? それってやっぱり尋常じゃない。ノムタク先輩が口を開く。
「観月、凹んでるのを引きずってる……?」
そんな。じゃあ俺と付き合ってるのはなんなんだ。最近ふたりでいて、特に試合とか部活の話はしてない。教会で会ったときは落ち込んでたかもしれないけど、付き合って、エロいことして、幸せになって、立ち直ったもんだと──俺はそう思ってたけど、観月さんは違うのか? 俺がひとりで浮かれてただけなのか?
背中を冷たいものが伝う。むしろ、どうして俺と観月さんが同じだと思ってたんだろう。
「俺、観月に会いに行ってみる」
「ええっ!?」
「なんだ裕太、なんか知ってんのか」
「なにも知りません!」
赤澤部長、見た目の割にかなりしっかり部長気質っていうか、体育会系っていうか、真面目なひとだから観月さんのこと放っておけないんだろう。そして観月さんがいなければ、部長を止められる人はいない。
「あっ、一応オレも行くだーね!」
寮に行くらしいふたりの後ろ姿を見送りながら、俺は観月さんにメッセージを送っていた。
『赤澤部長が観月さんの部屋に向かってます』
観月さん、いきなり訪ねて来られるの嫌いだと思うから、これは観月さんへの親切心。うん、俺はいいことをしたはずだ。
遅れてスクールに合流した柳沢先輩によると、観月さんは留守だったらしい。赤澤部長が部屋のドアを壊しそうだったから、ついて行ってよかったって。
観月さんの行きそうな場所、図書室や資料室に探しに行くかって話にもなったらしいけど
「そもそも赤澤は観月となにを話す気だーね、って聞いたらあいつ黙っちまっただーね。なんも考えてなかっただーね」
というわけで観月さんに会わずに戻ってきたらしい。柳沢先輩は理詰めタイプなんだろうけど、考えるよりとりあえず会って話そうってなるの、俺はわかるな。メールじゃなくて、顔見て話してるうちになんか出てくるかもしれないし。
俺が観月さんと話して部活に連れ戻せるといちばんいいと思うけど、正直、自信はなかった。それ以前に、観月さんとの関係にすら自信を失いかけてる。
夜、俺はまたも観月さんと会う約束を取りつけていた。なんの用って言われるのもあれなんで、たいしてやる気のない現代文のテキストを一応持っていく。観月さん、俺には会ってくれるのに、なんで部活に来ないんだろう。でも俺だけには会ってくれる……って思考停止してしまうのが、俺のダメなとこなのかもしれない。
「観月さん。……こんばんは」
新しい練習のメニューできましたか? って聞こうかと思ったけど、急かしてるみたいかと思ってやめた。俺はメニューなんてどうでもいいんだ。みんなそうだと思うけど、ただ観月さんの意図が気になってる。
「裕太君。ボクと赤澤を会わせたくないと思ったのはなぜですか」
「え」
「赤澤が部屋に向かってるって、教えてくれたでしょう」
会わせたくないと思ったって、そう言われてしまうとそのとおりだったりする。観月さんはやっぱり鋭い。変ないいわけは考えないほうがいいんだろう。
「……なんか、嫌だったんです。なんとなく、ふたりきりで話してほしくないって思いました」
観月さんのためってより、まず先にそれがあったと思う。ふたりの間には、寮のメンバーとはまた違う親密さがある気がして。俺はたぶん、嫉妬してる。
「そうですか。助かりましたよ、あいつは暑苦しいですからね」
「あ、はは……」
そういうふうに悪く言うことにも親しさを感じてしまって、すげー複雑な気分だ。
気を取り直して、余計なことする前に本題に入ろう。言いづらいなんて言ってられない。
「観月さん、どうして部活に来ないんですか。みんな心配してます。落ち込んでるのか、実は怪我してるんじゃないかとか」
「怪我はないですよ。大丈夫。……練習の計画ができてないからって、赤澤は説明しなかったんですか? だいたい、ボクに直接会ってどうするつもりだったのか」
「それは聞きました。ただ、三日も考えがまとまらないなんて観月さんらしくないって」
観月さんはちょっと苛立ったような、気難しそうな顔で、前髪を指でいじってる。
「観月さん。今いちばんあなたに近いのは俺のはずだから、なんかあるなら話してほしいです。解決できるかどうかは、わかりませんけど……聞いてもらうだけだって、楽になることは絶対あります」
俺がそうだったみたいに──いや、観月さんは俺がなにも言わなくても俺のことわかってくれたんだから、思えばぜんぜん違った。けど俺だって観月さんのためになんかしたい。
「んふふっ……」
目を閉じて、唇の端を吊り上げて、皮肉な笑み。俺には無理だって意味だろうか。観月さんから見下されたって、俺は怒れる立場じゃないけど、ただ悲しかった。ちゃんと話してもらえないのかって。
「俺は兄貴がなんと言おうと──誰がなにを言っても、出会ったときから今もあなたのことが好きです。いや、今のほうが好きだ。だから俺は、あなたの力になりたい」
「君は本当に自分の気持ちばかりだ。……君のせいですよ。ボクが部活に行けない理由」
「……!」
「ボクにはひとりで考えをまとめる時間が必要だった。都大会でのことを冷静に振り返って、考えなければならないことが山ほどあった。なのに君はボクの時間にずけずけ立ち入ってそれを邪魔した」
「……」
頭が真っ白になった。都大会が終わったその日の夜、俺は観月さんのあとをつけて教会で告白した。その次の日、部活が休みだったからって観月さんを抱いて、また次の日も会った。確かに、観月さんがゆっくりできる時間は少なかったかもしれない。
「けど、観月さんは」
俺を受け入れてくれた。恥ずかしがってたけど嫌がってなかったし、俺は無理やりしたつもりなんてなかった。俺たちは愛し合ったじゃないか! って、言いたいのに言えない。よくわからないけど、観月さんの言葉は正しいって気がしてしまう。指先が冷たい。寒気がする。
「なんで……」
なんで、なんで。そればっかりが頭の中をぐるぐるしてる。俺は観月さんが望まないことをしたのか? そんなわけない。観月さんは俺を抱いて、受け入れて、俺のことたくさん呼んでくれた。
「部活には行きますよ。そのためのプランをまとめたいので、もう帰ってください。それから、ボクたちの交際は今日で終わりにしましょう」
「んっ!? な、なにを言ってるんですっ!?」
あまりのことに、俺まで観月さんみたいな喋りかたになってしまった。だって、ちょっと意味がわからない。
「別れましょうってことです。試しに付き合ってみましたけど、調子狂うんですよ。その結果がこのていたらくです」
なにを言ってるんだこのひとは。衝撃的だけど、饒舌すぎて逆にショックじゃない。観月さんにありがちな気まぐれじゃないのかって感じがする。だって俺たちはあんなに求め合って、感じ合って──
「……嫌だ。別れません。俺は観月さんが好きです」
誰がなにを言っても。そうだ、観月さんに言われたってそれは変わらない。変えちゃいけない。だって知ってるじゃないか、観月さんは俺をあざむくって。自分で見極めなきゃ。俺は観月さんの体を抱きしめる。
「!」
腕に収まる体は教会で抱いたのと、愛し合った日に抱いたのと同じ。俺のこと拒んでなんかいない。昨日、おととい起こったことは嘘や演技なんかじゃない。
淡い香り。頬を撫でる髪のくすぐったい感触。性格は激しいくせに実際触れる観月さんはどこもかしこも柔らかくて儚げで、やっぱり守ってあげたい、助けてあげたいって気持ちになる。
「やめてくださいよ、バカの一つ覚えみたいに……」
観月さん、震えている。体も、声も、俺のシャツを握る指先も。泣いてるんだろうか。俺が泣かせた? けど、やっぱり観月さん……。
俺はおかしいんだろうか。どうしてあげたらいいんだろうって背中をさすりながら、観月さんのことがかわいくて、胸の中が甘くてどろどろしたものでいっぱいで──少なからず、気持ちよくなってる。
「ねえ観月さん……好きです。好き」
バカって言われても、それしか出てこなかった。大人になったら、もっと気の利いたこと言えるようになるのかな。
「……観月さんに時間が必要だったってこと、考えられなかったのは謝ります。正直浮かれてました。これからは気をつけます」
深い、深いため息とともに腕の中の体がゆっくり波打つ。ため息ってより、深呼吸かな。ふたつの体に隙間ができたが、顔は俯いたままだ。
「とりあえず今日は、帰ってもらえますか。少し作業を進めないと」
なんか、落ち着いたふうだけど心配だな。ほんとにこれで帰っていいんだろうか。
「俺はこっちで勉強してます。話しかけないし、邪魔しません。観月さんは作業しててください。昔の、付き合ってないときと一緒ですよね」
別れ話には了承できないけど、観月さんの言いぶんを呑むなら、昔の状態を再現すれば問題ないんじゃないか?
「……」
不服そうに睨み上げてくる、目は潤んで充血していた。観月さんはなにも言わず机に向かう。俺は座卓に広げたテキストを眺めるポーズをして、ちょくちょく観月さんの背中を眺めてた。
少しすると、いかにも不満げな、嫌そうな顔がこっちを振り返る。
「視線、気になるんですけど」
「気にしないでください」
「ボクに部活に出てほしいっていうなら、少しは遠慮したらどうなんだ」
「どういう意味ですか?」
「君がボクの時間をめちゃくちゃにしたから、ボクはみんなへの新しいプランを完成できずにいる。なんの指示も出せないのに、あの場にいる意味がないだろう」
(意味……)
観月さんが部活休んでた理由が──観月さんの不安が、わかってきた気がする。
「……別に、いるだけでいいですよ。たぶん。いてくれて、自主練とかって言ってくれたら、それでみんな安心します」
「そんなのメールでいいじゃないか。ボクがいる意味が」
「ありますよ」
本当は、意味なんてなくていいって言いたかった。観月さんも、ほかの三年生も同じだと俺は思う。けど観月さんはそれじゃあ納得しないんだろう。
教会で会ったとき、用事がないって言うと不思議そうにされた。昨日部屋で、なにもしないって言ったときも同じ。意味とか役割とか──結果とか、自分の立ち位置みたいなものがないと不安なのかもしれない。
観月さんは分析してシナリオを作る。そのとおりに動くのが俺たちの役割で、動かすのが観月さんの役割。それができないならいる意味がないって、観月さんはたぶんそういうことを言ってる。
「いてくれるだけでいいです。そうしたら俺はやる気出ます。きっとみんな同じです」
「なんなんですかそれ、なんの根拠もない……」
「観月さんの好きな花だって、そこにあるだけでいいじゃないですか」
あんまり考えたわけじゃなかったけど、俺、すごくいいこと言った気がする。
「花は酸素を出して空気を綺麗にしてますよ」
「それなら観月さんだって空気を綺麗にしてます!」
「いや、ボクはむしろ二酸化炭素を出してますが……まあいいでしょう。プランがどうなるにせよ、明日からは復帰しますよ。いつまでも休んでられないのは重々承知です」
観月さんは俺から視線を外し、机に向き直って続ける。
「このボクにだって、たまには休息が必要だったってことです。君もそう思うだろ」
「……はい」
落ち着いて諭すような口調で言われると、なんだか急激に落ち込んできた。俺は休んでる観月さんを急かすようなことしてしまったのかな。
『君は本当に自分の気持ちばかりだ』
心配だっていうのも、結局俺の勝手な気持ちでしかなかったのかな。
「わかったらもう帰りなさい」
「……はい」
邪魔しないからって、なぜか自信満々に居座ってしまったな。自分のしてることが正しいって思ってたせいだけど、距離感なさすぎだったかもしれない。俺はおとなしく席を立ってドアのほうに歩いた。
「……裕太君。待って」
「はい?」
ドアを開ける間際、振り返ると観月さんの唇と俺の唇がぶつかった。
「!」
「おやすみなさい、裕太君」
「お、おやすみなさ──」
言いきる前に開いたドアから部屋の外に体を突き放されて、カチッと鍵の掛かる音まで聞こえた。
「……」
俺は唇を押さえてひとり赤面する。
(ぜんぜん意味わかんないけど、やっぱ好き……だな……)
◇
放課後、思い立って三年生の教室まで迎えに行くと、途中で観月さん、柳沢先輩、淳先輩に会った。みんなバッグ持って、部活に行くとこみたいだ。
「なんなんですか裕太くんまで」
「近くを通りかかったんです」
「そんなわけないでしょう、二年の教室は──」
「細かいことはいいだーね、部室に行くだーね」
「そうそう」
いつの間にかノムタク先輩も合流していた。
部室の鍵は赤澤部長と観月さんが一つずつ持ってる。赤澤部長は今日はまだみたいで、観月さんの鍵で部室のドアを開けた。
「ウッ!? 異臭!?」
真っ先に異変に気づいたのは観月さんだ。
「なんか臭いだーね!?」
明らかに腐ってそうな、酸っぱい匂いがしてる。最近暑いから、腐るもの置いてったらそうなるだろう。淳先輩がお菓子の保管庫の様子を見に行く。
「保管庫じゃないな」
「発生源は明らかにロッカー……うっくしゅ!」
「なんだーね、においの刺激だーね!?」
「違いますよっくしゅ! ちゃんと掃除してなっっくしゅん!」
ほこりか。確かに最近の掃除は少し雑だったかもしれない。
「観月さん、いったんここ出ましょう」
臭いうえにほこりっぽいなんて、観月さんには苛烈な環境に違いない。肩を抱えて脱出を促す。観月さんはバラ柄のハンカチで口を押さえて目に涙を溜めていた。可憐だ。可憐で、粘膜が敏感な観月さん……。悪い想像が発生するより前に、背後から声がかかる。
「おう、今日は観月もいるな。……なんか臭くねえか?」
「赤澤! なんか食べもの置きっぱなしにしてるでしょう!!」
「ノータイムで俺のせいにすんじゃねえよ。食べものなんて……あっ」
自分のロッカーを漁った赤澤部長は、すぐに不穏な声を上げた。観月さんはやっぱりって顔してる。
「すまん、食いかけのカレーパンを忘れてた」
手に持ってるのは袋の口の開いたカレーパン。学校で売ってる、具材たっぷりのやつだ。
「なんでそんなものロッカーに置いてくんですかっ! 本当にネズミが出たらどうするんですか!? っくしゅん!」
「いや、昨日ここで食ってるとき金田に声かけられて……」
「俺のせいですかっ!?」
「とにかく、それを始末して──」
赤澤部長はカレーパンを部室のゴミ箱に捨てた。うーんこれはバカ澤。
「そこに捨てても臭いままだーね! 外のゴミ箱に捨てるだーね!」
「今日はまず掃除からです。まったく、こんなほこりっぽくて平気なんてみなさん鈍感でいいですねぇ!?」
「おーしじゃあ掃除すっかー」
一応悪かったと思っているのか、赤澤部長が率先してほうきを取り出す。
「ほこりっぽいと言ってるのにほうきを使う人がありますか! 拭き掃除なさい!!」
「ったく、細けえ、うっせえな〜」
そんなこと言いながら、赤澤部長はちょっと笑っていた。
「やっぱりボクがいないとだめですねぇ」
「だから言ったじゃないですか、観月さん!」
観月さんが復帰したことで、本当に部室の空気が綺麗になった。俺って預言者かもしれない。
ひさびさに全員が揃った、賑やかで和やかな夕食の時間。観月さんのことひとりじめしたいって思うけど、みんなでわいわいしてる観月さんもやっぱり好きだ。
「裕太嬉しそうだーね」
「はい。俺、やっぱ観月さんのこと好きだなーと思って」
「んぐっ! ゲホゲホッ!」
観月さんが突然咳き込みだした。そんなつもりじゃなかったんだけど、悪いことしたかな。
「観月!」
「ンンッ、失礼……」
「み、観月、裕太の言うのはヘンな意味じゃなくて、尊敬してるってことだーね、部活に復帰して嬉しかったんだーね!」
「うん。前にもそんなこと言ってたからね」
観月さんはなんか言いたげな顔だけど、眉を寄せて咳払いをひとつしただけだった。
「……裕太君、ややこしいことは言わないように」
「はーい」
小言言われてるのにすごく愉快な気分で、俺は機嫌よく夕食を終えた。そしていつものとおりメッセージを送る。
『観月さん これから部屋に行っていいですか 邪魔しませんから』
返事はすぐだった。
『ダメです』
「えっ」
思わず声が出た。話しかけなきゃ許されるだろうって思ってたけど、そういえば昨日も追い返されたんだった。
『今日の部活の様子を見てて、練りたいことが出てきました。ボクはきれいなだけの花じゃないですからね』
まあ、部屋にいれば見ちゃうし、それが嫌だっていうならしょうがない。早く観月さんに余裕ができるように、俺は慎ましく応援しないとな。
『がんばってください! 新しい練習の計画楽しみにしてます』
返事はないけど、ダラダラやりとりしててもキリないもんな。もう今日は観月さんとのメール見ないぞ! と思ったけど、寝る直前に送る文を作っておこう。消灯時間過ぎてから送ったら怒られそうだし。いろいろ考えたけどシンプルにした。
『観月さん大好きです おやすみなさい』