ハニー・バニー 4

4.

 あれからしばらくして、オレは再び牧と会っていた。場所は二人ともアクセスしやすいからってまた新宿。店はファミレスだし外もまだ明るくて、前回みたいじゃない健全な雰囲気だ。
 理由は前回のデート詐欺になったお金を返したいためだったけど、牧はその分が入った茶封筒を受け取らず、テーブルの上を滑らせてオレの方へ返して来た。
「別にいいんだ。生活の足しにしてくれ」
 やばい、オレ貧乏キャラだと思われてる。
「いや、金に困ってるわけじゃないんだ。バイトに入ったのは人助けっていうか……」
 そりゃバイトで臨時収入があったら嬉しいくらいは思ったけど、騙し取ろうなんて思ってなかったし。もう一度牧の方に封筒をやったけど、やっぱりこっちに返されてしまった。まあ、牧からしたらどうでもいいくらいの額なんだろうしな。オレ的には額面の問題じゃないんだけど。
「今後困ることがあったら、あんなとこでバイトするより俺に相談してくれ」
「いや、ほんと大丈夫だからな?」
 なんかすげー心配されてる。この調子じゃオレが身体売ってると思い込んだときも、さぞかしいろんな妄想をしたんだろう。身体売ってなくてよかったってのは、その辺もあるのかもしれない。
「あのさ、もしかして、昔好きだった子に金を貸すシチュとかで興奮してない?」
「少ししてる。が、お前のことは『昔好きだった』わけじゃないぞ」
 オレは自分の顔がぶす〜っとしていくのを実感してた。わざとじゃない。自然にそうなってくのがわかる。
「お前性癖歪んでるよ。身体売ったと思って萌えたってのもよく考えたら変態な気がするし」
「萌えとかじゃない。お前の性的なことを想像してしまったというか……」
 牧は照れたみたいに目線を落として逸らした。きっと今もヘンなこと考えてるんだろう。
「まあとにかく、もうあの店のバイトはしないから」
 キャストはいい人だったし仕事内容も牧たちの件以外はラクで、割りのいいバイトって感じではあったけど、地味に顔を知られてるとこのあるオレはやっぱりやめといたほうがいいんだろうって実感した。
「そうか。それがいいな。……チェキ撮りたかったな」
「は???」
「ウサギの耳、よく似合ってた。昔お前のことウサギに似てるって思ったんだ」
 ちょっといいやつ風なこと言ってから頭おかしいこと言い出すのはやめたほうがいいと思った。しかもすごい優しい顔で笑って。いや似合うのは自分でも思ったけど、もうちょっと下心を隠せっていうか。
「……やっぱまたバイトしに行こうかな」
「それはやめてくれ。いかがわしいサービスがなくたってやっぱり心配だ」
「心配、なあ」
 なんで牧がオレのこと心配するっていうんだろう。理由はわかってるような、わかりたくないような。なんとなく会話が途切れて、ドリンクの氷の音なんかがしてたのはそう長い時間じゃなかったと思う。
「藤真。お前の気持ちが聞きたい」
「え……なに、気持ちって」
 牧は真剣な顔でこっちを見てる。もうこのままドリンク飲みきって解散したかったって思ってた程度に、牧が言いたいことに察しがつかないわけじゃなかった。牧の手が動く気配があったから、オレはテーブルの上に載せてた手を慌てて自分の膝に持っていった。
「昔のことじゃない。俺はお前のことが好きだ。この前帰った後もずっと考えてた。でも気持ちは変わらなかった。ただの衝動じゃなかった」
 こわいくらいの牧の目から視線を外して首あたりを見てた。それって、答えを出さなきゃいけないことなんだろうか。
「……わかんない。ちょっと考えさせて」
「どのくらい待てばいい?」
「え」
「どうして答えたくないんだ?」
 そうだね、そう。前回ラブホで無理やりされそうになったし、帰り際にキスまでされて、なのにオレから呼び出したりしてるんだから、そりゃあ当然脈アリだって思うだろう。嫌なら嫌って言えばいいだけだ。
「わかんない。嫌いじゃないよ……」
 ああ、お前が好きになったオレって多分こんなじゃなかったと思う。テーブルの上に牧の拳が握られてる。顔を見ることはやっぱりできなかった。怖いんだろう。見透かされるみたいで。
「そんな急に言われたって。考えたことなかったし」
 嘘だった。
 身体売ってるとかのやりとりで泣いてしまったのはなんでだろうって、まず考えた。落ち着いてしまえば簡単なことで、あいつに対しては『なに言われても、どう思われてもどうでもいい』なんて思えなかったからだ。
 昔接してた時間はそう長くなかったけど、きっとシンパシーみたいなもの感じてたし、オレは自覚以上にあの状況に──牧と並んで称されることに歓びを感じてたのかもしれない。追い越したかったのが本当だけど。結局、変な意味でなく、好きだったんだろう。
 認められたいと思ってたのに、嫌な奴らと同じ目で見られてたのかと思ったら、惨めな気持ちにもなる。
「じゃあ、考えておいてくれ。すぐじゃなくていい。また今度会う時に教えてほしい」
「うん……」
 牧が少し寂しそうな顔したような気がしたけど、オレは曖昧に頷くしかできなかった。
 会計は茶封筒の中から払ったものの、結局牧は残りも受け取らなかったからオレのものになってしまった。まあ、デートしたのはしたんだから別にいい……んだろうか。

 新宿駅東口近辺は今日も人が多すぎる。どっからこんなに湧いてくるんだって思って、オレたちだってここに住んでるわけじゃないんだからこの人混みの原因の一つなんだって答えを見つけてしまった。
 さすがに明るいからこの前みたいに袖は掴まないけど、オレは牧とはぐれないように距離を近く取って歩いてた。
 牧が何も話さないから、オレはつい思い出してしまう。
 会いたかったって言われた。好きだって言われた。
 抱き締められた体の熱さを覚えてる。
 押し付けられた衝動は同じモノを持ってる分だけ難解に感じたけど、後から思えばそう嫌悪感もなくて、すぐ慣れるんじゃないかって思えた。
 オレに何事もなかったって知って、牧は良かったって笑ってた。オレはお前を騙して傷つけるようなひどいことをしたのに、今日もお前はオレを好きだって言った。

 牧。オレもお前のことが好きだよ。

 どうして言えないんだろう。
 お前に投げた言葉とまるで同じことを、自分に対して思ってるからだ。いつからそうだったのか、知るのがこわい。お前に優しくされて嬉しかったのはどうして。お前と対峙したかったのはなんで。自分が一番大事にしてきたものを、自分の手で汚してしまいそうで怯えてる。
 今度会う時って、いつなんだろう。
 駅構内を足早に行く人々を、オレは個々人とは認識できない。失くし物をすれば見つける自信は持てない。
「それじゃ……」
「待て」
 改札前で離れて行こうとする牧の袖を、思わず掴んでいた。
「お前はどこいくんだよ? 電車乗らないのか?」
 この前だってそうだった。改札通らないでどこ行ったんだろうって思った程度に、オレは牧のこと気にしてた。
「俺はJRじゃないから」
「ああ……」
 なんとなくそうかなって見当はつけてたんだった。言うこと言ったって感じで離れていく牧の体。こっちの連絡先も聞かないで、「またね」も言わないままで。
 オレは牧の腕を強く引っ張って胸に頭を寄せた。
「どうした? 具合悪いのか?」
 オレが固まってると、牧はオレの肩を抱えて、通行の邪魔にならないように端っこに連れて行く。例のごとくオレが壁側だ。
「……帰りたくなくなった」
 牧は不思議そうな顔でこっちを見てる。頬が熱い。雑音が多くて小声でおしゃべりできる感じじゃないけど、大声で言えることじゃないから、オレは思い切り牧の首を引き寄せて唇を塞いだ。重ねるだけだけど、結構しっかりめのキスだったと思う。
「っ…! おい、こんな人が多いところで」
「誰も見てないんだろ?」
 牧が狼狽えてるのが気持ちよくて、オレは少し前まで不安だったくせに妙に強気になって、やらしい笑みを浮かべた。
 牧が言い出したことだった。チラ見していくやつがいたって、誰もオレたちのことなんて知らない、ただの少し変わった背景に過ぎない。だから誰も見てないのと同じ。
 それと多分牧の影になって、オレの姿なんて向こうからよく見えてない。こうやって抱き付いたって──応えるみたいに、牧の腕がオレの背中を抱えた。具合悪いわけじゃないのに、ほんとにくらくらしてくる。
「もうすぐ暗くなる」
「え?」
「今日会うの、明るい時間のうちで、明るい店ならいいって言ったのはお前だ。暗いとこで一緒に居るのに心配事があるからだろう」
 そういえばそんなことも言ったっけ。そうだよ。もう一度襲われたら、オレはちゃんとお前のこと拒否れるかわからない。
「大丈夫。……もう、どうなってもいいって思ってる」
 改札とは逆方向に、牧はオレの手を引いて歩き出す。夜の街がありふれた二人のことを口を開けて待ってる。
 オレがウサギに見えるっていうなら、お前は一体なんなんだろうね。

<了>

ハニー・バニー 3

3.

 外に出ると、牧はもうそこで待ってた。
「おうっ、牧……」
「お疲れ」
「お、おつかれ……」
 牧が目を逸らすもんだから、オレもなんとなく気まずい感じになってぼそっと喋った。それだけのやりとりで牧が歩き出したんで、慌てて付いて歩く。
「……うん、バスケの練習よりよっぽど疲れた。気疲れかな。一緒にいた人たちは?」
「次の店に行った。系列店らしい」
「お前は次行かなくていいのかよ」
「付き合いで連れて来られただけだ、俺のリクエストってわけじゃない」
「へえ。じゃあ、こういう、なに? 男とお喋りする店みたいなのは、行ったことなかったんだ?」
「ないな。初めてだ」
 口を開けば全然普通に言葉が出たし、牧もごく普通の感じで答えてたから、オレはすっかり安心していた。
「てかその格好なに? 付き合いって?」
 牧はスーツにネクタイ姿だった。海南の制服だってそんな感じだったけど、今はお互い大学生だ、スーツなんてそうそう着ない。
「親族のやってる会社に関わっていてな」
「なにそれ、こわっ」
「名前と役職があるだけだ。別に怖い会社じゃないし、よくあることだと思うぞ」
「へ、へぇ〜……?」
 正直よくわかんなかったけど、やっぱりこわいから突っ込まないことにした。
 今歩いてる路地は暗くて、駅前みたいに人で溢れてるわけじゃないけど、酔っ払いが好き勝手に歩くんでなかなか歩きにくい。あとなんだか外国人が多くて、あんまりいい印象は受けない場所だ。
 牧の歩きが早いってわけでもないだろうけど、どうにも歩き慣れないオレは、置いて行かれないように一生懸命広い背中を追ってた。
 最近は夜はもう寒いと思ってたけど、ここの空気は生暖かくて湿ってる感じがする。それからなんとなく臭い。建物が多くて風の通り道が少ないせいで、こんなに空気が淀んでるんだろうか。
 不意に牧が手首を掴んできた。
「っ……!?」
「はぐれそうだ」
「……なんだろうね。なんか、すげー歩きにくくて」
 牧の言うことを否定しきれなかったから、オレはそのまま手を引かれて歩いた。安心したみたいに感じたのは、つまり何かしら不安だったんだろう。何に対してかはよくわかんないけど。
 周りの景色も目に入ってるようで入ってなくて、建物や店よりは人が気になってた。大きい通りにいたような客引きとかは全然いなくて、代わりに職質されてる人がいた。あと黒い車、パトカー、消防車、救急車……勝手なイメージだけど、夜の新宿って感じだ。
 そのうち牧が足を止めた建物を、オレは凝視した。そういえば、どこに行くとか全然聞いてなかったんだ。
「えーと……ホテル?」
 ビジネスホテルじゃなくてラブホだと思う、これは。ていうかこの界隈きっと全部そうだ。
「この辺使ったことないから詳しくないんだ。どっかいいところ知ってるか?」
「えっ? いや、えっ?」
 オレは混乱した。そして理解した。牧はオレをからかってるんだ。もしくは天然。部屋に入ったらきっとなんてことなく、近況報告とか昔話とかがはじまるんだろう。
「ううん、ここで大丈夫」
 それにざわざわ騒がしい食べ物屋とかよりホテルの部屋の中の方が静かで話しやすいと思う。なんか妙に疲れてるしゆっくりしたい。
 中に入ると、牧は暗転ばっかりのパネルの中から点灯しているところを押した。部屋を選んだみたいだ。暗くなってるのが使用中ってことは、結構埋まってる。
 ラブホ来たのって実は初めてだ。いくらオレの顔が良くたって、高校の時ってとてもそれどころじゃなかったし。ていうか高校生ってラブホ入れるんだっけ?
 エレベーターに乗って、牧の後について入った部屋は我慢できないほどじゃないけど少しタバコ臭かった。あと狭い感じがした。
「狭いな……」
 牧も同じに思ったみたいでボヤいてる。けどさすがにベッドは大きくて、オレは吸い込まれるようにそこにダイブした。
 ──ばたっ!
「痛って……」
 ベッドのマット? が硬くて、イメージしたみたいに体が弾まなかった。
「なんかすごい音がしたぞ。……こういう感じなんだな、安いホテルって」
 牧は辺りを見回して、シクったな〜みたいな感じに頭を掻いてる。なんか珍しい仕草だなって思ったけど、オレは言うほどこいつのこと知らないんだった。大学生にしてどっかの会社の役職についてるらしいセレブだから、きっと日頃はお高いホテルを使うんだろう。
 牧はまあしょうがないな、とかボヤきながらジャケットをハンガーに掛けてネクタイを外してる。オレも上着を脱いでソファの方に放った。
「は〜〜」
 思ったより硬いベッドだったけど、そういうもんって思えばそこまで不満はなくて、オレはうつ伏せになって、両腕を横に伸ばしてくつろいだ。いやほんと、バスケの練習の方がずっと運動量あるんだけどな。自由に動き回れないのが却って疲れるのかもしれない。
 軋む音がして、ベッドのマットが沈んで体がぶれる。咄嗟に顔を上げて振り返ると、背中から伸し掛られて、思い切り顎を捕まえられて口を塞がれていた。
「んーっ!?」
 重い! 苦しい! それにキスされて──この状況、牧はオレとヤる気だ!? まじでそういう気でラブホだったんだ!?
 そう悟ったところで、もがくばかりでどうにもできない。体勢も悪いだろうし、相手が牧じゃあ力で敵わないのはよく知ってる。
 牧はオレの口を食べるみたいに、がっつくみたいにキスをして、容赦なく口の中に舌を突っ込んで掻き回したり、オレの舌を吸ったりしてくる。
 ぞわぞわする。いやだ。怖い。なんで。牧がオレの全然知らないものに変わってしまったみたいで、なぜだか涙が出そうになった。
「ん、んぅっ…!」
 牧の手はオレの腹、脇腹、と下りていって、尻を撫でたり掴んだりしだした。あのおっさんのこと窘めてながら、お前だってそういうつもりだったんじゃないか。
「っ…!!」
 その手つきがものすごくやらしくて、いや、たぶん尻なんて揉まれたら誰だって感じるだろう。体は反応して危ない感じになってきてるし、ズボン越しだけど尻の割れ目に硬いモノがぐいぐいと擦り付けられてる。ズボン履いてなかったらもう突っ込まれてるんじゃないだろうか。
「んんーッ!!」
 火事場の馬鹿力っていうのか、本気でヤバイって思ったらキスから顔を背けることができて、オレは声を絞り出した。
「牧ッ! やめろっ!」
「照れてるのか?」
 顔なんて見えなかったけど、牧は甘い声で言って、オレをぎゅうと抱き締めてきた。すごい力だ。あと牧の体温が熱い。興奮してるからってことなんだろうか。
「照れてないっ! 嫌なんだ、放してくれ……!」
「……そうか! すまん」
 牧は意外なほど素直に、跳ねるようにオレの上を退いた。
「シャワーを浴びてくる」
 そして風呂場と思しきほうへ行ってしまった。
「……」
 どうも、シャワーを浴びてないから嫌だっていう風にとったみたいだ。違う、そうじゃない。オレは呆然とした。
 なんで牧がオレを押し倒すんだ。何考えてるんだあいつ。
「……いや……」
 ちょっと落ち着いてきたら、むしろ牧の行動は当たり前のような気がしてきた。お持ち帰りしてきた子がラブホのベッドで寝てたら、多分普通は襲うよな。男同士ってことに関しては、事前にソッチ系の店で会ってて、オレは拒否権がありながらOKして付いてきたわけで……。
 うん。そりゃヤるだろう。
 天然はオレのほうだった。自分のやらかした行動に、壁に思い切り頭を打ち付けたくなった。それには嫌な思い出があるから絶対しないけど。
 疲れてるのかな。いや、牧を信用してた結果だ。仕事関係の付き合いだっていうから、結局あいつもホモだなんて思わなかったんだ。
 どうが正しいにしたってオレは牧とヤる気なんてなかったから、上着を羽織りカバンを背負っていそいそと部屋の出口に向かった。
 ドアのレバーを掴んでガチャガチャやるけど開かない。押しても引いても開かない。鍵が掛かってる? 閉じ込められ……?
「何してるんだ、藤真」
「ひっ!?」
 後ろから牧の声がして、オレはショック死するんじゃないかってくらいびびってしまった。
「すまん、驚かせたか」
 そんなの謝らなくていいから! 見た目にわかるくらいびびってたのかと思うと恥ずかしくて、あとバスローブ姿の牧の腰に思い切り盛り上がってるものが目に入ってしまって、一旦振り返ったオレは慌ててドアの方を向き直した。
「タバコくさいの苦手で、ちょっと、外でたくて」
 こじつけだった。確かに匂いはあるけど我慢できないほどじゃないし、オレはちょっと前までベッドに寝そべってくつろいでたんだ。それにこの格好、思い切りカバン背負って『ちょっと外でたくて』もないだろうとは思ってる。
「そうか……」
 牧は頭を掻いたのか、横目だからよくわかんないけど、多分参ってるような考えてるようなアクションをして、オレをその場に置いて部屋に戻ってしまった。
「……」
 さすがにオレがヤる気ないのに気付いたろうし、帰りたきゃ帰れって意味なのかな。それにしてもドアが開かないんだが。もしかして決まった時間になるまで開かないんだろうか。往生際悪くドアをガチャガチャやってたけど、ずっと玄関に座り込んで待ってるのもなんか、って思って部屋に戻ることにした。
 怖さも気まずさもあるけど、牧は無理矢理ヤる気はないみたいだから多分大丈夫。それどころかオレが帰ろうとしても怒りもしなかった。
 牧はソファに座って、冷蔵庫に入ってたのか缶ビールを飲みながら項垂れてる。まあそりゃ凹むよな。だってオレが同意してラブホについてきたと思ってて、ヤる気満々でシャワー浴びたんだもん。
 オレは行き場に困って、またベッドに戻った。ソファじゃ牧の隣になるし、もうヤる気ないの知ってるんだから、ベッドに座ったくらいで襲ってはこないだろう。
「牧。なんか、ごめん……」
 オレも悪かったと思ってるよ。迂闊だった。牧のことを天然だと思ってたら、いつの間にか自分が天然になってた。なんでかっていうと
「お前がオレとヤりたいだなんて思いもしなかった」
 そう口に出して言うと、やっぱりおかしいのは牧のほうのような気がしてきた。どうしてそんな気になったんだ。
「藤真、ラブホテルがどういう場所か知ってるか?」
「そりゃ知ってるけど」
「知ってて部屋まで来た」
「う、うん、だからごめんって。冗談かと思ったんだよ。お前にそういうケがあるなんて思わなかったし。……ていうかそうだよ! なんなんだよお前は!」
 オレが悪かったって思うのと、いや牧がおかしいんだろって思うのが交互に沸いてきて忙しい。牧は力のない目でこっちを見てるけど、脱力してるのはこっちだ。
「お前、オレのことをそういう目で見てたんだな」
 高校の時、一年にして強豪校のレギュラーを勝ち取ったオレへの嫉妬はすごいもんだった。プレイのことでは難癖つけにくいから外見のほうにいって、女みたいな顔とか、男に体売ってるの見たとか、そういう系のやつ。すぐ慣れたっていうか、くだらねーって思うくらいでガチで悩むまでじゃなかったんだけど、鬱陶しくて不快感はあって。
 でも牧は絶対そんなこと言わなかった。まあ、牧にはオレを言葉で下げる必要なんて全くないからってのもあったろうけど。
 だけど、つまり悪口じゃなくて本気でそういう風に見てたってことなんだろうか。それってすげーショックで、なんだか、悲しくなってくる。
「オレとヤりたいとか、思ってたんだ……」
 お前は完璧なオレのライバルだったはずなのに。オレがイビられてちょっと凹んでたとき、さりげなく気を遣ってくれたりしたの、いいやつだって思ってたのに、そういうの全部下心だったのかって思えてくる。オレの美しい青春を返してくれ。悲しくて、悔しくて、言葉の最後が弱くなる。
「そんなに嫌か?」
「……は?」
「ああいう店で働いて、おっさんどもに身体を売るのは平気なのに、俺とは」
 ──バチンッ!!
 オレは牧のところに大股で歩いて牧の頬をひっぱたいていた。左手だ。利き手でだ。
 視界が歪んで頰に熱いものが伝った。あんまり馴染みのある感触じゃないけどすぐやばいって思って、オレは玄関に走って部屋のドアをガチャガチャやった。やっぱり開かない。
「藤真!」
「なん…で……」
 いろんなものに対する「なんで」だった。あんまり情けなくて、その場に膝をついて崩れ落ちてしまった。
 オレはあんまり泣かない方だと思う。人と比べたことなんてないけど、欠伸とかしょうがないやつ以外で泣いた記憶は高校のバスケ部のお別れ会と、三年のインターハイが強く記憶に残ってるくらいだ。それをこんなところで、こんなしょうもないことで上書きされるなんて無性に腹が立って、それで余計に涙が出てくるような気がした。そもそもオレはなんで泣いてるんだろう。何がこんなに悲しいのか、悔しいのか。
「そのドアなら精算しないと開かない」
 牧が後ろでなんか言ってる。知らねーよそんなこと。ていうか
「ラブホのシステムも知らないオレがカラダを売ってるわけないだろう!!!」
 なんてかっこわるいキレ方なんだろう、しかも半分涙声で。
「売ってないのか……?」
「売ってねえよ」
 こんなの、昔よく言われたクソしょうもねー悪口で、どうってことなかったはずなのに、なんでこんなに胸が痛くて涙が出るのか、意味がわかんなかった。
「そうなのか、よかった……」
 オレはこんなに惨めな気持ちなのに、牧は安心したみたいな感じでそんなこと言ってる。むかつくやつ。オレはドアの下に座り込んだまま、ドアを見つめたまんまで言った。
「お前もあいつらと同じだったんだな」
「あいつらとは?」
「オレが枕だとか体売ってるとか、くだらねー話で盛り上がってたやつら」
「高校の時の話なら、ただの中傷だとしか思ってなかった。見た目がいいのも苦労があるんだなって思ってたくらいだ。今日のことなら、あの店で会ったことが全てだ」
「……オレは大学の友達の穴埋めで、今日初めて入ったんだって、聞いてない? それにあの店は性的なサービスはしてない」
 アフターデートはあるけど。
「ヘルプだとは聞いた。だがあの店じゃない別のところで、似たような……もっと過激なことをしてるんだろうと思った。同行者に煽られたのもあるし、高校時代聞いたことの影響もあるだろうな。でも、そうじゃないんなら良かった」
 何言ってんだこいつ。声には出さなかったけど、もうそんな気持ちしか湧かない。急にいいやつぶったって無駄だ。オレの中でお前の株は大暴落したんだ。
「よかったんだ? ラブホまで連れ込んだあげくヤれなかったのに」
「ああ。……安心した」
「オレが誰とヤってたって、お前に関係ねーじゃん」
「……まあ、実際お前が好んでそういうことしてるなら、俺には何も言えることじゃないんだろうな」
「そうだよ。オレたちって、勝手に周りからセット扱いされてただけのただの知り合いなんだよ」
「そうか……友達まではなってなかったか」
「……そうだよ」
 なんかヘンな感じ。牧が消沈してるみたいな調子だから、オレが悪者みたいじゃねーか。
「高校のうちにもっと……友達になりたかったな」
 なに恥ずかしいこと言い出してんだ。こっちのほうが恥ずかしくて顔が熱くなってくる。よくわかんない。しんどい。胸の辺りがモヤモヤする。オレはうなだれて、ドアにこつんと頭をぶつけた。
「友達はセックスしないよ」
「……そうだな」
「早くドアを開けてくれ」
「ああ。着替えてくるからちょっと待ってくれ」
 ずっとドア見てたから忘れてたけど、そういや牧ってバスローブのままか。オレとヤりたいばっかりに。いや、まだ解決してないぞ。
「売ってると思ったからって、買いたいと思うのが理解できない。結局お前は高校の時からオレのこと」
「言っただろう。高校の時は友達だと思ってた。誰が何を言ってたって、そういう対象として意識したことなんてなかった。だが、あの店でお前を見て」
 ちょっといかがわしい風な店にいたからって、そんな突然そうなるもんなんだろうか。
「いや……違うな。大学入ってから、高校の時みたいにお前の名前を聞かなくなってた。なんか物足りないように感じるのはそれなんだろうなって、お前のこと思いだしたりしてた」
 オレもそう。全然名前が聞こえなくなって、でも牧の存在は消えなかった。
「昔のこととか、今はどうしてるんだろうとか。もちろん、大学のこともバスケやってることも知ってるが、そういうことじゃなくて……会いたいと思ってた」
「ううん……」
 なんとも言えない呻きみたいな返事をしてしまったのは、実際オレの頭の中がそんなだからだ。ショックだ、見損なったって思ったのに、オレのこと思い出してて会いたかったって言われたらなんだか嬉しくて、やっぱり嫌いになれないっても思ってる。大して仲良かったわけでもないのにな。
「それで今日だ。場所柄とか、バイトの衣装とか、連れに言われたこととか、まあいろんな要素のせいで、お前が金と引き換えにいかがわしいことをさせてるって思い込んでしまった。ショックだった。大事なものを汚されたみたいな、喪失感っていうか、茫然っていうか……だが、興奮もした。それでお前のこと好きだって自覚したんだ」
「!?!???」
 オレはその場でフリーズしてた。牧の言葉が続かないから後ろを見たら、そこにはもう誰もいなかった。部屋に戻って着替えてるんだろう。
 なんだかすげー複雑な気分だ。言ってることは理解できなくはない。あのセクハラおっさんが変なこと言ったんだろうって想像もつく。ショック受けたとこからヤる気になったのだって、あいつはメンタルも強いしなって妙な納得感がある。でもさらっと好きだなんて言われて、オレは一体、どういう反応したらいいんだろう……。
 少し待ってるとしっかりとスーツを着込んだ牧が戻ってきて、精算機に金を入れてる。
「……ネクタイは?」
「持ってる」
 思いのほか普通の会話をして、オレはようやくラブホの部屋から脱出した。ドアを閉めながら、牧は戸惑うみたいに、ちょっと不思議そうにオレを見た。
「なに?」
「逃げないのかと思って」
「別にもう何も起こらないだろ?」
 ラブホの密室の中で、バスローブ姿になってすら何もしてこなかったやつに、路上で犯される想像をするほどオレの頭はめちゃくちゃじゃない。なんだかんだ思ったけど、結局、牧はいいやつのままだった。
「嫌じゃないのか。一緒に居て」
「別に。あんまりめんどくさいこと言ってると嫌になるかもしれないけど」
 牧はコートの上で帝王とか呼ばれてた感じとは違って、素の時は穏やかで、ちょっとずれてるけど案外普通だったって印象がある。多分、今もごく普通の発想として、オレに嫌がられてるんじゃないかって心配してるんだろう。そりゃそうだよな、押し倒したし告白までしたんだ。
 こ、告白……? だめだ、頭が働かない。

 部屋にそんなに長居はしなかったはずだけど、ラストオーダーで店を出たんで時間はそれなりだった。相変わらず外はオレみたいな物知らないガキには嫌な雰囲気で、オレは牧とはぐれないようにくっついて歩いた。来た時みたいに牧から手首を掴んでこないのは、そりゃヤる気満々だったときと拒否られた後との違いだよな。オレは自分から牧の袖を掴んだ。牧は驚いた様子でオレを見る。
「歩きにくくて、はぐれそうだから」
 本当のことだ。もうこいつ相手に恥ずかしいとかどうだっていいんだ、長いものには巻かれる。ちょっと違うかもしれないけど。
 新宿駅が近付いたら祭りでもやってんのかよってくらい一気に人が増えて、それはそれではぐれそうだったからオレは相変わらず牧の袖を掴んで歩いてた。酔っ払いが多くて誰も他人のことなんて見てやしないし、オレもそんなに周りのこと気にしてられないような、すごく落ち着かない気分だった。
 人の渋滞の中、改札に向かって進んでるうち不意に気付いた。その気がないくせに牧にデート代とホテル代払わせたのって完全に詐欺じゃんか。バイト代が入ったら返さなきゃ。周りはいろんな音がしててうるさいんで、オレは牧の腕を引っ張って背伸びして、耳元に言った。
「牧、連絡先教えて」
「えっ!? あ、ああ」
 牧はすげー驚いた様子で、オレの手を引いて端の方に寄ってった。人波の中、通り道のど真ん中に立ち止まってられないからな。オレも納得して従った。
 牧はオレを壁際に寄せて、自分は人が歩く側に立った。近いなって思うくらいだから、そんなに通行の邪魔にはなってないはずだけど、それでも牧の背中にはときどき人がぶつかっていって、なんだかこえーなってオレはちょっと引いてしまった。
 牧はスーツの内ポケットから取り出した手帳に電話番号を書くと、そのページを破って折り畳み、オレの手に持たせて──そのまま手を握ってキスをしてきた。
「っ……!!?」
 ラブホでされたみたいじゃない、唇を重ねるだけのキスだった。オレは唖然として牧を見た。驚きすぎて感情はあんまり付いて来てなかった。
「お前、なに、こんな人が多いところで……」
「誰も見てない。見てたとしても気に留めない」
「ああ……?」
 そうかもしれない。ただの駅の構内にこんなにもたくさんの人間がいて、ただただ足早に流れて行く。さっき牧にぶつかっていったやつだって障害物に掠ったくらいにしか思ってないだろうし、オレがいかがわしいバイトをしようが、牧が会社の役員だろうが、そんなのはこの場所にいる殆どの人間にはどうでもいいことで、ただ自分たちの目的地を目指すだけだ。
 オレはオレの世界の中心人物だけど、それと同時にこの人混みの中の一員でしかないんだって、なんだか唐突に気付いてしまった。それは牧も同じことで、オレたちはもう、周りから双璧とか言われてた〝特別な二人〟じゃないんだ。
「それじゃあ、また」
「あ、うん、また……」
 牧の姿が遠ざかる。群衆の一部になって雑踏に紛れて消える。オレも同じように、人の流れに乗って改札を通って帰路へのホームを目指した。
 何かぽっかり穴の空いたような気持ちと、どっか引き攣れてるみたいな感じがしながら、手の中のメモを失くさないように上着の内ポケットにしまった。

ハニー・バニー 2

2.

 お店と仕事についてあれこれ説明を受けて、メイドの二人が各テーブルをチェックしてるのを手持ち無沙汰に眺めてるうち、お店のオープンの時間になった。MIAっちょが芝居掛かった動作でドアを開けると、外で待ってたらしいお客さんが入ってくる。
「お帰りなさいませご主人様!」
 バニー一同、もちろんオレも、声を揃えてお出迎えだ。今は系列店のほうにいるマスターの趣味で、アキバ系のノリを雑に取り入れたんでこういう挨拶をしてるらしい。
 オープン待ちのお客さんは二人組かと思ったら、一人×二組だった。常連みたいで、他の三人とめいめい挨拶しながら席に案内されていく。一人が歩きながらオレをガン見した。
「あれ? 新しい子?」
「マコっちのヘルプで今日限定! 激レア!」
 ウェイターの仕事以外はニコニコしてればいいよ、喋りたきゃ喋ってもいいけど、って言われてたから、オレはとびきりの美人スマイルをした。
「すっげえ美形! どっから連れてきた!? ジュニアとかじゃない!?」
 ジュニアのイントネーションから、某大手男性アイドル事務所の予備軍のことなんだろうってわかった。
「ジュニアがこんなとこいるわけないでしょ〜?」
「はは、まあそりゃそうか!」
 こんなとこって言っちゃうんだ、って思ったけど、適当に愛想笑いをしてやり過ごした。

 お客さんはまったり増えて、時間制限もあるんでそれなりにはけて。オレは注文したそうな人がいれば聞きに行ったり、タツミさんからお酒やら軽食受け取って運んでったり、ビールサーバーからビール汲んだり、灰皿替えたり、話し掛けられたらふわふわ笑って助けを待ったり。まあまあついていけてるんじゃないか?
 やたら見られるのとか見た目いじられるのは慣れてるし、人見知りはしない方だけど、初対面のお客さんと談笑するってのはやっぱり勝手を知らないときびしいと思う。まず話題がわからない。別にそこまで求められてないし、今日だけのヘルプなんで余計なことはしないでおく。
 マコトが言ってた通り性的なサービスはなさげだけど、チェキっていう一緒にポラロイドカメラで写真を撮れるサービスがあって、一枚千円。誰がポラ一枚に千円出すんだよって思ってたけど、MIAっちょはちょくちょくご指名されていた。オレは名札に『チェキNG』ていうシールを貼ってて、時々名札見られて「あぁ〜……」って、察したみたいな反応されてる。
 安いとはいえない飲食代にプラスで席代が掛かる、この店に結構人が入ってるのは個人的には不思議だ。カウンター周りに人がいない時、タツミさんに聞いてみた。
「結構お客さんくるんですね。メイドってやっぱり人気なんだ」
「いや、メイドタイプが二人入ってるのは珍しいのよ。一応バニーボーイの店だからね。MIAっちょは普段別の曜日で、今日は代役で臨時。それでマコっちの代役がキャスト内で確保できなくてキミに来てもらったってわけ」
「なるほど」
「お客さんはね、うち系列店がいくつかあって。こういうのじゃないガチ目のサービスする店でさ」
「ガチめ」
「そこの順番待ちの時間潰しが結構いる。うちのスタンプ貯めたらあっちでオマケがあるからさ。まあほんとにウチ目当てにしてくれる人もいるけどね」
 そんな会話をしてた、すぐ次に入ってきたお客が問題だった。
 ──カランカラン
「お帰りなさいませ、ご主人様!」
 入り口に向かって丁重にお辞儀をして頭を上げ、オレは硬直した。
「ま…」
 き。続く一文字は咄嗟に飲み込んでた。
 あっちもオレをガン見してて、相変わらず色黒の老け顔をした、気持ち厚めの唇が小さく動いた。藤真、って呟いたんだと思う。
 スーツ姿のおじさん三人組(一人は若いおじさん)は、麗華さんが奥の方のテーブルに案内していった。オレがたびたび避難してるカウンターからは見えない位置の席。12卓か。
 常連さんの相手が一段落したらしいMIAっちょが擦り寄ってきて小声で言った。
「もしかして:知り合い」
 MIAっちょの仕事ぶりを見ながら、よく気がつくもんだな〜なんて感心してたんだけど、まあさすがに目ざとい。
「う、うん、まあ……」
 あれは完全に牧だった。ただでさえ人違いするような見た目じゃないし、オレはあいつの体格なんて絶対見間違わないし、明らかにオレに反応してたし。
「敵?」
「え?」
「嫌いな人?」
「そういうわけじゃない。ただ、この格好で会うとは……」
「この店に来てる時点で同類だ! キニスンナ!」
「あー……なるほど……?」
 ていうか牧ってそうだったのか?
「あの人たち、よく来る?」
「MIAが入ってる時は見たことないなぁ」
「ここのお店は初めてらしいわよ。タツミさん、注文」
 麗華さんは三人分のガチ目のお酒の名前を読み上げる。ビールとかカクテルじゃないやつのロックとかストレート。ていうか牧はオレとタメなわけで、まだ──まあ、見た目は違和感ないんだけど。
 麗華さんはMIAっちょからなにやら耳打ちされて、それからオレに小声で言った。
「ケンジくんはあっち側行かなくていいから。この辺のお客さんを見てて」
 要するに、あらぬ格好で知人に出くわしてしまったオレに気を遣ってくれてるんだ。ありがたく厚意に甘えることにする。
 そうしてつつがなく勤務続行、のはずが。お店は混んでくるわ、12卓の注文ペースが妙に早いわ、オレはお客とお喋りできなくて度々二人に助けてもらってるわ、で、すこぶる回ってない。
 察しはいい方なんですぐに気付いてしまった。オレのカバーしてる範囲が少なすぎる。二人は常連の相手だってあるし、カウンター周りはタツミさんだって見てるんだし。
 カウンターに出されて置かれたままになってた12卓行きのお酒を、オレは自分のトレーに乗せた。
「あの。オレ、別に大丈夫なんで、12卓行ってきます」
 タツミさんに言うと、GOOD! て感じで親指を立ててくれた。
 お酒を持っていくと、おじさんの一人が「おお、やっと来てくれたね紳一くん!」って言ったのが聞こえた。こいつやっぱ牧紳一なんだよな、って改めて思ったけど、牧を見ることはなんとなくできなかった。目が合ったら気まずいし。
 ていうかオレを呼ぶためにやたら注文してたんだろうか、さっきのおじさんの言い草。
「いやあ、すごい美形だね。お店で一番じゃない?」
「そんなことないです……」
 このおっさん。無神経っつーか、もうちょっと褒め方があるだろっつーか、キャスト同士でカドが立つとか思わねーのかな。あと、素顔は知らないにしても、キャラ作り込んでどんなお客ともお喋りしてる他のキャストがオレより下とは思えなかった。
「かわいいねえ、ウサギちゃん。しっぽを見せてくれるかい?」
「はあ……」
 容姿を褒められるのなんて慣れてるし、他のお客さんは大丈夫だったけど、このおっさんはなんかやだな、気持ち悪い。でもオレだって自分の立場くらいわかってるから、後ろを向いてスラックスにくっついてるしっぽを見せて、再び前に向き直る。
「あ〜〜ッ、いいね!  腰が細くて、お尻がキュッと小さく締まっててさ。なんか運動やってた? あ、バスケとかかな? 色白いしね。華奢に見えるけど脱いだら意外と筋肉あるでしょ」
「……」
 バスケは牧からの連想なんだろうけど、なんか本気で気持ち悪くてオレはもう愛想も振りまけなかった。
「ケンジくん……か」
 おっさんの手がオレの手の甲に伸びようとするのを、褐色の大きな手が止めた。
「やめてやってください。嫌がってます」
「おおっ、そうか、すまんね!」
 おっさんは戯けた調子で笑いながら謝ってくる。全然すまないと思ってない感じだ。そしてやっぱり牧はいいやつだ。
「ありがとう……ございます」
 ようやく牧を見たら思い切り目が合ってしまった。確かに牧だけど、店の照明のせいか、久々だからそんな気がするだけか、視線が鋭いっていうか、少し怖い印象だった。おっさんに怒ってるのかもしれない。
 カウンターに戻るとMIAっちょが寄ってきて「お疲れ、ムリスンナ、やっぱ12卓は私が見るわ」ってぼそぼそ言った。
「うん。ありがとう」
 オレは素直に頷いた。牧が止めなかったらあの感じ多分耐えられなかったし、あのおっさんとの関係は知らないけど、目上の人なんだろうから人間関係が悪くなっても困る。

 それから少しずつ人が減って、オレも手前側の卓ばっかり担当して、平和に時が経過していく──と思ってたら事件が起きた。
「ケンジくん、ちょっと」
 麗華さんはオレを引っ張ってロッカールームに連れて行くと、口の横に手を添えて小声で言った。
「アフターって、説明したの覚えてる? 聞き流していいよって言ったとこだけど」
 一応覚えてる。アフターデート、お店終わった後のキャストとデートできるかもしれないっていう、この店のぼったくりシステムだ。まずただのコピー紙の申し込み用紙の購入に二千円。それで申し込んでも目当ての相手が拒否れば成立しないし、成立したらしたで追加でお金が掛かる。デートするだけだからエロいサービスも保証されてないっていう、誰が利用するのか謎なシステムだ。金が有り余ってて目当ての子がいればアリなんだろうか。でもこっちの拒否権の方が強いんだぜ? 発端はキャストの出待ちを追い払うためだったとかなんとか。
「実は、ケンジくんにアフターご指名があって」
 無理って言おうとした口の動きを遮るみたいに麗華さんが続ける。
「マコっちからも聞いてるしNGなのは承知してる。断って全然構わないんだけど、知り合いみたいだから一応確認しとこうと思って」
「し、しりあい……」
 嫌な予感っていうか。変に心臓がバクバクして、頭の弱そうな喋り方になってしまった。
「12卓の三人の中で一番若い人。ガタイ良くて色黒で泣きぼくろの人なんだけど」
 牧じゃねーか! 一体なに考えてんだ!
 いやそういえば牧の実家は金持ちだって風の噂に聞いたことがある。多分俺らとは感覚が違ってて、金持ちの道楽ってやつなんだろう。
「ケンジくんが拒否ったとは言わないから。お店側で、ヘルプの子は紹介してないんですって言うようにするから、それは安心して」
「いえ……請けます」
「マジで!? ほんとに!? お金困ってるなら貸すけど!?」
 麗華さんの驚き具合から「アフターなんてキャストも大体スルーしてるよ」って言われたのが本当なんだろうってわかる。請けるとバイト代に上乗せがあるらしいけど、それが目当てなわけじゃなかった。
「あいつ、知り合いっていうか、結構仲良くて。こういうとこで会うと思わなかったのと、一緒にいたおっさんは嫌だったけど……」
「あー、あっちはひどかったね。まぁ、そうか、じゃあほんとにOKしていいのね?」
「はい」
 オレは頷いた。頷いてしまった。
 別に牧とデートしたいって思ってるわけじゃない。牧だってそうだと思う。
 オレたちには昔ほど接する機会はなくなってて、今日だって結構久々に会った。
 オレは街で牧を見掛けたら、彼女と一緒とかじゃない限り声掛けると思う。そのくらいには親しかったはずだ。牧もそんな感じで、ちょうどよさそうな店のシステムを使ってお喋りしようってだけだろう。そうでもしないとオレはあのテーブルに近付かなくなってたし、金持ちだから金は惜しくないはずだし。
 アフターのあるオレはラストオーダーの時間でお役御免になり、みんなより少し早く着替えて裏口から店を出た。帰り際、MIAっちょに「がんばれ〜」とか言われてしまった。完全に誤解されてる。

ハニー・バニー 1

1.

 大学に入ってすぐの講義の後だった。
「ふじまくんって背が高くてかっこいいね! モデルか何か?」
 そうだ、オレは一般的には背は高いほうで、本来はかわいい系じゃなくてかっこいい系なんだ。真っ当な評価に思わず振り返ると、そこにいたのは小柄な男子生徒だった。髪は少し長めで茶色、生え際が少しだけ黒いから染めてるってわかる。大学ではまったく珍しいもんじゃない。華奢な肩幅と、割に幼い顔立ちのせいか小動物系の印象があって、まさしくかわいい系の男子ってやつだった。あんまり好きな表現じゃないが、そう感じてしまったんだから仕方ない。高校でバスケ部絡みの多かったオレにとっては珍しいタイプだった。
「バスケやってるから。その中じゃ背は高くない方だな」
「そうなんだ。体育系ってコワいイメージだったけど、バスケは爽やか系なんだね!」
「いや、うーん、まあ……」
 そうでもなかった。たぶん上位のほうは彼のイメージ通り、体のでかいゴツいやつが多くて、だからオレなんかは嘗められやすい。けど、初対面の相手にわざわざそんなことを説明する気もしない。
「君、名前は?」
「マコト。仁澤(にざわ)マコト。さっきの講義できみの後ろの席にいたんだよ。見えてなかったかもしれないけど」
 自虐ネタみたいなのは反応に困るからやめてほしい。けど、でかいやつや運動してそうなやつを自然と目で追ってたから、正直、見えてなかったってのは正解だった。眼中になかったっていうか。さすがに言わないけど。
 そのうちマコトの友人らしき生徒が現れて、彼との初対面はそれだけの会話で終わった。

 あれから半年。マコトとは顔を合わせれば他愛ない会話をするくらいで、特別に親しいってわけでもない、ごく普通のクラスメイトって感じだった。だからこの申し出にはすごく驚いた。
「ふじまくん! 1回だけでいいんだけど、おれの代わりにバイト入れない!?」
 人気のない場所に連れて来られたと思ったら、目の前で手を合わせて頭まで下げられてしまった。
「えっ……いつ? バスケもあるんだけど」
 聞きたいことはたくさんあったが、まずはそこからだ。いやどうだろう、とりあえず予想してない展開だったから、あんまり頭は回ってなかった。マコトは手帳を取り出してオレの目の前に突きつける。
「この日! の夜! 17時か18時くらいから入れるといいんだけど、予定ある!?」
 鬼気迫る、ってまでじゃないのかもしれないけど、マコトはなかなか切羽詰まってる様子だ。そしてオレには予定ってほどの予定はなかった。バスケがあるから世間一般の大学生のイメージほど暇じゃないけど、高校の時が忙しかった分、ときどき手持ち無沙汰を感じるくらいに余暇も心の余裕もある。
 けど、思えば『予定がある』って言って断ってもよかったんだよな。オレはちょっとズルさが足りないところがあるって、そういえば高校の時に言われたっけ。そう知らない相手からの唐突な依頼に、単純に興味があったってのもあるだろう。
「どういうバイト? ていうかなんでオレに?」
「まずバイト内容はウェイター。お酒と軽食を出すバーラウンジだけど、おれの代わりのふじまくんがやることは注文とるのと、できたものをお客さんのところに運ぶだけ。ふじまくんに頼んだのは見た目がいいからと、正直、めちゃめちゃ知ってるやつには知られたくないことってあるじゃん?」
 健全なスポーツ青少年のオレにもなんとなく想像がついてしまった。あんまり関わらないほうがいい気配がする。
「でね、あと、恵まれてるやつって基本的にいいやつっていうか、人の足を引っ張る必要がないっていうか、信用できる人間だと思ってて」
 基本的に同意だけど、かつてのチームメイトより先に牧の顔が浮かんでしまってなんだか狼狽える。まあでも、チームメイトとは利害が一致してて、牧はいわばオレの敵で、立場上はイヤな奴で、それでも「こいついいやつなんだな」って思った記憶があるんだから、相当いいやつには違いないはずだ。
「ふじまくんは多分そういうやつだっておれは直感したんだ」
 オレが牧みたいだって? って一瞬思ったけど、違う。信用に足る人間かって話だ。身近なやつには知られたくないとかなんとかって、つまり。
「風俗ってやつ?」
「ぶっちゃけそっち系ではある。でもあくまで仕事はウェイターだよ。お客さんに話し掛けられることくらいはあるけどお触り厳禁だし、そこは安心してほしい。コンセプトカフェってわかる?」
「あー、聞いたことあるかも……」

 クラスメイトとの会話から久々に牧のこと思いだしたのが数日前。
 高校の時は学校として〝打倒海南〟ていうのがあって、それがオレの世代とポジション的に〝打倒牧〟になったのはごく当然のことで、オレはしょっちゅう牧のことを考えてた。
 今思えば、周りからしてそうだったんだ。双璧とかいってセットにして煽るんだから、意識するなってほうが無理だよな。牧もそうだったのかもしれない。試合会場なんかで顔を合わせるたび「あっ牧だ」「お、藤真か」って、互いのこと大して知らないのに知り合いみたいになってた。目立つからすぐわかったとか、二人して同じこと言って。
 火花バチバチのいがみ合いみたいにならなかったのはなんだろうな。単に性格かもしれない。あとは出身中学のガラは結構出るよなって花形と話した記憶があるけど、牧がどこ中出身かすらオレは知らない。
 けどそれも高校時代までのことだ。オレもあいつもそれぞれ大学でバスケを続けてるものの、もう神奈川県内だけの世界じゃないから、セット扱いにされることも、牧の名前が自動的にオレの耳に入ることもなくなっていた。
 牧の流れで思いだした。若い頃のことを〝美しい思い出〟にするのっておっさんになってからのことだと思ってたけど、高校でのバスケ関係について、オレは既にそういう思いを抱いてしまってる。
 一概に今より昔が良かったって思うわけじゃない。プレイに打ち込むなら絶対に今の環境の方がいい。ちゃんとした監督もいるしな。
 高校の時は、正直ネガティブな思いを抱えることもあった。でも、だからその分、たくさんの味方たちの存在が本当に大きくて。重さっていうふうに感じたこともあるけど、そのおかげでオレはあの場に留まっていられたっていうか。結果のこと言われるとちょっと痛いけど、オレは最高のチームで最高の体験ができたと思ってる。
 本当はみんなを勝たせたかったけど……ってお別れ会で言ったらみんな号泣して、でもそれは勝てなかったことへの悔し涙じゃないんだって伝わってきて、オレも泣いてしまった。みんな同じ気持ちでいてくれたんだって嬉しさと、もうこのときは終わるんだって寂しさと。
 大人になって年を取っても、高校でのことは絶対忘れないんだろうって思ってる。
 そんな〝美しい思い出〟の中の、牧も重要な登場人物の一人だった。同じ一年からレギュラーで、同じポジションで、文句のつけようがないくらい強くて、だけどオレだってもう一歩! ってところまではいけてたはずで。あいつとコートの上で向き合うのが、やっぱり一番、なんだろう、興奮する? 盛り上がる? ちょうどいい言葉が今思い付かない。とにかく特別だったんだ。目標だったし、愉しみでもあった。
 今もお互いバスケやってるのに思い出って言ってるのは昔とは環境が変わったからで、オレの今の目標は牧じゃなくてレギュラーに定着することだし、きっと牧だって牧なりに別のものを見てるんだろう。あのときって本当にあのときにしかなかったんだって、なんだか感傷的な気分になってしまった。

 さて、あんまり昔じゃない昔のことを回想してたら着いてしまった。新宿三丁目駅。
 オレは結局マコトの頼みを引き受けることにした。そのバイト先の一番の最寄駅がここ、のはず。新宿駅東口からも歩けるって言われたけど、素直に店に近い方にした。
 新宿駅ほどじゃないにしても、駅の近辺は結構な混み具合だった。それがバイト先の地図を見ながら歩いてるうち一気に閑散としだして、みんな一体どっから湧いてどこに消えたのかって不思議になる。
 前の方を歩いてるのは、男同士のカップルみたいだった。二丁目はそういうところだとして、三丁目ならセーフでは? って思ってたけど、近いんだから結局そうなるか。別に気にしないって思ったから引き受けたんだけどさ。
 自分がそうなりたいかどうかは別として、偏見はないつもりだ。なぜか男に告られたことが複数回あるから、おおっぴらにしてないだけで潜在的には結構多いんだと思ってる。
「おっ」
 思わず声が出た。少し先の店先に、頭にウサギの耳をつけた、ベストにスラックス姿のボーイの姿が見えた。引っ張り出した看板にライトを点けると、店の中に戻ってく。あの店だ。
 早足で近付いて見ると、看板には〝ハニー・バニー〟という店名と、どっかで見たことあるようなウサギの横顔のイラストが描いてある。これ大丈夫なのかな、パク……いや、たまにあるよなこういうの。気にしないことにしよう。
 時間は約束の17時より少し前。準備中の札が掛かったドアを押すと、カランカランとベルが鳴って、店内のウサギたちの目が一斉にオレを見た。
 その中で一番手前側にいた女の子がタタタッと走ってくる。メイドみたいな黒い膝上のワンピースにエプロンをして、茶金髪の巻き髪の頭の上にあるのはウサギの耳。これがこの店のコンセプト。マコト曰く〝バニーボーイのいる店〟だそうだ。
「すみませぇん、まだ準備中で!」
「マコト君の代理の藤真って言います」
「あぁ! はいはいようこそ! へえ〜ほんとにヤバいイケメンだ!」
「ヤバいって……」
 悪い意味じゃないんだろうってのはわかるけど、どういう説明をされてたのかちょっと気になる。
「だからちょっとくらいミスってもやさしくしてね! ってマコっちに言われたのよ。うち基本忙しくないし、大丈夫だと思ってるけどね」
「はい、がんばります……」
 ミスとか言われたら途端に不安になってきた。難しい仕事じゃないとは聞いてるけど、自慢じゃないがオレにはバイトの経験なんてない。文化祭の模擬店でウェイターみたいなことやったくらいだ。監督の経験ならあるんだけどな。
「そんなかしこまんないで大丈夫よ、タメ口でぜんぜんいいし! アタシは麗華(レイカ)。キミもこの名札にお店で呼ばれる名前を書いてね」
 胸に付けたにんじん型の名札を指しながら、オレにも同じものを渡してくる。名前、源氏名ってやつか、どうしよう。別にケンジでいいや。雑に考えながら、気になってたことを聞いてみる。
「バニーボーイって聞いてたけど、女の子もいるんですね」
「男の娘(コ)で〜す☆」
「あっ……なるほど……」
 言われてみれば男が裏声で作ってるって感じの声だけど、女性でもこういう声の人はいるよなって絶妙なラインだった。
「で、着替えはこっちで──」
 麗華さんに連れられて、店の奥のロッカー室で貸与の制服を受け取った。背中の空いたベスト(カマーベストって言うらしい)、ウサギのしっぽのついた細身のスラックス、蝶ネクタイ、ウサギの耳。ワイシャツと革靴は持参。サイズは事前に伝えてたからピッタリだ。制服についてマコトから聞いたときは戸惑ったけど、服装自体は普通のボーイだっていうのと、店員全員そうだから恥ずかしくないよって言われて、そんなもんかって思ってしまった。
 姿見に映すと、うん、まあ一人でこの格好で駅前にいろって言われたら無理だけど、意外と平気なもんだ。ていうかオレってウサギの耳似合うな。今まで生きてきて初めて知った。
「あらぁ〜似合う! かわいい! 不思議の国から出てきたみたい!」
 ああ、今の麗華さんはちょっと男っていうか、オネエって感じだったな。あとその例えの方が不思議だと思った。
「それじゃ、今日の他のキャストを紹介するわね」
 カウンターにいるのは調理とお酒作るの担当のタツミさん。さっき店先に看板を出してたボーイスタイルの人だ。オレが見てもでかいと思うほど背があって、バラエティ番組でよく喋ってる男性アイドルみたいな2枚目半の感じのお兄さん。
 それと、オレと入れ違いにロッカー室に入って行って今出てきた、黒髪ぱっつん前髪のツインテールのメイドウサギ、きっと男の娘なんだろう。名前は──
「エム、アイ、エー?」
「ミアだよ! エムアイエーはないわ!!」
「ああ……」
 MIAと書かれた名札をそのまま読んだら怒られてしまった。
「ミアちゃん」
「ミアっちょ!」
「はあ……」
 名札を改めて見ると、確かに〝MIAっちょ〟って書いてあった。心の底からめんどくさいと思ったけど、ここでは先輩なんだし、今日だけなんだから我慢しよう。