呪縛

「昔俺たちが双璧だったとき──」
 牧はまるでユニット名かなんかみたいにその言葉を口にする。
 懐かしい、さも愛おしい想い出だっていうように優しげに目を細めて、まるで成就しなかった初恋みたいに、ときどきもの寂しげに遠くを見ながら── 昔の仲間と会って、特に酒が入ったときにはよくあることだ。
 牧は100パーセント「全然変わってない」って言われてるけど実際は年相応に皺とか増えてて、でも元々の造形がいかにも男らしいせいで「いい年の取り方をしてる」ってやつなんじゃないかとオレは思っている。顔立ちだけなら多分昔より精悍だけど、いつからか眼鏡を掛けてることが多くなったんで日頃の雰囲気は柔らかだ。
 変わってないって言われるのはオレも同じだけど、牧の隣にいるから若く見えるってだけで、昔の写真と見比べれば明らかに老けてる。それでも同級生の中では若い見た目なのかもしれないけど、ていうか昔の写真が子供すぎるんだ。このなりでカントクなんてやってたらそりゃいろいろ言いたくもなるわなって、年取って昔を振り返るとそれなりに納得してしまう。
 いろいろ。嫉妬やら見た目の揶揄やら、それなりにあったけど、どっかで一緒になった、確かまだ付き合ってなかったころの牧に『雑音も多いだろうが』って言われたのが未だに印象に残ってる。それがなんのときだったのかも思いだせないのに。
 牧は何を指して雑音って言ってるんだろうなって、そのときものすごく引っ掛かったっていうか、牧があんまり大切そうにそれを口にするもんだから、いつまでも忘れられないんだろう。

 双璧。

 誰が言い出したのかもわからない、それは賛辞のようでいて、オレにとっては雑音であり呪いだった。誹謗も中傷もどうってことないくらいの、唯一の。
 それがとうに過去になった今でも牧と一緒にいるんだから、本当に呪いだったのかも、とも思う。
 牧はその言葉を、他校で当時接点の限られてたオレとの繋がりみたいに感じてたらしくて、だからさすがにオレも思ってるままを言ったことはない。これは誰にもだ。
 年を経て、想い出になったからこそ忌憚なく言えることもある。例えば高三のインターハイ予選ではウチ(っていうかオレ)と当たりたかったんだとか、ずっと監督より選手でいてほしかったとか。いくら過去だからっていっても、二人きりのときにしかそんな話はしないけど。
 だけど言えない、言わないほうがいいことだってある。どんなに長く一緒にいて同じ屋根の下に暮らしたって、個人の領域は必要で、二つの意思を完全に混ざり合わせる必要はないんだ。
「月が綺麗だな」
「……それ、知ってる」
「ん?」
「I love youの、誰だかの文豪の日本語訳っていうネタだろ」
 飲み会の帰り道、実際月は出てるけど、満月でもないしちょっと雲が掛かってる。だから。
「うん」
 牧は嬉しそうだ。まあ、こいつの好きそうなネタではある。
「わかりにくいよ。相手に伝わらなきゃ意味ないのに」
「たまにこうやって飲んで、みんなついこの間まで学生だったみたいな顔で毎度似たような想い出ばなしして、お開きになるとそれぞれバラバラに帰って行って。でも、俺はいつもお前と一緒に帰れるのが嬉しい」
「……そう」
「俺のI love youの訳だ」
「長えよ!」
 でもまあ、それは確かにある。牧が言った通り、大体のやつはその場でだけ時間を共有してそれぞれの現実に帰って行くって感じで。そもそもオレはあの場では単純に想い出に浸るってより、牧の観察とかしてるかもしれない。
「やっぱりシンプルがいいか。……好きだ」
「知ってる」
 そしてこれもまた呪いだ。オレを縛り付けて離さない、甘やかなぬかるみだった。

猫カフェに行きたい

「猫、カフェ……?」
 突きつけられたチラシに大きく躍る文字を、牧は不思議そうに読み上げた。
「郵便受けに入ってたんだ、結構近くだぜ。今度オープンだって」
「猫カフェ、とは?」
 猫は飲みものじゃないぞ、と怪訝な顔をする。ばっちりカメラ目線の猫の写真も、洒落た外観の店の写真も目に入ってはいるが、それが何を意味するのかわからない。
「ちゃんと読めよ。コーヒーとか飲んでダラダラしながら、店の猫と遊べるんだ」
「ああ、キャバクラみたいなもんか」
「お前わざと言ってるだろ」
 牧の例えもそう間違ってはいなかったが、いかんせん年齢不相応だ。
「藤真、そんなに猫が好きだったのか?」
「え? そんなにって?」
 好きか嫌いの二択ならば好きだが、おそらく人並みだ。無類の猫好きというわけではない。新しく近所にオープンする未知の店に行ってみたいだけだった。
「早く教えてくれればよかったじゃないか。実家に猫がいるんだ、紹介する。今度ふたりとも休めるときに一緒に行こう」
「えっ、いや、いいってそんな。この猫カフェのほうが近いじゃん。猫カフェ行こうぜ」
 友人の家にはこれまで何度も行っているが、牧の家といえば彼が一人暮らしをしていた部屋で、実家には行ったことがなかった。家には当然家族がいるだろうし、久々に帰ってきた我が子が人を連れているとなれば気も遣うだろう。裕福な家であろうこと、そして今のふたりの関係から、どうしても敷居の高さを感じてしまう。無論、ルームシェアについては快諾とのことだったが、率直に言って遠慮したかった。
「うちの猫な、ヒマって名前なんだが」
「ヒマラヤン?」
 牧は「よくわかったな!」と言わんばかりに驚いた顔をしている。
「いや、名付けが単純すぎだからな!?」
「すごくかわいいぞ。ふかふかしてて、顔の真ん中と耳と手としっぽが焦げ茶色で」
「うん、それはヒマラヤンの特徴だからな……」
「あと犬もいるぞ。亀もいるし」
「カメ?」
「おっ、興味持ったな!」
「いやそんなに興味ない、ほんと、大丈夫だから」
「お祭りの亀すくいでとったやつだが、このくらいだったのがこんなにでかくなったんだ」
 牧はまず片手の親指と人差し指で円を作り、次いで両手で直径二十センチほどの楕円を作って大きさを示す。
「動作は意外と素早い」
「そうなんだ……」
 藤真は浮かない表情だ。大きく育った亀は気に入らなかったのだろうか。慌てて続ける。
「犬はな、金太郎っていって」
「ゴールデンレトリバーとか言うなよ」
「正解! すごいな、俺たちフィーリングカップルなんじゃないか?」
「まあ、ヒマよりは捻ったかなって感じ……」
「お利口だぞ。フリスビーで遊ぶのが大好きだ。どうだ、うちに来たくなったか?」
「……だって、家のひといるだろ? なんか悪いっつーか」
 口ごもる藤真に対して、牧はさもショックだという顔をする。
「お前、もしかしてうちの親に会いたくないのか!?」
「ええ? いや、なんだろ、嫌ってのじゃないけど、特に〝会いたい〟とは思わないかな」
「なんで!」
「友達んちに行くのは友達に会うためで、その親に会いたいと思ったことはない。今まで一度も」
 結果的に友人の親とも顔を合わせることになりがちだったが、当初からの目的ではない。
「藤真、俺たちは友達なのか?」
「違うけどさぁ」
「俺は、お前の家族に会いたいってずっと思ってたぞ。だから、引っ越し前にお前が家族の方を紹介してくれたとき、すごく嬉しかったんだ」
 感じ入るような表情でしみじみと言った牧に、藤真は唇を尖らせた。
「お前がどうしても挨拶したいって言うからじゃんか」
「そりゃそうだろう、かわいい子供が家を出て、知らない男と暮らそうっていうんだ。挨拶くらいしないでどうする」

 東京の大学に進むにあたって友達と一緒に住みたいと言ったとき、母親の口からは真っ先に花形の名前が出た。牧は学校が違ううえ、一度も家に呼んだことがなかったので、当然ではあったのだろうが。
「あら、花形くんと? こっちとしたら安心だけど、お勉強の邪魔なんじゃないの?」
「いや、花形じゃなくて、牧っていうやつなんだけど……海南の……」
「え!? 海南の牧さんて、いっつもあんたの邪魔をしてくるあの憎たらしい牧さん!?」
「うん。その牧さん」
 母親の顔がみるみる曇り、心配そうに藤真を覗き込む。
「牧さんて、恐いひとなんでしょう? 大丈夫なの? 脅されてるんじゃないの……?」
「なにそれ、どこ情報なんだよ。牧は恐くねえよ」
「だって、あのひと一体何回留年してるの?」
「ただの老け顔のタメ年だってば。この三年間オレの話を聞いてねーのかよ……」
 などなど、とても本人には聞かせられない誤解を抱かれていたこともあり、牧が挨拶に来たいと言いだしたときには、そのほうが得策だろうと藤真も同意したのだった。

「まあ、それはよかったと思うけどさ。お前が帰ったあと、めちゃ評判上がってたし」
 実際に会ってみれば、ごく穏やかで紳士的なひととなりに、親もすっかり安心した様子だった。事前の印象とのギャップのせいもあったと思う。
「そうだろう、そうだろう。お父さんにもお会いしたかったな」
「いいだろ別にそんな」
 挨拶のとき、藤真の母や姉のことを牧が『お母さん』『お姉さん』と呼ぶのが非常に気になっていたのだが、相変わらずそういう方針らしい。
「藤真家は、空気がきれいだったな」
「ちょっと意味がわからない」
「シルバニアファミリーみたいだった」
「……ウサギ小屋的な?」
 牧が嫌味を言うような人間でないことはよく知っているのだが、もう少し常人にもわかる表現をしてほしいと思う。
「違う。顔の似てるかわいい家族が集まってる、素敵な空間だったってことだ」
「……それ、絶対ほかのやつに言わないほういいよ。シルバニアファミリー褒め言葉だと思わねえから普通」
 あくまでにこやかな牧に対し、藤真は目を据わらせた。もしあの場でそれを言われていたら、牧の評判もそう上がりはしなかったかもしれない。
「ん……? そういえば、藤真もうちに挨拶に来たいって言ってたんじゃなかったか。あれ結局どうなったんだ?」
「チッ、思いだしたか」
 牧が高価そうな手土産まで持って家に挨拶に来たものだから、さすがに自分も牧の親族に顔を見せておくべきだろうと思っていた。しかし引越しの日程やら牧の実家側の都合やらでタイミングが合わないまま、その後は新生活の忙しさもあり、今まで忘れ去られていたのだ。牧は途端に不安げな顔つきになる。
「お前がそんなに嫌なら、別に無理にとは言わんが」
「なにその唐突な気遣い。いいよ、大丈夫、行くって」
「なんか懸念があるのか?」
「んー……挨拶行けてなくて、不義理っつうか、無礼なやつだと思われてんじゃないかとか……」
 それから、牧と恋愛関係にあるということだ。自分の親に牧を会わせるのは平気だったのだが、牧の親に会うのは後ろめたい気がして、少し怖い。
(別に、同居する友達として紹介されるだけなのはわかってるけどさ)
「そんな堅苦しい家じゃない。じいさまの家はでかくて人も多いが、うちは普通だ」
「そうなんだ?」
「ああ、親父は次男坊だからな」
(次男だったらなに? 相続的な? そんなに違うもんなのか?)
 やはり異世界のような気がする。牧が普通と言ったところで当てにはならない。
「……手土産、なにがいいかな」
「そんなの鳩サブレでいいだろう」
「なんでだよ、よくねえよ!」
「俺は好きだぞ、鳩サブレ」
「お前のためじゃねえし」
 とはいえ、相手方も庶民の手土産に期待などしていないだろうから、深く考えずに旨そうに思える菓子でも探そう。要は気持ちだ。
「よし、じゃあ都合聞いてみるな」
 牧は電話台の前に立ち、実家の番号をプッシュする。
(素早いな。まあ、変に引っ張るよりとっとと終わらせたほうがいいか……)
「──そう、一緒に住んでる藤真だ。その藤真がヒマを見たいって言うから」
「そっち!?」
 思わず声を上げて牧を顧みたが、こちらからは広い背中しか見ることができない。
(そりゃ最初は猫の話だったけどさ、もう挨拶に行くってことでよくねえ? 顔も合わせたことないのに、猫見るために押しかけるとか引くわ……)
「藤真、次の次の日曜はなんもないよな?」
 受話器を押さえてこちらを振り返った牧に頷く。
「ないな。大丈夫」
「じゃあその日にするか。もしもし──」
 牧も頷き、再び受話器を耳に当てた。

「で、猫カフェのほうはいつ行こうか」
「結局行くのかよ!」
 それなら牧の実家に(猫を見に)行かなくていいのではと往生際悪く思ってしまったが、すでに連絡は入れてあるのだ、腹を括ろう。
「オープン直後は混むんだろうから、ちょっと落ち着いてからでいいや……」
 そして目下の課題である手土産に思いを馳せるのだった。

にゃんにゃん日和

 ──ピンポーン、ピンポピンポン、ピンポーン♪
 ときは深夜、日付が変わったころだ。こんな時間にインターホンを連打する者など、大学のバスケ部の新歓から未だ帰ってきていない同居人のほか思いつかなかった。
 慌てて玄関に走ってドアを開けた牧の胸に、ひと回り小さな体がなだれ込んで凭れる。ぐりぐりと頭を押しつけられるたび、茶色の髪がさらさら流れた。予想通りのかわいい恋人だったが、牧の意識はその背後に立つ長身の男に注がれる。
「! 花が…」
「牧! たらいま!」
 空気を読まない酔っぱらいが能天気な声を上げ、それを送り届けてくれたらしい花形はそそくさと立ち去ってしまった。牧は腕を伸ばしてドアの鍵を閉める。
「おかえり。藤真、やっぱり酔ってるな……」
 こちらを見上げる顔は赤く、丸く愛くるしい瞳は笑みを含んで楽しげだ。具合が悪いよりはましなのかもしれないが、一切の警戒心を失っているかのような様子に、ひどく落ち着かない気分にさせられる。
「飲みすぎるなって言ったのに」
「しょーがねーらろ新歓なんらから。オレはうまく回避したほうらぜ。素直に飲まされたやつは外でゲロ吐いてしんでた」
 大学一年はまだ未成年ではあるが、慣習として歓送迎会の類では当然のように飲酒が行われている。そして運動部のノリといえば牧にも想像がつくことで、酒に酔った藤真が悪いとは到底言えるものではなく、溜め息を吐くことしかできなかった。
 牧は体質的に酒に強いようで、気分はよくなるものの、ひどく泥酔して明らかに常時と違う様子になるほどのことはない。しかし藤真は違う。色素の薄い肌はすぐにうっすらと染まり、日頃のような言葉での武装を失い、箸が転んでもおかしいようなありさまで──非常に愛らしいのだ。いろいろな意味で心配でしかなかった。
「んっ、おい藤真っ、なんだ!?」
 藤真は牧の厚い胸に顔を埋めていたかと思うと、鷲掴んで揉み始めた。
「牧ってけっこーおっぱいでかいよな。Cくらいあるんじゃね?」
「カップサイズのことはわからんが、多分ないと思うぞ……ていうかなんでそんな話に……」
 そうは言ったが、酔っているために話に脈略がないのだろうとも思っていた。素面の状態で酔っぱらいに接することには慣れているつもりだ。
 藤真のように乳首の性感が発達しているわけではないとはいえ、胸を揉まれているとやはり妙な気分になってくる。牧は感触から極力意識を逸らすように、頭の隅にあった疑問を口にした。
「そうだ、なんで花形が?」
「それ! オレもふしぎなんらぁ。センパイに送ってもらってたら、いつのまにか花形とすりかわってた!」
 藤真はさも不思議だと言わんばかりに目を丸くしている。思春期どころではない、五歳児くらいの反応ではないだろうか。
 見事東大への受験に合格し、駒場キャンパスに通う花形の行動範囲は藤真とも近いようだった。偶然か必然かはわからないが、意識の定かでない状態で知らない人間と一緒にいる藤真を見つけ、保護してくれたのだろう。
「電話くれたら迎えに行くって言ったろう」
「え〜いいよ、そんな子供みたいな」
 一体どの口が言うのかと思うが、藤真は素知らぬ顔でなおも牧の胸を──胸筋を押している。
「藤真、なんなんださっきから。まさか他のやつにもこんなことしてないだろうな?」
「するわけねーじゃん! オレはフンベツある人間らぞ、牧らからしてんのに、牧はオレのこと信用してねーんらな! もういいっ!」
 回らない呂律でつらつら棒読みして、牧の体を両手で突き放そうとする。が、牧はびくともせずに、自分の方がふらついて後ろに仰け反ってしまった。
「わわっ」
 牧はそれを想像していたかのように藤真の背中を支え、抱き寄せて胸に閉じ込める。
「信用してないわけじゃなくて心配してるんだ。とりあえずベッドに行くか」
 眠そうにする藤真の肩を抱え、2LDKのうちの自分の部屋に連れていくと、二人で体を縺れ合わせながらベッドになだれ込んだ。藤真は目を細め、やはり牧の胸をこぶしでぎゅうぎゅうと押す。不意に、目の前が開けたような気がした。
(これは、猫のふみふみ……!)
 牧の実家には犬と猫と亀がいる。猫がクッションや人の体の柔らかい部分を前足でしきりに踏む行動は通称〝ふみふみ〟と呼ばれていた。今の藤真の仕草とよく似たそれは、子猫に返って甘えているものだといわれている。
「ふ、ふじま、なんだ、甘えてるのか? はっ、もしかして〝にゃんにゃん〟か!?」
 若者にとってはとうに死語である同衾の隠語を引っ張り出した、牧の声に自然と熱がこもる。ならばと手早く藤真のズボンの前を寛げ、緩んだウエストから手を突っ込んで下着越しに尻を掴んだ。胸を揉まれた仕返しとばかりに、機嫌よく揉みしだく。
「ふぁあっ!? 牧っ、ぁんっ! なにっ!?」
「なにじゃないだろう、お前から甘えてきたんだぞ」
「っん、てかここ牧の部屋じゃねーかっ! 連れ込みやがって!」
「俺はお前を寝かせてやろうとしてたんだぞ」
 今は状況が状況になってしまったが、勝手に藤真の部屋に入るのは悪いかと思って自分の部屋に連れてきただけで、もともとは不純な動機など一切なかったのだ。
「まあいいじゃないか藤真、にゃんにゃんしよう!」
「しねえし言葉が古いしっ!」
 藤真は全否定するように声を上げたかと思うと、牧の胸に顔を埋めてしまった。
「お前、言ってることとやってることが合ってないぞ……」
「すぴ〜」
(ね、寝た……なんだ、ただの酔っぱらいか……)
 本格的に眠ったのだろう。寝息のようなものとともに、ぐっと藤真の体が重くなった。朝までこのままではどこか痺れてしまいそうなので、のしかかっている体をそっと抱え、自分の隣に仰向けに寝かせる。
「ん……」
 小さく声がしたものの、起きたわけではないようだ。
「ふー、さて……」
 牧は藤真の穏やかな寝顔を見つめ、すっかりその気になっていた自分の股間を一瞥して部屋着のズボンと下着を下ろし、唾液で濡らした手の中でそれを慰め始める。一人での行為で特段声を出すわけでもなし、酔って寝ているのならばそうそう起きないだろうと踏んでのことだ。
(本物の藤真を眺めながらっていうのもなかなか乙なもんじゃないか……特権だな……)
 シコ、シコ──
(同棲したらオナニーなんてしないかと思ったが、意外とそうでもなかったな)
 高校時代はデートのたびにまぐわっていたが、会える機会が限られすぎていたせいだったと思う。日々一緒にいる今は、求める頻度が上がったせいもあり、拒否されることもそれなりにあった。行為によって藤真に掛かる負担が大きいことはわかるので、納得はしている。
 シコ、シコ、シコ、シコ──
 始めたときには多少やましい気持ちもあったのだが、それもすぐに興奮を助長するものになっていった。
(はぁ、はぁっ……藤真、俺は今、お前の寝顔を見ながらセンズリこいてるぞ……!)
 コートの上では帝王と呼ばれ、以外の場所ではのんびりとした大物感を醸す牧だが、ひとたび逸物を握ればそれに振り回されてしまう、いたいけな十八歳だった。天使のような寝顔で穏やかに眠る藤真を目前にしながら自慰に耽る背徳感に、無我夢中で手指を動かす。中性的な輪郭に、舐めれば甘そうな白い肌。桜色の愛らしい唇に、長い睫毛に縁取られた色素の薄い瞳──
「め……!?」
 目が、ばっちりと合っていた。寝ているはずの藤真とだ。つまり藤真は今起きているし、秘めやかなはずの行為も思い切り見られている。
「ふ、ふじまっ、違うんだっ!!」
 藤真は呆れた様子で顰め面をつくる。
「なにが違うんだよ、でっけーちんぽおっ勃てて。どうせお前はオレとやりたいために一緒に住んでんだもんな」
「そんなっ、それだけじゃないぞっ!」
 動揺のあまり、うまく言葉が出てこない。手の中に絶頂寸前のものを掴まえながら、何を言ったところで格好はつかないだろうが、それにしても無様だ。
「いいよ別に。オレもそうだし」
 藤真は静かな口調で言うと、気怠げに肘をついて体を持ち上げ、大きく口を開けて牧のものを頬張った。
「あ゛ぁっ……ふじま……!」
 もやもやとしたものを胸の内に抱えつつも快楽には抗えず、牧は気持ちよく藤真の口の中でフィニッシュを迎えてしまった。
「んぐっ……はぁっ……」
 ねっとりとした精液を飲み下し、苦しげに息を吐くと、藤真はぱたりと仰向けにベッドに倒れる。しばしばと、眠そうに目を瞬いた。
 牧は長く息を吐き、さらに何度か深呼吸をすると、横になって藤真の体に腕を回す。
「藤真。その、やりたいことは否定しないが、俺はお前とたくさん一緒にいたいと思ったから、一緒に住もうって言ったんだぞ」
「そうなんだ?」
 藤真は天井を眺めたまま、遠くを見るように目を細め、くすぐったそうに微笑した。たとえ「やりたいため」だとしても、そう悪いこととは思わない。互いに、他の相手を探すこともさほど難しくはないはずで、それでも敢えて男同士で求め合っている。執着のきっかけが何だったにせよ、紛うことなき恋愛だと思う。
 しかし肉欲とは別のところで求められているのならそれはそれで嬉しい。情熱的に抱き合う熱さとは違う、暖かで心地よいものに満たされていくようだった。
「そうだぞ、知らなかったのか?」
「う〜ん……」
 半端に寝て起きたせいか、大きなあくびが出てしまった。
 新歓の主な話題は初めのうちこそ新入りのバスケ歴などだったが、じきに趣旨を忘れた単なる飲み会となり、彼女(こいびと)の話題が中心になっていった。部活に勉強にと忙しすぎた高校時代の反動で、今の二年は皆大学に入ってこぞって彼女を作ったのだという。内容はバストのサイズやら、週に致す回数やら、その他諸々。
 馬鹿正直に話題に混ざるわけにもいかず、相手がいるものとして話を振られても『高校のときは忙しすぎたので』と濁すしかないことを、賑やかな宴会の場で寂しく感じていた。酔って思考回路が極端になっていたせいもあるが、お互いにもっと〝普通の相手〟を見つけたほうがよいのではと思ってしまったほどだ。
 しかし帰ってきてしばらく戯れていたら、やはり牧が好きだと思った。人の寝ている横で自涜に耽る姿さえ今思い出せばかわいらしい気がするのだから、なかなか重症だと思う。
「藤真、眠いのか? 寝てもいいぞ、もうなにもしない」
 厚い唇がこめかみに触れる。優しい感触だ。
「……牧、明日土曜だ。夜どっか食いに行こ」
「なにがいい? 肉?」
「にく!」
 元気よく即答し、ゆるく握りこぶしを作って牧の胸を撫でる。
「そしたらさぁ、そのあとにゃんにゃんしよっか」
「にゃんにゃん……! しよう……!」
 目を爛々と輝かせ、静かに、しかし力強く言った牧に、藤真は機嫌よく笑った。
(こいつのこんなの知ってんの、オレだけなんだろうな)
 わいわいと恋人の話題をするのも楽しそうではあったが、二人はまだまだ秘密の関係で──牧は自分だけのものでいい。
 くらくらする。甘く、生暖かく、穏やかな官能がさざ波のように身体じゅうに広がる。陶酔感、というのだと思う。なかなか酒が抜けないようだ。