不純同性交友

 ある日牧の部屋に出現していた真新しい二人掛けのソファを見るや、藤真は思わず声をあげた。
「うわっ、さすがエロい!」
「まあ座ってくれ」
 何がさすがなのかはわからないが、完全に否定はできないまま、牧は藤真にソファを勧める。藤真は素直に腰を下ろした。
(やばいなオレ、ソファ買わせちゃった。まあ、一人で横になって寝たりもできるしいいよな……)
 明確に強請ったものではなかったが、座るところが足りないだのぼやいた記憶はあるし、付き合い始めてから新調されたのだから、そういうことなのだろう。牧は隣に座ると何食わぬ顔で背凭れに腕を回し、肩を抱いてきた。
(こういうのがしたかったわけだな。牧ってやっぱりかわいい)
 藤真は望みの通りと牧に凭れ、牧はまんまと(そうそう、こういうのだ)と藤真を抱える。
「オレも久々に相手ができたから、言い寄られて追っ払うとき『付き合ってる人がいるから』って言えるな」
「追っ払うとは……」
 藤真が他校の女子から握手を求められて応じている現場を見たことがあるが、実際は愛想よく対応するばかりでもないようだ。
「相手が誰なのか、突っ込まれないか?」
「マキちゃんでいいだろ。色黒で泣きぼくろのセクシーなマキちゃんだ」
 頰のほくろにちょんと触れた指先が無性に愛しくて、牧は思わずそれを捕まえ、触れるだけのキスをした。ふざけながらではあるが、藤真が迷わず自分の存在を口にしたことが素直に嬉しい。
「外野にはそれでいいだろうが、バスケ部関係者に丸わかりだぞ」
「あー、だとお前も困るよな」
「困るってよりは……周囲に気を遣われたり茶化されたりしたら面倒だ」
「だよな。あと、言っても信じてもらえないと思う。女のファンがめんどくさくて、一時期ホモ宣言してて。花形と付き合ってる設定にしてたけどあんまり信じてもらえなかった」
 花形もノリ悪いし、と続くものを衝撃的な気持ちで聞きながら、牧は身震いした。藤真は甘い外見とは裏腹に、思い切ったところのある男なのだった。
「それは……そういうのは、とてもよくないと思うぞ……」
 藤真は設定だけのつもりでも、花形にとっては違ったかもしれない。藤真と出くわすたび、その背景かのように斜め後ろに付き従っている、かの男が藤真に傾倒していることは明らかだ。そして藤真もまた花形をいたく気に入っているようで、訊いてもいないのにぽろっと花形のことを口走ったりする。
「藤真は花形のことを随分といい加減に扱うよな」
 牧はこの発言をすぐに後悔することになる。
「あー。高校入ってから家族より一緒にいると思うし、最近は特にだな。居て当たり前っていうか、空気みたいなもんっていうか。空気に対して気は遣わないだろ。それにあいつは頭がいいから、意見も信頼できるし」
 空気、それは生きるために必要なもの──いや、藤真はそんなつもりで言葉を選んだわけではないだろう。きっと。おそらく。そうであってくれ。
 藤真が監督を兼任する翔陽バスケ部の中で、彼の支えになる人物がいるのは喜ばしいことではないか。頭ではそう考えるものの、自分は藤真の恋人で、自分と花形とは同じ性別で、日ごろは花形のほうがずっと藤真と一緒にいるとなれば、不穏な気持ちにもなる。
「花形にはちゃんと謝ったぜ。不幸の手紙とか届いて大変だったらしい」
「それは気の毒に」
 一定数には信じられていたということではないか。牧は大袈裟に首を横に振る。
「だからな、そんなのは二度としたら駄目だぞ藤真。ホモ宣言なんて絶対駄目だ。彼女がいる設定のほうが全然いい」
 唐突に強めの口調で断言され、藤真は戸惑い目を瞬いた。
「なんで」
「女に狙われるより、男に狙われるほうがずっとやばい。物理的な意味で」
「あー……なるほど?」
 大真面目な顔で言い放った、牧の言わんとするところを理解するのは簡単だった。藤真だとて男だし、か弱いほうでもないと思うが、本気の牧に押し倒されれば力では到底敵わないのだ。屈強な男ばかりでもないだろうが、女とは明確に違う。
「でもさ、相手がいるって言ってんだから男でも女でも関係ないんじゃ?」
 牧はやはり首を横に振る。
「相手がいようが、同類ってだけでチャンスだろう。付き合えなくてもやれるかもしれないからな」
 わからなくはないが、藤真にはそれよりも引っ掛かることがあった。
「お前は一体ホモのなんなんだよ。そもそも牧ってガチホモなのか? 別に今更いいけどさ」
「俺がってわけじゃない。昔そういうタイプの先輩がいて、男子校への夢をよく聞かされてた」
「あー……」
 昔の先輩ということなら中学のときか。この際だから、少し気になっていたことをついでに聞いてしまおう。
「牧、男が初めてじゃなさそうだったのって」
「その先輩だ」
「結構タイプだったとか」
「いや全然」
「ひっでー!」
 言葉通りの非難ではなく、あくまで茶化すように言った。言い寄られるのが面倒で適当な女子と付き合っていた、という自分の過去は棚に上げて忘れたことにする。
「いろいろ世話になった人だったんだ。感謝してた。先輩が部活を引退したあと、俺にたっての頼みがあって、掘ってほしいと……」
「勃っての頼みかー、まあしょうがないな、多分お前は中学のときも男前だったんだろうし」
「んん? まあ、中学生に見られたことはなかったが」
 素っ気ない風にしつつも、藤真にさらりと褒められたらしいことは非常に嬉しく、思わずムラッときてしまった。
「オレは、男に告白されたことはあるけど、やったのは牧だけだよ」
 男はな、と頭の中で付け加えておく。
「男で告ってくるやつのこと、顔がかわいければなんでもいいのかよ、バカじゃねーの、って思ってた」
「……別に、顔だけで選んだわけじゃないんじゃないか?」
 モブの肩を持ってやる義理もないのだが、藤真を愛する者として、顔だけではないだろうと主張しておきたかった。
「どうなんだろうな。大抵知らないやつだったから顔だと思うけど。ていうか基本的には男の時点で無いんだけどな」
 自分は結構な死線をくぐり抜けてきたようだ。牧はしみじみしてしまった。
「つまり、結局オレの彼女はマキちゃんなんだよな」
 話を戻す。実際、相手がいると言えばそれだけで引き下がる者がほとんどだろう。追及など無視すればいいだけだ。
 牧は藤真の手を掴み、親指と人差し指で白い薬指の付け根を挟んだ。
「指、いくつだ?」
「十本」
「いや、ゆびわ……」
 わかってるけど、と藤真は笑う。
「ウチの学校そういうのうるさいから、あと一年ちょっとは無理だ」
「じゃあ、一年くらいしたらまた聞く」
(一年後、牧はまだオレと付き合ってるつもりなんだろうか)
 心地よく胸を満たしていく暖かいものは、徐々にせり上がり喉にまで至り、溺れるような息苦しさを生んだ。
 今まで、女子との交際が長続きしたことはなかった。そのときには確かに愉しんでもいただろうが、あとあと振り返って惜しむほどのものではない、それらはただの過去で、ただ消費するだけの時間だった。
 牧は特別だ。彼と過ごす時間を、かつての恋愛ごっこと同じものにはしたくない──妙に悲観的な自分に、なぜだか笑ってしまった。呆れているのかもしれない。
「牧さぁ、さっきの感じ、勃起してなかったら最高にかっこよかったんだけど」
 藤真は意地悪く言って、牧の下半身の隆起を布越しに指で弾いた。
「む、バレてたか」
 牧はといえば、藤真は意地悪なところもかわいいな、と機嫌がよくなるくらいのものだった。この肉体の反射について、嫌がられてはいないと知っているせいもある。
「先輩のくだりからだろ」
「違う、二人で座った瞬間から結構キてた」
「なにそれ、サイテー!」
 ゲラゲラ笑いながら牧の腰に腕を回し、もう一方の手でその股座をさすった。
「おい藤真」
「魔除けの指輪、くれるならお揃いがいいな。オレだって牧のこと心配だ」
「もちろんだが、そこ触りながら言うことか?」
 無視できない感触に、牧は唾を飲んで身を捩る。
「勃ってんだから触るだろ」
 天使にも悪魔にも見える微笑の前に、言葉も思考も吹き飛んで、そこからはただ互いに求めるものを喰らい合うだけだった。

きみを知った日 4

4.

 牧の部屋のソファはいつしか二人掛けのものになっていた。藤真は当然のように牧の隣に座り、逞しい肩に頭を押し付ける。
「どうした?」
「甘えてるんだ。そのくらいわかれ」
 藤真の視界の外で、牧は小さく笑った。知りたいのはその理由だったが、以前訊ねたところ「付き合ってんのに甘える理由とか必要なのかよ」と怒られたので、本人から言い出す以外は突っ込まないことにしていた。
 外見は柔らかく可愛らしい印象だが、内面は情熱的で少しきついところもあって、しかし結局巡り巡ってやはり可愛らしい、というのが藤真と付き合ってから感じていることだ。どうやら今日もいつも通りのようなので、牧は仰せのままにと頭を撫でる。柔らかな髪がさらさらと指を通って心地よい。凭れ掛かって下を向いたまま、藤真は言った。
「牧、オレのこと好き?」
「ああ。好きだ」
 この問いも初めてではなかった。最初のときもだが、その後も問われたことがある。疑われるような行動をとったわけでもなく、今日のようにごく唐突だったから、なぜそんなことを聞くのか、男同士で体まで繋いで、好きに決まっているだろうにと不思議だった。
 今はもう慣れてしまった。難しいことでもない、ただ思っているままを言えば藤真が嬉しそうに、安心したように笑うのだから、疑問など抱く必要はないのだ。
 しかし今日の藤真は違った。深く溜息をつき、天井を仰ぐ。
「あーあ、やだなオレ、めんどくせー女みたい」
 珍しく自己嫌悪的な発言をした恋人を、牧はきょとんとして見返す。
「別に藤真はめんどくさくないぞ」
「そっか……めんどくさくないのか」
 優しい目、優しい口元、包み込む大きな手のひらの感触に浸りながら、牧の言葉を頭の中で反芻するうち、急に目の前が開けたような気がした。
 過去に女子と付き合った理由も、長続きしなかった理由も、もっぱら〝面倒だったから〟だ。相手がいないと知れば言い寄ってくる者がいたし、付き合ったら付き合ったで部活よりデートだの、服や化粧にコメントしろだの求められることに辟易した。結局のところ、相手に対してさほどの興味がなかったせいだろうと思う。
 しかし牧に対しては違う。部活を優先する感覚が一致している点は大きいだろうが、それだけではないと思う。互いに忙しく、家も近くないというのに、どうにか時間を見つけては二人で過ごした。未だ快楽のみではない行為だとて、藤真が牧を拒絶することはほとんどなかった。
「うん。オレも牧のこと、めんどくさくなかった」
 最初は興味本位だったと思う。初めての行為には没頭してしまったが、その後果たして関係を続けていけるのか、疑問に感じたこともある。しかし今は違う。
 たかだか十七年生きて、バスケット以外での賛辞など拒絶してきたほうが多いくらいで、恋だの愛だのという言葉と、今ここにある感情が正しく結びついている自信はない。しかし、ラベル付けなどどうでもいいようにも思える。
「牧、オレもお前のことが好きだ」
 牧は一瞬驚いた顔をしたのち、かつて他人に見せたことがないくらいに破顔した。
「初めて聞いた……気がする。今日はいい日だ」
 牧の表情に、言葉に、呆然としてしまった。
「そうだっけ?」
 声が無様に掠れた。牧はどうしてこんなに優しいのだろう。嫌な男だ、強くて、性格も良くて、どこまでも完壁で。なぜだか泣きたいような気持ちになって、もう一度牧の肩に頭を押し付けた。
(甘えてるんだ)
 いつだってこうして、理由も言わずに。ただ無条件に──義務も結果も関係なく──好きだと伝えてくれる男に寄り掛かっているとき、それを救いのように感じている。
(オレは一生お前に勝てないんじゃないだろうか)
 気が遠くなる、これはごく私的な感慨だ。ここはコートの外で、二人しかいない場所だから、今くらい何を思ったって、たとえ牧に寄り掛かったって構わないだろう。
 ユニフォームを着てコートに立てばこんな思いは過ぎりもしないし、牧だって優しくしてはくれないのだから。

<了>

きみを知った日 3

3.

「ごめん、シャワー借りたい」
「別に気にしないが……じゃあ、そうするか」
 今にも押し倒してきそうだった牧がぴたりと動きを止めたことに、言葉通りの申し訳なさを感じたが、ここに来るまでに少し汗を掻いたと思い出したら、無性に気になってしまった。
 手を引かれ、浴室のドアの前に連れられながら、豪邸でもないのだから場所を教えてくれるだけでよかったのでは、と藤真は首を傾げる。牧はバスタオルを出すと「いっぺんに済ませよう」などと言って自らのシャツのボタンを外し始めた。一緒にシャワーを浴びる気のようだ。藤真としては自分が女役だろうと思ったから気にしただけで、牧にも同じことを求めるつもりはなかった。
(牧ってやっぱり天ね……いや、ただのエロ目的か)
 牧の手の動きを追うように視線を下に遣ると、ズボンの下に隠れているものは先ほどより一層張り切っているように見えた。
(合理的っぽいこと言って、もうやることしか頭にないな)
 部屋で手を握ったまま戸惑っていた牧は一体どこに行ったのか──責めるつもりではない、少し驚いただけだ。これから致そうというのに躊躇することもないだろうと、腹を括って藤真もシャツのボタンを外していく。
「……」
 視線が痛い。衣服を脱いでいく動作を凝視されているのが、なぜだか無性に恥ずかしく感じられた。背中を向けたのはささやかな抵抗だ。
 靴下も下着も取り去って、浴室に逃げ込むようにドアに手を掛けると、後ろから伸びた褐色の手が腰骨を撫でて絡みついた。感触と、自分との肌色の違いにひどく落ち着かない気分になりながらも、藤真は何も言わず浴室に進んだ。牧も続く。
 一人暮らしにしては広めの浴室ではないだろうか、と思うや否や「狭いな」と声がして、体をぴたりと寄せて後ろから抱かれていた。
(そこまで狭くないだろ!)
 尻に当たる硬く反り返ったものの感触と、直接触れ合う体温と、牧のとぼけたような反応の可笑しさとが一気に押し寄せて、どこに注意を向ければよいのやらわからない。ただ、これからの行為への実感が急激に湧いて、顔が、全身が熱くなっていくのがわかった。
(牧、そんなにオレとやりたいのか。こいつって、こんなやつだったんだ。なんか、かわいくなってきた……?)
 くすぐったいような、もやもやするような、恥ずかしいような。しかし決して悪くない気分だ。自分の体も熱いが、それを包む牧の体温はもっと熱い。人と肌を合わせること自体は初めてではないが、力強く包み込まれる感触はかつてないもので、息苦しさと興奮と、溺れてしまいそうな錯覚を藤真にもたらした。
「んっ…」
 首筋に鼻先と唇が触れたようで、それからねっとりと舌の這う感触があった。
「シャワー……」
 牧は「そうだった」と呟き、後ろから手を伸ばしてシャワーに湯を出した。二人の体を濡らし、ボディタオルに盛大に石鹸を泡立て、藤真の体に泡を乗せていく。肩、胸、脇腹、と体の線を確かめるように手のひらを滑らせ、再び胸に触れたときには洗うとは言いがたい動作で、無い胸を揉むように撫でて乳首を弄った。
「あっ…ふっ…」
(まあ、そうなるよな)
 すっかり愉快な気分になってしまった藤真は、喘ぎと笑いの入り混じった声を漏らしながら体を反転させ、牧と向き合った。鍛え上げられ、逞しく引き締まった肉体は、試合の際に何度も見てきたものだったが、何も纏っていない姿には一層堂々とした凄みがある。硬いだけでない弾力も含んだ胸、腹筋と、おそるおそる手のひらで泡をなぞっていくと、視線は当然その下にも及んだ。
(うーん、デカい……)
 そう多くの男の興奮状態を見たことがあるわけでもないが、色黒で、太く逞しく、荒々しく血管を浮き立たせているそれは、体格相応という以上に立派に思えた。藤真もまた男子の多分に漏れず〝男の性器は大きいほうが優れている〟という感覚を漠然と持っているため、牧は全身が完璧なのかと改めて感心してしまった。
「なんだ?」
「きれいに焼けてると思って」
 それもまた正直な感想の一つだった。皮膚も剥けておらず、綺麗な褐色の肌をしている。「焼けてる」と言ってしまったが、地黒が強いのだろう。
「お前の体も白くて綺麗だぞ。石鹸の泡がよく似合う」
「なんだそれ、変な褒め方」
 適当に言っているのだろうと思ったが、牧の顔は至って真剣だ。
「変じゃないだろう。石鹸のCMみたいなんだ」
「全然わかんねー」
 藤真は軽い調子で笑ったものの、じっとしていられないようなむず痒い衝動を感じて、牧に抱きついた。
「……わかんないけど、お前に褒められたら嬉しい気がする」
 牧を喜ばせようと思ったわけでもない、正直な言葉だった。
 初めのうちは、バスケットに限ってだったと思う。牧のことを認めているからこそ、互いを意識し合う関係性を好ましく感じていた。今嬉しくなってしまったのも、好きだと言われてこの状況に辿り着いたのも、そういうことなのかもしれない。特別だと感じている相手からもたらされるものだからこそ嬉しいのだ。
「藤真……」
 頬を淡く染めながら、軽やかに弾けるような笑顔を浮かべた藤真に見惚れ、牧は感極まったように呟くと、藤真をしっかりと抱き締めてくちづけた。密着した体が泡で滑り、互いの肌の感触を際立たせる。身を委ねる意思表示のつもりで、藤真は牧の広い背中に腕を回した。
「あっ、ん…っ」
 大きな手が背中を撫でながら下降し、尻の肉を掴まえて揉みしだく。日頃そう触れられることのない箇所は自覚以上に敏感で、思わず声が漏れた。快感の気配にもどかしく身を捩ると、硬く勃ち上がった性器が二人の腹の間で擦れ合い、卑猥な感触を生んだ。そうしながらも、牧は唇に何度も短いキスをしてくる。
(やっぱキスが好きなんだ)
 ぼうっとする頭で呑気なことを考えていると、尻肉の感触を愉しんでいた手の指が、谷間の窄まりに触れた。
「っ…!」 
 驚きと羞恥から、体がぴくりと震え、一気に顔に血が上る。男同士でそこを使うことは知っているし、覚悟もあったつもりだが、実際に触れられると非常に居た堪れない気分だ。
「あ、ぁっ…」
 牧の指の少し硬い皮膚が柔らかな表面を掠めるように撫でるうち、恥ずかしさだけではない明確な快感が生まれていた。息を乱しながら、どうしていればいいのかわからない、無知な処女にでもなった気分で牧にしがみつき、肩口に額を押し付けて顔を隠していた。指は、まだ閉ざされた入り口をほぐすように弄り始める。
「んっ…」
 石鹸の滑りを使って、今にも中に入り込みそうな動作をしながら、しかしそれはなかなか訪れない。好奇心に溢れ、貪欲に快楽を求める若い心身は、もはや次のステップを待ちわびていた。
「まき…」
 早急に進めてしまうのがもったいなく思えて、同じ動きを繰り返していたが、甘く強請るような声は無視できるものではなかった。牧は柔らかな粘膜の狭い隙間に、滑る指を潜り込ませる。
「ぅ、あぁっ…」
 少し高い声も、首筋に額をぐりぐりと押し付ける動作も、堪らなく愛らしい。逸る気持ちと疼く下半身を抑え、ゆっくりと深く指を挿入していく。指一本でも入り口はきつく締め付けてくるが、内部は優しく包み纏わりつくようで、そこに自らを収める想像に、理性を失いそうだった。
(オレ、女みたいにされてる……)
 牧のごつごつとした指の節が、誰にも触れられたことのなかった箇所を抉り、擦っている。違和感はあるが、痛みというほどではなかった。合意しているせいか、不思議と屈辱ではない。ただ、尋常な行為ではないという実感は強くあって、そのことに非常に──興奮していた。もっと知りたい。そんな穏やかな動作ではなく、ひどくしてみてほしい。
「ぁんっ!」
 後ろのことばかり考えていると、不意に性器を握られ、敏感な先端部を指の腹で擦られて、それこそ女のような声が出てしまった。
「藤真……感じてるんだな」
 褐色の手の中で、すっかりと露出した淫靡なピンク色が、涎を垂らすようにたっぷりと先走りを滴らせている。その姿にひどくそそられながら、潤んだ亀頭部を容赦なく攻め立てる。
「いっ、ぁ、あぁっ…!」
 自分でするような加減がなく、強制的に快楽を与えられ続けながら、後ろを拡げるように掻き回されると、体の内から波のような快感が湧き起こり、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
「ふぁっ、ぁんっ…まき、やめっ…んむっ!」
 快楽に歪む顔も堪らなく好くて、貪るようにキスをした。ねっとりとした舌の感触も、唇の隙間から漏れる弱い声も好かったが、やはり顔が見たくなってすぐに解放した。
「っ、まき、もうムリ、立ってらんない……」
 懇願するように呟くと、指が抜かれ、背後でシャワーの水音がした。体を流すのだろうと息を吐くと、穿たれていた箇所にシャワーを当てられ、水流と一緒に再び体内に指を挿入された。
「っ…!?」
 藤真はもう少し耐えなければならないようだった。

 浴室を出ると、どちらともなく互いの体をバスタオルに包んでわしわし拭いて、戯れ合いも無駄話もなく、急くようにベッドに滑り込んだ。男二人が眠るには窮屈なセミダブルだが、はなから体を重ねてしまったので気にはならなかった。否、それどころではなかったというのが正しい。
 牧は藤真の首筋に鼻先を埋め、首、胸元へと愛しげにキスを降らせる。愛らしく声を漏らす藤真の反応をそう愉しむ余裕もなく、ミルク色の肌に淡い血の色を載せた薄い皮膚に、誘われるように舌を這わせた。
「ぁんっ」
 浴室でのことですでに興奮しきり、硬く屹立した乳首はすっかり敏感になっていた。感触を愉しむように舌を押し付けて転がし、唇に挟み、甘く歯を立てる、そのたびに小さく声が上がる。もう一方を指先で摘み上げると、呑み込んだ声とともに体が大きく波打った。
「敏感だな」
「お前のせいだ」
 指先と口とで胸を苛められながら、藤真はもどかしい思いで牧の広い背中をなぞる。
「それ、楽しいか……?」
 男の胸なんて吸って、と頭の中で続けた。
「楽しいぞ? 乳首もいい形になってきた」
「どんなだよっ!」
 冗談なのか、そうでもないのか、測りかねながら牧の背中をバチンと叩いた。いい音がしたが、大した力ではない。
「お前だって、感じてるじゃないか」
「そうだけど……」
 藤真は視線を泳がせた。もっとストレートなものがほしい。
「!! ……せっかちだな」
 性器を掴んできた藤真の手と顔とを交互に見て、牧は驚いたように笑った。
「お前に言われたくない」
 白い手が根元から裏筋を辿るように撫で上げ、ぎこちなく握り、形を確かめるようにゆっくりと上下する。自ら仕掛けておきながら、迷うような動作が愛らしかった。牧は応じるように、藤真の昂りを愛撫する。躊躇いなく快感を引き出そうとする動作に、藤真も遠慮なく牧の感じるところを探っていく。
 荒い呼吸と低い呻きと小さな水音に溺れるように、何度もキスをしながら互いの体を撫で合っていたが、それだけでは飽き足りなくなって、牧は体を下へとずらした。薄く筋肉のついた贅肉のない腹部、可愛らしい臍、薄い茂みの先には先ほどから愛でている淡い色の男根が屹立している。膝を立てさせ、脚を開かせると、牧はまじまじとそれを眺めた。
 藤真は全身がきれいだ。自分と同じものを持っていてもまるで違うように見え、しかしやはり同じ衝動があって同じ行為もするだろうと思うと、しきりに劣情が煽られる。浴室であまりよく見られなかったそれをしげしげ眺めていると、白い脚に体を挟まれた。
「……なに?」
「鑑賞してる」
「なんだそれ! 変態かよ!」
 牧の背中に脚を回して器用にかかとで蹴りを入れるが、牧からしてみれば脚を絡めて強請られているようで、ダメージはなく、むしろ燃料になるばかりだった。
「変なことばっかりされると冷める……あっ!」
 そうなっては困るので鑑賞は切り上げることにして、藤真の昂りに唇を寄せた。根元から頂上へ向かって、丁寧に舌を這わせていく。
「あっ…んんっ…」
 先端を口に含み、雁首や鈴口へ舌先を沿わせるとやはり弱いようで、しきりに体が跳ねた。それ自体も悦んでいるようにピクン、ピクンと震えるのが愛らしく感じられて、えずく寸前まで深く咥え込んだ。手で根元を支えながら、顔を上下させて口腔全体で愛撫を施す。
「あっ、あぁ…、まき…」
 甘い、可愛らしい声が名前を呼んでいる。もっと聞きたい。もっと気持ちよくさせてやりたい。その一心で行為を続けた。
「んっ、待て、だめッ、イきそ…」
 口内は藤真の体液でぬめり、卑猥な音を立てている。うわごとのように零れる言葉も全て、牧の耳には快感だった。
「まき、ダメだってばっ…!」
 早くも達してしまいそうになって、藤真は牧の肩を強く押し返す。性器の先端から、ねっとりと糸を引きながら離れていく肉厚の唇を、不覚にも色っぽいと感じてしまった。もはや冷めたなどと言える状態ではない。
「わわっ!」
 逞しい腕が体を畳むように腰を抱え上げ、脚を開かせ、あらぬ場所を晒させる。いよいよ女になった気分で天井を見上げながら、牧が何やら準備するのを待っていると、脚の間に冷たいものが垂らされた。
「なに!? …あっ!?」
 ぬるりとした感触とともに、簡単に指が挿入されてしまった。
「ローション」
 ごく当然のように答えた牧を追求したいところもあったが、脱線したくなかったので黙った。牧は潤滑剤を纏った指で、襞の一枚一枚をほぐすように丁寧に濡らしていく。一旦指を抜くと潤滑剤を足して再び挿入し、慎重すぎるほどに内部を潤し慣らしていった。
「あ、んっ…あぁ…っ」
 浴室でもしきりに嬲られていたそこが快感に畝るようになるのは容易く、指はすでに二本含まれていた。誘うような収縮とともに、体温を帯びたローションが愛液のように溢れ出して尻の狭間を伝う、とろとろとした感触がいやらしく興奮を煽る。
 浴室とは違う角度で中を探られるうち、不意にこれまでとは異なる強烈な快感が奔った。
「あっ…!?」
 思わず大きな声が出てしまい、藤真は自分でも困惑する。
「ここか?」
 指を藤真の体の前側へ曲げ、一点をゆっくりと押してやると、指を含んだ秘部も体全体も、一際大きく波打った。
「ぁんっ…!? あ、んっ、ダメ、そこ…!」
 全身を支配し呑み込んでいくような、かつて感じたことのない快感に、藤真は得体の知れない恐怖を感じて首を横に振る。
「ダメ? いいんだろう?」
「〜〜……!!」
 同じところをしきりに刺激してやると、声を抑えているのだろう、藤真は口を手で塞ぎ、喉を反らせてびくん、びくんと大きく体を震わせている。潤んだ秘部は収縮し、指を奥に引き込んで、まるで求め誘っているかのようだ。足の爪先が、ぎゅうと指を丸めて縮まっている。そんな仕草も愛しくて堪らず、膝頭にキスをした。
「ん、まき…」
 怖い。気持ちいい。もっと知りたい。もっと──整理のつかない欲求が一気に押し寄せて、藤真は何も考えられないまま、顔を真っ赤にして呟いた。
「牧のが欲しい」
「ああ……」
 縋るような目で、泣きそうにも聞こえる声で求められ、牧はそれだけで達してしまいそうな気分だった。藤真のからだが充分にほぐれたろうかなど、全て頭から消え飛んで、指を引き抜き、明らかに過剰なまでに自らの男根にローションを塗りたくり、もはや性器としか見えない尻の狭間に二度三度と擦り付ける。
「藤真…」
「まき…?」
 ほとんど吐息のような呟きに、それでも応えてくれる藤真が愛しくて堪らず、もはやそこにしか行き場のなくなった昂りを、欲望のままに押し込んだ。
「うっ…! あっ、ぁあぁっ…!」
 ゆっくりと、しかし容赦なく、熱く硬い肉杭が体の中にめり込んでくる。慣らされたとはいえ、牧の質量はやはり圧倒的で、体を開かれる鈍い痛みと、内臓が押し上げられる強烈な圧迫感に、藤真は苦しげに眉根を寄せた。
「っく……んぅっ…」
 根元まで挿入し、藤真の体にぴたりとくっついた下腹部をなおもぐいぐいと押し付けながら、牧は溜め息混じりに陶然と呟く。
「藤真……入ったぞ……」
 白く綺麗な体の中心で、淫靡な色の秘所がめいっぱい口を拡げ、涎を垂らしながらどす黒い欲望を咥え込んでいる。卑猥な光景と強く締め付ける弾力とに、何も考えられなくなっていく。
「うん…」
 大きな手が小さな顎を掴まえ、厚い舌が桜色の唇をべろりと舐める。受け容れるように微かに開かれたそこに、唾液を送って潤ませ、二人の間で糸を引くさまをうっとりと鑑賞する。体を穿ってもまだ足りないとばかりに、深く、呼吸までも貪るように傲慢にくちづけた。
「ん、むぅ…」
 体を折り曲げ、臓腑を圧迫されながら、男の性器に穿たれた体内はじんじんと熱く疼いている。まだ快楽とは呼べない、苦痛ですらある状況だが、藤真は不思議と満たされた気分でいた。
(牧、そんなに……?)
 牧は常のような力のない、陶然とした目でこちらを見下ろしている。しきりに何か囁いてはキスをして、体に触れて、返事をしてやれば嬉しそうにしていた。その態度も体に埋まったものも、全てが自分を求めている。そう実感すると肉体の苦痛など些細なものに思えた。
「動かすぞ」
「あぁ、あっ…」
 返事を待つでもなく宣言だけして、牧はゆっくり体を引いていく。密着し、一つに馴染んだようだった粘膜が再び二つに剥がされる、痛みに藤真は顔を歪める。
「んっ、クッ……あぁっ、ぁんっ!」
 牧は再び体を進めながら、藤真の性器を掴まえ、鈴口を割り開くように愛撫した。反射的に体が跳ね、体に埋まった牧のもので内部を強く抉られる。
「ひっ、あんっ、あ、あ、あぁっ…!」
 前を扱かれながら一定の調子で突かれ続けるうち、じわじわとした快楽が体の内から生まれていた。指で刺激されたときほど強烈ではないが、あちらは意識が飛びそうなほどだったから、今のほうが丁度いいのかもしれない。
「気持ちいいか?」
 完全にそう確信しながら問うているであろう、牧の背中を強く掴むように指先を立てた。そう単純な快感ではない。体を穿たれ、激しく揺さぶられる苦しさが潰えたわけではないのに、この男は身勝手で呑気で──単純で愛らしい。藤真は掠れる声で囁いた。
「いいよ…」
 いかにも作った風に上ずってしまった声は、しかし牧には至極甘いものとして届いていた。尻尾を振る犬のように喜んで、なおも行為に没頭する。

 荒らぐ息と肉のぶつかる音を聞きながら、揺さぶられ掻き混ぜられるうち、藤真も余計なことは考えなくなっていた。脚を絡め、腰を揺らして相手に応え、自らもこの行為を愉しんでいた。
 早い動作を繰り返し、一旦緩め、再び元まで戻して──そうして快楽の時間を引き延ばしていたが、牧はついに藤真の耳に唇を寄せて呟いた。
「ふじま……もう、限界みたいだ」
「ふ…オレも……」
 ちゅっと軽いキスをして、牧は抽送の速度を上げていく。これまでとは異質な速さと激しさで腰を打ち付けられ、逞しい褐色の体躯に組み敷かれた白い体がベッドの上で力なく上下する。快感を得る道具にされているようだと感じると、なぜだか最高に興奮した。
「あんっ、あ、あぁっ、んっ…!」
「藤真…出すぞっ…」
 視界が潤み、牧の顔もだらしなく歪む。
「ぁんっ…いっ…ナカ、出して…っ! ん、あぁぁぁっ…!」
 働かない頭で思いつく限りの卑猥な言葉を吐くと、潰れそうなほど強く抱き締められ、幾度も乱暴に最奥を突かれながら、欲望の爆ぜる衝撃を感じていた。
(熱い……牧の……オレの中に……)
 牧が自らの中で果てた事実に、何かを成し遂げたような満足感を感じながら、藤真もまた達し、自らの精液で腹部を濡らしていた。

 シーツの中で藤真の体を大切そうに抱えながら、牧はゆっくりとした口調で語り出す。
「初めて会った日から、すごいインパクトだったんだ。巧さだけじゃない、独特の空気みたいなもんを持ってるやつだって。だがそれはあくまでプレイヤーとしてだった……と思う」
 なぜ唐突に昔話を始めたのだろうと思いながら、藤真は黙って牧の腕の中に収まっていた。気分は気怠く落ち着いている。
「いつからか、バスケとか関係なくお前のことが気になってたんだと思う。今日だって、会場のあんな会話だけで別れるのが惜しかったんだ」
 藤真は長い睫毛を揺らしてぱちぱち瞬きするばかりで何も言わない。口数の多い彼にしては不思議な反応に感じられたが、嫌がってはいない様子なので話を続ける。
「その、こういうことになるとは、想像もしなかったんだが……きっと、きっかけがなくて気づかなかったんだな」
 藤真に言葉を導かれたあとは、自分の気持ちを疑うことはなかった。これまでそういった意識や衝動が生まれなかったのが不思議なくらいだ。
「なにそれ、言い訳? 後悔してる?」
「するわけないだろう。……藤真、なんだか随分と素っ気ないな。もしかして嫌だったのか?」
 少し前までは名前を呼び合いながら情熱的に抱き合っていたと思うのだが、衝動に突き動かされていたばかりで、最中に冷静だった自覚もない。途端に不安になって藤真の顔を覗き込んだ。
「違う。終わったあとってテンション下がるだろ、賢者タイムってやつ」
「そうなのか、俺はあんまりそういうのはないんだ」
 話には聞くが、牧にはほとんど自覚したことのない感覚だった。
「まじで? どういう体質してんだよ」
「体質なのか?」
「メンタルか? どっちでもいいけど」
 それきり藤真は黙ってしまった。今は話さないほうがいいのだろうかとも考えたが、今以外のタイミングもないだろうと再び口を開く。
「なあ藤真、俺はこれからもっと、お前のことを知りたい。バスケ以外のことも」
 言って、藤真がしてくれたように、指と指を交互に絡ませて手を握った。藤真はその手を見つめ、少し強く握ったり、力を緩めてみたりしている。
「そんなにいろいろあるかな」
「あるさ。一緒に居たら、俺が勝手に見つける。だから藤真」
 言葉を切ったのは、珍しく怖れを感じたせいかもしれなかった。しかしもはや気持ちに偽りも迷いもない。深く息を吐いて、ゆっくりと吸う。言うしかなかった。
「俺と、付き合ってくれ」
 恐いくらいに張り詰めた、真剣な瞳の先の表情は、それを受け止めて包み込むように柔らかく微笑む。そしてごく簡単なことのように言った。
「いいよ。……よろしく」
 羽根のようなキスが呼吸を奪う。その儚げな感触に浸るように、牧は視界を閉ざした。

きみを知った日 2

2.

 目を覚ますと見慣れない白い天井があって、妙に圧迫感のある頭部の、左のこめかみがずきりと痛んだ。記憶は試合の途中で途切れている。
「藤真!」
 声とともに、よく見慣れた黒縁眼鏡が視界に飛び込んだ。
「花形……?」
 辺りを見回す。白いベッドと白いカーテンの、ここはどう見ても病室だ。花形の他に二年の部員が何人か居て、安堵と緊張の入り混じった、なんとも言いがたい表情をしている。相手選手の肘を受けたきり、記憶は試合の途中で──そうだ、今は試合中だ。自らの置かれた状況を理解しきらないまま、藤真は勢いよく飛び起きた。
「試合! 早く戻るぞ!」
「……」
 沈黙が答えだった。チームメイトが困ったように顔を見合わせ、花形は眼鏡の奥で目を伏せる。
「もう、終わったよ」
 様子から、結果を想像することは難しくはなかった。しかし気づかない、信じないとでもいうように、藤真はゆっくりと首を横に振る。
「オレたちのほうがリードしてた。あのまま勝ったんだろ?」
 声が震え細く掠れる。まだ夏だというのに、病室の寒々しい空気が肌に刺さるようだった。早く戻らなくてはならないのに、花形の腕が体を縛ってベッドから出られない。
 花形は深く息を吐き、重い口を開いた。
「試合は俺たちの負けだ、藤真。夏は終わった、切り替えていこう。傷が大したことないようでよかった」
 まるで子供に言い聞かせるようにゆっくり、はっきりと告げられた事実に感情が伴ったのは、家に帰り着き自室で一人になってからだった。

 翔陽高校バスケットボール部にとって、波乱の夏だった。
 インターハイ・豊玉戦。藤真は二年生唯一のレギュラーにして、早くもエースの座にいた。ポイントガードでありながらチームの得点の半分以上を挙げ、良い雰囲気でゲームを進められると思った矢先──相手選手の肘を頭部に受け負傷退場してしまう。
 エースの抜けたチームは足並みも乱れて逆転負けを喫し、猛バッシングを受けた監督は元々の体調不良に加え、心労のため療養、復帰は未定となった。
「なんで監督が叩かれてんだ、悪いのはあいつだってのに!」
 忌々しげに声を荒げるチームメイトに、藤真は対照的に静かな口調で言った。
「そんなこと言うもんじゃない。言ったって、仕方ないだろう」
「藤真っ……!」
 あの試合の当事者ならば、或いは相手のプレイスタイルについて知っていれば、単純な事故ではないことは明白だった。張本人に宥められ、チームメイトは余計に苛立ちを募らせる。
「俺たちは見てたんだ、奴はお前を狙って」
『黙れ。聞きたくないと言ってる』
 藤真が不快感を露わにして発するよりも、花形が二人の間に入るほうが早かった。
「藤真、先生が呼んでる。行こう」
 その姿を相手から覆い隠しながら、花形は遣る瀬なさに伏せられた藤真の瞳を見た。悔しいはずだ。悲しいはずだ。しかし彼の涙を見たことは未だない。気の強い男だ、一人になったときにでも素直に泣くことができていればいいと思う。
 すぐに後ろを向いてしまった、藤真の背中を押して花形も部室から退散する。いっそ何の疑惑もない事故だったなら。いっそ完全なる敗北だったなら。決して口には出せない仮定と想像が脳裏を巡っていた。
 監督への批判、相手への誹謗、外野からの慰めの言葉、周囲の落胆。そのどれも聞きたくなどないのだと、藤真は言った。あのとき自分が違う判断をしていれば、もっとフィジカルが強ければ、全ては今と違ったかもしれないと、いつまでも考えてしまうからと。
 ならばどうすれば彼は救われるのだろう。託し、期待する側でしかなかった自分に一体何ができるのだろう。
「藤真。その……俺にできることがあったら、なんでも言ってくれ。本当に、なんでもいいから」
「なんだよ、急に。……ああ、それじゃ理科のノートを見せてくれ」

 事前から明言していた者も、そうではなかった者も、三年生の全員がインターハイを最後に実質引退し、翔陽高校バスケットボール部は藤真を中心とするチームに生まれ変わった。
 一年のときからすでに中心選手ではあったものの、今回はそれだけではない。上層部の意向や現監督との契約の問題など、諸々の事情が折り重なって、二年の藤真がプレイングマネージャーとして監督を兼ねることとなったのだ。
 強豪校の異例の人事は近隣の学校でも話題になったが、外部から口を挟めることでもない。選手としての藤真に注目していた他校の監督陣も関係者も、見守るほかなかった。
(オレは、オレたちは翔陽なんだ。今度こそ、皆の期待に──)
 自らを奮い立たせるように頭に浮かべた言葉に、藤真は自ら首を横に振る。
 次の公式の試合はウインターカップ──彼らが〝冬の選抜〟と呼ぶ大会の予選だ。その名の通り本戦は十二月下旬だが、神奈川県予選は九月に行われる。今年のように全員揃ってではないが、インターハイを境に三年の多くが引退するのは翔陽では通例で、一方、大学の附属校である海南は三年も大半が残る。本戦に進めるのは県から一校だ、結果は見えているようなものだった。そのためウインターカップ予選については試合の場数を踏む意味合いが強く、インターハイほどの期待はされていないのが実情で、年度の途中から新監督を招聘しなかった理由の一つでもあった。
(皆のモチベを保つこと。少しでもいい結果になるように努めること……)
 そして何より自分が経験を積むこと。
 同級生も後輩も、大半が協力的な態度を示してくれたことが救いだった。それらに背中を支えられていると感じ、大きな意欲が湧いた。
 しかし、同時に責任も感じていた。重荷でなかったといえば嘘になる。
 新たに学ぶこと、覚えなければならないことは膨大で、余計なことは気にしていられなかった。ショックから立ち直るには丁度良かったかもしれない。
 しかし疲れてもいた。重い瞼に抗って、ベンチで本を抱えながら、ミニゲームに勤しむ仲間を羨ましく眺めたものだった。

 十月下旬、陵南と他校の練習試合の会場。
 二階の手すりに寄り掛かり、藤真は一人──珍しく花形と一緒ではなく──真剣な顔で試合を眺めていた。ルーキーの仙道を始めとする選手たち。ベンチの様子、監督の指示、その意図するところ。これまでとは違う領域の動きも追いながら、少しでも思うところがあればメモを取った。
 ふと隣に、それも赤の他人が並ぶにしては妙に近くに、人が立っていることに気づく。前に傾けたままの姿勢で見上げると、よく見知った大人びた顔があった。
「うおっ、牧! なんだ、声掛けろよ」
 整った眉をぴくりと釣り上げ、小さく不満を表した藤真に対して、牧は飽くまで悠々と構える。
「邪魔したら悪いかと」
 ウインターカップ予選で監督席に座り、ほとんど試合に出ない藤真の姿には、虚脱感さえ感じたものだった。怪我の具合が悪いのかとも思ったが、海南対翔陽戦では後半から出ていたので、おそらく大丈夫なのだろうと思い込むようにしていた。
 試合の後「うちと当たるまで勝ち進むなんて大したもんだ」と素直な賛辞を口にすると、藤真との間に他の部員達が壁のように立ちはだかって、その向こうから「そりゃどーも」と不貞腐れたような声が聞こえた。その場での直接の会話はそれだけだった。
「怪我は、もう大丈夫なのか?」
「お前こそ大丈夫か? 記憶失ってる? 選抜予選、一応対戦したんですけど?」
「そりゃ覚えてるが、フルでは出てなかったし、タイミングが合わなくて声掛けられなかったから気になってた」
「素人がフルで試合出ながら監督やるなんて無理だって。それに、オレが入ってなくてもやってけるチームにしたいって思ってるし」
「春から新しい監督が来るんじゃないのか」
 それは牧の願望でもあった。藤真とのマッチアップを心待ちにしているし、彼がコートで動き回る姿をこそ見たいと思っているのだ。
「どうなんだろうな。どっちにしろ、層は厚いほうがいいだろ」
 遠くを見つめて目を細めた、声は少しだけ投げ遣りなようにも聞こえた。
「……インターハイの。あの試合、俺も見てたし、ずっと心配してた。時間さえ許せば見舞いに行きたかった」
 藤真は苦笑した。
「来なくて正解だろ。自分の立場わかってんのか?」
 牧が少し寂しそうな顔をした気もするが、愛想を振り撒いてやる義理もないので構わず続ける。
「だってそうだろ。順調に勝ち進んだライバル校のやつに会って、傷心のオレはなんて言えばいいんだ? オメデトウって?」
「そんなつもりじゃない。悪気はないんだ」
「ああ、知ってる」
 いつ、どんなタイミングでだって、牧に自分への悪意などないことを知っている。フィジカルの強さや試合中の印象とは打って変わって、彼はコートの外では穏やかで紳士だった。今だとて、友好的な感情以外は抱いていないだろう。
 途端、情けなくなって、牧から視線を外した。
「なんか駄目だな、オレ。お前に八つ当たりしてる」
 こんなことで監督など務まるのだろうか、とは喉の奥に呑み込んで、再びコートを見つめる。次に牧が口を開いたのは、試合が終わったときだった。
「別に、八つ当たりくらいしてもいいぞ」
「え? ……いや、その話はとっくに終わってるって」
 頭の中で前の会話を遡り、あまりに律儀な男に思わず吹き出した。試合中だって話し掛けられても構わなかったのだが、どうにもこちらに気を遣っているようだ。
「そうか……そうだな、藤真、これから忙しいか? よかったらお茶でも」
 不意に。そう、本当に不意に、いつかの花形との会話が光のような速さで頭を過った。
『お前、随分気に入られてるな』
『ヘンなことされそうになったら言えよ』
『なんだよ、変なことって?』
(──つまり、そういうことなんだろうか)
 唐突に浮上した可能性と、それを確かめるための思い付きを、熟慮せずに口にする。
「大丈夫だけど、話すんなら静かなとこがいいな。……そうだ、お前の家はどうだ?」
「うち?」
 牧は面食らって目を瞬く。彼の余裕を失った表情を見られただけで、藤真はにわかに愉快な気持ちになっていた。
「一人暮らしだろ? 無理なら別にいいけど」
「いや、大丈夫だ。少し遠いが」
「平気」

 牧の住居は、シンプルな外観の、比較的新しく見えるマンションだった。
「へえ、綺麗なところだな。ゴミ置き場も散らかってないし」
 途中のコンビニで菓子などを買ったビニール袋を鳴らしながら、藤真は感心したように呟いた。
「別に普通じゃないか?」
「東京でだけど、家族に付いて一人暮らしの物件を見て回ったことがあって。これはハイソなほうだと思うぞ」
「家族? 兄弟とかいるのか?」
「姉がいる」
 牧はまじまじと藤真を見つめ、深く考えずに呟いていた。
「さぞかし美人なんだろうな」
「……似てるって言われる」
 男女の差はあるものの、明らかに血縁者だとわかる特徴と造作をした、見目麗しい姉弟だった。女きょうだいに似ていると言われることを気にした時期もあったが、昔のことだ。
 三階に上り、牧のあとに付いて部屋に入ると、ダイニングキッチンというのだろうか、玄関から続くだだっ広いキッチンの壁にサーフボードが立て掛けてあった。
「牧ってサーフィンするんだ。それで焼けてるんだな」
 藤真はさも納得したというように頷く。
「海南って練習厳しいんだろ? 海に行く時間なんてあるのか?」
「まあ、たまにだな。最初に思ったほどは行けてない」
 サーフィンは昔からの趣味だった。引越しに際し、それについても期待していたのだが、どうやら海南の練習量を甘く見ていたようだ。バスケットにおいては充実した日々を送っているので、不満ではなかった。
「藤真は海行くのか?」
「高校入ってから行ってないかも」
「波乗り、楽しいぞ」
「多分、今までの人生で一度もサーフィンに興味持ったことない」
「そうか……」
 もちろん今も、と言わんばかりに本当に興味がなさそうな様子なので、牧はそれ以上話すことができなくなって居室へ進んだ。
「出た! バスケオタクの部屋!」
 壁に貼られたバスケットボール選手のポスター、レプリカユニフォームやシューズ、本の棚にはバスケットボール専門誌。それに混ざって飾ってある小さなトロフィーも、おそらくバスケット関連のものだろう。部屋自体は片付いていて、学生の一人暮らしにしては広々として見えた。
「皆こんなもんなんじゃないか?」
 ただの遊びで齧っているわけでもない、強豪校のバスケ部員だ、牧の言う通りではあった。
「そうかも。花形の部屋はさ、バスケのやつと勉強の難しいやつが交互に貼ってあって。なんとなくシュールで笑ったな」
 唐突に登場人物を増やして思い出し笑いをする藤真の言葉に、いつも彼の近くにいる長身の黒縁眼鏡を思い出す。
「花形……確か、センターの」
「うん、デカいメガネのやつな。あいつバスケもうまいのに、めちゃめちゃ頭良くて学年一位とか取るんだ。やばいよな」
「仲いいんだな」
 チームメイトならば部屋に遊びに行くことくらいあるだろう──あるのだろうか? 牧の感覚に照らせば珍しいことに思えたが、現に今こうして他校生の部屋にまで来ているのだし、藤真はそういうタイプということなのだろう。
「一年のときから同じクラスでさ、最初のとき席順が一志、花形、オレ、て並んでて。背でかいしバスケやってんのかなーって……いや、なんで花形の話?」
「お前が言い出したんだろう。まあ、座ってくれ」
 ようやく話題に疑問を感じたらしい藤真に、牧は一人掛けのソファを勧めた。基本的に人を呼ぶことを想定していない部屋のため、テレビ、ローテーブル、今示したソファと、ソファの右手側にベッドがあるくらいで、客人を座らせる場所はごく限られていた。
 藤真はコンビニ袋を傍らに置いてソファに座ると、リモコンを手にして勝手にテレビをつける。
「今なんかやってたっけなー」
 興味なさげな表情でチャンネルを切り変えていく藤真に適当に相槌を打ちながら、牧は自分の部屋で藤真が寛いでいるという光景を、至極不思議な気分で眺めていた。
 そこにあるはずのないものがある、違和感、あるいは現実味のなさというのか。
 知人というほど他人ではないが、友人と呼ぶほど気の置けない仲でもない。連絡先だってまだ知らない。それでいて、一番大切なこと(言わずもがなバスケットのことだ)に向き合うときにはいつだってその存在を意識している。いわば藤真は特別だった。
 そんな人物が、唐突に懐に飛び込んできたというのが今の状況だ。決して悪い気分ではないが、なんとも落ち着かない、危うい気配を感じなくもない。
 藤真は適当なところにチャンネルを据え、コンビニ袋から飲み物と菓子を取り出して外装を開くと、訝しげな顔で牧を見上げた。
「なんでずっと突っ立ってるんだ? オレがソファを乗っ取ったせい?」
「……いや、少し考えごとをしてた」
 のんびりとした答えに軽く吹き出しながら、菓子の個装を破く。
「牧って結構天然だよな」
「そんなことないと思うが」
「はいはい。……ん、これうまい。ほら」
 牧がソファの背凭れの後ろを通り過ぎようとすると、整った面が不意にこちらを仰ぎ、濃いピンク色のポッキーが一本突き付けられる。半ば口に押し込まれながら受け取って咀嚼すると、苺の爽やかな酸味と甘みが口の中に広がった。
「ちょっと高いポッキー。牧って甘いの好き?」
 食べさせてからそれを聞くのか、順番が逆ではないのかと思わなくもない。
「むしろ、嫌いな食べ物が思いつかないな」
「お、いいじゃん。好き嫌い多いやつって一緒にいてめんどくさいからな」
 中性的で優しげな顔立ちに、天使と形容される微笑を浮かべながら明け透けな物言いをするものだから、つい面白くなって笑ってしまった。
「なんだよ?」
「いいや。なんでも」
 ついでに、平時でないとき──バスケットをしている最中などはまた違う顔を見せてくれるのだが、それはまた別の話だ。
 牧は藤真の座るソファの右斜め前まで移動して床に腰を下ろした。そうすると、丁度ベッドに背中を預けて座ることができる。
「……」
 特別面白いとも思えないテレビ番組を眺め、藤真の顔を盗み見ると、目の前にポッキーの箱が差し出された。そういう意味ではなかったが、と思いつつ一本頂いて口にする。少し酸味が強いか。
「藤真、話ってのは一体?」
「こっちのセリフだろ。静かな場所をリクエストしたのはオレだけど、先にお茶に誘ってきたのはお前だ」
「あー……、あぁ……」
 そう言われればそうだったかもしれない。いや、そうだった。牧は気まずい気分で呻いた。そして実際のところ、話というほどの話はない。久々に会えたものの試合中は静かにしていたから、もう少し雑談でもしたいと思った、それだけだった。
「だからさ、そういうとこが天然なんだって」
 藤真はさも愉快そうに笑っているが、特に理由もないのに家に連れてきてしまったと言ったら怒られるだろうか。話題を探そうにも、試合会場でのことを思えばインターハイについてはやめておいたほうがいいだろうし、それと密接に絡んでいると思われる、翔陽バスケ部の現状や監督の件にも触れにくい。
(しかし、バスケ以外の話題なんてますます無いような気がするな)
 そこまで考えて、愕然としてしまった。それなりに知った間柄だと感じていたのに、バスケットを除いてしまえば、二人の間には何の所縁もないのだ。
 初対面は練習試合だったし、その後顔を合わせる機会も全てバスケット関連だった。互いにバスケットを主目的としてその場に居たに過ぎないのだ。牧にとっての藤真の存在が、他の選手と一線を画すものであることもまた確かではあるのだが──
「あのさ、もしかしてなんだけど」
 ゆっくりと、淡々とした口調だった。見遣ると藤真もまたこちらを見ていたが、表情にはつい先ほどまでの穏やかな笑みはない。感情を察せない整った顔貌はまるで作り物のように綺麗で、牧は無性に落ち着かない気分になった。
「な、なんだ?」
「牧って、オレのこと好き?」
「……!?」
 言葉は、シンプルであるほどに力を帯びるのだと思う。たった二文字のそれに想定外の衝撃を受け、牧はしどろもどろに答えた。
「いや、まあ、嫌いな相手を部屋に上げようとは思わないというか……」
 脈拍がおかしい。体温もカッカと上がって、握った手の中に汗が滲んだ。一部で帝王などと呼ばれていても、彼はコートの外では至って温和で、普通の少年らしい面も持ち合わせていた。
「そっか。そうだよな」
 藤真は小さく頷くと、視線をテレビに戻してポッキーを口に咥えた。
「……」
「……」
 二人の間にはテレビの音と小さな咀嚼音だけが流れていたが、牧の頭の中には藤真の言葉が何度も繰り返されていた。
『オレのこと好き?』
(それに対して俺はなんだ、なんて言った)
 がしがしと頭を掻く。今感じているものは、〝嫌いではない〟という程度の消極的な感情ではないはずだ。
 このまま流してしまえば、二人はいつまでもバスケットだけで繋がっている間柄だ。いや、それでいいのではないか、一体藤真とどうなりたいというのだ、そもそも彼の発言の真意はなんだ。
 混迷を極める内心に反して、口調は案外と落ち着いていた。
「待て藤真。好きってのは一体どういう意味で」
「……こういう意味」
「!!」
 藤真はソファから体をずり落として牧のそばに膝を付き、その手を掴んだ。握られていた拳を丁寧に広げて手のひらを重ね、二人の指の一本一本を互い違いに組んで握る。握手とは呼べない、男の友人同士ですることでもない、いわゆる恋人繋ぎというものだった。
「オレの勘違いなら忘れてくれ」
 無言の牧に対し、藤真は軽い調子で言って手を離そうとする──が、離れない。がしりと掴まれた手を自分のほうに引き戻そうとしても、びくともしなかった。牧はといえば、きまり悪そうに視線を泳がせている。
「その、そうだな、確かにお前のことは好きだ……が、具体的なことについては全く考えたことがなかったというか……」
 握ったままの熱い手のひらが、答えのようなものだった。
(照れてんのかな、これ)
 藤真は俯き、前髪に目元を隠しながらほくそ笑んだ。牧の目には、弧を描いた薄い唇が、ひどく色めいて映っていた。
「なら、試してみるか? 具体的なこと」
 顔を上げて目を細め、愉しむように微笑した、その表情に〝小悪魔的な〟という形容が浮かんだときには藤真の顔は随分と接近していて、牧は状況を理解するより先に目を閉じていた。
「……!」
 唇の感触は柔らかく、ごく優しいようなのに、体の芯に電撃が走ったようだった。もはや否定しようのないものを自覚しながら、藤真の背中に腕を回し、その身をしっかりと抱き寄せる。触れるだけだった唇を吸い、深く重ねた。
(甘い……)
 唇を割って舌を差し込み、柔らかな口腔内を探り、藤真の舌に触れる。応えるように蠢き絡みつく感触が淫靡だった。
 小さな頭を手のひらに包むように撫でると、柔らかな髪のさらさらとした感触が好くて、このまま腕の中に閉じ込めて大切に触れていたいと思えるのに、心臓はうるさく、呼吸は荒く乱れ、肉体は逸って熱い血を滾らせている。
「んっ…」
 藤真は苦しげに息を漏らす。一瞬唇が離れても、追い縋るようにまた塞がれる。最初は触れて撫でるだけのようだった行為が、深く喰らいつき貪るように変貌していた。
 牧の気持ちを探った理由は〝本当にそうなのか気になった〟それだけだったと思う。結果を蔑もうと思ったわけでもない、単純で純粋な興味だったはずだ。
 しかし彼の言葉を引き出したとき、藤真の中に確かな、そして多大な悦びが生まれていた。恋愛が成就した感覚とは違うと思う。想像が的中し、思い通りの展開になった嬉しさ。そしていつも自分の前に立ちはだかるこの完璧な男が、自分にただならぬ想いを寄せているという事実への、少し歪んだ陶酔感だった。
 今、牧に求められ喰らわれそうになっていることに、間違いなく興奮している。男を相手に体の中心が熱く疼き、自分の身が得体の知れないものになったようで恐ろしくもあった。
(それにしても)
「……はぁっ」
 思い切り顔を背けて長い長いキスからようやく逃れ、藤真は大きく息を吐いて思わず笑った。
「キス、好きなのか?」
「違う。お前のことが好きなんだ」
 もはや迷いなく言い放った、牧の表情は恐いくらい真剣で、瞳は肉食の獣のように鋭くギラついていた。好きだなど言われ慣れた言葉だろうに、重く臓腑に響くようで目眩がした。危うい心地は紛うことなき快楽だ。
 逃す気などないというように両の手首を捕らえられながら、藤真はあくまで柔和に笑い、すっかり牧の体に密着している自らの脚を僅かに動かした。腿に、硬い感触が擦れる。
「そうみたいだな」
「す、すまん……」
 謝りながらも離れる気配の見えない、牧の内情を想像しながら、藤真は逞しい首筋に額を埋めて小さく笑った。この先は経験したことのない領域だが、不思議と迷いはなかった。
「いいよ、オレも同じだし。……やっちゃう?」
 軽い調子で言って牧の顔を覗き見ると、ごくりと喉の鳴る音が聞こえた。

きみを知った日 1

1.

 痺れるように、鮮烈だった。
 動きの硬い選手たちの隙間を縫って、スピードに乗った小柄な体躯が飛び込んでくる。まっすぐこちらを向いた造作は少女めいていながら、大きな瞳の奥にギラギラとした光を湛えていた。心臓を射抜かれたような、このインパクトはなんだ。
「……っ!?」
 反応が遅れた、否、動きを読めなかったのか。しなやかな風が身体の脇を抜けていく。
(巧いっ!)
 やられた、振り返るまでもなくそう確信していた。
「牧が抜かれた!」「まじかっ!」
 海南ベンチの動揺の声。小気味良い踏切と、ボールがゴールを通る音。
「藤真ぁ! 決めたァ!」「やった、すっげえ!!」
 そして翔陽側の歓声とが牧の鼓膜を震わせ、しかしそれすらすぐに意識の外に追いやられる。
「っしゃあ!」
 藤真と呼ばれた少年は拳を握ってこちらを顧みると、瞳を細めて挑発的に笑った。つい先ほど交代で入った、周囲と比べて随分と小柄で華奢ではあるが、強い存在感のある、華やかな毒を感じさせる男だった。
 チームメイトが牧の背中を叩く。
「あいつも一年だってよ、牧。練習試合だからって手ェ抜いてんなよ」
「ああ……もちろんだ」
 今日の練習試合は両校の一、二年によるトライアル的なもので、牧もその重要性は理解しているし、手を抜いたつもりはなかった。翔陽にもいいポイントガードが入ったようだと試合前に聞いたが、藤真のことだろう。牧は確信とともに口元を歪め、愉快だと言わんばかりに微笑した。
 藤真の入った翔陽は、全く別のチームのようだった。レギュラーも固まっていないこの時期の試合、チームワークが心もとないのはお互い様だ。それでも皆が藤真に期待を寄せ、彼の投入によってこの試合に勝てるかもしれないと思い始めたことで、チーム全体の動きが良くなった。勝つことにはフィジカルのみでなくメンタルも非常に重要だ、牧は若くしてそれをよく知っていた。
 牧が肌で感じるものとそう遠くないことを考えながら、海南の監督である高頭はトレードマークの扇子を扇いだ。
 翔陽の勢いは感じるものの、そう簡単に逆転を許しては海南ではない。チームを鼓舞する藤真の存在に、牧もまた闘志を煽られ調子を上げていく。練習試合、さらに互いに一年同士とは思えないハイレベルなプレイに、チームメイトもギャラリーも大いに湧いていた。
(二人とも、随分と楽しそうにプレイするもんだ)
 まるで大きな子供だ、いや年齢的にはまさしく子供か、と高頭は頷きながら顎を掻いた。
(無論、遊びに来たわけではないのだがね)

「ありがとうございました!」
 試合終了の挨拶をするや否や、藤真は大袈裟に息を吐いて体育館の床にへたり込んだ。さほど暑い日ではなかったが、すっかり汗だくだ。
「おい藤真、大丈夫か?」
 すぐ隣に立っていた長身の黒縁眼鏡の一年──花形が慌てて屈み込む。
「大丈夫、疲れただけだ。少し休ませてくれ」
 無理もないと頷くと、花形は友人のことを気にしつつも体育館の片付けに加わる。
 翔陽サイドが軒並み絶望するほど、牧はシンプルに強かった。飛び抜けて上背があるわけではなかったが、鍛え上げられた肉体は彼を実際よりも大きく、立ちはだかる壁のように見せていた。見掛け倒しなどではないパワーと巧さもあり、弱点らしい弱点が見えない。藤真はそれに対して唯一渡り合っていたように見えた。気が強いようでいて無性に庇護欲を掻き立てる、この友人の試合での強さに、花形は正直なところ驚いていた。

 チームメイトから受け取ったタオルで汗を拭う藤真に、歩み寄って来る者があった。床に落ちた薄い影を辿るように目線を上げると、見慣れないバスケットシューズ、筋肉質な浅黒い脚、黄色と紫のラインの入った白のユニフォームが順に視界に入る。これは海南の──
「よう、お疲れ。楽しかった」
 予想通り、牧だった。おおよそ高校生には見えない落ち着いた面立ちに、湛えた笑みと言葉からそこはかとない余裕を感じて、藤真は眉間に皺を寄せたがその口元は笑っていた。
「ほんとに疲れた。一年だろ? 一体なに食ったらそうなるんだよ」
 花形にもまるで同じ台詞を言ったことがあるが、牧については食べ物や遺伝だけではないように思えた。ウェイトトレーニングでもしていそうな見事な肉体だ。
 座り込んだままこちらを仰ぎ、愛らしい外見には不似合いな、いかにも男子然とした、横柄ですらある口調で言った藤真に、牧は不思議そうに返す。
「肉とか?」
「そういうことじゃねーよ」
「?」
 愉快そうにカラカラ笑い、ぐるりと辺りを見回し、再びこちらを見上げた藤真の動作に、リスの類の小動物を想像する。
「すぐ帰る? あっちで少し話さないか? 牧くん?」
 藤真の視線の先には、中庭に向かって開け放たれた白い扉があった。初対面の対戦相手から親しげにされることの少なかった牧は、意外な申し出に驚きつつも口元を緩める。ここは翔陽の体育館だ。皆長居はしないだろうが、多少の時間はあるだろう。
「そうしよう。あと、呼び捨てでいい」
「じゃあ行こうか、牧」

「はー……」
 扉を出ると、藤真はコンクリートの階段に座り込んだ。外から体育館の中へと吹き込む風が、汗を掻いた体に清々しく心地よい。牧も倣って隣に腰を下ろす。一回りも大きさの違う、二つの背中が横に並んだ。
「話ってのは?」
 牧は隣を見遣り、思わず動きを止めた。体育館の中が特に暗いとも感じなかったが、明るい陽の光の下で、藤真の肌色は随分と白く見える。肌だけでなく髪の色も明るいために、全体に柔らかい印象になるのだろう。曲げた膝に肘を乗せ頬杖をついて、長い睫毛の下、色素の薄い瞳が気怠げにこちらを見た。
「ん?」
 瞳だけだったものが、顔ごとこちらを向いて不思議そうに瞬きをする。試合中はそれどころではなかったが、中性的に整った顔貌は誰が見ても美少年と呼ぶであろうもので、ハーフかクォーターか、少しばかり日本人離れした印象も受けた。
「牧って、ハーフかなんか?」
 今自分が思っていた通りのことを藤真の口から聞いて、牧は面食らう。思えば、自分も言われないことではなかったのだった。
「ガタイがいいし、色が黒くて、髪も茶色。あと、年より上に見える」
「日本人だぞ。色は地黒と日焼けだ。体は鍛えてるからな」
「そうなんだ」
 言ったきり藤真は正面を向き、ゆっくりと目を瞬いた。
「聞きたかったことはそれなのか?」
 別にそれでも構わなかったが、妙な男だとは思う。
「そういうわけじゃないけど。なんか、陽に当たったら眠くなってきた……」
 藤真は膝を抱え、自らの二の腕に頬を寄せて、首を傾げながら牧を見つめた。瞳はいかにも眠そうにとろんとしている。彼は自分に女性ファンが多いこと、特に〝かわいい〟と言われることを厭わしく思い、警戒しているのだが、相手が男と思うと無防備になるふしがあった。
 なんとなく不健全というか、退廃的というか、あまりよろしくない気配を感じて、牧は少年から目を逸らし正面を見据えた。
「そうだ、牧って中学は神奈川じゃないだろ」
「ああ、東京から。監督じきじきに声を掛けてもらってな」
「だよな。お前みたいなのが県内にいたら知らないわけないと思った。じゃあ、寮暮らしか」
 海南の寮や牧の私生活に特別興味があるわけではない。ただの雑談だ。適当に時間を潰して涼みながら──ライバル校との交流を盾に、体育館の片付けをやり過ごしたいだけだった。まだあまり真面目でない翔陽のホープの気まぐれに、牧は巻き込まれたに過ぎない。
「いや、一人暮らしだ」
「は? 高校生で? 下宿とかでもなく?」
「ああ。やっぱり珍しいのか?」
「知らないけど、身近で聞いたことないぞ。なんで? 寮が汚いとか?」
 牧は苦笑した。友人に連れられて海南の男子寮に行ったときのことを思い出すと、少なくとも藤真はあの場所には馴染まないように思えた。
「親が学生のころ、寮でいい思いをしなかったらしい。それで部屋借りてやるからって。俺はどっちでも構わなかったんだが、一人のほうが落ち着くだろうかと」
「へえ、オレは絶対無理だな。朝起きれなそう」
 高校生離れしたプレイをする男は、外見も、そして生活ぶりまでも高校生離れしているのか。藤真は大雑把に納得しながらうんうんと頷いた。
 と、二人の頭上から声が降ってくる。
「おい牧、そろそろ行くぞ」
「あ、はい!」
 海南の二年生だ。牧は慌てて立ち上がり、藤真もゆるゆると立ち上がる。
「それじゃ、また」
「ああ、引き止めて悪かったな」
 一旦言葉を切り、思い出したかのように続ける。
「牧、次のときはオレが勝つからな。ちゃんとレギュラー獲れよ」
 眠気が覚めたのか、その面にはコートの上で見せた挑発的な微笑が浮かんでいた。牧もまた、応じるように不敵に笑って頷く。
「そっちこそ」 

「牧、あの子となに話してたんだよ」
 翔陽からの帰り道、先輩の一人に二の腕を小突かれた。あの子とは藤真のことだろうが、突っ込まれるとは思っていなかったので、牧は思わず目を瞬いた。
「そうそう、俺が見に行ったときなんて、二人見つめ合ってたぜ」
「俺が行ったときはなんか熱血な話をしてたよな」
 最後に言ったのは牧を迎えに来た二年だ。確かにあのときだけは試合の話になったが、他は他愛のない雑談だったから、牧は唸ってしまう。結局藤真は何が言いたかったのか。
「なんだよ難しい顔して」
「いえ。中学がどこだったとか、ありがちな雑談です」
「藤真は県内勢? 一年、知ってるやついる?」
「覚えてないっすねえ。まあ中学だと強い学校じゃなかったのかも」
「俺、大会のとき、なんか妙に可愛い子がいたっていう記憶だけあるな。髪もやっぱ茶色くて。女子マネかと思ったら選手だったという」
「あー、正直かわいかったな。翔陽の奴らみんなデカいのに小さかったし」
「汗掻いてるとこちょっとエロいと思った」
「正直抱ける」
 同級生なのか先輩なのか、途中から把握してはいなかったが、好き勝手に語られる無礼な話題に牧は眉間に深い皺を刻み、苦々しい顔をした。同じコートに立つプレイヤーに対して、あまりに無礼で下品な話題だ。
「おい牧、冗談だぜ?」
 さすがに周囲も牧の様子に気づき、話題は自然と他のことに移っていった。

 牧と藤真が顔を合わせる機会は、二人が全く想像しなかったほどに多かった。
 県でトップを争うライバル校の、同じポジションの一年として、初対面の日以来互いに意識はしていた。しかし試合中以外は敵対心もなかったから、他校の試合などで相手の姿を見つければ、どちらともなく声を掛けた。じき、地域のバスケットボール誌で互いのコメントを目にすることや、二人セットで取材を受ける機会も発生した。友人と呼べるかは微妙なところだが、もはやただの知人と言えない程度には互いのことを知っていた。

 自販機といくつかの机と椅子と、とってつけたような観葉植物の置かれた、休憩コーナーの一角だった。
「高校のバスケって、こういう感じなのか?」
 女性記者の取材から解放された藤真は、いかにも不愉快そうにどかりと椅子に腰掛けた。彼はバスケットの話ならば喜んで取材に応えたが、外見だの彼女だのといった話題を振られると途端に機嫌が悪くなる。今の取材もそうだった。
「地方誌らしいし、話題が少ないんだろう。よく知らんが」
 適当に相槌を打ちながら、牧は自販機に向き直った。
「バスケ関係ないじゃん。くだらねー」
「なんか飲むか?」
「コーラ」
 藤真は目を据わらせて、自販機のボタンを押す同輩の広い背中を眺めた。確かに高校生らしくはないが、牧だとて自分と並んでバスケ部のイケメン特集だのに取り沙汰されるほどに整った容貌をしている。それなのに、自分との環境の違いはなんだ。
 牧は写真で見ればいい男でも、実際対面すると威圧感があって恐いのだと、女子から聞いたことがある。海南そのものが恐いとも言っていた。だからキャーキャーうるさいファンはいないし、可愛いとも言われないし、おそらく男から嘗められることもないのだ。
 行儀悪く上体を机に伏せ、飲み物を買って戻ってきた牧を目だけで恨めしそうに見上げる。
「オレもいかつい見た目になりたかった」
 牧は淡い栗色の髪の流れる、中性的な顔貌の横にコーラの缶を滑らせた。
「別に、得することなんてないぞ」
 続けて「今のジト目可愛いな」と言おうとしたが殴られそうなのでやめて、「ファンが悲しむぞ」と言おうとしたがやはり怒られそうなのでこれもやめておいた。

 花形は一人、会場の廊下を歩いていた。一緒に試合を見に来た友人は、ライバル校のライバル選手と共に記者に攫われてしまった。自分も取材を受けたいと思うわけではないが、彼らとの格の違いを思い知らされるようで少し堪える。
(あいつらはレギュラー確定みたいなものだからな。俺もがんばらねば……)
 そんなことを思いつつ歩いていると、休憩コーナーによく知った姿を見つけた。
「藤真、こんなところに居たのか」
「おー、花形。おせーよ」
「もう帰ったのかと思ってた」
 牧の姿はない。こちらはすでに帰ったようだ。それから藤真を凝視する。
「珍しいな。アイスなんて食べて」
 そこに見える自販機で買ったのであろう、円筒状の棒アイスだ。彼が甘いものを比較的好むことは知っている。そして、人前では進んで食べようとしないことも。
「牧が買ってくれた」
 花形は脱力した。「知らないおじさんから食べ物をもらうんじゃない!」と言いたい気分だったが、牧のことは知らなくはないしおじさんでもない。
「お前、随分気に入られてるな……」
 わからないことではなかった。藤真は魅力的な人間だ、相手が他校生だとてそれは同じことだろう。それにしても少し目に余る気がする。
「オレが機嫌悪いからめんどくさくなったんだと思う」
 花形も藤真から取材の愚痴を聞かされたことはあった。今日もそんな調子だったのだろう。しかし、だからといって、単なる知り合いの機嫌を取る必要などないのだから、牧が藤真を気に入っていることには間違いはないのだ。
 心配だ。だいたい藤真もよくない。黙っていても人が寄ってくるのに、自分から牧に話し掛けに行ったりするから──花形はもはや藤真の保護者のような気持ちだった。
「……まあいいが、ヘンなことされそうになったら言えよ」
「なんだよ、変なことって?」
 わざととぼけているのだろうかと、花形は怪訝な顔で藤真を見つめる。藤真はすでに花形の言葉から興味を失って、食べ終わったアイスの棒をくず箱に投げ入れようと狙いを定めている。
「何事もないなら、それでいいさ」