その表情カオの理由を教えて 3

3.

 牧の住むマンションの居室。どうということもない1DKの一室だ。牧は藤真をソファに座らせて飲みものを出すと、雑誌のラックの中から一冊を引っ張り出し、目当てのページを開いてローテーブルの上に置いた。
「これが一年のとき」
「いやっ! おっさんっ! お前今より老けてんじゃね?」
 目に飛び込んだ写真を見るや否や、藤真は声を上げて笑った。
「俺のことはいいじゃないか」
 ほかに何冊か見繕ったものを並べて置くと、それに向かうように床にあぐらをかいて眉間に皺を寄せる。今は自分の話ではなく藤真の話をするつもりなのだ。
「え、まあオレもちょっと今より子供だけどさ、お前のせいで余計子供に見えるんだと思う」
 ツーショットではなく個別に撮られた写真だが、同じページにあるせいで、どうしても一度に目に入る。前髪にボリュームをもたせたリーゼントスタイルの牧と、短い前髪の下に華やかな目もとの際立つ、少女にさえ見える藤真とは、到底同級生には見えなかった。
「俺のせい?」
「そうだよ? 自覚ねえのかよ」
「ないってわけじゃないが……」
「髪型もさ! なんで? ポリシーとか?」
「気合が入るんだ」
「好きでやってんなら別にいいけどさあ。髪型のせいで余計おっさんに見えるんだよな」
「……」
 容赦のない言葉が牧の柔らかな部分にぐさぐさと突き刺さる。あだ名が〝お父さん〟だった小学生のときから、自覚はあったつもりだ。しかし藤真からここまで言われたことは今までなかったと思う。
(もしかして、今までも同じように思ってて、気を遣ってたのか……?)
 藤真は特にバスケットボール関連の場所では、自らの容姿の話題を好まない傾向があった。だから牧の容姿についても多くは語らなかったのかもしれない。
「おーい? 怒った?」
 牧はがっくりと肩を落として、怒っているというより、明らかに落ち込んでいる。藤真もさすがに焦り、慰めるように肩をポンポンと叩いた。
「ごめ、ごめんって。記憶喪失のやつに言われたことなんて気にすんなよ」
(記憶喪失だったら、むしろものすごく率直な感想だと思うんだが)
 カラオケの個室で、藤真自身がそんなことを言っていたはずだ。そして牧の憂いの原因は、自分が老け顔だとあらためて思い知ったことではなかった。
(藤真が俺に気を遣ってたこと、ほかにもあるんじゃないだろうか……)
 彼が自身の経験に基づいて牧に配慮していたことが、これからさらに露呈してしまうかもしれない。自覚していることならまだいいが、虚をつかれる可能性だってある。牧は身震いした。ものすごく恐ろしい。
「別にさ、年上に見えるのが悪いとは言ってないだろ?」
「そうだ、そうだな……」
 まさしくその通り『年上に見えるね』と、かつての藤真は言った。牧はため息をつく。
「んで、これはなんのときの記事なんだよ」
 藤真がろくに読まずに指差した誌面の見出しには、『驚異の新人!』とある。
「一年のときの、夏の地区予選の前だな。お前とはこれより前に知り合ってたから、順調にやってるんだなって思ってたもんだ」
「知り合ったのは、なんのとき?」
「翔陽との練習試合のときだ。もともと一、二年を試すって意図の試合だったが、翔陽はポイントガードに一年を使うかもってのはその前から耳に入ってて、気になってた」
「お前から声掛けた?」
「……と、思う。なんか、声掛けたってあれだな」
「なんだよ、あれって」
「いや」
 高身長の部員たちの中で、藤真の姿は、ひときわ愛らしく周囲の目に映っていたらしい。ごく単純に、同じポジションの一年同士として興味を持って話しかけに行っただけなのだが、ナンパだなんだとあとあと周囲から揶揄されたことを覚えている。
「で、地区大会ってのはどうなったんだ?」
「予選のあとのはこれだな。うちと、翔陽が全国に進んだ」
 牧は別の号を開いてテーブルの上に置いた。
「おお、なんか扱いでかくね?」
 予選の総括記事のようだが、各々の試合中のショットが大きく掲載されている。牧は相変わらずだが、先ほどよりは凛々しく写る自らの姿を、藤真はまるでよく似た他人に出会ったような気分で見ていた。
「神奈川一位、二位のポイントガードが揃って一年だからな。たぶん俺だけだったらそう騒がれなかったんじゃないか?」
「なに、オレのおかげって?」
 藤真は調子よく笑った。以前の彼はプレイへの評価こそ甘んじて受けたものの、雑誌に写真が載ることそのものを喜ぶほうではなかったから、牧は新鮮なような、やはり寂しいような、複雑な気分になる。
「海南で一年レギュラーってのはなくはなかったんだが、翔陽ではお前が初めてだったらしい。その時点で軽く話題になってて、見事結果も出したからな」
「え、オレって実は超すごい?」
「否定はしないが、翔陽の気風もあった。一、二年はあくまで下積み、公式大会では三年を優先して使ってく……って、まあ翔陽に限らずよくあることだが」
「なんで急に変えたんだよ?」
「この年から監督が変わったんだ」
 そして学年にこだわらず実力のある選手を起用していく方針に切り替えた。過去の代を遡れば、藤真のように一年時点から優れていたプレイヤーもいたかもしれない。
「ふーん、ちゃんと監督いたんだな。で、オレのことが気に入ったと」
「……プレイヤーとしてな。周りはざわついてたようだが、ともかく全国行きを決めて、お前への評価も揺るがないもんになった」
「なんだよそれ、揺らいでたのかよ?」
「まあいいじゃないか。でな、ここに」
 記事の中の、牧の指差した部分に視線を落とす。
「『牧と藤真は今後の神奈川の双璧となるかもしれない』か。こっからちょくちょく言われるようになるわけだな」
 牧の顔を見ると、落ち着いた面立ちがニッと笑った。今まで見ていた穏やかなものとは違う、野生的で男らしい笑みに、なぜだかドキリとしてしまった。
「……でもさ、司令塔の役なんだろ? 壁ってイメージちがくね?」
「かべ?」
「双璧って。二つの壁ってことだろ。並び立つ二つの高い壁! みたいな」
 やはりこれは藤真だと、牧は笑ってしまいながら、あらためて誌面の双璧の文字を指す。
「違う、よく見てみろ。これは壁(かべ)じゃない。完璧のペキだ」
「んなもんだいたい一緒だろ」
 むしろ言われても壁にしか見えない。記憶のあったころの自分はきちんと違いをわかっていたのか、はなはだ疑問だ。
「まあ見た目はだいたい一緒だが、意味は全然違う」
「どういう意味なんだよ?」
「優劣つけがたい、一対の宝玉。宝物ってことだな。ほら、〝璧〟の下のところも〝玉〟になってるだろう」
「タマ。ふたつのタマ……」
 藤真は微妙な表情で自らの腰に──股ぐらに視線を落とし、再び牧を見た。
「いいじゃないか、そんな顔をするんじゃない」
「うん、大事なタマなんだな……で、次は?」
「インターハイ、全国に行くわけだが、まあそれぞれやるべきことやってたってくらいだから省略しよう。それから、国体の合同合宿があったな」
「国体? 合同?」
「神奈川代表チームってことで、この年は学校の枠を越えた混成チームだったんだ。お前も選ばれてた」
 個人技に優れるものを集めただけで──急造のチームで満足のいく結果を出すことは容易くはない。期間的にタイトなことも影響して、混成チームとするのは通例というわけではなかった。
「それで? 合宿でふたりの間に事件が!?」
 牧は不思議そうに藤真を見返す。
「ん、なんか思いだしたのか?」
「いや? なんとなく、なんか起こるのかなって思っただけ」
「……」
 眉根を寄せる牧に、今度は藤真が首を傾げる番だった。
「おーい?」
「別に、事件ってほどのことはなかったと思う……ってよりは、国体が混成チームになって、そん中に一年で全国に行ったやつが二人いるってこと自体が事件だった」
 牧は表情を和らげ、穏やかに笑う。
「合宿は普通に楽しかったぞ」
「楽しかった?」
 藤真は目を瞬く。バスケ部の活動に対しては重くシビアなイメージを抱いていたから、牧の口から出た言葉に違和感しかなかった。
「別に遊んでたわけじゃないし、練習は厳しかったが、充実してたっていうかな。単純に、他校のやつらとできたのが楽しかった。もちろん、お前と一緒のチームでプレイできたのも、一緒にボール磨いたり体育館の掃除したのも……今にして思えばってやつなのかもしれんが」
 自ら国体合宿の話題を出しておきながら、今の藤真に伝えたほうがいいような、突出したできごとは思いつかなかった。ただ、同じ部屋に泊まって他愛もない会話をした夜、日中の忙しさや緊張感から解放された、ゆったりとした時間の居心地のよさだけを未だに覚えている。明確な言葉こそ作らなかったが、あのときのふたりは互いに共鳴していたと思う。
 追憶に浸り込みそうになって、かぶりを振るように藤真を見遣った。
「……どうだ、そろそろ思いだしてきたか?」
「全然。ただオレの歴史を学んでるだけって感じ」
「そうか。じゃあ、次は選抜だな」
 すげない返事に対する牧の表情はあくまで穏やかだったが、それでもにわかに空虚感を滲ませたと藤真は感じ取る。もとより人の心の機微には敏感なほうであるうえ、記憶を失っているため、自身が無意識に作り上げていた牧に対する距離感が取り払われているせいだった。
「牧ってさー……」
 しかし常識や一般規範は失せたわけではないから、頭に浮かんだ可能性を即座に口にするには躊躇してしまう。
「なんだ?」
「違っても引かない?」
「あ、ああ、大丈夫だ……」
 老け顔のことがあるので身構えてしまうが、窮地の藤真がわざわざ前置きをして言おうとすることを拒絶するほど、牧は臆病でも狭量でもなかった。しかし──
「牧ってもしかして、オレの彼氏だった?」
「な、ななっ、なんだとっ!?」
「違ったんだ。ごめん」
「なんでまたっ、そんなっ!」
 牧の反応は、記憶のない藤真であっても引っ掛かりを感じるような不自然なものだった。淡い色の大きな瞳が、明確な表情を乗せずに牧の姿を映す。
「なんとなく。他校なのにやたら優しいし、バスケ繋がりのくせにバスケしてなくていいっていうから、それ以上のモンがあるのかと」
 あくまで落ち着いた口調とまっすぐ見つめてくる瞳を、そこはかとなく恐ろしく感じるのはなぜだろう。以前の藤真と、こんな風に向き合ったことが果たしてあったろうか。
「……別に、バスケは無理やりやらせるようなもんじゃないと思ってるし、バスケだけがお前って思ってるわけでもない」
 歯切れの悪い返答をする牧に、対する藤真の表情は変わらない。
「なんかヘンだ。家族とか、同じクラスの友達がそれ言うならわかるけど。お前なんて一番バスケ繋がりでしかないじゃんか。……まあいいや。帰る」
「おい、藤真っ」
 牧は立ち上がった藤真の行く手を塞ぐように、その正面に立ちはだかって左右に腕を開く。藤真は前傾気味の姿勢で、瞳だけで牧を見上げる。不快感というほど強くはない、しかし抗議の色を感じさせる視線だった。
「なに、オレ今日帰れないの?」
「そうじゃない。まだ一年の途中くらいだ」
 言いながら、まだ見せていない雑誌を目で示す。
「いいよ、聞いたって思いだせないし、別にオレはこのままでもそんなに困ってないし」
「っ……!」
 記憶が戻らなきゃ、お前はバスケに復帰できないだろう──そう言いそうになって口をつぐみ、体の脇へ回ろうとする藤真の左腕を右手で掴まえた。
「なんなんだよ、一体」
「いや……」
 まだ整理がついていないのだ。
『オレはもう、お前と同じ位置には立ってられないと思う』
 インターハイ後、藤真が翔陽の監督を兼任していくことが決まったあと、ふたりで会ったときの彼の言葉が脳裏に浮上する。
『そんなカオすんなよ。別に敗北宣言のつもりじゃない。みんな俄然ヤル気になってるし、これからのオレは〝打倒・牧〟じゃなくて〝打倒・海南〟だっていう、それだけのことだ。適性あるらしいし、監督として大成してくオレを見とけ!』
 自分がどういう顔をしていたのか、具体的には聞かなかったし、当然思いだすこともできない。
『……まあ実は、オレもまだ整理しきれてないんだけどな』
 ただ藤真の言葉と、困ったような、寂しげな笑みをよく覚えている。重い唇から、つらつらと言葉がこぼれていた。
「いいんだ、別に、どっちにしたって昔のままには戻らない」
 こんなことは言うべきではないと、正しくないことだと頭の片隅で警鐘が鳴る。そも正しいとはなんだ。それを判断し選択するのは藤真自身ではないのか。
「今のお前がしたいようにすればいい」
「ていう割にさ、帰ってほしくないんだろ。なんでだよ」
 藤真は大きな手に掴まれたままの自らの腕を見る。目もとに不審げな表情を浮かべながら、唇は試すように微かに笑んでいた。
「その、なんだろうな、心配で……」
 自分が藤真を捕まえている格好でありながら、なぜだかその瞳の光に追い詰められるイメージが浮かび、逃れるように視線を泳がせる。バスケットボールのセンスとは別の部分で、藤真は元来人を操ることに長けるタイプの人間なのだろうと、かつて感じたことを思いだす。
「なら、駅まで送ってくれよ。それなら心配じゃないだろ?」
「そういうことじゃない」
「どういうことなんだよ」
 藤真は苛立った声で言い、牧に掴まれた腕をぶんぶんと揺らした。まるで子供が駄々をこねるかのような仕草だが、駄々をこねているのはどちらかというと牧のほうだった。
「記憶がないままで三学期が始まって、お前がちゃんと学校生活できるのかっていう心配をだな」
「そんなのは花形とかオレの周りのやつがなんとかするだろ。お前が気にすることじゃねえし、オレを帰さない理由にもなってない」
「帰さない、とは……っ!?」
 藤真は自らの体を牧の胸にぶつけるように収めた。自由にされている右腕を牧の背中に回し、意味ありげに笑う。
「ふ、藤真? どうした、寒いのか?」
「ぶはっ!」
 藤真は咄嗟に俯いて思いきり吹き出し、そのまま牧の胸に額を押しつけた。
「そうくるか。寒いって言ったら、あっためてくれるのかよ?」
「エアコンの温度を……」
 藤真の肩が震えている。寒いのではなく笑っているのだと、さすがの牧にも理解できた。
「お前、試合の写真だとめちゃくちゃ押し強そうなのに、全然違うんだな」
「藤真、一体」
「手、放せよ。逃げないから」
 掴まえていた左腕を解放すると、それはやはり牧の背に回り、藤真はすっかり牧に抱きついて懐に収まる格好になる。
「藤真っ……」
 肩に手を置いたきり、抱き返しはせず、困惑の声こそ上げたが、力ずくで引き剥がそうとはしない。なぜだろう。藤真は体を縮めて牧の胸に頬を、耳を押しつける。体が熱く、鼓動は速い。思い出などなくとも込み上げる言葉がある。果たして以前の自分は知っていただろうか。
「牧。オレ、お前のことが好きだ」
 肩に置かれた指が、ぎこちなく波打つ。
「藤真、それはっ……!?」
 否定の気配を感じて顔を上げ、言いきる前にキスで唇を塞いだ。明確な拒絶は相変わらずなく、顔を離すまで牧は身を強張らせていた。
「嫌じゃないんだろ?」
 確信して覗き込む瞳から、牧は逃れるように顔を背け、自らを落ち着けるよう息を吐く。
「……お前のこと、そんな風に見たことなかったんだ」
 おそらくそれは違う──藤真は漠然と感じながらも口には出さず、肩に置かれたままの牧の手を掴み、自分の背に回させた。牧はされるがままだ。両方ともそうさせて、駄目押しのように顎を捉え自分のほうへ向ける。
「じゃあ、今からそんな風に見てくれ」
「お前は男だ」
 声も表情もいかめしい雰囲気はあるが、凄みがないのは視線が逃げているせいだろう。顔が赤らんでいるように、見えなくもない。
「NGの理由はそれだけか? いいじゃん別に、そんなの」
 くだらないと言わんばかりに、藤真は腕に力を込めてぎゅうと牧に抱きつく。
「俺たちはそんな関係じゃなかった」
 牧は自らの声を、ひどく白々しいと感じながら聞いていた。相反するように、顎をくすぐる髪の感触は生々しく艶かしく、腕の中の体は布越しにも充分な体温を感じさせる。甘美な誘惑に抗うように、体じゅうの関節が軋んだ。
「オレはこうしてここにいるのに、お前はなにをそんなに守ろうとしてる?」
「は……」
「結局、記憶がないオレが感じてることってのは、お前の知ってるオレのものとは認められないんだな」
「……!」
 失望を感じさせる声とともに藤真の腕が緩み、密着していたふたりの体に隙間ができる。顔は俯けたままで、表情は見えない。
「思い出なんてなくても、オレはちゃんとお前が好きなのに」
「藤真……!」
 堪えられなかった。ずっと抱いていた罪悪感を押し潰すほど膨らんだ愛しさと、つらい言葉を吐かせた苦しさとで何も考えられなくなって、離れようとする体を思いきり抱きしめていた。
「俺もお前が好きだ、藤真……」
 隠匿した衝動だった。風に撫でられる柔らかな髪に、青い空の下で透明感を増した肌に、太陽の粒子を乗せた長い睫毛に、それが作り出す表情の数々に、目を奪われた。触れたいと思った。その先にいたものは、好敵手でも友人でもなかった。
 心臓の音がうるさい。体じゅうの血が沸いている。急激に体温が上がって、服の下の肌にじわりと汗が滲む。
「すまん、藤真……」
「なんで謝る?」
 甘い声だった──痺れていく頭脳が、そう解釈しただけだったかもしれない。期待するように細められる瞳から、逃れることはできなかった。
 上向けられた顎に、緩く弧を描く唇に、吸い寄せられるようにキスをする。唇を重ね、皮膚のみでなく粘膜を合わせ、どちらともなく舌を縺れ合わせる。
「っ……!」
 藤真の手が牧の下腹部を撫で、遊ぶような仕草で明確な欲求の形をなぞる。牧ももはや、衝動に抗う気は失せていた。

 カルキのにおいは時間の経過とともに薄まったのか、それとも鼻が慣れて感じなくなったのか、判断がつかない。男二人が寝るには窮屈なベッドの中で、ふたりは裸で身を寄せ合っていた。
「藤真、あのな……お前は昔、かわいいとか、女みたいだとか言われるの気にしてて、嫌がってたんだ」
 牧は藤真の体を抱え、愛おしげに背中を撫でる。余計なことを教える必要はないのかもしれないが、どうにも藤真を騙すように感じて気が咎め、黙っていられなかった。藤真は牧の肩口に頭を寄せている。
「って言われても、覚えてないし」
「覚えてないにしろ、俺とこうなっちまって、平気なのかと思ってな」
 してしまったあとで言うことでもないのかもしれないが、とまでは言わなかった。
「え? だって別に、キスして体触って、ちんぽ触ったり舐めたりしただけじゃんか。お前、オレのこと女扱いしてたのかよ?」
「んなっ……!?」
 言われてみれば、今日のふたりは〝そこ〟にまではいたっていない。牧は自分が雄の立場であると思い込んで疑っていなかったのだが、もしかして盛大に勘違いをしていたのだろうか。
「ふっ……すげえ、絶望したみたいな顔!」
 藤真は意地悪く笑い、牧は背中に冷たい汗をかく。
「す、すまん藤真、ええと……」
「ウソウソ、平気。なんとなくそんな感じはしたし」
 挿入こそなかったものの、組み敷いての愛撫の格好など完全に男女のようだったし、自分もすっかり喰らわれる感覚になっていたから、文句はなかった。少しからかってみただけだ。
「あと、オレが先にお前のこと『彼氏』って言ったんだしな」
「!! そういえばそうだな!?」
「ヘイ! カレシ!」
 ふざけた口調で言ってくつくつ笑った、愛らしい笑顔にくすぐられる胸がなぜか苦しい。新しい恋人と引き換えに大切なものを失ってしまうのではないかと、押し寄せた不安は柔らかな唇の感触に呑まれて消えた。

その表情カオの理由を教えて 2

2.

 校門を出ると、妙に目立つ人物と思いきり目が合った。
「藤真……!」
 冬でも色黒の肌に茶色の髪。グレー掛かったネイビーの、スーツのような制服がウールのコートの下から覗いている。自分よりずっと年上に見える容貌に、目の下のほくろ。該当する人物に見当をつけるのは簡単だった。
「!! まき……?」
 まさしく花形から聞いた通りの特徴であるし、部室にあったバスケットボールの雑誌で写真を見たので間違いないだろう。雑誌では前髪を後ろに撫でつけていたが、今は左右に自然に下ろしていて、穏やかな印象だ。
「どうしたんだ、練習中なんじゃないのか」
 牧は藤真の姿をまじまじと見て目を瞬いた。藤真は制服の上にコートを羽織って肩にバッグを掛け、完全に帰る格好だ。
「えっ……と」
 まだ午前中で、牧の言う通り、バスケ部のみならず部活のあるところならば確実に活動している時間だ。しかし藤真は帰宅しようとしている。いや、意図としては家に帰ることではなく、部活動を放棄することだった。
「なんか用?」
「用ってわけでもないんだが。交通事故に遭って昨日から部活に復帰してるって聞いたから、顔を見にきた」
「……」
「そんな、変なもんを見るような目で見ないでくれ」
「ああ、ごめん」
 牧は今の藤真にとっては未知の存在だ。変と思ったわけではないが、観察するような目で見ていたことは事実だった。
 しかし牧にとって藤真は既知の存在だ。妙に素直に謝罪を口にしたことと、部活を早退しようとしている彼の行動に、当然の違和感を抱く。
「帰るのか?」
「うん」
「少し話さないか?」
 藤真は眉根を寄せて牧を見る。海南は翔陽の倒すべき相手で、同じポジションの牧と自分は双璧と呼ばれるライバル的な関係だった。しかし険悪な仲ではなく、親しげな様子だったという。牧は少し変わった男だが悪い人間ではなさそうだから、状況次第では記憶喪失のことを打ち明けるのも仕方がないだろう、とあらかじめ花形と話していた。ならばこの状況ではどうするべきか。
「……いいよ。少しなら」

 道中、牧は無言だった。誰が聞いているかわからない場所で記憶がないことを露呈したくない藤真としては都合がよかったが、少し不思議でもあった。
「……」
 ときおり注がれる、訝しむような視線が痛い。牧より後ろを歩こうと努めていることに、おそらく気づかれている。通学路以外の道をまだあまり覚えなおしていないせいなのだが──
(こりゃダメだ。着いたらとっとと吐いちまおう。どこ行くのか知らねーけど)
 やがて牧が足を止めた店の看板を、藤真は思わず読み上げていた。
「カラオケ」
「俺だって学習するんだぞ」
 藤真の周囲は何かと喧しい。会話に聞き耳を立てたり写真を盗み撮りするような不届きな輩がいるので、内容にもよるが、翔陽の近辺で彼と話すときには場所を選んだ。
 藤真はその経緯は覚えていないものの、話したい内容からすれば個室は望むところだったので、何も言わず牧について指定の部屋に入った。L字型にソファが置かれており、入室順の都合で牧が奥に、藤真がドア側に掛ける。
「ジンジャーエールでいいか?」
「うん」
 考えずに返事をして、二人分のドリンクを注文する牧の手と顔とを交互に見る。
(ジンジャーって、オレの好みなんだろうか。牧の好みなんだろうか)
 そのうち、バチリと目が合ってしまった。
「どうした?」
「うん?」
「調子が悪いのか?」
 藤真の早退の理由だ。それに、ここに来るまでの間の様子も気になった。交通事故のあと、初めは問題ないようでも、時間差で異常が出てくるというのは珍しいことではないはずだ。
「……うん」
 否定してほしいと望みながら口にした言葉にあっさり頷かれ、牧は深く息を吐いて額に手を当てた。いや、重いものとは限らないだろう。ゆっくりと首を横に振る牧に、追い討ちのように衝撃的な事実が告げられる。
「オレ、記憶喪失なんだ」
「……きおく、そうしつ?」
 牧はまるで子供のような口調で、辿々しくオウム返ししていた。即座には認められなかったゆえの、反射的なものだった。
「うん。記憶喪失」
「って、あの、記憶がなくなるやつか?」
「それ以外になにがあるっていうんだよ」
 花形とも、ほかの部員とも、遡れば家族とも似たようなやり取りをしたのでわかってはいたが、記憶喪失とは非常に現実味がないものらしい。それでいてフィクションにはありがちなので、認知だけはされている。牧は信じられないというように目を瞠り、自身を指差した。
「だってお前、俺のこと覚えてたじゃないか」
「覚えてはない。オレに関わってきそうなやつのことを花形から聞いてたってだけだ」
 牧は絶句する。そのうちに部屋のドアがノックされ、藤真は店員からドリンクのグラスを二つ受け取って一つを牧の前に置いた。牧が何も言わないので、様子を窺いつつちびちびと喉を潤す。
「覚えてないのか? なにも?」
「なにもっていうか、これはテーブルだとか、カラオケは歌う場所だとか、なんかそういうのは覚えてるけど。自分のこととか、人間関係とかは覚えてない。だからお前のことも、翔陽のバスケ部のやつらのことも知らない……んだけど! これはごく一部にしか伝えてないことだから、絶対言いふらしたりすんなよ!」
「ああ、ああそうだな。わかった……」
 牧は沈みながらもこくこくと頷いた。翔陽の選手兼監督となった藤真がさらに記憶喪失だなど、噂話の好きな連中の格好の餌食だろう。
「なんだよ、そんな凹むなよ。オレは元気なんだから」
 明確に不快感を顔に表した藤真に、牧は戸惑いつつも苦笑した。
「そうだな、健康ならそれで……記憶だってそのうち戻るんだろうしな」
 三十代にも見えるような年齢不詳の顔貌に、なんとも寂しげで悲しげな表情を浮かべる牧を、藤真は不思議な気持ちで覗き込む。
「牧って、オレのなに?」
「え?」
 上目遣いのせいで日ごろより丸く大きく見える瞳から覗くものは、試すような作為ではなく、純粋な好奇心のようだった。知っているようでいて記憶とはどこか異なる藤真の表情に、牧は思わず身構える。
「海南のポイントガードだとか、ライバルっぽいやつっていうのは聞いてるけどさ。もうちっと仲よかったんじゃね?」
「……仲は、悪いとは言わないだろうな。試合の外で揉めるようなことはなかったぞ」
 藤真の疑問を解消したい気持ちはあるが、記憶を失っている相手に、主観でしかない返答はしがたいものだ。牧は唸りながらジンジャーエールを口に含み、牧の内心など知る由もない藤真はその姿にごく呑気な感想を抱く。
(同じのなのに、牧が飲んでると酒みたいに見えるな)
「藤真と俺が仲よかったって、誰かがそういうことを言ってたのか?」
「いやー……」
 花形からは『悪いやつではない』としか聞いていない。誰かではなく今の藤真自身が感じた、直感的なものだった。
「なんも覚えてなくても、そいつがオレのこと好きか嫌いかってのはなんとなくわかるよ。むしろ相手と自分の関係を知らないからこそストレートに感じるものもあるんだろう、って花形が言ってたけど」
 そして牧の反応だ。驚きや戸惑いの色の濃かった部員たちとはまた違って、落ち込んで寂しげに見える。同じポジションの対戦相手というだけのものとは思えなかった。
「す……うーん、なんていうかな」
 牧は引き続き歯切れ悪く、言葉を探すように口もと全体を手で覆っている。
「なんなんだよ。友達?」
 それならそうと言えばよさそうなものではあるが。
「前にそう言って、お前に怒られたことがある」
 お前と友達になった覚えなんてねー! と、単なる軽口として言われただけで、牧も本気の拒絶とは受け止めずに笑って流したものだったが、そんなやり取りも忘れ去られてしまったのか。怪我がないというだけで喜ぶべきなのだろうが、やはりひどく寂しい。
 藤真は怪訝な顔で牧を見つめた。
「お前、なんかオレに嫌われるようなことしたのかよ」
「そんなことしてないぞ。……いや、その、お前はそういうやつだったんだ。意地っ張りっていうか、天邪鬼っていうか」
 言葉では突き放されても実際は嫌われてなどいないと、ひとりで思っている分にはいいのだが、当人にそれを説明するのは非常に気恥ずかしい。
「ウソぉ? オレは優等生だから監督まかされたんじゃないのかよ?」
 唇を尖らせた、拗ねるような表情を、牧は不思議な気分で見つめる。知らない表情ではない。だが、ずいぶんと久しぶりだ。一年生の始めのころ、今よりずっと幼かった彼のことを思いだす。くるくると変わる表情が、非常に印象的だった。
「まあ、そういう面もあるだろうが……」
 性格そのものは奔放だが、バスケットボールに対しては誠実な男だった。自身がチームの中で重要な位置にいる自覚もあった。そして少なからず、夏のインターハイの敗戦に責任を感じていた。人事については詳しい事情は知らないのだが、監督を兼任するという提案を、藤真が拒否できるとは思えなかった。
「どっちなんだよ」
「人にはいろんな面があるもんだ」
 藤真はつまらなそうに、組んだ脚の膝の上に頬杖をつく。
「ふーん。じゃあ、オレのこと監督って呼んだり、偉いやつみたいに見てくる一年とか騙されてるのか。カワイソ〜」
「別に騙されてはないだろう。尊敬される面もあるし、かわいい面だってあるってことで……」
 藤真は目を据わらせて牧を見た。
「いや、別に悪い意味じゃないぞ!?」
「ないよ」
「なに?」
 何に対する否定なのかわからず、ごくシンプルに聞き返していた。
「オレ、バスケのことも覚えてないし、覚えなおす気もないし。尊敬されるようなところなんてもうないよ」
「……!」
 牧は再び言葉を失い、藤真は素知らぬ顔でドリンクを口に含む。
「それで部活を早退してきたのか」
「うん。早退っていうか、記憶が戻るまで行かないと思う」
 悔しさも何も滲ませずに淡々と言った藤真の、素っ気ない表情を信じられない思いで見つめる。記憶がないと聞いただけのときよりも遥かに衝撃的で、途方もない喪失の予感に心臓が震えた。絞り出した、声は動揺で上ずっていた。
「覚えてないんなら、翔陽の部員たちの前じゃやりづらいもんな。……そうだ、俺が練習に付き合おう。やってみれば体が覚えてることだって」
「やだよ。面白くないもん」
「バスケ部の中で、自分だけが思うようにできないって状況が面白くないだけだろう。お前ならすぐに」
 言葉の途中で藤真が立ち上がる。
「帰る」
 素早くコートとバッグを抱えた腕を、牧は咄嗟に掴んでいた。
「待てっ!」
「待たない」
 藤真は部屋の入り口に向かおうとするが、強烈なまでの力で後ろに引っ張られ、再びソファに尻をつく。その勢いで、背中から牧の体に凭れ掛かってしまった。牧は藤真の背中を抱えるようにして、両の二の腕をがしりと掴まえる。
「放せよ!」
「藤真……」
 突き刺すような鋭さで牧を睨んだ視線は、一瞬泣きそうに歪むとすぐに背けられた。
「……そうだよな。お前だってバスケ関係の知り合いなんだから、そうなるよな」
「藤真?」
 藤真は牧に顔を向けないまま、部屋のドアを見据えて言った。
「放せ。バスケしてないオレになんて興味ないだろ」
「そんなこと言ってないだろう」
「言ったよ。バスケしろって言った。そうじゃなきゃオレじゃないって思ってるからだ」
「そんなことは思ってない。お前がバスケを好きだったのは事実だから、ただそれを勧めたってだけじゃないか」
「でも今は好きじゃないよ。だからしない」
「……それなら、それでいい」
 それは牧の望みではなかった。強いとか鈍感だとか言われがちな心臓が、チクリと痛む。しかし藤真がしたくないというものを、無理やりさせたいとも思わない。
「いいの?」
 体を後ろに傾けた藤真が思いきり上を向くと、後頭部が牧の胸に埋もれて目が合った。
「! ……いいっていうか、別に俺が決めることじゃないからな」
 角度のせいでいっそう丸く見える瞳が、不思議そうにこちらを見上げている。それは子供のような言葉とも相まって、愛らしい小動物を連想させた。牧はこの状況には不似合いな感覚に戸惑って視線を逸らす。
「いや、そうだ、敵チームなんだもんな。翔陽が弱くなったほうが、都合がいいってわけだ」
 牧は面食らって即座に返す。
「そんなこと、思うわけないだろう! 俺は、お前が監督をやるのだって反対だったんだ」
 そこまで言ってしまってから、はっとして口をつぐんだ。
「なに、シクったみたいな顔して」
「別に……」
 藤真の監督兼任については、牧が密かに思っていただけで、以前の藤真にも伝えたことはなかった。他校のことだし、藤真が発案したことでもない。いわば〝言っても仕方がない〟ことで、藤真の気勢を削ぐ形になるのも本意ではなかった。
「オレ、覚えてないから繋がりがよくわかんないんだけど。翔陽が弱くなるのと、オレが監督やるのって、関係あるのかよ?」
「いいだろう、別に」
「よくない。話聞いたら記憶が戻るかもしれないだろ、協力しろ」
 そうは言ったものの、周囲の──主にバスケ部の面々の思いとは裏腹に、藤真自身には記憶がないことへの焦りはほとんどなかった。よって、記憶を取り戻すことを特段心がけて行動する気もない。単純に、牧が言い淀む話の内容が気になっただけだ。
「あと、もうちょっと帰らないでいてやるから放してくれ」
 牧は掴んで引き寄せたままだった藤真の二の腕を解放し、藤真は再び元の位置に座りなおす。短い沈黙ののち、牧はすうと目を細めた。優しげな表情で、微笑しているようにも見えた。
「……俺たちのポジション、ポイントガードってのはチームの司令塔だが、お前は特にコントロール型だと俺は思ってる」
「ボールのコントロールってこと?」
「試合のコントロールだ。自分が動くことばかりじゃなく、試合中に状況を判断して味方に指示を出したりだな。ただ点を入れればいいとか、ただパスをカットすればいいとか、そういうポジションじゃない」
「リーダーみたいなもん?」
「まあ、そうだな。部活だからって言っちゃ悪いんだろうが、ほんとに司令塔ができてるポイントガードなんて、高校レベルじゃそう見かけない。だがお前は違った。お前がひとり入ればほかの四人の動きも見違えるように変わる。お前にはチームメイトに対するカリスマ性と、ゲームを支配する資質があった」
 話し始めを渋った割に、牧はいたって饒舌に、熱を込めて語った。穏やかな表情も、ときおり何か思いだしたかのように微笑するさまも、敵について語っているようにはとても見えない。藤真は自分の資質と説明された事柄に驚くよりも、ひたすらに牧への違和感と興味を感じていた。
「それが試合に出ないで監督としてベンチにいるんだから、見てたって全然違うチームだ」
「監督としては素人なんだろ? じゃあ試合出てるほうがいいじゃねーか」
「……よくやってるとは思ってたが、まあ、その通りだと俺は思う。翔陽にもいろいろ事情があるんだろうが」
「オトナの事情?」
「らしいな。それについてはよく知らないんだ」
 牧は困ったように笑った。藤真は納得できたようなできないような表情で唸る。
「……ふーん。まあ、どっちにしろオレがいないと困るってわけなんだな、翔陽バスケ部は」
「困るからってより、単純にお前のこと心配してるんだと思うがな。俺たちは日々バスケに明け暮れてた。人間関係がバスケ繋がりばっかりになっちまうくらい……高校生活の中心って言ってもいいだろう。俺たちがバスケをするのは、なにも特別じゃない、いつも通りのことだ。記憶が戻るのを期待するのにしたって、お前にそれを勧めるのに違和感はないな」
 今度は藤真が困ったように笑った。牧のことはもはや完全に味方だと認識している。彼の言っていることも、どうしてほしいのかも、わからないわけではなかった。
「……記憶喪失のこと話した部員の一部から、オレはすごかったんだとか、憧れだったみたいなこと力説されてさ。監督になったのもかっこいいって思ってて、一緒に頑張りたいって、燃えてるんだって」
 言葉の内容とは裏腹に、藤真は全く嬉しそうではなく、薄ら笑いを浮かべた。
「みんなオレのこと好きすぎて、宗教みたいって思っちゃったんだけど、今牧が言ったみたいなことなのかな」
 選手としての能力はもちろんだが、藤真が翔陽の精神的支柱であったのも確かなことだろう。暴行を受けての負傷退場と正式な監督の不在という逆境で、藤真を中心とした団結はいっそう強まっていたはずだ。
「宗教とはいわんが、そうだな、お前はアイドルみたいだった。部内だけじゃなく、他校の女子のファンがキャーキャー言ってて、俺が隣にいても女子はほぼお前しか見てないんだ」
 牧は嫉妬を滲ませるでもなく、ただ楽しそうにそれを語る。
(どうして)
「楽しそうだね」
「ああ、楽しかったからな」
「……そっか」
 不思議だ、だが嫌いではない。牧がどういう人間なのか、もっと知りたい──そんな思いの中にもやもやと不快なものが混じりだす。
「でもそれ、オレは覚えてないんだ。一緒にいたときのこと覚えてないんだから、実は、見た目が同じだけの違う人間かも」
 そう捻くれたことを言うのがまさしくお前じゃないか、と牧は笑う。
「そんなわけないだろう。……そうだな、今のお前の感じ、一年の、知り合ったばっかりのときを思いだすんだ。俺のこと覚えてないせいだっていうなら、むしろ納得できる気がする」
 言いきってしまってからあらためて納得して、牧はうんうん頷いた。
「ええ? 一年と二年とでそんなに変わるかよ?」
「変わったんだよ、お前は」
 藤真から受ける印象の変化には、期待のルーキーを経てチームの柱となり、やがて監督になったことによる、内面的な変化が強く影響しているのだと思う。考えを顔に出しすぎないように日ごろから気にするようになったとは、つい二ヶ月ほど前に当人の口から聞いたことだ。
「……背だって今よりちっこくて、体も細かった」
「お前の妄想なんじゃねえの。思い出補正ってやつ」
「そんなんじゃない。昔ふたりで載った雑誌を持ってるんだ」
「そういや、部室にお前が載ってる雑誌があったぜ。割と最近のやつだと思うけど」
「俺が載ってるんならお前も載ってると思うが」
「覚えてないな」
 牧について花形から聞いたときにそのページを見たから、自分が載っているかどうかまでは確認しなかったのだと思う。藤真は怪訝に目を瞬く。
「そんな、セットみたいな扱いなのかよ?」
「そうだぞ。双璧って、聞かなかったか?」
 あんまり自分で言うことでもないが、と牧は照れくさそうにひとりごちる。
「それは聞いたけど。なんも覚えてないから実感ないし」
 言葉もわかりづらいしとぼやきながら、藤真はすっかり存在を忘れていたドリンクを口に含む。
「まずっ」
 氷がとけて薄まった炭酸飲料に大袈裟に顰めた、そんな表情も愛らしく見えて、牧は息を漏らし笑った。
「別の頼むか?」
「ううん、もういいかな」
『それじゃあ、そろそろ帰るか』
 そう続けるべき流れだと感じながら、発することはできなかった。また今度と言おうにも、そうそう時間は取れない。そして、藤真は当面は部に復帰しないと言った。つまり今日別れた以降、ふたりが顔を合わせる理由はなくなってしまうのだ。
「……」
 色素の薄い、大きな瞳が、探るようにこちらを見つめている。いや、〝ような〟ではないだろう。何も覚えていないのだ、探り、観察するのは当然のことだと思う。そしてもうひとつ確かなこととして、バスケをしなくても構わないと話してから、藤真はすっかり気を許してくれた──ような気がする。
「藤真、これから用事あるのか?」
 長い睫毛を揺らして瞬きを二つ、そして上目気味に牧を見据えたまま、微かにだけ首を傾げる。
「なんもないよ。……あったとしても、覚えてない」
「そうか。なら、もしよかったら……これからうちに来ないか? 昔の雑誌もあるし、なんか思いだすかもしれない」
「うちの人は?」
「一人暮らしなんだ」
「なにそれ? お前ほんとに高校生かよ?」
 初めてそれを話したときとまるで同じ反応を返されて、思わず笑ってしまった。

その表情カオの理由を教えて 1

1.

「オレの名前は藤真健司。翔陽高校の二年生で、なんとバスケ部の選手兼監督! ポイントガードのポジションで、コートの外からも中からもゲームを組み立てるぜ! ……どうよ?」
 藤真は爽やかに述べ、かたわらの黒縁眼鏡を見上げた。白く反射する眼鏡の奥で、花形は微かに困惑した顔を作る。
「……間違ってはないが、なんでそんなに芝居掛かってるんだ」
「しょうがねえだろ、新しい役を与えられたのと大差ないんだ」
 藤真はさもうまいことを言ったと満足げに頷く。その表情は呑気なもので、彼の身に重大なことが起こっているようには到底見えない。花形は眉を顰め、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
 記憶喪失。
 そんなフィクションのようなことが、こんなに身近で、まさか藤真の身に起こってしまうとは。
 原因は年末の交通事故だ。事故現場は住宅地の中の公園の近く、相手は高齢者の運転する車だったという。花形は一緒にいたわけではなく、藤真が何も覚えていないので詳しいことはわからないが、交通量は多くない場所で、不運としか言いようのない事故だったと聞いている。公園で遊んでいた子供たちが騒いだため、近所の人が警察と救急車を呼んでくれたそうだ。
 検査のひとまずの結果、命に別状はなく、運動に支障が出るような怪我もなかった。ただ、頭を強く打ったようで──自身とその周辺についての記憶を失っていた。
 周囲の動揺をよそに、本人は飄々として『オレって夏にも頭ケガしてたんだろ? 盆と正月ってそんな報告が続いたから、お祓い行ったらってばあちゃんに言われた。まじで行こうかな!?』などと笑っていた。当然〝ばあちゃん〟のことも覚えてはいなかったが、事故後に会った親類のことはひと通り覚えなおしたらしい。
「お、あれだな、翔陽高校。年明け一発目だってのに結構賑やかだな」
 藤真は校名が読める程度まで近づいた校門を眺め、グラウンドから高らかに聞こえる野球部の掛け声に対し、さも珍しそうに言った。今の彼の目には全てが新鮮に映るようで、いたって楽しげなのだが、花形はその姿にどうしても狼狽えてしまう。
 不思議なものだ。ものの名前や、食事や風呂の入りかた、日々の生活のルールは覚えているというし、言葉遣いだって以前と変わらないと思う。しかし、自らのこと、家族のこと、友人関係や学校、そしてバスケットボールのことまでも忘れてしまうとは。
 記憶は脳の多くの領域に保存されていると聞く。その一部が損傷しているか、あるいはそこに辿り着けなくなっている状態なのかと想像はできるものの、最初に電話を受けたときには信じられるものではなかった。
 治療法はわかっておらず、今日寝て明日起きれば記憶が戻っているかもしれないし、一生戻らないかもしれない。現時点ではそういうものとしかいえない──と実際に言われたのは藤真で、花形は彼から話を聞いただけだ。藤真は特に困った様子もなく、カウンセリングのたぐいは『疲れたからとりあえず拒否ってきた』と言っていた。
 小走りに校門から出てきたジャージ姿の生徒が、手を上げて藤真に声を掛ける。
「おー藤真じゃん! 事故大丈夫だったのかよ!?」
「おう、ちっとびびったけど余裕!」
 藤真は愛想よく笑って親指を立てた。どうやら部活動中らしい生徒は、応えるように親指を立てると、それ以上の会話はせず校外へ走って行ってしまった。
 後ろ姿を見送り、藤真は小声で花形に問う。
「今の誰?」
「同じクラスの鈴木だ」
「オレが事故遭ったのって有名なのか?」
「そうおおっぴらにはしてないはずだが、どっかから伝わったんだろう。記憶がないことは言ってないはずだ」
 事故に遭ったことそのものは隠す必要はないが、記憶喪失についてはとりあえず内々にしておく方向で藤真や家族と話を合わせてある。先ほどのクラスメイトに対する藤真の態度もそのためだ。
 バスケ部内についても、練習の場所が分かれているレベルの部員には伝えずに──数が多すぎるため、噂として外部に漏れる可能性があるためだ──やはり特定のメンバーにだけ伝える予定でいる。藤真の仕事については極力花形とその近辺とで補っていくつもりだ。
 希望的観測ではあるが、すぐに回復する可能性だって充分にあるのだから、無用な騒ぎにはしたくない。方向性がネガティブだろうがポジティブだろうが、注目を浴びて外野から干渉されすぎることは多大なストレスを生む。花形は藤真のそばにいて、それをよくわかっていた。
「ってかさ、このまま三学期始まったら、クラスのやつ全員の名前覚えなおすのヤバくね? めんどくせ〜!」
 今日は一月四日で、あと四日後には新学期が始まる。花形は表情に出さないまでも憂いを深くするが、当の本人は『なるようになる』としか思っていないようだ。記憶がない以外は事故の前と変わらないと思っていたのだが、藤真は以前より非常に楽観的になっている気がする。彼は愛らしい顔貌に淡々とした表情を乗せて、裏では意外なほど物事を考えている男だった。夏以降、監督兼任となってからは特に顕著だった。
(自分の立場を忘れていれば、考えかたやベクトルが変わるのも当然、か……?)
 ことが決まったとき、藤真は『大丈夫だ』と、やり甲斐があっていいと笑っていた。しかし怪我明けの高校生が部の監督を兼任するなど、相当な負担だったに違いない。
(当たり前だ)
 曇る花形の内心とは裏腹に、藤真は晴れやかな笑顔を浮かべて知らないクラスメイトに手を振っていた。

保健の藤真先生

「藤真、服を整理してたら出てきたんだ。これ、羽織ってみてくれ」
 ソファでくつろぐ藤真に期待に満ちた表情で差し出されたものは、白い──医者の着る白衣だった。以前ハロウィンのときに牧が着ていたものだろう。
「まだ持ってたのかよ?」
 保管されているとは思わなかったが、そういえばナース服も取っておいてあると言っていたような気がする。
「ちゃんと洗濯してあるから大丈夫だぞ」
 今日は特にコスプレをするような行事ではないが、白衣くらいならいいだろう。藤真は立ち上がってそれを羽織った。
「あとこれだな」
 牧の手によって眼鏡を掛けさせられると、いかにも機嫌よさげな牧の顔と、それを取り巻く部屋の風景の遠近感が奇妙に狂う。牧が本を読むときなどに使っているものだろう。そう強くはないが度が入っていて、視野全体を覆われるのは堪らないので、少しだけ下にずらした。
 ともすれば近寄りがたいほどに整った顔貌が、銀のふちの丸みを帯びたレンズに遮られると印象が和らいで、真面目そうではあるが不思議と親しみやすい雰囲気になる。牧は低く感嘆の声を漏らした。
「藤真、眼鏡もいいな……! 逆にエロいぞ……!」
「なんだよ、逆にって」
「まあ座ってくれ。……保健室にこんな先生がいたら通ってしまいそうだ」
 藤真は訝しげな顔をしながら再びソファに掛け、牧を見上げる。
「足踏んだ赤木のほうにケガさせるお前が保健室なんて行くのかよ? 冷やしてその場でテーピングして終わりじゃねえの」
「5時間目とかにな、先生の顔見ておしゃべりして仮眠して……」
「寝に来てるだけじゃねーかっ!」
 藤真のつっこみも意に介さないようで、牧は藤真の姿に目を細め、ソファの前に膝をつくと、ごく当然のような動作で抱きついた。薄手のニットを着た胸に顔を埋め、スーハーと深く呼吸する。敏感な箇所を擦るともなんともいえない、無視しきれない感触に、藤真は体をもぞもぞさせる。
「なに、においなんて嗅いで……」
「藤真先生のにおい、いいにおいだ……」
「柔軟剤のにおいだろ」
「陽だまりのにおい」
「天気よくて外に干してたからだろっ…んむっ!」
 唇を塞がれ、貪るように吸われると思わず目を閉じていた。平静を装って押し隠しているものが、体の奥底から引っ張り出されるようだった。
 唇の角度を変えて、さも旨そうに舌を啜り、身勝手に満足すると離れる。
「なあ先生、どうして好きだとキスしたくなるんだろうな?」
「っ……!」
 牧がなんともないような顔をしてさらりと言って退ける、その言葉に藤真は未だに内心穏やかではいられない。多少強引だろうが結局許してしまうし、その気がなくてもその気にさせられてしまう。いい加減慣れてはどうかと、思ってはいるのだが。
「口に入れて、自分の中に取り込みたい的な……?」
「確かに、嫌いなもんは口に入れたいとも舐めてみたいとも思わないな」
 牧は藤真の唇をべろりと舐め、なおも唇に、首筋にとキスを落としていく。服の上から明確に乳首を探られると、思わず声が漏れた。
「ぁっ…」
 牧はにやりと笑い、藤真のニットをたくし上げて白い胸を露わにする。小さく愛らしい薄紅の小突起を指で摘み、捏ね回しながら問うた。
「先生は男なのに、どうしてこんなに乳首で感じるんだ?」
「はぁっ…ん…!」
 答えを待つように、苛める手を休め、胸全体を揉むように撫で回す。
「まずっ、女の体が先にあってからっ、男になったと言われっ…♡」
 そう直接的な責めはされていないものの、まさぐる手つきがいやらしく、どうしても声が上ずってしまう。
「乳首はその名残り……だからっ、男だって、弄られっ♡ 神経が集まって、敏感になったらっ♡」
 硬い指の皮膚が、あるいは爪の先が、執拗に乳首を弄り、快感を引き出すように小刻みな動作を繰り返す。
「ちくびっ! 気持ちっ♡ あぁっあっ♡」
 割と真っ当な説明なのだが、乳首をいじられるせいで真面目に話すことができず、ふざけた感じになってしまう。果たして牧に正しく伝わったのだろうか。
「わかったっ…!?」
 ちゅぱっ!
 返事の代わりに大きなキス音を立てた、牧は左右の乳首を交互に吸っては赤みや勃ち方のバランスを眺める、ということにすっかり夢中になっているようだ。
(くそっ! お前だって乳首開発されたらこうなるんだからなっ! しないけど!)
「女の名残りっていうわりに、勃起はするんだな」
 牧は藤真の股間の隆起を布越しにするすると撫で、手早く前を寛げるとさっさとズボンと下着を取り去ってしまった。
「んなっ…!」
 こうなることはわかりきっていたとはいえ、あまりの手際のよさに思わず声が出た。膨張し、首を擡げる藤真の性器が空気にさらされる。
「そりゃ、体は男なんだから、興奮したら勃起する」
 申し訳程度に手で覆い隠したが、手首を握られ、ごく落ち着いた動作としっかりとした強い力で簡単に退けられてしまう。
「で、弄られたら気持ちいい」
 牧は唾液を垂らし、すっかり頭を出した、愛らしいピンク色の先端部を指の腹で撫で回した。
「あっんっ! ああっ……」
 根元を支え、聳え立つ性器越しに藤真を見遣り、挑発的ににやりと笑う。
 白衣の前は大きくはだけ、服を捲り上げられピンと立った乳首を露わにしたまま、下腹部には欲望の象徴をそそり立たせ、生真面目な印象の眼鏡の奥の目は快楽の予感に溶けるように細められている。容貌そのものは清廉な印象に整っているぶんだけ、実に卑猥だ。
「やらしい先生だな……」
 言って、見せつけるように厚い舌でそれをべろりと舐め上げる。
「っはっ……お、お前こそっ! そもそも何役なんだよ」
「生徒に決まってるだろう?」
 本気で不思議そうな顔の牧に対し「教頭先生かと思った」と言う前に訪れた感触に、藤真は口を噤む。
「あぅっ、あ、んんっ…♡」
 性器を咥え込まれ、亀頭部に舌を押し付けられ、びちびちと音が聞こえそうなくらい、速く、そして執拗に舐め回す。
「あんんっ、そこばっかっ…!」
 ぴくん、ぴくんと堪らず腰を跳ねさせる藤真の、強請るような声に愛しさと苦笑とが同時にこみ上げてこぼれる。藤真は基本的にしっかりしているのだが、こういうときには妙に子供じみて愛らしい。
 口から取り出した性器はねっとりとした体液を滲ませ潤んで感じているというのに、この淫らな肉体はそれでは飽き足らないというのだ。
「ふじ…先生はこっちのほうが好きだもんな」
 牧は藤真の両脚を抱え上げ、ソファの座面の上で体を二つ折りにする。
「あっ…くっ」
 脚を開かせ尻の穴まで思い切り晒させながら、牧は愉快そうに目を細める。恥じらうように頬を染めて顔は背けるのに、拒絶そのものに至らないのが心底可愛くて愛しい。
「先生、体柔らかいよな」
「日々の柔軟の成果……」
「それだけじゃないだろう?」
 白い肌の中心に見える、色濃い窄まりに唾液を垂らし、ほじくりこじ開けるかのように中指を挿入していく。
「あっ、あはぁっ…♡」
 渇いた指の擦れる感触が刺激的で、藤真は明確に歓喜の声を上げていた。
「う、んんっ…」
 じっとりと湿った粘膜の、強い抵抗の中をしばし指で探り、引き抜くと、どこからともなく現れたローションをたっぷりと注いで再び挿入する。
「準備万端すぎっ…!」
「いつものことだろう?」
 ゆっくりと指をうねらせて回し、肉襞の一枚一枚まで潤わせ拡げていく。
 穏やかで、しかし確実に快楽の気配を感じさせるその感触に身を委ねるように、藤真は眼鏡の奥でうっとりと目を細める。
「はぁっ…あぅ…」
「もう二本入ったぞ。欲張りだな」
「ん、お前がっ…ぁんっ♡」
 付き合ってしばらくが経ち、藤真の身体はすっかり男同士の行為に適応してしまったのだが、牧だとて随分と手馴れたのだ。一方的に淫らなような言われ方は心外だった。とはいえ掻き回される箇所と一緒に世界も、理性もぐるぐると歪むようで、水音に燻る甘い感触のなかで、真っ当な抗議の言葉は出なかった。
「先生ここは?」
 藤真の体がびくりと跳ねた。
「ぜ、前立腺っ…♡」
 牧は内部で指を曲げ、そこを指の腹で押す動作をしきりに繰り返す。
「ここを弄られると」
「気持ちひっ♡ あぁっ、ん、やっ…あぁっ♡」
「射精するほど気持ちいいんだもんな」
「んん〜っ♡」
 指をきゅうきゅうと締め付けて悶えながらも、藤真は首を横に振った。
「なんだ、違うのか?」
 牧は興味深げに見返して、返答を促すようにピンポイントを刺激する動作を止める。あくまで慣らすように、緩やかな動作で内部を探る。
「っ……オレもはじめはそう思ってたんだけど、〝精子が出る〟のと〝気持ちいい〟って感覚が別モンになってきたっつーか……だから『射精するほど気持ちいい』って言われるとなんか違う感じがする」
「先生……先生らしくなってきたじゃないか。尻に指入ってるが」
「うるせー」
「もう少し詳しく」
「……なんか、ちんぽだけでイくときは射精がMAXっていうか、絶頂イコール射精だったけど。中からヤられてて出ちゃうのは押し出されてるだけって感じ。トコロテンって言うだろ。それはそれで感じるけど、男としてイくときの感じとは違う」
 藤真はつらつらと言った。ひどいシチュエーションプレイではあるが、こういう話を直接する機会は意外となかった気がするので、悪くはないかもしれない。
「たまに勃起してなくて射精してるっぽいのは?」
「それもそう。溜まった精子がちんぽ萎えたあとに押し出されてるっていうか。イッたってより、出ちゃったって感じ」
「俺の感覚では射精が一番気持ちよさそうなんだがな」
「だろ? それがフツーの男の感覚」
「説明だけじゃわかりにくいな。実習してみよう」
 牧は即座に自らのモノを取り出して撫でさすり、藤真の中を慣らしていた指の粘液と唾液とでその表面を濡らした。
「生徒のくせに、相変わらずでっかくて黒い……」
 その立派な逸物を疼く体に押し込まれるのかと思うと、興奮で頭がどうにかなってしまいそうだった。初めのうちは、相手が牧だからこそ許す行為だった。牧が自分に没頭する状況を愉しんでいた。しかしもはや、強烈な快楽そのものに惹かれのめりこんでいることも否定できない。
「AVみたいだな」
 しかも無修正、と頭の中で呟きながら、白い尻の狭間に自らの男根を擦り付ける。随分と違う二人の肌色と、押し付けた欲望の下で期待するようにうねる陰部に思わず喉が鳴る。兜のように張り出した亀頭部が小さな窄まりにずぶりと呑み込まれていくさまは、何度見ても格別なものだった。
「ぅあっ! あぁっ、あああぁっ…!」
 苦しげな呻きに確かに甘い響きを乗せながら白い喉が仰け反る。牧と比べると随分と細い体が、その獰猛な欲望の全容を呑み込んでいった。
「っふ……全部挿入ったぞ、先生」
「ぅ、あぁ…♡ 先生なのに生徒にちんぽ挿れられちゃった…♡」
 入り口はきついが内部は適度な圧力で、行為を促すように吸い付いてくる。誘惑に抗うように、牧は体を前に倒して藤真にくちづけた。
「んぅ、むぅっ♡ んんっ…」
 求め合うように舌を絡める、淫靡な感触の中を泳ぐように浸っていたが、腰に脚を絡められると我慢できない。みっしりとした肉壁の中に埋めていた男根を、ゆっくりと引き抜いていく。
「あはっ、あっあぁっ…! んっ!」
 そして再びゆっくりと穿ち──そうして内部を確かめるような、緩やかな動作を何度か繰り返す。
「っく、ん、んんっ…まきっ…!」
「わかってる」
 薄紅の唇にちゅ、と軽くくちづけると、牧は明確に快楽を貪るように抽送運動を始めた。
「ひぁっ♡ あっあっあんっッ♡」
 パンパンと肌のぶつかる乾いた音と同じリズムで喘ぎながら、藤真が上ずった抗議の声を上げる。
「あぅっ! そこっ、やぁっ♡」
「んん? トコロテンの実習だろ?」
 牧は意地悪く笑い、藤真の前立腺を刺激するように意識して突き上げる動作を繰り返す。
「ひぃっ、あっ♡ そんなっ、突っ♡♡♡」
 藤真が音を上げるまでに、そう時間は掛からなかった。
「あんっあぁあぁっ♡」
 情けない──牧にとっては愛らしくて堪らない声とともに、藤真の性器からビュッと精液が飛び出す。
「あっ、あはっ、あぁあっ……♡♡♡」
 それは牧の動きに合わせ、まるで押し出されるようにピュッ、ピュッと何度かに分かれて吐き出された。
「あぁっ……これがっ♡ トコロテンッ♡♡♡」
 咽せるような雄のにおいの中、藤真の締め付けに耐えるように牧は眉根を寄せる。そんなことは意に介さない様子で、藤真は恍惚とした表情を浮かべ、深い呼吸に胸を上下させている。
「はぁっ……はぁっ……♡」
「まだこれからだよな? 先生」
 牧は藤真の体を圧し潰すように伸し掛かった。
「うぐっ、うあぁっ…!」
「奥がいいんだろう?」
 一層深く穿つように下腹部をぐいぐい押し付けるうち、そこにもう一つ口があるかのように、藤真の内奥がじゅぱじゅぱといやらしく吸い付いた。
「くふっ、あぁっ♡ おっきいちんぽだとっ♡ 結腸っ♡ 奥の口がっ♡ 開いちゃっ…あひぁあっ♡」
 S字の入り口に亀頭部を咥え込み、藤真は堪らず仰け反った。牧は自らを鎮めるかのように、深く長く息を吐く。
「う、あぁ……すごいぞ……先生のここ、ちんぽを咥えるための穴なんじゃないかってくらいだ……」
「オレもっ♡ そんな気がしゅるっ…!」
 子供のような口調で言った〝先生〟に軽いキスを落とし、今度は内奥を犯す意識で腰を使う。
「ぅあっ、あんっ! あっあ、いっ…!」
「あぁ……ふじま……」
 ほとんど吐息のように呟きながら、牧は夢中で体を揺さぶった。雁首を奥の口に出し入れしながら、根元まで喰らわれた陰茎はいくつもの肉襞に吸い付かれ扱かれている。もう女とのノーマルな性行為には戻れないだろうとは、藤真と付き合ってから何度も感じたことだ。
「あぅっ、あっ♡ あぁっ、あんっ…♡」
 自らの快楽を求めて腰を振ると、応えるように嬌声が上がる。精液を吐き出してから萎えたままの性器が、ふるふると愛らしく揺れていた。
「こんなでも気持ちいいんだよな」
 動きを止めて、じっとりと濡れた柔らかな陰茎を指で弄る。中で感じるほうに意識が向きすぎると性器は却って萎えるのだと、以前藤真自身から聞いたことがあったが、同じ男の体をしているのにと思うとやはり不思議だった。
「んっ、そっちじゃ、なくてぇっ…♡」
「こっち?」
「ひぁあっ!」
 両の乳首を摘み上げると悲鳴のような声が上がる。
「気持ちいいのか?」
 牧は嗜虐的に目を細め、爪の先で乳首を弾き、指の腹で押し潰しながら転がした。
「んふっ、あぁっ♡ あっ♡」
 そうしながら突き上げられると堪らずに、藤真は背を弓形にのけ反らせて足の指をぎゅうと丸める。
「っっ──♡♡♡」
「なぁ、どうなんだっ…? 教えてくれ、先生だろうっ…」
「あぅっ、生徒ちんぽっ♡ ぎもぢいっ♡♡♡ ちくびっ…あっ、んゃあっ♡」
 体の奥の奥を突かれ、世界を揺さぶられながら敏感な箇所を刺激され続け、頭が回らないながらも答える意志だけで言葉を紡ぐ。
「嫌だって?」
「んぃいっ! しゅきっ、まきっ…んぁっ♡ あぁっあっ♡」
 牧は陶然として溜め息をつく。
「そうだな、俺も好きだ、藤真……」
 深く、貪るようなくちづけをして、それからは無駄話をせずに、ひたすら互いの感触を味わった。
 牧の、男の性器に体内を掻き回され脳まで揺さぶられる異様な興奮に、藤真の唇の端をだらしなく唾液が伝う。
「んぅっ、ぅあっ♡ らめっ、イクぅっ!」
「ああ、いいぞ…」
 囁くように言って、牧自身もまた終わりに向かうようにピストンの速度を上げていく。
「あはっ、あぁっ、あぁあァッ──♡♡♡」
 脳がスパークして目の前に星が散る。
(まき…)
 声にならない声で恋人の名を呼ぶうち、どこからともなく押し寄せる暖かな幸福感が、津波のように全身を呑み込み攫っていた。
 藤真はひときわ高い声を上げ、体を激しく痙攣させる。性器からは透明な液体がびしゃびしゃと吹き出し、藤真の体と衣服を濡らした。
「っっ……!」
 一緒に頂点に連れて行かれるかのように、牧もまた達し、藤真の中に精を放っていた。

「以上、藤真せんせいの保健の授業・実習編でした♡」
 ひくん、ひくんと体を痙攣させながら、ふにゃりとだらしなく笑った藤真の、まだ口を開けたままの淫部に、牧は再び自らを押し付けてずぶりと沈めた。
「え」
「次、補習編だな」
「補習だなんて、一体どこが分かんなかったっていうんだよ」
 言葉はそう言いながら、男根を咥えた部分はいくらでも突いてほしいと訴えるように疼き、声は甘く上ずっている。
「反復練習は大事だろっ、そらっ…!」
「あんっ♡ あ、あひっ、そんなっ、またイクぅ──っ♡♡♡」
 二人きりの課外授業はしばらく続く。

ノブくんの冒険 3

3−1.

 一月。冬休みの翔陽バスケ部の練習中に、闖入者があった。
「たのもー!」
 開け放たれた体育館の扉の外で仁王立ちする人物に、近辺にいた部員の視線が一気に集中する。気持ちよく晴れてはいるが外の気温は低い。前を開けたアウターから覗く制服と、見覚えのある顔立ちに、口々に声が上がる。
「ん、なんだ? 海南……?」
「清田! 海南の清田だ!」
「清田だって!?」
 常勝・海南で一年ながらレギュラーに定着した清田は、インターハイ、国体、ウインターカップを経てすっかり名の知れた存在となっていた。心地よい注目とざわめきに、得意げに仰け反る。
「はっはっ、キミ達、天才が珍しいかね? なんならサインしようか?」
「えー? 牧のサインなら欲しいけどなあ」
「なにっ!」
「だよな、将来牧がプロになったとき、学生時代のサインとか超レアもん!」
「シッケイな! 俺だってなあ!? つーかキミら、意外とミーハーだな?」
 翔陽の学校自体のイメージとしてよく言われるのは、おとなしくて真面目、保守的、ということだった。だからこそ藤真の存在はセンセーショナルだったのだと、牧から熱く語って聞かされた記憶がある。
「おれらエンジョイ勢なんで!」
「いわば応援団っす!」
 朗らかにそう語る、おそらくは自分と同じ一年に、清田は嘆かわしいといわんばかりに額を押さえた。
「はぁ、なんと向上心のない!」
「でもバスケは好きなんで!」
「うち部活入るの必須だしなあ?」
「海南みたいに体罰で退部に追い込むとかも許されてないし」
「オイッ! んなモンねーから! てかウチの印象おかしくね!?」
 体罰並みにきつい練習はなくもなかったかもしれないが、それはひとまず置いておく。
「……まあいい。つまりここは控え組の練習ゾーンだから藤真さんはいない、と……?」
 清田の目的は一年のモブと世間話をすることではなかった。藤真は大柄ではないものの、遠目にも目立つ外見をしている。見えないのならここにはいないのだろうと、そう結論づけたとき
「おいそこっ! なーにサボってんだっ!」
 凛とした声が響くと、校舎に続くと思しき方向から、制服にロング丈のブルゾンを羽織った藤真が大股で歩いてくる。
「藤真さんだっ!」
「こ、これはサボりじゃなくてっ!」
(こいつらやべえな、怒鳴られてるのにちょっと嬉しそうにしてやがる)
「なんだ、誰かいるのか?」
 怪訝な声に対しアピールするように、清田は大きく腕を振って声を張り上げた。
「チューッス! お邪魔してまっす!」
 気を遣った一年の部員が藤真の視界を空けるように避け、ようやくふたりは対面する。
「清田! どうした? 牧のお遣いか?」
(そりゃ俺が直接藤真さんに用があるなんては思わないよな)
 清田の目的は、藤真と親しくなって将来の楽しい大学生活に備えることだ。彼はこれを牧と同じ思想だと未だ思い込んでいる。牧に藤真を紹介してほしいと言ったら、牧のみでなく部室中から不穏な空気を感じたので、自ら乗り込んできたというわけだ。とはいえどうやって切りだそうか──
「いやぁそれがですね! 実は折り入ってお話しが!」
「……そうか。じゃ場所変えるか。外から玄関に回っててくれるか? 靴がそっちだから。ちょっと外出るって伝えてから行くから、ゆっくり歩いてでいい」
 特に理由も問われずに承諾されてしまい、清田は拍子抜けしながらも、これ幸いと元気よく返事をした。
「了解っす!」
 そして翔陽校舎の玄関のほうへとダッシュする。
「いや、走んなくていいってば……」
 藤真は清田が牧からの用事でここに来たものだと思っている。それも、あの場では口にできない内容の。思い当たる節はなかったが、そう立て込んでいる時期でもないので、少し席を外す程度は問題ないと判断したのだった。

「お待たせ。行くか」
 藤真は体育館で見たままの格好に鞄を肩に掛けて出てきた。それに続いて歩きながら、清田はおずおずと口を開く。
「えと、呼んどいて申し訳ないんですけど、ほんとによかったんで……?」
 瞬発力と勢いこそあるものの、根は素直な少年だ。玄関の前で藤真を待っているうち、なんとなく冷静になってしまったのだった。
「うん、別にオレただの監督だし……あ、試合の監督って意味じゃなくて、見張り番的な意味の監督な。あと今日は一志……ほかの三年も来てくれてるから任してきた」
「花形さんは?」
 牧ほど翔陽のことを気にしているわけではなかったが、花形はよく藤真と一緒にいることに加えて、なぜか牧が苦手そうにしているのが非常に印象的で、自然と頭に浮かんだ。
 藤真は清田に横顔を向けると、スゥと目を細めた。表情から何かを読み取るよりも、恐ろしく睫毛が長いことに気を引かれる。
「あいつはバスケ部出禁だから」
「ええっ!? ケンカでもしたんすか!?」
「受験で忙しいくせに様子を見に来ようとしやがるから、合格するまで出禁にした。オレにはその権限があるからな」
「落ちたらどうするんすか!」
「だから落ちないように頑張るんだろ」
「す、スパルタ……」
 綺麗な顔をして──そう、こうしてあらためて見ると、藤真はかっこいい、男前、というよりはひたすらに綺麗な顔をしている。世の女子たちはこういうのがいいのか? 系統的には女子寄りだから、隣に並ばないほうがいいのでは? もっとこう、男らしい男に目を向けて……など意識を飛ばしている横で、藤真の話は続く。
「あいつ、ほんとはもっとゴリゴリの進学校から東大行く予定だったんだよ」
「はい?」
「そういうおウチの子だから。でもバスケしたくて、それでそこそこバスケが強くてまあまあ進学もいけそうな翔陽にしたんだって」
「あー……」
 確かに、海南から東大を目指すのはほぼ不可能なことだ。牧のように空気を読まな──マイペースな人間もいるにはいるが、大半が海南大に進む。
「で、誰も予想してなかったこととはいえ、高校生監督の補佐としてめちゃくちゃ忙しい三年生を過ごす」
「ああー……」
 無表情に近いその表情から読み取れる要素は決してポジティブなものではなく、さすがの清田も余計なことは言えずに曖昧に相槌を打った。
「だからもう出禁」
「ふっ……激しいっすね!」
 不貞腐れたような口調とその表現に、思わず吹き出してしまった。花形のことは藤真の手下というか下僕というか、目下の立場のように思っていたのだが、実際は藤真もずいぶんと気にかけているようだ。
「そこ、入るぞ」
「へっ?」
 翔陽近辺の地理について清田はほとんど知らないため、藤真の話を聞きながらただついてきただけだ。店の選択に注文などないつもりだったが、しかし藤真が示したそれにはさすがに面食らう。
「か、カラオケ!?」
「オレが払うから気にすんな」
「いや、そういうことじゃなくて……」
 人見知りをする性質ではないし、さほど知らない相手がいたとしても、多人数でなら躊躇はしないと思う。しかしこれから親しくなろうという相手と、いきなりふたりきりでカラオケとは。藤真は清田の様子など気にせず店内に入ってしまう。
(意外と強引なんだな。まあ、翔陽を仕切ってんだからそんなもんか……ん?)
 視界の端に女子の小さな集団が見えた。五、六人はいるだろうか。それが細波のようにざわめきながら、ちらちらとこちらを見ている。店内を見遣ると、ガラスのドア越しに不愉快そうな藤真と目が合った。最初から印象を悪くしてはいけないと、清田も慌てて店内に入る。

 外でこそ戸惑ったものの、カラオケ自体は好きだ。個室に入ってしまえば自ずとテンションは上がった。
(こういうのは一年からだよな!)
 ごく当然のようにそう考え、迷いなく歌本から得意の曲を探しだして入力する。藤真に歌本を差し出そうとするが、藤真はドリンクとフードのメニューを見ていた。
「食えないもんある?」
「ないっす!」
「飲みものは?」
「メロンソーダで!」
「よし」
 藤真がリモコンからフードを注文している間にイントロが始まった。原曲とはどこか違う感じのする、妙に軽い音のイントロだ。カラオケにはよくあることである。
「どれだけがんばりゃいい〜♪ だれかのためなの♪」
「……」
 ほぼ牧のせいな気はするが、どっしりとして落ち着いた印象の海南の中で、清田のひととなりについては〝一年のうるせーやつ〟という程度の認識だった。しかし伊達にうるさいわけではないようだ。腹からしっかりと声が出ていて、音程も非常に安定して、率直に言って上手い。選曲も声質に合っていると思う。
 初めはただ聞いていたものの、曲のノリも相まって、途中からは藤真も合いの手を入れていた。そうしつつ、運ばれてきたドリンクとフードを受け取りテーブルに並べる。
「一番大事なひとがホラ、いつでもあなたを見てッアイキャンテッ♪」
 なかなか店に入ってこなかった割に、すっかり清田オンステージといった様相で、手振りや指差しなども交えてくる。花形はマニアックな洋楽ばかりでヒット曲系は歌わないので、非常に新鮮で楽しい。
「しゅーくーふくがっ欲しいのならぁ♪ 底なーしのペイン 迎えてあげましょぉ〜♪」
「……」
 選曲に他意はないはずだ。清田の調子からしていつものお約束というか、得意の曲なのだろう。しかし何か、上手いだけに沁みてしまう。
「そしてぇはーばたーくウルトラソウッ!」「「ハイッ!!」」
「イエーッ!」
「ヒュ〜!」
 満足げな清田に、藤真も口笛と拍手で賛辞を送る。どさりとソファに腰を下ろしてメロンソーダをあおった清田は、カラオケ受信機の表示を見て目を瞬いた。
「……ふぅ。あれ、藤真さんまだ入れてないんすか?」
「うん。別に歌うために入ったわけじゃないから」
 藤真は先ほどまでと打って変わって落ち着いた面持ちで、当然のように言い放った。
「はいっ!? じゃあなんで!?」
「女がついてきてたの気づいてなかった?」
「あ、あれやっぱそうでしたか。たまたま行き先が同じなのかと」
「あいつらほんとしょうもねーんだよ、カフェとかだと盗み聞きされるんだ」
「まじっすか! ファンこえー!」
 モテるのは羨ましいことだと単純に考えていたが、そういうたぐいのファンならば遠慮したいところだ。
「うん。でも実害ないから警察にも届けられないし。というわけでお近くのお手軽な個室」
「先に言ってくださいよ! 俺熱唱しちまってめちゃくちゃ勘違い野郎じゃないですか!!」
「あはは。でも上手かったよ。まあ食って」
「あざっす!」
 テーブルに並べられた唐揚げやフライドポテトなどの軽食を頬張りながら、なんともなしに藤真の顔を見る。色素の薄い睫毛が烟るようで、あらためて綺麗な顔立ちだ。
 選手兼監督という肩書きとその容姿、黄色い声援を送る女子ファン、尊敬する主将が妙に彼に入れ込んでいること──などなどから、当初の印象は決してよいとは言えないものだった。
 国体合宿で一緒になると、目を見開き大きく口を開け、派手な身振りで指示を飛ばすさまなど、いかにも体育会系というか、自分たちと同じ人種なのだと思えて、一方的に感じていた壁のようなものはだいぶ薄くなった。
 しかしこうして落ち着いた状態でまじまじと眺めると、やはり異質なものに見える。
(すげえ、ハーフとかのモデルみてー……顔にボールぶつけたりしたら、さっきのファンに呪われるかも……)
「で、牧はなんだって?」
 全く疑う様子もなく覗き込んでくる、うさぎのような丸い目に、清田はにわかにたじろぎつつも勢いよく言った。
「牧さんじゃなくて、俺が藤真さんに用事があるんですっ!」
「は? なんで? なんの?」
「そりゃあ、藤真さんとお近づきになりたくて!」
「???」
 藤真は怪訝な顔をして、まじまじと清田を見つめる。
(これは同棲を直前にして、牧がオレを試してるってことか……?)
 どうしても〝清田は牧の命令で自分に会いにきた〟という部分が覆せないために、現在の状況から考えて、そう結論づけた。
 付き合ってる時点は平気でも、一緒に暮らすと相手の合わない部分が見えて、不仲になるカップルもいるようだ──と、以前牧に話したことがある。藤真としては単なる雑談のつもりで、危惧するとすれば牧の育ちのよさに対してだったのだが、牧にとっての憂いごとは少し違ったらしい。
(こいつで? オレがこいつに言い寄られたら浮気するかもって? くだらねえ! だいたいオレを試そうってのが気に食わねえ! よし、そっちがそのつもりなら)
「……えと、藤真さん?」
 組んだ膝の上に肘を乗せ、前傾姿勢で頬杖をついて上目遣い気味に見つめてくる藤真は、綺麗というより愛らしい印象だった。しかし明るく健全なものではなく、どこかあやしげな雰囲気だ。何やら考えていた様子の表情の、唇がニッと弧を描いた。妖艶という言葉こそ頭に浮かばなかったものの、清田は途端に落ち着かないものを感じ、言いたいことも決めないまま声を上げる。
「あ、あのっ」
「わかった。でも、オレはキミのことまだよく知らないんだよね」
「ええっ!? 合宿で一緒だったじゃないすか!!」
 そんなに印象に残らなかったのだろうか。素直にショックだ。
「そうだけどさ。じゃあうちの長谷川一志知ってる?」
「え、ああ、知ってますけど……?」
 代表でも一緒だったし、翔陽のレギュラー陣のことは牧に仕込まれたので知っている。髪を逆立てている割には無口でおとなしい、よくわからないキャラの男だ。
「一志のこと好き?」
「知らねっすよそんなこと!」
「そういうこと。オレもキミのことそんくらいしか知らないんだってば。だからさ、お近づきにっていうなら、オレがキミを好きになるようなとこに連れてってよ」
「好きにっ!?」
(えっ、あっ? なんだコレ! 顔がよすぎてドキドキしてきた! 顔がいいってすげえ!!)
 クールな監督風と、熱血キャプテン風のときがあることは知っていたが、今の表情は甘く、しかし危険な毒を含んだようで──小悪魔風とはこういう表情なのかもしれない。
(ん……?)
 自らの感慨の中に、何か引っ掛かったような気がしながらも、今の清田には深く考える余裕はなかった。
「ええと、藤真さんが、俺を、す、好きになる……」
「うん。だって、遊びのセンスが合わないやつとはお近づきになれないだろ」
「そ、そりゃそうっすよね……」
(どうしよう、このひとどういう場所が好きなんだ? 女の子がいる場所? それは勝手に湧くから興味ないか? いや待て、落ち着こう、牧さんならどうする?)
 清田はメロンソーダをあおった。炭酸が喉を通る感触に、頭も冴えたのだろうか。
(そうか叙々苑か! 無理!!!)
「別に無理しなくていいぜ?」
「えっいや、全然無理じゃないっす!」
 今しがた頭に浮かべた言葉を自ら否定しながら、皿に残っていた唐揚げを頬張る。
 難しい顔でむぐむぐ頬を動かす清田を眺めながら、藤真は子供のころに飼っていたハムスターのことを思いだしていた。
(落ち着かねーやつ。おもしろ)
「じゃあどっか連れてってよ。カラオケ飽きちゃった」
「わ、わかりました!」
 行き先は決まらないものの、いかにも部屋を出たい様子で鞄を引き寄せた藤真を見て、清田は慌ててグラスを空にした。
「お残ししない主義か。結構いいじゃん」
「あざっす!」
 ごく軽い賛辞と自分だけに向けられる柔らかな微笑に対して、素直に嬉しいと感じてしまった。
(やばい、こわい、俺の心が翔陽になっていく……!?)

 

3−2.

 もともと天気のいい日ではあったが、室内が薄暗かった反動で外はひときわ明るく見えた。ごく弱い風にも流される色素の薄い髪を、陽の光が金色に透かしている。ただそれだけのことが、至極特別な光景のように見えていた。カラオケ店に入る前にも藤真の姿は見ていたはずなのだが、まるで世界が変わってしまったかのようだ。不思議なものだ。
「なに?」
「い、いや、髪って地毛なんです?」
 深く考えたわけではない、何か話したほうがいいだろうかと咄嗟に絞り出した質問だった。藤真もまた、なんともないように答える。
「そうだよ。どっち行く?」
「じゃああっちで!」
「オーケー」
 どこに藤真を連れて行くべきか、案すらも出てこなかったが、とりあえず歩くことにした。先輩というものは答えの正しさより返事の早さを評価するのだという、清田の経験に基づく行動だ。そもそも翔陽の近辺に詳しくない清田に行き先を決めさせるというのは横暴なのだが、今の彼にそこまで考える余裕はない。
 幸い、勘で示した方向は賑わっている。藤真の興味を引く店もきっと見つかるだろう。
(だといいなっ……と)
 そうして少し歩くと、清田は異変に気づいた。
(な、なんか、いいにおいの風が吹いてくる……!)
 ハッとした表情で藤真を見ると、ちょうど清田と同じ高さにある色素の薄い瞳が不思議そうに見返してくる。
「なに?」
(うっ、やっぱり顔面が強い……てか、今まで平気だったんだけどな……)
 顔がいい男はにおいにも気を遣うのか。それはそうだろう。そうなのだろうが、日々汗水滴らしてトレーニングに励み、男子寮に寝泊まりする清田には忘れ去られていた感覚でもあった。なんというか、カルチャーショックを受けてしまう。大きな目がぱちぱち瞬くと、長い睫毛がばさばさ揺れて、いかにも華やかだ。
(これは……これが監督とか。そりゃ翔陽の連中もがんばるわ……)
 翔陽バスケ部の奇妙な組織体系について、特に同級生である三年はどんな気持ちで藤真に命令されているのだろうかと考えたことがある。海南だとて主将の牧がチームメイトの三年に声を上げることは多々あるが、監督の命令とは質が違うと思う。そんな翔陽の三年を、情けないやつらだと密かに思ったこともある。彼らにプライドはないのかと。しかしそうではないのだろう。
(きっとあいつらもカントクの力になりたかったよな)
 あいつらと脳内で無礼に呼んではいるが、翔陽の三年のことだ。海南とは異なり、ほとんどが受験を控える彼らが、ウインターカップのために部に残るのは珍しいことだと聞いていた。結果は予選で海南に敗れて終わったものの、試合のあとは翔陽のみならず、海南の三年の間にも奇妙な一体感とでも言おうか、不思議な空気が流れていたことを覚えている。
 あのときだとて、藤真の〝指示だから〟というだけで三年の全員が残ったわけではなかっただろう。カラオケに入る前に聞いた花形の話題を思いだす。
「そうだ清田クン、仙道やっつけといてよ」
「ふぇっ!? あ呼び捨てでいいっすよ!」
 真面目なことを考えていたところに呼び掛けられ、思わず変な声が出てしまった。
「仙道は言われなくても倒しますけど……嫌いなんすか?」
 代表合宿でむしろ親しげにしていたような気がしたが、思い返せば仙道が付きまとっていただけだったかもしれない。そんな気がしてきた。
「いんや? なんとなく。そのほうが面白いかなーと思って」
 藤真はあくまで品よく笑った。
(えっ、なんかこわっ)
「あー、でも海南が勝つのは面白くねーな」
「はっはっは、まあ見といてくださいよ、仙道も流川も桜木も、みーんな俺がブチ倒してやりますから!」
「お、そうだな。湘北は念入りにぶっころしといてくれ!」
(いやぁ、やっぱりこええ。めちゃくちゃ根に持ってるじゃねえか!)
 それをとびきりの笑顔で言うのだから堪らない。天使のような、悪魔のような。
(牧さんがのめりこんじゃってんのも、なんとなくわかるかも……いや、んん?)
 違う。牧は藤真が連れてくる女子を目当てにして仲よくしているはずだ。なにしろ牧は理想が高く、ナチュラルでショートカットで色白で、睫毛が長くて品がよくて小悪魔で、胸と尻がなくて活発で芯が強くてバスケが好きでボーイッシュな子が好きだから、充分にモテそうだというのにいつまでも彼女がいないのだ。
「!?!?!?」
(いや、いやいや!?)
 清田の頭の中は混迷を極めていた。牧の好みのタイプの注文がやたら細かかったことも、過剰に藤真のことを気にする理由も、一緒に住もうとしていることも、そう結論づければ全てが腑に落ちる。しかし身近にそんな世界があるなど考えたこともなかった清田は、どうにも「まさか」と思ってしまい呑み込むことができずにいた。偏見よりもまだ遠い。テレビやフィクションの中のものという感覚なのだ。
「ん……」
 清田を現実に引き戻すかのように、香ばしい、いいにおいがしてきた。鉄板焼きの店の看板が見えている。
「そうだ。お好み焼きとかどうすか?」
 前に牧が藤真と一緒に食べに行ってよかったと話していたから、藤真も好きかもしれない。ふたりの関係を察しつつも認めきれてはいないため、清田は当初の目的を遂行することを選んだ。
「おっ、いいな」
 店に向かって歩くうち、遠目にでも絶対に見間違うはずのない人影を見つけてしまった。
「あれっ」
「ま、牧さんっ!?」
 清田が牧の命令で動いていると思っている藤真は「やっぱり」と唇を歪めて笑う。しかし実際は完全なる偶然だった。清田は面食らう。牧もこちらに気づいたようで、早足に近づいてくる。
「珍しい取り合わせだな、どうしたんだ?」
「どうって、これからノブくんと一緒にお好み焼きひっくり返すんだよ」
 あくまでとぼけた様子の牧に対し、藤真は意地悪く笑うと、清田の手を握って見せつけた。清田は唐突なスキンシップに面食らう。
「はっ!???」
「なん……だと……お前たち、いつの間にそんなっ……!」
「し、知らなかったんですっ! すみませんっしたー!!!」
 頭よりも感覚。これはやばい、本気の怒りだ、そう察するに余りあるものを感じて、清田は全力疾走で逃げ出していた。
「あいつ……! 紹介ってそういう意味だったのか! なんてやつだ!!」
「あれ〜……?」
 清田に対して怒っている牧に、藤真は首を傾げる。これは牧の仕掛けたドッキリに嵌って清田の誘いに乗った自分が咎められる場面であるはずだ。どうも、事実は想像とは違うらしい。
「おい藤真、ノブくんってなんだ、どういうことなんだ!」
(やば、めんどくさいことになってきた)
 よくわからないながら、とりあえず危機は回避しなければならない。藤真は天使のような笑みを浮かべた。
「別に、一年の相談に乗って、緊張ほぐしてやろうとしただけだよ。いいじゃねーかそんなん、そうだ、お好み焼きでも食って帰ろうぜ」
「藤真、お前はやっぱり年下に甘いんだな」
「はあ? 他校の一年に無意味に厳しいとか、人としてダメだろ。シゴキばっかの教えなんて、もう古いんだからな。……食わないんならいいや、帰ろっと」
 踵を返すと、強い力で腕を掴まれる。
「待て、食いながら話を聞こう。そして今日はもんじゃだ」
「はああああぁ??? あんなん水っぽくて食った気しねえよ、ヘラでちまちま突くのも気にくわねえ。男ならガッツリお好み!」
「お前はまだもんじゃのことをなにも知らない。さあ来い、一緒に土手を築くんだ!」
「ええ〜〜……」
 心底不満げな声を上げながら、藤真は店内に引きずられていった。

「神さん……知ってたんすね、牧さんと藤真さんのこと」
「うん、まあね」
「なんか、うーん……世間って広いようで狭いんだなっつうか、まあ、セーヘキ的なことは別に自由って思ってんですけど……」
 あまり介入したくないとは思いつつ、消沈している様子の清田を放ってもおけず、神は落ち着いた口調で返す。
「なに、幻滅した?」
「いやあ、そういうわけじゃないと思うんすけど。牧さんて、めちゃくちゃフリーダムなひとだったんだなあって……」
 清田の視線の先には牧のロッカーがあり、そのすぐ隣の壁には藤真の写真の大きく載った雑誌のページが貼ってある。今回の件より前に牧本人に聞いたところ『見ると気合が入る』と言っていたので、〝打倒・藤真〟的な意味合いのものだと信じて疑っていなかったのだが──
「大物なんだなって思っちまいました」
「うん。あそこまであからさまにやられると、却って気づかないかもね……」
 引退というならあれも早いうちに回収していってほしいものだと思う。海南の部室の壁に輝く藤真の笑顔。もはや当たり前のものになってしまった風景を、神は遠い目で眺めた。

ノブくんの冒険 2

2.

「はっ? 牧さんが藤真さんとルームシェア!? 藤真さんて青学じゃないっすか!」
 大袈裟な反応はなんともなしに予想していたものだったが、そこに付随した意外な情報に、神はぱちぱちと目を瞬いて清田を見返した。
「藤真さんの進路なんて知ってたんだ」
「有名ドコのことは意外と話題流れてきますよ。基本いちいち覚えてませんけど〝青学の藤真〟ってのだけなんかしっくりきすぎて、むかついて覚えてました」
 一体どこから突っ込めばいいのだろうか。いや、本題だけに絞ろう。
「問題。青学ってどこにあるんでしょう?」
「若者の街・シブヤ!」
「深体大の最寄駅と直通の路線があって近いんだって。だから一緒に住むのが都合がいいって」
 牧の進路は海南大ではなく、名門・深沢体育大学だ。附属高校の海南には他校に見られる受験ムードそのものが存在しないが、牧のようにスポーツ推薦を受ける者にはあまり関係のないことだった。
「都合? そんなことして牧さんになんの得があるんすか! 牧さんいいひとだから気づいてないだけで、あいつにたかられてるんすよ! ルームシェアとかいって、きっと家賃全部牧さん持ちに違いないんです!」
 国体の神奈川県代表混成チームに召集されてから、清田も藤真のことを呼び捨てにはしなくなっていた。チームのメンバーとしてはなんら問題なくコミュニケーションをとっていたし、唸るような連携も数多く見えたのだが、個人的に親しくなったのかというとまた別らしい。
 試合の外では藤真は牧や監督と一緒に忙しそうにしていたし、清田は流川らとしきりに張り合っていた。神の目にも、清田と藤真が特に打ち解けるタイミングはなかったように見えた。
(その割り切り具合、ある意味プロっぽいのかも、なんて)
 心証がよくなるイベントが発生しなかった以前に、なぜ清田が藤真を敵視するのかというと、その容姿から他校の女子生徒にファンクラブが結成されていることと、憧れの先輩である牧がなぜか妙に(事情を知る者には妙ではないのだが)藤真と親しくすることが面白くないせいだった。
「なんで藤真さんが牧さんにたかる必要がある?」
「牧さんが金持ってていいひとだからっす。顔のいい男ってのは甘やかされるのに慣れてるから、平気でひとを利用するんです。牧さんはそれがわかってない」
 さも知った風に言うが、きっとテレビか何かの受け売りだろう。
「正直俺だって牧さんに叙々苑連れてってほしいですよ!」
「ああ、それねえ……」
 神は言葉を濁した。高級焼肉店から出てくる牧と藤真の姿は、サラリーマンと男子高校生の援助交際のようだった、とは別の二年の部員の談だ。
「ノブを連れてくならほかの部員も連れてかなきゃいけないし、そしたらすごい人数になっちゃうからね、さすがにちょっと」
 牧の財力というよりは、部としてどうなのかという話だ。
 神は小さく息を吐いた。藤真と親しいわけでも義理があるわけでもないが、さすがにたかり扱いはまずいと思う。牧の前で余計なことを言う前に正すべきだろう。
「牧さんはたかられて気づかないような間抜けじゃないと思うよ」
 ここで頷いてほしいところだったが、清田は訝しげな顔をした。
「……そうっすか?」
 間抜けとはいわないが、コートの外ではのんびりしたところがあるからと、清田なりに心配しているのだ。
「そうなんだよ! 牧さんだって、思うところがあって藤真さんと仲よくしてるんだ」
「……? ……!!!」
 清田は無言で考え込み、そして何やら閃いた様子でカッと目を見開いた。漫画ならば黒ベタの背景に白い稲妻が走っているところだ。
「なんだ、そういうことだったのか、牧さん……」
 ようやく気づいたのだろうか。神は穏やかな心境で深く頷いた。
「一緒に住めば藤真さんの家は牧さんの家だから、藤真さんが青学女子を二人くらいお持ち帰りしてくれば牧さんもあやかれる!! なんという策士!」
(ええー……)
「金と顔が揃って落ちない女はいねえ。双璧やべえな、俺も大学行ったら一緒に住みたい……」
 夢見がちな少年に、神は一切の配慮をせず事実を投げつける。
「ノブを家に置くことで、ふたりに一体なんの利点があるっていうんだい」
「……フ、フレッシュさ……?」
 自分で言って悲しくなってしまった。顔はそう悪くないと思うが藤真のようなファンはまだついていないし、食うに困ったことはないが牧家のような富豪でもない。
「もう、ふたりのことはそっとしておきなよ……」
 神の言葉の最後とちょうど同時に、牧が部室に入ってきた。
「牧さん! チューッス!」
「おう、おつかれ」
 部室の奥に歩いてロッカーを開けた牧に、清田はジリジリと擦り寄って肘で二の腕を小突き、にやりと笑う。
「聞きましたよ牧さん、藤真さんと同居するんすね! やりますねえ!」
「ん、ま、まぁな……」
 牧が照れていることは察しつつも、その矛先がまだ見ぬ青学女子だと信じて疑わない清田は朗らかに言い放った。
「今度俺にも藤真さん紹介してくださいよ!」
 穏やかだった牧の表情がみるみるうちに引き攣り凍りつく。
「なんだそりゃあ、お前は一体なにを言っているんだ……?」
「え、俺だって藤真さんと仲よくなってあやかりたいっすよ。そんで多人数プ…」
 言葉の途中でドンっと思いきり背中を叩かれ、清田は思わず咳き込んだ。
「オェッ! ゲホッゴホッ!!」
「おい、無駄話してないでとっとと練習行くぞ!」
(高砂さん……! いい仕事する……!)
 清田の言動に肝を冷やしていたのは神だけではなかったのだ。
「ハッ、ハイ!」
 清田の鋭い返事をきっかけに、神も、ほかに部室に残っていた部員一同も、わやわやと体育館に移動していく。ひとり残された牧は、清田の言葉を何度も頭の中で繰り返していた。
(紹介……藤真と仲よく……?)
 牧だとて気になったプレイヤーと話してみたいと思うことは多々ある。それ自体はおかしいことではないだろう。しかし非常に落ち着かない。
(最後、なんて言ったんだ? 他人ず……?)
 清田への疑惑を消せないまま、しかし決定的な言葉には辿り着かなかったため、この日の練習はひとまずことなきを得た。

ノブくんの冒険 1

1.

「牧さん、最近なんか楽しかったことってあります?」
 練習中は厳しい海南の主将だが、日ごろはごく穏やかな人物だ。とはいえ一年の分際で気安く世間話を振るのも清田くらいのものだった。
「最近か? 鉄板で自分でお好み焼きを焼いて食べる店あるだろう」
「あー、うまいっすよねえ」
 牧はじわりと喜びの滲み出すかのような、優しい笑みを浮かべた。そこまで美味かったのかと、清田は不思議そうに目を瞬く。
「この前藤真と一緒に行ったら、めちゃくちゃ楽しかった」
 まずお好み焼きかもんじゃ焼きかで揉め、お好み焼きと決まれば焼きそばの有無について激論を交わした。最終的にふたりで一緒にお好み焼きをひっくり返したときのことを思いだすと、今でも胸が熱くなる。人生の縮図だと思った。
「藤真って、翔陽のですよね?」
 牧はそのままの表情で頷く。清田は大きく口を開け、さも愉快そうに笑った。
「たはーっ、女っ気ねえなあ! でもそうっすよね! 我ら常勝・海南ですから! 仕方ねえ!」
 完璧に思える牧にだって、彼女はいない。自分と同じだ。清田はこの大人びた主将にいっそう親しみと愛着を深めた。
(いや、女っ気っていうかノブ、牧さんにとって藤真さんは完全に性の対象だから……ってものすごく言いたい……)
 自重しない先輩と無邪気な後輩を眺めながら、神は常と変わらぬ表情で口を引き結んだ。

「神さん! 聞いてくださいよ、昨日牧さんと図書館行ったんすよ!」
「……って、どっちの図書館?」
 海南の構内に図書館はあるが、清田が行きたがる場所ではないだろうし、さも面白いことがあったと言いたげな彼の表情にもそぐわない。だとすればつまり──
「俺が真面目なほうの図書館に行くと思います?」
「うん。まあ、そうなんだけど、牧さんもっていうから一応」
 清田の言うのは、図書館と彼らが呼んでいるだけの寮の一室──成年向け書籍の保管部屋のことだった。古紙回収の日に頂いてきたものや、どこからか拾ってきた綺麗な状態のものを部員たちで集め、共有し、一年の部員が代々管理している。寮暮らしの彼らの憩いの場でもあった。
「牧さんだって男子高校生っすよ! でもあのひと一人暮らしだからか、図書館で出くわしたことないってみんな言ってて。昨日ちょうど寮で会ったんで誘ってみたんです」
 目上にも物怖じしない、度胸のある後輩だとは思っていたが、牧にそんな話題まで積極的に振るのか。感心なのか心配なのかよくわからない感情が湧いてくる。
「まあ、牧さん自分でエロ本買っても、なんのお咎めもないだろうしね」
 ポーカーフェイスで呟いた神に対し、清田は瞳を輝かせて拳を握った。
「でも、久々だとか言ってたんで、過去利用したことはあるみたいっす!」
(ああ、なんか余計なこと言って話題に加担しちゃったな、どうしよう……)
 牧のことは尊敬しているが、清田のような過度な興味はないし、どちらかというと余計なことは知りたくない。しかし完全に〝話したいモード〟になってしまった様子の清田をここで追い払えば牧にとって都合の悪いことがほかの人間の耳に入ってしまうかもしれない。
「牧さん、胸にこだわりはなくて最近は無いくらいのほうが好きで、尻も小さいほうがいいって。思わず『ロリコンですか!?』って言ったら殴られました」
「あのひと身内に小さい子がいるとかで、そういうの地雷みたいだから気をつけたほうがいいよ」
「先に教えといてくださいよ! で、同い年くらいが好きらしいっす。でも牧さんとタメの女子が並んでても結局ロリコンに見えますよね」
「ノブ……」
 呆れたような、悲しげにも見えるような表情を浮かべた神に、清田は慌てて首を横に振る。
「言ってない! 言いませんよそんな失礼なこと! で、あとなんだっけな。俺、牧さんは黒髪ロングの清楚系か、イケイケの黒ギャルかどっちかな〜って思ってたんすけど、髪は自然のままなら色はこだわらなくて、ショートカットで肌は色白が好きらしいっす」
(日本人の自然のままの髪色は、だいたいは黒なんだけどね……)
 なんとなくこの先の展開が読めてきてしまった。神は密かに表情を暗くしたが、わざわざメモしたらしいものに視線を落とした清田は気づかない。
「睫毛が長くて、品のある顔立ちだけどちょっと小悪魔っぽいとこもあって、子猫みたいにきまぐれで繊細」
(藤真さんのことなんだろうなぁ……知らないけど……)
 そう言われればそういう雰囲気かもしれない、と思ってしまう自分が少し嫌になる。
「活発で芯が強くてバスケが好きで」
(藤真さんだ)
「ボーイッシュで」
(ボーイそのもの)
「あとエッチが好きな子!」
「……」
「以上が牧さんのタイプらしいっす。ちょっと盛りすぎだと思いません? そんな子そうそういませんよ、だから彼女できないんすよ! って思わず言っちまいましたよ」
(最後のそれはなんか、知りたくなかったというか……申し訳ない気がしてくるな……まあ藤真さんだって男子なんだから、そうなんだろうけど……)
「神さーん? 聞いてます?」
「ううん、まあ、うん……」
 聞かなかったことにしたかったが、しっかりと聞いてしまった。次に藤真を見かけたとき(牧さんのタイプのエッチが好きな子だ)と思ってしまう自信がある。嫌だ。気まずい。忘れたい。
「で、牧さんはあーだこーだ言ったあと、外田有紀ちゃん似のセーラー服の子が表紙になってるエロ本を借りて行きました!」
 神は額を押さえた。
「ノブ、ひとの性的な趣味はあんまり面白がって言いふらすもんじゃないよ」
「えっ!? えっと、別に悪く言うようなつもりじゃなかったんすけど……」
 誰々はこういう子がタイプだとか、あいつが好きそうだと思って拾ってきたエロ本が無事その手に渡ったようだとか、それらも立派なコミュニケーションであって、決してネガティブな意味合いのものでないことは神もわかっている。
 しかし牧の相手が藤真であることも知っているのだ。それは広めてよい話ではないはずだ。
「そうなんだろうけど、あんまりね。人によるっていうか」
 牧本人が暴露するのならばともかく、第三者の口から明かすようなことは──と考えて、果たして牧に隠す気はあるのかと疑問に思えてきた。
(信長にやたら具体的に話してるあたり、当ててもらえるの待ってるとか? いや、でもただ自覚がないだけの可能性も……)
「まーそうっすね、牧さんの好みは俺だけの秘密にしときます! で、牧さんの機嫌が悪いとき、フトコロで温めた有紀ちゃんのエロ本を差し出す、と」
「信長なのにあっためるほうなんだ」
「あれ? 違いましたっけ?」
「惜しいね」
 それから、そういう用途ならば翔陽の生徒から藤真の隠し撮り写真でも入手しておくほうが効果的だろうと思ったが、心に仕舞っておくことにした。

ももいろドメスティック

 牧の通う深沢体育大学は、体育・スポーツ科学の分野で日本の中核をなす専門大学だ。日々軍隊のような厳しい時間を過ごしているのだろうと藤真から揶揄されることもあったが、カリキュラムはともかくそこに通う生徒たちはごく普通の若者である。青学に通う藤真ほどの頻度ではないが、牧も人付き合いの飲み会から逃れることはできなかった。
「ただいまー」
 引き止めのうるさい先輩陣をひとしきり酔い潰して一次会で帰ってきたが、藤真のいるはずのマンションの一室にはなんとなく人の気配というか、テレビの付いている気配がない。足元を見ると、藤真のよく履いているスニーカーがないようだ。
 リビングのドアを開けると、フルーティーな甘い香りが鼻腔をくすぐった。
(なんだ? ピーチなんとか、みたいな……)
 飲み会でカクテルばかり頼む同級生が「女子かよ!」と散々からかわれていたことを思い出し、甘いピーチリキュールを想像する。室内に藤真はおらず、代わりにソファの前のローテーブルに置かれた白いレジ袋が目に入った。
「ああ……」
 袋の中を覗いた牧は思わず声を漏らして苦笑した。中には桃の加工品ではなく、ころころとした桃の果実そのものが入っていたのだ。
 漂う香りから真っ先にそれを想像しなかったのは、彼らが日頃果物を買ってきて食べるということをしないせいだった。一人暮らしをしていた高校の三年間でさえ、自分で買ってきて食べた果物といえば蜜柑とバナナしか思い出せない。
 傍らの書き置きには『花形とメシいってくる。桃は食ってていいよ』とある。今日は飲み会で一緒に夜を食べられないとは前から告げてあったし、大学こそ違うものの、住んでいる場所の遠くない花形と藤真が一緒に食事などに行くのはそう珍しいことではなかった。それは構わないのだが、牧には一つ引っ掛かることがあった。
(なんで桃なんだ?)
 最近会話で話題に上がったでもなし、あまりに唐突に思えるのだ。駅からの帰り道にはスーパーも、今の時間には閉まっているが青果店もある。通りすがりに買いたくなっただけなのかもしれないが──もやもやと考えつつ、袋の中から一つを手に取った。
 表面の大半がピンク色に染まり、僅かだけ元の肌の色を残した桃は、なんとも美味そうだ。桃の形状の最大の特徴ともいえる、果実に縦に入った筋に視線を添わせ、へたの窪みにたどり着くと、牧の体に電撃が奔った。
(はっ……わかったぞ藤真! お前からのサイン……!)
 桃の形は尻に似ている。藤真はそれを食べてくれと書き置きをした。つまりはそういうことに違いないのだ。
 そわそわと落ち着かない気分で、桃を手の中で愛でるように撫で転がす。さらさらとした感触が気持ちいい。愛らしい割れ目を指でなぞると一層頬を染めたように見えて、無性にいとおしく感じられた。牧は顔を綻ばせながら、ごくありきたりな愛情表現として桃に頬ずりをした。
「い゛っっ!!?」
 途端、頬に鋭い痛みが走る。手の中にあるうちは天鵞絨のように感じられた桃の表面が、その無数の細い産毛を針のように逆立て、牧の頬を突き刺しているのだ。たかだか産毛のはずだが、甘い香りと優しげな色彩からは想像できないような痛みだ。
 咄嗟に桃を顔から離したものの、産毛は桃から抜けて肌に刺さったままのようで、痛みは消えない。
(お前、そういえばそういうやつだったな……!)
 狼狽えながらも落ち着いて収納棚からガムテープを取り出し、粘着面を表側にした輪を作って人差し指から薬指に嵌める。テープの粘着を使って頬に刺さった産毛を取り除く作戦だ。
(ちょっと粘着が強いが……まあいいか……)
 桃の痛みなのか、テープに肌を引っ張られる痛みなのか、よくわからなくなりながら、頬にテープを貼って剥がす動作を繰り返していると、不意にリビングのドアが開き、怪訝な顔をした藤真と思い切り目が合った。
「……」
「おう藤真、おかえり」
 普段なら玄関で音がしていることに気づくのだが、不意打ちの痛みにすっかり動揺してしまっていたようだ。藤真はあからさまに顔を顰める。
「……なに? 脱毛?」
「まあ、ある意味では脱毛だな。なに食ってきたんだ?」
 自分の髭の脱毛ではなく、桃の産毛の脱毛だが、あまり追求されたくはないことだ。頬から剥がしたガムテープを手のひらの中に握り、さらりと話題を変える。
「ファミレスでなんとか鶏のなんとか定食」
「いつもファミレスじゃないか?」
「ちょうどいいとこにあんだよ。あんま混んでなくてボックス席だし、ドリンクバーあるし、メニューもちょくちょく新しいの増えてるし」
「藤真、そんなに飲み物おかわりしなくないか?」
「お前といるときはお前んちとかラブホとか行き先があったけど、普通に友達とだべるときはドリンクバーだろ」
 牧は高校時代、藤真以外の友人と外食することは多くないと言っていたから、少し感覚が違うのかもしれない。花形も今は一人暮らしだが、わざわざ飲み物などを用意させることを考えれば、やはりファミレスのドリンクバーが得策に思えた。
「それとも、花形と一緒に薄暗くてムーディな店に行ってほしいのかよ?」
「い、いや、そういうわけじゃないんだ。これからもファミレスで頼む」
 三年間藤真と密接な関係にありながら一度もそういった気配を見せなかったらしい花形が、今更藤真に妙な気を起こすとは思わない。とはいえ花形も男だ(?)、二人で積極的に雰囲気のある場所へ行ってほしいとも思わない。
 藤真はレジ袋の横に一つ出してある桃を手に取った。他に皮や食べがらは見当たらない。
「部屋入ったらすげーにおいしてたから、もう食ってるかと思ってた」
「ああ、ついさっき帰ってきたところだからな」
「うし、じゃ早速食ってみるか」
「よく洗えよ」
「は? お前もしかして桃になんかした?」
「そ、そんなことないぞ?」
「あっそ」
 藤真は素っ気なく言ってダイニングテーブルの向こうのシンクに進む。
「藤真!」
「なんだよ」
「くれぐれも、桃に頬ずりなんてしたらダメだぞ」
(なんだよ桃に頬ずりって)
 広々としたLDKの間に仕切りはないが、コンロとシンクは壁際にあり、キッチンに立つとリビングの側に背中を向ける配置だ。牧はシステムキッチンがリビングを向いているほうがいいと強く主張したのだが、その他諸々の条件から現在の部屋に決定したのだった。
 蛇口から水を流し、手の中の桃を見つめる。
(頬ずりしたら、どうなるっていうんだよ)
 そんな発想はこれまで抱いたことがなかったが、言われてしまうと無性に気になるものだった。ちらりと牧のほうを顧みる。牧はテレビに夢中のようだ。
 藤真は正面に向き直ると、おもむろに桃を頬に擦り付けた。
「いっ!?」
 痛い。なぜ桃がこんなに痛いのかわからないくらいに痛いし、頬から桃を離しても痛みは続いたままだ。そして察しのよい藤真は牧の謎の行動の理由に辿り着く。
 大股の早足でどかどかとソファのほうに戻り、不機嫌に目を釣り上げて牧に手を伸ばす。
「おい、ガムテ寄越せ!」
「藤真、まさか……フフッ」
 決定的瞬間こそ見ていなかったものの、藤真の様子からその行動に容易に想像がついて、牧は笑ってしまいながらガムテープを渡した。
「ダメだって言ったじゃないか」
 藤真はビッと鋭い音を立ててガムテープの端をロールから引っ張る。
「お前がヘンなこと言わなかったらオレだってしなかった!」
「そのガムテ強いから、ちょっと弱らせてから使ったほういいぞ」
「なんだよ弱らせるって」
 牧は藤真の手からガムテープを奪い取って輪を作ると、藤真の手の甲に貼り剥がしして少し粘着を弱めてから左の頬に貼り付けた。藤真の仕草からそう察したものだったが、(左利きだから左なのか)と納得もしつつ頬にガムテープを貼って剥がす動作を繰り返す。
「おう、さすが手慣れてんな。桃毛取り師」
「俺だってそう何度もやらかしてるわけじゃないぞ。二回目だ」
「二回目かよ! 一回で懲りろよ!」
「いや、子供のときだったから……すっかり忘れてた……」
 ぺた。ぺた。ぺた。ぺた。
 黙ってしまうと、大きな手でしきりに頬を撫でられるようにしているのが途端に気恥ずかしくなってきた。一方の牧はなぜだか楽しそうだ。
「……てか、自分でやる」

(ったく、まさかこんなに苦労するとは……)
 再びシンクに向かい、今度は余計なことをせずに桃を洗う。
(……たわしで擦ったら桃の毛も取れるんじゃねーかな……)
 スポンジや洗剤と一緒に置いてあるたわしを見てそんな衝動に駆られたが、どうせ皮は剥くのだし、毛どころか桃そのものにダメージを負わせそうなのでやめた。
「藤真、大丈夫か?」
「はっ!? なにが?」
 背後、すぐ近くから声を掛けられ、藤真は驚き牧を顧みた。
「いや、ずっと水流してる音がしてるから」
 桃の切り方がわからなくて途方に暮れているのかと思った、とまでは言わないでおく。
「よく洗ってんじゃんか」
「そうなのか」
 納得した風に頷きながらも、牧が立ち去る様子はない。
「……なに」
「見てないほうがいいか?」
「別に?」
 藤真は得意げに笑うと、左手に果物ナイフを持ち、桃の縦筋に沿ってナイフを入れた。中心にある大きな種に刃が当たると、桃を回転させながらぐるりと二等分に切れ目を入れる。
「おおっ?」
 桃を潰さない程度に両手で掴み、切れ目と平行に左右にひねると、片側だけにごろんとした種を残して、桃が二つに割れた。
「なんだ藤真、いつの間にそんなワザを……」
「このくらい常識だし」
 藤真が青果店の店先で試食の桃を貰うと、ちょうど試食タッパーが空になったため、目の前での実演付きで教えてもらったものだ。
 それを思い出しながら、種に沿ってナイフで切れ目を入れ、スプーンで種を掘り出す。
「皮はどうするんだ?」
 愛らしい色味をしているが、意外に攻撃力の高い繊毛の生えた危険な皮だ。そのまま食べるわけにはいかないだろう。
「慌てんなって」
 半円の桃の平らな面を下にして置き、端から皮をめくり上げるようにしてみると、するすると手で皮を剥くことができた。
(おおっほんとに手で剥けた! 気持ちいい!)
 内心そう思いながらも、牧の手前口を噤む。
「桃の皮って手で剥けるもんなんだな」
 蜜柑などのように、身と完全に分離した分厚い皮というイメージではなかったので、牧は感心したように呟いた。
「これは熟してる桃だからな。熟してないとこうはいかないぜ」
 と青果店のおばちゃんが言っていた。そしてつるんとした果肉を露わにした桃を八等分し、綺麗に円を描くように丸い皿に乗せた。
「できた!」
「おおっ……!」
「手洗ってくからソファのほうにこれ持ってっといて」
 牧に皿を持って行かせ、手を洗って果物用のフォークを二つ持って行くと、牧はローテーブルの上に桃の載った皿一つを置いて、お預けを食らった犬かのようにそれを凝視していた。
「はい」
 フォークを差し出すと、優しげな目がこちらを向いた。
「すごい。きれいだな」
「だろ? オレって結構家庭的なんだぜ」
 いかにも満足そうに、幼い表情で微笑する藤真を見ていると、出会ったばかりのころのような、みずみずしく新鮮な感覚に襲われる。
 初めに強く惹かれたのはコートの上の彼で、その後の監督兼任や、夜のデートで見た大人びた表情から深くを知った気になっていた。しかし実際は、まだ全然足りないのだろうと思う。
(やっぱり、一緒に住んでよかった)
「絶句すんなよ。まぁいいや、いただきます」
「すまん、悪い意味じゃないんだ」
「ん〜! うまーい!」
 藤真は絶品だといわんばかりに目を細め、芝居掛かって頬に手を当てた。
「それじゃ俺も。いただきます」
 口にすると柔らかな食感とともに豊潤な果汁が溢れ、口腔に爽やかな甘みが広がる。咀嚼のたび、華やかな芳香が鼻を抜けた。
「──ああ。うまいな」
 衝撃的なものではない、あくまで優しい美味さと、直前に藤真に抱いた感慨とが相まって、なんとも幸せな気分だった。
 にこやかに、いかにも機嫌良さそうに口を動かす牧を見つめ、藤真は目を瞬く。
「そんなに桃好きだった?」
 基本的に好き嫌いはないと聞いていたし、何を食べさせても悪いようには言わない男だが、そう問いたくなるほど特別に嬉しそうに見えるのだ。
「ああ、好きだな」
 言いながらもう一つ手を伸ばす。
「駅からの途中に果物屋? 八百屋? あんじゃん。そこ通ったらいいにおいがしててさ、おばちゃんに試食貰ったのもあって」
 牧は口を動かしながらうんうん頷く。
「最近果物食べてねーな、ああ家族いないからオレか牧が買わなかったら自動的に出てくるわけないのか、って気づいて買ってみた」
 日頃しない行動に対しての照れもあったが、牧の反応が想像以上に良好なので、思い切ってみてよかったと思う。桃も綺麗に切れたし、と藤真もまた上機嫌でもう一切れ頬張った。
 テレビを眺め、飲み会のことや花形から聞いた東大の話などをしつつ桃を平らげると、牧の腕が藤真の腰を抱えた。藤真の上体を抱き寄せ、ソファの座面と藤真の尻の間に指を割り込ませる。
「そろそろ、こっちの桃もいただこうかな」
「ぶっ!」
 藤真は思わず、愛らしいとはとても言い難い調子で吹き出してしまった。
「顔はもう見慣れたけど、お前のそういうとこほんとおっさんって思うわ……」
「ん? 桃ってそういうメッセージじゃないのか?」
「はぁ!?」
 反射的に声を上げてから、牧の思い至りそうなことに簡単に見当がついて息を吐いた。
「さっき言っただろ、通りすがりにいいにおいがしたからって。……飲んできたくせに、元気だね」
「別に酔っ払ってはないし、気持ちも悪くなってないからな」
 牧はすっかりその気のようで、ソファの上で藤真のほうを向いて背中を丸め、ソファと藤真の体との間に頭を突っ込もうとしてくる。
「いや、やっぱ酔ってねえか?」
「頬ずりリベンジだ。意識は確かだぞ」
「はあぁ〜〜」
 藤真はわざとらしく盛大にため息を吐き、絡みつく牧の腕を振りほどくように強引に立ち上がった。
「藤真……?」
「桃はよく洗わなきゃ」
「!! あ、ああ、待ってる!」
 牧は一気に体温が上昇したと感じながら、壊れた玩具のようにこくこくと頷いた。
「寝落ちしてたら起こさねーからな」
「ああ! 朝までだって起きてるぞ!」
(それは適当なとこで満足して寝ろよ)
 牧に背中を向けて仕方なさそうに笑い、浴室へ歩いた。

呪縛

「昔俺たちが双璧だったとき──」
 牧はまるでユニット名かなんかみたいにその言葉を口にする。
 懐かしい、さも愛おしい想い出だっていうように優しげに目を細めて、まるで成就しなかった初恋みたいに、ときどきもの寂しげに遠くを見ながら── 昔の仲間と会って、特に酒が入ったときにはよくあることだ。
 牧は100パーセント「全然変わってない」って言われてるけど実際は年相応に皺とか増えてて、でも元々の造形がいかにも男らしいせいで「いい年の取り方をしてる」ってやつなんじゃないかとオレは思っている。顔立ちだけなら多分昔より精悍だけど、いつからか眼鏡を掛けてることが多くなったんで日頃の雰囲気は柔らかだ。
 変わってないって言われるのはオレも同じだけど、牧の隣にいるから若く見えるってだけで、昔の写真と見比べれば明らかに老けてる。それでも同級生の中では若い見た目なのかもしれないけど、ていうか昔の写真が子供すぎるんだ。このなりでカントクなんてやってたらそりゃいろいろ言いたくもなるわなって、年取って昔を振り返るとそれなりに納得してしまう。
 いろいろ。嫉妬やら見た目の揶揄やら、それなりにあったけど、どっかで一緒になった、確かまだ付き合ってなかったころの牧に『雑音も多いだろうが』って言われたのが未だに印象に残ってる。それがなんのときだったのかも思いだせないのに。
 牧は何を指して雑音って言ってるんだろうなって、そのときものすごく引っ掛かったっていうか、牧があんまり大切そうにそれを口にするもんだから、いつまでも忘れられないんだろう。

 双璧。

 誰が言い出したのかもわからない、それは賛辞のようでいて、オレにとっては雑音であり呪いだった。誹謗も中傷もどうってことないくらいの、唯一の。
 それがとうに過去になった今でも牧と一緒にいるんだから、本当に呪いだったのかも、とも思う。
 牧はその言葉を、他校で当時接点の限られてたオレとの繋がりみたいに感じてたらしくて、だからさすがにオレも思ってるままを言ったことはない。これは誰にもだ。
 年を経て、想い出になったからこそ忌憚なく言えることもある。例えば高三のインターハイ予選ではウチ(っていうかオレ)と当たりたかったんだとか、ずっと監督より選手でいてほしかったとか。いくら過去だからっていっても、二人きりのときにしかそんな話はしないけど。
 だけど言えない、言わないほうがいいことだってある。どんなに長く一緒にいて同じ屋根の下に暮らしたって、個人の領域は必要で、二つの意思を完全に混ざり合わせる必要はないんだ。
「月が綺麗だな」
「……それ、知ってる」
「ん?」
「I love youの、誰だかの文豪の日本語訳っていうネタだろ」
 飲み会の帰り道、実際月は出てるけど、満月でもないしちょっと雲が掛かってる。だから。
「うん」
 牧は嬉しそうだ。まあ、こいつの好きそうなネタではある。
「わかりにくいよ。相手に伝わらなきゃ意味ないのに」
「たまにこうやって飲んで、みんなついこの間まで学生だったみたいな顔で毎度似たような想い出ばなしして、お開きになるとそれぞれバラバラに帰って行って。でも、俺はいつもお前と一緒に帰れるのが嬉しい」
「……そう」
「俺のI love youの訳だ」
「長えよ!」
 でもまあ、それは確かにある。牧が言った通り、大体のやつはその場でだけ時間を共有してそれぞれの現実に帰って行くって感じで。そもそもオレはあの場では単純に想い出に浸るってより、牧の観察とかしてるかもしれない。
「やっぱりシンプルがいいか。……好きだ」
「知ってる」
 そしてこれもまた呪いだ。オレを縛り付けて離さない、甘やかなぬかるみだった。

猫カフェに行きたい

「猫、カフェ……?」
 突きつけられたチラシに大きく躍る文字を、牧は不思議そうに読み上げた。
「郵便受けに入ってたんだ、結構近くだぜ。今度オープンだって」
「猫カフェ、とは?」
 猫は飲みものじゃないぞ、と怪訝な顔をする。ばっちりカメラ目線の猫の写真も、洒落た外観の店の写真も目に入ってはいるが、それが何を意味するのかわからない。
「ちゃんと読めよ。コーヒーとか飲んでダラダラしながら、店の猫と遊べるんだ」
「ああ、キャバクラみたいなもんか」
「お前わざと言ってるだろ」
 牧の例えもそう間違ってはいなかったが、いかんせん年齢不相応だ。
「藤真、そんなに猫が好きだったのか?」
「え? そんなにって?」
 好きか嫌いの二択ならば好きだが、おそらく人並みだ。無類の猫好きというわけではない。新しく近所にオープンする未知の店に行ってみたいだけだった。
「早く教えてくれればよかったじゃないか。実家に猫がいるんだ、紹介する。今度ふたりとも休めるときに一緒に行こう」
「えっ、いや、いいってそんな。この猫カフェのほうが近いじゃん。猫カフェ行こうぜ」
 友人の家にはこれまで何度も行っているが、牧の家といえば彼が一人暮らしをしていた部屋で、実家には行ったことがなかった。家には当然家族がいるだろうし、久々に帰ってきた我が子が人を連れているとなれば気も遣うだろう。裕福な家であろうこと、そして今のふたりの関係から、どうしても敷居の高さを感じてしまう。無論、ルームシェアについては快諾とのことだったが、率直に言って遠慮したかった。
「うちの猫な、ヒマって名前なんだが」
「ヒマラヤン?」
 牧は「よくわかったな!」と言わんばかりに驚いた顔をしている。
「いや、名付けが単純すぎだからな!?」
「すごくかわいいぞ。ふかふかしてて、顔の真ん中と耳と手としっぽが焦げ茶色で」
「うん、それはヒマラヤンの特徴だからな……」
「あと犬もいるぞ。亀もいるし」
「カメ?」
「おっ、興味持ったな!」
「いやそんなに興味ない、ほんと、大丈夫だから」
「お祭りの亀すくいでとったやつだが、このくらいだったのがこんなにでかくなったんだ」
 牧はまず片手の親指と人差し指で円を作り、次いで両手で直径二十センチほどの楕円を作って大きさを示す。
「動作は意外と素早い」
「そうなんだ……」
 藤真は浮かない表情だ。大きく育った亀は気に入らなかったのだろうか。慌てて続ける。
「犬はな、金太郎っていって」
「ゴールデンレトリバーとか言うなよ」
「正解! すごいな、俺たちフィーリングカップルなんじゃないか?」
「まあ、ヒマよりは捻ったかなって感じ……」
「お利口だぞ。フリスビーで遊ぶのが大好きだ。どうだ、うちに来たくなったか?」
「……だって、家のひといるだろ? なんか悪いっつーか」
 口ごもる藤真に対して、牧はさもショックだという顔をする。
「お前、もしかしてうちの親に会いたくないのか!?」
「ええ? いや、なんだろ、嫌ってのじゃないけど、特に〝会いたい〟とは思わないかな」
「なんで!」
「友達んちに行くのは友達に会うためで、その親に会いたいと思ったことはない。今まで一度も」
 結果的に友人の親とも顔を合わせることになりがちだったが、当初からの目的ではない。
「藤真、俺たちは友達なのか?」
「違うけどさぁ」
「俺は、お前の家族に会いたいってずっと思ってたぞ。だから、引っ越し前にお前が家族の方を紹介してくれたとき、すごく嬉しかったんだ」
 感じ入るような表情でしみじみと言った牧に、藤真は唇を尖らせた。
「お前がどうしても挨拶したいって言うからじゃんか」
「そりゃそうだろう、かわいい子供が家を出て、知らない男と暮らそうっていうんだ。挨拶くらいしないでどうする」

 東京の大学に進むにあたって友達と一緒に住みたいと言ったとき、母親の口からは真っ先に花形の名前が出た。牧は学校が違ううえ、一度も家に呼んだことがなかったので、当然ではあったのだろうが。
「あら、花形くんと? こっちとしたら安心だけど、お勉強の邪魔なんじゃないの?」
「いや、花形じゃなくて、牧っていうやつなんだけど……海南の……」
「え!? 海南の牧さんて、いっつもあんたの邪魔をしてくるあの憎たらしい牧さん!?」
「うん。その牧さん」
 母親の顔がみるみる曇り、心配そうに藤真を覗き込む。
「牧さんて、恐いひとなんでしょう? 大丈夫なの? 脅されてるんじゃないの……?」
「なにそれ、どこ情報なんだよ。牧は恐くねえよ」
「だって、あのひと一体何回留年してるの?」
「ただの老け顔のタメ年だってば。この三年間オレの話を聞いてねーのかよ……」
 などなど、とても本人には聞かせられない誤解を抱かれていたこともあり、牧が挨拶に来たいと言いだしたときには、そのほうが得策だろうと藤真も同意したのだった。

「まあ、それはよかったと思うけどさ。お前が帰ったあと、めちゃ評判上がってたし」
 実際に会ってみれば、ごく穏やかで紳士的なひととなりに、親もすっかり安心した様子だった。事前の印象とのギャップのせいもあったと思う。
「そうだろう、そうだろう。お父さんにもお会いしたかったな」
「いいだろ別にそんな」
 挨拶のとき、藤真の母や姉のことを牧が『お母さん』『お姉さん』と呼ぶのが非常に気になっていたのだが、相変わらずそういう方針らしい。
「藤真家は、空気がきれいだったな」
「ちょっと意味がわからない」
「シルバニアファミリーみたいだった」
「……ウサギ小屋的な?」
 牧が嫌味を言うような人間でないことはよく知っているのだが、もう少し常人にもわかる表現をしてほしいと思う。
「違う。顔の似てるかわいい家族が集まってる、素敵な空間だったってことだ」
「……それ、絶対ほかのやつに言わないほういいよ。シルバニアファミリー褒め言葉だと思わねえから普通」
 あくまでにこやかな牧に対し、藤真は目を据わらせた。もしあの場でそれを言われていたら、牧の評判もそう上がりはしなかったかもしれない。
「ん……? そういえば、藤真もうちに挨拶に来たいって言ってたんじゃなかったか。あれ結局どうなったんだ?」
「チッ、思いだしたか」
 牧が高価そうな手土産まで持って家に挨拶に来たものだから、さすがに自分も牧の親族に顔を見せておくべきだろうと思っていた。しかし引越しの日程やら牧の実家側の都合やらでタイミングが合わないまま、その後は新生活の忙しさもあり、今まで忘れ去られていたのだ。牧は途端に不安げな顔つきになる。
「お前がそんなに嫌なら、別に無理にとは言わんが」
「なにその唐突な気遣い。いいよ、大丈夫、行くって」
「なんか懸念があるのか?」
「んー……挨拶行けてなくて、不義理っつうか、無礼なやつだと思われてんじゃないかとか……」
 それから、牧と恋愛関係にあるということだ。自分の親に牧を会わせるのは平気だったのだが、牧の親に会うのは後ろめたい気がして、少し怖い。
(別に、同居する友達として紹介されるだけなのはわかってるけどさ)
「そんな堅苦しい家じゃない。じいさまの家はでかくて人も多いが、うちは普通だ」
「そうなんだ?」
「ああ、親父は次男坊だからな」
(次男だったらなに? 相続的な? そんなに違うもんなのか?)
 やはり異世界のような気がする。牧が普通と言ったところで当てにはならない。
「……手土産、なにがいいかな」
「そんなの鳩サブレでいいだろう」
「なんでだよ、よくねえよ!」
「俺は好きだぞ、鳩サブレ」
「お前のためじゃねえし」
 とはいえ、相手方も庶民の手土産に期待などしていないだろうから、深く考えずに旨そうに思える菓子でも探そう。要は気持ちだ。
「よし、じゃあ都合聞いてみるな」
 牧は電話台の前に立ち、実家の番号をプッシュする。
(素早いな。まあ、変に引っ張るよりとっとと終わらせたほうがいいか……)
「──そう、一緒に住んでる藤真だ。その藤真がヒマを見たいって言うから」
「そっち!?」
 思わず声を上げて牧を顧みたが、こちらからは広い背中しか見ることができない。
(そりゃ最初は猫の話だったけどさ、もう挨拶に行くってことでよくねえ? 顔も合わせたことないのに、猫見るために押しかけるとか引くわ……)
「藤真、次の次の日曜はなんもないよな?」
 受話器を押さえてこちらを振り返った牧に頷く。
「ないな。大丈夫」
「じゃあその日にするか。もしもし──」
 牧も頷き、再び受話器を耳に当てた。

「で、猫カフェのほうはいつ行こうか」
「結局行くのかよ!」
 それなら牧の実家に(猫を見に)行かなくていいのではと往生際悪く思ってしまったが、すでに連絡は入れてあるのだ、腹を括ろう。
「オープン直後は混むんだろうから、ちょっと落ち着いてからでいいや……」
 そして目下の課題である手土産に思いを馳せるのだった。